Sonar Members Club No.1

カテゴリー: ______シベリウス

N響 パーヴォ・ヤルヴィを聴く

2015 FEB 15 1:01:27 am by 東 賢太郎

9月からN響主席になるパーヴォ・ヤルヴィの指揮でシベリウスVn協(庄司紗矢香)とシショスタコーヴィチ交響曲第5番であった。

庄司紗矢香は僕自身こんなにほめていて( 庄司紗矢香のヴァイオリン)、ライブで聞くのは初めてで期待があった。一方シベリウスは僕にとってこういう曲であって( シベリウス ヴァイオリン協奏曲ニ短調作品47)、さてどうなるかというところだった。そこに書いた通り「女性がG線のヴィヴラート豊かにぐいぐい迫ってくるみたいなタイプの演奏はまったく苦手」であるのだが、意外にもそうでないのはほっとした。

結論を言うとちょっと残念。そこに書いた欠点の方は健在であったが美質の方が消えている。あのブラームスを弾いていた彼女にしてはぜんぜん音楽に入れておらずどこかかみ合わない。ヤルヴィの指揮はオケのパースペクティブが明確で風通しが良いのが長所だが、この曲では木管が裸で聴こえたり急な起伏が分裂症気味に聞こえ、第1楽章はただでさえ分裂気味なスコアがそのまま鳴っている感じで庄司の音楽性とマッチしてない。それが原因だったのだろうか。

第2楽章はまだ若いのだろう、あのワーグナー和音の前のモノローグは何なのか彼女は知らないかもしれない。これは良い演奏を聴きすぎている。美点を書いておくとG線までエッジのはっきりした大きな音で鳴っており、ツボにさえハマれば聴衆を圧倒する力のあるヴァイオリニストということはわかった。

ショスタコーヴィチは良かった。僕は5番とはこういうスタンスで付きあってきた(  ショスタコーヴィチ 交響曲第5番ニ短調 作品47)。解説を読むとベンディツキーという人による作曲家が熱愛したエレーナにまつわる「愛と死」のテーマ、カルメンからの引用について触れられている。注意して耳を傾けたがどこがハバネラなのか全く不明であった。15番の例もあるからそうなのかもしれないが僕はこの曲に女の影など聞かない。あるのは重く湿って不気味にリズミックな軍靴の響きへの絶望的な恐怖だ。

プラウダ批判の恐怖がなければ彼は4番を発表してこのような平明な調性音楽を書くことはなかっただろう。その恐怖の対象がいかに凶暴で理性を逸脱した野獣のものだったか、それは平民はおろかロマノフ王家全員惨殺のむごたらしさを見ればわかる。この5番に隠された自我の屈折はそれに目をつぶってはわからないと思う。

今日の第3楽章は最高のもののひとつ。(第1楽章も好演だったがコーダの最も大事なppのところで大きな咳やセロファンのシャラシャラが入ってしまった)。第2楽章のチェロの激しいアタックはマーラー演奏の影響を感じる。終楽章はスネアドラムが軍靴の響きを告げて冒頭主題が回帰してからあんまりテンポが変わらない。これは非常に納得である。

コーダはムラヴィンスキーに似るがやや速く、彼が微妙に減速するところもそのまま行く。大太鼓が入ってからはほとんどの人が減速するがそれもしないのはスヴェトラーノフに近い。このやり方は葬列を思わせるが戦車の行軍でもあり、作曲家の意図だったかどうかはともかく重量級のインパクトがある。バーンスタインやショルティのように快速で入って2回も大減速をする安芝居は勘弁してほしい。

N響をこういう風に鳴らす指揮者は少ない。だいたいが功成り名を遂げたおじいちゃんを呼んでくるわけで、あと何年生きてますかという老人の棒に憧れの欧州への畏敬をこめてついていけば首にならないという公務員みたいなオケだ。一人の音楽監督が強大な人事権でばっさりということがない。あらゆる業界、そんなので世界一流になれるほど世界は甘くない。悪く言えば名曲アルバムのオケみたいになりかねない。ヤルヴィは全権を渡してリードさせればいい仕事をしそうな面構えだ。

ところでN響はコンマスも替わるらしい。誰であってもいいが客としてはただひとつ、ヴァイオリンセクションがいい音を出せる人にしていただきたい。なお今春から読響定期も聴いてみることにした。

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僕が聴いた名演奏家たち(サー・コリン・デービス)

2015 JAN 10 0:00:11 am by 東 賢太郎

コリン・デービスの名はずいぶん早くから知っていた。それは名盤といわれていたアルトゥール・グリュミオーやイングリット・ヘブラーのモーツァルトの協奏曲の伴奏者としてだ。リパッティのグリーグ協奏曲を伴奏したアルチェオ・ガリエラやミケランジェリのラヴェルト長調のエットーレ・グラチスもそうだが、超大物とレコードを作るとどうしても小物の伴奏屋みたいなイメージができて損してしまう。

それを大幅に覆したのが僕が大学時代に出てきた春の祭典ハイドンの交響曲集だ。どちらもACO。何という素晴らしさか!演奏も格別だったが、さらにこれを聴いてコンセルトヘボウの音響に恋心が芽生えたことも大きい。いてもたってもいられず、後年になってついにそこへ行ってえいやっと指揮台に登って写真まで撮ってしまう。その情熱は今もいささかも衰えを知らない。

彼は最晩年のインタビューで「指揮者になる連中はパワフルだ」と語っている。これをきいて、子供のころ、男が憧れる3大職業は会社社長、オーケストラの指揮者、プロ野球の監督だったのを思い出した。ところが「でも、実は指揮にパワーなんていらない。音楽への何にも勝る情熱と楽団員への愛情があれば良いのだ」ともいっている。これは彼の音楽をよくあらわした言葉だと思う。

サー・コリンが一昨年の4月に亡くなった時、何か書こうと思って書けずにきてしまったのは、ロンドンに6年もいたのに驚くほど彼を聴いていないのに気がついたからだ。彼が晩年にLSOとライブ録音した一連のCDを聴いていちばん興味を持っていた指揮者だったのに・・・。youtubeにあるニューヨーク・フィルとのシベリウス3番のライブを聴いてみて欲しい。こんな演奏が生で聴けていたら!

僕がクラシック覚えたてのころ彼のお決まりの評価は「英国風の中庸を得た中堅指揮者」だ。当時、「中庸」は二流、「中堅」はどうでもいい指揮者の体の良い代名詞みたいなものだった。それはむしろほめている方で、ドイツ音楽ではまともな評価をされずほぼ無視に近かったように思う。若い頃のすり込みというのは怖い。2年の米国生活でドイツ音楽に飢えていた僕があえて英国人指揮者を聴こうというインセンティブはぜんぜんなかった、それがロンドンで彼を聴かなかった理由だ。

それを改める機会はあった。93年11月9日、フランクフルトのアルテ・オーパーでのドレスデンSKを振ったベートーベンの第1交響曲ベルリオーズの幻想だ。憧れのDSK、しかも幻想はACOとの名録音がある。しかし不幸なことに演奏は月並みで、オケの音も期待したあの昔の音でなかったことから失望感の方が勝っていた。これで彼への関心は失せてしまったのだ。もうひとつ98年5月にロンドンのバービカンでLSOとブラームスのドッペルを聴いているが、メインのプロが何だったかすら忘れてしまっているのだからお手上げだ。ご縁がなかったとしかしようがない。

davisしかし彼の録音には愛情のあるものがある。まずLSOを振ったモーツァルト。ヘレン・ドナートらとの「戴冠ミサ」K.317、テ・カナワとのエクスルターデなどが入ったphilips盤(右)である。このLPで知ったキリエK341の印象が痛烈であった。後にアラン・タイソンの研究で 1787年12月〜89年2月の作曲という説が出て我が意を得た。ミュンヘン時代の作品という説は間違いだろう。

5969523僕のデービスのベスト盤はこれだ。ACOとのハイドン交響曲第82,83番である。もし「素晴らしいオーケストラ演奏」のベスト10をあげろといわれたら彼のハイドン(ロンドンセットは全曲ある)は全部が候補だが、中でもこれだ。なんという自発性と有機性をそなえた見事なアンサンブルか。音が芳醇なワインのアロマのように名ホールに広がる様は聞き惚れるしかない。こういう天下の名盤が廃盤とはあきれるばかりだが、これをアプリシエートできない聴き手の責任でもあるのだ。

16668gこのハイドンと同様のタッチで描いたバイエルン放送SOとのメンデルスゾーン(交響曲3,4,5番と真夏の夜の夢序曲)も非常に素晴らしい。オーケストラの上質な柔軟性を活かして快適なテンポとバランスで鳴らすのが一見無個性だが、ではほかにこんな演奏があるかというとなかなかない。昔に「中庸」とされていたものは実は確固たる彼の個性であることがわかる。5番がこういう演奏で聴くとワーグナーのパルシファルにこだましているのが聞き取れる。

51BSnT5oJxL__SX425_シューベルトの交響曲全集で僕が最も気に入っているのはホルスト・シュタインだが後半がやや落ちる。全部のクオリティでいうならこれだ。DSKがあのライブは何だったんだというぐらい馥郁たる音で鳴っており1-3番に不可欠の整然とした弦のアーティキュレーションもさすが。僕は彼のベートーベン、ブラームス全集を特に楽しむ者ではないが、こういう地味なレパートリーで名演を成してくれるパッションには敬意を表したい。4番ハ短調にDSKの弦の魅力をみる。

41AQABHVRZL春の祭典、ペトルーシュカだけではない、この火の鳥もACOの音の木質な特性とホールトーンをうまくとらえたもので強く印象に残っている。この3大バレエこそ彼が中庸でも中堅でもないことを示したメルクマール的録音であり、数ある名演の中でも特別な地位で燦然と輝きを保っている。 オケの棒に対する反応の良さは驚異的で「火の鳥の踊り」から「火の鳥の嘆願」にかけてはうまさと気品を併せ持つ稀有の管弦楽演奏がきける。泥臭さには欠けるがハイセンスな名品。

51k8eFkIMIL__SX425_ブラームスのピアノ協奏曲第2番、ピアノはゲルハルト・オピッツである。1番はいまひとつだが2番はピアノのスケールが大きくオケがコクのある音で対峙しつつがっちりと骨格を支えている。オピッツはラインガウ音楽祭でベートーベンのソナタを聴いたがドイツものを骨っぽく聞かせるのが今どき貴重だ。この2番も過去の名演に比べてほぼ遜色がない。ヘブラーやグリュミオーのモーツァルトもそうだがデービスはソリストの個性をとらえるのがうまい。録音がいいのも魅力。

 

あとどうしてもふたつ。 ヘンデル メサイアより「ハレルヤ」(Handel, Hallelujah) に引用した彼のヘンデル「メサイア」は彼のヘンデルに対する敬意に満ちた骨太で威厳のあるもので愛聴している。そしてLSOとのエルガー「エニグマ変奏曲」も忘れるわけにはいかない代表盤である。

(こちらへどうぞ)

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

エルガー「エニグマ変奏曲」の謎

 

 

 

 

 

 

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クラシック徒然草-冬に聴きたいクラシック-

2014 NOV 16 23:23:26 pm by 東 賢太郎

冬の音楽を考えながら、子供のころの真冬の景色を思い出していた。あの頃はずいぶん寒かった。泥道の水たまりはかちかちに凍ってつるつる滑った。それを石で割って遊ぶと手がしもやけでかゆくなった。団地の敷地に多摩川の土手から下りてきて、もうすっかり忘れていたが、そこがあたり一面の銀世界になっていて足がずぶずぶと雪に埋もれて歩けない。目をつぶっていたら、なんの前ぶれもなく突然に、そんな情景がありありとよみがえった。

ヨーロッパの冬は暗くて寒い。それをじっと耐えて春の喜びを待つ、その歓喜が名曲を生む。夏は日本みたいにむし暑くはなく、台風も来ない。楽しいヴァケイションの季節だ。そして収穫の秋がすぎてどんどん日が短くなる頃の寂しさは、それも芸術を生む。 ドイツでオクトーバー・フェストがありフランスでボジョレ・ヌーボーが出てくる。10-11月をこえるともう一気にクリスマス・モードだ。アメリカのクリスマスはそこらじゅうからL・アンダーソンの「そりすべり」がきこえてくるが、欧州は少しムードが違う。

思い出すのは家族を連れて出かけたにニュルンベルグだ。大変なにぎわいの巨大なクリスマス市場が有名で、ツリーの飾りをたくさん買ってソーセージ片手に熱々のグリューワインを一杯やり、地球儀なんかを子供たちに隠れて買った。当時はまだサンタさんが来ていたのだ。そこで観たわけではないのだがその思い出が強くてワーグナーの「ニュルンベルグの名歌手」は冬、バイロイト音楽祭で聴いたタンホイザーは夏、ヴィースバーデンのチクルスで聴いたリングは初夏という感覚になってしまった。

クリスマスの音楽で有名なのはヘンデルのオラトリオ「メサイア」だ。この曲はしかし、受難週に演奏しようと作曲され実際にダブリンで初演されたのは4月だ。クリスマスの曲ではなかった。内容がキリストの生誕、受難、復活だから時代を経てクリスマスものになったわけだが、そういうえばキリストの誕生日はわかっておらず、後から12月25日となったらしい。どうせなら一年で一番寒くて暗い頃にしておいてパーッと明るく祝おうという意図だったともきく。メサイアの明るさはそれにもってこいだ。となると、ドカンと騒いで一年をリセットする忘年会のノリで第九をきく我が国の風習も捨てたものではない。メサイアの成功を意識して書かれた、ハイドンのオラトリオ「天地創造」も冬の定番だ。

チャイコフスキーのバレエ「くるみ割り人形」、フンパーディンクの歌劇「ヘンゼルとグレーテル」はどちらも年末のオペラハウスで子供連れの定番で、フランクフルトでは毎年2人の娘を連れてヴィースバーデンまで聴きに行った懐かしの曲でもある。2005年末のウィーンでも両方きいたが、家族連れに混じっておじさん一人というのはもの悲しさがあった。ウイーンというと大晦日の国立歌劇場のJ・シュトラウスのオペレッタ「こうもり」から翌日元旦のューイヤー・コンサートになだれこむのが最高の贅沢だ。1996-7年、零下20度の厳寒の冬に経験させていただいたが、音楽と美食が一脈通ずるものがあると気づいたのはその時だ。

さて、音楽そのものが冬であるものというとそんなにはない。まず何よりシベリウスの交響詩「タピオラ」作品112だ。氷原に粉吹雪が舞う凍てつくような音楽である。同じくシベリウスの交響曲第3、4、5、6、7番はどれもいい。これぞ冬の音楽だ。僕はあんまり詩心がないので共感は薄いがシューベルトの歌曲「冬の旅」は男の心の冬である。チャイコフスキーの交響曲第1番ト短調作品13「冬の日の幻想」、26歳の若書きだが僕は好きで時々きいている。

次に、特に理由はないがなぜかこの時期になるとよくきく曲ということでご紹介したい。バルトーク「ヴァイオリン協奏曲第2番」プロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」がある。どちらも音の肌触りが冬だ。ラヴェルの「マ・メール・ロワ」も初めてブーレーズ盤LPを買ったのが12月で寒い中よくきいたせいかもしれないが音の冷んやり感がこの時期だ。そしてモーツァルトのレクイエムを筆頭とする宗教曲の数々はこの時期の僕の定番だ。いまはある理由があってそれをやめているが。

そうして最後に、昔に両親が好きで家の中でよくかかっていたダークダックスの歌う山田耕筰「ペチカ」と中田喜直「雪の降る町を」が僕の冬の音楽の掉尾を飾るにふさわしい。寒い寒い日でも家の中はいつもあったかかった。実はさっき、これをきいていて子供のころの雪の日の情景がよみがえっだのだ。

 

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クラシック徒然草-秋に聴きたいクラシック-

2014 OCT 5 12:12:43 pm by 東 賢太郎

以前、春はラヴェル、秋にはブラームスと書きました。音楽のイメージというのは人により様々ですから一概には言えませんが、清少納言の「春はあけぼの」流独断で行くなら僕の場合やっぱり 「秋はブラームス」 となるのです。

ブラームスが本格的に好きになったのは6年住んだロンドン時代です。留学以前、日本にいた頃、本当にわかっていたのは交響曲の1番とピアノ協奏曲の2番ぐらいで、あとはそこまでつかめていませんでした。ところが英国に行って、一日一日どんどん暗くなってくるあの秋を知ると、とにかくぴたっと合うんですね、ブラームスが・・・。それからもう一気でした。

いちばん聴いていたのが交響曲の4番で毎日のようにかけており、2歳の長女が覚えてしまって第1楽章をピアノで弾くときゃっきゃいって喜んでくれました。当時は休日の午後は「4番+ボルドーの赤+ブルースティルトン」というのが定番でありました。加えてパイプ、葉巻もありました。男の至福の時が約束されます、この組み合わせ。今はちなみに新潟県立大学の青木先生に送っていただいた「呼友」大吟醸になっていますが、これも合いますね、最高です。ブラームスは室内楽が名曲ぞろいで、どれも秋の夜長にぴったりです。これからぼちぼちご紹介して参ります。

クラシック徒然草-ブラームスを聴こう-

英国の大作曲家エドワード・エルガーを忘れるわけにはいきません。「威風堂々」や「愛の挨拶」しかご存じない方はチェロ協奏曲ホ短調作品85をぜひ聴いてみて下さい。ブラームスが書いてくれなかった溜飲を下げる名曲中の名曲です。エニグマ変奏曲、2曲の交響曲、ヴァイオリン協奏曲、ちょっと渋いですがこれも大人の男の音楽ですね。秋の昼下がり、こっちはハイランドのスコッチが合うんです。英国音楽はマイナーですが、それはそれで実に奥の深い広がりがあります。気候の近い北欧、それもシベリウスの世界に接近した辛口のものもあり、スコッチならブローラを思わせます。ブラームスに近いエルガーが最も渋くない方です。

シューマンにもチェロ協奏曲イ短調作品129があります。最晩年で精神を病んだ1850年の作曲であり生前に演奏されなかったと思われるため不完全な作品の印象を持たれますが、第3番のライン交響曲だって同じ50年の作なのです。僕はこれが大好きで、やっぱり10-11月になるとどうしても取り出す曲ですね。これはラインヘッセンのトロッケン・ベーレンアウスレーゼがぴったりです。

リヒャルト・ワーグナーにはジークフリート牧歌があります。これは妻コジマへのクリスマスプレゼントとして作曲され、ルツェルンのトリープシェンの自宅の階段で演奏されました。滋味あふれる名曲であります。スイス駐在時代にルツェルンは仕事や休暇で何回も訪れ、ワーグナーの家も行きましたし教会で後輩の結婚式の仲人をしたりもしました。秋の頃は湖に映える紅葉が絶景でこの曲を聴くとそれが目に浮かびます。これはスイスの名ワインであるデザレーでいきたいですね。

フランスではガブリエル・フォーレピアノ五重奏曲第2番ハ短調作品115でしょう。晩秋の午後の陽だまりの空気を思わせる第1楽章、枯葉が舞い散るような第2楽章、夢のなかで人生の秋を想うようなアンダンテ、北風が夢をさまし覚醒がおとずれる終楽章、何とも素晴らしい音楽です。これは辛口のバーガンディの白しかないですね。ドビッシーフルートとビオラとハープのためのソナタ、この幻想的な音楽にも僕は晩秋の夕暮れやおぼろ月夜を想います。これはきりっと冷えたシェリーなんか実によろしいですねえ。

どうしてなかなかヴィヴァルディの四季が出てこないの?忘れているわけではありませんが、あの「秋」は穀物を収穫する喜びの秋なんですね、だから春夏秋冬のなかでも音楽が飛び切り明るくてリズミックで元気が良い。僕の秋のイメージとは違うんです。いやいや、日本でも目黒のサンマや松茸狩りのニュースは元気でますし寿司ネタも充実しますしね、おかしくはないんですが、音楽が食べ物中心になってしまうというのがバラエティ番組みたいで・・・。

そう、こういうのが秋には望ましいというのが僕の感覚なんですね。ロシア人チャイコフスキーの「四季」から「10月」です。

しかし同じロシア人でもこういう人もいます。アレクサンダー・グラズノフの「四季」から「秋」です。これはヴィヴァルディ派ですね。この部分は有名なので聴いたことのある方も多いのでは。

けっきょく、人間にはいろいろあって、「いよいよ秋」と思うか「もう秋」と思うかですね。グラズノフをのぞけばやっぱり北緯の高い方の作曲家は「もう秋」派が多いように思うのです。

シューマンのライン、地中海音楽めぐりなどの稿にて音楽は気候風土を反映していると書きましたがここでもそれを感じます。ですから演奏する方もそれを感じながらやらなくてはいけない、これは絶対ですね。夏のノリでばりばり弾いたブラームスの弦楽五重奏曲なんて、どんなにうまかろうが聴く気にもなりません。

ドビッシーがフランス人しか弾けないかというと、そんなことはありません。国籍や育ちが問題なのではなく、演奏家の人となりがその曲のもっている「気質」(テンペラメント)に合うかどうかということ、それに尽きます。人間同士の相性が4大元素の配合具合によっているというあの感覚がまさにそれです。

フランス音楽が持っている気質に合うドイツ人演奏家が多いことは独仏文化圏を別個にイメージしている日本人にはわかりにくいのですが、気候風土のそう変わらないお隣の国ですから不思議でないというのはそこに住めばわかります。しかし白夜圏まで北上して英国や北欧の音楽となるとちょっと勝手が違う。シベリウスの音楽はまず英国ですんなりと評価されましたがドイツやイタリアでは時間がかかりました。

日本では札幌のオケがシベリウスを好んでやっている、あれは自然なことです。北欧と北海道は気候が共通するものがあるでしょうから理にかなってます。言語を介しない音楽では西洋人、東洋人のちがいよりその方が大きいですから、僕はシベリウスならナポリのサンタ・チェチーリア国立管弦楽団よりは札幌交響楽団で聴きたいですね。

九州のオケに出来ないということではありません。南の人でも北のテンペラメントの人はいます。合うか合わないかという「理」はあっても、どこの誰がそうかという理屈はありません。たとえば中井正子さんのラヴェルを聴いてみましたが、そんじょそこらのフランス人よりいいですね。クラシック音楽を聴く楽しみというのは実に奥が深いものです。

 

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シベリウス 交響曲第4番イ短調作品63

2014 JUL 20 19:19:52 pm by 東 賢太郎

音楽は時としてすぐれた解釈者を必要とする。

シベリウスの4番という交響曲はもっとも聴き手にも時代にも妥協なく書かれた音楽だろう。1908年、喉に腫瘍ができたシベリウスは5月に手術を受けた。しかし医師はさらに専門医の診察を受けるよう勧め、再度6月に手術を行った。死を意識したであろう。 その時に書かれたのがこの4番である。

つい先日のブログで北ハイランドのBroraというシングルモルトをご紹介した。僕の中で、実はこのスコッチこそシベリウスの4番の味がするのだ。人の五感を慰撫する女性的なものとは隔絶した極北の孤独のあったかみである。シベリウスが愛してやまなかった酒と葉巻のにおいがする。女性には申しわけないがたぶん男、それも子供ではなく人生の酸いも甘いもかみ分けた熟年のおやじにしかわからないだろう「苦みと渋みの悦楽」なのである。

sibelius4子供であった僕にこの曲は難しすぎた。これの味を覚えたのはロンドン時代も末になった89年頃、やっと34、5歳の声をきいたあたりのことである。当時、LPからCDへのフォーマットの移行でOxford streetのレコード屋(HMV)がLPを投げ売りしていた。そこで3.99ポンド(当時千円ほど)で買ったのがこれで、この演奏が神の啓示のように4番のすべてに光を当てて見せてくれたのである。

非常に驚くべきことだが、この演奏は60年代のウィーン・フィルによるものである。これは今もってこの名門の唯一のシベリウス全集であり、この時点で4番を弾きなれていたとは到底思えない。ところがこの精緻な表情はどうだ。第1楽章のうねるような弦、第3楽章の木管のニュアンスの豊かなこと。終楽章の冒頭、弦のアンサンブルは磨き抜かれ、初めてこれがVPOであることを思い出させ、それが調性感豊かな曲想であることもわかる。慣れていないオケがここまで楽想を消化しきったフレージングとバランスで鳴るのは驚異といっていい。同じく若手でVPOを振ったケルテスやシャイーの新世界やチャイコフスキー5番とは次元の違った偉業というしかない。

オケに緊張感がみなぎり聴き手に安易な聞き流しを許容しないこの交響曲で、マゼール盤の終楽章に軽やかに響くグロッケンシュピール(鉄琴)の涼やかな銀色の音色は印象に残る。だからオーマンディ盤、デーヴィス盤で中間部の二分音符でチューブラーベルが鳴るのはびっくりした。2オクターヴ高い鉄琴とは似ても似つかない鐘(NHKのど自慢のあれ)である。ただシベリウスに会ったオーマンディーはベルだと言われたらしい。セルのライブは初めの音符から「ベル」を重ねている。さすがだ。

当時仕事でひどい苦難に見舞われていた僕は宇宙の全ての事物の中でこの音楽に唯一の安息の場を見つけることができ、暗がりの中でこのLPをかけて光明を見いだすという日々を送った。真剣に会社を去ることを考えた。音楽にも適材適所があるのであり、そんなときはモーツァルトもラヴェルも無力で邪魔なだけだという意外なことを知った。今でもこれを聴くと当時のロンドンの薄暗くて低い雲間の驟雨を思い出す。それはもはや嫌な記憶ではなく、傷だらけになりながらも何か絶壁のように切りたった崖を登り越えたという抽象的なメモリーに風化している。一音一音が脳裏に焼き付いているこのマゼールの4番は僕の精神史の巨大なモニュメントである。

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シベリウス 交響曲第5番 変ホ長調 作品82

 

 

 

 

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ネーメ・ヤルヴィのシベリウス2番を聴く

2014 APR 20 0:00:43 am by 東 賢太郎

今日はN響Cプロをききました。座席は一階中央10列目右寄りで、低弦がわずかに強めに聴こえる位置ですが、このホールはそのほうがいいです。グリーグ「ペールギュント組曲1番」、スヴェンセン交響曲第2番が前半で、ここまではまあまあでした。ペールギュントはあえてこれを聴こうということはないので実演は初めてです。「朝」は意外にオーケストレーションが厚い(厚すぎる?)という感じがしました。アニトラの踊りでは弦が良い音で鳴っていましたし、好演だったと思います。

2曲目のスヴェンセンは期待しましたがどうもメリハリの薄い平板な音楽で、部分的に美しいものの和声の起承転結にあまり説得力を感じません。第1楽章のリズムやフォークダンス風の楽想の利用などシューマンのライン交響曲を意識した感じもしましたが才能の差はどうしようもありません。1番の方が初々しくて好きであります。

さて後半は今日のメインです。シベリウスの交響曲第2番に涙が出るほど感動いたしました。久々にいただいた音楽のパワーに酔い、ここ数日の疲れが吹っ飛びました。今まで、70年のジョージ・セルの東京ライブを聴いた人に嫉妬していましたが、この演奏を聴けたことでもうそれから解放されるでしょう。

ネーメ・ヤルヴィはずいぶん録音があって我が家のCD棚にも相当あります。BISレーベルのシベリウスはCDというフォーマットが出たての80年代初めに「ダイナミックレンジが広いので音量に注意しないとスピーカーを破損する可能性があります」というウォーニングが黒いジャケットに書いてあったのが懐かしい。彼の録音は450タイトルだそうで、カラヤンやオーマンディーもびっくりの新記録じゃないでしょうか。

息子のパーヴォがやはり指揮者で出てきて、僕は確か98年ぐらいに出張で行ったロンドンで聴きました。そのときの牧神の午後への前奏曲がとても良くて、あれはかつて聴いたその曲の最高の演奏として今でも記憶に残っています。だから息子のイメージが先行していて、親父のほうはライブは今日が初めてでした。

シベ2のテンポはCDとほぼ同じで第1楽章冒頭から早めです。以前に シベリウス2番のおすすめCD(その2)に書きましたがそれは作曲当時の生き証人であるカヤーヌスのテンポに近いのです。これもそれに近いテンポのポール・パレー盤と父ヤルヴィの旧盤を僕が1,2位として好んでいるのはそこにある通りです。その演奏が眼前で聴けたのは最高の喜びでした。

指揮者は大別して2タイプあります。君臨型と仲間型です。校長先生型と生徒会長型といってもいいでしょう。前者はトスカニーニ、セル、ライナー、チェリビダッケ、ムラヴィンスキーなどですが時代に合わないせいでしょうかほとんどトキなみの絶滅危惧種と化しています。去年聴いたアントン・ナヌートにかろうじてその残り香を感じましたが、父ヤルヴィにもそれがぷんぷんしていて、まずそれにうれし涙であります。

僕は仲間型、生徒会長型の指揮者は不満なのです。パワハラでオケから訴訟されそうなカミナリ親父でないと指揮なんてできないんじゃないかと思わせるほどトスカニーニやムラヴィンスキーの演奏は素晴らしい。オケに「気」がピーンと張っているのです。「いいね」を連発してオケをのせるタイプ、そんなのは映画やアダルトの監督ぐらいはできるだろうがあの怜悧なカミソリみたいな緊迫感は絶対に出ないでしょう。とにかく近年、コンサートでそういうものを感じたことがないのがその何よりの証拠だと思います。

今日はそれがありました。ヤルヴィの指揮棒は胸から肩ぐらいまで小さくしか動かず、(おそらく)アイコンタクト、それから体の動きで指示しているように見えました。どことなく映像で見たR・シュトラウスの指揮姿を思い出します。それがほんのまれに大きめの指示が出たりします。終楽章のニ長調でドレミシドレ・・・の全奏でF#の和音を作る瞬間のトロンボーン、チューバにそれが出るなど彼が音楽の流れに何を重視しているかわかって非常に面白かったです。

CDもそうですが金管のffは強めで大層メリハリがつき、ティンパニのトレモロも荒れ狂います。これがうるさくなく、こういう曲なのだという説得力があるのが不思議です。特に第2楽章はその白眉で大変すばらしかった。金管、ティンパニに対しチェロとは完全に独立して動くコントラバスが浮き出て聴こえることでスコアが立体的に鳴るというのは初めての経験であり、なるほどそうだったのかと納得です。第3楽章中間部のオーボエに独奏チェロがからむ美しい部分もそうです。

終楽章も基本的にインテンポで外連味がなく、小さい動作のままで激することなくオケだけが過熱していく様。これぞ君臨型!!将校が大軍を率いるようであり、ナポレオンの行軍かくやという光景であり、これぞ男の憧れ。ただただ「格好いい」のです。女性指揮者も活躍する時代になり、それとともに生徒会長どころかオトモダチ型まで現れた今日この頃、76歳のこわもて親父が「気」の支配で振る指揮棒には絶対に男にしかない権力の光が灯っていました。

音楽は姑息なギアチェンジやら減速して安っぽい盛り上げを狙うような手管は一切なく、堂々と王道を進んで最後のDの和音に登りつめ、ヤルヴィはその全力で鳴らされている音を両足を一歩前に進めて断ち切りました。いや、この重み、すごいものです。2番はこういう曲なんだという威厳ある意志とメッセージにオケがコントロールされているようで、当方もいつもは気になる弦の美感やらバランスの良し悪しなど意識からはじき出されていました。

久々に出会った本物中の本物。今日はシベリウスだけで大満足です。

(こちらへどうぞ)

シベリウス交響曲第2番ニ長調 作品43

 

 

 

 

シベリウス ヴァイオリン協奏曲ニ短調作品47

2014 MAR 22 10:10:30 am by 東 賢太郎

始めはちっとも良いと思わないのにだんだん魅力に気がついてきて、ついには一番好きなものの一つになる。そういうことは世の中にあまりないのですが、シベリウスのヴァイオリン協奏曲は僕にとってその希少品の一つです。

どういうきっかけだったかハチャトリアンのVn協を聴いてみたくなり、買ったオイストラフのLPにこれが入っていたのが出会いでした。72年の4月だから高3になったばかりのことです。しかし最初はわけがわからなくてほとんど聴かず、2枚目のLPを買うこともありませんでした。

少し開眼したのは83年にフィラデルフィアO.でギドン・クレメールがスクロヴァチェフスキーの指揮で弾いたのを聴いたときで、そこからシェリングのカセットテープを買って聴き、それでだいぶ耳になじんだのです。しかしそれでもわかったとは程遠く、この曲を含むシベリウスの音楽の神髄を知るにはそれから赴任したロンドンの6年間を待つ必要がありました。

ロンドンの冬というのは特に寒くはないのですが、なにせ暗い。朝は8時ごろまで、夕方は4時からもうあたりは漆黒の闇です。しかも雲が多くて日が照らず月も星も出ず、冷たい驟雨がしとしと降る日が何日も何日も続きます。鬱病が多いのもうなづける灰色に沈み込んだ世界なのです。そのロンドンで4年目を迎えた年あたりからです、シベリウスの音楽がやっと肌でわかりだしたのは。シベリウスが作曲当初から今に至るまで英国で非常に人気があり、エルガーやバックスなど英国作曲家に大きな影響を与えたことが納得がいくようになりました。

クラシック音楽というのはそれが産まれた気候風土や土地の人の精神のありかたと深く結びついているのだということが欧米に13年半住んでの実感です。NHKの「名曲アルバム」はその点いい線をいっている番組と思いますが、気候風土、精神というものは絵葉書やVTRのような視覚媒体だけで伝わるものではありません。ブルックナーやブラームスを体で理解するにはドイツの森を知らなくてはならないと僕が思うのは別に高尚な音楽だからというものでもなく、例えば一生を北欧の気候で過ごした人がハワイアンを味わいたければCDを何度も聴くよりワイキキビーチに飛んだ方が早いだろうというのと同じ意味です。

この曲が人生で大切なものにまで大昇格となったのは次に赴任したフランクフルトで聴いたときです。93年3月27日、ヤーレ・フンダート・ハレという化学会社ヘキストの体育館みたいな乏しい音響の大ホールで、ジョシュア・ベルのヴァイオリン、ウルフ・シルマー指揮バンベルグ交響楽団の演奏でした。一生忘れない演奏会というのは突然に前ぶれもなく訪れるもので、このあとにやったドビッシーの「海」ともども完全にノックアウトを食らってしまい、ぶるぶる震える危ない手つきで運転して帰宅したことまで覚えているのです。

そのジョシュア・ベルの演奏がyoutubeにありました。彼も中年になりました。若者だったあの時より角は取れていますが、これも見事な名演です。是非じっくりお聴きいただきたい。

この協奏曲は初演がうまくいかなかったことと、ブラームスの協奏曲を聴いて考え直したことから改訂が加えられ、現行のものはその改訂版です。 第1楽章は特に初演稿と大きく変更がある楽章です。第2主題に別な和声付がなされていたりして驚くのですが、3つある主題が改訂版でもあまり有機的に構成された観がなく、再現部の前にカデンツァが来るなど独創的ではありますがソナタ形式としてまとまりに欠けるために演奏が難しい音楽とされます。

大変にロマンティックな楽想に富んでいて、ソロと指揮者がそれに耽溺してしまうと何をやっているかわからない音楽になってしまい、それをあっさりやると欲求不満感が残るという難物なのです。逆にこの楽章が理想的に演奏された場合の充実感は例えようがなく、すべてのヴァイオリン協奏曲のなかで、もちろんあのベートーベンやブラームスやメンデルスゾーンをいれてであっても、いいものを聴いたという最上級の充足感をもたらしてくれる稀有の名楽章と思います。

そう、冒頭のこのスコアがひそやかに鳴り出すと、もう我々は金縛りなるしかないのです。ブルックナー開始を思わせる4パートで分奏するヴァイオリンのニ短調主和音に、そっと息を吹き込むように入ってくる独奏。主音から4度上のg(ソ)の空疎な響きに北欧の冷たい空気を感じます。しかもこのモノローグは、原野や森に潜む自然の精を呼び覚ます呪詛のような響き、生身の人間の情念のようなものまで訴えるインパクトの非常に強い旋律であります。ヴァイオリン・ソロでしか成しえない世界であり、古今東西のヴァイオリン協奏曲の主役登場で最も印象的なものでしょう。

協シベリウスV

第2楽章は思わせぶりなクラリネットの重奏で開始します。Adagio di moltoとあり、もうできる限りゆっくりと演奏しなさいという意味です。フィンランドの指揮者レイフ・セーゲルスタムはこの楽章は男女の最も崇高で神秘の営み、つまりセックスを描いていると主張していmov2シベリウスV協ます。英国の女性ヴァイオリニストであるタスミン・リトルもそれに慎ましやかに賛意を示しています。本当に素晴らしい、シベリウスが書いた最も独創的で最も高貴な緩徐楽章であり、エルガーのチェロ協奏曲、やはり神がかって美しい、手をふれるとこわれそうにデリケートなあの第2楽章にエコーしているのを聴くのは僕だけでしょうか。右のスコアのヴァイオリンの優しいつぶやき、それを受けとるワーグナーを想起させる深い満足感を導くホルンの和声などを聴くにつけ、僕もお二人のおっしゃる意味しかないだろうと思うのです。この楽章は演奏の好悪もはっきり分かれ、ハイフェッツのような名手でもどう弾いていいのかわからないようで持て余しています。また、激した中間部では理解不足の指揮者は金管をばんばん鳴らしてしまい、音楽をぶち壊すこともしばしばです。そういうことをされると音楽の香気が消し飛んでしまう。大ヴァイオリニストでも演奏しない人がいるのはこういう音楽を感じきれないからではないでしょうか。

第3楽章は音楽的に第1,2楽章より深みを欠きますが、舞曲風のリズムに乗って協奏曲らしい技巧がちりばめられ、シベリウス自身がヴァイオリニストを目ざしたこともあり華やかな演奏効果が見られます。協奏曲の終楽章としてわかりやすい楽章で、和声的な展開が誰でも感動できるように出来ている音楽であるため技巧さえあれば無神経なソリスト、指揮者でもつとまる楽章であるといっていいでしょう。

この曲ですが、昔からジャネット・ヌヴーやイダ・ヘンデルなど女流の演奏が有名であり、ヘンデルはCDを持っていますが確か帰国してから実演も聴いたはずだが指揮者も演奏も忘れてしまった。会社を変わったりで僕の人生、この10年は忙しすぎました。最近は諏訪内晶子、アンネ・ゾフィー・ムターなどのCDを聴きましたが、どうも今一つです。特にムター盤は評論家が絶賛していたものですが、妖艶な色気がむんむんと漂って大変に薄気味が悪い。僕の趣味ですが、この曲は男が、それなりの気骨のおっさんが、昔の恋人を想い出しているような淡いロマンと時に年甲斐もない情熱を燃やしてみるようなところがちょうどいいように感じます。女性がG線のヴィヴラート豊かにぐいぐい迫ってくるみたいなタイプの演奏はまったく苦手であります。

 

ダヴィッド・オイストラフ / ユージン・オーマンディー / フィラデルフィア管弦楽団

sibe_oistそういうおっさんタイプの最右翼の演奏がこれです。オイストラフにはうまいという言葉しか見当たりません。こんな演奏が残ってしまったら世界のヴァイオリニストは困っているだろうと思うほど。僕が高校時代に買ったのはこれではなくロジェストヴェンスキーがモスクワ放送O.を振ったものでオイストラフの気合いは立派ですが、録音、オケも含めてこのオーマンディー盤の安定感の方が何度も聴くには好ましく思います。この曲は伴奏オケの難曲として知られますが、作曲小屋アイノラにオケ団員を連れて会いに行くほどシベリウスを敬愛したオーマンディーは抜群の合わせで、この曲にじっくりひたりたいときに僕が聴くのはこれをおいてありません。前述しましたが、留学中の83年に聴いたスクロヴァチェフスキーがこのオケを振った伴奏は逸品でした。また、交響曲第5番がプログラムにあってずっと前から楽しみにしていたのですが、すでに高齢だったオーマンディーが当日になって体調不良となり、副指揮者ウィリアム・スミスが急遽振ることになるということで本当にがっくりしたのを昨日のように覚えています。それでもオーマンディーの解釈が浸透したこのオケの響きはシベリウスそのもので、その時の5番は後日フィラデルフィアの地元FMが放送したものをカセットに録音しました。今それはCDに焼きなおして時々思い出して楽しんでいます。このオイストラフ盤、それからアイザック・スターンが独奏している盤のオーケストラ伴奏は凌駕するもののない高峰として一聴をお薦めいたします。

(追加しましょう、16年1月11日~)

 

オレグ・カガン / タウノ・ハンニカイネン/ フィンランド放送交響楽団

6189wCbvoFL__SS280オイストラフが弟子とし、リヒテルが伴奏者に抜擢した故カガン(1946-90)19才、シベリウス・コンクール優勝のライブの記録です。ぎりぎりに切りつめて音楽の内面を抉るような演奏。終楽章の楽想はギャラントにやると軽くなりシリアスにやると協奏曲の華がなくなる難しいものですが見事な解答を見せています。こういうのは指揮者の指示でできるものでもなく才能しかないでしょう。この曲のスコアはこうなのであり、僕は最近の女流リッチ路線にはどうしても違和感を覚えます。並録のベルク(85年、ブレゲンツ音楽祭)もこれでなくてはという見事なもの。これです。

(補遺)

本文にあります米国留学時代に聴いたギドン・クレーメルの演奏ですが、FM放送を録音したカセットテープが出てきたのでアップロードしました(フィラデルフィア管弦楽団、アカデミー・オブ・ミュージック、1983年)。忘れられない秀演で指揮はスタニスラフ・スクロヴァチェフスキーでした(シベリウスは大変珍しいです)。彼がブルックナー8番を振って感動し、楽屋へ訪ねて会話したのはこの前後のことでした。

スクロヴァチェフスキーとの会話

 

 

(こちらへどうぞ)

シベリウス交響曲第2番ニ長調 作品43

 

 

クラシック徒然草-僕の好きなウィーン・フィルのCD-

2013 MAY 18 9:09:04 am by 東 賢太郎

「僕の好きなウィーン・フィルCD」の番外編です。

リヒャルト・シュトラウス 「ばらの騎士」 ハンス・クナッパーツブッシュ指揮      (55年11月16日、ウィーン国立歌劇場こけら落とし公演)

僕が一番好きなオペラCDのひとつ。ばらの騎士はチューリヒ等で3回、そしてザルツブルグ音楽祭ではカラヤンとウィーン・フィルで聴きました。しかしこのCDのライニング、ギューデン、ユリナッチ3人の女声の蠱惑にまさるものではありません(特に僕はユリナッチが好きなので)。そしてクナです。練習嫌いで好き勝手な演奏をしていたイメージがありますが、シュトラッサーによるとすべて暗譜しており高度な指揮技術があって振り間違えたことは一度もないそうです。なぜスコアを置いて振るのかと尋ねられたら「僕は楽譜が読めるからね」と答えたのは有名です。「皆さんはこの曲をよく知っています、私も知っています。では何のために練習しますか」と言って帰ってしまった逸話も有名ですが、その時の公演がこれです。

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練習場が響きの異なるアン・デア・ウィーン劇場だったので「諸君も私もここで練習することを望んでいない。ではゲネプロで会いましょう」だったという説もありますが、僕はこの説が事実で、面白おかしく尾ひれがついたのが通説と思います。R・シュトラウスを得意としたクナは56回も薔薇の騎士を振っていて、おそらく当時この曲を最も知り尽くした指揮者でした。オケと女性歌手3人は前年にエーリヒ・クライバーとこれを録音しています。だから合わせるのはゲネプロで充分で、むしろクナは本番では良い流れをつくって自発性、緊張感を重視したのだと思います。そして結果はまさにそうなっています。ライブなりのアンサンブルの甘さや声のうわずりはありますが、それこそクナが望んだものでしょう。スタジオできっちり整理された演奏よりよほど面白く、今そこでこの曲が無から生み出されているのに立ち会っているようです。録音も、とてもなまなましく、絶好調かつ貴族的なウィーン・フィルの音が聴こえます。オーケストラピットに近い特等席で聴くよう。なんという贅沢でしょう。この奇跡的な録音が残っていたことを天に感謝するのみです。

 

シベリウス交響曲第4番、交響詩タピオラ ロリン・マゼール指揮

ウィーン・フィルに春の祭典をやらせたのはショルティが最初かもしれませんが、録音したのはマゼールが初めてです。そのレコードが出た時は興奮しました。大学時代です。しかしワクワクしてレコードをかけてみると祭典フリークの僕としては極めてロースコアのマンガ的演奏。ねこが無理やりお手をさせられているのが面白いだけの二級品でがっくりきたのを覚えています。以来一度も聴いていません。最後の20世紀巨匠のひとりマゼールは昨年N響に来て法悦の詩(スクリャービン)をやりましたがオケが良く鳴るなあ(これは立派)というだけのものでした。しかし8歳でニューヨーク・フィルの指揮台に立ちモーツァルト以来の神童と言われたこのロシア・ユダヤ系アメリカ人指揮者は若い頃にすごい録音をいくつか残しています。1963年、彼が33歳のときに録音したこのシベリウス交響曲全集は今でもウィーン・フィルによる唯一の全集ですが、その中の4番とタピオラを初めて聴いたときの衝撃は一生忘れません。41D9C9A1ZHL__SL500_AA300_

このオケにとってシベリウスの4番は春の祭典以上に共感のない曲でしょう。しかしこの演奏は最高に素晴らしい。鳴りだした瞬間から得もいえぬ緊張感で金縛りにあい部屋は極北の雪原に様変わりします。氷が張りついたような冷厳なスコアなのですがこんなに人の息吹を感じさせない大自然に放り込まれたような寂寞感を音楽から感じた経験は一度もありません。しかし灰色一色の水墨画的風景かというとそうではなくウィーン・フィルの音彩がくっきりと浮き出た強いメリハリと自己主張のある構造的な演奏なのです。相容れないものが同居している。マゼールとウィーン・フィルという別々の個性がぶつかり合って非常に微妙な均衡のもとに一期一会で成り立った奇跡的な演奏です。交響詩であるタピオラはより明確に情景を喚起します。樹氷の森の中、突風に舞いあがった雪が粉のようにきらきらと陽光に輝きながら落ちてくる半音階フルート・パッセージ!世評の高いオーマンディーの演奏と聴き比べれば僕の言いたいことがお分かりいただけるでしょう。これは映画館かディズニーランドで見る霧氷の景色です。部屋は暖かいのです。ちなみにマゼールはピッツバーグ響とシベリウスを再録していますが、極北の風景と気温は消えています。

 

 

ブラームス交響曲第2番 フェレンツ・フリッチャイ指揮

48歳で白血病で亡くなったハンガリーの名指揮者フリッチャイは死の2年前にザルツブルグ音楽祭でイドメネオを振りましたがそれが好評でウィーン・フィルとの追加演奏会が開かれました。そのライブがこれです。第1楽章からフリッチャイの声(歌?)が聴こえ音楽に没入しているただならぬ雰囲気です。第2主題はテンポを落としてじっくり歌い抜きます。第2楽章中間部のチェロ主題の呼吸の深さ!音楽は止まりそうなほどに心がこもり、こんなにロマン的なこの楽章の味わいはめったにありません。第3楽章はオーボエソロを始めウィーン・フィルの魅惑的な木管がちりばめられ至福のひと時です。第4楽章のトゥッティの入りは全楽器が息をひそめて飛びかかる緊張感がすごく、フリッチャイの気合いを入れる声が聴こえます。

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フリッチャイがウィーン・フィルを振った録音も珍しいのですが、さらにこの演奏、ほとんど練習していないぶっつけ本番という様子で、気合いが入りすぎ気味の棒にウィーン・フィルが必死に合わせているという意味でも珍しいものです。ということでこのオケとは思えないミスがあります。少々はいいのですがコーダの金管のミスだけはいただけなく、この曲をまだ覚えていない方にはおすすめできません。あくまで通のかたに第2,3楽章を聴いていただきたい。

 

ハイドン 交響曲第100番「軍隊」、101番「時計」、104番「ロンドン」            モーゲンス・ウエルディケ指揮

市場にはLPしかないようで恐縮ですが買う価値があると思います。ヴァンガード録音で契約上ウィーン国立歌劇場管弦楽団と書いてありますが、これがウィーン・フィルと同じものであることはもう拙稿でお分かりでしょう。ハイドンはこのオケにとってお国ものであり誇りでもあります。ハンブルグ生まれのブラームスは交響曲88番の第2楽章を聴いて自分の交響曲の緩徐楽章はこのように聴こえなくてはならないと言ったそうですが、ソナタ形式音楽の父としてだけではなくウィーン的な音楽情緒の範もそこに見出していたのではないでしょうか。そのようなチャーム、ウイット、ユーモアが堅固なソナタという宝石箱におさめられてきらきらと光り輝いているのがハイドンの音楽なのです。

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ウェルディケ(1897-1988)は作曲家ニールセンに学んだデンマークの指揮者で、ハイドン学者を義理の息子に持つハイドン演奏の大家です。ウィーン流の優雅、流麗さなどどこ吹く風でティンパニを強打し、ベートーベン奇数番号につながる自己主張を見せる104番(ロンドン)が僕は好きで、こういう骨太で彫の深い演奏をウィーン・フィルにさせたウェルディケの手腕に拍手です。オケの方もバリリの頃の色合いを残したコクのある音が懐かしく、タテにそろわない合奏のバランスも古風です。アンサンブルが交通整理されてきれいではあるがどこか蒸留水のように味気ない現代オケのハイドンへのアンチテーゼです。

 

ベートーベン交響曲第3番「英雄」 カール・ベーム指揮 

フルトヴェングラーは楽譜の背後に自分が読み取ったものを重視し、その表現のためには楽曲の構築美は従属的となる場面が多々ありました。ベームにそれはありません。あくまで音楽自体の持つ自然な美に忠実であろうとする意思を感じます。したがって、ドイツ音楽において構築美というものは美の重要な要素ですから、それを従属的に扱うという選択肢はないのです。それがもの足りない人には「ベームのスタジオ録音はつまらない」と評されましたが、それはない物ねだりというものです。先日TVで、宮大工の名匠が、弟子が一人前になるには「10年毎日鉋(かんな)の刃を研ぐことのみ」と言っていたのを見てベームを思い出しました。職人気質の頑固おやじだったベームは指揮者に肝要なのは「音楽の常識だ」と言い、815その常識に添うようオーケストラには厳しい練習を課してウィーン・フィルにも恐れられていました。しかし幸いなことにベームの持っていたドイツ系音楽演奏の常識というのは、私見ではフルトヴェングラーやカラヤンのそれよりずっと普遍的であり、また、現代の指揮者があえて構築美を前面に出そうとするような場合に感じる力こぶや作為もありません。今やろうとするとそうなってしまうものが「当たり前」という良い時代だったのであり、その時代の大らかさも感じる演奏で、練習が厳しいと言っても紡ぎだされる音楽は骨ばった北ドイツ風ではなくオーストリア風の流麗でチャーミングなものです。フルトヴェングラーには「恋人」だったウィーン・フィルはベームには「正妻」がふさわしいでしょう。これは最晩年にそのウィーン・フィルで録音したベートーベンの交響曲全集(上)のエロイカです。この全集、田園ばかりが名演とされ有名ですが、51ZIrYXx0wL__SL500_AA300_このエロイカこそがムジークフェライン大ホールにおけるウィーン・フィルの音を見事にとらえ、その音響、残響、両者のブレンドが 「要求」 する最良のテンポとダイナミクスで演奏されている理想的な例としてぜひお聴きいただきたいものなのです。あの名ホールに聴衆を入れずに演奏するとこういう音だろうという絶妙の音です。このテンポが「遅い」のではありません、この音だとこのテンポになるというのがベームのいう「音楽の常識」なのです。ホームグラウンドでのウィーン・フィルを知り尽くした指揮者のもと、オケは盤石な演奏で応えています。百花咲き誇るあでやかな木管、コクのあるウィンナホルン、深い森のような弦、もしこれが良い音で聴こえないようなら再生装置がクラシック音楽と合わないと思われた方がいいでしょう。録音技術がベームに間に合ったのを感謝したいと思います。一つだけ、オタクレベルの話を記しておきます(一般には無視して結構です)。非常に微細な差ではありますが、右のKarl Bohm Edition(日本プレス盤)はドイツプレス盤と比べると音のバランスが良くありません。同様のことは高音質を謳ったブルーノ・ワルターのソニー・リミックス盤でもあり、かなり古い録音に許容度を持った設定になっている僕の装置でも高音のぎすぎすしたものでした。これを初めて聴いたらワルターを嫌いになる人もいるでしょう。それほどではありませんが、この日本盤もできれば避け、中古でもいいのでドイツ盤を探された方がいいでしょう。

PS

ベームは1977年6月にFM放送があったシューベルトの8番、9番のムジークフェラインでのライブが素晴らしく感動的で、天国からの響きのようで、いつまででもひたっていたい名演でした。これはカセットに録音したものをCDRにして今も愛聴しています。人為的ないやな刺激音や指揮者の体臭など一切なく、音楽はシューベルトが書いたままの自然な姿を紡ぎ出して神々しい高貴さをたたえながらコーダへ向けて高揚していきます。こういう音楽空間は何千回の演奏会に一度というものでしょう。僕はベームのこういうところに宮大工の棟梁を思い出すのです。ベルリン・フィル、ドレスデンskとのCDも良い演奏であり世評も名演との誉れ高いものですが、法隆寺、東大寺のようなこれに接してしまうともう別物です。

同じく1977年の8月、やはりNHK FMで放送したムジークフェラインでのライブでゲルト・アルブレヒト指揮のシューマン交響曲第2番。度肝を抜かれる大名演でした。これもカセットに収めたのですが、度重なる海外での引っ越しに紛れて紛失してしまいました。もし可能なら何としてでも手に入れたいです。

お知らせ

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クラシック徒然草-ヴァイオリン・コンチェルトの魅惑-

2013 APR 27 0:00:53 am by 東 賢太郎

僕は幼稚園のころヴァイオリンを習ったらしい。らしい、というのは、さっぱり覚えていないのだ。母によると「泣いて嫌がった」ようで、これは思い当たる節がある。音の好き嫌いというのがあって、電車の車輪のガタンガタンは好き、ガラスを引っ掻いたキーは嫌い。まあ後者を好きな人はいないだろうが嫌い方は尋常ではなかった。耳元でキーキーいうヴァイオリンが嫌だったのはそれだと思う。

ヴァイオリン協奏曲、なんて魅力的なんだろう。我慢してやっておけばよかった。ピアノ協奏曲には、嫌いなもの、興味のないものがけっこうある。しかし、ヴァイオリンのほうは、ほぼない。バッハ、モーツァルト、ベートーベン、メンデルスゾーン、パガニーニ、シューマン、ブルッフ、ブラームス、ヴュータン、チャイコフスキー、シベリウス、サンサーンス、ラロ、R・シュトラウス、グラズノフ、ヴィエニャフスキー、ハチャトリアン、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ストラヴィンスキー、バルトーク、シマノフスキー、マルティヌー、エルガー、ウォルトン、ベルク、コルンゴルド、バーバーなど、綺羅星のような名曲たち、全部好きだ。

100000009000008221_10204しかしいつでも聴きたいものはベートーベン、メンデルスゾーン、ブラームス、チャイコフスキー、シベリウスの5大名曲だろうか。この各々についてはいずれ書こうと思う。LP時代はメンデルスゾーンとチャイコフスキー表裏で俗に「メンチャイ」と呼ばれていた。僕もアイザック・スターン/オーマンディー/フィラデルフィア0.のメンチャイ(右はそのSACD)で初めてヴァイオリン・コンチェルトの世界へ入った。スターンのヴァイオリンの素晴らしさ、オーマンディーの伴奏のうまさは天下一品であり、これを永遠の名盤と評してもどこからも文句は出ないだろう。この2曲の最右翼の名演でもあり、ヴァイオリン協奏曲というジャンルがいかに魅力的かわかる。

アイザック・スターン(1920-2001)は84年4月にデイビッド・ジンマン/ニューヨーク・フィルとフィラデルフィアに来てブラームスをやった。忘れもしないが、第2楽章に入ろうとしたときだ。ちょっと客席がざわついていると首をこちらに向けぎょろ目で睨みつけ、客席は凍って静まった。マフィアの親分並みの迫力だった。しかしその音色はこのメンチャイそのものの美音で、すごい集中力で通した迫真のブラームスだった。

41ZJ740DQEL__SL500_AA300_               ベートーベンは94年にミュンヘンで聴いたチョン・キョン・ファの壮絶な演奏が忘れられない。右のテンシュテットとのCDはあの実演の青白い炎こそないが89年のライブであり、これもこれで充分にすごい。

また、ベートーベンはこれも84年2月17日にスターンで聴いたがこっちはムーティーの指揮が軽くて感興はいまひとつだった。名人がいつも感動させてくれるとは限らないのだ。

 

4197TCSJ9DL__SL500_AA300_さてこのチョン・キョン・ファだが、84年2月3日に フィラへ来てムーティとチャイコフスキーをやった。ベートーベンはだめなオケもチャイコはオハコだ。この演奏の素晴らしさは筆舌に尽くしがたく、彼女の発する強烈なオーラを真近に受けて圧倒され、しばらく席を立てなかった。右のCDも彼女のベストフォームに近い。この曲、一般に甘ったるいだけと思われているが、とんでもない。この作曲家特有の熱病にかかって精神が飛んだような妖気をはらんでいるのだ。そういう部分を抉り出すこの演奏は実におそろしい。出産を境に弟ばかり活躍が目立つようになってしまったが、ぜひ輝きを取り戻してほしい。

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さてチャイコフスキーだが、どうしても書かざるをえない物凄い演奏がある。ヤッシャ・ハイフェッツ/ライナー/シカゴso.盤(右)である。トスカニーニが最高のヴァイオリニストと評したオイストラフその人が、「世の中にはハイフェッツとその他のヴァイオリニストがいるだけだ」と言ったのは有名だ。ブラームスはいまひとつだがチャイコフスキーはここまで弾かれるとぐうの音も出ない。超人的技巧だが鬼神が乗り移ったという風でもなく、サラサラと進んで演奏が難しそうにすら聞こえない。これでは「その他のヴァイオリニスト」たちに同情を覚えるしかない。

 

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ブラームスは名演がたくさんあって困る。ピアノ協奏曲2番とともに僕が心の底から愛している音楽だから仕方ない。まずはダビッド・オイストラフの名技を。クレンペラー盤(右)とセル盤があって、どっちも聴くべきである。前者はオケがフランスで腰が軽いのが実に惜しい。それでもクレンペラーのタメのある指揮に乗って絶妙なヴァイオリンを堪能することができる。

 

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シベリウスは一聴するとちょっととっつきにくい。僕も最初はそうだった。しかし耳になじむと他の4曲に劣らない名曲ということがだんだんわかるだろう。ダビッド・オイストラフはオーマンディー盤(右)、ロジェストヴェンスキー盤とあるが、どちらも素晴らしい。シベリウスを得意としたオーマンディーはスターンとも録音していて、これも甲乙つけがたい名演である。

 

 

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最後にメンデルスゾーンをもうひとつ。レオニード・コーガンがマゼール/ベルリン放送so.とやったものだ。この頃のマゼールは良かった。この曲の伴奏として最高のひとつだ。コーガンはやや細身の音で丹念に歌い、この曲のロマン的な側面をじっくりと味わわせてくれる。終わると胸にジーンと感動が残り、演奏の巧拙ではなく曲の良さだけが残る。本当に良い演奏というのは本来こういうものではないか。

以上、この5曲は、ヴァイオリン協奏曲のいわば必修科目であり、クラシック好きを自認する人が知らないということは想定できないという英数国なみの枢軸的存在だ。ぜひじっくりと向き合ってこれらのCDを何度も聴き、心で味わっていただきたい。一生に余りあるほどの喜びと充実した時間を返してくれること、確実である。

 

(補遺、2月15日)

チャイコフスキーでひとつご紹介しておきたいのがある。

藤川真弓 / エド・デ・ワールト / ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団

いまもって最高に抒情的に弾かれたチャイコフスキーと思う。じっくりと慈しむような遅いテンポは極めて異例で、一音一音丹精をこめ、人のぬくもりのある音で歌う。第1楽章の高音の3連符は興奮、耽溺して崩れる人が大家にも散見されるがそういうこととは無縁の姿勢だ。感じられるのは作曲家への敬意と自己の美意識への忠誠。チャイコフスキー・コンクール2位入賞の経歴をひっさげてこういう演奏をしようという人が今いるだろうか。

(曲目補遺)

ボフスラフ・マルティヌー ヴァイオリン協奏曲第2番

1943年の作だがミッシャ・エルマンのために書いたロマン派の香りを残す素晴らしい曲。近代的な音はするが何度も聴けば充分にハマれ、食わず嫌いはもったいない。第2楽章などメルヘンのように美しい。

 

(こちらもどうぞ)

マスネ タイスの瞑想曲

 

 

 

 

クラシック徒然草-クラシック入門にいいCD-

2013 APR 4 22:22:54 pm by 東 賢太郎

ブログのデータページである「Count per Day – 統計」を見ておりますと、クラシック音楽に関してSMCを検索されている方が多いようです。これからいろいろ名曲を聴いてみたいという方もご訪問されておられると思います。そこで「クラシック入門にいいCD」をご紹介しましょう。

クラシックに入門する方はまず「名曲集」のようなもので作曲家に関わらず小品に多く親しむというのが普通ですし、僕もそうでした。誰の演奏であれ、まず名曲の良さを知ることがイロハのイだと思います。例えば悲愴交響曲のような大きな曲は最初に覚える演奏にこだわっていただきたいのですが、小品の場合はそう難しいことを言わずとにかく聴いてみようでいいのです

ただし、小品だからと手を抜いたものはだめです。小品は小品の良さがあるわけですから、やはりクラシックはいいなあと思わせてくれるクオリティは絶対に必要なのです。まずここで充分に味をしめていただいてから、大曲に挑んでいただきたいのです。

51k2V6rWLXL__SL500_AA300_おすすめしたいのはカラヤン/ベルリン・フィルアーサー・フィードラー/ボストン・ポップスです。しかも値段が安い方がいいですね。僕は後者で育ちましたがi-tuneを見てみましたがいいのがありません。前者はこれがありました。さわりを全部聴きましたが、立派な演奏です。ベルリンフィルが手を抜いていません。天下の名曲が21曲も入って1200円はまあよろしいのではないでしょうか(僕はDGの回し者ではありません、念のため)。これを聴いて、気に入った曲があればその作曲家のほかの有名曲を聴いてみるというのが効率のいい覚え方です。例えばシベリウスのフィンランディアが好きなら交響曲第2番も高い確率で好きになるはずです。

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