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シベリウス 交響曲第5番 変ホ長調 作品82

2015 FEB 28 0:00:22 am by 東 賢太郎

シベリウスプーランクにハマっているそばからシベリウスというのはとってもお似合いでない組み合わせですね。コートダジュールで北極グマのビデオでも見るみたいでしょう?これは僕のなかだけの遺伝的な調合です(たぶん)。プーランクは母方のお好み、シベリウスは父方のというイメージなんです。

小学校の時、中学生だった父方の従兄の家に遊びに行くとレコードをたくさん見せてくれました。当時はベンチャーズ少年ですからクラシックなど無縁でしたが、寒々した風景写真のジャケットのがあって、気に入って見ていたらもう帰るよとなってバイバイして後ろ髪を引かれたことだけよく覚えている、その程度のあやふやな記憶なんですが、そのレコードにシベリウスとあって6番という文字があった。それは妙にクリアに覚えていて、自分の古い記憶の中でも不思議な輝きを持っているんです。

シベリウスを作曲家の名前というつもりで覚えたんじゃなく、オリオン座のベテルギウスという星があって、これが赤くて巨大な脈動変光星なんであそこで何が起きてるんだろうと毎晩考え、僕の空想のアイドルみたいになっていて、冬空というのはベテルギウスを見るためにあったようなもんでした。だから「ウス」っていうところに頭が強烈に反応したんですね。それだけ。だから中学になっても、シベリウスを聴いてみようなんてことはかけらもありませんでした。

高校になってからですね、一気にクラシックにのめりこんで、まずお決まりの手順でフィンランディアや2番を聴いた。なるほどこれはいい、そこでそういえばあのときジャケットに6番って書いてあったよなというわけで6番を聴いたんです。一回だけ。それっきりでしたね。兄ちゃん変なものを聴いてたんだなで。

ところがさらに長じて気がついたらそれなしには生きていけないぐらい好きになっていたんです。父方は北国の能登だし、なんかああいう寒冷地気質の音楽が合うかもしれません。職業はお堅い学者や技術者ばっかりで従兄もそうなりましたが、文系はゼロ。

いっぽう母のほうは長崎で、そっちの家系はシベリウスっぽいところは皆無でして、南国風の明るいおおらか気質でそれとはほど遠い人々です。職業は商人ばっかりで理系ゼロ。これほど赤組白組みたいな家系も珍しいでしょう。

自分は長らく7:3で母方と思ってました。この7のおかげで証券業界を渡ったと。ところが、いま好きなことをできる身になってみると、3のほうもけっこう重めにあるなという感じがしています。北国気質かなと。僕はリチャード・ドーキンスの遺伝子ビークル説の信奉者なんでそういうことが気になります。

さて今回は6番ではなく、そのシベリウスの交響曲第5番変ホ長調です。

この曲、聴き終るとどこか英雄交響曲をきいたようなヒロイックで高揚したな気分が残りますが、演奏時間はずっと短いしトゥッティでリズムがはじけるようなアクティブな場面は第1楽章の最後を除くとぜんぜんありません。自分が動いている、走っている、馬に乗っているという気配がないのです。

だからあのヒロイズムはどっからくるんだろう?長らく僕にとっては謎でした。

この曲の基調にあるのは森の葉擦れのざわざわごそごそや草原の冷たい風のさわさわ、小鳥や鶴の鳴き声、そこに突風が来たり雲が暗くなって急に降ってきた雨がみぞれになったり、黒い雲間から不意に陽光がさしたり、というもの。それは4番にあった響きと変わりません。

ちがうのは主題と和音で、だからそこに秘密があるに違いありません。

冒頭の木管の鳥の声、これがメインとなる主題でソードレミーと天に向かって4度4度で登り、和音も4度上のサブドミナントへ。この隠し味は効いてますね。ぱーっと希望が満ちて天国の光がさします。腫瘍ができて死を覚悟した4番、それが良性と分かり生きる喜びが戻った5番。この曲の和声はさらに国まで鼓舞していた2番のころの感情まで取り戻します。

一例としてこれでしょう。このとてつもなく感情にまとわりつく和声連結、E♭、G#m、C#m、F#は、なにか皆で手をとり合って「そーおーだー、そーおーだよ、そーおーだー、そーおーだよ」と敵味方が涙ながらに許しあうオペラのクライマックスシーンみたいな感じです。

sibelius5,2

こういうものこそフィンランディアや2番を「熱く」していた和声の調味料であって、はるかに作曲がうまくなっていた5番ではこの熱いヒューマンな感情を4番の極北の無機的世界と同一平面上で対比させるという離れ業をあみだしているのです。主題間の性格の対比に加えてだから強い化学反応があります。絵画でいえばオブジェと背景の対比。「モナリザ」は単に女が不思議な微笑みを見せている絵でありますが、あのバックの景色の巧妙なぼかしと距離感があってのインパクトと言われます、それと似てますね。

5番のさらにすごいのは、第1楽章の真ん中あたりで寒風による葉擦れのごわごわが弦によって延々と続きフアゴットが立ち枯れの木みたいな生気のない歌を奏で寒さで体が冷え切ってしまうのですが、そのままいつのまにか体が暖まってきて、最後は汗までかきながらヒロイズムにいたる。ぜんぜん自分は走ってもいないのにという不思議です。

その不思議については、こういう話をきいてなるほど、そうかもしれないと思いました。

フィンランドに学生時代にホームステイした先輩の話だと冬はサウナに火照るまで座り込んでセーノで外に飛び出して、冬だったら積もった雪の上にダイブして寝る、夏だったら白夜で薄明るい湖にドボンと飛びこんで泳いで冷やす、そんなことを何度も家族の人たちとやって裸のつきあいで自然に仲良しになるんだそうです。

雪の上では寒いんだけどサウナに戻るとじわじわっと体の芯から火照ってくる、それじゃないですかね。あまりに下世話?すいません。ただ、僕はシベリウスを聴くといつも思考停止になって、耳というよりも体感で味わうようになってます。走って運動して熱くなるんじゃなくて、座ったままじわじわっと体の芯が中から火照ってくる。ああやっぱりサウナだな・・・、こうしか表現のすべはございません。よって、以後これをシベリウスの「サウナ効果」と勝手命名させていただきます。

7曲のシンフォニーのうちで、特にサウナ効果てきめんなのが第5交響曲ですね。

jean-sibelius_jpg_240x240_crop_upscale_q95曲はこんな風に進みます。春の息吹を感じる変ホ長調のホルンとティンパニに木管がさえずる冒頭から森の清々しい空気にあふれます。ここで伴奏のホルンが三度音程で下降しますがちらっときこえる短2度が最高ですね。木管の三度音程が一段落してdisに落ち着いたところで横風のように不意に入ってくる弦のd!これはほんとうにびっくりします。すると、やがて雲が出て陽が陰って葉っぱがざわざわしはじめる。小雨がちらつき、やがてそれがみぞれにかわって暗雲があたりを覆います。すると雲の切れ目から陽がさして天気雨みたいになります。

この場面のトロンボーンの予想外の和音の闖入!もうこれはさっきのdis-dの短2度のびっくりに匹敵するわけで、これぞシベリウスワールドのはじまりはじまり!でうれしくなりますね。これ、esのバスにe-g-cisが乗るんですが、僕は急に雲の色が変わったように感じます。体は冷え切っていて、そこからひととき陽光がさしますがなかなかぬくもりは戻りません。それでも最後は汗をかいて顔まで熱くて真っ赤になり(どうやって?わからない。サウナでしょ)、音楽はティンパニのリズムが支え勇壮なコーダになるのです。

第2楽章はリリカルな自然讃歌です。第1楽章冒頭のムードが支配し、木管とピッチカートのかけあいに僕は鳥の声をききます。ただ木管に主音の悪魔の音程トライトーン(増4度)がちらちら聞こえ、手放しの幸福な牧歌というわけではありません。ピッチカートの下降が導く部分ではまた雨がちらつきます。ああ寒い。

第3楽章は無窮動風の森の葉を揺らす走句に3音節単位で第2交響曲終楽章のテーマの最初の6音を思わせるホルンが重なります。それに今度は木管の翳りのある優しい旋律が乗って交唱となり、しばらく進むとそこまでの変ホ長調がハ長調に非常に印象的な転調をします。森をぬけて眼下に荘厳な夕日のさしかかる大峡谷を望み観たかのようで、神々しさに鳥肌が立ちます。

音楽は一時静まってオーボエの鶴の声がきこえ草原の風景になります。風が吹き草がさわさわと音をたて、砂が舞います。優しい木管が戻ってきますが弦に移って短調で郷愁を歌います。トランペットに3音節主題が再現しますがこちらも鶴の声を模しています。徐々に変ホ長調に移行しますが第1楽章とは違って汗をかくほどは加熱しきることなく、主調の安定感を確保したところで交響曲としてはまったく異例のこんな終わりを迎えます。

sibelius5

初めて聴いたときはえっと思いました。真ん中の4発のバスはずっとシ♭で、ドミナントであるB♭のテンションです。いつトニックのE♭に行くんだ?と期待させて、最後の1発でセーノでやっとそれが来て終わります。ベートーベンの第五交響曲のエンディングもハ長調の和音連打ですが、もし最後にこれがあったらどうですか?みんなずっこけるでしょう。

普通の西洋音楽は旋律、和声、リズムが3要素とされます。シンプルにいえば、この3つが聴衆を感動、興奮させるレシピということです。快速になってエンディングを迎える曲(多くがそう)は、最後の最後に大興奮の中で旋律と和声(変化)はかなぐり捨ててリズムだけが裸形で残ってジャン・ジャン・ジャーンとかラフマニノフみたいにドンドコドンとかで終わる。リズムが興奮創造の主役に踊り出て、プリマドンナになるのです。

ところがシベリウスのエンディングというのは5番に限らずリズムが脇役であることが多いです。それが特徴の一つと言ってもいいでしょう。古典派の交響曲からベートーベンを通ってブラームスやブルックナー、マーラーに至る系譜とは明らかに異質で、例えば第2交響曲、フィンランディアのように比較的初期の旋律もリズムも古典的な意味で明確な曲でも、エンディングではリズムは脇役どころか隅に押しやられ、長く引き伸ばされた和声がプリマになっています。

その和声は両曲ともトニック、サブドミナント、トニック(ハ長調ならC→F→C)というもので、これはリヒャルト・ワーグナーの楽劇のエンディングの得意技であると書けば詳しい方はご納得いただけるはずです(FがFmにもなる)。このサブドミナント効果は僕の持論でここに詳しく書きました(田園交響曲とサブドミナント)。さきほど述べましたが、シベリウスの第5交響曲の第1楽章の「明るさ」の根源は、冒頭の鳥の声主題の4度+4度(c→f)とE♭→A♭のサブドミナント効果を基本レシピとしたことにあります。だから、運動してないのに、つまりリズムは脇役に終始するのに、コーダでは体が芯から暖まり、サウナ効果になるのです。

この終楽章のエンディング、練達の作曲技法によってもはや和声変化すら不要になったもので、これでヒロイズムの熱狂がなぜ醒めないかはサウナ効果がここに至るまでに充分に確保されているシベリウスの確信のしるしと思います(その作曲技法の究極の姿はさらに年を経て第7交響曲に結実します)。ここでは旋律、和声、リズムがすべて舞台の奥にひっこんで、そこに残ったものは暗い星空を見上げたかのような「無」です。音のない「休符」がプリマになってくるのです。

比喩的にいえば、サウナで体が十分に温まってますから、 外へ出て外気にあたって星空を見上げても寒くないんです。運動で、全力疾走で、リズムで熱くなってゴールイン!という曲じゃない。このこまめに書き込んである「休符」を聴いてくれ、そういうシベリウスのメッセージを僕はこの楽譜から強く感じます。

最後の音の後に四分休符が3つもあって曲は終わっていないのです。だからすぐ拍手なんかしてはいけない。まして間髪入れずブラボーなど論外であって、演奏中に奇声を発するに等しいのです。このオスロの聴衆の最後の音からの「間」をきいてみて下さい。この聴衆たちがみなこの部分の楽譜を知っているとは思いませんが、こういうのが文化ですね。いわれなくたって、この音楽を心で感じ取ればどうしてもこうなると思うのです。文化は大人の所有物です。

198ところで現行のスコアは1919年の改訂版で、15年の原典版は4楽章でオスモ・ヴァンスカがラハティSOと録音していますが冒頭からいきなり違います。ずいぶん平明で気楽に聞こえ、同じテーマによる別な曲の趣です。現行版と同じ部分もホルンのパッセージが弦で出て驚きますし短2度を含む和音で唐突に終わります。終楽章は出だしは同じですがパッセージの終結は別もの、エンディングの楽譜の部分は同じですが弦のトレモロがあります。これを聴くと、シベリウスは改訂でもっとヒューマンなものを盛り込もうとしたようです。

5番というとフィラデルフィアでオーマンディーが振ることになっていて何より楽しみしていたのですが、当日に病欠になってがっくりした思い出があります。もう最晩年でしたからね、代打でウィリアム・スミスという副指揮者が振ったのですがそれでも意外に良くて、オーケストラが「シベリウス言語」に慣れているなと思いました。

僕がよくきくCDです。

パーヴォ・ベルグルンド / ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団

41CXSTCW9TL僕がききたいものはほぼすべてあるので他の演奏は特にいらないです。第1楽章の弦の強弱の抑揚、無機的な音型の交差での雰囲気の出し方、コーダの立体感のある響きなど文句なし。対旋律の目立たないヴィオラやチェロまで確信をこめたボウイングで弾きこまれ、本物のシベリウスを聴かせるという真打の気迫を感じます。オケの音も有機的でこくがあり、音響としても魅力がありますね。ベルグルンドは3回も全集を作っていてこれは2回目ですが、どうしてこの後にまた録音する気になったのかと考えてしまうほど完成度の高い演奏。1-7番とも全部一度は耳にしたい名演です。

もうひとつ、どうせならウルトラ個性的なのを。

レナード・バーンスタイン/ ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

51kje9CuywL__SX450_この演奏は僕は体でなく頭で聴いてしまいます。スコアの面白い部分にバーンスタインは心おきなく反応していて、とっても作曲家の目線を感じます。ブーレーズがシベリウスを振ることはまずないだろうから、その意味で楽しいですね。第1楽章の再現部の3拍子はワルツみたいになりテンポは極限まで落ち、なんとも「ありえない」表現に終始しますが、俺にはこの楽譜はこう見えるよということ。コーダへの持ち込み方など実にうまい。第2楽章はなんだこりゃマーラーじゃないか。こういう指揮を米国のオケでやるとええ加減にせい、金返せと言いたくなるかもしれないが、ウィーン・フィルですからね。音のまろみとコクで聞かされてしまう。終楽章はいいですね。金管主題の再現がゆっくりと遠くから立ちのぼってくる演出、そこからまたまた「ありえない」遅いテンポで粘りに粘ってコーダへ持ち込んでいく、千両役者だけに許される業でしょう。ねっとり濃厚、リッチなクリームのようなシベリウスですが、名優の名演奏と思います。

これは僕がフィラデルフィア管弦楽団の定期で初めて聴いた5番のライブで、FM放送からのエアチェックです。シベリウス直伝をオーマンディが仕込んだオケの細部がけっこう聞こえます。

シベリウス 交響曲第6番ニ短調作品104

(こちらもどうぞ)

クラシック徒然草-フィラデルフィア管弦楽団の思い出-

 

 

 

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