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カテゴリー: ______国内出張記

京都花街はグローバル化すべし

2015 AUG 14 0:00:10 am by 東 賢太郎

博多から新幹線で京都へ入りました。クラスメートでありSMCメンバーでもある梶浦とビジネスの話でした。

夜は梶浦おすすめの洋食屋さん、仕上げはお茶屋さんのしげ森さんのバーでくつろがせてもらいました。

先日の歌舞伎とまったく同じことを思うのですが、花街は京都の雅びな文化であります。難しいことをいう気はありません。だから女性のお客さんも大勢来ています。

それでも今のままだと衰退しかねない。舞妓さんのなり手がなくなれば必然的に滅びるし、旧態然のお客さんと業界の関係はもう古いでしょう。

芸妓さん、舞妓さんの芸はアートと思いますがそれは外国人のほうが評価しているようで、しげ森さんは海外から呼ばれていて近々ロサンゼルスに行くそうです。まさに親善大使という言葉がふさわしい。

なにも客は京都の旦那だけではなく、日本人だけでもなく、世界でいいのです。その価値があります。そうなれば業界が変わるし、舞妓はAKBみたいであり文化財でもある世界でユニークな存在になるでしょう。

しげ森のおかあさん、森田さんの話を聞いて感じたことなのですがおおいに賛同いたします。日本文化を世界に発信する気持ちでSMCでは森田さんをご紹介して参ろうと思います。

 
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大阪で野村證券豊中明生寮を探す

2015 JUN 9 0:00:26 am by 東 賢太郎

大阪で仕事がありました。少し合間に時間があったので、新人時代に2年半入っていた社員寮である豊中明生寮に行ってみようと思い立ちました。

ここ、実はSMCメンバーのHarry Saito氏が卒業後の僕の消息を聞いてわざわざ訪ねてきてくれ、寮のおばさんにアメリカへ行ってもういないといわれたそうな。感謝です。そんな話も聞いたので一度来たいと思っておりました。

張本人のほうは1981年に転勤して以来一度も来てませんから34年ぶりです。梅田から毎日乗っていた阪急宝塚線の特急で北上。淀川を渡って停車した十三駅は変わってませんね。途中の車窓の景色もなつかしい。

豊中駅はすっかり変わっていますが、改札を出てすぐのところにいつも屋台のラーメン屋が出ていて遅い時はよく食べてました。

駅から寮まではたしか15分ぐらい歩きました。方角だけはだいたい覚えてますが、なにせ目に見える店もビルも家もすっかり建てかわっていて、見覚えのあるものは何一つありません。駅を1,2分離れるともう自信がなくなりました。

江戸時代の古地図をたよりに史跡後を探りあてる感じです。豊中高校のとなりだったのでスマホを見ればいいのですが、自分の記憶を試してみようと思って直感の言うがままに歩いてみました。

いくら街並みが変わってもそのままなのは道の曲がり具合と高低差だとブラタモリでやってたので、V字の分かれ道や勾配でちょっと特徴のあった箇所をイメージしながらここかなというところを歩いてみました。

しかし、ない。坂を上り、本町をしばらく進みましたが見当たりません。そうしたら小雨がぱらついてきて、こりゃまずい、駅へ戻ろうと弱気になって歩きだした矢先、バス通りの看板の地図を見ると上野西という区画が目に入りました。

何か聞き覚えがある。

それは駅と遠ざかる方向でもと来た方にバックするのですが、ここまで来て撤退するのもなんだと思いそっちへ足を向けました。

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そうしてついに豊中高校を発見。ところが、その隣だった寮の場所へ行ってみるとそこはもう高校の敷地になっていて跡形もありません。ほんとうに「史跡」になってしまったのです。残念でした。

 

 

 

このシリーズに書いた数々の事件、あれはここの時代に起きたことなのですが・・・。

 どうして証券会社に入ったの?(その1)

ちなみにこれ、(その9)まで書きましたが実はまだ終わりでなく、続きます。さて、正門の在ったのは写真左の垣根のあたりでしたが、その前にに立ち尽くしているとごみ収集車が迫ってきて、危ないですよとどかされてしまいました。

若かりし頃、ここを毎朝6時半ごろ出て歩いた道をたどることに。駅の方向はわかるのでもう道なりです。すると、さっき迷い込んであきらめた本町をぬけるではないですか。ああやっぱり本能的に正しく来てたんだと納得。

住宅街の路地だから微妙に左右にカーブがあるのですが、ああこれだったという感じです。記憶の奥底に34年眠っていた何かがスパークします。

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すると豊中稲荷が現れます。ありがたきかな、お参りしないわけにはいきません。梅田支店は僕の仕事のルーツであり、人生を変える素晴らしい人や出来事にたくさんめぐりあった地です。もう一度それがあるように、参拝をいたしました。

 

また阪急で梅田へ戻ります。この行程が僕の毎日の通勤路だった。そう計算したつもりはないのですが、これも体に染みついた記憶だったんでしょうか、新阪急ホテルロビーでの次の待ち合わせにちょうどいい時刻に着きました。

 
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箱根吟遊と旧吉田茂邸にて

2014 JUL 16 14:14:31 pm by 東 賢太郎

先日は会議がこちらで行われ、箱根吟遊さんに泊まらせていただきました。ネットの評判を見ると「日本で一番予約が取りにくい名旅館」といわれたことがあるそうで、予約は1年先までとリピーター率は高そうです。清算の時に「次のご予約はいつにされますか?」と尋ねられますが、それだけの値打ちありでしょう。

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1階の「風雅」という部屋は内風呂と露天風呂があり、総面積はざっと100㎡はあるでしょうか。庭先は樹木で見えませんが眼下に早川を望む峡谷で、その奥は深々とした国有林です。大浴場もありますがここだけで充分でした。

 

 

 

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朝日と鳥の声で5時半に目が覚め、湯船につかるとこうです。澄んだ空気と木漏れ日と熱い湯、日ごろの憂さを忘れさせていただきました。

 

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1時間ほど仕事のメールに目を通したりなどしてすごすと、光の具合がすっかり変わります。ちなみに松本清張の推理小説「蒼い描点」に登場するケーブルカーの線路はこの写真の垣根のすぐ下です。

 

 

台風が良い塩梅にそれてくれたので、関所を経てからバスで大磯の旧吉田茂邸、旧安田善次郎邸を訪問することに。

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これが吉田邸の庭です。吉田茂はいうまでもなくサンフランシスコ講和条約、日米安保条約の締結、日本国憲法の可決をした首相で、また大平首相はここにカーター米大統領を招いて日米首脳会談を行いました。

 

邸宅は放火で焼失したのですが、『町民のみならず多くの人々に見学して頂く「博物館的機能をもった施設」が相応しいと考えます』という大磯町の再建プランを拝見しましたが、現代日本の起点を築いた要衝という歴史的意味合いを付加価値とされればさらによろしいかもしれません。このプランですと資金ファイナンスが寄付だけですから復興もその額に規定されてしまい、民間の視点ではありますが少々もったいない気も致します。例えば、海外の国賓宿泊用に復旧して、安保と現行憲法を持つに至った我が国の戦後史の理解者を増やす舞台として国に使ってもらったらどうでしょうか。敗戦の歴史は歴史として受容し、そういうポジティブな姿勢で情報発信してこそ、中韓のネガティブ・キャンペーンに世界が冷静な評価を下す素地ができると思います。そういう使い方が十分にできる史跡と思います。資金は寄付ではなくこれを法人化して民間企業に「限定的な社用迎賓館使用の特典」を条件に出資を募ればさらに充実した復興が可能でしょう。

旧安田善次郎邸は内部を見られませんでしたが、安田不動産(旧安田財閥)の所有です。調べてみると大正10年に安田はここで右翼に暗殺されています。日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校地は安田の寄贈であり、同じく匿名で寄贈した東京大学の講堂は死後に安田を偲び安田講堂と呼ばれるようになったそうですが、浅学にして知りませんでした。曾孫にジョン・レノンの妻ヨーコ・オノがいるのは有名ですね。「五十、六十は鼻たれ小僧 男盛りは八、九十」は彼の言葉とされているそうです。これを肝に銘じたいものです。

(こちらへどうぞ)

箱根のおすすめカフェ(Garden Railway Cafe in Hakone!)

 

 

 

 

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「リーダーズ」に見た日本人の誇り

2014 MAR 24 1:01:38 am by 東 賢太郎

TBSドラマ「リーダーズ」、じっくり見せてもらいました。感動しました。トヨタ自工の創業物語が、物づくりへの執念が、国産車を造るというプライドが、我々に勇気を与えてくれます。日本人に生まれてよかったと思いました。

22日から連続。トヨタ自動車全面協力ドラマ「LEADERS リーダーズ」の

豊田喜一郎の発想の桁外れな大きさ。反対する役員。豊田に徐々に共鳴していく従業員。戦争。敗戦。GHQの命令と屈辱。80倍のインフレ。日銀の金融引き締めによる倒産危機。日銀の融資決断。従業員の解雇。辞任。朝鮮特需、そして再生。

トヨタなくして日本はどうだったかというほどの会社が、先代の役員から「道楽」と揶揄された一人の男の思い入れと執念から生まれました。常人の何歩も先を行くアイデアは理解されにくいものです。夢物語だと否定してかかった方が楽でもあります。しかしそれをやるべき宿命を負った人は、それをやってしまう。運命を分かち合う協力者が現れてできてしまう。そういう人が歴史を作る。とても考えさせられるものがありました。

これを見ることになったのは、先だってのブログ

奥出雲訪問記-その2-

unnamedリーダーズに書かせていただいたこのドラマのロケ地である「絲原家」訪問がきっかけです。たたら製鉄という日本のこだわり技術の舞台でロケしたというのもいいですね。右の写真はその折に一般に入れない奥の応接室で、訪問者名簿に記帳させていただいているところです。ちなみにこの部屋はドラマでは豊田喜一郎の自宅の執務室という設定でした。

 

この奥出雲訪問がなかったら、TVを見ない僕がこのドラマを見ることは絶対になかったです。こういうのがご縁というものでしょう。

国民に勇気と豊かさを与えたいという大義に勝るものはありません。日本男児と生まれたからにはかくありたいと強く思わされるドラマでした。

 

(こちらへどうぞ)

僕の愛国心というもの 日本のルーツ 序章 (今月のテーマ 出雲)

なぜ日本の電機メーカーは凋落したのか?

 

 

 

 

 

 

 

世界のうまい物 -出雲編-

2014 MAR 9 17:17:32 pm by 東 賢太郎

奥出雲でいただいた食べ物シリーズです。

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まずは仁多米でしょう。米食味分析鑑定コンクールで4年連続5回目の金賞受賞というブランド米で西日本の横綱とされているそうです。寡聞にして知らなかったのですが、どこでいただいてもその食感はなかなかのものでした。砂鉄を取ると土を流してしまうので土地が削れていきます。その跡地を昔から棚田(段々畑)にして米作にも充てているので、ここはコメの名産地なのです。とにかく水がいいのとミネラル分が豊富なようでおいしいです。

 

c0afad8ef2d244a931ddf4b8f93d4b68その仁多米で炊いた香茸(こうだけ)炊き込みご飯は絶品。黒っぽいのが香茸ですが食感も香りもよろしく、ポルチーニという感じです。パスタにしてもかなりいけるでしょう。栽培ではなく自然のものを採集するので貴重品だそうで、地元で食べてしまって他県には出回らないそうです。奥出雲町長が「ゴルフをしていて林に入ってしまった時、ボールを探したら香茸を見つけました。そっちのほうがうれしかったですね。」と冗談を言われるほど。よくわかります。

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そこでいただいたお酒もとてもよろしいものでした。やはりお米と水の良さがきいていて「深山の香」なる奥出雲は簸上(ひかみ)の清酒はすっきりした口あたりで飲みやすい。このボトルもなかなかセンスがいいですね。

 

どぶろく

 

 

これはボトルからはなかなか中身が想像しにくいですね。D-269が何かと思ったら「どぶろく」でした。デザインセンスはこちらも垢抜けて格好いいと思いませんか。お味はお米の自然な風味が濃厚にあって野趣にあふれ、それでいて適度な甘みと舌触りは上品でもあります。我々が口々においしいおいしいと騒いだものですから、町長がお気遣い下さっておみやげにいただきました。恐縮です。

 

 

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次に稲田姫神社にある姫のそば ゆかり庵の蕎麦御前です。出雲そばはやや太めでコシが強く、かなりアルデンテであります。それが3段重ねのわんこになっていて食べ応え十分。蕎麦の風味が大変よろしく、それと薬味との相性が絶妙でした。もう一つ堪能したのは野菜です。どれも「土の香りがする」ようで東京で食べているのは何なのだろうと考えるほどおいしかったです。おにぎりがちょっと冷えてしまったのですが、かえって仁多米のもちもち感が出て美味でした。

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「皆美」ではランチをいただきました。小泉八雲をはじめ、里見弴、田山花袋、芥川龍之介、大町桂月、島崎藤村、与謝野寛・晶子夫妻、高濱虚子、志賀直哉、武者小路実篤、佐藤春夫、内田百間、尾崎士郎、川端康成などが来館とあります。部屋からの宍道湖のすばらしい景観はドイツ時代によく行ったライン川沿いのレストランを思い出してしまいました。庭園のある老舗でいただいた「鯛めし」は鯛と卵の白身黄身が団子のようになっていて独特のもので、東京で食べる鯛めしとはまったくちがいます。

ヨーロッパもそうですが、主食でないデザートにその国の食文化の奥深さが見て取れます。文化はお金持ちがいないと育ちませんが、食も舌の肥えたお客が長年かけて磨き上げるものでしょう。だから京都の和菓子、パリ、ミラノ、ウィーンのデザートはどれも洗練されておいしいのです。そういう基準に照らしても、出雲のスイーツは「そばぜんざい」「おはぎ」などどれも甘みを抑えた上品なもので、ここの文化度の高さが一流であることを確信させます。

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おみやげはよくわからないのでA先生の言われるままにこれを買いました。來間屋生姜糖本舗の生姜糖です。砂糖と生姜の煮汁だけのシンプルな味ですが、どこかなつかしい。これが創業300年のワザでしょうか。この見てくれも江戸時代っぽくて好きですね。今回、出雲の産品の味だけではなくデザインセンスの良さもとても印象に残りました。東京どころか世界で通用するレベルと思います。

 

 

(こちらへどうぞ)

「リーダーズ」に見た日本人の誇り

「もののけ姫」を予習する

 

 

 

 

 

 

 

奥出雲訪問記-その2-

2014 MAR 9 0:00:41 am by 東 賢太郎

 

羽田から1時間半、奥出雲(おくいずも)は島根県。といっても出雲大社とやまたのおろちぐらいしか知らなかったわけです。

まず溝口島根県知事との45分余のご面談にはじまりました。通常の面会は15分ということで、異例のお時間を頂戴したことに感謝です。その晩は奥出雲町長および島根県議会議員様とのディナーとなりました。そして足立美術館、奥出雲多根自然博物館長者の湯、絲原記念館、奥出雲たたらと刀剣館、稲田姫神社、古い駅舎やダムの訪問、見学、出雲大社参拝と2日にしては相当なメニューでした。全部が館長さんや専門家の方のガイド付きでありました。

まずは足立美術館の額縁のような日本庭園から。名園と日本画の調和がこの美術館の基本方針で、アメリカの「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」誌で11年連続日本一に認定され、フランスのミシュラン・ガイドで三ツ星を獲得しています。日本画では質量ともに日本一の横山大観コレクションが出雲にあるのが驚きです。

創立者の足立全康氏(写真)は明治32年当地に生まれ、14歳で裸一貫で国を出て苦労を重さんあだちunnamedねた末に大阪で繊維、不動産業で成功した人物です。立身出世物語は各地にありますが、大観に惚れこんでここまで集めてしまう執念はすごい。それに感動しました。庭園の景観の細部へのこだわりも半端ではなく全館が彼の作品という風情です。こういう気質というか、いい意味でのねちっこさは出雲の方の持ち味かもしれません。

私事で恐縮ですが自分の先祖も能登、伊那の片田舎から東京、横浜に出てきた事業家であり、足立氏の執念を見るとどこか体の奥底で共感を覚えます。「名作との出会いは人と同じで、縁だね。絵を蒐(あつ)めるのは金じゃない、値段じゃない。いいものが出たら目をつむって掴(つか)んでしまえということだ。まったくあの絵は惜しいことをした。いまだに夜中にぱっと目が覚めては想い出し、眠れん時があるよ。」と口角泡を飛ばして語る姿を思い出すと・・・・と説明書にあります。お金より縁を大事にして成功されたんでしょう。あだちunnamed

松江藩の5鉄師のひとりであった「たたら吹き製鉄」の名家である絲原家については前回書きました。建坪約350坪、床面積約500坪、部屋数約40室を誇る大邸宅です。竹島が日本領と明記された最古の地図は伊能忠敬が測量する70年前の制作であるため北海道は欠いていますが、本州以南の精密さは驚くばかりでした。

絲原家のご当主は夜の会食をご一緒して下さった県会議員である徳康氏で、ここはご次男が近衞 文麿公が入ったという奥の間にご案内下さいました。なお、この絲原記念館は今月22,23日に放映されるTBSのドラマ「リーダーズ」のロケに使われたそうです。奥の間は洋間の執務室という設定で出てくるそうで、和室ではここに宮沢りえが座ったんですよなどと細かく教えていただきました。

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「絲原記念館」の鐡(てつ)の字の解説もその意味で実に興味深いものです。こういう数字を見るとすぐ反応してしまうのは商人の血筋ということでしょうか。

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松前藩の系図です。徳川の重臣であり、最期まで幕府方で戦ったことがわかります。ご存知かもしれませんが、県名と県庁所在地名が一致しないのは幕府方です。島根県であり松江市であるというのは、そういうことなのです。

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世界のうまい物 -出雲編-

 

 

 

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奥出雲訪問記

2014 MAR 7 1:01:40 am by 東 賢太郎

 

「ここは かめだけ うさぎはいない。ゆっくり走ってみませんか!」

えっ? 頭のほうがまず一時停止しました。今回は島根県の出雲へ1泊2日で出張しましたが、初日に車で奥出雲へ向かう途中に見た、仁多郡奥出雲町亀嵩(かめだけ)の道路わきの看板の文句です。このユーモア精神にまず心が和みます。

このあとでだんだんとわかってきたのですが、このやわらかくて優しいおもてなしの心と真理探究への妥協なきこだわり精神。一見あい反するものが同居してほどよくバランスしたものこそが出雲でお会いした多くの方々から肌で感じさせていただいた魅力ではないかという感じがしております。

松本清張の「砂の器」はこの亀嵩(かめだけ)が舞台だったことをご記憶の方も多いでしょう。すでにそこそこ有名ですし、もうすこし車が進むと清張自筆の立派な記念碑もあるのです。普通の市町村なら「清張の里!」「砂の器の舞台へようこそ!」という看板がまっさきに立って、清張まんじゅうでも売ることを考えるでしょう。そこに 「うさぎはいない」 とくるこのセンス。とてもやわらかいのですが、土地の歴史への誇りとこだわり、そして「かめだけ」という地名を瞬時に覚えさせる合理性を秘めているように思います。

今回はここを発祥の地とされる著名企業の社長様に同行させていただく栄誉にあずかりました。たったの2日間だったとは思えないほどのたくさんの体験と勉強をさせていただき、会社様のすばらしいスケジューリングには感謝あるのみです。外国ばかり知っていても日本についてはいかに無知であるか、それも出雲のような要所をというのがいかに無恥であるかを思い知りました。今回はまずその「思い」のほうを綴ることから始めたいと思います。

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この写真は2日目の朝食の前です。「今日はだいぶもやがかかっていますね」というと、社長から「いや、いつもこんなものです」というお言葉。そうか、ここは雲出ずる国だったかと納得です。

まずは、2日間がそろそろ終わりに近づいたころ、同行された会計士のA先生がつぶやかれた言葉から始めましょう。

「出雲ってこれだけたくさんの魅力があるのに、なんかもったいないですね・・・」

たしかに。出雲の魅力オンパレードの2日間だったのに僕も最後の最後になって「そういえば出雲の阿国も出雲でしたね」なんて間抜けなことをやっと質問させていただいた始末です。阿国さんですらパレードの順番では前の方には出てこない。これでは清張さんがうさぎの後になってしまうのも仕方ないですね。観光資源という言葉は即物的であまり好感が持てませんが、もしそう呼ばせていただけるなら「有り余るほど豊富」というのが出雲、奥出雲だと思います。もっと多くの人が世界中からやってくる、出雲発のモノや文化やサービスが世界に発信される。そうなって不思議でないのに・・・そういう意味がA先生のことばにはこもっているのです。

どうしてそうなっているのだろうと考えました。観光資源ということでは筆頭になるのが出雲大社でしょう。昨年は遷宮行事のハイライトイヤーで多くの観光客が訪れ、今でも羽田からのフライトは満席でした。我々は社務所の奥にて第84代出雲國造で出雲大社宮司である千家尊祐氏と出雲大社権力宮司である千家隆比古氏にお目にかかって歓談の栄を賜わり、拝殿参拝までさせていただきました。良くは存じませんが、皇室公家並みの待遇かもしれません。それは社長様も初めてということで、そのような場にご一緒させていただいたのは、誠にありがたいことです。

そこで伺った話によると、遷宮は20年に一度の伊勢、60年に一度の出雲がそれぞれの事情で年がずれ、偶然にシンクロするようになったそうです。伊勢が総建てかえ、出雲は部分建てかえなど様々な違いはあるのですが、経費予算は伊勢神宮が550億円に対しこちらは95億円というのはそれにしてもずいぶんな差です。「国を譲ったほうですから」と社長はいわれましたが、そのようなことが積もり積もってここの土地の根強いプライドといいますか、普通の土地の郷土愛とは次元の違った深くて強い思いにつながっているような気がいたします。歴史や旧跡の安易安直な宣伝はしないという精神は先生のご指摘のようにもったいないことにもなっているわけですが、それはそれでここの独特の文化、気質、個性を育んできたのかもしれません。

お金や時間というものには価値があるというアメリカ的教育を受けてくると忘れてしまう価値というものがここにはあるということが今回どこか心に残像として残りました。お金で買えないものを大切にする、文化とはそういうものであるという大事なことを教わったと言ってもいいでしょう。それは奥出雲の絲原(いとはら)記念館という、「たたら吹き製鉄」を松江藩から公認された5鉄師のひとりであった絲原家を訪問したときにも感じたものです。江戸時代からの旧家の所有する有形無形の文化遺産の重みにはただただ圧倒されるばかりで、お金というものにいったい何の価値があるのか、金融というお金相手の職業に長らく従事してきた僕の価値観に転換をさし迫るほどの強いインパクトがありました。

それは家屋の立派さ、古文書や骨董の類が豊富という物質的なものだけから受けたのではありません。もっと質的なものも含めてです。たとえば、世界最高峰の刃物である日本刀は「玉鋼」というプレミア級のはがねからしか生まれません。その玉鋼を鉄鉱石ではなく砂鉄という世界でもユニークな原料から鋳出す技術、それはまぎれもなくメード・イン・ジャパンの技術でありそれを生んだのが「たたら」なのです。

製鉄の原理や技術そのものは輸入されたものだろうと思われるでしょう。たしかに製鉄技術は紀元前1400年ごろヒッタイト(現在のトルコ)に発してタタールを経由して入り「たたら」になったそうです。しかし、ここが大事なところですが、輸入して磨きをかけて世界最高のモノを作ってしまうという日本のお家芸はコピーや真似ではありません。なぜならそれを逆にご本家は真似できないからです。それは「新たな付加価値の創造」に他ならず、我が国は「技術を進化させる才能」があるということであります。

その付加価値を生んでいるのは二流のもので満足しない目線と、そこへ至る徹底した合理主義です。それが出雲にはあると感じます。しかも、たたらの5鉄師はもともと公家でも武家でもなく農家であるという事実も意味深長であり、日本の技術力の底辺の広さを覚えます。それは学校や職人教育制度から生まれたものではなく、日本人のそれぞれが生活に根ざした原点で当たり前のようにもっている強みですから、それこそコピーと真似で食っている他国に一朝一夕に凌駕される心配はないと思いました。

また、奥出雲では鉄鉱石ではなく崩れやすい花崗岩から砂鉄を得るそうですが、その鉄分がどこから来たかということをずっと考えておりました。どうして「たたら」がここに出来たんだろうという素朴な疑問です。鉄(Fe)は地球では生成せず超新星爆発に由来する物質です。まず第一に、この疑問は「奥出雲たたらと刀剣館」で「ヒッタイトが隕石から鉄を鋳出した」というご説明を受けてすっきりしました。

第二に、「奥出雲多根自然博物館」の館長さんから「山の上に神が降りた神話があります」というお話がありました。「それは隕石だったのではないですか」と尋ねると即座に「そうかもしれません」とお答えいただき、さらにすっきりしました。僕の質問はある意味で神話を冒涜するものかもしれず、科学的にも荒唐無稽と取られて仕方ないものです。館長のお答えは東京の博物館ではあまり期待できないものでしょう。Feの由来の科学的な話の脈絡ではなかったものであるだけに、大変に実証的な精神を感じて大いに共感したのです。

その「奥出雲多根自然博物館」は恐竜や生物の化石と標本、鉱物など驚くべき点数のコレクションを観ることができる有数の場所です。日本の最古のストーリーである出雲神話からさらに時間をさかのぼって、地球の生成期、さらには137億年前の宇宙誕生までを俯瞰することができます。こんな雄大な発想も東京人からは出そうにありません。子供に大人気だそうですが、科学少年であった僕のようなオジサンでも一日いて飽きることはなさそうです。

こういう時空でものを考えれば大層スケールの大きなことができる気がいたします。出雲という地は現実にスケールも大きかったという物的証拠があります。例えば出雲大社の初期の遺構から、神殿の高さは地上48mもあったことがわかっています。古代の世界七不思議にあげられるアレクサンドリアのファロス灯台を思わせるほどの世界でも異例の木造巨大建造物であり、国作り神話がどこまで事実を反映していようがいまいが、それを出雲の人がそこに築いたということは事実のようであります。

今回の2日間の印象ですが、僕はたたら鉄の精製技術と同じように出雲には「メード・イン・ジャパンの原型」があるのではないかと考えるに至っています。どういうルーツと経緯から日本国というものが出来たかはともかく、それが国譲りで日本中に伝播して今があるのではないかというということです。もしそうなら、ジャパン・クールで日本が世界の注目を集める今、その魅力はまず出雲になんらかのルーツがあったと考えていいかもしれません。メード・イン・イズモの精神を持った企業がグローバル・スタンダードを作っても何ら不思議ではないということです。

出雲は亀だけでも大社だけもありません。時間をかけて隅々まで見なくてはもったいない。また行ってみたいと思っております。

 

奥出雲訪問記-その2-

 

 

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滋賀出張で日本古代史に再度めざめる

2013 SEP 14 22:22:25 pm by 東 賢太郎

一昨日、お客様である某社の関係で大阪で会食をした。1泊して昨日は滋賀にある工場へお邪魔した。その途中、インターで休憩して昼食となった時のがこの写真だ。大津から琵琶湖を望んでいるが、霞があってよく映っていないとは言い訳で、撮り手の腕の問題であった。写真 (20)

このインター、なぜか近江牛の「ひつまぶし」というのがあり、ちょっと名古屋のことを思い出しながら戴いた。とても美味であった。そうしたら、どういうわけかその名古屋の知人から偶然メールが入った。仕事に急展開があるという知らせだった。それで急きょ予定を変え、帰りに名古屋下車してそちらへ寄ることになった。世の中、面白いものだ。山は登ることが目的だが、楽しいのは頂上についた後でなく登る途中だと言ったのは誰だっけ。

さて工場である。少し前のこと、別な会社の工場を見学したが、その工場はあの桶狭間の合戦のあった古戦場跡に建っていた。そして今度の会社の方はというと、忍者で有名な甲賀の里にあった。そうでもなければ行かないような場所に2回も行けてラッキーだ。中はこんな塩梅だ。

写真 (21)

甲賀も伊賀と一緒で三重県だと思っていたら滋賀県だった。「伊賀の影丸」を座右の書としていた割に浅学だったのを恥じ入る。忍術でもあるまいがこの工場のスペース活用の妙と工員さんたちの匠の技は見事だ。「下工程はお客様が喜ぶ顔を思い浮かべよう」なんていううれしい標語が貼ってある。上工程はいいのかと思ってしまうが、心配はご無用。これぞお・も・て・な・しの精神だから言わずもがなだ。この工場の技術は中国も韓国もまったく及ばない。だからアジアに輸出ができている。そのコンサル等につき弊社がご用命を受けているのだが、こういう会社は見ていて頼もしい。

工場長さんにすみません、急きょ名古屋に6時に行くことに・・・・と言ったら、ご親切に車を出して守山駅まで送って下さった。運転してくれた工員さんは13年目でずっと近所にお住まい。今年念願の家を建てるという。農家のご養子さんで滋賀から出ることはあまりなく、たまに家族で行く一番の都会は大阪だそうだ。名古屋は大きいんでしょうねと聞く。夏は村祭りとお彼岸で大変で、野菜は自給自足で買ったことがない、お休みの仕事は野菜を狙う野猿と闘うことだそうだ。滋賀はどんなところですか?と聞いたらしばらく考えて一言、「静かです」。ああいいなあと思った。そんなところに住めたら最高だ。

守山駅からは、京都行の電車に乗った。名古屋方面なのだから米原行でもよかったのだが着く時間はほぼ一緒だし、単に京都行がすぐ来るからであって何ら深い意味はない。しかし、こういうところが人間の運命を決めるのは松本清張なんかによくある。せっかくだから琵琶湖側をしっかり見ようと席には座らず、小学生のように立ったままドアのところの大きめの窓に張りついた。栗東、草津、瀬田、石山、膳所、大津と電車が進んでいくと、どうしたことか何となく書物でなじんだ古代の地名の記憶がよみがえってきてしまった。意識が興奮してくる。こりゃあここに一度来ないとだめだという声がどこからともなく聞こえてくるではないか。小説より奇なることはあるのだ。

先日、メンバーの中村順一氏が読めといってくれた本に、小林よしのりの「女性天皇の時代」というのがある。これは彼のブログ

女性天皇について

にある本であり、なかなか面白かった。実は10年ほど前、僕は日本古代史にはまっていた時期がある。だから本は相当読んでいる。大津から琵琶湖の写真を撮ったのも、この画面のあたりのどこかに天智天皇の近江朝廷なるものが存在し、武力行使で天皇が地位を得た史上唯一の大乱であるあの壬申の乱も、ここのあたりの瀬田橋の戦いでのちに天武天皇ということになる大海人皇子が大友皇子を破って決着したのだという格別の思いがあったからだ。

僕は日本書紀が相当に歴史をねつ造しており、ことに天智と天武が兄弟であるなど大嘘であると信じている学派の信者である。紀記より前はほぼ先史時代という我が国の寂しい文献環境であるため、紀記の文献性を重視するのは学問的には正当性がある。しかし、それが後世に正当性を持つことを確信した高度な教養をもった知能犯がそれを書いたとしたら、それを金科玉条とすること自体が犯人の思うつぼなのだ。

だから、エセ学説のそしりを覚悟してでも、どんなに荒唐無稽に聞こえても、サイエンスの思考回路から少しでも史実と整合性のとれる説に組したいと思うのは僕の生来の論理潔癖症のなせる業だ。10年を経て記憶がややあいまいになっているのでここでは言及を避けるが、聖徳太子の存在も、藤原鎌足の存在も、持統天皇の存在も、どうも僕には直観的にうさんくさいと見えてしまう。しばらく忘れていたこのテーマに気を向けてくれた滋賀出張と中村兄に深謝だ。

 

鳥取テルマエ・ロマエ

2013 SEP 4 22:22:03 pm by 東 賢太郎

先日、メンバーの中村兄がブログで77のスコアを出したというのがあった。自分のべスグロは75だがこれは15年前だから弱冠?43歳だった。まだ飛距離もあったし寄せなどの小技もさえわたっていて、あの頃の自分に戻れる気は到底しない。だから大変な偉業と思う。

一昨日、お客様のM社長に税理士のN先生と一緒にご招待されて鳥取で久々のゴルフとなった。朝6:40羽田発の全日空に乗ると8:56スタートでゆうゆうと鳥取でゴルフができてしまうのだからびっくりだ。先週買ったばかりのおニューのドライバーとアイアンは一度も振らずに宅急便で送った。なんともレイジーなゴルファーだ。鳥取カントリー倶楽部吉岡温泉コースは海を見おろす絶景の1番からスタートである。雨は上がっていて晴れ男ぶりを誇ったのもつかの間、やはり天気予報どおりにぱらついてきた。

そのうち5番あたりで雨足が強まり、7番あたりでバケツをひっくり返したような大雨になった。日本でこんな豪雨でゴルフをやるのは初めてであり、それでも雷の気配はないので結局18番までやった。もちろんゴルフ場貸し切り状態であり、スコアは堂々の103であった。ゴルフというのは天気や風のせいにしてはいけないのだ。最近、晴れていても平気で100行くことがありそれでも何の悔しさもなくなっていたが、この日は楽しかったがちょっと悔しくもあった。同輩のおかげと思おう。

今日も同じコースで10:00スタートの予定だったが、豪雨で緊急避難命令が3回もスマホを鳴らした。さすがにやめようということになり、昨日やった「勉強会」の続きになったからそれはそれでよかった。お昼は大変おいしい但馬牛のステーキをいただき、せっかくだから銭湯どう?とM社長に薦められ、社用車をお借りして先生と2人で行った。市内のど真ん中である。いやあ、銭湯なんて何年ぶりだろう。わくわくしながらのれんをくぐるとそこは昭和だった。いるのはおじいちゃんばかりだ。この真っ昼間から我々ごとき”若僧”の来る場じゃないんかなという目線もある。

入湯料350円、貸タオル20円、石鹸20円。この値段だってなんとも昭和の匂いがするではないか。番台のおばちゃんにシャンプーもある?といったら、これも20円だ。ちょうどあがってきたおじいちゃんが「半分残ってるよ」とくれた。銭湯といってもれっきとした温泉で、43度ぐらいの熱めの源泉がかけ流しの立派なものだ。10分ももたずに汗だくになってふーふー言ってあがった。ふと壁を見ると、麗々しく貼ってあるのは『テルマエ・ロマエ』のポスターだ。あの映画は飛行機の中でけっこう笑ったっけ。うん、このレトロな風景はあれにちょっと似合うかもしれない。そこに黒塗りのベンツで乗り付けた僕らもローマ人なみに浮いていたのだが。

 

元祖ジュース自動販売機

2013 JUN 15 21:21:24 pm by 東 賢太郎

先週の木曜日は名古屋に行きましたが、その日は初の猛暑日で35℃を記録したそうです。実はその前日の広島も30℃以上ありました。もともとけっこう晴れ男ですが夏日を運んでいくのは喜ばれませんね。

名古屋では桶狭間古戦場の近くにある某メーカーさんを訪問しました。技術には定評のある会社ですが経営姿勢も堅実で、社長の飾らないお人柄がそれをよく表していたと思います。工場をご案内いただいてから同社の歴史資料館を拝見しましたが、そこでこれを見つけて感動してしまいました。

写真 (3)

昭和20-30年生まれならきっと見覚えがあるのでは。コールドドリンクというのもカップを取り出して・・・というのも泣かせますが、なにせ10円ですからね。上についている金魚鉢をふせたようなガラスの中をオレンジジュースがつたっていましたっけ。親にせがんでよく飲んだのを昨日のように思い出しました。

 

 

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