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なぜ僕は男尊女卑になったのか?

2023 JUL 3 1:01:45 am by 東 賢太郎

フェミニズムはもう古くジェンダーという言葉が世の中を席巻する時代にこういうタイトルのブログを書くのは少々勇気がいる。だが事実なのだ。僕は男尊女卑的な家で育ち、父はそれであり、母も「男らしく」に厳格だったが、親の責任にしようという気はない。小学校時代は仕方ない。それでつるむ仲間が何人もいて珍しくもなかったし、女子の言うことは歯牙にもかけず、遊びは男子だけだった。ただ、多少の分別はつく高校入学のクラブ選択においても、女子と一緒にやるスポーツとか文化部というものは1ミクロンも視野になかった。正直に書くが、完全に「女のやるもの」と見下していたからだ。いま僕は父親として娘の社会での活躍を願う身になっている。気持ちだけではあるが女性活躍社会のサポーターを自認もしている。なぜ自分が物心ついてまでああだったか、冷静な目で見つめ直してみるのは悪くないだろう。

父の精神的支柱は天下国家、質実剛健であった。戦争末期に陸軍に徴兵され負傷して戻り大学は夜学。向学心旺盛な人だったから時代の犠牲者だ。それでいて左翼、反戦に靡かず天皇への信奉も揺いでいなかった。半面、欧米文化に開明的だったのは戦争に巻きまれた憤りの反動だったのだろうか米国を憎む言動はあまり記憶にない。野球まで英語禁止の時代であり、終戦後とはいえどう英語を修得したかは知らないが、第二の人生で英国とインドネシアの金融機関の管理職になり、97才で他界するまで英語を勉強していた。母も後にひとりで僕の赴任地の外国にやってくる程度の英語を嗜んでおり、その価値観では一致した夫婦だった。しかし父が長男である僕の教育において母に譲ることはなかった。開明的ではあるが、女は黙ってろだ。

母は母で夫唱婦随の女でなく、九州女である祖母の影響だろう、息子が軽薄で女々しく育つ風なあらゆることには父が何といおうと徹底抗戦を辞さなかった。母が怒鳴ったり怒りをあらわにしたのを見たことがない。夜になって父が部屋にひきあげると、僕を叱るのではなく、なぜそれに反対かを1時間でも2時間でも懇懇(こんこん)と言葉で諭した(先祖が誰かを聞いたのはこの中だ)。高校から大学にかけての説得は心に響き、いまもその声と共に記憶に残る。結果として、僕の人間形成のハード面は父に、ソフト面は母に由来するといって過言でないほどになるのだから、我が家においては男尊女卑がもはや成り立たなくなっていたのである。

祖父はどうだったか。記憶は朧げだが、寡黙で頑固一徹。気丈、気骨の明治人という印象が強い。和服で冬はいつも火鉢にあたり、江戸っ子言葉で短髪でさっぱりこぎれいな風貌で、英語どころかカタカナ言葉も出てくるイメージがない。僕は生まれてから2才まで祖父の家の離れに住んでいたが、引っ越してからもよく連れられて遊びに行き、将棋を教わったり手相を見てもらったり、近くの板橋駅まで歩いて肩車で蒸気機関車を見せてもらったりもした。食後に必ず消化薬のエビオスを1錠くれる。この味が無性に好きになり、誰もいないときビンをあけて盗み食いしていた。浅田飴は止まらなくなり、大人が外出中にひと缶ぜんぶ食ったのを見つかった。3才ぐらいだったと思う。死んだらどうしようと家中の大騒ぎになり大目玉を食らったが、祖父だけは僕の顔をじっと見て大丈夫だよと泰然自若、叱りも何もしなかった。祖父が大好きだった。

小学校3年のことだ。なぜか精霊流しの夢を見た。真っ暗な川面にたくさんの灯篭(とうろう)が静かに浮かんでいて、薄明るい蝋燭(ろうそく)が黄色く照らしている。すると、灯篭のひとつにいつもの和服を着た祖父が立ったまま乗っており、ゆっくりと右の方向に川を進みながら天に昇っていくのがズームアップしたように見えた。こちらを見なかったが、蝋燭の光が下方から照らしている横顔がはっきり見え、今でもこうして光景をくっきりと描写できるでほどで仰天した。大変だと焦りまくり、大声でお爺ちゃん!と叫ぶと目が覚めた。祖父が胃癌で亡くなった知らせがあったのはその翌日だ。板橋の家に駆けつけると、祖母が玄関まで泣きながら出迎えて、ケンちゃん、おじいちゃんこんなになっちゃったよ、と布団に横たわる祖父の前まで手を引いていった。

祖父は神田猿楽町の風呂屋の息子だったが次男で家督を継げなかった。旧民法では「家督は嫡出長男子への単独相続」だったからだ。長男が一族の面倒を見るとはいえ恐慌が起こり農村の生計は厳しく、昭和初期の軍事クーデターの青年将校は疲弊した農家の有能な次男坊、三男坊が多い。終戦直後も東京に出稼ぎにきたのを集団就職といい、東北へ向けては専用列車が上野から出た。企業は一生面倒みるぞと彼らを呼び込み、終身雇用と呼んだ。かようにこの相続システムは家督(”イエ”)という日本社会を支えてきた伝統概念を保持はしたが、国家経済が不安定になると歪みとなって日本社会の根底を揺るがして日本人の精神構造に深く刻み込まれたのである。

人力車の製造で祖父は羽振りが良かったと聞くが、関東大震災の頃から業界ごと下火となり、僕が生まれたころは静かな余生だった。祖父が他界し、やはり次男坊である父は平等に相続する新民法で権利は得たものの、震災と戦災で動産がみな焼けてしまい、肝心の相続財産がなかった。明治政府が法で守ろうとした武家社会由来の家督(イエ)はもう無用になっていた。父は長男である伯父とうまくいかず、やがてイエを見限り、よりクニを信奉する方向に心の舵を切ったと思われる(墓所も今戸から富士霊園になった)。だからだろう、何事もクニ( “国立”) 至上主義であり、長男の僕は国立大学に進まざるを得ない空気もあった。

家督は家父長制(patriarchy)における家長権を意味し、ローマに由来する。家父長制の根源は男性優位の視点だが、全権者である家長が男である以上は仕組みとして女性の立場は劣後する。家の存続には男が長であることが有利であるという実利的な側面もあり女性を卑しめるわけでは必ずしもないとされるが、そんな理屈を現場の男がみな理解したはずはなく現実は男尊女卑と表裏一体であったろう。西洋ではフランス革命の影響から20世紀初頭に各国で女権拡張の方向で民法が改正された。一方日本はちょうどその頃(1890年)旧民法が公布された。既述の通り、長男だけが全財産を相続し、次男坊以下、非嫡出子、女子の相続はゼロである。次男坊以下と非嫡出子は男子であり(つまり男子の中での差別であり)、女子はのっけから対象外である。このため旧民法が1947年に廃止されるまで女権拡張がなかった日本は西洋に約50年の遅れが出たのだ。

僕はその50年を生きた二人の男、すなわち祖父と父の生き様をふりかえることでタイムラグの中身を省察してみたい気持ちに駆られて本稿を書いている。それが日本の後進性によるか否かという吟味だ。結論は否である。旧民法(1890年公布、1893年施行予定)に際しては「民法典論争」なる激論が交わされたことは法学を学んだ者には周知だが、伝統的な風習・道徳を破壊する危険があるとの反対論が東京大学法学士会によってなされ、1892年には旧民法の施行延期を求める法案が議会で可決され旧民法は流産となる(1898年に施行)。この過程は専門的で複雑だが、260年鎖国した国が異文化、異言語の法典を消化吸収して独自のものにするエキサイティングなドラマでもある。

しかし、日本はその学習に50年を要したのでなく、独仏英法を完全に咀嚼した上で国情、文化を勘案し、そこから50年「国益のために家父長制を意図的に保持した」のであって、このインテリジェンスを後進的と呼ぶ者はインテリジェンスのない者だけである。開国からたった20余年の時点でその域に達した先達の驚異的学習能力が江戸末期の諸藩に用意されていた事実に感嘆するのみである。事の軽重は異なれど、朝野をあげて数年もの激論となった民法典論争に比ぶるに、同様に伝統的な風習・道徳を破壊する危険があるとの反対論が出たLGBT法案の安直、浅薄、おバカな成立を見るにつけ、総理、閣僚、現職国会議員の驚異的学習能力のなさにもプラス・マイナスを逆にして同程度の感嘆を覚えざるを得ない。

米国人が日本を後進的と指摘するなど笑止であり馬鹿も休み休み言えで、何様かと不愉快千万なうえにその不勉強も大層なものだと驚く。日本には、米国の10倍、縄文文化から数えれば60倍もの年月を経て醸成された伝統的で抜き差しならぬ文化・風習・道徳が存在するのである。明治人はそのうち廃すべきものは廃したが、守るべきものは守った。そのひとつが「イエ」を承継する江戸時代の家督相続制度だが、それを旧民法で存続させ、王政復古でその上に天皇を被せて「クニ」(大日本帝国)なる新しい上位概念を創造し、それまでの上位概念であった藩を消した(廃藩置県)。既述の通り、家督を継げない次男坊、三男坊は藩、イエの支配構造から解かれてクニ(神道)を信奉し、富国強兵策の人材供給に貢献し、父はそのひとりだった。

ここで、本題の「男尊女卑」の観点から注目すべきは、なぜ明治政府が「嫡出長男子への単独相続」を温存したかだ。先達は西洋では女権拡大の方向に民法改正が行われていることは知っていたのにである。

私見では理由は以下の3点である。

➀皇位の男系男子継承とパラレルにする(国民の家督相続制度と国家最上位の家督継承との平仄を合わせた)

②新政府の支配構造を伝統に合わせる(下部構造であるイエと、幕府の下部構造であった藩主ー男子のみーとの平仄を合わせた)

③富国強兵の根幹は法体系整備、軍事力増強、官僚制確立(兵力は武家・侍、学問は藩校・寺子屋に素材があったが担い手は男子のみ)

旧民法は1947年(昭和22年)まで存続し、50年の施行のうちに日本人の精神に➀~③のベースになる「男子のみ」の思想が深く根づいていったのである。その選択の根底に「女子を差別しよう」という意図はない。すべては黒船来航に始まる欧米のむき出しの欲望(侵略・支配)に対抗するためであり、江戸末期まで武家社会のあらゆる処に通底していた「男子優先」を新政府の骨格とすることが欧米に短期間に対抗するのに必須であったということだ。英国に負けた薩長の失敗に学び武力で喧嘩せず相手の文化、装束まで策謀として同化(猿真似)して同位に立ち、相手の支配原理である法律は法律をもって制する姿勢を武器とし、富国強兵への本音の偽装と時間稼ぎをしたのである。それゆえに日本は植民地化を免れたのみならず、白人国である露西亜を武力で倒すだけの強国となれた。戦争がいいというのではない。「国を守る」とは、そういうことなのだ。

僕は司馬遼太郎の「坂の上の雲」を、かような美点凝視こそ昭和の厄災を招いた愚策の源泉として評価していなかった。本稿をものするに「民法典論争」を詳しく調べ、再考し、明治の先達の努力と洞察力を前にして浅学を恥じた。大日本帝国憲法および旧民法は江戸末期のステレオタイプ(文化・風習・道徳)を国力強化のために利用、包含して制定され、明治、大正、昭和初期を通して軍事国家化が進行した。それゆえに結局は50年の末に敗戦という未曾有の厄災を招いたではないかと見ることもできる。しかし、その選択でその道を選ばなかった場合は、早々に19世紀末に日本は欧米各国に軍事力で征服され、蹂躙され、分断され、植民地となっていた可能性がある。歴史にたら・ればはない。タイムマシンで戻って選べるなら、あなたはどっちを選びますかということだ。

引き伸ばされた50年。江戸末期のステレオタイプは温存され、我が祖父も父も明治人のそれを信奉して生きた。明治政府のインテリジェンスであった男子優先はやがて男尊女卑思想になって1955年(昭和30年)に生まれた僕もそう教育され、男女平等の見地では後進国と見られて仕方ない外貌を今も呈することとなった。それを学んだうえであなたはどっちを選びますかということだ。歴史は個々人の生き様の集大成である。1億人いれば1億の「あざなえる縄」があり国家の禍福は歴史に結末として書かれた0と1の判断のようなもので決まるわけではない。

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Categories:政治に思うこと, 若者に教えたいこと

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