「寄らば大樹の陰」は全く安心・安全でない
2022 AUG 20 17:17:27 pm by 東 賢太郎
野村とか昔の関係者がけっこう読んでますという。勉強になりますとか嘘つけと思うが、よほどのクラシック好きか東賢太郎で検索した人しかひっかかりにくいだろうから、PVの数字が本当ならそれも本当かなとは思う。こいつくたばったと思ったらまだしぶとく生きてやがってというところだろう。
証券業界でクラシック好きは見たことないし本当の野球好きも知らない。ジャンルが何であれそういう性質の人が少ない。「金融は浅いんです人が、そんなのばっかりですよ」(某公認会計士様談)。だから言うまでもなく、つまらないのである一言でいえば。「麻雀好きでなくてもいったんメンツに入ったら抜けられないよね」(某弁護士様談)。そもそも子供の頃から口数少なく、静かにアンドロメダ星雲の惑星系の想像でもしながらクラシック音楽をきいていたい僕は金儲けなんて本来全然興味ない。なのに長らくここにいることをこの説ほどシンプルに解き明かすものはない。
僕はテレビは見ないし新聞も見出しだけだ。情報の8割はネットからだが受け身でなく能動的に検索する方が多い。それで済んでしまうのは世の中の神羅万象に関し、宇宙物理から宗教から哲学から歴史から文化から芸術から猫の心理に至るまで、正しいかどうかはともかく自分なりの統一原理を持っているからだ。日々何がおきようとそれにあてはめて説明でき、自分が納得できる限りは変える必要を認めない。だから頑固といわれようと、必要ないことをする時間はない。人生一寸先は闇であるが、どんなショッキングな事件がおきようと原理から逸脱がなければ「あっそう」で終わり。その分だけ時間を他に使うことができるし、精神的にも気楽な人生となる。
せっかく書いたのでもう少しご説明する。思考というのは原理(骨組み)が必要である。それのない思考とは刹那の感情、思いつきを言うに過ぎず、カラスにもあることが知られている。原理は百科事典にもウィキペディアにも載ってない。なぜなら体系化された固有の思考回路だから自分で脳内に「造成」しないと絶対にできない。それを読書で補うことは悪くはないが、他人の借り物で思考することは洗脳であり、万巻の書を読破した読書家は思考回路があるなんてことは全然ないし、数学の訓練なしにそれができることはあり得ない(ショーペンハウエルは読書は馬鹿になるからするなといっている)。百万の賢人の意見を知っていても、馬鹿な人は相変わらず馬鹿なのである。
僕の原理は帰納法で導いている。以前述べたが僕はフランシス・ベーコン、ジョン・ロックのイギリス経験論者である。何故そうなったかというと、自分の眼で見た物しか信用できないという極めて慎重で臆病な性格だからだ。世の一般論を原理とみなす演繹法という考え方は、「一般論が原理なのは世が広く認めるからだ」という信じ難い理由だけで信じるなどアホでないかとしか考えない僕にとってはナンセンスだ。ではなぜ帰納的に僕の原理が成立するか、根拠となる実例は何か示せといわれても、それは経験的に会得した(自分の眼で見た)事実の数々であり、僕が位置していたような立場で味わってない人にはわからない。いくら言葉を尽くして親身になって説明しても、「一般の『一般論信奉派の人』」には理解できない(一部特例の人はいる)、なぜなら、できないから彼らは一般論信奉派になるような性質の人なのであって、よってすべきことだけ明示してやってもらった方が効率がいいというのが僕の経験則であって、困ったことに、このこともまた言葉で説明してもわからないというマトリューシカ構造になっているのである。帰納法は最初の反証がでるまで正しい。その原理にこそ僕は忠実だ。
先日にSTさんが下さった興味深いコメント(8/10/2022)に以下のように返答したが、そのまま再録する。これは大西洋憲章を起点とした現在に至る国際政治を統一して説明する僕の原理的史観の「あらすじ」をざっくり書いたものだ。それでも、いま巷で大騒ぎになっている某時事問題のようなことがおきているのはこの史観からは自明なことはご理解いただけるのではと思うからお読みいただければと思う。安倍さんの事件から突如として始まったこの騒動は、しかし、僕にとっては「あっそう」で終わりだ。まったくどうでもいい。今後どうなるかまで凡そ透けて見えてくるということもわかる人にはわかってもらえるだろうし、かような観察を複合することをもって僕は株式や為替相場の先を読んで、自分のリスクを取って投資することを業としており、ソナーという会社が12年存続できるだけの「的中率」が実証されていると書いて噓にはならないと思う。
お断りするが、以下が正しいとは微塵も思ってはいない。自信もないし僕の理解力が足りず誤りを含んでいるかもしれない。しかし、それでも新事実を当てはめて齟齬がない限りはOKなのだ。あくまで仮説というものは仮説以上でも以下でもなく、原理として未来の説明力がある限りにおいてのみ価値があるのである。大事なポイントは、反証があったら原理性は消えるから即座にポジションを解消し、変更することだ。これを僕は何度もしているが、それを見て東さんは朝令暮改だという部下に説明をしようというモチベーションが生じたことは一度もない。前稿に大きな組織が有利な時代は終わったという趣旨のことを述べた理由は、解消・変更手続きは組織の規模に相関して複雑化する傾向があることが知られており、近未来すら予見可能性が低減してきている現代において、「大きいことはいいことだ」「寄らば大樹の陰」として安心・安全とされてきた大組織ほどサステナビリティが危ういということをお示しして若者の未来への指針にしていただきたいからだ。
以下がコメント
大西洋憲章はUK、US両国が英米国際主義のヘゲモニーの法的体裁をとった固定が主意ですが、欧州の眼前の脅威であるナチを潰すためUSを引き込む意図が混入しています。逆に中立国USは自らの手を汚さず武器輸出をしたく、主意は貿易、海洋の自由を振興する民族自決でしたが、これは植民地立国UKにはよろしくない。しかし同床異夢の両国が一緒に見られた唯一の夢がありました。
USは1929年の株価大暴落から財政はぼろぼろでルーズベルト不況といわれてました。WW1で欧州各国に貸した金は回収する必要があり、対岸の火事に追い貸しをして武器を売りつける手はもうありません。だから中立主義をかなぐり捨てて自分もWW2に参戦して「莫大な軍需を創出する作戦」をとったのです。ナチは民族自決主義ですからね、ルーズベルトは矛盾してます。あいつはやり過ぎって裁定は法の世界にはないんです。
そうなるとUSの国内世論は割れますね。息子が死ぬかもしれない。予算が議会を通らないかもしれない。そこでナチのマブダチである日本をABCD包囲網でイジメてキレさせ、ハワイを空襲させるという邪悪な腹案の存在はあり得たと思います。日本の中国介入(満州国設立)は民族自決主義に反するからイジメは正当化され筋は通るからです。ここまで読んで憲章をもちかけたとするとチャーチルは結果的にUKの利益のために300万人も日本人を殺した札付きのワルですが、国際政治はこんな奴らが跋扈するのは当たり前でお人よしの首相なんて登場人物はいないんです。
チャーチルは憲章の会談に戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」で赴きましたがルーズベルトは「なぜお前なんだ、ジョージ6世を出せ」とは言わないんですね。これぞ市民革命の結果ですね。国王がいないUSはフランス革命でできた国です。人口の4分の1はエヴァンジェリカルですからね、聖書に手を置いて誓う人達で、離婚もLGBTも人工中絶もだめで神様がしてないマスクなんかできるかという。だからそれが支持母体のトランプが強いんです。離婚したいからカソリックやめようという宗派とは根本的に違う筋金入りですね。
だから英米国際主義のヘゲモニーってのはキリスト教連合体としてはいい加減なんです。欧州に戦費を貸したのはユダヤ資本だしヒトラーもキリスト教徒だし。しかし、非西欧のキリスト教化作戦では一致したと思います。ザビエルやコロンブスの時代からやってることです。最大の難物はイスラムですがこれは共通の聖書世界ではある。まったく異質な難物は日本とインドと中国です。中でも日本です。なぜか。皇室があるから。「ジョージ6世を出せ」と言えないのです。首相のTrust me!が嘘と判明しても天皇のTrustは消えない。これ大事なんですね。
マッカーサーは天皇を置いたまま対共産防波堤にする決断をしましたが、一方で日本は難物のままになった。だからCIAはロイヤルがない隣国にいま話題の勝共(共産に勝つ)教団を作ってキリスト教化前線基地とし、皇室のほうは婚姻によって中からそれを進めようとしたでしょう。隣国は総人口の約3割がキリスト教(最大宗教)となりそれに成功してます。まあ安倍家も自民党も出自からしてそういうことだと考えると分かりやすいのですね。USも最大宗教勢力エヴァンジェリカルは共和党支持だし選挙協力も献金もバンバンしてるし、このことと憲法の政教分離は違うというのをわかってないでTVで四の五の言ってるアホな人が多いですね。ちなみにウチは真言宗大谷派で、以上のことは岡目八目にすぎません。
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親ガチャの功罪(その2)
2022 AUG 18 0:00:32 am by 東 賢太郎
人生は祭りだってイタリアの映画監督フェデリコ・フェリーニは言ったんだ、俺もそう思うね。望んでどうなるもんでもない、祭りと思ってれば無理に頑張んなくなるしいつ死んでもケリつくし
あれっ、そういえば、安倍さん同い年でしたっけ
はい、あっちは29年。ショックだよ、同期だったってだけなんだけどね
わかります、自分もありますよ同期には意識が
30年生まれは郷ひろみもそうだ、彼には負けてるな
どうしてですか
だってカッコいいだろ、それって俺の世代の男の絶対的ベンチマークなの。それで負け、収入も負けだよ。完敗だ
そうか、カッコいいとイケメンは違うんでした
もちろんよ。冴えない奴は最低、俺なんかいつでも気持ちはカッコよくいたいね。ゴッド・ファーザー、ドン・コルレオーネ路線でね
ヤクザもの好きですもんね(笑)
うん。ならここは筋通してもらいますよぐらいは平気で言ってるし
けっこうビビります
基本、静かに言葉でいくんでね。弁護士の鼻先で「これ何でしたっけね」ってビリビリって契約書破いたし
う~ん、ナニワ金融道だ
本気で怒ってたんだろうねよく覚えてないけど。でも鬼軍曹みたいなのは嫌いなんだ、机ぶっ叩いて怒鳴ったり、カッコ悪いよね。俺、成城学園だからさ、やっぱ品格ってのはね(笑)
でも証券会社の支店はどうだったんですか、当時は特に激しかったんじゃ
そりゃあもう。営業場で灰皿砕け散ったし鉄拳も飛んだ。だからあとで「ナニワ金融道」読んだらあるあるの嵐でさ(笑)。でも俺はなぜかそういう風にはならないの。2年半支店にいたけど楽しかったね。送別会、居酒屋で大勢でワイワイやってくれて、最後にスピーチしたら全員泣いて俺も泣いて、そんなんだった
どうして入社されました?
そういうとこだって知らなかったの(笑)。生きのびれたのはお客さんのおかげだよ。世の中にこんな凄い人がいるのかってね、他じゃ絶対にわからなかった。あの2年半のお釣りでその後の人生あるようなもんだよ
ブログで読みました、あの鉄砲屋事件のことですか?
そう、例えばあの任侠の親分ね、俺、お宅に夜中の2時までいて真剣に殺されると思ったからね、すげえなこの人ってなっちゃったよ。目の前であれ見たらヤクザ映画なんて可愛いくってさ
とても成城と思えません(笑)
でもね、そういう空気の中で毎日を送るってのは若い時は大事なんだ。先輩だろうが同じ釜の飯ですっぱだかでつき合ってるんで、みんなお互いの酸いも甘いも実力も知っててね、そういう集団じゃないとできない質の仕事ってあるよ
例えば?
チームプレーだから一人へこむと誰かが埋めなきゃいけない。よし俺がってやるでしょ。俺がへこんだ月は心配すんなって先輩がね、絶対に言っちゃいけないんだよ、目だけでさ。そこがいいだろ。こういうチームはスポーツでも強いんだ
ちょっと軍隊っぽい感じですかね
戦争は行ってないから知らない。仕事なんて命取られないからね、戦争をそんな軽々に語っちゃいけないよ。でも、俺、仕事で何十回も韓国行ったよね、で、あっちはみんな30前に軍隊2,3年行ってるの。だから鍛えられてわきまえてるんだね、俺みたいな男の前に出るといい奴なんだよこっち日本人なのに。なんだこのクソガキみたいなの見たことないね
やばい!耳が痛いです(笑)
そういうのってね、上司だけじゃないんだよ、お客さんも見てるの。わきまえなさい(笑)
ところで、これからの案件はどうですか?
あるよ。不思議なもんでね、12年潰れないでやってるとね、そういうのがいくらか信用になるんだろうね
ソナーは投資会社じゃないコンサルっておっしゃってましたが
最初はそうしようと思ってたよ。ファミリーオフィスで始めてね。でもお客さんは皆さんが立派な方で人間として奥が深いし、資産家だからいい投資機会はききたいの。こっちは自分が投資するためにいつもソーシングしてるでしょ。だから見つけたら紹介してねって、それってコンサルだよね
間口は広げないんですか、客数を増やすとか
だって社員9人しかいないんだよ、無理でしょ。ひとりふたり雇ってもサービスの質は大きくは上がらない、みんなレベル高いから。だからお客さんも増やさない。各人のサービス落ちるからね
でももったいなくないですか、案件があるんだったら
大きくして売上あんまり変わらないと全員給料が減るでしょ。優秀な人はやめるよ。図体デカいと変わり身も遅くなってね、コロナみたいな環境変化についてけないから益々売上増えない。大企業ほどヤバいね、白亜紀の恐竜みたいに
たしかに規模の利益ってコトバ、聞かなくなりました
そうね、でもね、実は日本は前からそんなのなかったの、経済学的な意味ではね、規模じゃなくって競争のない利益だったんだよ、あったのは
カルテルみたいな?
そう、資本関係なしの親方日の丸クラブね、そこにいれば利益があってよそ者は入れない。長い物にまかれてりゃ楽。「ごりやく」っていうよね、神仏のお恵みのこと、漢字は利益でしょ、親方っていう神仏にたかってりゃ「りえき」が出るの、税金が降ってくるからね
そうか昭和では土建屋国家っていわれましたもんね。もうないですが
そんなことないよ、去年のオリンピックなんて堂々たるそれだったろ
そうか、今日逮捕者が出ましたね
まあしょうがないとこもあるわけよ、ああいうエンタメ、イロモノ界ってのはね、東大出の役人に絶対できないからさ、足元見てばっさり抜かれる。だからどうせ抜かれるんならどこにさせれば国民が納得するかって、ならばあそこは親方日の丸クラブのメンバーだから安心だろうってなるわけ。うまいね。で、ワルの政治家はその構図においしい利権が透けて見えてくるわけよ。まあその位のタマじゃないと政治なんてできないけどさ
IOCのお歴々なんて貴族づらこいて、儲けさせてもらってあたり前みたいなのばっかりですもんね、納得さすのってカネいったでしょうね
あいつらはクーベルタンとかオリンピアンの誇りも商材だって割り切った連中なの。タレントの出演料いらない興行だからな、原価ゼロな商品をスポンサー、テレビに競争させて値を吊り上げて丸儲けさ、こんなのは誘致どころかボイコットしてアテネに永遠にお返しすりゃいいんだよ。で、魚心に水心ってやつでさ、どうしてもやりたかった安倍さんと菅さんと森さんがね、本社ビル売るほどピーピーだったあの会社しかないでしょ、ほかに誰ができるのってやっちゃって、それでこの時勢に最高益なのよ。クラブの仲良しメンバーだってだけで株も上がって3%も配当できるんだ、凄いよねこのビジネスって。事業だから儲けるのはいいよ、大したもんだと思う。でも本当の問題はそこじゃないんだ。
そうか、税金にたかれれば権力もカネも無競争で手に入って勝ちってことですね。平等な競争環境なんて潰した方がいいんですね
ご名答だ。つまりね、国のてっぺんから「親ガチャ」になってるの。そこに生まれて資産があってちょっとイケメンだったりすりゃあね、どんな馬鹿息子でもはじめっから競争ないわけ。わかる?東大なんか行かなくていいの。そういうのは家臣団っていうか働き蜂っていうかね、御用学者もそうね、とにかく長い物に巻かれて安心安全に生きたい人達にやらせときゃあ行政サービスは見た目だけは質がいい。国民はそれで文句いわないし、あとはマスコミ手なずけとけば身分は安泰。アホでもオッケーさ
そうか、我々世代が親ガチャに見えてるのって、その投影なんですかね
国ごとそうなんだから自然に空気がそうなるんだよ。隠せないねこういうのは。で、お母ちゃんが幼稚園児の息子の尻たたいてあんた東大はいりなさいってね。なぜ?日本で一番長い物だからさ。できればそれに巻かれたい、謹んでお巻きいただきたいってね。いい、あんた、それが得な人生なんだよ、安心安全なんだよって。そうでもないんだよね現実は。その長い物が傾いてきたらそういう子は優秀でも若くして人生終わるよ、だって他のオプション何も持ってないからね
冷や汗です。はい私も想定してませんでした
この世の中の勝者はね、親ガチャ大当たり組に生まれた奴、何も苦労してません、何も考えてませんのボンだよ。寝てても勝ちの貴族階級ができちゃった。若者がガチャって自嘲して人生諦めるなんてとんでもない。だって政治家の資産は地元の地盤、票田だよ、貯金ありませんって関係ねえのそんなの。地盤、票田ってバランスシート載らないし、親父が死んでも相続税1円もかかんないから。だからIOCのバッハとかあいつらエセ貴族と臭いが近いんだよ、ぜったい仲良しになってはくれないけどね、欧州のローマクラブからみりゃただの田舎もんだから。でもこいつらカネもってくるなってね、金儲けだけならパートナーシップ組めるわけ。世界の常識だよそんなの
どうなるんでしょうかニッポン
知らない。Who knows? 妙齢の皆さんはもう人生お祭りで楽しくやればいいんじゃないですか。俺はそれしか考えてないよ。でも30代の君らは国と共に沈没するわけにはいかないよね。貴族階級なんてわけわからん中抜きの中二階はいらんよ、皇室があるんだからそれを立派な形で守ってさ。そう思う人は命かけて政治家になってください。
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「親ガチャ」の功罪
2022 AUG 14 20:20:29 pm by 東 賢太郎
「親ガチャ」って親は選べないってことらしいね。新語大賞だって?
そうです、それで人生決まる時代に生まれちゃったっていう感じですね
こういう会話が30代の人とあった。
そうか、俺の親はいたって普通だよ。サラリーマンの団地族だった。だから親ガチャは当たりでもはずれでもないよ
いや、当たりです、銀行員でしょ、それだけで大当たりなんですよ
そうね、子供の頃はね、でも社会人でこうなるのに親の助けは借りてないよ
高校ぐらいですか、そうなったの
ぜんぜん。俺にとって高校は暗黒時代なの。できればなかったことにしてほしい
どうしてですか?
野球だめで駿台の公開模試うけたら偏差値42だ(笑)。わかる?
へ~、頑張ったんですね
うん必死にね。でもこのことに親は出てこないよ
東さん、それ当たり組だから言えるんです、ずるいんですよ我々には
なんで?みんな1回ガチャやって平等だろ
はい、でも競馬でハズレだと悔しくて馬券破るでしょ(笑)
う~ん、馬ならねえ、でも人生レースの馬は自分だろ
そうです。だからこそ、足が遅いのは親のせいだって理屈になるんです
なるほど、たしかに俺もそう思ったよ、けど走ってみるとなんとかなった
東さんがそう思ったのは単なる当たり馬券の見落としです
なかなか手厳しいね(笑)。人生、馬券で決まるの?ならば努力はいらないの?
みんなしてます。でもそれだけで成功できない時代なんです、当たり馬券ないと
じゃあ逆に成功した人はみんな馬券のおかげかい?努力も苦労もしてないの?
いえ、して報われる人と報われない人がいるんです。それも親で決まりです。親の地盤なしで議員なれますか?それも親だし足が速い遅いも親です
そうか、でもその理屈だと美女、イケメンこそ人生の勝ち組ってならないか?寝てても勝ちだからね
それはそうです、親が当たり組ってそういうことですから
おかしいね、顔に努力はないだろ?
はい、生まれてくるのに努力はないんです、だからガチャに喩えてるんです
なるほど、とするとね、「ウチの子が泣くので運動会の順位やめて」と同じ?
それ、モンスターペアレントの話ですね
そうだよ。だったら走らせて足鍛えろよって。皆と一緒に努力してさ
いえいえ、東さん、それ体育会ですよ昭和の。いまどきパワハラ言われますよ。
だっておかしいだろ。かけっこ努力した子は評価しないでイケメンは寝てても評価するのかい?キミが怒ってるのって、まさにそれじゃなかったの?
怒ってはいないんです、それ世の矛盾ですよね、それに対する半ば自嘲です
演歌の「どうせ私は・・・」みたいだね、長い物に巻かれて居場所は確保してる
開き直りって強いんです、ガチャは親より上ってニュアンス出そうとしてますね
まあいいけどさ、そんなの強がってるくらいなら勉強した方が早くねえか?
しないんです。既存の競争から開放してくれる理屈が親ガチャなんで
そうか、いくら負けても仲間うちじゃ親のせい社会のせいだもんな、楽は楽だ
東さんの高校ドツボの時にあればよかったですね
そうだねえ。だったら俺、高校中退してたな。野球やりに学校行ってたからね
どうなってましたかね?
う~ん、板前かな、料理はね本気でやったらすごいよ。映画監督もよかったな
うわっ、そっち見たかったですね
おい、なんか悔しくなってきたよ
僕は若い人とメシ食べてざっくばらんにこういうしょうもない話するのが大好きだ。それで最後は「さすが若いですね、67なんて見えませんね」と持ち上がって気持ちよく帰る。おかげでストレスがあんまりたまらない。そう、これって、往時はクラブでお姉さんに囲まれてしてたんだ。そういえば親父も施設に入って最期まで若い看護師さんたちにかまってもらってた。それで97まで生きたのかな。だったらこれは親ガチャ当たりだ。
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二胡の「ハナミズキ」になぜ涙が出るの?
2022 AUG 9 8:08:57 am by 東 賢太郎
ヴィヴァルディの「四季」って知ってるよね。たしかテレビCMで使ってたっけね。ああいう曲ね、昔は『名曲』っていったんだよ、知らないよね。いい曲のことかって?ちょっとちがう。じゃあベートーベンとかシューベルトとか?うん、それはそうなんだけど、でも彼らの曲が全部ってわけでもないのよ。面倒くさいね、じゃあどういう曲?そうね、クラシックなんだけどみんな知ってて、知らないとちょっとね・・みたいな感じかな。
今は音楽の教科書に米津玄師さんがのってる時代だね、そうそう、僕が大好きな一青窈さんの「ハナミズキ」もそうらしいね。この曲、サスペンスドラマのエンディングだったかな、初めて聞いた時にね、サビのところで、凄い!天才だ!って叫んじゃったんだよ。ほんとうに素晴らしい曲だ。
ラブソングかと思ったらぜんぜんちがうんだ。歌っているのはあの9-11で犠牲になった父親(僕)と子供(君)なんだね。「空を押し上げて」というのは瓦礫の下になったからなんだ。庭に咲く5月の花ハナミズキと共に蘇る君との幸せな想い出。「水際まで来て欲しい」は三途の川、「波」は戦争。庭にハナミズキが咲いて君の幸せが永遠に続くことを願う。
『名曲』は昭和のニッポンの定義なんだね。あの時代限定っていうか、あの空気を吸ってた人しかわからないんだろうなあ。どういう曲のこと?って孫に聞かれたらこう答えるしかないかな。
「名曲喫茶でかかってた曲だよ」
昭和生まれの僕らは音楽をそういうものだと教えられて育ったんだ。ちょっと違うんじゃないのって、ビートルズも好きだった僕はそう思ってたけどね。四季や運命をきいて、世の中にこんないいものがあるって知ってね、「だから名曲なんです」って学校で教わるの、でもそれはそれ、ほんとうに楽しかったよ。まだ見ぬ西洋への憧れがどんどんふくらんでね。僕だけじゃない、きっと、名曲喫茶で何時間も粘っていたあの人たちみんなそうだ。外国なんて知らない。どこも行ったことがない。でも、まだ未知の場所があるって、実はものすごく幸せなことなんだ。
もう僕はそれがない。昭和の『名曲』にどきどきもしない。
ちょっとちょっと、もっとわからないよ。名曲喫茶?なにそれ?そうだね、まずそれから説明しなきゃいけないね。
僕がそれにお世話になったのは浪人・大学時代だから1970年代だけど、もっともっと前からあったんだ。有名だったのは御茶ノ水駅前の「名曲喫茶ウイーン」と渋谷道玄坂の「名曲喫茶ライオン」かな、ひと言でいえば「泰西名曲鑑賞専門珈琲店」ってとこだ。立派なオーディオ装置とレコードコレクションがあってね、コーヒー頼んで聞きたいレコードを紙に書いてリクエストすると、お姉さんが順番でかけてくれるんだ。そこでかかるのが、クラシック好きの人が金払っていい音で聴きたい曲、そう『名曲』なんだね。そういうものだから他のお客さんにそこそこ気をつかうんだ、これ注文して大丈夫かなってね。クラシックはポップスみたいに2,3分で終わらないの、平気で1時間かかるからね、皆さんのコーヒー冷めちゃうわけで、僕もそうだったけど新しい曲やら演奏家を発掘したいって人もいる。だから「あいつ、いいのかけてくれたな、ありがと」ってのが望ましいんだ。でも僕はそのころ変なの専門でね、シェーンベルクのピエロなんてそのスピーカーで思いっきり鳴らしてみたいの。そんなのやっちゃうと皆さんアウトだもんね、そういう配慮をくぐりぬけた、皆さん納得の集合知みたいなのが『名曲』だっていうことになるの。もし外国にあったらきっと『名曲』は違うものになってたね。
でも好きだったんだ。あれはひとつの文化でね、智の殿堂って雰囲気もあった。友達もよくひっぱっていったさ。いまはyoutubeあるもんね、ハイエンドのオーディオの味知らない人をお客にするには難しい時代になった。「名曲喫茶ウイーン」をググると漫画家ヤマザキマリさんのブログがあって、若いころここでバイトしてたらしい。僕は『テルマエ・ロマエ』で彼女のファンになったのでうれしい。レコードかけてくれたかもしれないしね。しかもあのアテネ・フランセでイタリア語やったって、僕も少しだけ英語で行ったことあるんでそれもうれしい。あの辺は中学から大学まで庭だったから地元愛みたいなのがあってね。ウィーンはビルはそのままに居酒屋・焼き鳥屋の雑居ビルになってる。ご時世だね。お世話になりました。ここで覚えた曲、けっこうあるよ。
もうひとつ、道玄坂の「ライオン」は嬉しいことに健在みたいだ。渋谷は渋谷でね、駒場の教養学部にいた2年間だけはこっちが根城だったからよく行ったっけ。まわりはストリップ小屋とラブホでいけない。ライオンは大正時代からあるからこれも世相なんだけどね。お値段的には貧乏学生にはなかなかハイソでね、ここでコーヒーは高いってすりこまれたもんだからアメリカ旅行に行ってずっこけたの。安いけど珈琲フレーバーのお湯だもんね。あんなのをこっちじゃアメリカンなんて気取って飲んでんだから気が知れない。名曲喫茶のは本格的だ。旨かったよ。で、その感じがクラシック音楽にコラボしててね、どっちも舶来品だしね、でっかいスピーカーだって高級品でとても手が届かないし、耳の穴かっぽじって聴かなくっちゃってなるよね。だから集中してるんで曲をすぐ覚えた。コーヒーはいい投資だったってことになるね。そこで「四季」が朗々とかかってる。いい音だったね、おお、これがストラディヴァリウスか、イ・ムジチかってね・・・
なんて麗しき昭和の世だったんだろう。
ファンの方のブログによるとこうだ。イ・ムジチの「四季」のレコード売り上げは、1995年時点の日本において6種の同曲録音の合計で280万枚を売り上げている。1976年に100万枚を突破し、その他のレコードを合わせると1977年のイ・ムジチ創立25周年には何と1000万枚を突破する大記録を達成した。1987年来日公演中に「四季」だけでクラシックのレコード界では空前の200万枚の売上を達成。カラヤンの運命もびっくりだ。
四季は立派なクラシックなんだけど堅苦しくなくって、昭和の日本人がややこしいことぬきで楽しめて、たくさんの人が癒されたと思うんだ。そういうのがいい音楽なんだね。イタリアっていいな、行きたいなと憧れたよ。イ・ムジチは一度だけライブで四季を聴いたんだ。香港時代にね、家族を連れて行ったよ。舞台が目の前の席だった。女性奏者のかたと目が合ってね、ウチの小さい子供3人を見つけてうれしそうに微笑みかけてくださったっけ。レコードのとおり、いい音だったよ。
僕はイタリアの弦が大好き。モーツァルトのカルテット全集で一番好きなのはイタリア四重奏団ってくらいでね。なんでかってのはいろいろ考えてみたけどやっぱりわからない。こういうのは食とか女性の好みと一緒で本能的なもんなんだろうね、とにかくぱっと明るくてしなやかでふくよかで、アンサンブル神経質にそろえようなんて雰囲気がなくってね、それでもちゃんとモーツァルトになっちゃう。ああこの気分の軽さとそれでもはずさない品格って、地中海気候で育ったラテン系の人たちだなって。僕はどうやら人も文物もそれが合うんだね、とにかく男も女もね、明るくて面白い人が好きだよ。自分はそれと真逆だからね、気がついてないものを引き出してもらえる感じがするからかもね。
やっぱり弦はいい。ピアノは何でも弾ける。オーケストラの曲だってね。だから僕の中ではシンセサイザーなんだ。では弦楽器はっていうと、ひとりじゃあんまり細かいことはできない。でも、絶対にピアノにできないことができるんだ。歌うことだ。ピアノもシンセも、人を泣かせるって容易じゃないよ。でも弦楽器はできる。泣かせるのは歌なんだ。そんなにうまくなくたって、それこそヨーロッパの街角でヴァイオリン弾いてる大道芸人だってね、ハートに飛び込んできて、感情をグイッとつかみとることができる人を何人も見たよ。
ここからその泣かせる弦楽器の話をしよう。『名曲』と何の関係があるかって、もうちょっとガマンして欲しい、おしまいになってわかるから。
弓で弦をこする弦楽器を撥弦楽器っていうんだ。西洋ならヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスだね。その起源の話をイギリスやドイツでしたことがあるけど、事ここになると西洋人はプライドがあるんだろうね、東洋から伝わったかもしれないは認めるけどやっぱり不明だってことにされる。素材はなんたって羊の腸、馬のシッポだよ、弦を糸巻で引っ張ってこするっていう音の出し方だってね、羊と馬といっしょに暮してたアジアの遊牧民が発祥でないと主張する方が大変なの。とすると、じゃあ欧州起源ですかってことになるけどね、スパゲティがイタリアで生まれてラーメンになるかって?そんなわけねえだろって。いっぽうで、遊牧民の文化は漢民族にもいろいろ伝わってて、そっちでは同じものが「二胡」という撥弦楽器になったんだ。素材はやっぱりおんなじ、音の出し方もおんなじ。張ってる皮は砂漠地帯にいるヘビだけど、胴体が共鳴板になってアンプ役をするって発想は東西でおんなじだよ。
だから弦楽器の発明者はユーラシア大陸の真ん中を行き来してた遊牧民だ。僕はそう思ってるよ。とするとご本家は今ならモンゴル族がそのひとつってことになって、彼らには馬頭琴(モリンホール)というチェロぐらいの大きさの弦楽器があるね。彼らはよく飲んでよく歌う。有名な歌唱法にホーミーがあるよね、祖先の叙事詩も、戦勝も、酒も、男女の愛も、慶事も弔いも、モンゴル音楽は感情をのせた歌なんだ。楽器なら打楽器のピアノでなく弦楽器ってことになるよね。それが漢民族に渡っていく。遊牧民が作れるってことは複雑な工業製品じゃない、馬と羊がいれば庶民でもできる。どんどん広がる。そして歌も人の心に乗って広がる。それが二胡になるんだ。
二胡を聴いてごらんなさい。あの心に響く音色は一度耳にしたら絶対に忘れないよ。すごくオリエンタルで西洋にはないものだね、あれがモンゴルの歌から来た情感で、女真族から朝鮮半島を通るうちにそこの民族の情感もまとって日本に来ていると思うんだ。日本の伝統音楽は宮廷に残ってる雅楽ってことになってるけど、あれは楽器ごと古代中国宮廷からきた天上界の音らしい。中国の学者はもう母国にあの古代楽器は残ってないので、正倉院の御物と宮廷雅楽は宝だって言ってる。笙、篳篥の音ってたしかにどこか宇宙っぽいよね。でもキュンと泣かせるメロディーや唄なんかはないのね。ところが二胡は正反対でしょ、ヴィヴラートかけまくってとろけるみたいに訴えるメロディーはとっても人間くさい。あれはまぎれもなく庶民のもの、遊牧民起源のもので、思うにその唄バージョンの末裔が日本では演歌、艶歌になっていると思う。百済の都だった扶余に旅行した折に遊覧船に流れていた歌を日本の演歌だと思っていたんだ。なんでこんな所でって不思議でね。ところがよく聞くと韓国の唄だったんだ、同じルーツのものだろう。
で、今度は西側の話だ。弦楽器はシルクロードからペルシャと地中海世界に渡ったんだね。だからイタリアに名工がいたのは不思議じゃないんだ。思い出してごらん、2年前、中国の武漢で最初のコロナ患者が出て騒ぎになりだしたころね、春節で帰国した中国人労働者が陸路でヨーロッパにわっーと戻ってね、だからあっちで最初に感染爆発した国はイタリアだったんだ。いまは海路も入れて一帯一路って言ってるけど、絹の道だった昔からそういう地理的な関係なんだ。西洋で最初にできた弦楽器は「ヴィオラ」だったんだよ。ヒザにはさんで弾くのがヴィオラ・ダ・ガンバだね。ブランデンブルグ協奏曲第6番は2丁のヴィオラ、2丁のダ・ガンバが主役でヴァイオリンはなし。なんで?と思ったけど当時は不思議じゃなかったんだね。「ヴィオラ」と「二胡」。なんか因縁あるでしょ、ちなみに、二胡の音域は中央のレから2オクターブなんだけどね、これってヴィオラが気持ちよく歌える音域なんだよ。遠く離れた兄弟かもしれないね。
音楽喫茶と四季と弦楽器。『名曲』でつながってるね。そこにヴィオラと二胡がはいるって楽しくないかな、だって文化と歴史がね、国も時代も超えてシルクロードでつながった感じでしょ?それってなんか『テルマエ・ロマエ』だよね。ヴィオラがイタリアの楽器じゃないし、二胡が中国の楽器じゃないって、イメージふくらましてもらえたかな?頭の中がごちゃごちゃになったって?いやいや、だいじょうぶ、ゆっくり寝て3日もしてごらん、きっと君の凄い発想が時空を飛び交ってるからさ。
ハナミズキの作曲家、マシコタツロウさん。ありがとう。よくわかりました。『名曲』は昭和と共に去ったんだね。そして僕たちも古くなった。あるのは「いい曲」だけなんだ。心に寄りそってはなれず、知らないうちに涙が流れてる曲。それがいい曲でなくてなんだろう。マシコさんをヴィヴァルディやベートーベンと共に讃えたい。えっと思う人はまだ『名曲』の世界の人かもよ。
この曲に二胡の響きがいかにあうか、ピアノじゃないんだね、人の声もそうだけど、弦が歌うとね、9-11の歌になって魔法のように涙をそそる。僕はそんな自分がいたのかって不思議なぐらいやさしい人になってる。どうしてかな。この見事な演奏を聴いて考えてくださいね。おしまい。
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信じることこそが人間関係の最強の絆である
2022 AUG 7 13:13:36 pm by 東 賢太郎
富士霊園にて納骨式をとり行い、両親は並んで深い安らかな眠りについた。親族は遠路フランスから戻った者もおり、墓前で花を添える段になると朝から長らくぱらついていた小雨が良い塩梅に止んだ。前日の東京は明け方まで雷鳴が轟き仏前での眠りが浅かったが、この日の御殿場は山肌に薄く霞がかかって連日の猛暑が噓のように引いてしまい、何もかもが済んだ安堵のように至極穏やかだった。
箱根の温泉宿に一泊して自宅に戻ると得もいえぬ虚無感に襲われる。生まれてこのかた初めての境遇なのだからと我が身に説いて納得させるが、親がいないとは実にこんなによすがのないものであり、知らぬまに自分が一族の支柱なのだという覚悟を問われ始めている。もう3,40年この方、ちっとも父に頼って生きてきた積もりはないのだが、なくなるとかように重たい蓋だったのだ。
両親とも兄弟が多い。物心ついて以来こうした一族の集まりの長はいつも伯父であり、最年少のほうだった僕は端っこでちょろちょろしておればよかった。それがいまや祭祀の長だ。あちら側へ行けばまた楽だろうが、暫くはこうだ。そう生まれついてないので重く、嫌なのだ。この景色は次はそろそろお前だよと見えるが、早くお袋の所へ行きたいが口癖だった父の気持ちもこうだったのだろうか。
そう生まれついてないことは年の一番近い従妹がよく知っていた。それを宿の夕餉で他人事みたいにきいた。指揮者になりたいとか言ってたあのケンちゃんがどこでどうして証券マンなんてなったのかと。それが自分でも不可解なことは文章にしたし、なってからの景色はその何倍かそうだった。野球やったからだ。そう思って答えたが、いま思うと、知らない浮力に乗ったというほうがよほど近い。
以前に、横浜の桜木町駅の先を歩くと引き寄せられるような「気」を感じたことを書いた。あれはまだ起業前のことで、幸運の女神が微笑むか否か誰が知ろうという時分だったが、先祖ゆかりの地で俺はいけると確信をもらって帰ったのだ。”自分は守られている”、この安堵感こそ謎だ。結局、ほんとうに要所で吉と出て今に至るわけだが、いまもってあれが何だったかは凡そ説明がつかない。
かように世の中は合理で解せるものは実は5割にも満たない。迷って魔がさして理にすがると碌なことはない。自他ともに認める合理主義者だが、自分の守護神は信じる。そこに両親が加わったのだ。誰に会っても、ここまで8割は運でしたと話すのは謙遜でも何でもない、すべてあっけらかんと実話なのだから信じるしかない。それは死ぬまで続くと思うだけで生きるのに燃料は何もいらない。
これも以前書いたが、信じることこそが人間関係の最強の絆だ。僕が万人を信じることは多分ないが僕を四の五の言わず信じる人を信じることはできる。現世享楽的な贅沢に興味なく、我欲は満ちているから他利第一でよく、その誰かが喜ぶのが喜びである。僕を信じてくれた者、問答無用にまず妻、それから家族、親族、顧客、社員、友人、知己、猫にまで及ぶ方々ファーストの余生こそ欲しい。
ずいぶん大勢の人と出会い、ふれあい、そしてほんの少しだけ残った。義理人情でも相性でもない、良いも悪いもない、お互いの運だ。そう生まれついていないので政治家やその辺の経営者みたいなまねは一切しない。してもうまくいかない。うまくいくことだけやれば皆にとって八方良し、それが長の役目だ。それも運ということがやがてわかる。運は信じる者しか来ていることに気がつかない。
こう書いてきて、信じる信じないは宗教のようだ。何の抵抗もない。僕は宗教家でも何教の敬虔な信者でもない。葬儀は真言宗大谷派でしたが教義は知らない。何度も書いてきたが、信奉するのは合理と科学のみであり、だからこそ、その末に見えるのは神のようなものなのだ。それが誰であるかは問題でない。でもおられるから、世の中は合理で解せるものは実は5割にも満たないことを知るのだ。
中世までの合理は神学だった。その真理が5割もないことを啓蒙家が説きフランス革命がおき近代の幕が開いた。科学は神学の子分でしかなく、それを信奉する21世紀人の我々もそういう所にいるということだ。結末は22世紀にしか見えないから僕は関係ない。地球に巨大な小惑星でも衝突しない限りそれはやって来るが、読み解いてどうよく生きるかは子孫の皆さんにおまかせだ。
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百科事典とベートーベン交響曲全集の運命(改定済)
2022 AUG 3 23:23:21 pm by 東 賢太郎
むかしむかしあるところに百科事典というものがあった。大学の頃、ブリタニカのセールスの売り込みがあったのはたしか真夏であり、会うのは喫茶店、アイス珈琲がただで飲めるというので話をいちどだけ聞いてみた。たしかに知識の集大成は素晴らしいとは思ったが、セールスのポイントはそれではなく「一家におひとつ」だった。僕はまだ一家の主でないんでと断った。彼はセールスがうまくなかったようだ。
百科事典は皆さん世界史で習ったフランスの百科全書派と関係がある。ボルテール、モンテスキュ、ルソーなど新思想の大御所が著者となったよろず知識大全がエンサイクロペディーだったからそう呼ばれる。新興のブルジョワ階級に売れたのは国王、僧侶を批判した彼らの啓蒙思想が世の中を変えると信じられたからだ。フランスでそれはあの革命の火種となり、我が国では2百年たって応接間の装飾品となった。
「一家におひとつ」は戦後復興期のラジオ、扇風機、テレビ、冷蔵庫、洗濯機などにはじまる。核家族化で「家」が増えたこともあって売れに売れた。高度成長期で豊かになると対象は高額品のクルマと家に及び、「マイカー」「マイホーム」なる新語を生んだ(マイでないのが普通だったのだ)。「一家に一台」で買われたアップライト・ピアノはいま中古業者によって中国に年間5万台も輸出されているが、百科事典は街の古書店やリサイクルショップでは買い取りはおろか、引き取り処分も断られてしまうらしい。ちなみに、調べるとジャポニカの美品全18巻がメルカリで3,500円で売られている。本棚をまじまじと眺めたりしない客人の前で主人の教養をそこはかとなく漂わせるにはお安いのではないか。
同じころ、そのノリの世の中で百万枚も売れたクラシックのレコードがある。カラヤンの「運命」だ(ヴィヴァルディの「四季」もあるがここでは前者にフォーカスしよう)。百万となると書籍でも堂々のベストセラーであり、まして地味なクラシックでとなるともう金輪際ない数字だろう。まさか想像もしない極東でとカラヤンもDG(ドイツグラモフォン社)幹部も驚いたことは想像に難くない。ドイツ人は思ってないが日本人はドイツを友軍と思っている。敗戦でともに悲哀をかこった心の友が神棚に祭るベートーベン様。うまい商法だった。インテリはそのコマーシャリズムを鋭敏に嗅ぎつけ、「カラヤンは底が浅い、やっぱりフルトヴェングラーだ」とそれをだしに自己の審美眼を誇ることが同等に底の浅いファッションとなる。おかげでドイツでは同年代のファンがだんだん世を去ってお蔵入りになる運命にあったフルトヴェングラーのレコードが、むしろ故人になった方が仏様として祭られて有難味が出る日本市場では大量に売れるという驚きの発展を遂げるのである。カラヤンもベームも日本が好きだったが、最晩年には生きてるうちから神棚に祭られて気分が悪かったはずはなかろう。
そこでおきた現象がクラシックの百科事典化である。レコード産業の資本主義的成長の必然であった。その象徴が泣く子も黙る「楽聖ベートーベンの交響曲全集」であり、「一家におひとつ」のセールストークには格好のアイテムとなる。百科事典は開いたことはなくても、値の高いレコードを買って聞かないことはなかろうと誰もが思う。運命も第九も聞いたことのない主人が教養人に見える強みがあった。全集というと、ひとりの指揮者によるものは1930年代のワインガルトナーが最初ということになっているが、オケは複数であり、百科事典に不可欠である飾りになる威厳と統一感はまだない。フルトヴェングラーにこの仕事は来なかったからカラヤン出現の10年前まではそれを作る思想はドイツのレコード業界になかったと推察される。カラヤンは1951年から1955年にかけてフィルハーモニア管弦楽団と全集を英国資本のEMIに録音したが、これがその端緒だろう(百科事典のブリタニカも英国企業。もっと顕著には、米国の出版業者がクラシックレコードも出した例としてリーダーズ・ダイジェスト社が著名)。ベルリン・フィル一本で初めてそれを企画したのもEMIだが指揮者はフランス人のクリュイタンスだ(録音は1957~1960年)。契約でカラヤンは使えなかったようだがDGは旧敵国にそれをされたら屈辱というのもあったのではないか。
EMIのマーケティング戦略に刺激され、契約問題をクリアしたDGが満を持し、指揮者・オケ・プロデューサー・技師をお国の本丸で固め、前年のEMIの企画を上書きして潰すが如く同じベルリン・フィルを用い、プロテスタント精神の故郷ベルリン・イエス・キリスト教会で録音したコテコテのドイッチェ式こそがカラヤンの1回目の全集(1961~62年、左の写真)だったのだ。英国資本主義とドイツのナショナリズムはナチ問題で相反した。この全集には終戦後まだ16年しかたっていなかったドイツの文化人、知識人の複雑な精神構造、すなわち戦争責任とナチを分離し国家の存続と威厳を保持するという難題を文化のアイデンティティーという国民の心のよりどころでどう処理するかという思いがこもっていたと考えて間違いないだろう。そして、この全集から切り出した第5番「運命」が「一家におひとつ」の百科事典セールス興隆時代にあった極東の被爆敗戦国で空前絶後のセールスを記録し、当時としては高額の2千円のお値段で百万戸もの家庭に “収蔵” されたという今となっては驚くべき事実は、我が国の西欧文化受容史上、安保闘争、反米の左翼的気運が何がしか投影もしたであろう政治、文化風景の象徴的な一里塚と評して良いのではないだろうか。
ベートーベン全集よりも百科事典の性格をおびたと感じるのは同じカラヤンのブルックナー全集(1975-)だ。カラヤンは初期作品を演奏会にほとんどかけておらず、演奏現場からの必然はなく、つまり全集作成のためだけにそれらをあえて演奏したわけだ。2番などそれでこの出来かというレベルで、これがブルックナーかと眉をひそめる向きもあろうが、僕は初物を真摯に読み解いてBPOの最強の合奏力でリアライズしたこれが好みではある。ザルツブルグのカソリック文化で生まれ育ったギリシャ移民カラヤンにとってブルックナーは「ドイツ性」を身に纏うための大事なツールであったと思われる。彼のデビュー録音は当時は知名度の低くかつ長大な第8交響曲であり、楽団はベルリン・フィルだが製作はEMIだ。プロテスタントとのドイツ性の狭間にいたオーストリア人ブルックナーのアイデンティティーの葛藤を巧妙に自身の隠れ蓑として、由緒正しき保守本流のドイツ代表フルトヴェングラーの後継候補筆頭に躍り出んとするカラヤンの対抗馬がルーマニア人チェリビダッケであったことは僥倖だった。連合国の会社EMIがクラシック界の王道中の王道レパートリーである敵国ドイツ物をアルヒーフの中央に鎮座させるためのエースで4番として、玉虫色にマーケティングできるカラヤンをナショナリズムとナチ排斥の自己嫌悪の分裂に乗じて契約で縛ってしまい、プロテスタント楽団のエースで4番であるベルリン・フィルごとかっさらおうという戦略の仕上げに名刺代わりの第1作をブルックナー8番の2枚組LPとする。これで連合国、ドイツ両陣営の市場を抑えられ、時がたてば米国市場にも切り込める。カラヤンの名誉のためにも美学上の理由もあったに違いないと僕は信じているが、事業家としての観点からも実に秀逸な戦略だ。6年にわたり英国の上流知識階級とがっぷり四つで商売させてもらった僕が英国インテリジェンスに心酔するのはこういうところだ。
ベートーベン全集から10余年置いて企画されたDGによるカラヤンのブルックナー全集の重みはそうした背景を知って初めてわかる。出来栄えからして百科事典であって何一つ文句はないが、一方で、これが苦も無く超ド級の演奏水準でスタジオで達成できる彼らが、やる気になれば何の問題もなくやれたであろうし売れたでもあろうマーラー全集はつくらなかったのはとても興味深い。こういうところに欧州文化の深層が見て取れるからだ。ユダヤのマーラーとカソリックのブルックナーは1960年辺りまでは多分に忘れられた演目だった。大オーケストラによる長大な後期ロマン派作品という以外は音楽の性格においてなんら相関のない両者が1970年ごろからそろって人気演目となる背景は、オーディオテクノロジーの進化で長時間の高音質録音が可能になり、LP2枚組で新たな市場が開ける可能性が出たことにある。マーラーは1,2,4,5番、大地の歌など単品としての人気曲目はあったが、人件費のかかる8番、知名度の低い7番、演奏が至難な9番までそろえた「百科全書」はユダヤ系米国人のバーンスタインの起用を待つことになる。マーラーの一番弟子で泣く子も黙る百科事典録音適格者だったブルーノ・ワルターは、米国帰化後にユダヤ系資本CBSからコロンビア交響楽団を提供されて好きな曲を好きなだけ録音できる特権をもらいながら、私見では賢明と思う純粋に芸術解釈の美学上と思われる理由(発言がある)から、3,6,7,8番は選ばなかったからだ。
カラヤンが10才年長で両人はほぼ同じ年まで生きたライバルだったが、バーンスタインが生涯を通じてブルックナーは9番しか録音をしなかったという重い事実を、宗教、戦争、政治が芸術と無縁と思っている、あるいはそこまで無知ではないがそうあって欲しいとは願っている日本人音楽関係者やファンは考えてみたことがあるのだろうか。彼が晩年はマーラーを契機にウィーン・フィルと蜜月になったことは意味深い。筆者は1997年にウィーンで同楽団のヴィオラ奏者たちと会食した折に「我々にマーラーを教えたのはバーンスタインである」という直々の言葉を聞いているが、正妻ベルリンフィルとの諍いがあり、むしろウィーン・フィルを恋人にしていたつもりのカラヤンには心胆寒からしむる思いがあったもしれないからだ(フルトヴェングラーが正妻ベルリン・フィル楽員に人気だったイケメン男カラヤンに懐いた嫉妬心のような)。しかし、カソリックのウィーン・フィルを手中にしても、あれほど何でも振る能力があったバーンスタインはブルックナーは9番しかやらなかったのである。そのようなことを知ってはじめて、4,5,6,9番,大地の歌,亡き児を偲ぶ歌,リュッケルトの詩による5つの歌曲だけで終わったカラヤンの「マーラー進出」は簡単でなかったことが分かる。軽々に芸術解釈の美学上の理由だけと割りきって推察することも本人が語っていない以上はリスクがあり、私見ではナチ問題をひきずって踏み込めなかったバーンスタインの牙城米国という根深い問題が透けてみえているように思う。
戦争が勃発しているいまこう書くのは些か気が引けるが、それでも両人の戦いから半世紀がたったいま、ずいぶん世界はひとつになった。仏教徒がマーラーをやろうがブルックナーをやろうが元から何の関係もないが、ユダヤ人のダニエル・バレンボイムはイスラエル・フィルでワーグナーをやるには細心の気を配ったにもかかわらずブルックナーは気兼ねなくシカゴ響、ベルリン・フィル、ベルリン・シュターツカペレと3度も全集録音を果たす傾倒ぶりであり、かたやマーラーは大地、5、7、9番、歌曲集だけという塩梅であってナチ問題、宗教、美学を分離しているように観える。芸術解釈をザッハリヒに行なう主義を僕は否定はしないが、ことマーラーのような主情的な音楽をそれと切り離して解釈するのは演歌を譜面通り歌うのと同じほどナンセンスだろう。バレンボイムがそれと相いれないパーソナリティの持ち主ならば演奏しないことが解釈なのだという態度をとるしかない。それが許されるほど世界はひとつになったのだ。
東洋人をなめ切っていた米国が最も恐れるのは中国という時代だ。辺境から搾取するのが資本主義なら、巨大な辺境だった中国がそうでなくなろうとしている今、資本主義は行き詰まるだろうという主張はけっして誤りではない。リッチになった中国では、実は日本でもまったくもってそうだろうが、マーラー、ブルックナーは単なる商品であって、ユダヤだろうがカソリックであろうが、そんなことは99.99%の人にはどうでもいいのである。そのノリで新興ブルジョア家庭が子女教育に血眼になり、品質のいい日本の中古ピアノが資生堂の化粧品やピジョンの哺乳ビンの如く飛ぶように売れる(年間5万台、一台20万円上乗せなら100億円の営業利益だ)。むかしむかし、いまの中国人のようにハイカラを気取りたかった我が国の中流家庭によって、娘の誕生における新しいライフスタイルの心弾む新常識として争うように買われたピアノというものは、やがて百科事典と同じ運命になって置き場所に困った大量の長物と化している。だからその商売が栄えているのだとしか考えようがなく、あの気障りなテレビCMを見るたびにいつも機嫌が悪くなる。中古レコード屋に大量に出回るLPもそんなものではないか。楽ではない家計を切り詰めてピアノを買ってくれたおじいちゃん、おとうさんが亡くなったら、なんでこんな重くてかさ張るものが何百枚もあるのよ、早く処分しといてねってことになるんだろう。ウチばかりはそんなことはなかろうとも思うが、カラヤン、バーンスタイン死して30余年、クラシックリスナーなのに彼らの名前も知らない人が出てきてそのCDが1200円という時代がくるなんて当時考えた人はいないのだ。
それを恐れざるを得ない僕は息子に、地下室はぜんぶお前にやるからそのかわり絶対にメルカリに出すなと厳命している。
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日本は「飛ばないカラス」(若者への警鐘)
2022 JUL 28 20:20:56 pm by 東 賢太郎
いま写真の本を読みかけている。若い方、昭和史はあまり学校が教えないだろうから詳しくないかも知れないが、昭和11年2月26日未明に帝国陸軍青年将校による武装クーデターが発生し、首相、蔵相、内大臣らを襲撃、高橋是清、斎藤実、渡辺錠太郎ら現職の政府要人を殺害し、永田町、霞が関一帯を占拠したが鎮圧された事件だ。単発の騒動ではなく、昭和7年には海軍将校による犬養毅首相射殺事件(五・一五事件)がおきていた。かくなる軍部の内部抗争の力学が影響した国家最悪の事態として、300万人が亡くなる太平洋戦争突入が決まってしまうのである。この事件を教訓として学んで欲しい。
青年将校たちが「君側の奸」と呼んで襲撃した要人たちと比べると、いまの権力者は信念も国家観もない日和見だらけで、終始一貫している唯一のことは親米親中を問わず自分の既得権益ファーストの売国奴ということだ。彼らが話す言葉は我々の業界でいう「ポジショントーク」で、ある株をたんまり持っていて売りたいので「いい株だから買いですよ」と専門家面してもっともらしい理屈をこねるのである。バレたって「いい株だから私持ってるんです。それが何か?」で逃げられる。コロナや戦争でテレビに出てるコメンテーターの言葉もそれだ。真理を話すのが目的ではない、そんなの誰もわかってないし俺だってわかんないよ、でも自分は「専門家」って紹介されてるしこんなのでギャラくれるし、また呼んでもらえるようにテレビ局に都合の良い話をもっともらしくしておこう。ギャラはもっともらしさに支払われるという点において、薄っぺらな政治家の選挙演説と同工異曲である。真理はどうでもいいのである。僕とは真逆の精神の人達だ。
こういう連中がいくら演技しようが、職業上、もっと高度なプロ対プロのポジショントークを駆使しながら日々戦っている我々はすぐわかる。そいつのココロを読んだ瞬間にもう聞かない。プロの麻雀大会でツミコミがあってもやられる方が悪いで済むが、それを素人に仕掛けてはいけない。これは法律でなく職業倫理なのだ。それを素人にすることを職業としている方々とは悪いが人種が違うとしか申し上げようがない。昨今における、ただでさえ軽かった政治家の、羽毛どころかホコリの千分の一もない軽い言葉。「巧言令色、鮮し仁」なんてあまりにもったいなく、言われても理解できない者も多かろうし揶揄する気もおきない。国語の崩壊。それは国家の危機のバロメーターだと見抜いた三島由紀夫のような鋭利で腹のある男はもういない。世が世なら二・二六の現代版があったろう。昨年の東京五輪の意味不明の強行あたりから僕はそんなことを漠然と考え始めていた。しかし、もうおきないのだ。それが美しい日本の姿であり、成熟した日本国民の誇りなのだという声があちこちから聞こえる。そうだろうか。美しいのは富士山をはじめとする国土だけで、日本人は江戸時代からの伝統芸で外国人には到底まねのできない「長い物には巻かれろ」で生きる人が多数派から大多数に躍進しただけだ。長い物の能力は凄まじく劣化し、巻かれるほうはぬるま湯でもいい湯だねと思える国民的耐久力が進化した。その裏で、かつては隆々としていた覇気も上昇意欲も退化。飛ばないカラスみたいにみじめに凋落した二流国になろうとしているのではないだろうか。
認知症で記憶がなくなる直前に母に祖母のmaiden name(旧姓)を聞いてよかった。気丈な祖母は駆け落ち婚だから多くを語らなかったが、それが「まさき」と知ってすべてが始まる。ミトコンドリアゲノムは母系遺伝だから僕はそれでいうなら佐賀の真崎くんである。二・二六事件の不名誉な批判が我が事と思えてきたのはそれからだ。父からは台湾軍司令官だよと聞きどこかで騎乗の軍服写真を見た記憶があるが、それは本来が関東軍司令官であるところ政争の故あって飛ばされていたのだった。同書は極東国際軍事裁判における「真崎は二・二六事件の被害者であり、或はスケープゴートされたるものにして、該事件の関係者には非ざりしなり」(ロビンソン検事、不起訴にした)という立場であり、嬉しい書に初めて出会った。
クーデターをおこした皇道派は昭和天皇が正統性を否定して統制派に敗れたと教科書ではなっている。皇道派は天皇親政の下での国家改造を目指す荒木貞夫陸軍大臣と真崎甚三郎陸軍大将の派閥だが、陸軍には人事全権を握る皇道派しかなく、統制派などというものはなかった。様々なアンチが結集し永田鉄山(後に真崎を更迭したかどで暗殺される)を派閥の長として対抗した閥がそう呼ばれるようになっただけだ。真崎は若手将校たちに格別の人望があり、君側の奸を排した後の総理大臣に推挙されたが、なっていれば東条英機の運命をたどってA級戦犯となり巣鴨で処刑されていたから東条のご遺族には申し訳ないが幸運ともいえる。こういう諸々のことから彼の人となりを想像するに権力者の割には人間的でどこか憎からずというものを感じる。
さて二・二六事件あたりの世相に目を向けよう。大不況により企業倒産が相次ぎ、失業者は増加し、農村は貧困に喘ぎ疲弊していた。かたや大財閥などの富裕層は富を蓄積して格差が広がり社会不安が増大したというものだった。近未来を髣髴させる。青年将校たちは地方出身者が多く、娘を売る農村の惨状に悲憤慷慨し、権力中枢に巣食う勝ち組の売国奴どもを誅し、天皇親政の下での国家改造(昭和維新)をめざそうとしたのだった。真崎が主犯であるとする統制派は彼を政治的に抹殺すべく二・二六を利用したのであり、政治を犯罪要件として吟味したロビンソン検事が看破したとおりと信じる。将校たちの天皇親政への畏敬、国富偏在への危機感、国家観は当時のパラダイム下では不当なものではないが、真崎に頼り天皇に直訴してもらうしか実行手段はなかった。そうではなくクーデターへの道を進んだことの是非はここではおくが、命を賭して信念を貫く若者たちの愛国心には僕は日本人として感動を禁じ得ない。彼らに真崎が言ったと伝わる「お前たちの心はヨオックわかっとる、ヨォッークわかっとる」は僕もよくわかる。
僕がブログ読者として意識しているのは6割ほどを占める44才以下だ。そこには子供の世代である25~34才が20%、孫でもおかしくない18~24才も20%おられる。かたやこちらは67才で、白髪でメタボ腹の前期高齢者で、なんだかんだで書くことは昔を懐かしむだけ、己の成功を自慢吹聴しまくり、失敗の方は都合よく忘れてしまっているという不愉快なジジイである。65才以上の同世代読者が10%ぐらいというのは、パソコンができないか視力の問題か、さもなくば近親憎悪だろうと考えている。僕が世代のギャップを超えて孫、子の代と通じ合うものがあるとすれば、それはもう奇跡と呼ぶしかない。拙文はアニメ感覚で読めるものでなく、日本語が不如意な人は読まないだろうし、読める人はおそらく記憶力は良く、文章は画像より脳に定着しにくいが一旦すると消えにくいのだ。自分も若き年代に読んだ物はいまも心に残っており、一部は僕の美学にまでなって性格にとりこまれている。
ブログに影響されたという人が出てきたら人生で成功して欲しい。いや、首根っこをつかまえてでも成功させてあげたい。僕がものを学んだ時代、アメリカで教育を受けた時代、そして海外で仕事した時代の西欧の社会思想は、新自由主義、ネオリベラリズムへまっしぐら派(シカゴ学派、サッチャリズムetc)とソーシャリズム派(中道左派、欧州の社会自由主義政党の台頭)がクリアに分岐しつつあった。僕はリベラリストであるから個人の自由や市場原理を重視し政府の介入を最小限にする前者に共鳴し、サッチャリズムがリアルタイムで展開される英国で6年過ごした体感も寄与した。ネオリベラリズムは拡大してグローバリズムともされ、いま世界に所得の不平等をもたらした弱肉強食的な思想として蛇蝎の如く嫌われるが、ではケインジアンの大きな政府が介入したとして、所得格差は多少縮まるかもしれないが、経済全体がうまくいかなければ分配原資が減って国民全員が貧しくなる、これはどうするんだというと有効な答えはどこからも出てこない。コロナ禍救済策でやむなく出現した「大きな政府」の一環である中央銀行のバラマキが少なくとも株式市場を救ってはくれた。それは僕の事業にはプラスだったが、それで大きな政府が恒常化するドクトリンを信奉しようなどという軽さは僕には微塵もない。「ボクも貧乏キミも貧乏、それでいいじゃないか、みんなで辛さを分かち合おう」というのが猫の餌食になる飛ばないカラスだ。政治家や役人が経済政策、予知能力に長けた全能の賢人である可能性は限りなくゼロであることを歴史的賢人たちが世界史から学び取ったからこそ、万能ではないが人間よりはましな市場にまかせようとするのである。彼らより賢くない政府に任せるとどうして幸せになれるのか誰か論理的にご教示願いたい。
弱肉強食はいけないというのは「うちの息子が泣いて帰ってきたから運動会で順位をつけるのはやめてください」「これは虐待です。息子の人権を認めなさい」というモンスターな母親の理屈だ。それで社会を動かそうというのはひとつの考え方ではあるが、息子さんは幸福にはなるが国民は不幸になるなら採用すべきではない。弱肉強食は競争という社会に自然にあるものの誇張表現にすぎない。全員が平等なはずの共産主義国ですら政権で良いポストを得る激烈な競争がある。いかなる国家、経済体制でもヒトが2人いれば必ずある。だからそれに勝ちぬく力をつけることは、人類普遍の一般論として、良い人生を送るための必修科目なのである。学んで得と思うか否かは自由だが学んで何の損があろう。で、ここはジジイの自慢を思いっきりさせてもらうが、僕は誰にも習っていない自分であみだした方法で受験、仕事、出世、運用、蓄財、野球、ゴルフの競争をそれなりに勝ち抜いてきた。つもりや自負ではない、誰にも文句を言われない程度には事実である。だから我が方法の価値は客観性をもった証明ができ、それはカネをとって教えられる。何故しないかというと、そういうことはカネがない人の仕事だからだ。ない人は成功してないからない。どうしてその人の本や講義で成功できるのかわかる人がいたらご教示願いたい。僕はカネがあるからそんなことをする必要はない。だから全部ブログに書いているのである。
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先見思考なき大学も企業も潰れる時代になる
2022 APR 28 9:09:08 am by 東 賢太郎
(1)日本からは出てこない男
イーロン・マスク氏がツイッター社の買収で世界の話題をさらっている。彼の資産は3,020億ドル(約38兆円)と世界一でトヨタの株式時価総額より多い。テスラ社の時価総額がではない、彼の個人の保有資産がだ。一代で作った資産額がその者の価値を示すという考え方の是非を言っても宗教論争になるだけなので、ここでは「それを否定はしないのが自由主義だ」という原則論に立つ。日本国もそうだと習ったように思うので、その見地から本稿を書く。
マスク氏の目下の関心はEV(電気自動車)ではない。宇宙旅行を実現するベンチャー企業立ち上げでもない。聞くところによると「火星に都市を造ること」である。こういうことを公言すると日本では真面目に精神状態を危惧されるが、僕は大真面目だろうと思っている。彼がペンシルべニア大学で物理と経済の学位を取った1995年はというと、さすがのアメリカであってもEVや宇宙旅行の事業化はホラ話という時代だったと思う。そう思わない男がいたからテスラ、スペースXがある。
トーマス・エジソンのライバルだった天才発明家ニコラ・テスラを社名にしたのは敬意からという。テスラ氏はオーストリアから、マスク氏は南アから渡米した。アメリカという国家にはそうして世界の英知を集めてあらゆる新機軸の培養器になる魅惑的な空気があり、僕はそれを留学して初めて嗅いだ。エジソン、テスラが今もいて不思議でなく、マスクがテスラになりたいとホラ話風情を吹いても奇異でも何でもない。真面目に取り合って琴線に響けば出資して夢の実現に手を貸してくれる大富豪のエンジェル投資家がいくらもいる。では彼が日本人だったらどうか?1995年当時、EV、宇宙旅行はドラえもんのネタにあったね程度の扱い、エンジェルを見つけるなど東京で野生の象を探すようなものだったろう。
(2)forward-thinker(先見思考型人間)とはなにか
僕が1997年のダヴォス会議に出席したことは書いた。まだ社内でメールを使い始めて1、2年、携帯電話はレンガの大きさの時代である。ここでまだ若かったマイクロソフトのビル・ゲイツ、インテルのアンドリュー・グローヴらの講演を聞き、彼らの生のforward-thinking(先見思考)に触れて電気のように感じるものがあった。それを忘れる前に書いておかなくてはと思いたったのがこのブログである。
いま本稿のために読み返してみて、おしまいにマスク氏を登場させていたことを忘れていたことに気がついた。彼はまだ大卒2年目でその時のダヴォス会議の出席者でもなく、2018年になって単にforward-thinker(先見思考型人間)の系譜の先に現れた新しい人物として思いついただけで、そういえば偶然にテスラという車に興味があって買ってみて、その先見性に大いに感心したことが契機だった。
僕は発明家ではないが、日本人としてはどうしても群れから浮いてしまう「その手の人間」である。世にない新奇なものが大好きだ。新しくて面白ければホラ話だって真面目に聞く。しかし、みんなが飛びついて「大流行」なんて手垢がつくともう興味ない。4年前にそれを書いたということはやっぱりねであり、ハタチそこそこの分際で投資の世界に飛び込む決断をしたのも先見思考だったのだと自己肯定する、そういう性格なのだ。そうでないと先の事なんて自信が持てないから新奇なことはできない。とすると自分自身が手垢のついた人間に堕落してしまう。それだけは死んでも許し難いのである。
(3)来年のことを言うと鬼が笑う国
アメリカで教育を受けてから日本の教育をふりかえってみて実感したのは、両者の最大の違いは日本が著しく非先見思考型(現状追認型)だということだ。来年のことを言うと鬼が笑う。アメリカは10年先のことを言わないと鬼が笑うのである。元来が未知へのアドベンチャーという性質を持つ科学という領域がそれを象徴する。アメリカが主導したSETI(電波望遠鏡による地球外生命体探査計画)は第2ステージに入り、直径500mの世界最大の電波望遠鏡「天眼(FAST)」を有する中国が参加している。いるかどうかもわからない宇宙人がいつ返事をくれるかなど誰がわかろう。百年、千年先かもしれない。そんなものを真面目に論じたら鬼に食い殺されそうなのが日本という国だ。まして国がカネをかけるなど発想の出ようもない。現にスパコン予算ぐらいのことで騒動がおき、戦争のさなかのいま、国民の命を守る防衛予算GDP比2%すら物議をかもす国だ。もしも志ある科学者が「宇宙人を探します」とSETI参加予算案を国会で通そうとするなら、まずそのためにSETIなみの巨大プロジェクトを組む必要があるだろう。
そんな根深い足かせがどうしてできてしまったのだろう?注目すべきは、そんなものは中国にはないことだ。漢字や律令制や仏教や論語のように大陸から伝来したものではなくとってもニッポン的なものだということは特筆に余りある。ということは大陸の影響が半端でなかった奈良時代までそれはなく、名実ともに独立国となった平安時代以降にできたということになる。なにしろ「先見思考」を鬼まで持ちだして諺の同調圧力で否定してしまおうというのだから凄まじいではないか。理屈よりも情緒を重んじる日本人だ。屁理屈で「来年」なんか考える暇があれば田植えに行けと戒めるのはわかる。しかし21世紀にそれをしていると国は滅びるのだ。ではどうしたら変われるんだろう?本気で変えようと思うなら、きちっとした方法論に則る必要がある。まず、ニッポン的なものの生成過程を分析する。そして、その良さを損なわぬよう注意を払いつつ21世紀にフィットするよう修正することだ。それをリバースエンジニアリング(逆行工学)というが、第二次大戦で英米が不倒の難敵と恐れたゼロ戦を捕獲し分解してそれを行ったように科学的に有用な方法とされる。
それをやってみよう。この根深い足かせは千年もかけて培養されたのだから分析の端緒は歴史の解明にある。次に、それは思考バイアスだから生まれた国の文化の影響を受け、その伝播は言語と教育を通じてであることを知る必要がある。日本語という言語についてはすでに論じた(添付)のでそちらをご参照いただくとして、本稿では教育を論じることになる。日本語は変えられないが教育なら可能だから重要だ。ちなみに、「カネもうけはけしからん」、「人生の目標でない」という主張は、かくいう僕も大学卒業まではどちらかというとそちら派であり、そこまで変えるとニッポン的な徳育や美徳まで浸食するデメリットがあると思う。そこをチューニングしつつ新たな21世紀型教育を成型することは可能だ。それは最後に述べる。
なぜそうすべきか?これからの日本はそうしないと滅びると真剣に考えるからだ。鎖国して自給自足していた島国が開国を迫られ、加工貿易で国富を増やして資源を輸入し外患から国を守る。国民にはそれに適した教育を施す。これが「明治モデル」だ。4つの大きな戦争があったが、4つ目で国土が灰燼と帰しながら奇跡の回復を遂げたのはそのモデルが優れていたからだ。しかし、1990年から世界環境は急変する。円高定着と中国台頭で、今度は「加工貿易で国富を増やす」モデルが灰燼と帰したからである。しかもこれは非可逆的であり、奇跡の回復は絶対にない。したがって新たに「国民にはそれに適した教育を施す」必要があったのだ。ところが我が国の政治も企業経営も教育も、あたかも第二次大戦中に国民が神風の再来を持ち望んだ如く、30年も無作為のまま「奇跡の回復」を信じたかのように見える。それが平成の暗黒期だが、「平成」に意味はなく、以上のことが偶然に昭和天皇の崩御の直後から起きたというだけだ。
円高定着と中国台頭。これは誰の目にもvisible(可視的)だが、日本にとって不幸なことに、もうひとつの世界環境の急変がinvisible(不可視的)かつ劇的な衝撃力をもってひっそりと進行していた。通信のデジタル化である。情報伝達、処理、保存が天文学的に厖大化、高速化、複合化し、人間社会のあらゆる側面を根底から変革した。表向きはインターネット、携帯電話、SNSの普及など大衆社会の利便性改革の体裁をとっていたが、それはテレビに色がついたり扇風機がエアコンになるのとは訳が違う。大元が軍事技術の転用であり、国家的インテリジェンスに関り、暗号資産として通貨を代用するまでに至るのだから文字や蒸気機関の発明に匹敵する世界史上の大技術革命であったのだ。日本にとって不幸だったのはそれが英語世界で起こり、加速度的に進行してしまったことだ。「閉じた日本語世界」で実質的にいまだ鎖国している日本では「ネット社会化」というポップ現象と見え、インテリも企業もそうしたものと捉え、俺はパソコンはできんがねと威張っているうちに気がつけばガラパゴス化という名誉の孤立に至ってしまった。モノづくりの国ニッポンの威信をかけてシャープ株式会社がその名も「ガラパゴス」とつっぱったタブレット端末で失敗した2010年あたりで白旗が明白になり、そのシャープはついに台湾企業に買われてその子会社になってしまったのは皆さんの記憶に新しいだろう。
その時点で昭和天皇崩御から20年だ。その頃から急速に普及するスマートフォンの世界OSシェアはアンドロイド(グーグル)、 iOS(アップル)、機種シェアはアップル、サムスン電子が握り、日本勢などまったくもって「お呼びでない」。「鬼が笑う」などと笑っているとこんな惨状が待ちうけているのである。マーケットシェアは必ずしも利益シェアではない、頑張れば回復だってできるよという論者もおられよう。そうかもしれないが、しかし、そうした数値や可能性を含んで決まる株式時価総額はそうはいかない。イーロン・マスク氏がテスラ社を起業したのは昭和天皇崩御から約10年の2003年だ。その株式時価総額はいま120兆円でトヨタの3.3倍だ。まだハタチにもなってない同業の新興企業に世界のトヨタが一足飛びで追い越されたという事実は、株式市場というバクチ場で相場師があおってつけた値段の産物ではない。どんな角度から誰が「科学」しようとも、つまるところは経営者の思考回路の差が為せる業とする以外に解釈のすべがないものである。トヨタは最後の砦、日本の本丸であった。それが陥落したということは、「他は推して知るべし」なのである。
そこで日本企業は平成時代から没落を始め、「その原因が**だ」ともっともらしく論じて本を売ることが陳腐な流行にすらなっている。しかし、前述のように、この現象を偶然にリンクしただけの平成時代として切り取って論じてもあまり意味はない。そういう一時のエンターテインメントを提供するのではなく、子孫の生存を真面目に懸念する科学的視点を持った人ならば、そうなった歴史的原因があるのではないか、そして、そうであるならばリバースエンジニアリングなくして真相は解明できないのではないかと考えるのがこれから論じる先見思考なるものの姿ではないかと考える。僕はビジネスマンで歴史家ではなく史書を遍くあたる時間もないが、むしろそうでない故に時代を超えて全体を俯瞰できる視座はある。そこから観た景色として、日本国の非先見思考というのは平成どころか「平安時代」からあると考えている。非先見思考が科学、ロジックを忌避して感情、情緒を優先することに起因していることと、平安時代に世界に類のない和歌、小説、日記、説話の文学が出現したことは、どちらも平安貴族文化、思考形態にルーツを持つ共通の現象であり、現代日本人の精神構造に深く影響しているというのが僕の観察だ。10世紀の西洋にだって先見思考が普及していた証拠はないが、彼らにはそれがあったギリシャ・ローマという父祖があり、それがルネッサンスを経て現代西洋人の精神構造になったというのとパラレルの現象だと考えている。
日本で「鬼が笑う」と先見思考を止めてしまう動力すら働いていた背景には、何らかの宗教的戒めや日々の勤労の奨励という現実的なものもあるかもしれないが、同時にそうしたことは「をかし」の文学である枕草子の精神からすれば「をかしくあらず」(優美、理知的でない)であるとする美的感覚が潜み、その欠如を話者も笑うニュアンスがあるように感じられてならない。悪いと言っているのでなく、来年のことなどわかるはずがない、そんなことを真顔で言うあなたは優美でも理知的でもないねとマウントを取っている感じがするのである。ところが、そう書いてここで僕は立ち止まる。だってそう感じること自体が「平安時代的」なのであり、こうして、僕のようなそれを忌避したいタイプの日本人でさえその影響から逃れられていない証拠を提示してしまっているからだ。その根深さが伺われるのではないだろうか。
なにせ「来年のことなどわかるはずがない」とは「科学の否定」に他ならず、僕の人生観と真っ向から対立する。にも関わらず、僕は枕草子の愛読者で感性は平安時代と親和的だというアンビバレントな自画像の居心地悪さは、きっと多くの日本人が無意識に感じておられると想像している。ひいては、「理屈、理論、原理なんで面倒くさくて冷たくて堅苦しいったらないわね。そんなこと口にする男は大っ嫌いよ、フフフ」なんて清少納言女史の美意識そのままの現代女性から僕のような男はからっきしもてず、それでは困るので「だよね、人生、理屈じゃないさ」なんて飲み屋でカッコつけたりして滑稽に生きているのである。かように、実にこのバイアスを取り払うのは大変なことなのだ。しかし、そうしなければ我々の末代の子孫が、どう転ぶかわからない新たな地政学の中で先見思考に頼りながら道を切り開いていくすべが見えてこないのではないかと危惧してもいる。国ごとシャープの運命をたどるのではないかと。その産物が本稿なのだ。
そこでここから話はいったん歴史にそれて長文が更に長くなるが、リバースエンジニアリングであるのでご辛抱いただきたい。
(2)非先見思考の歴史
a.「第1の断絶」まで
奈良時代までは大陸(中国、朝鮮半島)がくしゃみをすれば風邪をひく強い緊張関係が我が国を支配していたことを知るのがすべての第一歩だ。思考のメディアである言語ひとつをとっても、史書は全て漢文(中国語)であり、話し言葉を書き取った「万葉仮名」も中国語の借用であり、日本列島に先住していた何者かがそれを「話して」いたことは確かだろうが、彼らは文字がなかったのでそうしたのだからそれを史書に書いた人達と同じ人達ではなく、先住者が留学(遣隋使)して持ち帰ったとされるが第2回遣隋使(607年)で中国人官吏(裴世清)が小野妹子とともに来日したように両者が混合してバイリンガル文化が創生されたと考えるべき時代が前・奈良時代(飛鳥時代)だ。遣隋使は隨が帝国であることを知っており、何よりそこへ行って中国語で会話しているのだから、ここで先住者と書いている者たちが大陸から完全隔離された人達であったはずがない(その理屈で国粋主義を辿っていけば人類の発祥地は日本になってしまう)。先住者はいて独自の文字なし言語を話してはいたが、大陸と混血し、中国語ができる人達が支配者として史書を書き、中国の都長安を模した都を平城京としてそこからを後世は「奈良時代」と呼ぶ。
とすると、
仏教伝来、蘇我氏の治世、聖徳太子の摂政、法隆寺建立、遣隋使の派遣開始、大化の改新(乙巳の変)、白村江の戦い、壬申の乱、 天智朝、天武・持統朝、大宝律令の撰定、藤原京遷都、和同開珎の発行、万葉集の作歌(初期)、古事記の原本編纂
はみな前・奈良時代、すなわち「大陸との混血のさなか」の出来事であったといういささかショッキングな結論になるが、もしそう思われるなら明治政府が国体の正統化のために強調した「皇統の万世一系論」にバイアスのかかった明治モデル日本史を信じておられると思う。宗教としてそれを信奉するのは自由だが、事実ありきの科学的姿勢でリバースエンジニアリングに臨む者としては排除せざるを得ない。
これに続く奈良時代は女帝である元明天皇によって始まるが、何かガバナンスに断絶があったかというとそうではなく、単に平城京(奈良)に遷都し、後世の歴史との整合性から首都の都市名を冠しただけで実体は変わらない。日本を「中華」とする帝国構造や東大寺の大仏建造が中国の最先端インテリジェンスとテクノロジーなくしてはできないことからも、大陸からの人の流入、混血は加速したはずだと考えるしかない。藤原氏の台頭、弓削道鏡事件など、我々はこの時代には王家の権力が浮遊し混濁し、混沌とした印象を懐くしかないのだが、それは流入加速の理由が白村江の戦いの敗戦にあるからで、1945年の米国の例を引くまでもなく敗戦国を戦勝国が支配するのは世界の常識だ。すなわち、663年から日本は唐の占領下にあったのである。GHQもしかりだが、占領軍は撤退するまでの歴史を編纂などしない。天災、天然痘、反乱に怯えて出家してしまった聖武天皇が唐のエリートや高僧・鑑真を率いて東大寺盧舎那仏建立を成し遂げたとは俄かに信じ難く、それは唐人GHQが植民地の唐化のために行ったものをそういうことにしただけだ。我々が習っているのは彼らではなく浮遊、混沌に追い込まれたサイドラインの王家が書いた歴史なのだ。それが後に正史となるのは混血で唐人の視点が合金の如く同一化して日本人なるものが形成されていったために、それがもはや合金には見えなくなってしまったからだ。
奈良時代の10年目に編纂された日本書紀には日本(倭)の古記録の他、百済の系譜に連なる諸記録や中国の史書の記述が混入するが、実はそれは混入ではなく合金化で、背後には政治的目的から日本国を既存のものと塗固すると同時に、王族が混血したことで父祖の民族の神話や歴史が自然に合体、融合したためでもあった。歴史学者・久米邦武(1839~1931)が『上宮(じょうぐう)太子実録』(1905年刊)のなかで、「飛鳥・奈良時代に中国に渡った僧侶が、当時、西域(さいいき)をへて中国にまで伝わっていたキリスト教のことを知り、聖書のイエス伝を太子伝に付会したと考えるのは決して荒唐無稽なことではない」と述べているように、聖徳太子の誕生を未知の王族の子が馬屋で誕生した逸話になぞらえた蓋然性が高いとするなら、大陸の王族との混血の事情なしにそれを国史に記す動機を探すのは困難だろう。現に、上皇陛下は2001年に韓国について「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されている」と発言されて混血が事実であることを認めておられるが、むしろ当時の列島と半島には別々な国家という概念がなかったからのご発言であり、「混血」と記すのは後世のバイアスだとお断りするのが真相に忠実なスタンスであろう。
ちなみに歴代8人いた女性天皇のうち6人がこの「流入、混血期」に現れているのは興味深い。これもご参考だが、8年前に訪れた天皇家の菩提寺である泉涌寺の奥の間に掲げられた系図で、びっくりするものを拝見した。それはここに書いてある。
以上のことから、「奈良時代までの我が国が独立国家だったか」というと甚だ心もとないと考えざるを得ない。もとより国家なる概念など当時はないからその問いは発する意味がないとすることもできる。その前提に立ちつつ、あえて国家という鋳型を用いてみるなら、権力(ヘゲモニー)を握った者がその地に従来からあった「国家のようなもの」を自らが新たに統治する正統性を確立したことを、それを脅かす者に向けて「独立国家だ」と主張しているに過ぎない。これはたまさかいま起きているウクライナとロシアの関係を想起させる。コサックである前者は厳密にはロシア人ではないが、長期にわたって混血しており、ソ連という同じ屋根の下だった時代もあり、いまはユダヤ系大統領を頂いて民族とはやや乖離したガバナンスを守るべく戦っている(ちなみに「早く降伏しろ」などと言った馬鹿な政治家がいるが、ガバナンスを譲れば敗戦国は人民に至るまで殲滅されても内政干渉できない。無知蒙昧にもほどがある)。
桓武天皇が京都に都をおいてから外憂が緩和され平安の時代となり、史上初めて現代の我々が日本国と意識している国体のようなもの(そんなものは当時はなかったが)ができた。これは名実ともに我が国が独立国家になった日本史上最重要の事件であるが教科書にはそう書かれていない。その原動力は国内ではなく唐の滅亡という外的要因にあったからだが、天皇の万世一系による国体という史観からそうは書けず、仮定の話だが、もしいまロシアが倒れてウクライナが無事であったらゼレンスキーは史書にそうは書かないだろうということだ。しかし「平安時代」が現代日本の始祖だった特殊性は名称にひっそり刻印されている。日本の時代は権力の所在地によって飛鳥、奈良、鎌倉、室町、安土桃山、江戸と呼ばれるのに平安と明治は京都時代、東京時代とは呼ばないのは、その2か所でヘゲモニーの断絶があったからだ。「国家のようなもの」が「国家」になったのが「第1の断絶」であり、平安の時代という陰の認識は大陸からの独立を象徴している。このことが日本人(当時の列島に住んでいた人々)に与えた安堵感、希望は1945年の終戦を迎えた我々の両親世代のそれになぞらえてもそれほど的外れではないだろう。
つまり、その事大性をよく理解しなくては桓武天皇が詔によって新都を「平安京」と命名した意味がわからない。外国の軍勢に攻め滅ぼされたり大化の改新のようにクーデターを起こされたりがない天智天皇系の世になったということだ。つまり、中国でも朝鮮でも日本という国が意識され、日本語が確定し、女性用の仮名文字までできた。それらのことは支配者の空間である朝廷でおき、天皇を中心とした貴族が心の平安を享受し、恋愛を楽しみ、遊ぶ余裕が生まれていた。明日の命の心配がない。朝廷内にいても敵、刺客からの防御を考える時代が終わった安寧。そうでなければ女官がそれらを題材にした小説を書こうなどという文化が生まれるはずがない。つまり、源氏物語が書かれるのと軌を一にして、朝廷では先憂後楽のための先見思考の必要性は薄れていったのである。その貴族の精神風土が日記、説話、紀行文に記述され、後世に伝わる。我々が「平安時代」と認識する原典はそれだけだ。後世が日本文化の成立とそれらを結びつけ、慈しみ、心地良いと思う感性はその過程において非先見思考をもって心の平安、やさしさ、おだやかさとし、そうである人を良しとする日本的精神風土としてじっくりと醸成されてきたのである。このニュアンスは今でも「京ことば」の柔らかな響きとして感じることができる。
b.「第2の断絶」まで
その新たな政権のヘゲモニーは源平の台頭から征夷大将軍(武士)が握るという変質を経ながらも徳川幕府が滅ぶまで続いた。そこで東京時代とは呼べない「第2の断絶」がやってきたのであり、陰の認識はそれを隠しきれずに明治維新、明治時代と呼ぶことにしたのである。司馬遼太郎は鋭敏な嗅覚でその刷新の思考の先進性が断絶前のヘゲモニーと異質なことを嗅ぎ取り、それが推進力となって成し遂げた白人の国への戦勝に至る昂揚を「坂の上の雲」に記した。僕はこの小説が好きだが、司馬がその昂揚はもはや過日のものと昭和後期に回顧した淡い寂寥を何倍にもしてこの部分を書かなくてはいけないのは本旨ではなく、さらに論考を進めるためである。
唐が滅び平安の世になって外憂は去り、源平が出現すると列島内部でのヘゲモニーの奪い合いが700年近く続く。明治に至るまでの武士政権がそれである。安土桃山時代だけを戦国時代とするのはミスリーディングであり、ずっとそうだったのである。なぜならそれは平安京で創造され連綿と継承されてきた非先見思考的な平面のレジーム上のせめぎ合い、同じ盤上のゲームの「武家バージョン」であり、源氏、足利、徳川と政権は変わっても鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府という朝廷を頂点とした「征夷大将軍の名によるガバナンス」で、なんら質的な断絶はないからだ(初代将軍の坂上 田村麻呂が桓武天皇の忠臣であったことがそれを雄弁に物語っていよう)。その唯一の例外が、征夷大将軍にならなかった織田信長である。彼は中国の古典を好んで範とし、新奇なものを好み、宣教師から西欧の知識を学んでリアリスティックな世界観を形成して現状追認の延長線上に敷衍できる天皇、朝廷の枠組みを超越した「天下布武」のヘゲモニー構築をモチベーションとした。すなわち、日本史上類まれなる先見思考型リーダーだったのである。彼の戦法は奇襲とされるが、小よく大を制すための合理性が非先見思考をする大方の日本人にそう見えるだけだ。源氏、足利、徳川にそれはなく、朝廷の官位である関白になった秀吉も、型破りには見えるが彼らと同じ盤上のゲーマーにすぎない。
つまり、信長の不慮の死をもって平安から江戸までの間は同じ非先見思考的な平面のレジームが続いてしまったのであり、地球的規模で考えればそのニッポン的閉鎖空間はなにも徳川280年の鎖国のせいばかりではない。平安時代の始めから明治維新まで1000年ものあいだ日本は精神的に鎖国していたのである。それを破壊して明治維新にもちこんだのは薩長土肥の下級士族だった。彼らは下級であるゆえに既存のレジームは自分の出世には確実に結びつかない無用のアンシャンレジームと見ており、阿片戦争を見て「このままじゃ日本国もやばい」と踏んだことになって美化されているが(もちろんそれもあったが)、むしろフランス革命におけるブルジョアジーに近い位置にあったと僕は考えている。つまり国家の窮状を奇貨としてゲームチェンジャーになる好機ともとらえた。だから阿片戦争での恐れるべき敵、元凶であるはずの阿片売人(英国)を取り込んでバックファイナンス、武器供与を引き出し幕府を倒したのである。先見思考力があったからにほかならない。
c.「第3の断絶」まで
言いたいことは我が国には平安時代から先見思考がなかったことだ。そうであったのに、いま、にわかにそれの欠落が問題と指摘せざるを得ないことになっている。それは地球上の経済、社会活動に革命的な変革が起きたからであり、それは我が国ではたまたま平成時代に当たっていたことは既述した。では具体的に何があったのか。世界のあらゆる物事がデジタル化、IT化し、AIが人間社会を侵食しはじめ、人類の思考回路までデジタルの影響下で変質したのである。さらに追い打ちをかけるように、人間同士の接触を避けたコロナ環境下でリモートの有用性、利便性が認識され、大都会への一極集中はナンセンスという思考が生まれつつある。経済活動も金融も医療も企業の本社機能も分散化(decentralize)され、地理的に政治権力と乖離して成り立つと社会が認識するようになり、そう遠くない先に、目には見えない機能的、非物質的な形で東京時代は終焉を迎えるだろう。
どういうことかというと、リモートワークが常態化して出張もリアル会議もリアル営業も不要になった会社が温暖化を避けて東京本社を札幌に移し、幹部も社員も家賃の安い故郷の地方都市に個人で分散し、サーバーは宇宙に置き、給与は自社コインで銀行を経ずに支払い、社員の健康診断や医療はリモートでロボットが行い、人事・財務・経理・総務・法務・コンプラはAIででき、よって中間管理職の仕事は消える。経費は劇的に減り社員の自由時間は増え、地方都市で東京の給与がもらえるから誰も文句はない。このグローバル版もできる。高い地価や家賃を払って東京に機能を集中すると株主総会で叩かれることが外的推進力になる。役所はなじまないなどと言ってると人が来なくなるから取り入れざるを得なくなり、東京の役目はdecentralizeされ居住人口は半減する。これが「第3の断絶」で私見では2050年ごろにそうなる。どこに分散移住し機能をどう効率的にストラクチャーするかが企業価値に重大な影響を及ぼし株価も左右する。先見思考できない経営者はまったくアウトであり、政治家もしかりである。
そんなさなかにデジタル庁を設立しますと、30年前に先見思考できなかったどころか30年たって10周遅れぐらいになっても気がついていないことを世界に発信する我が国とはいったいなんなのだろう?デジタル庁の助けが必要なのは国民より政府だろう。日本語でスマホを使ってラインやSNSをやる程度がIT化だと思っている政治家、役所、マスコミのITリテラシーの「貧度」は英語力のそれと高い相関係数があるという観察には僕は自信がある。官僚は東大卒だから世間からは英語ができると思われていようが、それは読み書きだけの話であって、聞く話すはとてもだめでそれこそ話にならない。その英語と同じぐらいITにおいてアメリカはおろか中国、台湾、韓国、ひょっとすると北朝鮮にも置き去りにされているはずである。
テスラがトヨタを抜いた理由は何も自動車業界のディファクト争いの勝ち負けにあったばかりではない、国民的にデジタル思考がなく、30年の暗黒時代を無為無策で過ごした上に20年前から勃発したデジタル革命にも完全に乗り遅れた象徴でもある。それをほとんどの日本人が気づいていない。なぜか?そう報じるべきマスコミこそ英語もITも劇的に音痴な業界で、自分ができないことを報道しろと期待する方がのっけから無理なのである。なぜそんなことになっているかというと、政治、役所、マスコミは三つ巴であって、その思考回路は「明治モデル」のままだからだ。明治時代は英語の「聞く話す」は通訳の仕事で、だからそれを養成する外語大がある。キャリア官僚は自分が英語を使わなくてもいい。同様にアートは芸大だがいまだに国立西洋美術館がある。「西洋」を冠しているうちは「明治モデル」(=鹿鳴館)の思考回路ですべてが回っている証拠である。ここまで書けば結論は予測できるだろう。英語とITは彼らの意識の中では自分がやるものではない。「通訳にやらせろ」の明治モデルだから、ITの必要性だって同じ思考回路で処理されており、政治、役所、マスコミのリテラシーが高いはずないのである。
ではなぜ明治モデルから脱却できないのか?答えは簡単である。そう教育されないからだ。なぜされないかというと、教育者が明治モデルによって再生産されるからである。このことに関しては前述のように、「カネもうけはけしからん」、「人生の目標でない」と、かくいう僕も大学卒業まではどちらかというとそちら派であったという事実を噛みしめるしかない。「そちら派」が明治モデルの優等生であり、僕は劣等生だから「どちらかというと」程度で済んでいて、「通訳が」でなく自分で英語を操り、「そちら派」と対極の世界に身を投じた。そのおかげで頭の中で宗教革命が起こり、先見思考型人間に生まれ変わることができた。そして実に幸運なタイミングでやってきたデジタル化という世界史上の大技術革命が金融で第二次革命を起こす「暗号資産(コイン)」なるものに思い切り投資しているという現在がある。指摘しておくが、暗号資産は世界の決済、貯蓄の仕組みに大革命を起こす。これは最早どの国家も止められないから米中は通貨主権、KYCなど表向きは懸念を表明しながら実は取り込みにかかっている。こういうことは大学の先生に聞いても知らないわけで、それと一体である政府はなおさらそうで、日本は金融という生命線で起きている仮想通貨競争でも先進国の中ですでに断トツのビリである。しかし、僕だってそうなってしまう空気は想像することぐらいはできる、なぜなら明治モデルど真ん中の大学にいたからであり、留学もせず学校の先生になっていたら疑問もなく明治モデルで学生を教え、いまごろ「世の中カネじゃない」というブログを書いていたろう。
(3)非先見思考は付加価値(おカネ)を生まない時代になる
ここでやっと教育の話になる。先日の日経新聞に「私大、4分の1が慢性赤字」という記事が出たが、文科省はこれに対しどんな策を講じるのだろう。その答えも読者はもうご賢察だろう。そう、明治モデルの優等生として教育された文科省の役人も非先見思考型であり、慢性赤字の原因がそこにあるのだからそれはどう贔屓目に考えても解決せず、人口の減少と軌を一にして大学は数が減るという結末になるだろう。器だけ足したり引いたりしても中身は変わらないからだ。もともと学生が先見思考できるアメリカでは大学は彼らを惹きつけるためにビジネス界と表裏一体で人が行き来しており、学生はもちろん教授がベンチャーを起業しているなど日常茶飯事だ(ノーベル物理学賞の中村修二先生もそう)。それができない干からびた学問を武士は食わねど高楊枝みたいな先生が教える大学に高い学費を払って学生が集まるとすれば、それは学問ではなく宗教と呼ぶべきであろう。大学の権威で学生が来ると思っているのが明治モデルの特徴だが、日本でも優秀な学生はもうそれでは自己実現どころか食えないことを見ぬいており、権威の権化であるキャリア官僚ですら志願者が減っている。どこからこのままで大学が生き残れるという結論が導かれるのだろう。
非先見思考型(現状追認型)教育は何が悪い?と言う明治モデル優等生の人にはシンプルな質問をしよう。
明るくない現状を学んでどうしてカネが稼げるのだろう?
カネ?それは学問の目ざすべきものではないだろう。すべての学問は意味があるから存在しているし、少数ではあっても学ぶ人がいて欲しいとも思う。しかし、人間は霞を食って生きられるわけではない。無欲の人だけが公職につくわけでもない。ここで言うカネは生命維持をあがなう最低限のライフラインではなく、努力して勉強して良い教育を求めるのは良い暮らし、良い人生、プライドのためだろうという文脈において、それらを満足できるレベルであがなうための資金調達という意味で僕は「カネを稼ぐ」という表現を使っている。それを得たいと思うのは、多くの人にとって、自然なことだろう。そして、強い国は少数の学者でなく、多くの人が作って支えるのだ。もう一度だけくりかえす。「加工貿易で国富を増やす」モデルは灰燼と帰し、これは非可逆的であり、奇跡の回復は絶対にない。したがって加工貿易時代の現状追認型ビジネスモデルが利益成長を生むことはもうない。ということはそれに適した明治モデルの教育で全優を取ってもそれに費やす時間と努力に値する報酬はもはや得られず、優秀な学生ほど先見思考型教育を求める時代にすでに突入していることを意味する。
では、その報酬を得るためにはどこで何を学べばいいのか?この問いに、ビル・ゲイツは四半世紀も前のダヴォス会議で明確に答えている(ご興味あれば上掲ブログに書いてある)。1997年は平成9年だからまだ世界史上の大技術革命が起こる前であり、先見思考型のゲイツはそれを的確に予測していたということであり、それができるから事業に成功して大金持ちになったのであり、その時点で日本が国を挙げてそれに耳を貸していればまだ光明を失わない余地はあった。若者が夢のない国とこぼすようなことはなかった。ビル・ゲイツがそこまで先見性ある人物であることを当時は誰も知らなかっただろう。僕もそうだった。ただ、同じ1955年生まれの彼の言葉にいささか刺激を受け、同行されたK常務と「そうなるかも、ならないと日本はやばいかも」と未来ビジョンを延々と語り合ったのは覚えている。
そういうこととは無縁である明治モデル教育を受けて社会に出た平成時代卒業生がもう50代になって企業の中枢にいる。そんな企業が世界で勝てないのは自明の理なのをご賢察いただけようか。ベンチャーもお寒い。数はあるにはあるがNASDAQでユニコーン(時価総額10億ドル)になれそうなのは見たことがない。アイデアに光るものはあってもグローバルに経営する視点がない。要は英語力もないし無国籍ビジネスという思考ベースもない。そんなことでユニコーンになれるほど世界のコンペは甘くないのである。そもそも自分でベンチャーを起業して大企業に数百億円で売却できる中村先生のような教授がひとりもいないのに学生はそれができるようになる秘法でも日本の大学にはあるのだろうか?そんなものがあるはずないことは世界のビジネス界の常識だ。そしてそれを知らないのが日本の大学の特色なのである。だからソナーは海外の会社ばかりに投資してるのだ。国賊なのではない、ないものは買いようがないのである。
というわけで、学生は将来なにで飯を食おうか考える。おおいに迷う。男子は食えなければ結婚すらできない時代だから一種のライフラインのレベルの話でもあって、迷って当然だと書いてもそう反論はなかろう。私大の志願者が減っているのは少子化のせいとするのは陳腐な言い訳だ。そんなのは始まって久しいからだ。そうではない喫緊の理由があるはずであり、それはその大学を卒業しても将来飯が食えないと受験生が判断しているということに他ならないのである。それでも受験してくれる現状追認型の学生は労働力(フォロワー)としては必要だが、そもそもビジネスにならないことに詳しくてリーダーになれる国は世界のどこにもない。教養が大事などと言ってる余裕はない企業もそういう採用をするようになるだろう。
(4)forward-thinker(先見思考型人間)になる方法
ではキーとなるforward-thinking(先見思考)とはなにか、それを説明しよう。シンプルに言えば「明日世界がどうなっているか考える」ことだ。そんなこと誰が分かる?そう思うのが典型的日本人だ。分からない。だから考えない。何か起きてしまうかもしれない。その場合は起きてからじっくり調査しよう。その結果を見てみんなで考えればいい。そして待つんだ、台風一過を!
皆さん、この10年に起きた事を思い出されればいい、福島原発事故、各所で起きた豪雨・土砂災害、そして何より政府のコロナ対策。みんなそれだ。行き当たりばったりで、起きてから右往左往する。国民向けには「専門家」なるあまり専門知識があるとも思えない面々がテレビでああでもないこうでもないと井戸端会議をやる。いずれにせよ、それで何も解決しないのだからその知識や蘊蓄を知っても何にもならない。
先見思考の人にとってテレビ番組で役に立つものはない。なぜなら報道は「過去~現状」を伝えるだけで、明日の話は天気予報だけだ。リーダーになったりカネを稼がせてくれるのは明日を洞察するインテリジェンスであるが、それはかけらもない。非先見思考型教育はそれに非常に近いものなのだ。どうしてそうなっているかというと、ここにも根深い理由がある。明日の洞察は「ドタ勘」でするわけではない。論理的根拠に基づいた「仮説」を立ててするのである。格好をつけてそれを「モデル化」などと呼ぶことがあるが名前はどうでもいい、大事なのは、論理的根拠を探すにはある程度の数学が必要ということだ。線形代数だベクトルだ微積だ確率論だ、はたまたそのどれが必須だというのではない、そういうものをじっくりやった人だけが持っていて、話すとお互いに「やった人だね」とわかる数学的思考力が必須なのだ。
(5)平安時代の教育はやめろ
そう思って若い人のために、2017年にこのブログを書いた。
ズバリ言うが数学なき文系という超日本的なジャンル分けは学生のためにならないからやめろという趣旨である。”文系” とはいかにも平安時代的な、清少納言の「理屈、理論、原理なんで面倒くさくて冷たくて堅苦しいこと口にする男は大っ嫌いよ」的な精神風土に親和性のあるコンセプトだ。文系科目が不要というわけではない。理屈、理論、原理を理解し、それを根拠に推論するベーシックな回路を頭に構築しないと「明日世界がどうなっているか考える」ことなどできるはずがないと当たり前のことを言っているだけだ。どういう経緯かは知らないが、早稲田の政経学部が2021年の入試から数学を必修科目にしたと聞く。受験者は減るだろうから英断と思うが、この時代に「教育の品質」を守るためには必然の策だろう。マル経、近経を教えることは今どきは非先見思考型ですらなく、「何時代の学問か?」というのが世界史の設問になるだろう。北京大学の子に聞いたらマル経はありますが哲学科ですねと笑われた。僕がいかに学問する価値、教養の涵養が重要と説いてきたかは以前からの読者の皆さんはご存じだが、しかし、何経済学であろうと結構だが、目下の激しい円安をモデル化によって先見できるエコノミクスとできないエコノミクスを並べられれば、学生はどちらを履修したいと望むだろうか?ということではないか。
そういう観点から断言するが、高校数学もできない学生がそもそもエコノミクスをやるなんてアメリカのトップスクールではジョークだ。数学は計算問題を解くのがうまいへたを決する科目ではなく(僕はヘタだ。そういうのはパソコンやソロバン名人にまかせたい)、論理的思考に強い弱いを決定的にする、つまり人生航路の有利不利に大きく関わる学科である。なぜなら、くりかえすが、未来予測はモデル化という数学的思考が必須だからである。これからの時代はそれが価値を生み出す。それが当たるか外れるが問題なのではない、そういうアタマがないとそもそも社内会議にすらついていけない世の中になるのである。現状追認科目を丸暗記だけしてロジックに弱い人は、AIに真っ先に淘汰されるか、下請け作業をするだけの人材になる。そこからテスラは生まれないだろうし、そうした教育であれば高校までで十分可能であり、大学でやる必要さえないと思う。
(6)GAFA創業者たちの教訓
もう少し若い人に分かりやすく書こう。今流に言うなら、求められるのはどんなタイプの人か?インフルエンサー、キュレーター、クリエーターの3種類だ。それがforward-thinkerに近いと考えていい。いくらでも情報があるネットで他人と同じようなことを言っても面白くも何ともなく、フォロワーの数は増えない。同様に事業だって、人と同じようなことをやっても成功しないからだ。すなわち現状追認型はすべからくダメなのである。イーロン・マスクはまさに3種類どれもに当てはまる資質の人物であり、仮にyoutuberになれば世界中の若者が熱狂するだろう。そうなった場合の膨大な数のフォロワーがテスラの顧客であり株主だという感じで把握すればいいから別に難しいことではない。ただ、単なるyoutuberとGAFAの創業者たちが違うのは、彼らは異口同音にこれからの経営者が学ぶべき学問は数学と哲学だと数年前のダヴォス会議で述べていることだ。その両方がforward-thinking(先見思考)にとって必須科目であり、その十分な修得こそがリーダー(経営者)の条件だと言い換えればおおまかな想像がつくのではないだろうか。そして、会社において、どんなにクイズや雑学に強かろうと、計算が速かろうと、おべっかがうまかろうと、これからそれができない人がなれるのはフォロワー(一般社員)だけである。
GAFA創業者はみな米国の大学で学んでいる。元々forward-thinkerだった彼らが学びたいという教育を施せる教授がそこにはいたからだろうし、ゲイツのハーバード、マスクのスタンフォード退学はそうではなかったからだろう。そうなれば大学の評判まで落ちるから米国の大学教授はPublish or Perish(論文を書け、さもなくば辞めろ)という熾烈な環境で競争させられ、学期が終わると(僕もしたが)、学校は学生に「この先生はいかがでしたか?」と人気投票させる。サボる先生に容赦はない。しかし日本の大学教授にそんな試練はない。そのぬるま湯ゆえに「先見思考のカルチャーがない、教育者がいない、人材が育たない」を放置し続け、世界のビジネス環境が激変しているにもかかわらず現状追認型から一向に変化の兆しがないまま30年たってしまったというのが日本沈没の、表に出ないバックヤードだったのである。ビジネスとして赤字の私大が続出する時代にこれから突入していくのは物の道理だろう。
forward-thinkerが新たな需要・産業・商品を生み、ベンチャーを起業しまたは既存企業を経営しなければ経済は成長しない。主役は企業以外にない。これは日本を除く世界の常識で、あえて書くのも馬鹿らしい。明治時代ではあるまいし政府や役所が成長政策のペーパーを何百枚書いても、自分のカネでリスクを取ってそれをしてくれる人がいなければ何も起きない。だからこれからの大学は優秀な役人ばかりではなく先見思考型の企業家の育成に寄与する教育を求められる。ということはそこで教える教授陣が論理思考に強いforward-thinkerでなくてはそもそも話にも何にもならないのである。これからは大学を志望するのでなく、あの先生に習いたいからそこを受験するという時代に確実になるだろう。
(ご参考)
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ラフマニノフに回帰した今日このごろ
2022 APR 13 0:00:55 am by 東 賢太郎
ラフマニノフの第2協奏曲を弾こうと思った。ピアノに初めて触ったのはバッハの二声のインヴェンション1番とドビッシーのアラベスク1番で独学で何とかなった。バイエルもハノンもやってない。なんだ、大したことないな。それで2番に立ち向かったのは「高尾山に登れたのでエベレストに行くぞ」ということだ。馬鹿と思わない人は世界にひとりもいないだろう。
それは高1のころのことだったと思う。レコードでメロメロになってしまい、寝ても覚めてもそれだけ。要は2番のストーカーみたいになっていて、たまらない部分を何百回も弾けるまで練習した。好きこそものの上手なれとはよく言ったものでだんだんそれらしくなる。大音量で行く。おお、すごい、ラフマニノフだ!そこで満足して野球に熱が行ってしまい僕のピアノの成長は止まった。
それでも2番への愛は途切れなかった。ところが浪人することに決め、やがて数学にはまってバルトークを知って趣味が一変する。大学ではその勢いで現代物にはまってしまい、ラフマニノフは「二級の映画音楽」の地位に転落するという反抗期のようなものがやって来たからいけない。それ以来、あんなものに熱中していたのは何かの間違いだったという自己否定にまで至ることになるのである。
19世紀のウィーンの批評家ハンスリックがチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を「悪臭を放つ音楽」とまで言い放ったドイツ語圏のロシアへの侮蔑。それへの憎悪はレーニンにもスターリンにもプーチンの行為の根底にもある。英米独仏は露を半分アジアと見下し異質と扱っていることを知らないとNATOの成り立ちも、ユダヤ系のゼレンスキー大統領がプーチンにあろうことか「ナチ」呼ばわりされてしまう理由はわからないだろう。
英独仏の影響を受けて誕生した明治政府。それが招いたお雇い外国人による西洋音楽教育。東京音楽学校、東京大学の創立。その官製の流れをくむ日本の論壇。そこに露の入りこむ余地は微塵もなかった。僕の世代は戦後教育によってその世界観を教え込まれ、洗脳されていた。しかし受験に失敗して真っ暗になったその日に僕が取り出していたのは露西亜人ラフ様の第2交響曲のレコードだった。魂が必要なものしか受け付けない、どんな慰めも無意味な日の選択は実に重い。
最近、その想いが復活したのか、彼のピアノ協奏曲第3番には畏敬すら感じるようになっており、ホロヴィッツがメータとやったニューヨーク・フィルとのライブビデオなどあらためて感動している。2番も復活だ、こっちは甘酸っぱいまるで初恋の相手である。そんな気分に戻ることは最高のストレス解消だし、同時に、この憂愁とロマンのたぎりは尋常じゃない、書いた男は何者なんだという新たな好奇心がめらめらと湧き起こるのを感じる。
まず、こういうものを恥ずかしげもなく20世紀のドイツ人やフランス人が書くことは想定できない。イタリア人はあってもカラッと乾いた陽性のテンペラメントだ。ラフ様のロマンは沼に沈んだような湿度のある陰性と背中合わせで、いつも救われず満ち足りない。足りないままマグマが盛り上がるから熱くはなるが、いつも暗示は悲劇であり優しい夢想もほんの一時である。そして最後の最後に至って負の陰影は去り、想いは成就する。これが2,3番の共通の精神構造だ。
つまり沼の暗闇、欲求、否定、反抗、否定、夢想、否定の弁証法が手を変え品を変えうねうねと展開し、コーダで昇華して成就、快哉となるエネルギーの開放感たるや甚大なのだ。ベートーベンが全曲を通しての短調→長調、闇から光への猛烈な直進という新機軸で創造した運命交響曲の興奮だが、それがもたらすカタルシスの解消をラフ様はメランコリックな旋律と和声の迷宮で増幅しているわけだ。その「うねうね感」にロシアを感じると言ったら間違いだろうか?
そう言い切る自信がないのは、僕はロシアへ行ってないからだ。しかしホロヴィッツの演奏を聴いていると3番のうねうねは日本人にも通じると大いに感じる。僕は日本のクラシック受容は「サブカル型」と思っている。歌舞伎、浄瑠璃、講談、落語は武家の能・狂言に対する町人のサブカルチャーだった。明治の文明開化によってハイカラを競うニューアイテムになったクラシックは、鹿鳴館を離れそのサブカルのスペースにうまくもぐりこんだというのが僕の持論である。
歌舞伎の醍醐味は「千両役者」が「十八番」で「大向うをうならす」という3拍子がそろって「成田屋!」と声が掛かる場面にある。フルトヴェングラーのバイロイトの第九が日本で売れたのはその3つともあるからである。逆に、寄席で彩りとして演じられる漫才・曲芸・奇術などは「色物」と呼んで軽く見る。「カラヤンは色物だ」と識者ぶる馬鹿馬鹿しい風潮が1970年代はあった。江戸時代からある「鋳型」にあてはめてクラシックの受容が進んでいった痕跡である。
ホロヴィッツのラフマニノフ3番。クラシックの演奏史で「歌舞伎型」の音楽に千両役者をあててこれほどハマり、大向こうをうならせたドキュメントはそうはない。このビデオを見ている聴衆を相手にするこれからのピアニストは大変だと思う。しかし皮肉なもので、こういう人が現れたといってもそれは「稀有の場面」であったからこそビデオが残って珍重されているのであって、西洋のクラシック鑑賞にそういう要素がリクワイアメントとして求められるわけではない。
2020年に倒産したコロンビア・アート(CAMI)はスターを囲い込んで歌舞伎モデルによる業界支配を狙った会社だったが、ホロヴィッツやパバロッティだからチケットを買おうという人は、彼らが出演しなければ奥さんや恋人を劇場に誘う口実はなく、レコードはブロマイドだからスターが死ねばもう売れないのだ。1990年頃に肝心の千両役者が相次いで世を去り、モデル化は終焉した。わかった教訓は、クラシックにマイケル・ジャクソンは不要だったということだ。
日本の音楽産業はCAMIのマーケティングに乗って「巨匠」「名演」「定盤」の概念を生み出し、鹿鳴館のハイカラをうまく大衆化するのに成功した。歌舞伎の3拍子に欠けると「平板である」「無個性だ」と大根役者扱いされてしまう我が国の批評文化は欧州のそれとは似ても似つかないものだが、CAMIの米国流には偶然の親和性があり、ドル箱の日本はそれこそ神であったろう。しかしカラヤン、バーンスタイン、ホロヴィッツら御本尊が世を去ればそれも続かなかった。
その日本の「サブカル型」受容は「舶来品のプレミア・イメージ」と相まっていたが、水と油の矛盾を内包していた。「鹿鳴館のハイカラを競うアイテム」になったクラシックの輸入盤をまだ戦後の闇市、どや街の臭いが漂っていた秋葉原の電気屋街に買いに行く。舶来品は三越、高島屋の時代だ。この違和感は高校時代の僕にとって強烈だった。ラジオがオーディオ装置になり、それをハードとするならソフトであるレコードも同じ店で売る。理にかなってはいたのだが・・。
もっと凄かったのはオペラ、オペレッタだ。歌舞伎座はでんと銀座の真ん中にある。ところがオペラ座はなぜか浅草であって、当初はカルメンや椿姫もやっていたようだがその界隈というと僕にはストリップ小屋のイメージしかなかった。オペラ後進国の受容は特に「お国柄」が出る。パリではムーランルージュのキャバレー文化になり、ニューヨークではスタイリッシュなミュージカルになり、東京では「天国と地獄」のカンカン踊りを代名詞とする浅草オペラになったわけだ。
我が世代のクラシック入門書だったレコード芸術誌の新譜評の順番が交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲そしてオペラ、声楽曲であったのは受容がドイツ至上主義であった表れだろう。英国に赴任してグラモフォン誌の筆頭が声楽曲であるのをみて日本の特異性を知ったわけだが、当時の執筆陣の東大文学部美学科の先生方においては器楽曲は銀座、オペラは浅草の順とするのがレコ芸、すなわち日本のクラシック受容の権威にふさわしいコンセンサスだったのではと思う。
この目に見えぬ意識の呪縛を解くのに僕はヨーロッパに住んで10年の時を要した。そしてそのコンセンサスは、器楽、オペラのいずれにせよ闇市で売っていて違和感なしという本質的イメージギャップの上に成り立っていたのであって、権威の威光が剥げ落ちていけばプレミア・イメージも消えていく運命に元からあった。先日、渋谷のタワーレコードへ立ち寄ってみると、現代曲コーナーは消えてディズニー・コーナーになっていた。他は推して知るべしだ。
サブカルであれ何であれ、1970年代のクラシックは熱かった。ブーレーズのペトルーシュカやベーム / ウィーンフィルのブラームス交響曲全集という「新譜」を購入したワクワク感! あれは小学生のころ毎週待ちわびていた少年サンデーが家に届いて袋を開く歓喜の瞬間そのものである。ともすればお高くとまった舶来の嗜好品、辛気臭い骨董品になってしまうクラシック音楽をそこまで大衆化して楽しませてくれた日本の音楽産業の遊び心は偉大だ。敬意と感謝を記したい。
そんな時代になってしまったようだが、いまも僕は50年前に指に教えこんだラフマニノフ2番のつまみ食いを弾くことができる。その都度、ああなんていい音楽なんだろうと感謝する。これを覚えたアシュケナージのレコードに感激する。そして、このホロヴィッツの神がかった演奏に震撼しているのだ。ラフマニノフが二級の映画音楽であろうがなかろうが、プーチンのロシアにどんな制裁がくだされようが、この喜びは1ミクロンも減ることはない。
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昨日パレスホテルで「しなかった」スピーチ
2022 APR 9 14:14:49 pm by 東 賢太郎
きのうは会長をさせていただいている某社のパーティがパレスホテルでありました。オープニング・スピーチを仰せつかっていたのでお話ししようと思っていたテーマがあり、壇上に立ってマイクの前でさあ始めようと思ったその時です。照明の具合もあったのかもしれませんが、その場にいる皆さんの顔がぱっと輝いて見え、「ここにいる人たちは運があるな」と思ったのです。そこで急遽そのテーマはとりやめ、感じた通りのことをお話ししました。
だいたい僕の直感は当たるのです。だったらそれを喋った方が皆さんにとっていいわけですね。これを読まれている社員もおられるでしょう、「喋らなかった方」もここに書いておくので昨日の話といっしょに覚えておいてください。「通貨と暗号資産の価値」のことです。暗号資産はこれまで仮想通貨と呼ばれてきたように「仮想」のものでフェイクで実体価値がないと指摘されますね。それは債券や株式と比べればたしかに事実かもしれませんが、それを言うなら法定通貨だってただの紙なんですね。戦争や財政破綻でデフォルトしかねない国家の保証よりも、ブロックチェーンで数学的に価値を証明されたものの方が実は安全かもしれず、そう考える人が増えれば増えるほど、安全性も増していくんです。今回のウクライナ危機でルーブルが乱高下したことで世界が痛感したことです。
世界の資産家の間ではそういうことはすでに常識になっています。ですから暗号資産はこれから世界の金融資産の一部を構成するようになっていきます。誰かが頑張ってそうなるのではなく自然な流れとしてです。残念ながら、日本はそうした金融知識の面では「超低開発国」なのですね、だからそう説明されても理解して実行できる人は日本ではものすごく少数派なんです。それは誰が悪いわけでもなく、ものの考え方という文化ですから仕方ありません。40年もその業界にいてそれでは日本人の幸福にはならない、変えなくちゃいけないと痛感しながら何もできていません。しかも日本人の貯蓄はほぼ「円建て」なんですね、日銀にはあからさまなテーパリングはやりにくい事情がありますから円が弱くなっていく傾向は当面は続くでしょう。良い円安、悪い円安などとよく言われますが、日本人の購買力も投資余力も衰えますから良い円安なんてものはありません。
でも安くなってるのは円だけじゃない、これがポイントです。「ビットコインが上がっている」というのは「暗号資産に対してドルが下がっている」という意味です。「暗号資産が世界の金融資産の一部になって行く」と書きましたが、それはイーロン・マスク氏のようにドルを売ってコインを買う人が現実にたくさんいるからそうなるわけです。貯蓄だけではありません、物を買ったときの支払い(決済)目的でもそれはこれから大きな規模で起こります。銀行を飛ばして決済できるので一面でマネロン手段になるデメリットはありますが、それさえきっちり管理されれば手間、時間、コストどれをとっても多大なユーザーメリットになります。ビットコインの価値を保証する国家は世界のどこにもありませんが、それは弱点ではないのですね、必要ないのです。なぜなら、ハッシュ関数を世界の有志が競って高速コンピューターをつないで解いた存在証明は「数学」ですからごまかしようがなく、それがあれば万人がビットコインの価値を信用するでしょう。スイスのツーク州のようにコインで納税を認めるケースも現れました。あとは時間の問題です。信用される資産は世界のどこでも通用し、流通します。
だから、インチキな「草コイン」に騙されてはいけませんが、グローバルなインフラがしっかりした発行体によるコイン、それもステーブル・コインといって通貨やゴールドに兌換性のあるものは購入して資産の一部に組み入れたほうが資産は “トータルに安全” になります。その価格が上昇した時の機会損失を防げるからです。つまり、コインを投機として「上がるから買う」のではなく「安全にするために買う」のです。世界の富裕層の関心事は資産防衛ですから勝手に潮流がそうなっていきます。すると、現象面だけ眺めている一般の人の目には「そのコインの値段が上がってる」というふうに映るわけで、多くのマスコミもそう騒ぎますが、投機でそうなったわけではなく「マクロの経済現象」ですからついて行った方がいいのですね。代表格のビットコイン、イーサリアムも結構ですし、これから3番手に育っていくようなコインもその目的には効果的でしょう。
僕は会長としてかようなことを世の中に広めていく立場にあると考えています。国民が老後を年金だけに頼らず幸せに暮らしていくために知っておくべき金融知識と信じるからです。もちろんブログにも書きますしタレントさんにもお手伝いを願いたいと思っていますが、40年金融ビジネスに携わってきた自分の言葉でなるべく分かりやすくお伝えしたい、そう考えてます。金融屋は自分の金儲け第一というのが世間の相場でありましょう。僕も例外ではなかったわけですが、おカネを商品とするプロの金融マンはそこでケンカに強くないと生きていけないからという理由もあります。他人様の心配までしてケンカには勝てませんので。ちなみに、テレビや著書で為替や株式を論じる人は実は投資ではなく出演料や印税で食っているアマチュアで、僕のように資産を99%ドルにするようなプレーヤーはいません。そういう人は自説を他人に教えたりしないから当然ですね。
もうそういうことは卒業のつもりですから大事なのは他利(do for others)と考えてます。そういうスタンスに徹すれば、社内外で頼ってくださる方がいるかなとも感じております。普通は第一線から身を引くトシですからね、頼られるのはとてもありがたいし、やりがいを感じることです。でも、自分で言うのもおこがましいですが、僕は自分で正しいと信じたことを国内外でやって実証してきましたからひとりでお墓に持っていくのはもったいないとも思うのです。ブログにしたものもありますが、やっぱりリアルで生で話した方が伝わりますね。役職員の皆さんはそういう機会が出てきますし、いずれ公開されますから外部の方でもセミナー等でそういうことができるかと思います。
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2022-04-15/RAB88RT0AFB501
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