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ルロイ・アンダーソン「タイプライター」

2019 DEC 10 1:01:24 am by 東 賢太郎

タイプライターというとビジネススクール時代は必需品というより友であった。学生は全員が持っており、提出する宿題、ペーパー、レポート、卒論はすべてタイプライターで打たなくてはならない。音を聞いただけで当時の “苦行” の日々が蘇り冷や汗が出る。同時並行に5科目履修している各科目の予習だけで約100ページ、つまりその5倍だから500ページの教科書を毎日読まなくてはならない。長編小説を毎日1つ英語で読むという感じで、ネイティブでも音を上げるほど大変な分量だった。それが月曜~木曜である。金曜は休みだが休む間など皆無で、金土日の3日間で復習と翌週の準備をしておかないととても授業のペースに追いつけない。そのうえでレポートの提出となれば、壊滅的に時間がない。僕は午前零時まで図書館づめで、夜の校内は危険なので大学警察のパトカーに乗せてもらって帰宅していた。家内と友人とでフィラデルフィア管弦楽団の定期会員になっていたが、そのような状況の中で金曜の午後2時からのマチネー・コンサートでつかの間の休息をアカデミー・オブ・ミュージックでとっていたことになる。

そんな拷問のような試練が2年間で履修すべき19科目においてあり、すべての中間、期末試験をパスして19単位を取得しないとMBA(経営学修士号)はもらえない。日本は入学が難しく卒業は簡単といわれるが東大法学部の26単位は非常に大変だ。しかしウォートンの19単位は、英語ということを割り引いても、もっと大変だった。9月~4月の2学期、夏季、9月~4月の2学期、と5つのタームがあって、アメリカ人は夏季はサマージョブに使うが英語のハンディがある日本人の選択は毎年例外なく5,5,2,5,2である。夏季に2の貯金をして最終学期を気楽にするのだ。しかしそれだと旅行ができない。僕は夏季の1か月はどうしてもヨーロッパへ行きたく、アメリカ人型の5,5,0,5,4とした。後で分かったことだがこれは僕の人生で最もリスキーなチャレンジだった。

言うまでもなく、この選択は最後の学期の「4」を1つでも落としたら卒業できず一生の赤恥となることを意味する。もちろん覚悟の上だったが、にもかかわらず2年目はチェロを買って習ったりしてお気楽なものだった。最後に履修した中級会計学(intermediate accounting) はウォートン名物の最難関科目であり、そんなのを取らなくてもいいのに妙なチャレンジ精神から取ってしまって、クラスで10%ぐらい落第するときいて初めてビビった。教室を見渡したら外国人は僕しかいない。しかも50人の米国人中14人がCPA(公認会計士)で絶体絶命であった。必死に勉強したが3月の期末試験は死ぬほど難しくて感触が悪く、結果発表までの1週間は生きた心地がしなかった。よくパスしたもんだと思う。

そんな苦労はしたが、夏をまるまるさぼったおかげでザルツブルグ音楽祭でカラヤンのばらの騎士やらスカラ座でマゼールの蝶々夫人が聴けてしまった。宝のような思い出だ。チェロは白鳥が弾けるようになっており、中級会計学は何も覚えていない。丸さぼりは正しい判断だったといえよう。後進のために書いておくが、そんなに苦労するMBAの学歴が日本において見合う価値があるかというと、それを詐称した芸能人がいたぐらいだから多少はあるのだろう。しかし、片言の英語ぐらいでばれないと思っていた方も方だが、それでダマせると思われていた方も方なのだ。畢竟、日本国においてはMBAですと名乗って仮にそれが厳然たる事実であっても、その程度にどうってことないのである。へ~英語ぺらぺらでっか、てなもんだ。

ウォートンは全米1位のビジネススクールだが、何のスキルが身につくかというと各人各様だろう。僕にとってビジネススクールは知識の習得より速読、速筆の特訓の場であり格好の虎の穴だった。同じ教室でハーバードやプリンストン出のエリート層のアメリカ人とディスカッションしたり競争したりして大したことないと白人コンプレックスが皆無になったという意味はあった。その後白人の部下をたくさん持って白人の世界で戦ったわけだが、ほかの業界は知らないが、金融の世界では位負けしたり舐められたりしたら負けでありやられてしまう。ぜんぜん上から目線でできたというのは有難かった。もとから一夜漬けは得意技であり、それに磨きがかかったのだから非常に有利な武器にもなった。よくブログが書けますねといわれるが、日本語ではあるが、速筆は役に立っている。

タイプライターが「友」だと書いたのはそういう深い意味がある。いまやワープロに、そしてパソコンにとって代わられ、若い人は見たことも聞いたこともないだろうがおおむね上掲の写真のような物体だ。触ったこともなかったのではじめは苦労したが、慣れてくるとカチカチ文字を刻む音が快感にもなった。ルロイ・アンダーソンが1950年に作曲した「タイプライター」をどこかで聞いたことがある人は多いはずだ。タイピストを管弦楽のソリストにしてしまうユーモア音楽で、お堅いクラシックに笑いを導入した画期的作品と思うが、ハイドンの交響曲第101番(時計)やベートーベンの同8番(メトロノーム)の末裔とも言えよう。ひょっとして当時の聴衆は彼らの交響曲を笑いを交えて楽しむ局面もあったのかと想像しながら聴くと楽しい。

ルロイ・アンダーソンの演奏が残っている。彼の指揮は概してテンポが速い。本来のリズミカルな魅力はこれでなくては出ないが、タイピストの名手はなかなかいないのだろう、現代版の演奏はどれも遅めだ。

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Categories:______ルロイ・アンダーソン

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