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カテゴリー: 徒然に

縁故主義とオンデマンド社会

2023 FEB 14 10:10:06 am by 東 賢太郎

縁故主義のことをネポティズム(nepotism)という。親の七光り、縁者びいきというやつだ。直訳すれば「甥っ子主義」「姪っ子主義」で、悪いニュアンスばかりに使われるが、一概に悪いかというとそうでもない場合はある。信頼できる腹心が周囲にいることはトップになると助かるし話も速い。仕事が効率的になるなら組織にとって悪くないから息子が秘書でもネポティズムといわれないこともあろう。

ただし、それは論功行賞が公平な場合に限ることは三国志の故事である『泣いて馬謖を斬る』が示している。諸葛孔明は命令に背いて戦に負けた愛弟子を処刑した。守ったものは「軍律」だ。それが有能な部下より大事という見せしめであり、だから孔明自身も軍律に服して三階級降格の罰を受けている。評価が公平だから家来は死に物狂いで戦い、孔明は名を成した。後世にバカ殿による論功行賞の失敗がたくさん起きたから、この史実が戒めの諺となって1800年間も語り継がれてきたのではなかろうか。

すなわち、「論功行賞が不公平」=「軍律はありません」という表明なのだ。ということは殿を縛る軍律などましておやあるはずなく、論功行賞は殿の好き嫌いで、好かれれば何でもやり放題になり、人間の汚い本性が出て自分に甘く、縁者に甘く、七光りの馬鹿息子が何の苦労もせず跡を継ぐ。この腐臭ただよう事態にネポティズム認定の鉄槌が下るのだ。だからキリスト様は「縁故などというものは正しい信仰の敵」と言い放ち、信仰組織が世襲制によっていつしか自分の子供ばかりを偏愛する者たちの巣窟のようになってしまうからカソリックの聖職者は結婚したり跡継ぎの子供を作る事は認められていないのである。宗教を引きあいに出す気はないが、人間の本性と組織の関係を鋭く射抜いた例ではあろう。

昨今の我が国において経済は一向に成長しないが、ネポティズムだけは順調に芽を伸ばしているように思える。真面目に汗水たらして働かないと給料は増えないが、国民から搾り取った税金をむさぼるのに労働はいらない。いるのは仲間の数なのだ。そこで「愛(う)いだけでオッケー」の集団が生まれる。数が欲しいのだから縁故すらいらず、「愛い奴」であれば実績も能力も知力も不問というユルユル集団であって、厳密にはネポティズムですらない。そこでこれをクローニー(crony、気のおけない仲間)と呼んだりもする。まあ要するに、多数決=権力である資本主義に “寄生” することだけを目的とした松食い虫の群れみたいなものである。この連中が繁殖して樹液を吸えば、いうまでもなく松は枯れる。

真面目に頑張って戦果をあげる者は実績も能力も知力もある。馬鹿の出世に不満だから反旗を翻すしかなく、必然的にボスには「愛くない奴」になって排除される。「愛い」だけが取り柄の集団にとってはざまあみろブラボーであり、ボスも歓声を浴びて地位安泰になり、全能感にひたってますます道を誤る。軍であればさように有能な武将たちがやる気をなくせばボスも命はないが、近代国家は法が統治する一種のマシーンであるから、この無能集団がコックピットに入ってハイジャックしても飛行機はとりあえずは落ちないのである。だから無能な武将ばかりになってもしばらくは安泰で、自分の寝首を掻かない者で周囲を固め、任期中だけは落ちるなよで済ます者が百出する。我が国の「平成の大失速」、「失われた30年」はこうしてもたらされたのだ。

おぬしも悪よのう

その集団が権力を持つと指導原理は「愛い奴よのう」から「おぬしも悪よのう」に軽いタッチで変異する。縁故など元からどうでもいい。税金にたかる利権という樹液を吸うだけを絆とした松食い虫の大群になり、ボスが後ろ盾で守ってくれるから談合、中抜きやりたい放題。更に図体は太る。ボスの一族はそのコロニーの女王蜂みたいになって疑似皇族的な世襲貴族となる。これが我が国の現状だ。政治家というファミリービジネスは世代を超えて税金にたかるが、自分の相続は「票田」だから税金は払わない。資産は世襲で目減りせずに女王蜂は何代でも生きのび、得体のしれぬ宗教まで動員してますます数を増やす。幹のど真ん中に “寄生” しているのだから駆除は大変に困難なのである。

ネポティズムは一歩間違えばこうした悪を生む有力な原因にはなるが、くりかえすが一概に悪いかというとそうではなく、国であれ企業であれ全体の利益のために効率的な場合はある。一族経営の企業がその例だ。見ず知らずの株主に無用の批判を受けたりハイジャックされたりするぐらいなら上場は見送って堂々とネポティズムで行こうという高収益企業はいくらもある。それが悪なら会社は潰れるはずだが多くがうまくいっているのだから、一般論で悪だというのは左翼が階級闘争とごっちゃにして騙そうとしている証拠で全くの見当違いである。

ネット社会にそれがどれだけ耐性があるかは未知数だ。ネポティズムは組織が盤石で無能でも勤まるポストがあることが大前提だが、仮にあっても周囲が離反すればワークしない世の中になりつつあり、やがて来るオンデマンド社会ではポストに好適な人材はポストが決めることになる。たとえば管弦楽団で第1フルートが定年になる。日本的感覚では第2奏者が昇格しそうだがそうではない。第2奏者が第1の息子であっても関係ない。第1の公開オーディションをするのだ。オンデマンド社会ではこれがそこかしこで起きる。少なくとも高年俸のポストは業界関係なくそうなる。第1は第1の格の人が吹かないと楽員の賛同が得られないし、楽団ごと質が落ちて全員が失業する可能性があるからだ。

つまりオンデマンド社会はネポティズムと相性が悪い。おそらく後者は衰退していくだろう。政治家が息子を秘書にしても、彼が有能であって公平に評価されれば構わないが、そのことは父親でなくネットを通して国民全員が審査することになり、無能がバレれば私刑と呼ばれようが何だろうが袋叩きにする。今のところは大手メディアが「報じない」という情報操作をして守っているが、そんなことをするメディアは食えなくなって先に消える。公人だとネットで炎上すれば有名税だねざまあみろで終わり。書き込みは末代に残る恥辱となる。これが良いことかどうかは言論の自由を規制するかどうかの問題であり、法的に処理することは中世的ガバナンスのまかり通る国家でなければおそらく困難だろう。とすると公人となって国のために活躍して勲章をもらうことのリスク・リターンのバランスは変容するだろう。ネポティズムの評価同様に一概に2世3世議員がいかんということはないが、現状は無能なのがたくさんいる。日本という国が盤石でそれでも勤まるポストだったからだ。松が元気な時代はもう終わっている。

 

自民党の補選3敗に思う

岸田総理の英語力を判定する

 

 

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徒然なる正月の日々

2023 JAN 4 18:18:42 pm by 東 賢太郎

家事は何もしない。とくに正月は家族に申しわけないと思うが、できないからいても邪魔なだけ。指揮者は家内だ。お節は心斎橋「鶴林 よしだ」である。もう10年以上になるかな、毎年おんなじ品が並ぶが飽きようがない。酒屋の親父に「今年は辛口」といって出てきた「うまから まんさく」も合う。元旦は快晴。富士山もいい肴だ。完全に酔っ払い、おかげで憂さが吹っ飛んで年が明けた。

初詣は毎度の浄真寺と宇佐神社。何年前だったか猫もお祓いしたことがあるが、今は4匹になってるので人だけ。僕はこう見えてけっこう信心深い。良くなかった去年とは行くルートを変えて臨んだ。浄真寺は長蛇の列。今日4日は会社で恒例の日枝神社に。どっちも参拝までに30分以上も並んでコロナはもう風邪なのかなと思う。

駅伝は中央と競った駒大が勝った。中央も強くなった。昨年史上最高タイムを叩き出した青学は5区の人が体調不良で総合3位に終わったがよく追い上げた。皆さん正月からご苦労さんである。お~、ヴィンセントのゴボウ抜き凄い、山の妖精がんばれ、あ~襷がとぎれたかわいそうに。「お茶の間」はただの野次馬だ。火事と喧嘩は江戸の華なんてお気楽なポジション。これが僕には最高だ。

年賀をいただくと悠々自適ですという人が増えた。いいなあと思う。そういう境地に入れることが本当にうらやましい。僕は競走馬みたいに走りどおしできて、まだ止まれない。いいトシこいて「まだ頑張ってます」なんて実にみっともないと思ってる。だからブログにはジジイは引退しろと書いてる。その自分ができてないというのは最高にカッコ悪いことなのだ。

今日も秘書たちとイタ飯してだんだん仕事モードに戻ってきたが、これが僕にとっては安心モードなんだと思うことにした。残念ながら悠々自適は当分できそうにない。

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地球上に邪気が満ちていたような年でした

2022 DEC 31 23:23:09 pm by 東 賢太郎

今年は父が他界し、辛い年でした。何事も結果が思ったように出ず耐えるしかなかったです。世情も悪いです。著名な方々がなくなり、昔からセットの疫病と戦争とインフレが世界をかき乱し、今年は地球上に邪気が満ちていたような気がします。

ロバート・チャールズ・ウィルスンの「時間封鎖」。ある夜、突然星々と月が空から消え、翌朝に現れた太陽も贋物であったというこのSF小説を僕は思い出しています。地球が一瞬にして暗黒の界面に包まれ、界面を作った存在を人類は仮定体(仮定上の知性体)と名づけたが、不気味なことに正体は知れないのです。安倍さんの事件。何が起きたんだと日本中が震撼しましたが、ふと気がつくとそれはあらぬ宗教騒動に置き換わっていて、誰もがその変わり身の不思議さに気づかないように淡々と粛々とふるまっている不思議に僕はさらに震撼を覚え、贋物の太陽を仰ぎ見ているのです。

健康には自信があってここまで来ました。でも数値を見ると糖尿予備軍だし、目は疲れると二重に見えるし、耳鳴りはもう10年、鼻はスプレーしないとつまるし、歯はちょっとだけ歯周病、肩はばりばり、おしっこは出にくいし、パニックが怖い。こうなると、かかっている医師は5人で薬はわんさか出てます。そういえばお袋がこうだったなあと嘆くと、もういいトシなんだからと笑いとばしてくれる家内の言葉が一番の薬だったりします。

2022年もあと1時間をきりました。5月に親父が逝ってから書いたブログは5月ゼロ、6月1本で、万事ここに現れてます。疫病と戦争とインフレの第1次大戦を、いま生きてる人類は経験してません。僕は両親が天に昇ってしまった自分というものも、経験がありません。まあ、それもあと少しでおしまい。くる年はきっと変わると期待しましょう。

皆様よいお年をお迎えください。

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森保ジャパンに見た日本人の進化

2022 DEC 7 13:13:26 pm by 東 賢太郎

これまでもワールドカップ(WC)はそれなりに見てはいましたが、そもそも今回ほど真剣にサッカーを見たことも応援したこともありません。それほど森安ジャパンの大活躍は社会的にも大きなインパクトがありましたし、僕個人においてもこの競技の面白さを存分に教えてくれたという意味で忘れられないものでした。クロアチア戦については非常に残念だったしいろいろ思うことはあります。しかし負けて一番悔しいのは選手です。それを我々も分かち合えばいいし、それが彼らへの一番のリスペクトとねぎらいでしょう。必ずや彼らは再起して4年後にまた力強く戦ってくれると信じます。

救いというわけではありませんが、今朝はあのスペインも、モロッコ戦で120分の激闘を0-0で分けた末のPK戦で負け、姿を消しました。ただの負けではありません。ひとり目はゴールを外し、あと二人も連続で止められて3-0の完敗。強豪の茫然とした表情に、ある意味でスポーツの残酷さまで見た思いです。スペインですらPK戦は4回やって3敗、これで5回やって4敗になったわけです。勇気をもって蹴った日本のキッカー達が何ら恥じることもありません。これを糧に徹底的にPKの技術とメンタルを鍛えればもっと勝てるとポジティブに考えればいいのです。

今回の日本チーム、選手たち自らが史上最強と評してましたが、それは勝って結果がついてきたからでもありましょう。優勝経験のあるチームが2つある唯一の組で1位通過はたしかに日本サッカーの歩みの延長線上では歴史的サプライズですが、75%がWC未経験の選手でそれを成し遂げた、このことはもっとサプライズではなかったかと僕は思うのです。経験者に頼ることをせずリスクを取って若手を選抜し、見事に束ねきって勝った監督の眼力、マネジメント力あってのことでもあったわけですが、そのポストにあった森安氏の資質が時流にぴったりだったという評価をしても彼に失礼にはならないと考えます。

その抜擢にこたえ、未経験をものともせず、強豪に気おくれなど微塵も感じさせず堂々と渡り合った20代前半の頼もしい若者たちがそこにいた。このことが僕にどれだけ勇気をくれたか。過去にも多くの名選手はいましたし、僕は本田選手の大ファンでもありますが、5人入れ替えてもチーム力が落ちないほどの人数はいなかったということです。多くが欧州プレミアリーグでもまれて層が厚くなったのでしょうが、実力がなければ行けないわけだし、行こうという気概があることが素晴らしい。ビジネスに生きてきた人間として、商社に入った人が海外勤務は希望しない、学生の一番人気は地方公務員という時代に何という光明だろうと感銘を受けたのです。

僕はWCで負けるたびに「フィジカルのハンディ」という声が聞こえてくるのが残念でなりませんでした。それを言いはじめたら百年は勝てないわけです。しかし今回、身長差のデータは示されていましたが少なくともそういう声はあまり聞きませんでしたし、見る側も「3センチの差か、だからなんだ?」と落ち着いていられた。これ、大変なことだと思うのですね。それを確認したのが森安監督のいう「世界で戦える」「新しい景色」だったかもしれません。でも、堂安のコメントを聴くたびに思ったのです、監督、もうそんな時代じゃない、彼らの世代はでっかい外人にそもそもビビってないぞと。

例えばドイツ戦の浅野のゴールです。僕が言うのもおこがましいのですが、日本サッカーはこんなに進化していたのか、フィジカルの気おくれなど微塵も感じさせないじゃないかと驚きました。たかが一つのプレーかもしれませんが、ドイツのディフェンダーに背を向けてロングパスを受け、潰しにくる彼を左手で押えておきながらゴール前まで攻め込んで世界トップのキーパーを出し抜いた。この個人技は技術もさることながら目線の高さにおいてもうワールドクラスでしょう。クロアチア戦で見せた三苫の快速のドリブルとシュートもそうですね。そういう心身両面にわたる進化がなければドイツ、スペインに勝つ確率は非常に低かったろうし、それはフロックでなかったということです。

僕のようなにわかファンさえそう見たのだから、多くのサッカーファンの皆さんがベスト8に期待したのは当然ですし根拠のあることです。でも、完全な個人技であるPK戦は別物だったのですね。欧州のプレミアリーグではあまり蹴る立場にはないんでしょうか、練習は充分でも修羅場でのここ一番では経験不足に見えました。かたやクロアチアは百戦錬磨の自信と余裕がありましたね。あれではどんな勝負でも負けます。でもくりかえしますが、あのスペインでもアフリカ勢、アラブ勢として唯一勝ち残った新参者のモロッコにPK戦で零封されたのです。だからそれを4年後にやればいい。良い課題が残ったと考えればいいのです。

世界トップレベルの戦いでそうそう一気に頂点に行くのは無理だ。僕ら昭和世代の常識ではそうです。何事においてもそういう思考回路が働いてしまうのがこの世代なのです。今大会、日本の若者にその常識を当てはめてはいけないことを悟るべきでしょう。僕らは太平洋戦争に負けた次の世代です。育った時代による思考の制約というものがどうしても働きます。欧米には勝てないんだ、戦争は二度とするなと骨の髄まで叩きこまれているからです。戦争についてはその通りです。いかなる時代であれ国家の利益のために人殺しをしてよいはずがありません。しかし、欧米に勝てないは余計だろう。アウエーで16年仕事をしていたものですから長らくそう思っていました。だから「フィジカル」という言い訳が聞こえてくるサッカーはあまり好きでなかったのです。

なぜなら大相撲をご覧ください。そんな言葉は辞書にないわけです。「柔よく剛を制す」がモットーである柔道にもありません。それが武士道にもつながる古来からの日本人の誇るべき精神であって、だから科学技術で欧米に300年も遅れた国が明治維新をおこす気概を持っており、ちょんまげを切ってからわずか30年あまりで列強が脅威に感じるまでになった。その過程で国家による人殺しが盛大に行われたわけでもない、まさに世界に類のない格別に徳のある立派な国なのです。このことを我々は再認識すべき岐路に来ていると強く感じています。それを過信して戦争に負けたじゃないか。たしかにそうでしょう。だからこそその敗戦から学ぶべきでなのであり、お手軽な観光立国などでなく、徹底した科学技術立国であることを貫徹すべきなのです。

柔道の体重別階級制は国際競技にするために欧米人が作ったのです。本来それをハンディと見ない我々には余計なお世話なのですが、昭和の教育を受けた我々は敗戦国教育のたまもので格闘技でもない競技でさえフィジカルのハンディを自分から言うようになってしまった。弱さの言い訳でなくて何でしょう。戦う前から負け犬なんですね、アメリカに住めばわかりますよ、なにより、当の彼らがそれをアンダードッグと呼んでいちばん馬鹿にしてるわけです。それに何の疑問もなく甘んじてしまう、そういう精神構造に仕上げられてしまった我が世代の情けなさ。僕もそうだったのです。だから経済大国ともてはやされると勘違いして有頂天になり、その座を追われるとシュンとなってしまうのです。

皆さん、試合後の代表選手たちの立ち居振る舞いに何を感じられたでしょう。彼らは終わったことに捕らわれず、何が足りないか、次は何をすべきかを勝っても浮かれずに淡々と語っていました。そこまでして戦った者だけが絞り出せる敗戦の弁も、そのずっしりとした重みに老いも若いもないと感じました。彼らに昭和世代の負の先入観はなく、のびのびと世界に雄飛してくれ、40代になる20年後にはサッカーのみならずすべての面において日本を真の一流国にしてくれる。そうなれるように背後から彼らをサポートしてあげるのが我々世代の最後の仕事である。そう思った次第です。

監督、そして選手の皆さん、身を削るような努力で4年の準備を重ね、これだけの堂々たる成果をあげて日本を明るくしてくれました。お疲れ様、心から感謝します。

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永遠に讃えるスペイン戦の勝利

2022 DEC 3 17:17:51 pm by 東 賢太郎

サッカーは何もわからないが、それでもスペインに勝つわけないだろうぐらいのことは思っていた。コスタリカ戦はいけるかもと思って期待して見ていたが、昔の弱い日本サッカーを見ているようだ。ああこりゃだめだで終わってしまい、なんだか世の中もドイツ戦で盛り上がった分だけ盛り下がってるではないか。TVではスペインの3トップの移籍金が合計で277億円だなんてやっていて全日本OBの解説者が聞かなければよかったですなんて笑ってる。コスタリカに1-0で負け、スペインはそれに7-0で勝った。じゃあ8-0かなと思った。

それでも気にはなって午前4時まで頑張ったが、前半はほとんどボールを支配されっぱなしであっけない1失点。やっぱりねとなって、3-0で負けならオッケーかなと寝床に入って熟睡してしまった。そうしたら「たいへんたいへん、逆転してるよ!」と娘に叩き起こされるのである。後半の半分ぐらいからアディショナルタイムの7分まで、わくわくどきどきしながら見守った。やった!この瞬間に立ちあえてよかった、娘に感謝だ。この勝利は一生忘れないぞ。ほんとうによくやってくれた!!

堂安、田中碧のゴールシーンは録画で見たが、何度見ても胸がすくほどすばらしい。三苫の折り返しがインプレー判定となったのは執念の証しである。ドイツ戦の浅野の2点目なんてのは、ああいうのはブラジルやスペインの肉食系のやつしかできない、農耕民には無理だなんて思いこんでいたプレーであって、何とスペイン戦でも8割の時間ボールを支配されながら間隙を縫ってそのレベルのを2つも決めてる。堂安の落ち着きはらった左足なんか世界レベルでなくて何だろう。

もう嬉しくて感動の極みだ。日本の20~30代の若い子たちが世界でここまで躍動し、何の臆面もなく堂々たる勝負をくり広げ、世界の超一流を完膚なきまでねじ伏せて「死の組」を首位通過。凄いとしか讃えようもない。こんなことは、サッカーに限らず、僕らの世代ではぜんぜん無理なことだったのである。完全に脱帽だ。日本人は劣化していると思っていたが、とんでもない、劣化していたのは我が世代であって、若者は進化している。

今年は暗いニュースばかりでなんにもパッとしたことがない、村上の三冠王ぐらいかなと思っていたら流行語大賞がそのものずばりの「村神様」である。それほど村上が凄かったわけだが、ここまでそれかよと案の定すぎてかえってその他の暗さが引き立ってしまうところに現状の日本社会の病気に近い閉塞感を覚えるのは僕だけだろうか。

現にコスタリカに負けると一部の選手を批判する書き込みが乱れ飛んだらしく、田中碧選手が「同じ国民なのになぜ一緒に戦ってくれないんだ」と嘆いていたと聞く。まあ期待の裏返しでもあろうし、どの国でもそんなものかもしれないが、いまの日本にはコップに半分の水を「まだ半分もある」でなく「もう半分しかない」と見てしまう空気が充満してる。それを思いっきり打破した選手たち、ありがとう、ここぞで勝てる日本を証明してくれた君たちが誇らしい。僕は心の中に君たちの銅像を建て、永遠に讃えるぞ。

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清少納言へのラブレター

2022 SEP 10 18:18:21 pm by 東 賢太郎

前の稿に書いたが、最近、「枕草子」を通読した。なぜそういう気になったかというと、安倍元総理の暗殺事件で、彼の「戦後七十年談話」を思い出したからだ。僕は愛する両親の生まれた国を当たり前に愛する日本人である。談話は至極共感したし、これを総理として公言するに相応の覚悟を決めたはずだと、彼の器の大きさを評価した。したことに是としないものもあるが、万能の人間はいない。そのような部分があることを針小棒大に批判し、自国を当たり前に愛する者を「右翼」と呼び、それはおかしいだろうとする発議を「陰謀論」と切り捨てることがまかり通るようになった情けない世相を僕は大いに危惧する。

この危惧は、しかし、2020年の米国大統領選の時にすでに発していたことは、この稿を先ほど読み返して確信した次第だ。

バイデンが隠しトランプが暴き出す秘密

僕は今もこの選挙は八百長と思っている。「ウソ」をついておいて、「これをウソだと言う奴はウソつきだ」にすり替える手法がある。➀証拠はない ➁隠滅の証拠もない ③よってウソつきは君である、という攻めの三段論法である。次いで、そのウソを「百回言えば真実となる」とすべくメディアがたれ流し、大衆に擦りこむ。バレそうになると「そういうことが行われた証拠はない」を➀として、再度論法を作動させ、洗脳済みの大衆に「君が言っているのは陰謀論である」と言わせるのである。これは商売ならマーケティング、政治ならプロパガンダと呼ばれる。

こうやって1年、2年と世界はだんだん目が慣れ、あのおじいちゃんを大統領と思うようになった。そして、いよいよ化けの皮が剥がれかかって替えもないままに中間選挙の11月が迫り来た。日増しにトランプが脅威に映り始め、だからFBIがフロリダの別荘にガサ入れしたりしているのだろう。以下はまったくの憶測だが、トランプは➀➁をつかんでいたが、裁判所までグルでトラップしようと狙っているのを知り手を引いたと思う。すると代わりに議会襲撃事件をでっちあげられ、作戦どおり「無法者」にされる。オズワルドが現れやすくなる。SNS封鎖などかわいいもの、この脅しは強烈だ。その半年後に安倍氏もなんやかんやで悪人仕立ての動きがあったが、辞任理由は身の安全だったんじゃないか。

内閣総理大臣経験者の襲撃による死亡は二・二六事件の高橋是清、斎藤実以来という重大事件であるのに、本件はwikipediaに早々に「安倍晋三銃撃事件」と「評価の固定化」がなされ(海外はすべてassassination、即ち「暗殺」である)いつの間にか統一教会問題にすり替わっている。「銃撃事件」は平成からこれまでに4件発生しているが、被害者が死亡した例はひとつもなく、軽微に見せる印象操作だろう。銃創、弾道、弾数の物理的矛盾の説明を奈良県警はしないが、そうではなくできないのだろう。まるで国を挙げて「早くなかったことにしたい」だ。これはいったい何なんだろう?裏で物凄いものが蠢いている思いに背筋が寒くなるばかりなのだが皆さんはいかがだろう。

経験しないとお分かりになりにくいかもしれないが、海外で10年以上も生活すると「美しい国、日本」が身に染みる。だから、僕は益々自由人にはなったけれども、同時にナショナリストにもなって帰ってきた。移民で国がない、自国を愛せない人をたくさん見て、日本人に生まれた幸せをかみしめたからだ。もう何年ぶりになるのかも忘れるほど以前に読んだ「枕草子」を読み返すことになったことは前稿に書いた。なぜそうしたかというと、古典の中でかつて最もストレートに心に刺さり、現代の日本人も変わらぬ千年前の美意識に感動した本であり、日本民族であることの誇りを感じさせてもらったからだ。それを守ってくれる政治家が日本国には絶対に必要だし、それを選ぶ有権者の我々が日本国の誇りを忘れてしまう体たらくでは国家の存続すら危ういと思った。それを僕自身が読んでもいないのでは、お話にもならないからである。

18世紀ごろの人口はロンドン80万、パリ50万に対して100万いた江戸は世界一の都市であったとされる。海外で僕はこれをアピールして日本の宣伝に努めたが、文化度は人口だけで決まるわけではないという気持も同時にあった。手前味噌の感じが払拭できなかったのである。しかし、江戸時代の800年も前から日本文化が世界に冠たるものであったことは、実にシンプルであって、「枕草子」と「源氏物語」を示せば Q.E.D.(証明終わり)なのだ。相手がインテリであるほど反論がない。 同時代の西洋や中国がどんな悲惨な状況であったか皆が知っているので、見事に納得されるからお試しになればいい。

それはそうなのだが、しかし、日本人の誇りというのはそんなに肩ひじ張ったものじゃない、もっと身近で、誰でもわかりやすいものなんじゃないかという気がしてきたのだ。それを教えてくれたのが「枕草子」だったというのだから話がちょっとややこしい。「これが千年前に書かれたんだ、どうだ凄い文明国だろう」も正しいことは正しいのだが、それは進化論という西洋の鋳型に当てはめた理屈である。「別に俺たちそんなの自慢する気もないよ、鋳型自体がどうでもいいからね、それよりね、悪いけどこれ、英語にならないんだ、日本語じゃないとね、千年前から俺たち同じ言葉を喋っていてね、そのまんま『いいね』ってわかり合えるんだ」。ナショナリストになったというのは、こういうことじゃないのか。

こういうものは「日本人の心の共有財産」だ。例えば食事を「いただきます」といって始め、「ごちそうさま」で終える。お辞儀をする。軽い会釈が無言の挨拶になる。家で靴を脱ぐ。元旦の「あけましておめでとう」で清新な気分になる。神社で手水舎で手と口を清め、拝殿で手を合わせると心が洗われた気分がする。こうした行為は作法として外国人にも英語で伝えることはできるが、気分までご指導はできない。ところが日本人なら子供でも当たり前のようにわかるのだ。そのどれもしない外国に住んで初めて、僕はそれが素晴らしいことだと気がついた。いつどうやって身についたんだろう?父祖が千年も大事にしてきたことだからといわれれば確かにそうなのだが、親にそうやって教わったわけでもない。思うに、それは「日本語」だろう。日本語を母国語として育てば「軽い会釈」のように自然と身についてしまうようなものではないか。

三保の松原が世界遺産の認定で、富士山を入れるが三保は除外するとなってひともめあった話があった。抗議するとドイツの代表団が絶賛してくれて通ったそうだ。あれで行きつけの鮨屋を思い出した。「ウチのことはお客さんが知ってるんで」で、ミシュランお断りである。この一言をきかせてあげたいと思ったからだ。なんでわけもわかってない西洋人の判定なんかを気にするんだろう。こうやって浮世絵は欧米に買い漁られてしまったのだ、馬鹿じゃないのと思う。それから三保の松原に行く機会があったが、別に広重を知らなくたって、あの美しさは日本人なら誰でもわかる。世界なんたら遺産に認定してもらわないと観光客が来ないという地元の発想はこれも日本的なるものの代表選手なのだが、清少納言さんなら「卑しきもの」に入れるだろう。金で買えるモンドセレクションとおんなじ感覚ならば鮨屋みたいに突っぱねたほうがよっぽど評価されるよっていうことで。

日本語を母国語として育ったからわかるものは、日本語のわからない外国人には理解できない。だから評価してもらう必要などさらさらない。

春は曙

この3文字で、さっき書いたすべての「父祖が千年も大事にしてきたこと」と同じものがぱっと閃かないだろうか?

西洋にギリシャ、ローマ、イスラムの文献というものはあるが、中世暗黒時代で文化は断絶しており、まして現代の基準でも秀逸なアートといえる次元で、感情の機微や息づかいまで肌に触れるが如く伝わる繊細な言語で「心」を伝えてくれる形式の文学というものがそもそもない。それが日本にあるというのは世界の奇跡のようなもので、これが世界無形文化財の筆頭でないならユネスコなんてものは存在価値すら疑うべきである。後述するが、それは天皇、朝廷の存在に依っている。皇室がいかにありがたいものかを思い知る。他国にそれはないのだから自明といえば自明で、この格差を書くこと自体が差別というかお気の毒であって、「卑しきもの」にされそうだからもうやめておこう。

僕に文学を論じる資格がないことはわかっている。恥ずかしながら、通して読んだのは今回が初めてで、しかも読んだのは現代語訳であるから読破したとはいえない。ただ、あたかも初めてドイツで「ニーベルングの指輪」を4晩かけて聴き通した際に感じたずっしりとした重みのようなものが今回の読後感にあり、僭越ではあるが、自分の座標軸の中で、自分の言語で位置づけてみたくなった。それには同書の訳者・校訂者である島内裕子氏からお知恵を拝借できたことが大きかった。さほどに氏が解説で主張されていることは新鮮だ。「枕草子」の時代は随筆という概念がないのだから《三大古典随筆》のひとつとするのではなく、「枕草子」と「徒然草」は『散文集』とした方が適切ではないか(「方丈記」は両者と異質なので)というものだ。広くアートとして俯瞰するなら、そうした括りは一般に技法、作法に準拠したもので(括る有意性があるかどうかは兎も角)、「古典」は言葉の定義自体が曖昧であるし、「三大」に主意があるなら音楽のドイツ三大Bと変わらず、そういうものと十二音技法を同じ知的空間で扱おうという者はいない。我が国の教育は、「枕草子」の名前は子供に暗記させて試験で点は取れるようにしても、価値を正当に評価して「読んでみたい」と思わせる本来の教育になってはいないのではないかと懸念するのだ。これをしていたら国はなくなってしまう。

では、氏のいう「散文集」とは何か。以下、同書解説から引用しておこう。

三十一文字の定型詩の集合である「和歌集」に対して、散文は書かれた内容によって、日記・紀行・物語・説話・軍記・評論など様々なジャンルがあり、一般に、ある作品はある一つのジャンルに分類されることによって、書棚であれ、心の中であれ、居場所を確保できる。それに対して「散文集」と聞いただけでは、輪郭さえも朧げで、内容のイメージが湧かないかもしれない。しかし、そのような文学常識から一旦離れ(中略)、「散文集」を「ひとりの人物が書き綴った、長短さまざまで、内容も多彩な、散文小品の集合体」と定義することによって、「散文集」こそが「和歌集」に対置可能な文学概念であり、文学全般を二分する、きわめて重要なスタイルであることが見えてくる。

素晴らしいと思うのは、氏の二分法が学会のセクト主義、すなわち業界人の伝統・しきたり・忖度・諂い・前例主義のごとき狭隘な視野から出た、読み手には一文の功徳もないポジショントークではなく、「枕草子」を楽しもうというユーザー側の立場から発露したものだと思われる点であり、それが文学全般を二分する学術的な意味あいまで持つならこんなに良いことはない。ここで氏は「連続読み」によって通読してこそ、「枕草子」が生成してゆく時間を、作者である清少納言と共有できる。その体験が、「枕草子」を読むことにほかならない、としているので、実際のそれをして、体験してみることが必須だと考えた次第だ。それは以下のくだりで明らかになっていた。

「散文集」は、物語のように明確な筋立てがないので、頁をめくって、面白そうな所をあちこち気ままに読んでも、差し支えはなさそうだが、やはり書物としてひとまとまりのものとなって伝来してきた以上、最初から最後まですべての部分に目を通すことが重要で、「連続読み」してこそ、その作品の魅力も深みも実感できる。「枕草子」を読むということは、散文を書く行為がもたらす自由の実体を、しかとこの目で見届けることであって、そこにこの作品を読む楽しみもある。ページを繰るごとに眼前に広がる景色は、新鮮な空気に満ち、花の香りや草の匂い、雨の湿り気。風の強弱までも、さまざまに描き分けている。清少納言は自分が書きたいことを、自分の言葉で、散文として書き綴った。このことが何より大切である。

読書にいちいち方法論があるとは思わなかったが、僕はこのたびのトライでその重みを味わわせていただき、心からの同感に立ち至った。同書解説の「『枕草子』の諸本と内容分類」によると写本は複数あり、章段の数や配列が異なるらしい。詳しいことは措くしかないが、以下に書くことは「島内現代語版」を通読した僕の感想ということになる。とはいえ、これを読むことは利点があって、原文に注釈を付すスタイルの本ではとぎれとぎれになる通読のテンポが、あたかも執筆当時の宮廷の読者になったかのような軽やかさで得られる。時間もかからないから僕のようなビジネスマンでも気軽に入れる。枕草子には、純文学的というだけに留まらず、「時間のアート」とでもいうべき、まるで音楽のような楽しみが見え隠れしていることを僕は発見してしまった。予期せぬ新鮮な題材、切り替わり、短文の小気味よいリズム、めくるめく変転する場面や登場人物、決然とした帰結。まるでハイドンのアレグロのようなのである。そう、清少納言が『パリピ孔明』みたいに令和の世に来ちまったら、まっさきにコンサートに連れて行ってハイドンをきかせてあげたい。

清少納言の存命中、想像するに、この書はいわば、天皇の后(中宮)である藤原定子のサロンの空気のライブ中継であったろう。父である藤原道隆の死という不幸によって運命は下り坂となり、父の弟で新権力者となった藤原道長から定子はいじめにあった。周囲の雰囲気は暗くて当然である。しかし、彼女は定子の弱みを悟られるような不遇の気配を一切外に気取らせず、あたかも日々は明るく、権力や余裕があるかのような強気、自由闊達を雄弁に発信するニュース・キャスター役を務めた。そう考えれば、第182段「中宮に、初めて参りたる頃」の出現の意味が分かる。枕草子の巻頭に来ても良い初出仕の思い出がなぜ終盤にさしかかるここにあるのかは不可解とされてきたようだが、清少納言は日々の仕事をしながら、まるでブログを書くように「枕草子」を制作しているのだ。サロンを取り巻く政治の雲行きの影響下で、無意識に書きたいタイトルが左右されることは、仕事をしながらブログを書く僕にとって日常茶飯事、「あるある」のひとつだ。文字数の多い同段は(定子の段はいつもその傾向があるが)、戦っている自分がただの女房ではなく、いかに中宮様ご一家の寵愛を受ける格別の身であるかを、我が身を滅ぼさんと企図する対抗勢力に示威する意図をもってここにあえて置かれたものに思えてならない。これに「ドヤ顔が不愉快」(第183段)、「地位ほど結構なものはない」(第184段)が続くのだからこの推理には結構自信がある(注:この2つは筆者の意訳)。

更に言うなら、僕自身も、そういうことを31年にわたるサラリーマン宮仕えを生き抜く過程で経験しており、「おらおら、私が誰かわかってんの?」が真意である第182段を読ませてしまうとこちらの窮状を察するわけだから、実は敵を利するだけになるということまで心配してしまう。全体の4分の3の道のりの時点で、もう彼女は実は盤石でないように見える。それを悟って、千々に乱れた心をおさめようと、「風」に投影したのが第185段「風は」(第185段)、「秋の台風が過ぎた翌朝は」(第186段)である。この2段を原文で読めば、乱れていたからこそ研ぎ澄まされた感覚の凄みが文字をはみだして横溢しているかのようで、読むこちらの心までざわつかせる。なんと人間くさい。島内裕子氏はこの2段を「枕草子」の中でも屈指の名場面とされている。その通りと思うし、さらに僕流にいわせていただくなら、この心象風景は、ドビッシーの「西風の見たもの」(Préludes 1 “Ce qu’a vu le vent d’ouest” )でなくて何だろうと思う。

そして、何より衝撃的なのは、最後の最後、第325段に至って、様相が一変することだ。われわれは唐突な「終結宣言」を突きつけられるのである。前段「見苦しき物」で平素と変わらずの舌鋒で鋭く人物批判を展開していた人がなぜ、というやりきれない残念さと心の不協和音を残して、枕草子はひっそりと幕を閉じる。この寂寥感は意図されたものか、後日の編纂過程において偶発したものか、正確な所はわからないのかもしれないが、いずれにせよ来るものが不意にやって来たという居心地の悪さは払拭できない。この終末の微かにシニカルでほろ苦い味をどこかで僕は知っているが、それが何だったを何時間も記憶から引き出せず、ついさっきにやっと思いあたって留飲を下げた。交響曲の開始とは誰も思わないグロッケンシュピールの「ミ」の音で始まり、打楽器だけが無機質なリズムを刻んで交響曲の終わりとは誰も思わないやり方で虚空に消えていくショスタコーヴィチの交響曲第15番だ。

著作物というものは、いかなる時代・形態・ジャンルのものであれ、書き手のモチベーションと読み手の需要があって初めて成立し、両者の多寡に応じて書物ならば「発行部数」が、ネット上の作品ならば「ページビュー(PV)」という数値が確定する。このメカニズムは経済学における需要曲線・供給曲線の交点で、市場における商品の価格と数量が決まるのと同じと考えてよいと思う。また、ネットの特性を加味し「PVは新作の投入数、頻度が高いほど需要が喚起されて増える」とどこかで聞いたことがあるが真偽は知らない(経験からは、そうかもしれないと思う)。清少納言は最終段で「他人に読まれたくなかった」と本音を隠して見せるが、定子を守ることで活躍の場を開拓し、自らの居場所も安泰にしようとするモチベーションがあったことは人間のありさまとして至極当然なことだと僕は思う。その動機は彼女の筆のすさびの端々に見え隠れするのだが、僕は「人としてなんと健全なことか」と思うのである。そうして彼女の白紙はどんどん文字で埋まり、その行為が「枕草子」への需要を自ら喚起、増幅していったと考えるのは自然だろう。

もうひとつ考えたことは、いくら聡明とはいえ、いち女房の身でこれほど自由闊達に、公達まで登場させて歯に衣着せぬ奔放な書きぶりを披露できたのは一条天皇の寵愛を最後まで受けていた定子あってだろうということだ。定子の人生は激動どころの騒ぎではない。道長と後継争いで激突した兄伊周のスキャンダル、没落して出家、そして復帰はしたが、対抗馬として娘・彰子を同格の中宮とした道長から受けた壮絶ないじめ。早世した定子は今なら死因が疑われたかと思うほどだ。いわば共作のようなものではないか。最終段の結尾で「評価されるはずのない私の書いた本が素晴らしいと評価されてしまった」と本音と卑下を交えてみせているのは、権力の後ろ盾をなくしたことで襲ってくるものを覚悟のことで、「自分の心の中まで覗きこまれ、あれこれ論評されたりするのはひとえにこの本が他人の目に触れたからであり、そのことだけが口惜しい」と綴ってラストの一文を終えている。しかし本音で口惜しいのは、そのことではなく、定子の死と共に「枕草子なるコンセプト」はもはやこの世に存立できなくなったことではなかったのか。白紙が尽きたという体裁をもって「終結宣言」を取り繕うフィクションには彼女のプライドと悔し涙が滲んでいるように思えてならないが、もうそれを書く必要もなくなったのだ。清少納言がどんな動機で書いたにせよ、天皇、そしてその御所である朝廷という空間なくしてそれは成り立たなかっただろう。

一般のこととして、アートの評価に政治的事情は斟酌されにくく、時と共に忌避されるバイアスがあるように思う。何故かは不明だ。人類共通の心の運びだろうか、このことは西洋でも同じで、アドルフ・ヒトラーは政治家兼画家であったがそうはいわれないし、彼がフェルメールとベックリンを愛して収集し、ワーグナーをプロパガンダに用いたことはできれば歴史から消したいようなのが趨勢だ。ショスタコーヴィチに至ってはスターリンなくして交響曲の5番や10番はああはならなかったから、本人は不服だろうが消そうにも消せず、後世はそれもひっくるめて評価することになっていく(真贋論争まであった「ヴォルコフの証言」などを思い起こされたい)。枕草子は明らかに後者に近く、しかも千年もの時を経ているから存分にバイアスが働き、背景にあった藤原氏の壮絶な権力闘争とは無縁の精神世界として解釈が固定しているように思える。しかし、権力とは冷酷なものである。負けた側の筆者が去った後にどうして枕草子が残り、あるいは宮中では消されたが焚書は免れたか。彰子が定子の息子を引き取って育てたことで両人に対立はなかったとされるが、天皇の息子は世継ぎとしてどちらも大事なのだ、中宮(正妻)ひとりとなったあかつきで、それは必然のことだろう。僕はリアリストなのでバイアス・フリーに読み解きたい。

宮仕えを辞めた後の清少納言の悲哀に心を寄せようにも、その後の足取りは不明であり、没落し、耳をそむけたくなるようなくだりが『古事談』に記されている。女の才はかえって不幸を招くという中世的な思想が影響したとの説があるが、現代ですらジェンダーは連綿と社会問題になっている。女性は名前すらない千年前の世にこれだけのことを成し遂げた清少納言に、僕はいち社会人として心からの畏敬の念を懐く。10才ほど若くてまだ女房業では足元にも及ばなかった紫式部が、腹いせだったのか政治的意図があったのか、なくもがなの悪口を2つ日記に書き残して女を下げているが、それほど清少納言は際立っていたわけだろう。最晩年は阿波国で過ごしたと伝承もあるがすべては闇の中であり、没年も墓所も不明だ。

ところがだ。千年の時を経るうちに、その書が国民的人気を得てしまうのである。世の中わからないというが、何事であれ、作者が放置しておいてこれほどプラス方向の想定外がおきることはそうざらにはない。新作投入はもうなかったのだから、その理由はひとつしかない。枕草子には、当時の誰にも見えてない、巨大な「潜在需要」があったのである。

定子の死後、それが朝廷の外に流布して写本が作られていくのが拡散のスタートだ。そのころ、不遇だった定子の身の上は宮中で知らぬものはなかったはずで、権勢を誇る道長の陰でシンパがたくさんいたことは想像に難くない。枕草子を守り、保存し、外部に流布させる動機を持った者は多くいたのではないか。浅野内匠頭のそれがいたようにだ。しかし、それは忠臣蔵という人口に膾炙する「物語」になって膨大な数のシンパを得たのであって、本来可哀想だった赤穂藩に同情が寄せられてのことではない。枕草子はそうした復讐譚の物語付きで流布したわけでもなく、やはり文学としての卓越性があってこその流布だったと思う。庶民の目にまでふれるようになったのは、江戸時代になって木版印刷によって出版されてからだ。注釈書の刊行も盛んになって王朝文学への理解が進み、「春曙抄」は江戸時代に最も尊重され、多くの人々がこれによって「枕草子」を読んだ。「春は曙、やうやう白くなりゆく山際すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」のインパクトは絶大だったのだ。この点について、国文学者・藤本宗利氏のとても興味深い説を見つけた。

「季節-時刻」の表現(春は曙など)は、当時古今集に見られる「春-花-朝」のような通念的連環に従いつつ、和歌的伝統に慣れ親しんだ読者の美意識の硬直性への挑戦として中間項である風物を省いた斬新なものである。

江戸時代初期に刊行された、古活字版

この説はまさしく「技法」に光をあてており、ワールドワイドなアートの進化論の地平に同作を位置づける試みと思う。斬新な技法に乗って、まさしく「美意識の革命」が行われたのだ。清少納言が意識して成したことではないかもしれないが、彼女の性格に起因するであろう文体の簡潔さ、ストレートな物言い、心地良いテンポのようなものが結果としてそれをもたらしている。単なる「朝」ではなく、「曙」として時刻の概念にスポットライトをあてたのはモネが「ルーアンの大聖堂をモティーフに制作した連作」でしたことであり、ドビッシーが交響詩「海」でしたことだ。かように、「春曙抄」の幕開けは非常に印象派風であり、「枕草子」執筆の冒頭にこれをぶつけて度肝を抜こうというのは、「春の祭典」の甲高いバスーンのハ音にこめたストラヴィンスキーの計略に共振しよう。

「枕草子」が国民的作品になるのは、単に面白いからでも、女性が書いたからでもない、一流のアートだからである。このたびの通読チャレンジでそう確信した。一般の読者にとって、著者がどこの何者かも、王朝の貴人たちの服装の品定めも、宮中の儀礼のあれこれも気苦労も、もっと言ってしまえば、春が曙だろうが夕暮れだろうが、ひとつも重要でない。読者が愛でたのは、独断と偏見であろうが何だろうが、決然と看破して判定を下してびくともしない清少納言の自由な精神のありさま、しなやかさ、潔さであろう。

皆さん、高校生に帰って、もういちど真っ白な気持ちで読んでみよう。

 

 

美しい。なんて美しい日本語なんだろう。西洋も中国も、いろんな所へ行かせてもらい、いろんな素敵な人とお会いして、すばらしい時間を過ごさせていただいた。でもこれを読むと、じーんときてしまうのだ。

そんな気持ちを国文学者・萩谷朴氏が、名文で代弁してくれる。

「次から次へと繰り出される連想の糸筋によって、各個の章段内部においても、類想・随想・回想の区別なく、豊富な素材が、天馬空をゆくが如き自在な表現によって、縦横に綾なされている」

「長い物」や「決めごと」に巻かれて生きる日本人にとってそれは、渇いたのどを潤す冷えたビールのように爽やかであったのだと思う。彼女が旧来の和歌が重んじる春夏秋冬、花鳥風月の価値観(決めごと)から外れたところに見出して、「いとをかし」と称賛して見せてくれた「新しい美」の目くるめく数々に楽しみを見出したのだ。たとえ退屈で鬱屈する時があったとしても、日々の現実世界に倦んでいない言葉を読めばそれを一掃する力が得られたのは、彼女が素のままで鎧を一切まとわず、感じたままを述べられる人間性の持ち主だからだ。人間が人間であるのは誰かを人間らしいと思ったときで、その時、その人も人間らしいのだ。彼女はそういう人間として愛されたのだと僕は思う。千年前のそれが文字を通して、文学として現代人に伝わる。日本人であるのは、なんて素晴らしいことだろう。

日本人に砒素のように効くLGBT法

自民党に漂う「オワコン感」の真因を解く

「今だけ金だけ自分だけ」の議員は落とせ

 

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世界のうまいもの(15)《日本橋そばよし》

2022 SEP 1 18:18:20 pm by 東 賢太郎

人間ドックで血糖値が高い。いつも高めなのだが「運動してくださいね」で終わっていて、真面目に考えたことはなかった。それが今年はその指導が消え、「近所の医師にクスリもらいましょう」に変わった。運動なんてどうせやらないなと匙を投げられたらしい。

そこで近所の医院に行く。女医さんだ。数値をご覧になって「このぐらいはお相撲なら序の口です、私は薬はなるべく使わないので」とひと口上があり、まずは食事のアドバイスを受けることになった。家内といっしょに血糖値のスパイク(一気に上がること)を避ける食べ方を教わり、よし頑張ろうという気になったが、「早喰いは控えるように。ゆっくりとよく噛むように」という指示も出た。

そのつもりはないが早喰いかもしれない。証券マンの習性だ。それらしい生活をしたのは支店にいた2年程度しかないが、そこでイロハを叩きこまれたから「昼飯は15分」が体内時計にインプットされている。大阪はさすが商売の街だった。注文すると1,2分で出てくる飯屋があって、先輩方とそこで10分で済ませて5分のコーヒータイムを残すという技が身についた。東京にそういう処はなさそうでそのペースでいけるファストフードはマックか立ち食いソバになろう。

先日のこと、所用でひとり日本橋へ行った。もう5,6年はご無沙汰だろうか。当の橋のたもとは再開発で様変わりして首都高の高架も消えるらしい。野村の「軍艦ビル」周辺は三方ぐるりと更地の工事現場でびっくりだ。たしかこのビルは文化財か史跡だったかでそのまま残すとは聞いたが、野村も当面は移転して中はもぬけの殻だ。思い出深いビルでありどこか寂しい。

昼すぎだ。さてどうしよう。この辺から神田、人形町、浅草あたりとくると無性に食べたくなるのが蕎麦だ。江戸っ子だ、目がない。蕎麦は国民食だが、百万都市江戸では屋台が出る人気だった。当初は一杯が6文、後に16文になるが、今のお金で凡そ100~250円というところ。各藩から武士が単身赴任し、気の短い気質ができたこともあったから茹で上がりが早いのも良く、これと江戸前の寿司屋は世界初のファストフード店だったんじゃないだろうか。

さてこのあたりでとなると僕は「やぶ久」ってことになるが、あそこへ行くといつもカレー南蛮の誘惑に負けてしまう。ちょっと今は暑苦しい。立ち食いソバがいい。それと蕎麦屋は別物であるが、日本橋の空気を吸ううちに「あの日に帰りたい」のモードになっていたこともある。

向かったのは三越本店に近い「そばよし」。鰹節問屋直営で長い行列ができる店だがランチタイムは過ぎていて2,3分待ちで入れた。ここは暖かい天玉そばと相場が決まっている。値段を見ると500円である。ちょっと値上げしたかなと思うが光熱費も原材料費も上がっている昨今はやむない所だろう。

座席について周囲を見回すと、コロナ何するものぞでぎゅー詰めである。3,40代がほとんどで、白髪の老人が2,3人、皆さんこの辺のお勤めで遅めの昼飯というところだろうか。ご機嫌でソバをすすっているとすっかり溶けこんでもうこの界隈の住人だ。大手町組だったので軍艦ビルに通ったのは1,2年だが、日本橋は心の故郷だったということをこの日は逆に知った。

日本食というものはやはり江戸時代からあるものがうまい。そばつゆは昆布と鰹節が出汁であり、動物性油分を使わず醤油だけでシンプルにして深みのあるこの味はさすがの中国にもない。江戸町民の舌が3百年かけて産んだ独創であって、私見においては世界有数の美味であり、ゴッホやドビッシーまで魅了した浮世絵の洗練すら思わせると考えている。

500円の食事で済ます人間をグルメ(gourmet)と呼ばないのはフランス人の怠慢であると言いたいが、これはワンコインの方がおかしい、円の価値の問題なんだろうかと思わないでもない。しかし海外にない食はマックのパリティが使えない。畢竟、和食でグルメするには円は強く、資源や小麦を買うには弱いという結論になる。

半分ほど食してふと気がついた。席は狭い、ほんとうに。隣と肩がくっつくぐらいで、ざっとみるに我がテーブルの専有面積はタテ30cm、横40cmというところである。G7国の首都でこんな閉所で食ってるのは日本だけだろう。労働生産性はいわれるほど悪くないんじゃないかという考えもよぎるとだんだん我にかえってきた。

こりゃ三密だ。長居はいけないぞ、油断は大敵である。こういう時なのだ、時間はスマホ頼みで腕時計というものをしなくなり、何かのついでに反射的に時刻が目に入ることがなくなったことを気づくのは。体内時計は40年たっても正確さを保って作動しているようで、店を出てスマホを確認すると所要時間は15分であった。「早喰い」はなおりそうもない。

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「寄らば大樹の陰」は全く安心・安全でない

2022 AUG 20 17:17:27 pm by 東 賢太郎

野村とか昔の関係者がけっこう読んでますという。勉強になりますとか嘘つけと思うが、よほどのクラシック好きか東賢太郎で検索した人しかひっかかりにくいだろうから、PVの数字が本当ならそれも本当かなとは思う。こいつくたばったと思ったらまだしぶとく生きてやがってというところだろう。

証券業界でクラシック好きは見たことないし本当の野球好きも知らない。ジャンルが何であれそういう性質の人が少ない。「金融は浅いんです人が、そんなのばっかりですよ」(某公認会計士様談)。だから言うまでもなく、つまらないのである一言でいえば。「麻雀好きでなくてもいったんメンツに入ったら抜けられないよね」(某弁護士様談)。そもそも子供の頃から口数少なく、静かにアンドロメダ星雲の惑星系の想像でもしながらクラシック音楽をきいていたい僕は金儲けなんて本来全然興味ない。なのに長らくここにいることをこの説ほどシンプルに解き明かすものはない。

僕はテレビは見ないし新聞も見出しだけだ。情報の8割はネットからだが受け身でなく能動的に検索する方が多い。それで済んでしまうのは世の中の神羅万象に関し、宇宙物理から宗教から哲学から歴史から文化から芸術から猫の心理に至るまで、正しいかどうかはともかく自分なりの統一原理を持っているからだ。日々何がおきようとそれにあてはめて説明でき、自分が納得できる限りは変える必要を認めない。だから頑固といわれようと、必要ないことをする時間はない。人生一寸先は闇であるが、どんなショッキングな事件がおきようと原理から逸脱がなければ「あっそう」で終わり。その分だけ時間を他に使うことができるし、精神的にも気楽な人生となる。

せっかく書いたのでもう少しご説明する。思考というのは原理(骨組み)が必要である。それのない思考とは刹那の感情、思いつきを言うに過ぎず、カラスにもあることが知られている。原理は百科事典にもウィキペディアにも載ってない。なぜなら体系化された固有の思考回路だから自分で脳内に「造成」しないと絶対にできない。それを読書で補うことは悪くはないが、他人の借り物で思考することは洗脳であり、万巻の書を読破した読書家は思考回路があるなんてことは全然ないし、数学の訓練なしにそれができることはあり得ない(ショーペンハウエルは読書は馬鹿になるからするなといっている)。百万の賢人の意見を知っていても、馬鹿な人は相変わらず馬鹿なのである。

僕の原理は帰納法で導いている。以前述べたが僕はフランシス・ベーコン、ジョン・ロックのイギリス経験論者である。何故そうなったかというと、自分の眼で見た物しか信用できないという極めて慎重で臆病な性格だからだ。世の一般論を原理とみなす演繹法という考え方は、「一般論が原理なのは世が広く認めるからだ」という信じ難い理由だけで信じるなどアホでないかとしか考えない僕にとってはナンセンスだ。ではなぜ帰納的に僕の原理が成立するか、根拠となる実例は何か示せといわれても、それは経験的に会得した(自分の眼で見た)事実の数々であり、僕が位置していたような立場で味わってない人にはわからない。いくら言葉を尽くして親身になって説明しても、「一般の『一般論信奉派の人』」には理解できない(一部特例の人はいる)、なぜなら、できないから彼らは一般論信奉派になるような性質の人なのであって、よってすべきことだけ明示してやってもらった方が効率がいいというのが僕の経験則であって、困ったことに、このこともまた言葉で説明してもわからないというマトリューシカ構造になっているのである。帰納法は最初の反証がでるまで正しい。その原理にこそ僕は忠実だ。

先日にSTさんが下さった興味深いコメント(8/10/2022)に以下のように返答したが、そのまま再録する。これは大西洋憲章を起点とした現在に至る国際政治を統一して説明する僕の原理的史観の「あらすじ」をざっくり書いたものだ。それでも、いま巷で大騒ぎになっている某時事問題のようなことがおきているのはこの史観からは自明なことはご理解いただけるのではと思うからお読みいただければと思う。安倍さんの事件から突如として始まったこの騒動は、しかし、僕にとっては「あっそう」で終わりだ。まったくどうでもいい。今後どうなるかまで凡そ透けて見えてくるということもわかる人にはわかってもらえるだろうし、かような観察を複合することをもって僕は株式や為替相場の先を読んで、自分のリスクを取って投資することを業としており、ソナーという会社が12年存続できるだけの「的中率」が実証されていると書いて噓にはならないと思う。

お断りするが、以下が正しいとは微塵も思ってはいない。自信もないし僕の理解力が足りず誤りを含んでいるかもしれない。しかし、それでも新事実を当てはめて齟齬がない限りはOKなのだ。あくまで仮説というものは仮説以上でも以下でもなく、原理として未来の説明力がある限りにおいてのみ価値があるのである。大事なポイントは、反証があったら原理性は消えるから即座にポジションを解消し、変更することだ。これを僕は何度もしているが、それを見て東さんは朝令暮改だという部下に説明をしようというモチベーションが生じたことは一度もない。前稿に大きな組織が有利な時代は終わったという趣旨のことを述べた理由は、解消・変更手続きは組織の規模に相関して複雑化する傾向があることが知られており、近未来すら予見可能性が低減してきている現代において、「大きいことはいいことだ」「寄らば大樹の陰」として安心・安全とされてきた大組織ほどサステナビリティが危ういということをお示しして若者の未来への指針にしていただきたいからだ。

以下がコメント

大西洋憲章はUK、US両国が英米国際主義のヘゲモニーの法的体裁をとった固定が主意ですが、欧州の眼前の脅威であるナチを潰すためUSを引き込む意図が混入しています。逆に中立国USは自らの手を汚さず武器輸出をしたく、主意は貿易、海洋の自由を振興する民族自決でしたが、これは植民地立国UKにはよろしくない。しかし同床異夢の両国が一緒に見られた唯一の夢がありました。

USは1929年の株価大暴落から財政はぼろぼろでルーズベルト不況といわれてました。WW1で欧州各国に貸した金は回収する必要があり、対岸の火事に追い貸しをして武器を売りつける手はもうありません。だから中立主義をかなぐり捨てて自分もWW2に参戦して「莫大な軍需を創出する作戦」をとったのです。ナチは民族自決主義ですからね、ルーズベルトは矛盾してます。あいつはやり過ぎって裁定は法の世界にはないんです。

そうなるとUSの国内世論は割れますね。息子が死ぬかもしれない。予算が議会を通らないかもしれない。そこでナチのマブダチである日本をABCD包囲網でイジメてキレさせ、ハワイを空襲させるという邪悪な腹案の存在はあり得たと思います。日本の中国介入(満州国設立)は民族自決主義に反するからイジメは正当化され筋は通るからです。ここまで読んで憲章をもちかけたとするとチャーチルは結果的にUKの利益のために300万人も日本人を殺した札付きのワルですが、国際政治はこんな奴らが跋扈するのは当たり前でお人よしの首相なんて登場人物はいないんです。

チャーチルは憲章の会談に戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」で赴きましたがルーズベルトは「なぜお前なんだ、ジョージ6世を出せ」とは言わないんですね。これぞ市民革命の結果ですね。国王がいないUSはフランス革命でできた国です。人口の4分の1はエヴァンジェリカルですからね、聖書に手を置いて誓う人達で、離婚もLGBTも人工中絶もだめで神様がしてないマスクなんかできるかという。だからそれが支持母体のトランプが強いんです。離婚したいからカソリックやめようという宗派とは根本的に違う筋金入りですね。

だから英米国際主義のヘゲモニーってのはキリスト教連合体としてはいい加減なんです。欧州に戦費を貸したのはユダヤ資本だしヒトラーもキリスト教徒だし。しかし、非西欧のキリスト教化作戦では一致したと思います。ザビエルやコロンブスの時代からやってることです。最大の難物はイスラムですがこれは共通の聖書世界ではある。まったく異質な難物は日本とインドと中国です。中でも日本です。なぜか。皇室があるから。「ジョージ6世を出せ」と言えないのです。首相のTrust me!が嘘と判明しても天皇のTrustは消えない。これ大事なんですね。

マッカーサーは天皇を置いたまま対共産防波堤にする決断をしましたが、一方で日本は難物のままになった。だからCIAはロイヤルがない隣国にいま話題の勝共(共産に勝つ)教団を作ってキリスト教化前線基地とし、皇室のほうは婚姻によって中からそれを進めようとしたでしょう。隣国は総人口の約3割がキリスト教(最大宗教)となりそれに成功してます。まあ安倍家も自民党も出自からしてそういうことだと考えると分かりやすいのですね。USも最大宗教勢力エヴァンジェリカルは共和党支持だし選挙協力も献金もバンバンしてるし、このことと憲法の政教分離は違うというのをわかってないでTVで四の五の言ってるアホな人が多いですね。ちなみにウチは真言宗大谷派で、以上のことは岡目八目にすぎません。

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親ガチャの功罪(その2)

2022 AUG 18 0:00:32 am by 東 賢太郎

人生は祭りだってイタリアの映画監督フェデリコ・フェリーニは言ったんだ、俺もそう思うね。望んでどうなるもんでもない、祭りと思ってれば無理に頑張んなくなるしいつ死んでもケリつくし

あれっ、そういえば、安倍さん同い年でしたっけ

はい、あっちは29年。ショックだよ、同期だったってだけなんだけどね

わかります、自分もありますよ同期には意識が

30年生まれは郷ひろみもそうだ、彼には負けてるな

どうしてですか

だってカッコいいだろ、それって俺の世代の男の絶対的ベンチマークなの。それで負け、収入も負けだよ。完敗だ

そうか、カッコいいとイケメンは違うんでした

もちろんよ。冴えない奴は最低、俺なんかいつでも気持ちはカッコよくいたいね。ゴッド・ファーザー、ドン・コルレオーネ路線でね

ヤクザもの好きですもんね(笑)

うん。ならここは筋通してもらいますよぐらいは平気で言ってるし

けっこうビビります

基本、静かに言葉でいくんでね。弁護士の鼻先で「これ何でしたっけね」ってビリビリって契約書破いたし

う~ん、ナニワ金融道だ

本気で怒ってたんだろうねよく覚えてないけど。でも鬼軍曹みたいなのは嫌いなんだ、机ぶっ叩いて怒鳴ったり、カッコ悪いよね。俺、成城学園だからさ、やっぱ品格ってのはね(笑)

でも証券会社の支店はどうだったんですか、当時は特に激しかったんじゃ

そりゃあもう。営業場で灰皿砕け散ったし鉄拳も飛んだ。だからあとで「ナニワ金融道」読んだらあるあるの嵐でさ(笑)。でも俺はなぜかそういう風にはならないの。2年半支店にいたけど楽しかったね。送別会、居酒屋で大勢でワイワイやってくれて、最後にスピーチしたら全員泣いて俺も泣いて、そんなんだった

どうして入社されました?

そういうとこだって知らなかったの(笑)。生きのびれたのはお客さんのおかげだよ。世の中にこんな凄い人がいるのかってね、他じゃ絶対にわからなかった。あの2年半のお釣りでその後の人生あるようなもんだよ

ブログで読みました、あの鉄砲屋事件のことですか?

そう、例えばあの任侠の親分ね、俺、お宅に夜中の2時までいて真剣に殺されると思ったからね、すげえなこの人ってなっちゃったよ。目の前であれ見たらヤクザ映画なんて可愛いくってさ

とても成城と思えません(笑)

でもね、そういう空気の中で毎日を送るってのは若い時は大事なんだ。先輩だろうが同じ釜の飯ですっぱだかでつき合ってるんで、みんなお互いの酸いも甘いも実力も知っててね、そういう集団じゃないとできない質の仕事ってあるよ

例えば?

チームプレーだから一人へこむと誰かが埋めなきゃいけない。よし俺がってやるでしょ。俺がへこんだ月は心配すんなって先輩がね、絶対に言っちゃいけないんだよ、目だけでさ。そこがいいだろ。こういうチームはスポーツでも強いんだ

ちょっと軍隊っぽい感じですかね

戦争は行ってないから知らない。仕事なんて命取られないからね、戦争をそんな軽々に語っちゃいけないよ。でも、俺、仕事で何十回も韓国行ったよね、で、あっちはみんな30前に軍隊2,3年行ってるの。だから鍛えられてわきまえてるんだね、俺みたいな男の前に出るといい奴なんだよこっち日本人なのに。なんだこのクソガキみたいなの見たことないね

やばい!耳が痛いです(笑)

そういうのってね、上司だけじゃないんだよ、お客さんも見てるの。わきまえなさい(笑)

ところで、これからの案件はどうですか?

あるよ。不思議なもんでね、12年潰れないでやってるとね、そういうのがいくらか信用になるんだろうね

ソナーは投資会社じゃないコンサルっておっしゃってましたが

最初はそうしようと思ってたよ。ファミリーオフィスで始めてね。でもお客さんは皆さんが立派な方で人間として奥が深いし、資産家だからいい投資機会はききたいの。こっちは自分が投資するためにいつもソーシングしてるでしょ。だから見つけたら紹介してねって、それってコンサルだよね

間口は広げないんですか、客数を増やすとか

だって社員9人しかいないんだよ、無理でしょ。ひとりふたり雇ってもサービスの質は大きくは上がらない、みんなレベル高いから。だからお客さんも増やさない。各人のサービス落ちるからね

でももったいなくないですか、案件があるんだったら

大きくして売上あんまり変わらないと全員給料が減るでしょ。優秀な人はやめるよ。図体デカいと変わり身も遅くなってね、コロナみたいな環境変化についてけないから益々売上増えない。大企業ほどヤバいね、白亜紀の恐竜みたいに

たしかに規模の利益ってコトバ、聞かなくなりました

そうねでもね、実は日本は前からそんなのなかったの、経済学的な意味ではね、規模じゃなくって競争のない利益だったんだよ、あったのは

カルテルみたいな?

そう、資本関係なしの親方日の丸クラブね、そこにいれば利益があってよそ者は入れない。長い物にまかれてりゃ楽。「ごりやく」っていうよね、神仏のお恵みのこと、漢字は利益でしょ、親方っていう神仏にたかってりゃ「りえき」が出るの、税金が降ってくるからね

そうか昭和では土建屋国家っていわれましたもんね。もうないですが

そんなことないよ、去年のオリンピックなんて堂々たるそれだったろ

そうか、今日逮捕者が出ましたね

まあしょうがないとこもあるわけよ、ああいうエンタメ、イロモノ界ってのはね、東大出の役人に絶対できないからさ、足元見てばっさり抜かれる。だからどうせ抜かれるんならどこにさせれば国民が納得するかって、ならばあそこは親方日の丸クラブのメンバーだから安心だろうってなるわけ。うまいね。で、ワルの政治家はその構図においしい利権が透けて見えてくるわけよ。まあその位のタマじゃないと政治なんてできないけどさ

IOCのお歴々なんて貴族づらこいて、儲けさせてもらってあたり前みたいなのばっかりですもんね、納得さすのってカネいったでしょうね

あいつらはクーベルタンとかオリンピアンの誇りも商材だって割り切った連中なの。タレントの出演料いらない興行だからな、原価ゼロな商品をスポンサー、テレビに競争させて値を吊り上げて丸儲けさ、こんなのは誘致どころかボイコットしてアテネに永遠にお返しすりゃいいんだよ。で、魚心に水心ってやつでさ、どうしてもやりたかった安倍さんと菅さんと森さんがね、本社ビル売るほどピーピーだったあの会社しかないでしょ、ほかに誰ができるのってやっちゃって、それでこの時勢に最高益なのよ。クラブの仲良しメンバーだってだけで株も上がって3%も配当できるんだ、凄いよねこのビジネスって。事業だから儲けるのはいいよ、大したもんだと思う。でも本当の問題はそこじゃないんだ。

そうか、税金にたかれれば権力もカネも無競争で手に入って勝ちってことですね。平等な競争環境なんて潰した方がいいんですね

ご名答だ。つまりね、国のてっぺんから「親ガチャ」になってるの。そこに生まれて資産があってちょっとイケメンだったりすりゃあね、どんな馬鹿息子でもはじめっから競争ないわけ。わかる?東大なんか行かなくていいの。そういうのは家臣団っていうか働き蜂っていうかね、御用学者もそうね、とにかく長い物に巻かれて安心安全に生きたい人達にやらせときゃあ行政サービスは見た目だけは質がいい。国民はそれで文句いわないし、あとはマスコミ手なずけとけば身分は安泰。アホでもオッケーさ

そうか、我々世代が親ガチャに見えてるのって、その投影なんですかね

国ごとそうなんだから自然に空気がそうなるんだよ。隠せないねこういうのは。で、お母ちゃんが幼稚園児の息子の尻たたいてあんた東大はいりなさいってね。なぜ?日本で一番長い物だからさ。できればそれに巻かれたい、謹んでお巻きいただきたいってね。いい、あんた、それが得な人生なんだよ、安心安全なんだよって。そうでもないんだよね現実は。その長い物が傾いてきたらそういう子は優秀でも若くして人生終わるよ、だって他のオプション何も持ってないからね

冷や汗です。はい私も想定してませんでした

この世の中の勝者はね、親ガチャ大当たり組に生まれた奴、何も苦労してません、何も考えてませんのボンだよ。寝てても勝ちの貴族階級ができちゃった。若者がガチャって自嘲して人生諦めるなんてとんでもない。だって政治家の資産は地元の地盤、票田だよ、貯金ありませんって関係ねえのそんなの。地盤、票田ってバランスシート載らないし、親父が死んでも相続税1円もかかんないから。だからIOCのバッハとかあいつらエセ貴族と臭いが近いんだよ、ぜったい仲良しになってはくれないけどね、欧州のローマクラブからみりゃただの田舎もんだから。でもこいつらカネもってくるなってね、金儲けだけならパートナーシップ組めるわけ。世界の常識だよそんなの

どうなるんでしょうかニッポン

知らない。Who knows? 妙齢の皆さんはもう人生お祭りで楽しくやればいいんじゃないですか。俺はそれしか考えてないよ。でも30代の君らは国と共に沈没するわけにはいかないよね。貴族階級なんてわけわからん中抜きの中二階はいらんよ、皇室があるんだからそれを立派な形で守ってさ。そう思う人は命かけて政治家になってください。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

「親ガチャ」の功罪

2022 AUG 14 20:20:29 pm by 東 賢太郎

「親ガチャ」って親は選べないってことらしいね。新語大賞だって?

そうです、それで人生決まる時代に生まれちゃったっていう感じですね

こういう会話が30代の人とあった。

そうか、俺の親はいたって普通だよ。サラリーマンの団地族だった。だから親ガチャは当たりでもはずれでもないよ

いや、当たりです、銀行員でしょ、それだけで大当たりなんですよ

そうね、子供の頃はね、でも社会人でこうなるのに親の助けは借りてないよ

高校ぐらいですか、そうなったの

ぜんぜん。俺にとって高校は暗黒時代なの。できればなかったことにしてほしい

どうしてですか?

野球だめで駿台の公開模試うけたら偏差値42だ(笑)。わかる?

へ~、頑張ったんですね

うん必死にね。でもこのことに親は出てこないよ

東さん、それ当たり組だから言えるんです、ずるいんですよ我々には

なんで?みんな1回ガチャやって平等だろ

はい、でも競馬でハズレだと悔しくて馬券破るでしょ(笑)

う~ん、馬ならねえ、でも人生レースの馬は自分だろ

そうです。だからこそ、足が遅いのは親のせいだって理屈になるんです

なるほど、たしかに俺もそう思ったよ、けど走ってみるとなんとかなった

東さんがそう思ったのは単なる当たり馬券の見落としです

なかなか手厳しいね(笑)。人生、馬券で決まるの?ならば努力はいらないの?

みんなしてます。でもそれだけで成功できない時代なんです、当たり馬券ないと

じゃあ逆に成功した人はみんな馬券のおかげかい?努力も苦労もしてないの?

いえ、して報われる人と報われない人がいるんです。それも親で決まりです。親の地盤なしで議員なれますか?それも親だし足が速い遅いも親です

そうか、でもその理屈だと美女、イケメンこそ人生の勝ち組ってならないか?寝てても勝ちだからね

それはそうです、親が当たり組ってそういうことですから

おかしいね、顔に努力はないだろ?

はい、生まれてくるのに努力はないんです、だからガチャに喩えてるんです

なるほど、とするとね、「ウチの子が泣くので運動会の順位やめて」と同じ?

それ、モンスターペアレントの話ですね

そうだよ。だったら走らせて足鍛えろよって。皆と一緒に努力してさ

いえいえ、東さん、それ体育会ですよ昭和の。いまどきパワハラ言われますよ。

だっておかしいだろ。かけっこ努力した子は評価しないでイケメンは寝てても評価するのかい?キミが怒ってるのって、まさにそれじゃなかったの?

怒ってはいないんです、それ世の矛盾ですよね、それに対する半ば自嘲です

演歌の「どうせ私は・・・」みたいだね、長い物に巻かれて居場所は確保してる

開き直りって強いんです、ガチャは親より上ってニュアンス出そうとしてますね

まあいいけどさ、そんなの強がってるくらいなら勉強した方が早くねえか?

しないんです。既存の競争から開放してくれる理屈が親ガチャなんで

そうか、いくら負けても仲間うちじゃ親のせい社会のせいだもんな、楽は楽だ

東さんの高校ドツボの時にあればよかったですね

そうだねえ。だったら俺、高校中退してたな。野球やりに学校行ってたからね

どうなってましたかね?

う~ん、板前かな、料理はね本気でやったらすごいよ。映画監督もよかったな

うわっ、そっち見たかったですね

おい、なんか悔しくなってきたよ

僕は若い人とメシ食べてざっくばらんにこういうしょうもない話するのが大好きだ。それで最後は「さすが若いですね、67なんて見えませんね」と持ち上がって気持ちよく帰る。おかげでストレスがあんまりたまらない。そう、これって、往時はクラブでお姉さんに囲まれてしてたんだ。そういえば親父も施設に入って最期まで若い看護師さんたちにかまってもらってた。それで97まで生きたのかな。だったらこれは親ガチャ当たりだ。

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