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カテゴリー: ______ブーレーズ

ベートーベン交響曲第2番の名演

2013 JUL 9 18:18:16 pm by 東 賢太郎

実は9曲のうち今一番聴きたいのはこの2番。特に第2楽章ラルゲット(アンダンテでもアダージョでもなく!)の美しさは第九のアダージョに比べられる完成度で、1番のアンダンテとのあまりの差には驚きます。この間約3年。ベートーベンに何が起きたのでしょう?ピアノソナタは11番から18番まで(葬送、月光、田園、テンペストなど)、バイオリンソナタが4番から8番まで(春など)が書かれていますが、だからといってこの落差を説明するとも思えません。やはりこれが完成した1802年にしたためられた「ハイリゲンシュタットの遺書」があるという事実に何らかのヒントがあるのではないでしょうか。

私見ですがあの遺書を書いたベートーベンには死ぬ気はもはやなく、むしろ作曲家として強く生きるというステートメントをあえて誰にも送らずに残したのではないかと思っています。そのステートメントこそこの2番に込められているエッセンスであり、それがナポレオンの行軍に駆り立てられてさらに高揚、昇華したのがエロイカだと考えています。第1楽章コーダの、当時としては極めてモダンに響いたであろう不協和音がきしむ和声進行や、早や第九を思わせるバスの進行など、2番がエロイカの兄貴分であっていけない理由は毛頭ありません。むしろ第1楽章がアレグロ・コン・ブリオ、第3楽章がスケルツォ、第4楽章がアレグロ・モルトであるのは9曲中、2番と3番だけであるという事実は注目されていいと思います。

したがって、僕の解釈としては、この2番を「偶数番号曲」として温和に優美に演奏するのはまったくの誤りです。モーツァルトの短調曲を珍重して「走る悲しみ」などと称してみるロマン派にかぶれた精神の産物でしかありません。また1番の弟分として古典派交響曲の脈絡に位置付ける試みも、古楽器演奏という博物館から取り出してきた楽器に捉われて作曲家の精神まで埃(ほこり)まみれにしてしまう大きな誤りなのです。まだエロイカを知らなかった聴衆に初めてメヌエットでなくスケルツォを突きつけるという実験、革命の精神を前面に出したアグレッシブな演奏こそベートーベンが意図したものであり、そうでなければこの曲を世に問うてみようという彼の衝動は意味のない物になってしまうでしょう。

 

(補遺、3月6日)

アルトゥーロ・トスカニーニ / NBC交響楽団 (51年10月5日、カーネギーホール)

beeth2ロンドン勤務の87年は僕のベートーベン・イヤーだった。なにせモーツァルト、フランス物、近現代物は聴いておらずロマン派もブラームス以外なし。火をつけたのはトスカニーニの交響曲第1,2番で、3,4,5,9番, PC3番も彼の指揮で熱中した。特に2番の真価を僕に植えつけたのは同年4月ごろvirgin recordで買ったこのCDだ。これを何度聴いたことだろう。トスカニーニの1,2番こそ僕の耳を作り、ベートーベン像の基軸を据えた決定的、衝撃的な演奏だ。第1楽章、ものものしい序奏が終わり、アレグロの疾走がはじまるともう魂が天に昇る。なんというエネルギーに満ちた雄渾な音楽!コーダのバスがdから半音ずつオクターヴ上のeまで14音あがる革命的、驚異的な和声プログレッション!!エロイカに至る衝動がベートーベンの頭脳の中で火山のように炸裂している様を僕は2番の楽譜のそこかしこに見出すが、それを教えてくれたのはこのトスカニーニ盤をおいて他にない。

 

ルネ・レイボヴィッツ /  ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

レイボヴィッツはシェーンベルグに師事した作曲家で、ピエール・ブーレーズの先生でもあります。そういえば74年にそのブーレーズがニューヨークフィルを率いて来日した時にやったのもこの2番でした。意外に普通の演奏で拍子抜けしたのですが、お師匠さんの振ったこの演奏、これが1961年の録音と信じられるでしょうか。プレストに近い第1楽章。小気味良く疾走する弦とインパクトの強いトゥッティを交替させて鮮やかなメリハリをつける様は、これぞ2番とうならされます。ベートーベンは当初ウィーンでJSバッハ演奏の名手として鳴らした人であり、このバロック的な強弱対比の解釈を僕は支持します。前述の第1楽章コーダの和声進行も実はバッハであり、しかしそれが唐突に、しかもトランペットが2度音程を強調して鳴り響くため今でもモダンに聞こえるのです。こういう物凄い高度な仕掛けをレイボヴィッツはすべて見抜いて音にしている。最近の指揮者の快適に速くてスポーティなメリハリなどとは知的次元において月とすっぽんであり、並べて論じるのも馬鹿くさいとしか申し上げようがありません。ホルンは裸の音色のまま咆哮し、ティンパニの強打がアbeethoven 2-5クセントを添え、コーダは少々アンサンブルの乱れも構わずライブのような高揚を見せながら突入。そのトランペットの強奏もバロック的に原色的です。うわべの綺麗さなどどこ吹く風のレイポヴィッツの眼力には敬服するばかりです。第2楽章もロマン的な方向に傾かず古典的、アポロ的均整感が支配しており、作曲当時の演奏もこういう風であったかと納得できるもの。第3楽章はこの演奏の特徴が最も出ており、ここも速いテンポで曲想・強弱の対比を徹底的に描きだし、当時の聴衆を驚かせた音を髣髴とさせます。史上初めてメヌエットでなくスケルツォを聴衆の耳にたたきつけた意図が鮮明にわかる演奏なのです。アン・デア・ウィーン劇場の初演の指揮台でベートーベンが狙った効果はこうでなくては。第4楽章、ちょっと速すぎますが指揮者がやりたいことは明確であり、有無を言わさぬ説得力に圧倒されてしまいます。リズムのメリハリ、ダイナミクスのメリハリ、とにかく鮮明、鮮烈を極め、まだエロイカの洗礼を受けていなかった聴衆の聴いたものがなんだったかを教えてくれるのです。一切の先入観なく、眼光紙背に徹する作曲家の眼力でスコアを読み解いたこの演奏が古くなるということは考えられません。カラヤンやワルターの解釈はいずれ本人たちとともにセピア色の回顧の対象となるでしょうが、このレイボヴィッツ盤は永遠に聴きつがれると確信します。

                                                  

カール・ベーム / バイエルン放送交響楽団(1978年12月7日、ヘルクレス・ザール)

スコアに手垢のついていないレイボヴィッツ盤に対し、19世紀の手垢がついてしまったスタイルを踏襲した20世紀の名演としてご紹介します。録音当時のベームのライブはほとんどが素晴らしく、ここでも第1楽章のテンポ設定とエネルギーの噴出はほぼ満足MI0001159570のいくものです。この主部が3番(エロイカ)、5番(運命)と同じアレグロ・コン・ブリオであることを忘れた演奏がいかに多いことか。腰の重いオケを疾走させて向かうスリリングなコーダが素晴らしく、ずっしりとした満足感をもたらしてくれます。第2楽章は古典的な均斉を保ちつつ弦がじっくりと歌っており、この美しい旋律に、これまたふるいつきたくなるほど典雅な対旋律が寄りそっていく様はベートーベンが書いた最高のページの一つと思わせます。まるで6番(田園)がエコーするような幸福感に満ちた情景、中間部の短調部分で緊張感をはらんで音楽が膨らんでいく呼吸はこの演奏の白眉でしょう。スケルツォはやや平凡で特段の部分はありません。終楽章がアレグロ・モルトなのは2番とエロイカだけです。アレグロ・ヴィヴァ―チェではないのにこれを速く振りすぎる指揮者が多く、ここだけはレイボヴィッツよりベームのテンポに納得感があります。腰をすえた安定感のある理想的な表現なのです。そしてあのコーダ。第1楽章をバッハで締めくくったベートーベンは、終楽章をモーツァルトのジュピター第1楽章と同じドミソミドで締めくくるのです。何という不敵な挑戦!あたかも先人を超えたぞというベートーベンの高らかな宣言のように響くコーダ、よくお聴き下さい。

                                                     

オットー・クレンペラー / フィルハーモニア管弦楽団(1960年、ムジークフェライン) 

富士山の登山口はいくつかある。その例をお示ししましょう。オットー・クレンペラーが手兵フィルハーモニア管弦楽団を率いてウィーンに乗り込んだ1960年5月29日、ムージクフェラインでのライブ録音です。この日は昼間に同じホールでワルターがウィーンフィルを振ってマーラーの4番と未完成を演奏。当時のウィーンはすごかったですね。さて第1楽章は3071番と同様にハイドン、モーツァルトの流れをくむ序奏部がついています。このアダージョがこんなに意味深く演奏された例は知りません。フルトヴェングラーの4番の序奏部と同じで、これからいよいよベートーベンのシンフォニーが始まる、まぎれもないその予感がオーラのように漂っているのです。主部。これがアレグロ・コン・ブリオだろうかという悠然たるテンポで一歩一歩音楽を克明に刻みます。ごつごつした手触り、ごしごし刻む内声部の弦、楔のように撃ち込まれるティンパニ、指揮者の内に秘めたる気迫に圧倒されるのみです。しかし、じっくり聴くとわかるのですがオケは決して力んだり大きく派手な音を出していない。印象はこんなに巨大なのに。指揮芸術の最高峰を極めたクレンペラーの名人芸なのです。第2楽章、すべての伴奏音型まで入念に描ききる情に流れない指揮。綺麗な音を出そうという意識はほとんど感じません。ベーム盤とのあまりの違いを是非ご自分の耳で聴いてみていただきたい。指揮者の哲学で音楽はここまで変わる、しかしどちらも名人芸で深い感動を呼び起こすという一例です。スケルツォは弦が荒削りで揃っていない。それがどうしたという頑固おやじのツッパリで終始。第4楽章、これも遅い。フレージングへの執拗なこだわりと内声部の強調は第1楽章と同じです。パルテノン神殿を仰ぎ見るような偉容であり、クレンペラーが作り上げたかった造形美の全容がここで明らかにされます。最後は少しテンポが速くなってピアニッシモへ向かい、終止の和音は物凄いリタルダンドがかかります。今聴いたのが2番であったことをこんなに忘れさせられてしまう演奏はありません。明らかにベートーベンよりもクレンペラーを聴く演奏なのですが、聴き終わって「これぞベートーベン」と呟いてしまうのは我ながら実に不思議なものです。

 

パウル・クレツキ / チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 

785なんとも昔風のおおらかなタッチで、チェコPOの木質の音色がなつかしい。トスカニーニのようにとんがったところもなく、レイポヴィッツのエネルギーのたぎりもない。しかし2番にはこういう演奏を許容する側面があって、それもクレツキの指揮は音程の良さ、中欧のオルガン的な和声の絶妙のブレンドとふくらみ、楽曲構成のバランスがあり、端倪すべかざる高水準のベートーベンになっています。9曲全部が同レベルであり、CPOによる全集ということもあって僕は大事にしております。

 

クルト・ザンデルリンク/  レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団

1957年7月、ウィーンのコンツェルトハウス大ホールにて録音。トスカニーニ、レイボヴィッツのテンポに比べ別の作品のように遅いが、2番を軽量級の作品と扱わない別のやり方を示す。クルト・ザンデルリンク(1912-2011)は腰の重いオケでひとつひとつのフレーズを意味深く提示し、46才にして大家の音楽をしている。最晩年の彼のシューベルト9番をチューリヒで聴いたが、同じ印象だった。第2楽章の陰影はベートーベン後期からロマン派への脈絡を感じさせるなど、この演奏はもっと注目されてもいいと思料。

 

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ベートーベン交響曲第3番の名演

 

クラシック徒然草-初恋のレコード-

2013 JUN 8 0:00:00 am by 東 賢太郎

高校時代、安物のステレオセットでしたのでFM放送はスピーカーの音をテープレコーダーにひろっていた頃があります。ある日、そうやってN響の春の祭典を録音していると、ある部分で、外で遊んでいる子供の「あっ!」という声が入ってしまいました。それ以来不幸にも、春の祭典を聴くたびにその部分にくるとその「あっ!」が聴こえるようになってしまったのです。もちろんそんな声が本当にするわけではなく、そのテープを繰り返し聞いて焼きついた僕の記憶がフラッシュバックとして再生されてしまうのです。

僕の春の祭典メモリーはブーレーズ盤によって初期化されていますが、実はこうやってどんどん追加情報がインプットされ、蓄積メモリーのすべてが耳で聴いている音楽と同時進行でリプレーされていることがこの経験でわかります。耳で聴いている演奏と記憶リプレーとをリアルタイムで比べて吟味している自分がいるわけで、ずいぶんと複雑な情報処理を脳内でやっているわけです。同曲異演を味わうというのはクラシックにきわだった特徴ですから、「この情報処理回路を持つ=クラシック好きになる」という仮説を立ててもいいと思います。

耳が聴いた音楽>記憶リプレー、という場合にだけ、「今日の演奏会は良かったね」という言葉が初めて出てくるわけで、この「記憶」が膨大で過去の大演奏家の演奏メモリーがぎっしり詰まってくると、少々の演奏で感動することは難しくなってきます。難儀なことです。ちょっとテンポが速かった遅かった、オケがうまかった、迫力があった、舞台が豪華だった、ピアニストが美人だった、要はそんなマージナルなことで評価が揺らぐことはありません。

相撲の世界で、横綱は蹴たぐりや引き技で勝てばいいというものではないといわれます。いわゆる「横綱相撲」が要求されます。うるさいお客さんたちは過去の名横綱の残像と比べて一番一番をじっくり見ているわけです。クラシックの世界も似ているのではないでしょうか。僕と春の祭典の関係でいうと、まずいきなりブーレーズ盤という超弩級の大横綱の相撲が記憶に焼きついたため、あとから聴いた演奏は全部「横綱にあらず」「不合格」という烙印が脳裏で押されてしまうという悲しい歴史をたどっています。

41SPKGNK6SL__SL500_AA300_ブーレーズ盤は10秒単位ごとに「すごい部分」を書き出せるほどすごい演奏で、一方でそのぐらい微細で正確なメモリー(残像)が自分の頭に入っています。だからもう新しい演奏は意味ないのです。100年たってもこれに勝つ人が出るとは思えないし、ブーレーズ本人のライブでさえ完敗だったので、いまさら誰かの春の祭典を聴きに行きたいなどという自分はどこにもいません。聴きたくなったらもちろんこれを取り出すだけですし、何度聴いても鳥肌が立つほど感動させてくれるのです。

こう思うと、最初に「惚れた(ほれた)」演奏というのはけっこう影響が大きいと実感します。初恋の人ですね。これからクラシックを聴くぞという方に申しあげたいのは、その曲を誰の演奏でまず聴くかをこだわった方がいいということです。前述のようにメモリーは日々更新されるからそんなことはないという意見もあるかもしれませんが、僕が今でも親しめていない音楽は出会いが良くなかったかなというケースが多々あります。そういうことを踏まえながら、ブログを書いていこうと思っています。

バルトーク好き

2013 JAN 29 20:20:03 pm by 東 賢太郎

小泉元首相のオペラ好きは有名ですが、福田元首相はバルトーク好き、志位共産党委員長はショスタコーヴィチ好きだそうです。「バルトーク・フリーク」を自称される作曲家の吉松隆氏によるとバルトーク好きの特徴は、

①地味
②理知的
③生真面目で笑わない
④オカルト趣味
⑤愛国主義
⑥皮肉屋⇒知的であるがゆえに本性を隠したがり、それでいて感性豊かなためについ本音が皮肉となる

だそうです。なかなかいい線ですね。一方で「人はバルトーク派とストラヴィンスキー派に別れる」という説もあるそうです。ずいぶんとすごい人類の分類法があったものですが、両方好きな僕はどうなるんでしょうか。

初めてバルトークを聞いた印象はたいがい「なにこれ?」「調子はずれ」「不気味」「ぶっ飛んでいる」「お化け屋敷のBGM」という感じでしょう。僕もそうでした。スリラー映画シャイニングに使われたぐらいです。家で聴いていると誰も寄ってきませんし、きっと猫も逃げていたのかな?

僕がバルトークに憑りつかれたのは高校のころ「弦チェレ」とあだ名される「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」に衝撃を受けたのがきっかけです。第2楽章のピアノと木琴の入る所のカッコよさに電気が走り、もうイチコロでした。これはジャズ、ロック系の人向きですね。僕が覚えたライナー / シカゴSOで。

これは心酔したブーレーズのニューヨークフィル盤による全曲です。素晴らしい。

「管弦楽のための協奏曲」の最後。僕はこれこそ人類が作った最高にカッコいいエンディング(曲の終わり方)だと思っていて、そこを自分でやりたいだけのためにシンセで数か月かけて複雑怪奇なスコアと格闘し第5楽章をぜんぶ作りました。僕が覚えたオーマンディー/フィラデルフィアO、これがアブソルート・ベストだ。

「弦楽四重奏曲第5番」。この第5楽章、調性があるようでないような。時空を流れる音の帯が半音ずつ幅を広げていく様は100億光年かなたのクエーサーでも目の当たりにしている錯覚を覚え、脳内に電極が入っていてそこから電気が流れこむ感じに酔ってしまいました。鄙びた味のあるタカーチ四重奏団(1分23秒から)。

「ピアノ協奏曲第2番 」。この第2楽章開始部の弱音器つき弦楽器の奏でるこの世の物とも思われぬ摩訶不思議で神秘的な和音はいったい何なのでしょう?のちに映画「コンタクト」を見て、別にこれが流れていたわけではないのですが、主人公が未知の青い太陽がある惑星で死んだお父さんに出会うシーンがなぜか浮かんでしまいます。

こちらが全曲です。ハンガリー人ピア二ストのコティッシュは鋭敏な感性の持ち主で、ドビッシーからラフマニノフまで個性的な演奏をきかせました。これも新鮮なアプローチでいいですね。

 

僕のバルトーク体験はこんな感じの、マンガ的、原始的、本能的なところから始まりました。やれ弦チェレはフィボナッチ数列と黄金分割でできていてなどと高尚な解説をしてくれる友人もいたのですが、そういうことはどこ吹く風で下世話にシビれていたのです。弦チェレで本当にすごいのは第3楽章と気づくにはもう少しオトナになる必要がありました。ドイツで小学校にあがったばかりの娘がピアノの発表会で弾いた「子供のために」、こんなやさしい曲についている何ともいえず土臭くて懐かしくて日本人にグッとくる、それなのにものすごく理知的な和音の見事さ。バルトークは深いです。

(こちらもどうぞ)

コダーイ 組曲「ハーリ・ヤーノシュ」作品15

 

 

 

 

ドビッシー 交響詩 「海」

2012 NOV 1 15:15:07 pm by 東 賢太郎

 

1905年にドビッシーが作曲した交響詩「海」(La Mer)は20世紀音楽史上、最高峰のひとつとなる名品である。そしてこのピエール・ブーレーズ指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団の演奏は、同曲の演奏史に燦然と輝く不滅の金字塔である。

 

 

ドビッシーが葛飾北斎の冨嶽三十六景より「神奈川沖浪裏」(右)にインスピレーションを得てこの曲を作曲したことは有名である。

 

 

 

 

これが初版スコアの表紙である。そのエピソードが真実であることを証明している。よく見ると富士山と小舟が省かれており、ドビッシーがこの音楽で描きたかったものがこの「波」であったことが推察できる。

 

 

 

この曲は、「海の夜明けから真昼まで」「波の戯れ」「風と海との対話」というタイトルの付いた3つの楽章からなる。この音楽は一般に印象派の代表作とされ、第2楽章がこの「波」を髣髴とさせるとよく言われるが、事はそう単純ではない。版画から得た印象をベタに絵画的、アニメ的に音楽化したという意味なら全く稚拙な誤解である。

ドビッシーは版画から複数の短いフレーズ(ほぼ1-3小節の)を着想している。それを要素として、いわば物質の構成要素である分子として全曲が有機的に緻密に組み立てられている点は、印象派よりもベートーベンの交響曲にずっと近い(拙稿「ベートーベン交響曲第5番ハ短調」参照)。さらに、この曲の特筆すべき点は、「各要素そのもの」が「あたかも時計が進むように」楽章を追って微細に変化、変形されていくことにある。そんな音楽を書いた人は、彼以前に一人も存在しない。

つまりこれはオーケストラの中に「生々流転」する「4次元空間」が展開するという驚くべき試みであり、ブーレーズの作曲の先生であるメシアンなど後世に大きな影響を与えた。その「空間」を時間という変数で微分したのが北斎の版画だという着想こそ、僕はドビッシーが得たインスピレーションに違いないと思う。初演を聴いたエリック・サティは「11時45分ごろが一番良かった」と揶揄している。描写的側面を皮肉ったものと思われるが、時間という要素を指摘した点においては、逆に彼にとって皮肉なことに、正しい。

ロンドンのロイヤル・フェスティバルホールという決して上等ではない音響の演奏会場でパーヴォ・イエルビがロンドン交響楽団を振った「牧神の午後への前奏曲」を聴いたとき、音響が点描のようにオケの中を移動する不思議な様を体験した。オケが3次元空間になっていた。それに「ニンフを眺めて欲情する牧神」という時間軸が加って「4次元空間」とする実験がすでになされている。ここからバレエと言うストーリー性を除却して、純音楽的に構造的にそれを達成させた、宝石のような結晶が「海」である。

僕はこの音楽が3度の飯より好きである。上記のタイトルのような詩的なものにはぜんぜん関心はなく(ドビッシーさんすみません)、物理的な音響をシンフォニーとして愛好している。好きが昂じて第1楽章をシンセでMIDI録音した「アズケン指揮」盤が存在し、自分ではカラヤン盤よりいい演奏だと思っている。演奏はキーボード(ヤマハのクラビノーバ、写真)で全楽器の全パートを弾く。減速してゆっくりのテンポで録音できるが、それでもこの曲は非常に難しく、第2,3楽章にチャレンジする勇気と時間は、まだない。余生の楽しみとしたい。

さて、冒頭のレコードに戻る。これを買ったのは、かたや朝・昼・晩と野球に明け暮れていた高校2年の時。野球とクラシック音楽にここまで没入していたので、勉強などもちろん2の次、3の次。3年生になってもサイン、コサインが良くわかっていない冷や汗もの状態だったのを思い出す。

この演奏、「春の祭典」の稿に書いたブーレーズさんのレントゲン写真的、高精度解析的アプローチ全開で、ロマン主義的、詩的な方向性への志向はかけらもない。「春の祭典」より「海」のほうがそういうアプローチを許容するので、それをやらない指揮者の冷徹さがさらに際立つ結果となっている。両曲においてそれがピタリとはまっていることから、ストラビンスキーの初期の曲に「海」の投影があることが炙り出されるという発見すらある(併録の「牧神の午後への前奏曲」ではピタリ感が今一つである)。

何十回この演奏を聴いたかわからないが、「海」という音楽にとどまらず僕の根本的な音楽嗜好を決定的にした、つまり「耳を作った」のはまさにこのレコードである。まず楽器のピッチは完璧に合っていないといけない。リズムもフレージングも、楽器の遠近感や倍音ブレンドが最適解に至るまで磨き上げなければいけない。フランス語のClarté(クラルテ、明晰さ)こそ、この種の曲においてはもっとも美しい音楽を作るという哲学である。

写真が僕にとって神に等しいピエール・ブーレーズさん。指揮者というより作曲家がご本業である。現代における世界最高の知性。ドビッシーの「海」は38種類の音源を所有しているが、もはや彼以外のものは聴く気にもならないし、聴いても漫画か銭湯にある富士山のペンキ絵みたいにしか聴こえない。

ちなみに何か難しい問題を考えるときに僕はこのブーレーズの「海」を必ず聴きたくなる。ながら聴きなど許さないこれに耳を澄ますと、バラバラだった脳ミソの細胞が整然と直列に並ぶ気がする。のちに受験勉強で数学が強くなったのはこれとバルトークのおかげと固く信じている。

 

(補遺・2月16日)

永井幸枝 / ダグ・アシャツ(pf)

dagこの曲をよく知りたい方は2台ピアノ版をお薦めする。第1楽章のポリリズムに近いリズムの複合はシンセ録音で弾くときに細心の注意を強いられたし、驚嘆するしかない独創的な和声のケミストリーや第2楽章のミニマル的エレメントは管弦楽の色彩を除去してピュアなピアノの音響で確認した方がよくわかる。このCDは録音も良く、スコアにあるすべての要素、特にオケだと聴こえない伴奏音型の形まで見事なテクニックで再現されている。ぜひ一度、科学的な眼と耳で解析してみていただきたい。

 

ポール・パレー /  デトロイト交響楽団

61xdmnGKa0L__SS280第1楽章はやけに暗い。いや、出だしはどれも暗いが暗いままだ。しかし考えれば陽光が煌めくのはコーダに至ってからだ。音楽に光がさすのはチェロの分奏の部分から。時間で微分された光の増量。なるほどそういう解釈があるのか。第2楽章の精密なリズムの縁取り!波と風の乾いた肌ざわりだ。終楽章、風雨ではなく見通しが良い。管弦楽は野放図に鳴る音は皆無でコントロールされるが自発性は尊重されている。知的だが香りがある。米国の当時メジャーでもないオケからこれだけのアンサンブルを引出し、ラテン的な感性で描ききった演奏のレベルの高さは並みではない。こういう芸の重みというのは僕がブーレーズに見出す価値観とは違う、いってみれば、玉三郎の演じた阿古屋に近い。

 

フリッツ・ライナー /  シカゴ交響楽団

BVCC-37463このスコアが描いたのがそれかどうかはわからない。しかし僕が時折ここから欲しくなるのは、数千年の神話時代まで見通すようなぱりっと乾いた空気、そして水色の淡い光が透過する澄んだ海だ。PM2.5が舞う世界なんてまっぴら御免。エーゲ海クルーズで出会った真昼のクレタ島やミコノス島の世界だ。SACDで買い直したライナー盤。そんなものだ。一皮むけた音がなんとも、いい。素晴らしいピッチ!完璧なフレージング!濁りのないピュアな音響は奇跡的な均衡でスコアに秘められた音楽を純化し聴き手を陶酔させる。

 

ロジェ・デゾルミエール /  チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

cover170x170音楽にはなんと多様な作用があるんだろう。ライナーの明晰、そしてデゾルミエールのアトモスフィア!これは音のケミストリーが生む奇跡のような演奏だ。ブーレーズやライナーにはない香りがここにある。音が我々の目に映るなにかのものでなく、エーテルのように漂って、すこし灰色がかった青の地中海の雰囲気を伝えてくる。これを聴くのはブーレーズとは別の海を眺めるということだ。第2楽章の後半には参る。こういう霊感をオーケストラにどうやって伝えたんだろう?

この曲のライブというと目がありません。誰のであれそそられるものがあります。これは珍しいオーマンディーが最晩年にとサンフランシスコ響を振ったもので希少品です。

 

ストラヴィンスキー バレエ音楽 「春の祭典」

2012 SEP 29 23:23:53 pm by 東 賢太郎

高1のとき、これに出会った。

ピエール・ブーレーズ指揮クリーブランド管弦楽団のLPレコードである。1969年録音。この曲だけにかかわらず、クラシック音楽の演奏史に永遠に名を刻まれる名盤中の名盤である。

この曲は1913年パリのシャンゼリゼ劇場で初演のおり、その前衛性に反対派などから怒号や口笛が飛びかって会場が大騒ぎとなり、20世紀音楽史上のスキャンダルとして記録されている。

この演奏はそういう人間界の俗臭さとは完璧に無縁である。不細工かつ膨大な計算量を伴う解き方しかなかった数学の難問を、わずか数行で美しく解いてしまった答案用紙を見る気分だ。E=mc²のように。ブーレーズ自身、本当に数学を学んでいたが。この美しいジャケットも見事に曲の雰囲気を描写している。

ブージー・アンド・ホークスのスコア(右)は表紙がボロボロになってしまった。 アルトフルート、ピッコロクラリネット、ピッコロトランペット、バストランペット、ピッコロティンパ二など耳慣れない楽器が出てくる。僕はそれらを耳を凝らしてマニアックに聴いていたが、この演奏はそれがちゃんと聴こえる。聴こえるように演奏され、録音されている感じだ。そんなニッチな所に焦点を当てて商売になるだろうかなどという下世話な頭は微塵もない指揮者にオケも録音技師も全身全霊で奉仕している奇跡的な録音なのである。

「いけにえの踊り」のティンパニでこんなに短3度音程が明確にわかる演奏はない。ティンパニと大太鼓の音色をこれほど差別化した例もない。第1部冒頭部分での木管楽器の倍音までとらえた録音センスの良さは本当に本当にすごい。第2部冒頭(序奏)練習番号80でp(ピアノ)で入る大太鼓(皮はゆるめに張られている感じ)の意味深さは筆舌に尽くしがたい。音楽的にどうでもいいと言われそうだが、このスコアにストラヴィンスキーが封じ込めた信じがたい美の一部であることは誰も否定できまい。

テンポはやや遅めであり、すべての音は完璧に磨かれた、正確極まりないピッチの楽器音でじっくりと丹念に刻み込まれていく。スコアが30段ある室内楽と言って過言ではない(1か所だけトランペットがミスしているが)。では生気に欠けるかというとそうではない。第2部の最後に向けて鉄の塊が徐々に熱していくようにじわじわと過熱してくる。そう演奏しているのではなく、スコアがそう書かれており、それを忠実に抉り出してそうなっているという絶対の説得力を感じる唯一の演奏である。

リズムに関しては鉄槌を打ち込むかのような強靭な理性によるコントロールを知覚する。音や和音の鳴り始めと終結(つまり音価)が厳格な意志で統率され、いい加減に放置された音は最初から最後まで皆無といっていい。練習番号139、pで22発打ち鳴らされるシンバルの最後から4発目がやや野放図に鳴りすぎたのが玉に傷で耳に残ってしまうほど全曲にわたって精密なのであって驚くばかりだ。だからこそ「生贄の踊り」同144の直前の16分の3拍子が16分の2に近いのが昔から気になっていて、生前にお尋ねしたかったことの一つだった。

録音は楽器に近接したマイクの多重録音と思われ練習番号38のドとシのティンパニは位置が左と中央に離れて聞こえる。同22-23ではイングリッシュホルンの裏でティンパニストがシ♭の音合わせをしているのが聞こえる。それをマイクが拾っているのを放置しておりミキシングが徹底した精度であるとはいえない。ティンパニの音程と皮の質感をここまで拾う録音が木管の倍音までも拾うのは納得であり、こういうことは指揮者と録音技師のセンスが合致した幸福な結果だろう。最後の方でブーレーズのオケを追い込むような声が聞こえる部分がありびっくりするが、そこはリハーサルの方を採用したかもしれない。

発売当時「スコアにレントゲンをかけたような」という形容があった。実演では聴こえない音まで聴こえることの比喩だ。そう、これはレコード芸術そのものだ。全音符をこれで刷り込まれた僕には、実演はすべて「いい加減」な演奏に聴こえるので困る。必ず欲求不満になる。だからなるべく聴かない。聴くならティンパニの後ろの席で「ピッコロTim」の高いB(シ)が聴き分けられるかどうか実験の目的だ。何故かこれだけはブーレーズ盤でもわからない。他盤もだめだ。入りにくいのか僕の耳の問題なのか。だから近くで実物を聴きたいのだ。

これは1970年に買った、まさに僕にとって神であるLPから録音したもの。そのあとに出たフォーマットもすべて聴いてみたが、この初出のヴィニールレコードが最も倍音が豊富でありベストで、再発を重ねるほどそれが消えて行っている。SACDになれば音がいいという単純なものでは全くない。第1部の春のロンドまでの木管合奏など、この倍音が演奏の特性を決しているのである。

(レファレンス )

クラシック徒然草―レイボヴィッツの春の祭典―

ブーレーズの春の祭典は実演を2度聴いた。最初は1974年9月5日にNHKホールでニューヨーク・フィルハーモニーと。次は1993年にフランクフルトのアルテ・オーパーでロンドン交響楽団と。当たり前だがレコードと同じ音楽、同じフレージングだったが情報量はプア。前者はベートーベンの2番が前半プロだったが意外に普通だった。面白かったのはむしろエーリヒ・ラインスドルフが1984年にファイラデルフィア管弦楽団を振ったもの。ぎくしゃくした棒でいがらっぽかったが、骨太の演奏で説得力があった。香港で聴いたフェドセーエフ/モスクワ放送交響楽団はティンパニが間違えて一瞬オケがバラバラになりこっちも心臓に悪かったが香港の聴衆は気がついてない感じだった。

この曲は一般にハルサイと呼ばれる。春祭だ。夏祭りみたいなので僕は絶対に使わない。ブーレーズの前衛性などどこ吹く風で、最近は若手指揮者が暗譜で振るとカッコいい「のだめ」流ミーハー曲に堕落してしまった観がある。若い子はラプソディ・イン・ブルーの姉妹曲ぐらいに思っているのだろうか。オジサンたちは若い頃こういうのを大真面目にピリピリ緊張してやっていたんだ。

当時クラスメートと「ブーレーズがブルックナーなんかやったら世も末だね」とジョークを言っていた。そしたら10年ぐらい前に本当にやられてしまった。DGの商売にのせられたのか。ともあれ、これはカラヤンが越後獅子を振ったのと同じぐらいのマグニチュードがある事件だ。センセイどうしちゃったんですか?いや、これも堕落と言ったら失礼だ。世も末ということにしておこう。

最後に、僕の69種類ある春の祭典音源集から:

マイケル・ティルソン・トーマス/ボストン交響楽団

とにかく音がいい。僕はオーディオチェックに使っている。ボストン・シンフォニーホールのいい席はまさにこの音と残響のブレンドである。演奏も凛々しい。若々しい。管楽器がうまい。ティンパニも健闘している。MTトーマスはピアノ連弾でも録音している(これも悪くない)。好きなんだろう。新録音もあるが断然これ。見つけたら即買いです。

小沢征爾/シカゴ交響楽団

リズム感の良さとオケのやる気満々なノリが素晴らしい。ロック、ジャズの感覚。若造の分際で大シカゴSOをここまでドライブしたオザワの青春譜。やっぱり只者じゃなかったんだ。ただし第2部は定番のブージー67年版ではなくアンセルメ盤と同じ部分があり、初めてこれを覚える人には薦められない。通におススメ。

アンタール・ドラティ/ミネアポリス交響楽団

速い。とにかく速い。疾風のごとし。軽い。とにかく軽い。このお茶漬け風味は捨て難い。ハイドン風ストラヴィンスキーの逸品である。買い。デトロイト交響楽団との新盤はフツーのテンポになっている。初めての人はこっちのほうがいい。

イーゴル・マルケヴィッチ/フィルハーモニア管弦楽団

セラフィム盤。一つのスタンダードを作った演奏。もしブーレーズ盤がなければ似たような位置づけに鎮座しただろう。おっかない切れ者指揮者のドライブ力は圧倒的。聴くと疲れるが曲の本質をワシづかみにしている。音もまあまあ。おススメできる。

コリン・デービス/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

コンセルトヘボウの正面特等席の音響がする。うれしい。そのまま理想的なベートーベンができる音による春の祭典というバリューは絶大。オケは非常にうまい。デービスにしては意外なほど燃えてもいる。出た時に「いけにえの踊りで」妙な繰り返しがありのけぞったが修正された。誰でも安心して聴ける。

クラウディオ・アバド/ロンドン交響楽団

76年大学時代にLP新譜発表プロモーション会場で抽選に当たりもらった。懐かしい。しかし演奏も録音も平板で実につまらない。アバドの名前にだまされて買わないこと。

ゲオルグ・ショルティ/シカゴ交響楽団

ウサイン・ボルトが予選でテキトーに流して10秒09という感じのお仕事。大味で細部はええ加減である。ショルティの名前にだまされて買わないこと。

ズビン・メータ/ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団

インドの星だった若きメータ。春の兆しのスピード感に「ほほう、これは速い」と柴田南雄さんがラジオでつぶやいたのを覚えている。最期まで勢いがありオケがのっている。打楽器のリズム感、とてもいい。おじさんも若返る快感あり。おススメ。

ピエール・ブーレーズ/フランス国立放送管弦楽団

63年録音。音が古い。 オケの精度は高くない。勢いで押す部分があり熱さもあるのはまだ若い感じ。69年盤があれば不要。

ピエール・ブーレーズ/クリーブランド管弦楽団

DGの91年録音盤。これだけ聴けば名演。音は69年盤よりまったりして角が取れている。しかしあれを知ってしまうと指揮は好々爺にしか聞こえない。ブルックナー路線はこの辺から引かれていたかもしれない。69年盤があれば不要。

エルネスト・アンセルメ / スイス・ロマンド管弦楽団

ストラビンスキーの1歳下だったアンセルメは1883年生まれ。ローザンヌ大学数学科の教授から転身した。彼らが生まれた頃に亡くなったボロディンは有機窒素の定量法を発見した化学者で、作曲は余技だった。この時代の音楽家は音大卒の専門家ではない。そういう時代の息吹を感じるオケ。とても下手である。アンセルメの録音は2種類あるが、どちらもトモダチだった作曲家に意見してスコアを直させたものが聴ける。作曲家はそれをまた直して現行版になった。火の鳥組曲1919年版のように著作権料狙いだったかどうかは知らない。これはフォロ・ロマーノだ。遺跡として訪問価値がある。

ストラヴィンスキー / コロンビア交響楽団

60年録音。先ほどじっくり聴いて、ブーレーズ69年盤はこれを下敷きにしたと聴こえた。ほぼ間違いないと思う。当たり前だが秀でたスコアリーディングであり、このスコアを音にすればこうなり、ブーレーズのようになるのだ(練習番号144の直前の16分の3拍子が16分の2に近い!)。違いはオケの運動神経ということになるが、アマチュアの指揮なのだから仕方ない。大変耳をそばだてるものを含む演奏であり、なるほどそうなのかと目から鱗の部分が続出するが、それらを圧倒的高みで洗練させ厚みを増しストリームラインしたのがブーレーズ/ クリーブランド盤の実体であるといっていい。これをつまらないと思う人は要するにこの曲がよくわかっていないのであり、よりわかりやすいブーレーズ盤をじっくり聴くことをお薦めする。

ヴァレリー・ゲルギエフ / ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団

96年録音。この曲がポップ化し始めた頃を象徴する演奏で、指揮者は人口に膾炙する部分の誇張、拡大解釈につとめ、それがあたかも何か新時代の息吹を革新的な感性で表現したかのようにふるまう。その感性がじっとりとロマン的なものだから曲の神秘的な本質を逸脱していくばかりなのは悲劇的ですらある。聴きとおすのに苦労した。

エヴゲニ・スヴェトラーノフ/ ソビエト国立交響楽団

66年録音。録音はクラリティが高く木管の色気は好感が持てる。「ブーレーズ以前」にしてこのスコアリーディングはレベルが高く、オケの運動能力もすぐれている。ただ金管の咆哮があまりにうるさい。ロシアを去りパリで初演を目論んだ時点で作曲家の頭にこのロシアの下品極まる金管があったとは思わない。練習番号84のミュート・トランペットはまるでジャズの音色で笑ってしまう。第2部前半の神秘感はまるでないが生贄の踊りのリズムは録音当時としては見事である。

ユージン・オーマンディ / フィラデルフィア管弦楽団

55年モノラル録音。最も早い時期であり、オーマンディーの読譜力の凄さを見る。作曲家は貶したらしいがディズニーが使ったストコフスキー盤の印税はどうだったのだろう。彼は火の鳥1919年盤をそれで作ったくらいカネにうるさかった。まあ「春のロンド」はなんぼなんでも速すぎるし純粋に解釈が気に食わなかった可能性もある。味もそっけもないがこの演奏能力は文句なし。こんな国と戦争してはいけない。

ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

77年録音(2回目)。冒頭のファゴットとホルンのリズムからいい加減。バスが効き木管は歌いまくり、総じて和声的、歌謡的要素に感応度が高い。速い部分のメカニックは高度ながらBPOのホルンが音を外す珍しい場面も。第2部序奏は異様にロマン的だ。87-88は和音が異質に聞こえ気持ちが悪く、11連打の減速はマゼールに近い。生贄の踊りの固めのティンパニはなかなか良い。174以降でピッコロ・ティンパニのパートをこれほど強く叩くのも珍しい。僕の耳にはレア物として面白いが一般には色モノの部類だろう。

(補遺)

この音楽は1909年に作曲され1912年9月3日(春の祭典の初演前年)にロンドンで初演された。アーノルド・シェーンベルクの「管弦楽のための5つの小品」(作品16)である。ストラヴィンスキーがこれを聴いていた可能性はないだろうか。

第3曲「色彩」を特徴づける要素を祭典のスコアから引き出したのがブーレーズだ。

 

(演奏・補遺 2月15日~)

ウィリアム・ファン・オッテルロー /  シドニー交響楽団

R-5148349-1385867416-2766_jpegyoutubeで一聴して惹きつけられた。オケの性能はA+クラスだが何よりオッテルローのスコアリーディングが深い。指揮者の耳の良さは音楽に聴き捨てならぬオーラを与えるのである。この曲の野性的側面を充足する運動神経の良さと多彩な楽器の倍音を含むカラリングがうまく調合された魅力的な演奏だ。ティンパニひとつとってもそれが明確。78年録音。彼は同年にメルボルンで事故死したが、シドニーオペラで振った最後の作品が春の祭典だった。

 

ハンス・シュミット・イッセルシュテット / 北ドイツ放送交響楽団

02469年ハンブルグでのライブ(ステレオ)。ブーレーズ前の演奏だが、ティンパニ11連打が遅いぐらいでほとんど全曲違和感がない。ドイツもののイメージのイッセルシュテットだがストラヴィンスキーとは友人で得意としていたらしい。生贄の踊りで一ヵ所バスドラにミスか覚え違いがあるが、これだけできれば当時としては立派としかいえない。彼の手によると三楽章の交響曲(名演だ)が春の祭典と同質の音楽に聞こえるのが面白い。

 

ネーメ・ヤルヴィ / スイス・ロマンド管弦楽団

MI0000968548SROの管による第1部序奏の木管の協奏は良し。春の兆し、なんぼなんでも遅すぎ減点。ロンドのクラの装飾音符が全音低い。バスドラは全然聞こえず減点。第2部の序奏は速めであっさり進行、クラリネットの上昇アルペジオにフルート和音が乗る部分は印象派風で美しい。11連打になんとアッチェレランドがかかり唖然とすると選ばれた乙女は快速でぶっ飛ばす。いけにえはティンパニがいきなり妙な所に鳴り驚くが、大いに暴れまくり大迫力だ。バスドラが欠落したりするが追い込みは盛り上がる。このCDはこれより次のカンティクム・サクルムがききものだ。第2曲はストラヴィンスキーが初めて音列作法で作った楽章で抜群に面白い。ヤルヴィの強烈なオケの統率力がわかる。

 

ズデニェック・コシュラー / チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

a0dd73b9-9802-48ae-b23b-fdd4ac9793b1これは僕の知る音源でトップ5入に入る名演である。まずCPOがCPOの音で鳴っている。冒頭のファゴットをはじめ歌う木管、金管は強力だがブラッシーにすぎず節度があり弦はくすんで木質であり、プラハの芸術家の家であたかもベートーベンをやるかのような美しいマストーンと残響で録音されている。そうかと思えば、細部に耳を凝らすとティンパニの音程にこんなに神経を使ったのはブーレーズCBSと双璧であり、春のロンドと第2部序奏のグランカッサの扱いもブーレーズCBSのコンセプトに似る。演奏は概して速めでドラティ旧盤に近く、慣れてない金管がやや危ない(第1部終結)が、この胃にもたれないアレグロの軽さは好ましい。練習番号114のティンパニがこんなに聞こえるのはなく、生贄の踊りの明瞭な短3度などもはや感涙ものだ。繰り返しで半音下がるが、明らかに違う太鼓を叩いておりもちろん音質も違うわけで、eの太鼓の皮の質感が微妙にやわらかいところなどマニア垂涎のご馳走である。この演奏の唯一のリザベーションは練習番号121が遅いことだが良しとしたい。生贄の踊りのリズムが最近の物に比べると弦楽器奏者一人ひとりレベルでまだぎこちないが、1979年時点のチェコ・フィルでここまでの整然としたアンサンブルを構築したコシュラーの指揮技術は高い。これをヘッドホンでじっと聴くのは最高の楽しみだ。

(補遺、10 June17)

エーリヒ・ラインスドルフ / ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

ラインスドルフがフィラデルフィア管弦楽団を振ったのは1983年だった。音楽よりも彼の両肘を張ったぎくしゃくしたロボットのような指揮姿の方が印象に残っている。LPOとのレコードは「20chマルチ録音を4トラックに収録するフェイズ4ステレオ録音」というふれこみであり、期待して買ったが音としては別に大したことはなかった。それがこれだ。

 

ルドルフ・アルベルト / チェント・ソリ管弦楽団780

この1956年、パリのサレ・ワグラムで行われた録音を聴きなおして、やはりブーレーズCBS盤のコンセプトに非常に近似していることに気づいた。全曲の演奏時間は50秒しか違わない。アルベルトはフランクフルト生まれのドイツ人だがイヴォンヌ・ロリオ、ドメーヌ・ムジークと録音を多くしておりメシアン、ブーレーズのフレンチ・スクールと近かった。チェント・ソリ管はパリ音楽院管あるいはラムルー管のメンバーが主となりパリ・オペラ座等、他の楽団員が加わった臨時編成のオーケストラであり、バレエ・ルッスの本拠地でストラヴィンスキーも交えて直伝の解釈をベースに共有された当曲の楽曲解釈が1956年には既に整えられており、そこから現れたのが上掲のレイボヴィッツ盤であり、集大成としてのブーレーズCBS盤であったと推測する。当曲のフランスの管による色彩は異色で興味深く、演奏のインパクトも強烈だ。アルベルトは古典派、ロマン派と録音を残したがどれも一聴に値する解釈であり、当盤も春の祭典マニアたる者必携であろう。

 

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僕が聴いた名演奏家たち(ピエール・ブーレーズ追悼)

ストラヴィンスキー バレエ・カンタータ 「結婚」

「都をどり」とストラヴィンスキー(Kyoto-Sado-Russia)

シェーンベルク 「月に憑かれたピエロ」

クラシック徒然草-舞台のヤバい!は面白い?-(追記あり)

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

クラシック徒然草-僕の音楽史-

2012 SEP 14 14:14:33 pm by 東 賢太郎

僕の一番古い記憶は、親父のSPレコードを庭石に落として割ってしまったことです。2歳だったようです。中から新聞紙 ? が出てきたのを覚えています。ぐるぐる回るレコードが大好きでした。溝の中に小さな人がはいっていて音を出していると思っていました。

これが昂じたのか、僕はクラシック音楽にハマった人生を歩むこととなりました。作曲や演奏の才がないことは後で悟りましたから聴くだけです。就職した証券会社では、大阪の社員寮に送ったはずの1000枚以上のLPレコードが誤って支店に配送されてしまい、入社早々大騒ぎになったこともありました。

転勤族だったので国内外で24回も引っ越しをしました。そのたびにLP、テープと5000枚以上あるCD、オーディオ、ピアノ、チェロ、楽譜がいつも我が家の荷物の半分以上でした。この分量はクラシックが僕の57年の人生に占めてきた重みの分量も示しているようです。

僕がお世話になった証券業界では僕は変り種でしょう。この業界は オペラのスポンサーはしても社員オーケストラをもつような風土とはもっとも遠い世界の一つです。それでも僕が楽しくやってこれたのはひとえに海外族だったからです。アメリカ、イギリス、ドイツ、スイスに駐在した13年半に、僕はもう2度と考えられないほどの濃くて深い音楽体験をさせてもらいました。

そういうとやれ「カラヤンを聴いた」「バイロイトへ行った」という手の話に思われそうですが、そうではありません。僕はそういうことにあまり関心がなく、書かれた音符のほうに関心がある人間です。たとえば、同じ夜空の月を見て「美しい」とめでるタイプの人と「あれは物体だ」と見るタイプの人がいます。僕は完全に後者のほうです。文学でなく数学のほうが好き。文系なのに古文漢文チンプンカンプンというタイプでした。

高校時代はストラビンスキーの春の祭典、バルトークの弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽(通称、弦チェレ)みたいなものにはまっていました。特に春の祭典は高2のころ1万円の大枚をはたいてスコア(オーケストラ総譜)を買い、穴のあくほど眺めました。この曲は実に不思議な呪術的な音響に満ちていて、それがどういう和音なのか楽器の重ね方なのかリズムなのか、全部を自分で解析しないと気がすまなかったのです。

弦チェレの方は、第3楽章です。ちょっとお化けでも出そうなムードですね。フリッツ・ライナーの指揮するレコードで、チェレスタが入ってくる部分。この世のものとは思えない玄妙かつ宇宙的な音響。なぜかこの演奏だけなんですが。敬愛するピエール・ブーレーズも含めてほかのは全部だめです。これもスコアの解析対象となります。

時が流れて、僕はフランクフルトに住みました。その家はメンデルスゾーンのお姉さん(ファニー)の家の隣り村にありました。そう知っていたわけではなく、たまたま住んだらそうだったのですが。彼はそこでホ短調のバイオリン協奏曲を書きました。あの丘陵地の空気、特に彼がそれを書いた夏の空気をすって生きていると、どうしてああいう第2楽章ができたのかわかる感じがします。あそこを避暑地に選んだ彼と、その場所が何となく気に入った僕の魂が深いところで交感して体にジーンと沁みてくるような感覚。うまく言えませんが、かつてそんなことを味わったことはなかったのです。

こういう感覚は、大好きで毎週末行っていたヴイ―スバーデンという町でもありました。ブラームスの交響曲第3番です。もういいおっさんだった彼はここに住んでいた若い女性歌手に恋してしまい、ここでこの曲を書きました。彼としては異例に甘めの第3楽章はその賜物でしょうが、むしろそれ以外の部分でもこの町の雰囲気と曲調が不思議と同じ霊感を感じさせるのです。この交響曲はこのヴイ―スバーデンとマインツの間を流れるライン川にも深く関係しています。

シューマンの交響曲第3番とワーグナーのニュルンベルグの名歌手第1幕への前奏曲。この2曲はそのライン川そのものです。すみません。どういう意味かというのは行って見て感じてもらうしかありません。このシューマンの名作は後世にライン交響曲と呼ばれるようになりました。シンフォニーのあだ名ピッタリ賞コンテストがあったらダントツ1位がこれです。

名歌手は全部ライン川で書かれたわけではありません。でもあのハ長調の輝かしい前奏曲はヴイ―スバーデン・ビープリヒというライン川べりで書かれたのです。ワーグナーの家は水面にちかく、滔々と悠々と流れるラインが自分の庭になったような錯覚すらあります。太陽がまぶしい秋の朝、目覚めて窓を開けると眼前に滔々と流れるライン川、そこにバスの効いたあの曲が流れる。僕の理想の光景です。

こういう経験をして、僕はだんだんとお月様を見て「美しい」と思う感性も身についてきました。物体だ、という感性が消えたわけではなく、少しはバランスのとれた大人のリスナーに成長できたということでしょうか。基本的にはロマンチストなので、ボエームやカルメンを涙なしに聴き終えたことはないし、ラフマニノフの第2交響曲を甘ったるい駄作だなどとは全く思いません。

しかしメンデルスゾーンのジーンとした感じは、涙が出るとか甘いとかそういう次元の話ではありません。泣くというのは作曲家が仕掛けた作戦にまんまとはまっているということです。そうではなく、作曲家がそういう作戦を練る前の舞台裏で、一緒に昼飯を食ったというイメージなのです。どうも話が霊媒師みたいになってきました。

ところで今、心を奪われているのがラヴェルです。音楽を書く手管、仕掛けのうまさという意味でこの人は最右翼です。もちろん、どの作曲家も聴き手を感動させようと苦労し、手練手管を尽くしています。そうでないように思われているモーツァルトの手管はパリ交響曲について書いた彼の手紙に残っています。しかしラヴェルはその中でも別格。うまいというより、彼は手管だけでできたみたいなボレロという曲も書いています。もうマジシャンですね。ドビッシーと比べて、そういう側面を低く見る人もいます。

僕も、そうかもしれないと思いながら、聴くたびに手管にはまっているわけです。ダフニスとクロエ。このバレエ音楽の一番有名な「夜明け」を聴いて下さい。僕は2度ほどギリシャを旅行してます。あのコバルトブルーの海に日が昇るような情景をこれほど見事に喚起する例はありません。音楽による情景描写というのはよくあります。しかしこれを聴いてしまうと他の作品は風呂屋のペンキ絵みたいに思えてしまいます。そのぐらいすごい。手管だろうがペテンだろうが、この域に達すると文句のつけようもないのです。

僕のラヴェル好きは高校時代にはじまります。春の祭典と同じ感覚で。両手の方のコンチェルトの第2楽章、ピアノのモノローグを弾くのは今でも人生の最大の喜びの一つです。もう和音が最高。ダフニスと同じコード連結が出てくる夜のガスパール第1曲も(これは弾けません)。バルビゾンの小路に似合う弦楽四重奏の第1楽章。僕にとって、ヨーロッパの最高度の洗練とはラヴェルの音楽なのです。

あれもいいこれもいい。 50年も聴いてくるとこうなってしまうのです。しかし50年たっても良さがわからない有名曲もたくさんあります。最後は好みです。もう今さらですから、ご縁がなかったとあきらめることにします。好きな曲は何曲あるか知りませんが100はないと思います。50-60ぐらいでしょうか。

これから、時間はかかりますが、1曲1曲、愛情をこめて、なぜ好きか、どこが好きかを書いていきます。これは僕という人間のIDであり、作曲家たちへの心からの尊敬と感謝のしるしです。読んで聴いて、その曲を好きになる方が1人でもいれば、僕は宣教師の役目を果たしたことになります。聴かずして死んだらもったいないよという曲ばかりです。必ずみなさんの人生豊かにしてみせます。ぜひお読みください!

 

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