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カテゴリー: ______シベリウス

オッコ・カム指揮ラハティ響のシベリウス3、4番を聴く

2015 NOV 28 1:01:48 am by 東 賢太郎

連日のカム指揮ラハティ響でした。今日の席は1階15列の端っこ(壁ぎわ)でしたが、不思議なものでこれが予想外によかったのです。2階席が上部にかぶさっており壁の反響もあったのでしょうか、これなら楽しめる。発見でした。

3番、ヴァイオリン協奏曲、4番の順番。シベリウス交響曲全曲演奏でなければ4番のほろ苦いエンディングでコンサートを締めくくるなんてありえません(我が国においてはですが)。到底ミーハーが近寄る曲目でなく聴衆もシベリウス好きばかりだったのでしょう、客席の集中力は大変ありがたい。

2番で愛国の思いのたけをぶちまけた反動でしょうか、7曲のうち3番ほど上機嫌のシベリウスもありません。マーラーの重めのラインナップに占める4番の位置に近似しています。ただし和声は一聴すると明快ですがプログレッションは一筋縄でなく、5番にエコーしていく萌芽があります。終楽章のヒロイックな主題の展開など特に。僕の愛聴曲であり書けばきりないので後日にします。

演奏ですが昨日の1,2番はやや金管のトゥッティに粗さを感じ、木管合奏の音程がいまいちで弦は美感を欠く所がありました(正直、一流オケの音ではなかった)。ところがどういうわけか今日はこの3番からしてぐっとグレードアップした印象です。特に弦の練り絹のような中低音は日本のオケには望めない触感!モーツァルトが理想と手紙に書いた「バターのような」とはこのことかというクオリティです。

Vn協のソリストはペッテリ・イーヴォネン。うまかったですね。技巧で押すタイプではなく第2楽章の愛の描き方がなかなかで、終楽章もメカニックにならずひたすらこの曲を弾ける幸福感が伝わってきました。シベリウス演奏では大事なことと思います。アンコールのイザイでは、しかし彼の技巧の卓越ぶりが明らかになり、シベリウスにそれをひけらかさなかったことにさらに好感を持ちました。

さて、僕が最も楽しみの4番です。最高の名演でした。冒頭バスの倍音に満ちた音圧からして別世界に引き込まれます。低音域の長2度の軋み。不安げなチェロのソロの幽玄な美しさは絶品。彼岸のようなヴィオラ、チェロのセクションの中音域のとろけるような音色はからんでくるクラリネットと同質で完全に融和!こんなニュアンスは日本のオケからは絶対に聴けません。

この死の淵をのぞいたような交響曲、シベリウスは喉の腫瘍が悪性(ガン)である覚悟もあったのではないでしょうか。第1楽章で曲想がやや明るめになって出てくるモーツァルトの「ジュピター音列」、あれは何なのかずっと考えてましたが、これが絶筆の可能性も意識したのではないでしょうか。第3楽章にはブラームスの弦楽6重奏曲第2番の冒頭旋律が現れる、これは偶然なのだろうか?僕は本当に最後の交響曲になったショスタコーヴィチの15番、あの先人のコラージュをなんとなく連想しております。

不意に立ち現れてクレッシェンドする予想外の調の金管の和音。シベリウス以外に断じて聞くことのない世界です。背後から死がふりかかってくるかのよう。これと似たインプレッションを与えるものが5番では、雨をぱらつかせた雲の切れ目からうっすら差し込んでくる陽光を感じさせるのですが、それは一転して生の喜びと確信に満ちています。4番で得た暗示が5番で逆の位相で存在感を出す例はこれだけでなく、4番こそ彼の語法の巣です。

シベリウスは癌への恐れと不安で生のどん底をさまよい、何か未知のものを見て帰ってきた。それが5-7番に深く投影されているのを感じるということです。僕がインスパイアされるのはそれであり、ロマン派の延長にあってそれを欠く1、2番はどうも物足りない。3番はそのはざかいの音楽です。やはり、「それ」そのものである4番こそ僕の関心を最も強くそそるスコアであり一音節一音符たりとも見過ごせるものはありません。

いくつか、ここはこういうものだったかと教わるフレージングがあり、フィンランド語なのか?と思いました。弦が内声部まで重いボウイングで弾ききっており実に意味深いニュアンスの合奏になるのです。例えば第2ヴァイオリンだけだと何をやらされてるのかわからない音型が総体を組み上げるとわかる。弦5部のトレモロでごそごそ細かく弓を動かす部分も軽いボウイングだと雰囲気は出てもインパクトが弱いのですが、このオケは深い絨毯のような重い音が出せます。これが正調ということでしょう、勉強しました。

終楽章はグロッケンでしたね、僕はチューブラーベル派なので残念でしたが、それを除けば文句なし。かつて実演での最高の4番でございました。アンコールがこれまた困ってしまうほどの逸品。「悲しきワルツ」、リズムの裏を支えるヴィオラのビロードの音色には身震いです。クリスチャン2世の「ミュゼット」、最後は「鶴のいる風景」、素晴らしい音詩であり、ほのかに暖かい光で心を満たしてくれました。今日で一気にラハティ響が好きになりました。あさっての5-7番が楽しみで眠れないなあ。

 
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オッコ・カム指揮ラハティ響のシベリウス1,2番を聴く

2015 NOV 27 0:00:55 am by 東 賢太郎

オッコ・カム指揮ラハティ響を全部買ったので明日の読響は行けなくなりました。ご当地のオケで全曲聴ける機会はシベリウスイヤーの特典で、もうあまりないでしょうから仕方ないですね。

今日は交響曲1,2番でしたが一番印象に残ったのはアンコールの組曲テンペストよりミランダ(Miranda)、行列(Cortège )、ペレアスの間奏曲(Entr’acte)です。これはすばらしい!まるでウィーン・フィルのヨハン・.シュトラウス。弦の精妙なフレージングは曲を知り尽くしてないと絶対にできない性質のもので、管も含め全員が確信をこめて弾いている説得力には感服するしかございません。標題音楽はシベリウスの出発点として非常に重要なのですが、初めて真価を教えてもらったかもしれません。

1番ですが、時に聞こえる後期への萌芽と、スケルツォのご当地オケでなくては出ないだろう思いのこもった弦のアタックが秀逸でした。ただ、この曲はまだチャイコフスキー時代のロマンが濃厚に残っているわけで、5番、7番あたりから入門した僕としては昔から何度かは耳にしているはずなのですが、どうも居ずまいが悪い。シベリウスをロマン派とは思ってないもんで・・・。第2楽章の主題が「もーいーくつねーるーとー」に聞こえたりして。苦手です。

2番はこのオケにして日常のメニュー、定食なんでしょう、練習もなく弾けてしまう感じでしたね。カムの解釈も、ベルリンPOやヘルシンキ放送OとのCDと大きくは変わりありませんでした(後者に近いですが)。ただ客席はカムを呼び戻すほど熱狂しており、それをいつくしむような目で見ていた団員の笑顔が良かったですね。日本とフィンランドはいい関係になれると思います。

ところでホールは東京オペラシティで1階15列目中央の最高にいい席でしたが、何度聴いてもここは楽器のナマ音が前面に出てきます。だからピアノ・ソロには向いており好きなのですが、オケはいまひとつですね。ハリウッドボウルのような野外音楽堂に似た音響成分を感じます。意味もなく天井を高く造って、せっかく形状はシューボックスにしたのに美点を消してしまったと思います。

 
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オスモ・ヴァンスカ/読響のシベリウスを聴く

2015 NOV 22 1:01:59 am by 東 賢太郎

きのうは北の湖のニュースでショックを受けてしまい、コンサートの感想どころではありませんでした。

こういうプロでした。

指揮=オスモ・ヴァンスカ
ピアノ=リーズ・ドゥ・ラ・サール

シベリウス:交響詩「フィンランディア」 作品26
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 作品18
シベリウス:交響曲 第2番 ニ長調 作品43

東京芸術劇場は日本へ帰って来てから6年ぐらいずっと読響の定期(マチネ)をきいていましたが、N響に移って以来8,9年は行ってません。改修もしたようで楽しみでした。

結果として、このホールは東京ではベストと思います。残響が適度にあるわりに後方の楽器まで分離よく細部が聞こえ、低音楽器は倍音が豊かです。ヨーロッパ的な音がしますが欧州の有名ホールに似たものはないかもしれません。よく似てるのは香港文化中心(Hong Kong Culture Center)大ホールではないでしょうか。

さてラフマニノフを弾いたリーズ・ドゥ・ラ・サールですが、冒頭鐘の音の響かせ方から個性があります。ソノリティをじっくり聴き分けながら和音をならす。主張を持ったピアノでとても良かった。ただテクニックではやや苦しい所もあり、こういう曲がいいのかどうか・・・。アンコールのドビッシーは非常に高雅で、彼女の音響、ソノリティへの趣味が良く出た名演でした。低音の弦の微細な振動まで聞こえる芸劇の音響、いいですねえ。彼女はフランス物を聴きたいです。

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余談ながら、この人、ビジュアルで得してますね。むかし(今もあるか?)フランス人形というのがありましたが、まっさきにそう思いました。これはオジサン族はイチコロですね。

 

 

 

シンフォニーの2番。ヴァンスカはCDでもそうですが、ザッハリヒなシベリウスをやります。無味乾燥ということではなく、原典主義というか。第4楽章の第1ヴァイオリンのフレージングなど彼の読みへのこだわりでしょうが耳慣れないのがややわずらわしい。音量があがると速度も増す傾向があり、音楽のテンションは非常に高いです。第2楽章はppへのブリッジの休符が長く緊張感が増幅します。大きな起伏にオケがついていけずにバスとずれがあったり、完成度を求める指揮でありながら熱量の方に耳が行ってしまう演奏でありました。ひとつの強い主張を持った解釈であり感銘は受けましたが、僕の好みの2番ではないというところです。

 

 

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リントゥ指揮フィンランド放送響のシベリウス5・7番を聴く 

2015 NOV 3 1:01:00 am by 東 賢太郎

土曜日の近松門左衛門がそうでしたが、ご縁のなかったものをおすすめにしたがって見聞きしてみるというのは非常にいいものです。予期しない出会いがある。もっといえば、おすすめがなくたっていい。たとえば本屋が好きなので2時間も3時間もいることが多く、買ったのを家で見返すといつもおんなじようなジャンルになってしまうのです。だから30分と時間を区切って、題名と目次で面白そうと思ったらぱっぱっと5,6冊適当に買うとけっこう新しくていい選択になってます。

食い物でもそうで、鮨屋はまず光り物と貝を1貫ずつぜんぶ、あとおまかせ。これがスタイルです。ねたの良し悪し、わかりませんからね。「今日のおすすめ」という注文はだめです。大将に従うという意思表示になる。うまくないぞといったって、でもおすすめはおすすめですがね、だ。「おまかせ」はそうでないんです。俺を満足させてくれって、それをまかせる。おすすめかどうかは問わないよ、そんなことはあんたの都合。俺が食うんだからね、俺。そう、大して変わらんが大将にちょっとした緊張がでるんですね。

コンサート。これがけっこう難物で、選ぶとだいたい本屋とおなじ羽目になる。定期会員になると「おまかせ」になりますが、こんどはへたすると毎回お子様ランチを食わされるリスクがある。運命、新世界、未完成・・・おい勘弁してくれ。だから会員といってもコースを選ぶ必要があります。気に入ったのが読響定期。マチネとか名曲シリーズとかあるが、そうではなく「定期演奏会」。これはオケのシグナチャーなんですね、来期もデュティユーの交響曲第2番、メシアン「彼方の閃光」なんてのがある。このレベルのおまかせならまちがいない。

ただ僕の場合、その日の気分で今日はやめってのがあって、これがいけない。マーラーなんて書いてあるともうあかん、と欠席したことが何度もあります。そこで、しばらくすれば忘れるので、今日のプロを見ないでとにかく出席する。そうして初めて「おまかせ」になるんです。だから今年は読響とN響と、おまかせ2つでほとんどでした。例外が先日のモーツァルトのオペラと生誕百年でにぎわうシベリウス。特にシベリウスは狙いを定めて気合いを入れて買いました。

ところがバカなんですね、同じ日のをダブって買ってる。ひとつはウィーン・フィルと、仕方ないこれは家内に、もうひとつはシベリウス同士のがちゃんこ(ほんとバカだ)。ええい、こっちは息子でということに。行けなかった方が良かったんじゃないかと思わないでもなく、なんともお騒がせなシベリウス・イヤーでありました。家内が行ったリントゥの2,3,4番、これはリハーサルは聴いたものの、痛かったですね・・・。

リントゥの全曲の最後が今日ありました(すみだトリフォニーホール)。

ハンヌ・リントゥ[指揮] 
フィンランド放送交響楽団[管弦楽]

曲 目:シベリウス/交響詩「タピオラ」、交響曲第7番、交響曲第5番

でした。オケが新日フィルでなく上記に。感じるものが多くありました。団員の入場で拍手は好きでないが、団員がそれを意気に感じてる風情なので加わりました。みなさん客席に正対して(こっち向きに立って)応えてる。なんとなく客席と一体感がありましたね。

タピオラはマゼール盤(ウィーンフィルの方)が好きなのはマゼールの稿に書きましたが、あの冬空の冷めた緊張感がぴりぴりした演奏で覚えてオーマンディーのを聴いたらあまりにフツーの曲になっていてずっこけたり。面白い曲です。リントゥではこんなに激烈な曲だったんだとまたまた感心。氷と雪景色より雷鳴の印象が強いかな。

7番は感動しました。音楽が熱して行って9度のレではいってくる素晴らしいトロンボーン、良かったです。この楽器のソロとしてあらゆる曲で最高の場面ですね。いつもレード-ソードレーミーと音名を耳が追ってしまいますが今日は我を忘れて聞き惚れました。リントゥの指揮は、筋肉質というとやや語弊があるが引き締まった質感のボディで、リズム、フレーズの隈取は明瞭。音をなめらかにするより多少ザラついてでも情感とメリハリを高めることを優先しているようで、この曲ではそれが見事にはまりました。

5番は第1楽章の最後の速さにびっくりです。ネーメ・ヤルヴィも速いが負けてます。セゲルスタム(デンマーク国立響)に近い。しかし楽譜の速度表示はPiu prestoですからね、これでいいんでしょう。スケルツォ部分のヴィオラの疾走も耳に残ります。最後のコーダ、鶴の平原で底冷えしていた音楽が徐々に熱くなるとテンポがアップしていって、これまた大変速くなり、激烈なFFがふくれあがり、最後に至ってリタルダンド!いやあ最高の5番、大変な名演でございました。

会場は3連休にして中日の人も多かったんでしょう、8割ぐらいの入りでしたが、シベリウス・プロの会場はオペラと違ってミーハーがおらず、一体感があって喝采も半端でありません。昔はブルックナーもこういう感じでしたが今は猫も杓子もになってしまいました。シベリウス好きは、僕もそうですが、本当に熱狂的に好きなコアな人が多いんです。一日中シンフォニー7曲流しっぱなしで飽きない。あんまり庶民的な曲でもないから変な奴だと思われたりするが、われ関せずですね。ほっといてくれって。

5番の感動があって、アンコールがペルシャザールの饗宴(ノクターン)と悲しきワルツでしっとりした弦をきく。甘すぎずのデザートもセンス満点でした。オケの団員さんは起立、正対。北欧らしい美しい金、白のブロンドの女性も多い。出し切った満足感の笑顔。シベリウスはフィンランドのお国物じゃないですね、シグナチャー・ピース、国歌です。それを東の果ての国民がスタンディング・オベーションで喝采する。オケが退場して誰もいなくなったステージなのに拍手が鳴りやまず指揮者がひとり呼び戻される。久々に大満足で帰路につきました。

 
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シベリウス 交響曲第6番ニ短調作品104

2015 OCT 20 0:00:38 am by 東 賢太郎

凛としてすき通るような秋空にふさわしい音楽は何だろう。毎年この季節になると考えることだが、先日の演奏会でこれを耳にしてはたと膝を打った。

シベリウスの7つの交響曲でも、おそらく6番は人気がある方ではない。しかしこれの魅力は掛けがえがなく、僕には無上のインティメートな曲だ。心に住みついてから離れるということがない。好きな音楽はいくらもあるが、こうして恋情をいだくものは稀だ。

6番はどこかさびしい曲だ。これこそが魅力の要である。弟クリスチャンの死、経済的にも精神的にも援助を受けたカルペラン男爵の死というものがどこにどう影響したかは語られていないが、愛しい者がいなくなってしまう悲しさというものを長調の楽想でこんなに切々と伝えてくる音楽は他に知らない。

そもそも音楽がドラマと共に泣き、慟哭するのはオペラだ。世の中にはそんな赤裸々に訴えなくたってもっと泣けるものがあることを大人ならばみんな知っている。在るべきものが消えたときの心の隙間、喪失感。この30分に満たない交響曲は、べつに今は何も失っていない僕に、とてつもなく大切なものをまず味わわせ、そして最後にそれをとりあげてしまう。

そうすると、なんだか不思議なことだが、僕が人生でそうして現実として失ってきた数々の大切なものが、その無くなったすぐ後の心を吹き抜けたすきま風の茫漠とした記憶と一緒になってよみがえってくるのである。そしてそれは、こうして文字にするそばから陽の光を浴びてどんどん消え去ってしまう。悲しみという雪の結晶だ。

だから僕はこの6番をよく聴く。何が心に戻ってくるのかは、そのときまで知らない。何でもいいじゃないか、大事なものだったんだから。考えることもない、いつもこの素晴らしい音楽まかせなのだ。

第1楽章の冒頭、第2ヴァイオリンとヴィオラでそっと入る合奏は僕になぜか冬の日の葬送を思い起こさせる。死者の魂は冷んやりした青空に登る。いきなり悲しいのだ。なにが?それは後になってわかる。練習番号 I の第1ヴァイオリンによるこれだ。

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何と楽しく嬉しげな!ここについているF⇒B♭(+g)の和音!何度も自説を書いてきたが、わかる人にだけはわかっていただけると信じたいが、トニックからサブドミナントへの飛翔は心の飛翔でもある。人間がもっとも幸せな瞬間である。このフレーズが僕の頭にすでに強く焼きついてしまっていて、6番を聴くとなると冒頭に早やリフレーンとなって悲しい色に染めてしまう。あの人、あの場所、あの楽しかった日々・・・・。そういう諸々のことだ。

この楽章のコーダは雲間にさす赤い夕陽のような金管の和音であたかも締めくくられたようだが、そうではなくて、弦と木管の合奏による虚ろな4小節が加わる。

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これは何だろう?あれだ、あれだよ、もうないんだなんて、あれはどこへ行ったんだ?

書くときりがない。スコアには呪文のように不可思議なフレーズがあらわれては泡のように消え、わけもなく郷愁をそそり、心を疼かせ、かき乱してくれる。第4楽章の美しいが翳りのある女人の舞のような冒頭部分のオーボエや、主部の何かを峻厳に宣託するようなテーマにつく難渋な和音も耳に残るが、ここでもコーダが、僕がすべてを失ってしまったことをこうして告げてくる。

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モーツァルトの24番のコンチェルトが幽界への黒々とした狭間をのぞかせるみたいに、息絶えようという魂が最後の飛翔をしようともがくのだが、ここではそれがDm、D♭、B、Aという和声で、第1ヴァイオリンの楽譜の f のところで大きく最後の息をして、esで停止してdesまた停まって、最後はニ短調の暗黒に至って、d のユニゾンで虚空にのまれていく・・・・。

5番まで、シベリウスは北欧フィンランドの人であった。しかし6番、7番においてついに彼は音という抽象的な素材で、何も描くということはなく、誰もやらなかった方法で語りつつ人間の深いエモーションに訴えるユニバーサルな音楽家になった。

ベートーベンが5番と6番で示した交響曲の分かれ道。抽象的素材を突き詰めた5番という絶対音楽の行く先はブラームスが、6番という具象と感情の喚起は幻想交響曲を経てマーラーが引き継いでいくが、シベリウスは6,7番において明確に前者の系譜に連なったと思う。6番の室内楽のような、エッセンスだけを凝縮したスコアには、幽界を透過して数百光年も彼方の星々の瞬きが見えてくる。

 

演奏について

6番は各楽章の頭の速度記号が基本的に変わらない(第2楽章、終楽章のコーダの前が例外)。だからallegro molto moderato 、 allegretto moderato – Poco con moto、 poco vivace 、allegro – Doppio piu lentoという4つの楽章のテンポ設定が演奏の性格を決める。その分、楽想の起伏と強弱の塩梅が好悪を分けるだろう。

加えて、明確にフレーズされた旋律の歌いかた、対位法旋律の扱いにこだわりたい。主題のなつかしい感じの根源はドリア旋法にある。レからドまで白鍵だけで弾ける音階で、この7音の3和音の組合わせで日本人好みのフシに和声づけできる。一聴ではわかりにくいが、音の構造上、6番は我々の口にあうメロディーに満ちているのである。それをどう感じ、どう聴かせてくれるか?

加えて、考え抜かれたリズムの彫琢、巧みな楽器法のパースペクティヴなど、録音では細部が出にくいが、弦の発音(アーティキュレーション)、木管・金管とのバランス、ティンパニの強打のインパクト、ハープの倍音のかませ方、など実演では聴きどころが満載である。そして、言わずもがなだが、あっさり終わってしまう音楽の性格づけである。どれだけ喪失感が悲しく心に響くか。魂をゆさぶるか。

 

渡邊暁雄 / 日本フィルハーモニー交響楽団

4988001742005演奏のコンセプトとして僕はこれが好みだ。なんといっても音楽に対する渡辺の優しい視線にあふれ、6番がどう響いてほしいかがわかる。オケが音程もパワーも弱く伝えきれていないものがありそうだが、旋律にもっと思い入れや抒情があっていい部分もあえて深入りしない指揮である故に欠点にまでなっていないのは幸いだ。ロマンに傾かない節度で音楽の枯淡の側面をグレーの色調で見事に描いており、上記本文の「悲しみ」がふつふつと湧きあがるのはこれだ。

 

ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

91CF-wzp5zL__SL1500_第6番CD史上、最美のオーケストラ演奏である。これがドイツのオケである等々どうでもよいことで、第1楽章冒頭から聞き惚れるのみだ。カラヤンは6番が好きで3度録音しているが2番目のこれが圧倒的に良い。ドイツ流に楽器がピラミッド型に積み上がるのでの第2楽章は弦と管(特にホルン)のバランスが異質だが、ソロの超弩級の上手さと見事な音程に、これまたどうでもよくなってしまう。第4楽章、渡邊を聴くと情に流れてるかなと思うが、カラヤンBPOの絶頂期の音の前にこれ以上望むのは野暮というものだ。

ネーメ・ヤルヴィ / エーテボリ交響楽団 

51Y2g2DR4cL__SY450_対照的なものを一つ。抒情味はまったく薄いが、テンポを速めに取った演奏として出色。第1楽章は僕の趣味だとちょっと速すぎだが第2楽章のPoco con motoの弦のアーティキュレーションは見事であり、第3楽章のリズムの切れ味と雄弁なダイナミクスは説得力あり。第4楽章も心もち速いが弦の明確なフレージングは主張があり全奏はシンフォニックに引き締まっている。オケが手馴れており十八番の安定感。交響曲としての6番の骨格を僕はこれで知った。

 

オスモ・ヴァンスカ  /  ラハティ交響楽団

61UxltiLkQL精緻に細部までリズムが磨きぬかれた見事な演奏。やや速めのテンポで描く旋律もフレージングが完璧で弦のひとりひとりまで鍛えられている様はムラヴィンスキーのチェイコフスキーを思わせるほどだ。第3楽章は天空をかけめぐる妖精のような弦、森にこだまする声のようなスタッカート、実に素晴らしい。この路線ではトップクラスの演奏なのだが、音の重なりが透明すぎてやや現代音楽的に響くなど、僕のイメージするポエジーとはやや遊離するものがある。このyoutubeで全曲が聴ける。

 

レイフ・セゲルスタム /  デンマーク国立交響楽団

Sibelius_Segerstam_8867セゲルスタムは2番を読響で振って、これが非常に良かったので、以来彼のシベリウスはマークしている。6番も大枠のコンセプトとして「門構え」が大きく、作曲家の眼で磨かれているが神経質にならないのが美点だ。たっぷりしたテンポで歌わせており、豊かなホールトーンとの調和が実に美しい。第4楽章コーダ前の減速はユニークで終結は感動的だ。ウィーンフィルのベートーベンをムジークフェラインで聴くという趣であり、全集として値段が安く(たしか2千円ぐらい)非常にお値打ちである。

 

クルト・ザンデルリンク / ベルリン交響楽団

764何とも温かみのある音で包み込んでくれる。 カラヤン以上にドイツ的な音響と拍節感がオルガンのようでユニークだが、各楽器が独特な色づけのある有機的な音色で鳴っており、木管の音程など抜群に素晴らしい。これがシベリウス的であるかどうかはともかく、こういう音楽が心に滋養をもたらす良い音楽なのである。この演奏も本文に書いた「悲しさ」を味わわせてくれる筆頭であり、いつまででも聴いていたい。6番の本質とはスタイルではなく心に入ってくるものがあるかどうかである。

 

アレキサンダー・ギブソン / スコティッシュ・ナショナル管弦楽団

41FJeo5Z9fL__SS280ギブソン(1926-95)はスコットランド人である。僕は仕事上イングランド人もアイルランド人もウェールズ人もつきあったが、スコットランド人と何故か特に深くつき合った。気が合ったのかお互い反骨だからか。いい奴が多かった。シベリウスは極北の音楽だ。異星に近い。あのブリテン島北端の荒涼とした風土は似あう。6番など最高だ。ギブソンは全集があるがそれなりの味がある、オトナのシベリウスだ。僕は彼のエルガーの1番を愛聴しているが、同じ土壌からにじみ出た泉という感じがする。

シベリウス 交響曲第7番ハ長調作品105

 

 

 

 

 

 

 

 

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ハンヌ・リントゥのシベリウス交響曲第1・6番を聴く

2015 OCT 13 0:00:12 am by 東 賢太郎

中島さんのステージが終了したのが4時すぎで、そこから錦糸町のすみだトリフォニーホールに駆けつけました。昨日は京都で一泊して夜遅く帰宅しかなり疲れておりました。最近は疲れると平気で寝てしまうので油断なりません。薬屋でカフェインを買ってのぞみました。

ハンヌ・リントゥ指揮新日本フィルの演奏会で、交響詩「大洋の女神」、交響曲第6番、同第1番という魅力的なプログラムでした。これはシベリウス交響曲全曲シリーズの2回目で、全部買っていたのですが1回目の2番、3番、4番は先日にウィーン・フィルと重なって無念にも行けなかったのです。

このホールは2、3度きいたのですがあんまり印象はなく、今回は席が良かったせいか東京のホールにしては異例なほど音響そのものも楽しめました。何度も書いてますがこれは重要なことで、いくらウィーン・フィルでもサントリーホールのあそこじゃどうもということがあります。

交響詩「大洋の女神」が鳴り始めて、デリケートな音の良さに耳がそばだちます。この曲、実演は初めて聴きますが冒頭の管弦の軽い羽毛のような質感の響きがいいですね。フルートも美しい。これを聴いただけで、ああ来てよかったなと思うのです。健康を取り戻した第5交響曲のころの作品であり第2交響曲の響きもあり、ラヴェルのダフニスを思わせる光彩もある。好きな曲です。

オーマンディーは1番を振っているがカラヤンは振っていない。それはわかるが第6交響曲はカラヤンが振ってオーマンディーは振っていない。3,6番は彼はよく理解できなかったとのことで不思議であります。さてリントゥの6番ですが、やはり弦が入念に磨かれて美しく清澄で(この曲はそれが命だ)、広がりも凝集感もある上質の演奏でした。こういう精妙な演奏の細部まで良いバランスで聴こえ、このホールはなかなかのもの。先日2,4番の練習を見ていて、リントゥの引き締まった指揮は6番にはどうかなと思いましたが、詩的なものへの感性も高くむしろ向いてました。アレグロの律動は筋肉質で、こういうリズムへの綿密な配慮がないとシベリウスはふやけて聞こえます。総じて発音が良い。楽しめました。

さて休憩後の第1交響曲ですが、何度も聴いてますが、チャイコフスキー、メンデルスゾーン、ブルックナー、ワーグナーをごちゃ混ぜにしたようなロマン派風音楽であり、僕がシベリウスに求めるものは殆ど希薄です。それゆえ7曲の中では最も聴かないもの。ところがこれが今日は大変に素晴らしく、人生で初めて、とうとう思いもしなかった第1番に感動したのでした。この年にしてこれは記念碑的なことです。リントゥの曲へのグリップが強く、オケがその振幅の大きくてメリハリの明確なコンセプトに心服して全力で弾いたという印象でした。何でも初めてというのはいいもんです。有難うございます。

シリアスな音楽にシリアスに真摯に立ち向かったのに大変好感を覚えました。新日本フィルはもっと聴いてみたいですね。非常に上質でグレードの高い演奏会でありました。

 

 

最後にリハーサルの時のハンヌ・リントゥ氏の写真です。11月2日に第3回として、今度は手兵のフィンランド放送響で5番、7番、タピオラがあります。サントリーホールではありますが、非常に楽しみになりました。
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ハンヌ・リントゥのリハーサルを聴いて(シベリウス雑感)

2015 OCT 7 1:01:31 am by 東 賢太郎

ここずっと仕事のせいもあり歌舞伎に気が行っているせいもあり、野球が例年になく盛り上がっているせいもあったりして、どうもクラシックにはご無沙汰の日々でありました。

夏がまた例年より暑かったし台風もひときわ強烈であって、どうもそのような熱帯性気候というものがこれまたクラシックに似合わないんですね。スイスから香港に転勤した頃もクラシックがすっかりになってしまいましたが、音楽をきこうという気分は気候風土と関係が深いように思います。

10月になると、しかし、世の中の方が待ってくれません。だいぶ前に買ってあったハンヌ・リントゥ指揮のシベリウス・シリーズが楽しみになってきました。その初日が明日だったのですが困ったことにサントリーホールのウィーンフィルが重なってしまいました。さらに困ったのは、明日にセリーグのCS出場を決める天王山の広島・中日戦まで重なってしまいました。

lintuご招待であるので息子を連れてウィーンフィルに行くことにしましたがシベリウスは幸いに、今日すみだトリフォニーホールにて初日のプロの公開リハーサルがありさわりを聴くことができました。2番と4番でしたが、フィンランド放送交響楽団首席指揮者のリントゥ氏と新日本フィルが音楽を生んでいく様はインスピレーションに満ちており楽しみました。

しばしの音楽の空白期間をおいて耳にするシベリウスは心に沁みました。彼の音楽は決して自然そのままを描写したものではないですが、古代からおそらくすべての人間が本源的に懐いてきたであろう自然への畏怖、畏敬、讃美のようなものを感じます。そしてその感情の中に人間の儚さ、弱さ、そして、生きようとする者の強さを投影させているようです。どこか魂をストレートに揺さぶってくるものがあります。

ということですから、どこの国でもモーツァルトやベートーベンのように受けいられていそうなものですが、それがそうではなく、やはり北欧という民族色の中に置かれているようです。僕の滞在中のおつき合いで感じた範囲でも独仏伊でシベリウスが特に普遍的に愛好される様子はなく、なぜか英国だけでは深く受容されているようでした。ところが、新田ユリ 日本シベリウス協会会長がyoutubeの日本記者クラブで発言されていますが、フィンランドのオケ団員いわく日本人は特にシベリウスに共感をもって聴いてくれるそうで、「理解する」というよりも「わかる」というほうが近いとのことです。これはどうしてだろう?

自分でもそういう感覚があります。たとえば交響曲第2番はドイツの音楽と同じスタンスで聴ける名曲ですが、それでも第2、第3楽章には非ドイツ的でシベリウス的としか表現できない特別なことばで語られた部分があります。しかしそれはフィンランド人しかわからないことばでは決してなく、冒頭に「音楽は気候風土と関係が深い」と書きましたがシベリウスはきっとユニバーサルなものをエッセンスとして強く持っているのだと思います。

リハーサルで取り上げていた曲をということになりますが、次はドイツやイタリアの音楽からすると同じスタンスではわかりにくい部類の交響曲第4番です。おそらく初めてきいた方は2番ほどは好きになりにくいのではないでしょうか。それは2番では一部だけを占めていたシベリウス的なことばが4番ではほぼ全編にわたって語られているからです。つまり彼は語りたいことだけを一切の虚飾も妥協もなく語っているわけです。

これを作曲した当時シベリウスは原因不明の腫瘍ができて病をわずらい、家庭も財政的に苦境にありました。ひとりの男として、大変に孤独だったのだろうと想像します。60年間決して平坦な人生を生きてきたわけでもない僕も、今の自分よりずっと若い時期にこれを書くに至ったシベリウスの心の風景がわからないでもありません。しかしそういう出自の音楽であるにもかかわらず、4番は僕に苦境の痛みを思い出させるわけではなく自然な慰撫を与えてくれるのです。心の同期とはへたな慰めよりも響くのです。

これは悩んで病んで疲れてしまった人の音楽ではなく、生きようとする強さ、強い意志を秘めています。それを心の耳で聴きとった人にとっては、人生の伴侶となる交響曲なのです。

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シベリウス 「カレリア」組曲 作品11

2015 JUN 11 2:02:43 am by 東 賢太郎

食通というわけではないですが、行った国や地方の郷土料理、田舎料理、酒を味わうのが大好きです。げて物でも何でも、土地の人がすすめるなら食べてみます。食は水と土と気候につうじていて、そこから人も文化も肌でわかるという気がするのです。

クラシック音楽も、食と同じほどに土地のものという性格があります。フランスはフランスの、チェコはチェコの味がしますんで。

たとえば、ワインひとつとっても、ダフニスを聴きながらコルトン・シャルルマーニュにロックフォール、イベールの寄港地を聴きながらきゅっと冷えたあんまり高価でないドライなシシリーの白にオリーヴ、シューマンのライン交響曲でクロスター・エバーバッハのトロッケン・アウスレーゼに酸味の効いたザウワークラウト、ハーリ・ヤーノシュにはトカイ・エッセンシアとフォアグラかな。考えただけで最高ですね。

ただロシアやフィンランドなど行ったことのない国は食も知りませんし、ロシアは渋谷のロゴスキーでピロシキやボルシチを食べてムソルグスキーを連想してみたりしたものの、やっぱりその地に立って空気をすってみてなんぼというものがありますね。だから、半端でないシベリウス好きの僕ではありますが、フィンランド料理は食べたことがないし、まだまだ彼の音楽はよくわかってないんだろうとコンプレックスをいだいて久しいのです。

シベリウスをはじめて知ったのはご多分にもれずフィンランディア、交響曲第2番あたりだったでしょう。それ以外は何をきいても全然いいと思わず、疎遠な時期が長かったのです。幸いだったのはロンドンに6年いて、あの白夜の裏側みたいに暗くて長くて陰鬱な冬を味わったことです。それがフィンランドに似ていることはないのでしょうが、あれで何となくシベリウスがいいなと感じるようになってきた。そんなものです。

ただ、それにいつごろ出会ったか覚えてませんが、「カレリア組曲」作品11というものがあります。そういうじわっとした体感からくるなじみ方とは別なルートで、この曲だけは初めて聴いた瞬間からいきなり好きであり、シベリウスが気になる存在になるきっかけとなっていました。非常にわかりやすい曲であり、どんな初心者でもすぐ覚えられるメロディーばかりです。

これを知ったのは当時フィンランドの若手指揮者だったオッコ・カムが1975年10月に録音したヘルシンキ放送交響楽団を振った演奏です。オッコ・カム。名前がエキゾチックじゃないですか。オケも本場ご当地もの。これぞ地ビールと郷土料理の味でなくてなんでしょう。

しかもこの演奏、問答無用に大変にすばらしく、今でも僕は聴くと夢中になります。このカレリア組曲以外はきく気にならず、あまりにインパクトが強くて自分でシンセサイザーで同曲を全部演奏してMIDI録音までしてしまいました。曲を問わずそこまでさせられた演奏というのはあんまり浮かびません。お聴きください。

第1曲「間奏曲」は鬱蒼とした森のようなホルンが響く序奏から主部に移りますがそこのティンパニの軽やかなリズム!弦のきざみ!なんて心がはずむんだろう。第2曲「バラード」のほの暗い歌。音楽が消え行って弦楽合奏が聖歌風になる場面、いいですね。どこか宗教的な沈静感が支配しながらも深々とロマンティックです。それが第3曲「行進曲風に」へ場面転換した瞬間、ぱっとあたりが明るくなって光がさす。これをきいてうきうきした気分にならない人がいるでしょうか。

べつにオーケストラが特にうまいわけではありません。でもすべてのパートが雄弁に何かを語りかけてくる。それも土地の言葉で!たとえば第3曲のヴァイオリン・パートと裏の木管が何度弾いてもこういうわくわくした感じにならないんです。ニュアンスの問題なんですが、これはやってみないとわかりません。気にいらず何十回も録音しなおしました。浮き出してくる生命力に満ちたチェロの対旋律なんかもそうです。

苦労しましたがなつかしい思い出であり、いい経験にもなりました。指揮者やオケのかたは大変なんだということがわかりましたし、僕はスコアをピアノ譜みたいに思って観ていたのですが、とんでもない間違いなことを知りました。ピアノ譜だってただ弾けばいいというものではないわけですが、弦のはまた表情の出しかたが別物です。

この演奏、あの譜面からこういう弾き方を引き出したというのは才能というしかありません。指揮者は同じ譜面からそういうものを読み取れるかどうかで大差がつくのですが、この演奏の場合、指示されたというよりもオケの老練の奏者たちが28才の指揮者の輝きにあてられて若やいだものが出てしまった、そんな感じすらします。

好き勝手な主観と思われそうですので、僕がそう思う根拠をお見せしましょう。

オッコ・カムは後年、ヘルシンキ・フィルハーモニーとカレリア組曲を再録音しています。これがその第3曲ですが、聴き比べてください(旧盤は11分21秒から)。

同じ指揮者と思えないほど「普通の」演奏になってます。全然面白くもなんともない。この時、オッコ・カム氏は41才になってます。オケは変わっていますがむしろヘルシンキ・フィルの方が格上ですから、カムがフレージングの考えを変えたか、若さのオーラが無くなったか、どっちかです。僕は両方あるかなと思ってます。考えを変えたというより「感じなくなっちゃった」。だからオケが反応しない。若いからできることって、あるんですね。

結局、こういうことをやりながら僕はシベリウスに深くはまっていったのです。今は交響曲では3、4、6、7番が心の中で旬をむかえています。ヴァイオリン協奏曲がいかに好きかは別稿で詳しく書きました。

4988005898661それでもこのオッコ・カムのカレリア組曲の旧盤は大好きなんです。他の指揮者のもありますが、どれもいらない。これだけで。タワーレコードでこれを含む3枚組が出ていて、新しいカッティングということで問答無用で買いました。音はすこし透明感が増していて嬉しいですね。ちなみにベルリン・フィルの2番も入っていてなつかしい。彼がこれを録音したのは1969年にカラヤン指揮者コンクールで優勝した翌1970年で、なんとまだ23才!颯爽としながらもロマンティックで、アンサンブルは雑な部分もありますがベルリン・フィルが充分やる気になっていてすごいことです。

 

( 追記)

ちなみに、28才の旧盤のほうですが、ドイッチェ・グラモフォン(DG)です。カムは交響曲の1-3番を振ってますが、4-7番は大御所カラヤンが振っている。つまりDGはカラヤンによる全集を目論んだが、カラヤンが1-3番とカレリア組曲を引き受けなかったのではないでしょうか(想像ですが)。だとすると、カラヤンのお目の高さは相当なものです。オジサンが振ってもだめな曲は若者に回したのかもしれないからです。それが正解であることは、まかされたカム自身が後に証明することになりました。

 

 

 

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シベリウス 交響曲第5番 変ホ長調 作品82

2015 FEB 28 0:00:22 am by 東 賢太郎

シベリウスプーランクにハマっているそばからシベリウスというのはとってもお似合いでない組み合わせですね。コートダジュールで北極グマのビデオでも見るみたいでしょう?これは僕のなかだけの遺伝的な調合です(たぶん)。プーランクは母方のお好み、シベリウスは父方のというイメージなんです。

小学校の時、中学生だった父方の従兄の家に遊びに行くとレコードをたくさん見せてくれました。当時はベンチャーズ少年ですからクラシックなど無縁でしたが、寒々した風景写真のジャケットのがあって、気に入って見ていたらもう帰るよとなってバイバイして後ろ髪を引かれたことだけよく覚えている、その程度のあやふやな記憶なんですが、そのレコードにシベリウスとあって6番という文字があった。それは妙にクリアに覚えていて、自分の古い記憶の中でも不思議な輝きを持っているんです。

シベリウスを作曲家の名前というつもりで覚えたんじゃなく、オリオン座のベテルギウスという星があって、これが赤くて巨大な脈動変光星なんであそこで何が起きてるんだろうと毎晩考え、僕の空想のアイドルみたいになっていて、冬空というのはベテルギウスを見るためにあったようなもんでした。だから「ウス」っていうところに頭が強烈に反応したんですね。それだけ。だから中学になっても、シベリウスを聴いてみようなんてことはかけらもありませんでした。

高校になってからですね、一気にクラシックにのめりこんで、まずお決まりの手順でフィンランディアや2番を聴いた。なるほどこれはいい、そこでそういえばあのときジャケットに6番って書いてあったよなというわけで6番を聴いたんです。一回だけ。それっきりでしたね。兄ちゃん変なものを聴いてたんだなで。

ところがさらに長じて気がついたらそれなしには生きていけないぐらい好きになっていたんです。父方は北国の能登だし、なんかああいう寒冷地気質の音楽が合うかもしれません。職業はお堅い学者や技術者ばっかりで従兄もそうなりましたが、文系はゼロ。

いっぽう母のほうは長崎で、そっちの家系はシベリウスっぽいところは皆無でして、南国風の明るいおおらか気質でそれとはほど遠い人々です。職業は商人ばっかりで理系ゼロ。これほど赤組白組みたいな家系も珍しいでしょう。

自分は長らく7:3で母方と思ってました。この7のおかげで証券業界を渡ったと。ところが、いま好きなことをできる身になってみると、3のほうもけっこう重めにあるなという感じがしています。北国気質かなと。僕はリチャード・ドーキンスの遺伝子ビークル説の信奉者なんでそういうことが気になります。

さて今回は6番ではなく、そのシベリウスの交響曲第5番変ホ長調です。

この曲、聴き終るとどこか英雄交響曲をきいたようなヒロイックで高揚したな気分が残りますが、演奏時間はずっと短いしトゥッティでリズムがはじけるようなアクティブな場面は第1楽章の最後を除くとぜんぜんありません。自分が動いている、走っている、馬に乗っているという気配がないのです。

だからあのヒロイズムはどっからくるんだろう?長らく僕にとっては謎でした。

この曲の基調にあるのは森の葉擦れのざわざわごそごそや草原の冷たい風のさわさわ、小鳥や鶴の鳴き声、そこに突風が来たり雲が暗くなって急に降ってきた雨がみぞれになったり、黒い雲間から不意に陽光がさしたり、というもの。それは4番にあった響きと変わりません。

ちがうのは主題と和音で、だからそこに秘密があるに違いありません。

冒頭の木管の鳥の声、これがメインとなる主題でソードレミーと天に向かって4度4度で登り、和音も4度上のサブドミナントへ。この隠し味は効いてますね。ぱーっと希望が満ちて天国の光がさします。腫瘍ができて死を覚悟した4番、それが良性と分かり生きる喜びが戻った5番。この曲の和声はさらに国まで鼓舞していた2番のころの感情まで取り戻します。

一例としてこれでしょう。このとてつもなく感情にまとわりつく和声連結、E♭、G#m、C#m、F#は、なにか皆で手をとり合って「そーおーだー、そーおーだよ、そーおーだー、そーおーだよ」と敵味方が涙ながらに許しあうオペラのクライマックスシーンみたいな感じです。

sibelius5,2

こういうものこそフィンランディアや2番を「熱く」していた和声の調味料であって、はるかに作曲がうまくなっていた5番ではこの熱いヒューマンな感情を4番の極北の無機的世界と同一平面上で対比させるという離れ業をあみだしているのです。主題間の性格の対比に加えてだから強い化学反応があります。絵画でいえばオブジェと背景の対比。「モナリザ」は単に女が不思議な微笑みを見せている絵でありますが、あのバックの景色の巧妙なぼかしと距離感があってのインパクトと言われます、それと似てますね。

5番のさらにすごいのは、第1楽章の真ん中あたりで寒風による葉擦れのごわごわが弦によって延々と続きフアゴットが立ち枯れの木みたいな生気のない歌を奏で寒さで体が冷え切ってしまうのですが、そのままいつのまにか体が暖まってきて、最後は汗までかきながらヒロイズムにいたる。ぜんぜん自分は走ってもいないのにという不思議です。

その不思議については、こういう話をきいてなるほど、そうかもしれないと思いました。

フィンランドに学生時代にホームステイした先輩の話だと冬はサウナに火照るまで座り込んでセーノで外に飛び出して、冬だったら積もった雪の上にダイブして寝る、夏だったら白夜で薄明るい湖にドボンと飛びこんで泳いで冷やす、そんなことを何度も家族の人たちとやって裸のつきあいで自然に仲良しになるんだそうです。

雪の上では寒いんだけどサウナに戻るとじわじわっと体の芯から火照ってくる、それじゃないですかね。あまりに下世話?すいません。ただ、僕はシベリウスを聴くといつも思考停止になって、耳というよりも体感で味わうようになってます。走って運動して熱くなるんじゃなくて、座ったままじわじわっと体の芯が中から火照ってくる。ああやっぱりサウナだな・・・、こうしか表現のすべはございません。よって、以後これをシベリウスの「サウナ効果」と勝手命名させていただきます。

7曲のシンフォニーのうちで、特にサウナ効果てきめんなのが第5交響曲ですね。

jean-sibelius_jpg_240x240_crop_upscale_q95曲はこんな風に進みます。春の息吹を感じる変ホ長調のホルンとティンパニに木管がさえずる冒頭から森の清々しい空気にあふれます。ここで伴奏のホルンが三度音程で下降しますがちらっときこえる短2度が最高ですね。木管の三度音程が一段落してdisに落ち着いたところで横風のように不意に入ってくる弦のd!これはほんとうにびっくりします。すると、やがて雲が出て陽が陰って葉っぱがざわざわしはじめる。小雨がちらつき、やがてそれがみぞれにかわって暗雲があたりを覆います。すると雲の切れ目から陽がさして天気雨みたいになります。

この場面のトロンボーンの予想外の和音の闖入!もうこれはさっきのdis-dの短2度のびっくりに匹敵するわけで、これぞシベリウスワールドのはじまりはじまり!でうれしくなりますね。これ、esのバスにe-g-cisが乗るんですが、僕は急に雲の色が変わったように感じます。体は冷え切っていて、そこからひととき陽光がさしますがなかなかぬくもりは戻りません。それでも最後は汗をかいて顔まで熱くて真っ赤になり(どうやって?わからない。サウナでしょ)、音楽はティンパニのリズムが支え勇壮なコーダになるのです。

第2楽章はリリカルな自然讃歌です。第1楽章冒頭のムードが支配し、木管とピッチカートのかけあいに僕は鳥の声をききます。ただ木管に主音の悪魔の音程トライトーン(増4度)がちらちら聞こえ、手放しの幸福な牧歌というわけではありません。ピッチカートの下降が導く部分ではまた雨がちらつきます。ああ寒い。

第3楽章は無窮動風の森の葉を揺らす走句に3音節単位で第2交響曲終楽章のテーマの最初の6音を思わせるホルンが重なります。それに今度は木管の翳りのある優しい旋律が乗って交唱となり、しばらく進むとそこまでの変ホ長調がハ長調に非常に印象的な転調をします。森をぬけて眼下に荘厳な夕日のさしかかる大峡谷を望み観たかのようで、神々しさに鳥肌が立ちます。

音楽は一時静まってオーボエの鶴の声がきこえ草原の風景になります。風が吹き草がさわさわと音をたて、砂が舞います。優しい木管が戻ってきますが弦に移って短調で郷愁を歌います。トランペットに3音節主題が再現しますがこちらも鶴の声を模しています。徐々に変ホ長調に移行しますが第1楽章とは違って汗をかくほどは加熱しきることなく、主調の安定感を確保したところで交響曲としてはまったく異例のこんな終わりを迎えます。

sibelius5

初めて聴いたときはえっと思いました。真ん中の4発のバスはずっとシ♭で、ドミナントであるB♭のテンションです。いつトニックのE♭に行くんだ?と期待させて、最後の1発でセーノでやっとそれが来て終わります。ベートーベンの第五交響曲のエンディングもハ長調の和音連打ですが、もし最後にこれがあったらどうですか?みんなずっこけるでしょう。

普通の西洋音楽は旋律、和声、リズムが3要素とされます。シンプルにいえば、この3つが聴衆を感動、興奮させるレシピということです。快速になってエンディングを迎える曲(多くがそう)は、最後の最後に大興奮の中で旋律と和声(変化)はかなぐり捨ててリズムだけが裸形で残ってジャン・ジャン・ジャーンとかラフマニノフみたいにドンドコドンとかで終わる。リズムが興奮創造の主役に踊り出て、プリマドンナになるのです。

ところがシベリウスのエンディングというのは5番に限らずリズムが脇役であることが多いです。それが特徴の一つと言ってもいいでしょう。古典派の交響曲からベートーベンを通ってブラームスやブルックナー、マーラーに至る系譜とは明らかに異質で、例えば第2交響曲、フィンランディアのように比較的初期の旋律もリズムも古典的な意味で明確な曲でも、エンディングではリズムは脇役どころか隅に押しやられ、長く引き伸ばされた和声がプリマになっています。

その和声は両曲ともトニック、サブドミナント、トニック(ハ長調ならC→F→C)というもので、これはリヒャルト・ワーグナーの楽劇のエンディングの得意技であると書けば詳しい方はご納得いただけるはずです(FがFmにもなる)。このサブドミナント効果は僕の持論でここに詳しく書きました(田園交響曲とサブドミナント)。さきほど述べましたが、シベリウスの第5交響曲の第1楽章の「明るさ」の根源は、冒頭の鳥の声主題の4度+4度(c→f)とE♭→A♭のサブドミナント効果を基本レシピとしたことにあります。だから、運動してないのに、つまりリズムは脇役に終始するのに、コーダでは体が芯から暖まり、サウナ効果になるのです。

この終楽章のエンディング、練達の作曲技法によってもはや和声変化すら不要になったもので、これでヒロイズムの熱狂がなぜ醒めないかはサウナ効果がここに至るまでに充分に確保されているシベリウスの確信のしるしと思います(その作曲技法の究極の姿はさらに年を経て第7交響曲に結実します)。ここでは旋律、和声、リズムがすべて舞台の奥にひっこんで、そこに残ったものは暗い星空を見上げたかのような「無」です。音のない「休符」がプリマになってくるのです。

比喩的にいえば、サウナで体が十分に温まってますから、 外へ出て外気にあたって星空を見上げても寒くないんです。運動で、全力疾走で、リズムで熱くなってゴールイン!という曲じゃない。このこまめに書き込んである「休符」を聴いてくれ、そういうシベリウスのメッセージを僕はこの楽譜から強く感じます。

最後の音の後に四分休符が3つもあって曲は終わっていないのです。だからすぐ拍手なんかしてはいけない。まして間髪入れずブラボーなど論外であって、演奏中に奇声を発するに等しいのです。このオスロの聴衆の最後の音からの「間」をきいてみて下さい。この聴衆たちがみなこの部分の楽譜を知っているとは思いませんが、こういうのが文化ですね。いわれなくたって、この音楽を心で感じ取ればどうしてもこうなると思うのです。文化は大人の所有物です。

198ところで現行のスコアは1919年の改訂版で、15年の原典版は4楽章でオスモ・ヴァンスカがラハティSOと録音していますが冒頭からいきなり違います。ずいぶん平明で気楽に聞こえ、同じテーマによる別な曲の趣です。現行版と同じ部分もホルンのパッセージが弦で出て驚きますし短2度を含む和音で唐突に終わります。終楽章は出だしは同じですがパッセージの終結は別もの、エンディングの楽譜の部分は同じですが弦のトレモロがあります。これを聴くと、シベリウスは改訂でもっとヒューマンなものを盛り込もうとしたようです。

5番というとフィラデルフィアでオーマンディーが振ることになっていて何より楽しみしていたのですが、当日に病欠になってがっくりした思い出があります。もう最晩年でしたからね、代打でウィリアム・スミスという副指揮者が振ったのですがそれでも意外に良くて、オーケストラが「シベリウス言語」に慣れているなと思いました。

僕がよくきくCDです。

パーヴォ・ベルグルンド / ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団

41CXSTCW9TL僕がききたいものはほぼすべてあるので他の演奏は特にいらないです。第1楽章の弦の強弱の抑揚、無機的な音型の交差での雰囲気の出し方、コーダの立体感のある響きなど文句なし。対旋律の目立たないヴィオラやチェロまで確信をこめたボウイングで弾きこまれ、本物のシベリウスを聴かせるという真打の気迫を感じます。オケの音も有機的でこくがあり、音響としても魅力がありますね。ベルグルンドは3回も全集を作っていてこれは2回目ですが、どうしてこの後にまた録音する気になったのかと考えてしまうほど完成度の高い演奏。1-7番とも全部一度は耳にしたい名演です。

もうひとつ、どうせならウルトラ個性的なのを。

レナード・バーンスタイン/ ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

51kje9CuywL__SX450_この演奏は僕は体でなく頭で聴いてしまいます。スコアの面白い部分にバーンスタインは心おきなく反応していて、とっても作曲家の目線を感じます。ブーレーズがシベリウスを振ることはまずないだろうから、その意味で楽しいですね。第1楽章の再現部の3拍子はワルツみたいになりテンポは極限まで落ち、なんとも「ありえない」表現に終始しますが、俺にはこの楽譜はこう見えるよということ。コーダへの持ち込み方など実にうまい。第2楽章はなんだこりゃマーラーじゃないか。こういう指揮を米国のオケでやるとええ加減にせい、金返せと言いたくなるかもしれないが、ウィーン・フィルですからね。音のまろみとコクで聞かされてしまう。終楽章はいいですね。金管主題の再現がゆっくりと遠くから立ちのぼってくる演出、そこからまたまた「ありえない」遅いテンポで粘りに粘ってコーダへ持ち込んでいく、千両役者だけに許される業でしょう。ねっとり濃厚、リッチなクリームのようなシベリウスですが、名優の名演奏と思います。

これは僕がフィラデルフィア管弦楽団の定期で初めて聴いた5番のライブで、FM放送からのエアチェックです。シベリウス直伝をオーマンディが仕込んだオケの細部がけっこう聞こえます。

シベリウス 交響曲第6番ニ短調作品104

(こちらもどうぞ)

クラシック徒然草-フィラデルフィア管弦楽団の思い出-

 

 

 

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札幌交響楽団のシベリウスを聴く

2015 FEB 18 2:02:00 am by 東 賢太郎

サントリーホールにて尾高忠明指揮で交響曲5,6,7番。この3曲を一度にやってくれるとなると聴くしかない。札響というよりも日本の地方オケは大フィル以外は初めてでありそれも楽しみだった。尾高さんは2007年6月2日にN響でブルックナーの8番を聴き、それがとても良かったものだからずっと気になっている指揮者のひとりである。

席はあんまりよくなくて正面向かって右上のブロックだが、どこで聴いてもそう変わらないのがこのホールだ。このプログラムだと聴衆はどんなだろうと思って見たが、ほぼ満員に近く男性が6-7割だろうか。若い人もそこそこいてシベリウスのファン層はけっこう厚いのかもしれない。

まず5番だがホルンが響き木管が鳴るともう一気に気分は北欧である。ただどこかオケが固く、音が伸びていない。これはサントリーホール・トーンなのだが、高弦はトゥッティで耳につくし16-14-12-10-8なのにボディがない(本当にこのホールはだめだ)。第1楽章の弦がごわごわやりながらファゴットがつぶやく部分、あそこはなかなか間が持たなくて急に光がさすブラスの不思議な和音が生きない。終楽章全奏のフォルテもやや濁り気味である。正直のところこれを聴いてやや気持ちが萎えてしまった。

オーケストラというのは生き物だと思ったのは休憩後の6番だ。入りの第2ヴァイオリンから美しい。楽器が暖まった?のか(外は小雪で寒い)管もだんだん良い音になっている。まとめるのが難しい第1楽章だが納得の力演。速いパッセージの第3楽章poco vivaceあたりからエンジンがさらにかかり、アンサンブルも闊達にきまってくる。第4楽章はとにかく音楽が雄弁であるが、オケが自分の言葉で主張できているからラストの静寂が見事に印象的であった。

そして7番。これはさらに音が熟してヨーロッパのオケのような響きになる。いやな音が消えている。同じオケが誠に不思議なものだ。音楽の集中度がぐんぐん増し、最高に感動的なトロンボーンが頂点を築く。なんて素晴らしい曲だろうとただ聞き惚れるばかりで、何も派手なことは起こらないのに心が徐々に暖まって滋養に満ちてくる。大変な名演であり、ここまで弾きこんだ札響に敬意を表したい。尾高さんは現在わが国を代表する名指揮者であると確信した。アンコールのアンダンテ・フェスティーボの弦も大変美しく、今日は大好きなシベリウスを堪能させていただいた。

ひとつだけ、極めて残念なのはフライング拍手が起きてしまうことだ。何でこの曲でそんなことが起きるの?これだけの名演を成し遂げている演奏家がお気の毒でならないし、他の聴衆の感動もぶちこわしにしてしまう。こんなことは11年いたヨーロッパで一度も経験がない。ファンの熱意はわからないでもないが、クラシック音楽というのはロックやポップスとは違う、余韻まで楽譜の一部だ。

 

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