クラシック徒然草《エロイカ録音史とクレンペラー》
2020 NOV 28 17:17:18 pm by 東 賢太郎
年をとることの最大の利点は、年をとらないと分からないことが分かるようになることだ。
僕にとってベートーベンの交響曲第3番エロイカが大切な音楽のひとつであることは知っていた。10年前にサラリーマン生活を終えて独立する苦しみのさなかで、孤独だった魂を救ってくれたのはこの曲だ。めぐりあっていた幸運にどれほど感謝したことか。言うまでもなく、これを作曲していたころベートーベンも死を意識して遺言を書くほどのどん底にあった。ひとりの人間が奈落の淵から立ち上がり、這い上がり、運命に打ち勝っていく際に放射するエネルギーには何か人類に共通なものがあるのだろうか、彼がそれをする過程で心に去来した音を書きしるしたエロイカという楽曲はあらゆる名曲の内でも異例なものを宿しているように感じられてならない。僕を鼓舞して立ち直らせたのは、音を超越したいわば名文に籠められた言霊のごときものであり、無尽蔵の生命力を秘めた霊気のようなものでもあったと思う。
オットー・クレンペラーがフィラデルフィア管弦楽団に客演したライブ録音を聴いた。彼は正規盤としてEMIにモノラル盤(1955年)、ステレオ盤(1959年)を残している。どちらも第1楽章のテンポが理解できなかったのはおそらくエロイカをトスカニーニで覚えたからであり、Allegro con brio 、付点2分音符=60と楽譜にあるからでもあったろう。とするとクレンペラーは遅すぎて論外であり、SMC最初期の7年前に書いたこブログに推挙していない(ベートーベン交響曲第3番の名演)。若かった。たかが7年、されど7年だ。1962年、クレンペラー77才のこのライブは正規盤のどちらよりもさらに遅いのに、それをたったいま聴き終えて筆をとらずにいられない自分がいる。
音は貧弱でオケも精度を欠くためこの録音に近寄るすべはなかったのが、いまはアンサンブルの中からいろんなものが聞こえてくる。それは決して指揮者の独断ではなく、ベートーベンの心の声であると思えるのだからじっと耳を傾けることになる。
この経験はどこかでした。そうだ、彼のフィガロの結婚だった。あまりの遅さに絶句し、こんなものはモーツァルトでないと断じて長らくご無沙汰になった。それを傾聴している今があるのだから、この爺さん只者じゃないと推して知るべしだったのだ。エロイカを完全無欠なアンサンブルで聞かせたものにジョージ・セル指揮クリーブランド管弦楽団の盤がある。僕はトスカニーニ、レイボヴィッツを聴きこんできたのでテンポも納得いくセル盤は当初から好みだったし、交響曲を聴いたという充実感でコンテストをするならこれに満点を与えても誰も文句をつけないのではないか。
しかし、ベートーベンがこう望んでいたろうか?という疑問が湧きおこるのも事実だ。当時こんな力量のオーケストラは存在しなかったから彼は聴いたこともなく想像もできなかったであろう。室内楽の如き完璧なアンサンブルで管弦のバランス、アインザッツまで精緻に造形したトゥッティをスタッカート気味に強打するなど “シンフォニック” の一言だが、それはあくまでも20世紀の管弦楽演奏の概念なのだ。この驚異的な演奏を1957年に録音したセルの凄みは筆舌に尽くし難いが、これがアメリカのヴィルトゥオーゾ・オーケストラを得て成し遂げられたことも時代の一側面だ。
録音史という標題にしたので書くなら、第2次大戦後の米国のレコード会社は自国のオーケストラの音楽監督に欧州の著名指揮者をすえてクラシック・レパートリーのアイコン的録音を自社コンテンツ化するマーケティング戦略を採った。マーラーに始まりクーセヴィツキー、ストコフスキーときた成功体験の系譜の戦後版であり、ユダヤ系音楽家の亡命も追い風だった。それがトスカニーニ、モントゥー、ワルター、オーマンディー、セル、ライナー、ショルティ、ラインスドルフ、スタインバーグ、ドラティ、ミュンシュ、コミッショーナ、アブラヴァネルなどだ。誘致案があったがナチス関与のかどで潰されたのがフルトヴェングラー、カラヤンであり、来てみたがうまくいかず短命政権に終わったのがクレンペラー、クーベリック、マルティノンである。その流れで自国の指揮者バーンスタインの売り出しに成功し、非白人のメータ、小澤もポストを得ている。
その指揮者輸入戦略からトスカニーニのレスピーギ、ライナーのバルトーク、ショルティのマーラーなど本家を凌ぐどころか永遠に凌駕もされないだろう名録音が幾つか生まれたが、セルのベートーベン全集はそこに位置づけられる偉業だろう。永久不滅の録音が名人オーケストラなしにできることはないが、ライナー、ショルティのシカゴ響と並び立つクリーブランド管の機能的優位性はセルの薫陶の賜物として際立っており、その末裔として1969年に生まれたのがやはり永久不滅となったブーレーズの春の祭典だったと考えれば筋が通る。中でもセルのエロイカは米国の楽団が残した録音という条件を外しても白眉であろう。
セルに先立ってベートーベンの9曲を英国のフィルハーモニア管でEMIに録音したのがヘルベルト・フォン・カラヤンであった。1952年のエロイカは、いまでも仮にサントリーホールで鳴り響けば名演として記憶されただろう。しかし、これとてセルを知れば霞んでしまうのだ。モノラルということもあったからだろう、カラヤンとグラモフォンがご本家ドイツの威信をかけて1962年にイエス・キリスト教会でステレオ録音したのがベルリン・フィルとの第1回目の全集ということになる。
僕はカラヤンのベートーベンを選ぶならこのベルリンPOとの第1回目を選ぶ。本当かどうか当時の彼はトスカニーニを信奉していたとされるが、指揮界はカラヤンが後を襲ったフルトヴェングラーがトスカニーニと人気を二分しており、彼が後者側の流儀に立つ政治的理由もあったろう。スピード感と力感に溢れ、磨きこまれたしなやかさも見せるこのエロイカは作曲家の悲劇と慟哭には踏み込みが浅いが、後のカラヤンのトレードマークとなる特徴の原点をすべて揃えた一級品だ。しかし、このレコードとて、恐るべきレベルまで研ぎ澄まされたセル盤を凌駕したとは思えない。
その横綱セル盤を僕が熱愛しないのには訳がある。聴覚の喪失という音楽家に致命的な症状が現れ始め、覚醒している限りその自覚に苛まれ続け、治療の望みは日々断たれて音はどんどん消えていき、その地獄の責め苦が一生続く恐怖から逃れる唯一の手段は死ぬことであるというところまで追いつめられて書いたのがハイリゲンシュタットの遺書だ。虚構に擬する人もいるが、彼が死を選択肢としつつ書いたのは真実と考える。ただし、書きながら親族の難しい現実に意識を移ろわすうちに、自分が生きる必要があり、どんなに苦しく孤独でも必要とされるのだというドグマのエネルギーがドライブして彼は活きる望みと力を取り戻していった、だから書き終わるころには脳裏に浮かんだ死はもはやフィクションになっていたのだと思う。
そうでなければエロイカのような音楽は降ってこないだろうし来たとしても死ぬ人間が書き留めようとは思わないだろう。エロイカは生きようと思った彼が遺書を断ち切る情動を自らを鼓舞するために書きとった音楽ではないだろうか。第2楽章の葬送行進曲は誰の葬送でもない、彼が遺書の紙を手にした時に脳裏をよぎった死の形であり、その奈落の深い闇から脱却したところに彼が世に問いたかったステートメントの核心があるように感じられてならない。そうだとすると、葬送行進曲までが整然と名技の披歴の舞台となっていて、人間のどろどろしたリアリティーをあまり感じないセル盤のコンセプトは物足りない。第2楽章をアレグロの両端楽章に対する緩徐楽章としてロジカルに俯瞰し、そこに封じ込められた地獄の阿鼻叫喚を音符通りダイナミックに鳴らしはするが一個のリアルなドラマとして描くアプローチは採っていないからだ(カラヤンも同様だ)。
つまり、そうなると復活後の快哉ばかりがアレグロの快感を伴って全曲を支配する印象を残すことになり、それはそれで力をくれるし演奏会でブラヴォーの嵐を呼ぶことはできるのだけれど、僕はこの年齢になってそれは何か違うのではないかという思いを懐くようになってしまった。管弦楽演奏としてこれ以上不可能だろうという非の打ちどころない演奏を記録した音楽家たちに最高の敬意を払いたいし、こういうことを書くのは心苦しさを伴うが、スコアのメトロノームに従って火の出るような演奏をしたトスカニーニに対しセルは熱量はあまりなくクールに軽々とF難度の演技をこなすメカを感じるところが異なる。
そして、セル盤と対極的な位置にあるのがフィラデルフィアのクレンペラー盤なのだ。それは奈落の底に焦点をあてたアプローチであり、セルのフォーカスが陽ならクレンペラーは陰だ。アインザッツをそろえてパンチを利かせたり流麗なレガートで泣かせようなどという細工がない。死を意識する混沌から立ち返ったベートーベンの強靭な精神への敬意と共感に満ち、それを表象して資するような音を裏の裏まで執拗に拾い、克明に聴き手の耳に届ける。第2楽章のホルンソロ以降の阿鼻叫喚は、セル盤では優秀な役者をそろえた立派な悲劇だがクレンペラー盤には血が流れるのが見える。スケルツォも遊戯的では一切なく、終楽章も暗さが支配して希望回帰の安堵や享楽はやって来ずに終わる。
終楽章がそういう筋立てであるなら、同じアレグロの第1楽章も付点2分音符=60にはならないのが道理だろう。むしろその遅さでなければベートーベンの闇と復活は描き切れなかったと思う。最晩年、1970年のこのライブでは第1楽章はテンポが遅いを超えて止まりそうになる。初心者の方はこれがセル盤と同じ曲と思えないかもしれない。あのスコアをこう読む想像力を僕は持ち合わせていないけれど、メンデルスゾーンの例でみた通り、彼にはそれがあり得るのだ。
7年前の自分なら、これは真っ向から切り捨てていたろう。それが今は許容どころか好んでいる。若かった僕が間違っていたかもしれないし、音楽の方が両方を包含しているのかもしれない。ポップスをそれほど違うテンポでやれば違和感があるだろうがベートーベンのこの音楽は多層的であって、JSバッハの音楽がそうであるように異なったテンポを許容するのではないだろうか。それはメトロノームをこまめに書き込んだ作曲家にとって不本意な結論かもしれないが、彼がエロイカの譜面に図らずも書きこんだのは音符でなく言霊、霊気だ。モーツァルトのピアノ協奏曲第20番、24番にたちこめる何やら恐ろしい物、それがここでは落ちこんだ人を蘇生させる向精神薬のように働いている。
僕はクレンペラーのように第2楽章の奈落に焦点をあてるアプローチにだんだん賛同するようになっており、セルやカラヤンには音楽演奏としての快感では納得だがエロイカの莫大な霊力は半分も描き切れていないと感じるようになってきている。付点2分音符=60との矛盾はあくまでイロジカルなままであるが、ベートーベン自身、エロイカ作曲の時点で鬱状態から完全には回帰しておらず、内面に矛盾を抱えた状態で躁状態に突入しつつあったと思う。耳疾への恐怖に打ち勝って吹っ切れるのは運命、田園を書いた頃からだ。だからエロイカは多層的なものを含んだ作品となっているのであり、自身がまだ多層的だったベートーベンはそれに気づかなかったというのが私見だ。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
ドリーブ 「コッペリア」よりマズルカ
2020 NOV 12 23:23:56 pm by 東 賢太郎
バレエ音楽は好きなくせに舞台の方は女の子の芸事というイメージがあって長いこと無視でした。ニューヨークで春の祭典やダフニスを観ましたがどうということなく、ますます興味を失っていたのです。ところが10年前にロンドンでボリショイ・バレエ団の白鳥の湖を見て衝撃を受けました。かなり前の方のかぶりつきに近い席だったせいか舞台に見とれてしまい、息もつけぬゴージャスで美しいものを目撃してしまったわけです。もちろんチャイコフスキーの曲あってのことなのですが、耳だけでなく目の愉悦というものがあることを発見しました。
レオ・ドリーブ(1836 – 1891)のコッペリアは音楽の出来が良く、フランス趣味でありながらワーグナー流のリッチなオーケストレーションが豪華であります。ぜひ舞台を観たいものです。有名な箇所がいくつかありますが、僕は「マズルカ」が大好きで、このメロディーはどういうわけか物心ついたら知っており、譜面なしでも弾けるぐらいなのにどこで覚えたのかわかりません。家にレコードもないので。
僕においては和声が非常に粘着性があって耳にこびりつき、だから残っているのでしょう。ともあれ浮き浮きする見事な音楽で元気が出ます。どなたも一度聴いたらとりこになると思います。このビデオの6分05秒からがマズルカです。
コッペリアは E. T. A. ホフマンの砂男に基づいたストーリーで、1870年にパリで初演されました。このビデオ(パリオペラ座)のコレオグラフィーがオリジナルなのかどうか踊りについてはまったく素人でご容赦願いますが、とても優美なものですね。
さてこのパリのマズルカですが、記憶に焼きついているのと比べてテンポがやや速い。では焼きついてるのは誰の演奏だったんだろう?幼時のことだから60年代当たりの古い録音であるはず。
こういう時ネットは便利です。まずカラヤン / ベルリン・フィルハーモニー。
とてもシンフォニックで立派な演奏ですが遅すぎる。これじゃない。
フランス系で遅い代表はこれでしょう。ピエール・デルヴォー / コンセール・コロンヌ管です。これも違います。
モントゥー / ボストン響はバレエの雰囲気がある素敵なものですが、微妙に速いですね。これもバツ。
エルネスト・アンセルメ / スイス・ロマンド管です。かなり近いですがシンバルの鳴り方が記憶と違います。
アンセルメならこちら、ロンドンのロイヤルオペラハウス管との録音。これはフィットしますね、これだった可能性はかなりあります。
次はフランスのロジャー・デゾミエール。うん、これはいい。パリ音楽院管弦楽団のローカル色溢れる音がたまりません。これの可能性もあります。
アンタール・ドラティ / ミネアポリス管です。明らかに違う。彼の演奏はどれもメリハリがくっきりつきますね。しかしこれはひっくり返るぐらい速い。こりゃ踊れませんね。
と思ったら甘かった。我が憧れのボリショイ・バレエのビデオをご覧ください。すごい。ポルシェ並みの速さだ。これじゃあ記憶とあまりにかけ離れていて平静には聴けないのです。これとカラヤンのと、同じ音楽と思えますか?
しかし踊れてますね。しかも、とてつもなく美しいではないか!こうなってくると楽譜の指示なんかそれがなんだという気がしてスコアを見る気も致しません。バレエ恐るべし。
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メンデルスゾーン 「歌の翼に」作品34-2
2020 NOV 2 1:01:18 am by 東 賢太郎
なにかについて言葉にしてみることが批評のはじまりだ。初めてフィレンツェのウフィツィ美術館でサンドロ・ボッティチェッリの “ヴィーナスの誕生” を眼前にしたとき、なにやら言葉を吐いたのだろうか。
いまその記憶にセリフをつけるならば、きっと「!」だったと思う。想像よりずいぶんと大きく感じたこの絵にいまだって言葉はない。それでも15世紀以来数えきれない多くの人がこれの前に立ちすくみ、感きわまってああでもないこうでもないと膨大な量の言葉を吐き、書き連ねてきただろうとは思う。批評とはそのすべてのことであり、その総量が充分に多いことが芸術と呼ばれるもののおおよその定義ではないか。
「美しい」(beautiful、schön、bell、beau、美丽)は人々が批評として発する言葉の内でも、最もポピュラーで原初的なものだ。「美しいに基準はない」、「人の感じ方に絶対はない。”モナ・リザ” だろうがムンクの “叫び” だろうが美しいと思うなら美しいのだ」という新自由主義的精神にあふれる批評に誰も反論する権利はないが、そのことは子供が画いた犬の絵を「かわいい」とほめてあげるのと同次元で「美しい」が使われることを教えるのである。
音楽においても「美しい旋律」という表現は往々にして名曲を十把ひとからげに包み込む2円のコンビニ袋みたいなものとなる。即物的な音の並びである旋律が美しいかどうかは、満月は美しいが月の表面はあばただらけであるように、ひとえに人の心の作用である。そして音は演奏者が発してはじめて心に作用するのだ。子供が発表会でたどたどしく弾けると「おじょうずね」となり、上級になってはじめて「美しい」が出る。同じ楽譜なのにそういう事が起こるなら美しいのは楽譜(旋律)ではなく発した音という事になる。
このことを僕はカーチス音楽院の講義でチェリビダッケに教わった。美しい楽音と美しい旋律はちがう。記譜された音列は美の種ではあるが、正しく演奏されないと発芽しない。種がなければ発芽もない。彼はまず哲学者であり、次に音づくりのマニアックな実務家であり、本質は音と旋律の狭間にスピリチャルなものを感知できる宗教家であり、その立場はニュートンを批判したゲーテの「色彩論」に近い。日本では2番目の側面が多く語られるが、哲学者、宗教家の方が重く、音楽に対峙するその思想、姿勢は実に正鵠を得ていたと感じる。僕自身も無意識にそう感じていたが彼がピアノを弾きながら具体的に示してくれてより強くそう考えるようになった。
僕の中では美しい旋律を書いた横綱は2人しかいない。東がシューベルト、西がメンデルスゾーンだ。美しい旋律を作る才能は有る者にしか無い。JSバッハ、ハイドン、ベートーベン、ブラームスの作曲上の形式論理と主題労作は努力で学習でき継承もされるが、旋律美だけはそのどちらもままならない。馬鹿馬鹿しいほど陳腐な主題をエンジニアのように精巧に加工、展開させ、複雑な対位法やフーガであたかも弁証法の如き展開をする。その効果は美旋律だけでは到達不能な高みに至ったことは百も承知だが、それでも、美旋律が書けないからそっちに走ったという観が去ることはない。
どんなジャンルであろうとおよそ作曲家にとって、人を酔わせる美しい旋律を書くのは願望ではないか。近現代にその試みが放棄されるのは井戸が枯れたから、つまり音列の順列組合せの可能性が枯渇したからでシェーンベルクもヨハン・シュトラウスのワルツが好きだった。旋律というのはつまるところ歌であり、歌曲の王シューベルトは順当な所だが、メンデルスゾーンも歌曲を書かなかった月はないほど歌の人だったことはあまり知られていないように思う。
本稿は僕がいつ耳にしても虜になり、心が根っこから揺さぶられ、何度もくりかえし聴きたくなり、そうするうちにどんなにつらい事も悩みもやんわりと溶解して消えていくというたった3分の美旋律がテーマだ。メンデルスゾーンの「歌の翼に」(Das Flügeln des Gesanges)である。「6つのリート 」作品34の第2曲で、おそらくどなたも音楽の授業でおなじみだろう。
1.おことわり
エリー・アメリンクの美声で気持ちよくなったところで白けることをおことわりしなければならないが、この歌は男性が歌わないといけない。それはハインリヒ・ハイネ(1797 – 1856)による歌詞を見れば一目瞭然である。
歌の翼で
愛しい人よ、私はきみを運ぶ。
ガンジス川の流れのかなたへ
そこは美しいところと私は知っている。
そこに赤い花咲く園があり、
静かな月の光のもとで、
スイレンの花が待つ、
きみを愛する妹として。
スミレは微笑んで、仲良くし、
星を見上げている。
バラはお互いに匂い、
密かに妖精の話をする。
無邪気で利口な小鹿は、
寄ってきて、聞こうとする。
遠いところでは、聞こえている、
聖なる流れの波の音が。
そこに座ろうよ、
しゅろの木の下に。
そして愛と安らぎにひたって、
楽しい夢を見るよ。
(ドイツ語)
Auf Flügeln des Gesanges,
Herzliebchen, trag’ ich dich fort,
Fort nach den Fluren des Ganges,
Dort weiß ich den schönsten Ort.
Dort liegt ein rotblühender Garten
Im stillen Mondenschein;
Die Lotosblumen erwarten
Ihr trautes Schwesterlein.Die Veilchen kichern und kosen,
Und schaun nach den Sternen empor;
Heimlich erzählen die Rosen
Sich duftende Märchen ins Ohr.
Es hüpfen herbei und lauschen
Die frommen, klugen Gazell’n;
Und in der Ferne rauschen
Des heiligen Stromes Well’n.
Dort wollen wir niedersinken
Unter dem Palmenbaum,
Und Liebe und Ruhe trinken,
Und träumen seligen Traum.
これは男がカノジョを桃源郷への逃避行に誘う歌なのだ。この詩を吟味して聴くようになると、主人公が女性では筋違いとなってしまう。
それがどうした。アメリンク、いいじゃないか、かたいこと言うなよ、お前は差別主義者かとおっしゃる方はここで本稿は閉じていただきたい。僕のスタンスは、クラシック音楽はあくまで古典芸能だという事に尽きる。未来のアメリカ合衆国で黒人大統領が魔笛の上演を禁止しても仕方ないし、「いとしのエリー」を八代亜紀が歌ってもいいじゃないかという風に流れない所にポップスとの違いがあって、その頑固さで古典という文化が守られ継承されて行く、そのことが人類の未来にとって非常に重要だと考えていることをおことわりしたい。
2.ハイネの詩の真意
恋人と夢の中で遠くへ飛び、赤い花の咲くガンジスの楽園に遊ぶ。飛行機で自由に世界を飛んでいる我々には何やら楽しげなバカンスにしか聞こえないが、これが書かれたのは馬車の時代だ。ガンジス川などどこにあるか空想すら及ばぬおとぎの国、異郷である。なぜハイネの心はそんな所まで飛んで行ったのだろう?
「歌の翼に」はハイネが1827年に発表した『歌の本』(Buch der Lieder)にある。メンデルスゾーンはその2年後の1829年に英国旅行をしてスコットランド交響曲を着想したが、それには彼のファミリーのプロテスタントへの改宗と自身の内に秘めた信仰との相克が深く関わっている(メンデルスゾーン 交響曲第3番イ短調作品56「スコットランド」)。
それは同じドイツ系ユダヤ人のハイネの問題でもあったのだ。wikipediaのこの記述でわかる。
1825年6月、ユダヤ教からプロテスタントに改宗、ゲッティンゲン近郊ハイリゲンシュタットで洗礼を受け、クリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネとなる。この改宗は家族に伝えないまま行なわれており、両親が改宗を知ったのはずっと後になってのことだった。
ハイネは織物商の父、宮廷付き銀行家一門の母をもつ富裕層の子だ。この点でやはり富裕な銀行家の子であるメンデルスゾーンとまったく同じ境遇だ。そして、少年時代のハイネは「ハリー」というイギリス風の名前やユダヤ人の出自のために周囲のからかいの対象となり、メンデルスゾーン家はファミリーでキリスト教への改宗をしたにもかかわらず謂れなき迫害を受け続けた。つまり、ずばり書けば、二人は差別され、いじめられて育ったのだ。ハイネが夢想し、メンデルスゾーンが音楽で共鳴を宣言したのは、日本語の余計なニュアンスが混在する愚をあえて犯すが「いじめられる現実からの逃避」だったと僕は考えている。
ハイネが法学士として卒業したゲッティンゲン大学は第2次世界大戦で英独がケンブリッジとゲッティンゲンをお互いに爆撃しない紳士協定を結んでいたドイツの名門だ。そんなトップクラスのインテリの称号を得ても、彼はユダヤ教からプロテスタントへ改宗という人生を変える決断をした。しかも親には内緒で。この事実を知っても、平和ボケで宗教オンチの我々日本人にはまだぴんと来ない。僕もドイツに住んで初めてこの問題の根深さを知ったが、こういう温床がハイネの時代に厳然と存在したから百年後にナチス党が出現してしまったことをお伝えすれば賢明な皆様にはおわかりいただけるだろう。
すなわち、「歌の翼で」は恋する青年の精神の逃避行なのだ。ハイネは桃源郷に飛んでいこうよと想像の歌で恋人を誘うが歌は書かなかった。それを音楽で実現したのが12歳年下のメンデルスゾーンだった。二人の心は信仰との相克という深みで共振していたが、恋人に行動を促すいかにも楽しげな “「行こう」(第1節)、「座ろう」(第5節)” にはさまる “楽園の情景描写(第2~4節)” は言葉としてはちっとも悲しげでない。ところがメンデルスゾーンはその描写部分に “そうなった境遇の悲しさ” を切々と吐露して見せるのだ。だから第1,3,5節が長調、第2,4節が短調になる。この曲が胸をしめつける悲しさを秘めているのは短調の部分だというのはほとんどの方が共感されようが、そこの歌詞とのギャップは少々奇異ではないだろうか。
3.身分が低かった音楽家
同志なのになぜだろう?ハイネの悲しみは徹頭徹尾、隠喩的である。それを明示しない詩という形式で表現する。大哲学者ヘーゲルの教えまで受けた当代最高峰のインテリの節度かもしれないし、そうした密やかな表現の方が世間に浸透して結局は強く訴求すると考えたかもしれない。しかし、ギャップを顧みず短調部分をあえて挿入したメンデルスゾーンはそう考えず、むしろ音楽という情感にダイレクトにアプローチできるメディアでそれを大衆にもわかる形で主張しようとしたということだ。二人の間には法学士と音楽家の身分の違いがあった。シューマン、チャイコフスキー 、ストラヴィンスキーの親が息子を音楽家でなく法学士にしたがったことでもそれは伺える。モーツァルトは料理人と同じテーブルで食事させられたと父に憤慨したが、百年たっても社会通念として音楽家の地位は一貫して低かったのだからメンデルスゾーンの時代は推して知るべしだ。ユダヤ問題とはまた別個の話である。
ゲーテの親もそのくちで息子をライプツィヒ大学の法学部に入れ、息子は弁護士になった。しかし大成したのは文学の道であり、出世作の「若きウェルテルの悩み」でヨーロッパ中に名が轟き、愛読者だったナポレオン1世に謁見して感動させている。エロイカの表紙を破ったベートーベンと何たる差であろう。それどころか君主カール・アウグスト公に気に入られヴァイマル公国の宰相にまでなってしまうゲーテの出世ぶりを見るにつけ、才能で劣ることはなかったウォルフガング・アマデウス・モーツァルトの扱われ方は何だったのかと思うのだ。しかしそれが音楽家だった。現代までその痕跡は残り、英米系のケンブリッジ、ハーバードで音楽専攻はできるが、ドイツの影響下で明治政府が作った東京大学は文学部は作ったが音楽教育は専門大学に委ねた。
メンデルスゾーンがハイネの隠喩に飽き足らず短調楽節を挿入したのはユダヤ問題に加えて音楽家の社会的地位でも底辺にあることへの不満があったと見ていいのではないか。最終的に彼はライプツィヒ音楽院を創設したが、その才能の大きさに比して微々たる名誉だったと思わざるを得ない。「歌の翼に」はハイネの隠喩的アプローチに、まさに音楽という翼をつけた楽曲だ。しかしメンデルスゾーンの思いは強かったが、彼自身もあざとく尖った表現や先進的な技法を弄する趣味の人ではなく、中庸を保ったバランスを崩さない保守的な部類に属する作曲家だった。シューベルトが歌曲を芸術の域に高めた(前述の”批評の総量”において)のに対し、彼が音楽史の進展にこの分野で加えたものは多くないといってもアンフェアではないと思われる。しかし、そうであっても、彼は美しい旋律を書いたのだ。それ以上に何が必要だろう?
4.だから重要な短調部分の解釈
「歌の翼に」は旋律があまりに美しいために女声や種々の楽器でも奏されることになった。良い演奏なら何の問題もないが、そうでもないのが99%だ。そうやって人工甘味料だけのスイーツというかトロフィーワイフ的な女性(昔は**美人といった)というか、そういうものが人気を博する軽薄な時代がやってくるのはいささかも歓迎しない。わかりやすい編曲でクラシックが好きになってくれればというが、わかりやすいクラシックで入門した人が気に入ったのは曲ではなくわかりやすかったことである。わかりやすさを目的として作曲された曲がクラシックと呼ばれることは永遠にない。
「歌の翼に」はオーソドックスに演奏してもわかりやすさは損なわない天下の名曲だ。ト長調の明るい曲想が第2楽節(そこに赤い花咲く園があり・・)で不意に短調になるところの気分の翳りは一度聴いたら忘れない。旅行に行くよとついさっきまで浮き浮き喜んでいた人が急にわけもなく落ち込んでしまったような感じで、ここの不思議感、予想もしなかった哀愁こそが魅力の源泉だ。この感情の段差は偶然ではない、メンデルスゾーンは意図的にそうしている。なぜなら、短調になる第2楽節は平行調の(ある意味、当たり前の)ホ短調ではなく、ト長調がニ長調に落ち着いたところでいきなり同名短調(ニ短調)に飛ぶからである。この転調は印象的というか、オレンジ色の景色がグレーに変わるほど僕にはショッキングだ。まるで黄泉の国でもあるかのような未知のガンジスへ二人は逃げる。なぜ?悲しく苦しい現実をメルヘンに投影した瞬間だ。
4.ほとんどの演奏の欠陥
楽譜を見ると、第2、4楽節冒頭に p と書いてあり(①)、伴奏のバスのレがオクターブ低くなっている。自筆譜ではないので後世の補筆かもしれないことは鑑みるとしても、少なくともメンデルスゾーンが意図した音色のイメージが浮かんでこないだろうか?さらに音楽はg-f#-e-d#-f#-e-d-cのバスラインに乗ってさらに憂愁を深めたホ短調へと旅をし、ここをクレッシェンドしろ(②)と指示している。強調して聞き手の印象に刻むべき部分なのだ。ここに情感をこめられると恋人は不安になって一緒に行ってくれないだろう。そこで何事もなかったかのように自然にト長調に戻すと、すぐに「第2節の歌詞の後半」をそのままくり返して、「でも ”そこ” はいい所なんだよ」と明るい印象を重ねて見せる。このわずか数十秒の展開に「劇」がこめられていながら、天衣無縫で何らの作為も感知できない天才的な部分なのだ。
ところが、みなさんyoutubeで聞いてみていただきたいが、ほとんどの演奏は①、②を無視している。リストのピアノ編曲も落としている。そうなれば全曲がのっぺりと平板になり、逃避行の悲しみは雲散霧消してしまう。それでも旋律美だけで聞けてしまうから横行したのだろう。その短調部分こそがこの曲の白眉であり、核心であり、メンデルスゾーンの訴求したいメッセージがこめられているのであり、同時に、音楽的にも驚くべき場面転換が何らの不自然さも聞き手に感知させぬまま白昼堂々と行われてしまうという、音楽にセンシティブな者には黙って聞き過ごすことなどあり得ない箇所なのだ。僕にとってボッティチェッリの “ヴィーナスの誕生” を見たに等しいその瞬間を、すいすいと何も考えずにやりすごしてしまう演奏家の不感症ぶりは信じ難い。美しいはおろか「おじょうずね」の域である。
5.いくつかの演奏について
要するに、この曲はポップス化してお口当たりだけいいように甘味料を施して、あるいは歌手の音域や声質や肺活量の都合で歌いやすいように加工されているのだ。アメリンクの歌をご紹介したのは、彼女のきれいな声のためではなく、楽譜の指示を守ったとまではいえないがささやかながら意識はしてくれているからである。テンポとイントネーションも含め、女声版として選ぶなら僕はこれがベストである。
指示をほぼ完璧に遵守し、詩の意味まで明確なドイツ語のディクションで伝えてくるのがフィッシャー・ディースカウ盤である。短調部分が何たるかを理解していると確信できる唯一の演奏だ。伴奏ピアノは大指揮者ウォルフガング・サヴァリッシュで、短調部分の色調をほのかに変えてバスラインはクリアに出しているのはさすがだ。
という事でこれをお薦めしたいのだが、まったく個人的な趣味で申し訳ないがどうも僕はフィッシャー・ディースカウが苦手だ。細部に至るまで楽譜の読みが深く文句のつけようもない立派な歌であるが、そこまで説明してもらわなくてもいいよというくどさを感じてしまう。それを演じるにはこの遅いテンポが選択されのだろうし、詩をロマンティックに解釈すればそうなろうが、僕は時代として古典派に接近したテンポ感が欲しい。ピアノフォルテでこれだと遅すぎるように思うという理由もある。サヴァリッシュがどう思ったかは関心があるが、あくまで主役に合わせたということかもしれない。
昭和の日本でドイツリートに評価の高かったエリザベート・シュヴァルツコップ。この人も理解しようと頑張ったが、同じく趣味の問題でだめだった。楽譜の指示は無視で全体に平板になってしまう。その分、全曲にわたる細かな表情やレガートで聴かせるが僕の感覚では振付が過ぎてオペラアリアに聞こえる。短調部分、フィッシャー・ディースカウはブレス2回で歌っている。4回なのは女性だと仕方ないのかもしれないが、2回が正しいと考える(ちなみにアメリンクは2回、正確には2度目後半は息がもたず3回)。流れるように一筆書きで歌わせたいから作曲家はあえて強弱の方に細心の指示をつけていると解釈するからだ。短調部分挿入による気分の暗転はメンデルスゾーンの詩の流れへの加工だが、それは転調と強弱で充分に伝わる自負があり、詩の一言一句を明示的に叙述して欲しくなかったのではと思う。
昨年亡くなったペーター・シュライヤーは好きなテナーだがこの歌は短調部分に何も特別には感じておらず(指示も無視)、遅めのテンポで「楽曲全体としてトラウム(夢)」というまとめ方だ。既述のようにそうではない(ハイネとメンデルスゾーンの共作ではない)のであって大家の解釈として残念である。曲頭にはAndante tranquillo.と標示され夢見るように pp で閉じてゆくが、短調部分の音楽上のドラマはメンデルスゾーンのアイデアであって、そうであるがゆえに、ドラマを無用に騒がしくせず p でひっそりと始め、それでも主張は伝えるためクレッシェンドし、楽曲の最後のTraumにミの音をあてて完全な終止感は浮揚させたまま鎮静する(tranquillo)ように消えている。
解釈という概念のないポップス系はみんな全曲ひとまとめの「美しい夢でした」「気持ちよかったでしょ?」だし僕にとってはどうでもいいが、耳にこびりついたこの人の美声だとタミーノがパミーナの絵姿に恋い焦がれて歌うあの歌に聞こえてしまうこともあり、リートは難しいとため息をつくしかない。ただ美しければいいという方には好かれるだろう。
マックス・リヒテック(1910-92)はスイスのテナー。指示は①は無視でブレスの切り方も変則であり、僕の批評精神と矛盾するばかりだがこれを挙げたのはまず何よりテンポがいいからだ。この曲がロマン派風にこねくり回されポップスに転化する予感すらない時代の歌い方を髣髴させ、声質が明るく軽いのも好みだ。着流しのいなせな若衆という風情で、これでこそ短調の意味がくっきりと浮かび出る。これを書いたメンデルスゾーンは25才だったのだ。彼のピアノで演奏されたのはこんな感じだったかと想像してしまう。小林秀雄が「走る悲しみ」と評したのがモーツァルトなら僕は賛同しないが、この曲なら合点である。
チェロ版。この演奏が指示(①,②)を理想的に聞かせてくれる。あくまで器楽としての感興しかないが、そうであるがゆえかこうあらねばならないという解釈に至っている。しかし歌手でこう歌っている人はいない。謎だ。
できればテナーかバスの方と僕のピアノ伴奏でやってみたい。それほど好きな曲だ。
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モーツァルト Ob、Cl、Hr、Fgと管弦楽のための協奏交響曲 変ホ長調、K.297b
2020 OCT 23 21:21:41 pm by 東 賢太郎
この曲は昔から苦手だ。それなのにどうして取り上げるかというと、第1楽章がどうにも好きで仕方ないからだ。いちどなじんでしまうと麻薬みたいな常習性がある。ならばいいではないかと自分でも思うのだが、そうは問屋がおろさない。聴いていると、どこからかこんな声が聞こえてくるからだ。
だまされるなよ、これはモーツァルトの曲ではない
(1)演目すり替え事件がきっかけ
父への手紙によると、1778年、母と連れ立って3月23日にパリに到着して間もないモーツァルトはコンセール・スピリチュエルなる演奏会用にフルート(Fl)、オーボエ(Ob)、ホルン(Hr)、ファゴット(Fg)を独奏とする「協奏交響曲」(Symphonie concertante) を依頼された。大急ぎで書き、音楽監督ル・グロに自筆譜を渡した。ところが、モーツァルトにことわりなく演奏会当日になって別な曲に置き換えられていたという事件がおきている。
演奏されたのはジュゼッペ・カンビー二作曲の、”似た編成の曲” だった。「オーボエとファゴットのソリストが真赤になってやって来て、なぜやらないのか? ときいた」と父への手紙にある。つまりモーツァルトもソリストも(少なくともObとFgは)知らなかったのだ。演奏した連中はすり替えを事前に知らなければ演奏できたはずがないし、それを作曲者の許可なくやるとは考え難いからカンビー二が首謀者と疑うのが当然と思うが、なぜか現代の学者の間では彼はシロだということになっている。
(2)否定されるカンビー二主犯説
当時のパリでは複数のソロをもつ協奏交響曲が流行だった。その作曲をオハコとしたのがカンビー二であり、生涯で82曲も書いたのは彼だけだ。パリに乗りこんだモーツァルトがその人気ジャンルで「俺の方がうまく書ける」と売り込みを狙ったのは彼の性格からしてあり得ることで、しかもマンハイムで友達になった名人ソリスト4人組(Fl,Ob,Fg,Hr)という強力な味方が同行していた。全員が見せ場だぞと息巻いていたろう。だからOb,Fgが「真っ赤になって(怒って)」クレームしてきたのだ。飯の種を奪われかねないカンビー二が警戒しない方が不思議ではないか。
彼らはさらに追い打ちをかけている。その事件より前、カンビー二はル・グロの家でモーツァルトが自分の四重奏曲を良い曲だとほめ、始めの方を弾くのをきいた。「彼(カンビー二)はすっかり度を失ってしまった」「何も知らずにしたとはいえ、ひどい目にあわせた」と手紙に書いたのはモーツァルトだ。「何も知らずに」は彼一流のウソだろう。カンビー二が「こいつはすごい頭脳だ!」と降参するまで才能を見せつけて叩きのめし、「いい気持ちはしなかったと思います」と父に独白している。腕の誇示、勝ち誇り、そして父を安心させる。いつもながらのモーツァルトだ。
(3)大失敗だったパリ行き
父は身勝手な息子のせいでザルツブルグのコロレド大司教から解雇され、家計は困窮していた。つてを頼ってマンハイムに行った息子は職を求め、同行した母は一人でザルツブルグに帰る予定だった。ところが就職は当てが外れて失敗してしまう。窮地に陥ったモーツァルトに「パリへ一緒に行こう」と持ちかけたのは4人組のひとり、フルーティストのヴェントリンクであった。彼はモーツァルト家とは旧知の仲で信頼があり、パリには何度も行っていて顔が利いた。父はヴェントリンクを信用していなかったが、目先のアイデアに飛びついて騙されやすい息子をコントロールするのに手を焼いており、一案としては考慮した。案の定、何を血迷ったかこの期に及んでアロイジア・ウェーバーとミュンヘンに行くと言いだした息子に激怒する。このあたり、1777年の後半の父子の激しい書簡のやり取りは命懸けで、何度読み返しても手に汗を握る。
父はついに「パリへ行け」と命じる。この決断は「フルートの愛好家ド・ジャンに協奏曲と四重奏曲を書けば200フローリンくれる」とのヴェントリンクの言葉が背中を押したものだ。息子の才能に賭けた。そこで妻に「ヴォルフガングと一緒にパリに行くのです」とも命じた。これはあまりに重い決断になった。というのは、パリへ行って協奏曲と四重奏曲を渡したモーツァルトは「報酬は約束の半分以下しか受け取れなかった」という結末を迎え、妻には病気で客死してしまう運命が待っていたからだ。モーツァルトはド・ジャンをケチだと批判しているが、仲介者のヴェントリンクを責めていない。彼は人間洞察がまことに甘く、手練れの輩には悪意はなくともいいカモに見える。誰も指摘しないが、不足分は仲介者が抜いた可能性も否定できないと考えるのがビジネスの視点だ。
(4)真相(私見)
ヴェントリンクはモーツァルトより先にパリに入ったが、そこでド・ジャンの二匹目のドジョウとしてル・グロに「協奏交響曲」を発注させ、バックマージンを狙ったのではないか。もちろん自分がFlソロを吹いてヒットすれば彼は演奏家としてチャンスも得るわけだから動機として申し分ない。ところが予期せぬ事が起きる。前述のことでカンビー二がモーツァルトの才能にビビってしまったのである。 ル・グロの親分はパリのオペラ界をピッチン二と二分する大御所のグルックだ。カンビーニ(イタリア人)もグルック(ドイツ人)もパリに出てきて成功した流れ者であり、実力者のモーツァルトが流れてくるのはみんなが一致団結して嫌だったのである。演目すり替え事件はグルックの指示かル・グロの忖度かはともかく、こうしておこった。
モーツァルトはこの一件を「カンビー二の陰謀による妨害」と疑った。ところが後世の学者は「カンビーニはモーツァルトを高く評価しており、彼の作品を筆写していることや、本人が明確に否定していることなどからも、妨害の犯人が彼である可能性は高くない」としている(wikipedia)。驚くべき稚拙な論拠だ。証拠がないから推定無罪、それは結構。しかし自分で犯行を否定すれば無罪になるなら警察も裁判所もいらない。こういう浮世離れした説がまかり通って誰も変に思わない音楽界というのは不思議な世界だ。無罪の理由は、パリの作曲家仲間(とりわけ著名なグルック)が「あいつはそんな奴じゃない」と庇護した “事実” があるからだとした方が誰がみても説得力があるだろう。同じくモーツァルトをいじめたウィーンが彼を観光資源として食ってる恥ずかしさに比べればパリは知れたものだ。
(5)奇々怪々な楽譜の出現
失意の中でモーツァルトがパリを去るにあたって、父に「協奏交響曲はル・グロが買い取りました」、「彼は独占したつもりですが、いまだに僕の頭にあるのでもう一度書きあげましょう」と書いた。ところが不思議なことに、独占したはずのル・グロが演奏した形跡がなく、自筆譜はこの世から消失してしまった。なぜだろう?なぜル・グロはこの曲を「飼い殺し」にしたのだろう?そして、1869年になって、さらに奇怪なことがおきる。モーツァルトの最初の伝記を書いたドイツの音楽学者オットー・ヤーン(1813-1869)の遺品の中から、「それではないか?」という楽譜がひょっこり出てきたのである。90年もたって!
それが本稿の表題、K.297bである。モーツァルトの筆跡ではない。何者かの手による写譜である。モーツァルトが記憶で書き起こした記録はないから、もし贋作でないならばル・グロの所有した自筆譜の写しという事になる。モーツァルトが記述しているオリジナルの独奏楽器編成が変えられ(FlがなくなってClが入っている)、パートはFl→Clではなく、Fl→Ob、Ob→Clとしている。この時点で当然のこととして全面的贋作説が出たが通説にはならず、改作説が主流となってどこをどのぐらい変えたかのバリエーションが種々の説として乱立しているのが現状だ。学問領域なのでそれには触れないが、確定的に贋作説を破棄する理由はない(そもそも比較対象物がないのだから)。私見はそれを破棄しない。それが冒頭の “声” である。しかし、僕の耳は、やっぱりモーツァルトでしょというものを聴いてしまうのだ。
(6)仮説(私見)
「協奏交響曲はル・グロが買い取りました」はウソだろう。父に「代金はもらったのか、本当に演奏されなかったのか?」と問い詰められ、そう答えたが、演目すり替え時点で楽譜はル・グロに渡っており写譜はされなかった。売ることでなく演奏してもらうことで評判を得るのが目的のモーツァルトは「返せ」といえる立場にない。パリ楽壇にとって危険物であるそれは体よく没収され、そのまま楽譜の山に紛れて放置され、代わりにパリ交響曲を発注して演奏してやる約束で帳尻が合わされた。このジャンルは序曲の部類で重みはなかった。彼は好評だったと有頂天になって見せるが、手玉に取られていたことを悟り「記憶で書いてやる」と負け惜しみを父にぶつけ、結局やらなかった。現代の芸能プロダクションを見ればわかる。若いタレントの分配は1、2割だ。仮にヴェントリンクとル・グロがつるめば世の必然としてそういうことになる。世渡りに今昔などない。父が渾身の力でわからせようとしていたのはそれであり、息子はうるさがった。いま僕は父親の立場であり、息子を思うレオポルドの偉さに涙が出てくる。
ル・グロが飼い殺しにした理由は単純だ。買っていなかったから演奏できなかったのである。ではどうしたか。強い関心を持っている人物の手に渡ったのではないか。「カンビーニがモーツァルト作品を評価し筆写している」という指摘が当時からあるが、これは注目に値する。このジャンルに音楽家生命をかけていたカンビー二がその人である可能性は高い。モーツァルトから実質的に詐取した自筆譜は絶対に存在を知られてはいけない。事件が発覚すればパリ楽界の、ひいてはボスのグルックの汚名になるからだ。それを守る動機がパリの音楽界にあり、脈々と現代まで引き継がれてカンビー二は無罪放免になっていると考える。彼かまたは秘密を共有する何者かが、「あえて改作」することで私的に演奏することを可能にしたのである。Flをはずしたのは、現代なら詐欺罪を構成するヴェントリンクの関与を隠蔽し、演奏に参加する道を断つためではないか。90年の間に写譜がなされ、秘密を守るシンジケートが形成され、最後にオットー・ヤーンの手に落ちた。ヤーンはなぜ黙っていたか。秘匿の誓約と交換で入手したからだ。
以上が東説である。
(7)録音
ホンモノ性に疑義を持っているから楽譜の分析もしないし、こだわるべき実像がないからyoutubeにいくつもあるものからお好みのを聴けばいい。あえて好みを述べると、ヴァーツラフ・スメタチェックがチェコ・フィルハーモニーを振ったこれが木管ソロのクオリティで群を抜いており、第1楽章は最高評価、第2楽章も真作と思わせる見事な解釈と思う。残念なのは終楽章で、この速さで木管がうますぎると改作?の安っぽさが丸見えになってだまされるなよ、これはモーツァルトの曲ではないの声が大音量になってしまう。よって第2楽章でカットということになる困ったちゃんなのが強くお勧めできない理由だ。
こちらは学者でピアニストのロバート・レヴィンがモーツァルトの音楽語法をインプットしたITプログラムでオリジナルの再現を試みたバージョンである。もちろんソロはClではなくFlで、管弦楽部分も違う。現行版(K.297b)が頭に入っている人には面白いが、オーセンティックである保証はない。あくまでレヴィン版にすぎない。
(ご参考)
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アート・ブレーキー「チュニジアの夜」
2020 OCT 14 1:01:07 am by 東 賢太郎
アート・ブレーキーとジャズ・メッセンジャーズはライブできいてます。ネットで調べると僕が留学中に彼がブルーノートかヴィレッジ・ヴァンガードで演奏したのは82年10月、83年2月だけでどっちもブルーノートでした。なぜ自分がニューヨークにいたのか記憶はないですが、2月は期末試験だからきいたのは82年の方だったでしょう。
血が騒ぐナンバーがいくつかありますがA Night In Tunisia(チュニジアの夜)は彼のドラムスがききものです。メル・テイラーは明らかにこれをパクってますね(ブレーキーはキャラヴァンもやってますが)。音の違うタムタムを乱れ打ちする土俗的な音は本能的に大好きで、春の祭典はいつもティンパニの音を追っかけてます。ブーレーズCBS盤を初めてきいてハマったのも、生贄の踊りの短三度のピッチが物凄く明瞭だったからです。
チュニジアは一度行きました。スイスにいた1996年の夏休みの地中海クルーズで首都チュニスに寄港しました。これがあるからこの航路を選択しました。そして憧れのカルタゴ遺跡を見ました。遺跡好きは筋金入りと自負しますが、掘ってみたいというのはなく、その地に立って歴史に思いをはせれば充分。至ってミーハーのレベルですが、そこで生活し、政治を行い、戦争をした人々と同じ目線になって時間を過ごせば「気」がチャージされます。地中海ではフォロ・ロマーノ、ポンペイ、クノッソス、リンドスなど何度でも行きたい場所です。ローマ史好きの方であればご理解いただけると思います。
カルタゴはフェニキア人の植民都市ですが、彼らは元々いまのレバノンのあたりにいたカナン人で、鉄器でメソポタミアを統一支配した凶暴なアッシリアの重税を調達するため富を求めて地中海を西へ向かいます。それが結果オーライで、貝紫(染料)とレバノン杉を貿易財として海洋商人として大成功し、アフリカ大陸を周回したり表音文字のアルファベットを作ったりと知恵も行動力も破格で、ハンニバルのような武勇の男も出ました。
僕はなぜかローマ人より彼らにシンパシーがあります。カルタゴは3度のポエニ戦争でローマ軍の手で灰燼に帰し、男は皆殺し、残った5万人は奴隷に売られた。しかし兵士でない富裕な商人には逃げおおせた者も多かったでしょう。約千年後に現れた海洋都市国家ヴェニスは末裔が作った説があるし、遥か後世にその遺伝子を持った者が欧米に散ってロンドン、パリ、ニューヨークなどで活躍したのではないでしょうか(現にカルロス・ゴーンがいます)。フェニキア、ポエニは自称でなく、歴史を書いたローマが記してそういうことになってる。日本人がジャパニーズと呼ばれるのと同じです。千年後に日本がカルタゴになってないことを祈りながらここを後にしました。
そこから船に戻る道すがらのことです。真夏で半端な暑さじゃなく、遺跡から下ってくる道も舗装してなくてやたら埃っぽい。平地に降りたあたりでは、なにやら人がごったがえした猥雑な通りに店が並んでいます。僕はそういう超ローカルなものに目がなく、左側の一番手前の屋台みたいな土産屋を冷かしました。黒人のオヤジがいいカモが来たと思ったんでしょう、「ヘイ!このドラムどうだ、いい音がするよ、安くしとくぜ」と太鼓をポンポン叩きながら売り込んできたのです。それが写真です。ご覧のとおり、安物の陶器にアバウトに革を張っただけのシロモノです。しかし意外に高めのピッチで悪くなく、それに関心を見せたのがいけなかった。
「どこから来た?日本?遠い国だな。10ドルでいいよ」とわけがわからない。「高い」「そんなことはない、お買い得だ」「いらん」「OK、じゃあいくらなら買うんだ?」手慣れたもんです。隣で家内が「そんなのスイスにどうやって持って帰るのよ、やめときなさい」と怒ってるし、断わるつもりで適当に「2ドル」と言ったらオヤジはがっかりの表情になり、「Jokin’!」とか何とかぐちゃぐちゃ文句を言いはじめた。そして数秒後にあっさりとまさかの2ドルになったのです。しまった、1ドルだったかと思ったが、そういう問題ではなかった。1週間のクルーズで荷物が山ほどあるうえに幼い子供が3人もいて、そこで結構デカいこいつをかかえて帰らざるを得なくなって、あきれた家内の非難ごうごうとあいなったのでした。でも、こんなもん日本で売ってないだろうし買う馬鹿もいないだろうし、今や愛着すらあって家宝に指定したいとすら思ってます。
こいつのお陰で楽しみができたという恩義もあります。脇に置いてムードを出しながら、地中海地図を見て古代オリエント世界を空想するのです。格好のエネルギーチャージであり、ストレス解消でもあります。大陸側のポルトガル、スペイン、フランス、イタリアの要所は車で、主な島とエーゲ海、アドリア海は2度のクルーズで、アフリカ側はモロッコ、そして今回のチュニジアへ行っており、空想はそこそこリアル感があります。
1年ほど前ですが、家でそういう事を話していたんでしょう、娘たちが3度目をプレゼントするよと言ってくれ喜んでいたのです。そうしたらクルーズ船は横浜のことがあって危ない存在になってしまった。困ったもんです。何故なら、数えきれないほど海外で旅行をして一部は行ったことさえ忘れてるのですが、ベスト1,2位は32才、41才で家族を連れて行った2度の地中海クルーズだった。はっきりと細かいことまで覚えてるのはあれしかないぐらい楽しかったからです。
「チュニジアの夜」をききながら決めました。もう一度行くぞ、マスクをして。
(おすすめ)
地中海にまつわるクラシック音楽はこちらにまとめました。音で旅行できますのでごゆっくりお楽しみください。
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佳境に入ったクラシック音楽との付き合い
2020 OCT 9 18:18:08 pm by 東 賢太郎
マーラーの2番「復活」だけ指揮するアマチュアのギルバート・ キャプラン氏にならって、プロの指揮者に1曲だけ習ってやってみたいと思ったことがあります。米国の実業家キャプランは「復活」マニアでした。子息が亡き父のオフィスを整理していたところ、埃をかぶった箱から偶然に出てきたのがこのフィルムだったそうです。初めて振った「復活」です。
この曲だけとはいえ、ロンドン響、ウィーン・フィルを含む世界の75のオーケストラで振っている。音楽の教育は受けなかったが、客観的に見ても才能があったということでしょう。しかし僕が特筆したいのはそれ以前にビジネスの才があったことです。ざっくり書きますと、ニューヨーク大学法学部を出て1963年にアメリカ証券取引所のエコノミストになります。給料は1万5千ドルでした。4年後にインスティテューショナル・インベスターズ誌を創業して主筆をつとめ、17年後に同社株を$75milで売った。当時の為替レートで170億円です。
こういうことができるのが資本主義です。ウォートンスクールの学生のころ、バーで同級生のアメリカ人はみんなわいわいこういう話をしてました。40才でウォールストリートの仕事を辞めて何をしたいかと、お前の夢は何かと。大会社で出世したいなんてのは一人もいない。会社は作るもの、 It’s you. 、おまえ自身だぜ。ビジネススクールはそういう連中の集まりで、そういわれたとき、自分の中でばりばりと何かが崩れました。替え玉受験説はあるが若きドナルド・トランプもそうやってあのあたりのバーで口角泡を飛ばしていたに違いない。 キャプランは音楽界では “an amateur conductor of Mahler’s Symphony No. 2.”(マーラー2番専門のアマチュア指揮者)ですが、ビジネス界ではまさにそうやって夢をつかんだ男、アメリカンドリームを体現した男なのです。
カネで何でもできるのもアメリカだろうという人もいますが、野球好きのおっさんが甲子園球場を借りて夢をかなえるみたいな話とは次元が違います。その理由は下のビデオで明らかにされますが、マーラーの自筆譜を購入して研究に研究を重ね、楽譜が読めないハンディは全部を耳で暗記してスコアなしで振ることで克服しています。棒の振り方を習ったのは40才です。「ワルターやバーンスタインやショルティの録音が残る中であなたが指揮する意味は何か?」と問うインタビュアーに「私は誰より2番を、マーラーを知っているからです」と述べる半端でない没入と情熱と知識と自信が世界中のプロの演奏家を動かしたように思います。
彼は25才までこの曲を聴いたことがなく、カーネギーホールでやるストコフスキーのリハーサルに招かれて初めて知ります。本番を聴いたその夜、旋律が脳裏にまつわりついて眠れなかったと語っています。知的で冷静に見える人ですが、ハートが熱い。本人の口から想いをきくとびしびし心に刺さってきます。
そういうことを自分もやってみたいと思ったのは38か9のころ、フランクフルトにいた時です。娘のピアノの先生がいい人を紹介してあげるわよということになって、習おうかなと傾きかけました。だけどやらなかった。自信がない、仕事が忙しい、そういうものに負けてしまった。じゃあ今やるかというと、もうあの時の情熱も記憶力もありません。アメリカには難病で生きられないかもしれない子供の夢を寄付でかなえてあげる Make-a-wish というNPOがありますが、本気でやるならオトナの夢も叶えてあげようという文化的な土壌もあります。日本で既にプロだったイチローでも、これだけ打ったのは凄いじゃないか、新人王にして讃えてやろうという寛大さ。日本にはないですね、そういう問題もあります。難しいでしょう。
トーマス・ビーチャムみたいにマイ・オーケストラを作る手もあります。でもプロ・オケさえ財政難の世で到底資金が続きません。仮に資金があっても、アートはそういうものではない。ビーチャムの楽団への情熱が持てるか、キャプランの復活への愛があるかという事です。それなくして誰も真剣についてこないでしょう。ちなみにキャプランは、ワルターもバーンスタインもショルティもそうであるようにユダヤ系と思われます。彼らにはマーラーへの心的、スピリチュアルなつながりを自らが信じられる何かが有ります。同じ民族だから共振できるのかルサンチマンなのか僕には知るすべがありませんが、メンデルスゾーン3番の稿で主題にしたとても深いことで、わかる方はわかるでしょう。作曲家と交信、共振できたから皆がついてきた。うらやましいことです。
僕はドイツにいてドイツ語さえままならない自分がどうしてモーツァルトを理解できるのかと感じてしまった。困ったものです。バッハもベートーベンもブルックナーも、みんな遠ざかってしまいました。日本語世界で理解していた彼らとはおよそ程遠い人間だということを知ってしまった気がしたのです。みんな同じ人間だ、音楽はその共通語である。これは20世紀のアメリカ人が作ったマーケティングコンセプトです。19世紀以前の人間にそんな概念があろうはずがありません。モーツァルトは、「こういうパッセージを入れればパリでうける」と父親宛の手紙に書いている。ヨーロッパの中ですら文化はローカル色豊かであったのであり、アメリカ人はそこからハンバーガーをみつけだし、マーケティングという手法で国中で同じものを食べさせて膨大な売り上げを作り出すことに成功したのです。
クラシック音楽でなぜそれが必要だったかというと、ナチスのころ大勢のユダヤ系音楽家が亡命してきたからです。知識人には歓迎された。しかし大衆に売れないと彼らは食っていけませんからビジネスする必要があった。ロス・フィルに雇われたクレンペラーは悲愴交響曲を盛り上げて第3楽章で終わらせてくれとマネージャーに頼まれてます。そんな田舎者に音楽は「共通語」だなどとクレンペラーが思ったはずもなく、啓蒙しようという意欲もなかった。うまいこと妥協できてスターダムに登ったトスカニーニは忖度でスーザまで録音し、常識的にはイタリア人に頼まないだろうベートーベンsym全集や、ヒットラーの臭いがするが売れそうなワーグナーも、ドイツ人でない男ならという事でオハコにできた。田舎者に一切の妥協もせず極貧に陥ったバルトークは、クーセヴィツキーの手管でボストン響の委嘱という形をもって「アメリカ人でもわかる」オケコンを書いたのです。共産主義や資本主義という政治とアートの相克はソ連だけと思ったら大間違い、アメリカにも生々しくありました。
そういう事ですからアメリカ人にとってドイツの音楽は良くも悪くも特別なものでした。それは敵国、ユダヤ人問題という要因を論じる以前に、がっちりと胡桃のように固いドイッチェランド(Deutschland)なるものが英米(アングロサクソン)とは本質的に異質だという事に発しています。このことは、日本通の英国人が日本について持っているイメージと通じるものがある。韓国、中国と違うのはそれだと見抜いています。日本人とドイツ人に似たものはかけらもありませんが、総合的、俯瞰的に似たものがあるとするならそれでしょう。僕は16年の海外生活でずっと英語で仕事をしましたが、ドイツだけは公私ともにどうもうまくいかなかった。あの3年はやっぱり自分の中でばりばりと何かを崩したのです。ここでは書きませんが、哲学もプロテスタントも印刷術も科学技術もグリム童話もナチス党も混浴風呂も、なぜあの国で出てきたか確固たる理由がある。したがって、同様に、音楽にもあるのです。
アメリカでマーラーはドイツ語を話すユダヤ人の音楽であり、ニューヨーク・フィルを率いた指揮者の音楽でもある。しかしクレンペラーは「マーラーがどんな人であるかを認識した人は(ニューヨークに)誰もいなかった」と述べ、「アメリカで何が一番気に入ったか」と尋ねるとマーラーは「ベートーベンの田園交響曲を指揮したことだね」と答えたそうです。ここはさすがに悲愴交響曲を知らない西海岸とは違うとも考えられますが、田園がああいう風に終わることを独墺の客は知っていてニューヨーカーは知らなかった、ないしは、本場の大先生が振るものは何でも有難がって聴いたとも考えられます。どちらにせよ彼は自由にオケを使えました。その彼の交響曲を半世紀後のユダヤ系指揮者が次々と十八番にし、ユダヤ資本のレコード会社が商売ネタにして広まりました。カトリックのブルックナーはそれがありません。日本人の朝比奈がシカゴで振ってうける土壌がないのです。僕を含め日本人は彼らの宗教を知りませんからクラシックは高級なエンタメの一部門であり、いわば料理界のフレンチであり、カレーとラーメンで済む人には縁がありません。改宗することもないので僕はカトリック、プロテスタントを「お勉強」することで、カレーもラーメンも好きだけど同じ土俵でフレンチもいいねという付き合いになってます。
だからあれ以来僕はモーツァルトはエンタメとしてつき合うことになりました。ドイツ語を母国語としないアメリカ人のドン・ジョヴァンニを日本人がエンタメとして楽しむ。何国人が作ろうとフレンチは上等であれば美味なのだからそれはそれで結構。楽譜を音にしてもらわないといけない以上は格別に技量が高いシカゴ響にお願いしたいと思うし、そこにモーツァルトが意図してない喜びを発見する余地はあるでしょう。しかし、その姿勢でどんどん遊離して行ってフレンチにワサビが入ったり寿司でアヴォガドを巻いたりするヌーベルなんたらという流れ、僕はあれはまったく受け付けません。食とアートは別物ですが、創造者にリスペクトのないものは型破りでなく型なしです。そういう思想の持ち主なので、エンタメ国アメリカの人間であるキャプランが2番の自筆譜をめくりながら、まるで霊的なオーラがあるかのごとくマーラーという人間を感じ取るビデオの場面は、本当にそれができたかどうかはともかく、演奏家の姿勢としては畏敬を覚えます。だからロンドンでもストックホルムでもウィーンでも、敬意を持って迎えられたのでしょう。
この楽譜に忠実にという姿勢はもちろん日本の音大でもあるでしょうが、聖書が絶対という姿勢に通じるものがあって、単なるテキストは大事にという程度のものでない。宗教的なものがあります。ユダヤ教、イスラム教が聖書に厳格なのは周知でしょう。カトリックでは離婚ができないから英国国教会ができてしまう。プロテスタントも福音派が進化論(=科学)は認めないし、コロナに罹患しようとマスクはしないのです。どれも仏教徒の理解をはるかに超えるものです。作曲家のスコアが聖典であるという原理。キャプランはそれに従い、聖典に対する深い情熱が人々の心を動かしたということです。思い出しますが、韓国人のH.J.リムという女性ピアニストが12才でパリに留学し、感ずるものがあり、ベートーベンの伝記や書簡など手当たり次第に読んだそうです。そこで彼女なりの作曲家の人間像ができ、ソナタをベートーベンの人生の局面局面のカテゴリーごとに分類し、全曲録音した。まったくもって彼女の主観であり本当にそうかどうか学問的にはわからない。しかし誰も反論できないのも事実であり、学問的に知りうる範囲で忠実にやりましたなんて安全運転の演奏よりずっと面白いのです。そう思う人は彼女にリスペクトを持ちます。もっと勉強しなさいなんて書いた日本の音楽評論家がいる。こういう馬鹿な人がクラシックを滅ぼしているのです。
異国人、異教徒の音楽ではありますが、彼女のアプローチは世界で堂々と通用するでしょう。キャプランの手法に通じるものがあるからです。まず作曲家の人間を深く知る。知識だけでなく感性でも霊感でも動員して。そこで初めて記号にすぎない楽譜の行間が読める。資料が乏しいバッハのような人物でも、アプローチのメソッドとして一貫してそうすべきなのです。そういうことは教科書に書いてないし先生に教わるものでもない。自分で体感し創造するものです。アカデミックに正しい古楽器の選択をという博物館長みたいな道よりよほど重要です。演奏する人にその曲、その作曲家への没入と情熱と知識と自信なくして聴衆に何のメッセージが伝わるでしょう?コンテンツの貧弱なプレゼンでは、どんなに構成が巧みだろうと英語の発音が良かろうと、絶対にビジネスはできません。僕にとって異国人のモーツァルトという人間は充分にはわかりかねますが、文字という理性で書かれた手紙はわかる。理性は万国共通です。そこで共通するものを発見して喜ぶ。たぶんリムさんも同じと思います。それだけで演奏できるとは思いませんが、共感する演奏の背景に奏者のそうした同化があるなということぐらいは感じ取れるのです。
クラシック音楽との付き合いという事を考えてきて65才になっています。キャプランのような能も財もありません。相当遅れてしまったけれど、この先にアメリカンドリームがあるんだろうか。自分はどういう人間で、本当は何がやりたかったんだろう?仕事はそれのためにやるもので、仕事がそれというのも寂しい。でも、それを取ったら何も残らない程度の人間である気もします。こういうとき、いつもそうだったのですが、偶然に誰か運命的な人の影響でバーンと景色が変わる。そういうことがまたあるんだろうか。たぶんそれはもうレールが敷かれていて、あるのかないのか、わからないのです。
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メンデルスゾーン 交響曲第3番イ短調作品56「スコットランド」
2020 SEP 29 1:01:55 am by 東 賢太郎
秋になるとききたくなる名品のひとつがメンデルスゾーンのスコットランド交響曲です。我が国では彼というと真夏の夜の夢、フィンガルの洞窟、2つの交響曲(イタリア、スコットランド)が浮かび、絵まで画くものだから音の風景画家のように見られます。絶対音楽の方が上等だと信じていた僕も長らくそうでした。しかし、コロナ禍で外出に不自由し、遅く始まった夏があっけなく秋になっていた今年になって、彼の交響曲第3番がえらく心にしみるのです。秋にふさわしい曲だなあとは思ってましたが、なんだか今年は特別だ。ずっと頭の中で鳴りつづけ、異例の年のストレスを食ってくれてる感じがします。こういうものが単なる風景画であろうはずはない。それが本稿になっています。
自作を指揮するためにロンドンを訪れた彼がエジンバラへ足をのばしたのはバッハのマタイ受難曲をライプツィヒで蘇演して評判を得た年(1829年)のことでした。デビュー公演は大成功でした。ヘンデル、ハイドンとドイツで実績のある音楽家は市民に人気があるためザロモンのような興行師に需要があり、フィルハーモニック協会の委嘱で第9交響曲を書いたベートーベンが2年前に亡くなったばかりであることを考えるとロンドンの音楽界が弱冠20才で前途洋々の青年にそそいだ視線は熱いものがあったでしょう。彼もその英国を愛して人生に計10回の訪英をすることにはなりますが、この時、友人の外交官カール・クリンゲマンといっしょに息ぬきのスコットランドに観光旅行に行ってしまったようにあんまり熱は感じないのです。
それはカントにも影響を残した有名なユダヤ人哲学者モーゼス・メンデルスゾーンの孫であり、富豪の銀行家の息子という超セレブだったから他の作曲家と違う、金にも名誉にも欲が薄かったのだと説明されてしまうのが普通なのですが、それだけでしょうか。彼のスコットランド観光はそれなりの目的があったのではないでしょうか。僕は彼が若くして文学に造詣が深く、10代でシェークスピアの「真夏の夜の夢」を題材に作曲していたことに鍵があるのではないかと見ます。ユダヤ人であり最も忌み嫌われた金貸しの息子であるという人生は、現代のセレブのボンボンとは比較にならない重たい十字架を背負ったものではなかったかという推察に至るのです。
まさにこの旅の直前、ライプツィヒでバッハのマタイ受難曲を編曲、蘇演した折に「世界で最も偉大なキリスト教音楽をユダヤ人が復興させた」と評され、対して彼は「キリスト教徒の最も偉大な音楽を世界に蘇らせるには、俳優とユダヤ人の息子が必要だったということになりますね」と答えたことに逆説的なヒントを見ます。一家はプロテスタントに改宗しており彼はルーテル教会で洗礼を受け敬虔なキリスト教徒として育ちましたが、ユダヤ教からキリスト教に改宗した意味合いがある「バルトルディ」という名前を嫌いました。マタイ蘇演という大貢献をしてもキリスト教徒に認められない失望、自身がユダヤ人という誇りを持っていたというアンビバレントな深層心理が十字架だったのではないでしょうか
「ユダヤ人の金貸し」。誰もが思い浮かべる名はシャイロックでしょう。シェークスピアはヘンリー8世の次女エリザベス1世の時代に活躍しました。侍医だったユダヤ系ポルトガル人のロデリゴ・ロペスが1594年に女王の毒殺を図ったかどで処刑された「ロペス事件」は『ヴェニスの商人』に投影され、シャイロックのモデルはロペスと言われています。国家統一事業の完成を目指すスペインは「カトリックによる宗教統一」を成就させるためにユダヤ人追放に乗り出し、キリスト教に改宗した「隠れユダヤ人狩り」が始まります。彼らはポルトガルに逃れ、カトリック、スペインと敵対するヘンリー8世が隠れユダヤ人を「王室の奉仕者」として積極的に雇用したのに乗じて英国に流れます。その出世頭がロペスだったのです。
メンデルスゾーンはユダヤの出自を公言しましたが、ファミリーは隠れユダヤ人として生きることを志向していました。彼は女王エリザベス1世のイングランドにどんな感情を持っていたでしょう。ロペス事件は実は濡れ衣で、スペインに対する英国民の敵愾心を煽り立てるために宮廷内の主戦派によって捏造され、そこに古来より英国にあったユダヤ人排斥思想がスパイスとして乗せられた。だからロペスだったのだという説は真偽不明のようですが、『ヴェニスの商人』はシェークスピアがその不条理に反駁しユダヤ人の思いを代弁するために書いたという別の説の方は、事件の2年後に書かれたのだから可能性はあるのではないでしょうか。メンデルスゾーンが少年時代からシェークスピアにシンパシーを持ち「真夏の世の夢」を書いてもおかしくないと思うのです。
さて、そのエリザベス1世が処刑したのがスコットランド女王のメアリー・ステュアートです。1587年でした。前者はヘンリー8世の娘、後者はヘンリー8世の姉の孫という血を血で洗う権力闘争です。発端はメアリーが秘書ダヴィド・リッチオを間男にし、怒った王が彼を宮殿内で惨殺したことです。ところがその後に王も不審死を遂げ、メアリーは殺害の首謀者と噂された男と結婚したために国民から不人気となりイングランドに亡命しますが、イングランドの王位継承権を口にする。それがまずかったのです。ところで、文学素人の素朴な疑問ですが、こんなに刺激的な事件をどうしてシェークスピアは戯曲にしなかったのだろう。書けなかったのでしょうか、事が大きすぎて。その7年後にロペス事件が起こります。
メンデルスゾーンは初めてのエジンバラで「何もかもいかめしく頑健で、街は半ば薄煙か霧の中のようだ」、「(バグパイプの音楽は)悪名高い野卑で調子はずれのクズである」と書いています。あんまり気に入っていない。私見では、そんな彼が目的を持って訪問し、インスパイアされたのはスコットランド女王メアリー・ステュアートが居城としたホリールード宮殿であり、彼女の凄惨な運命であり、死刑を執行したエリザベス1世であり、自ら十字架を背負う隠れユダヤ人の問題だったロペス事件であり、それをオブラートに包んで世に問うた『ヴェニスの商人』、つまり、シェークスピアだったのだと思います。彼はホリールード宮殿で、秘書ダヴィド・リッチオが57か所のめった刺しで惨殺された部屋を訪れています。
そして、彼はホリールード宮殿の隣りにある寺院の廃墟にたたずみます。「すべてが壊れ、崩れかかり、明るい空が光っている。今日この古い寺院で私はスコットランド交響曲の冒頭を思いついていた」と、後に交響曲の出だしのテーマとなる10小節を書き留めた。
この交響曲を着想した翌年に彼はイタリアを訪れて作曲を続けますが、「スコットランドの霧がかかった雰囲気を想起するのが難しい」と中断し、完成に13年を要しました。その間に書いたのが第4番のイタリア交響曲ですが、これも改定を重ね、特に終楽章は気に入らず書き直す計画のまま亡くなりました。それが現行版です。想像になりますが、長調で始まり同主短調で終わるのがどうかという問題提起が心にあったのではないでしょうか。
一方、完成させた最後の交響曲である3番のスコットランドも、曲想のまま進めば終楽章はイ短調で終わるのが自然に思うのです。ところが、彼は最後を締めくくる部分にまったく新しい素材としてイ長調のエピソードをコーダとして入れています。若い頃に初めて聴いた時から、僕はこの終結がどうにもしっくりきませんでした。
後に歴史を勉強し直して、本稿に縷々書いてきたことを学び、最後は彼の心の十字架に思い当たりました。その彼ならば、このハッピーエンドはあり得ないと思うのです。
つまり、僕の心の矛盾を解くにはこう考えるしかない。20才の迷える心を持った青年だった彼は短調で終わらせたろうが、33才になってライプツィヒ音楽院まで創設しようという大御所になった、ユダヤ人であることなどものともせずに生きて行けるようになった彼は聴衆を喜ばせることを考えたということです。メンデルスゾーンは7度目のイギリス訪問を果たした1842年にロンドンで初演し、バッキンガム宮殿でヴィクトリア女王に謁見した際にこの曲を女王に献呈する許可を得ました。献辞付きの楽譜が翌1843年に出版されています。イ長調部分は英国王室への敬意を表す「エンブレム」だったと僕は考えるのです。
だいぶ後になって、恐らく同じことを考えた指揮者がいることを知りました。やはりユダヤ人のオットー・クレンペラーです。彼がフィルハーモニア管を振った幻想味と重量感のあるEMI盤を僕はずっと愛聴していますが、イ長調部分の聞きなれない遅さはmaestosoではあってもallegro assaiではありません。このテンポは、僕と同じことを感じている彼が苦渋の解決策として採ったものと思います。
さらに後になって、驚いたことに、クレンペラーは別な演奏で、問題のイ長調部分をばっさり切り捨ててイ短調で静かに終わらせていることを知りました。これを皆さんはどう考えるでしょうか?
僕は基本的に演奏家によるスコア改変には否定的です。改変どころか切ってしまうというのはもはや編曲であります。しかし、僕はこのことを知ってクレンペラーに心からの深い敬意を感じるのです。彼はスコアを、表面づらの音符だけでなく、作曲者の心の背景を奥底まで読み取っていると思います。イ長調をクレンペラー並みに遅めのテンポを取ったのはコンヴィチュニーです。これも慧眼と思う演奏です。しかし、ほとんどの指揮者はいよいよコーダだとばかりにそれより3割も速いテンポで疾走し、ひどいのになるとミュンシュのように最後にアッチェレランドまでする。
困るのは、これを挿入した作曲家の意図からすればカラヤンやミュンシュを一刀両断にはできないことです。だからクレンペラーは切ってしまった。作曲家が書いたわけではないが、彼のイマジネーションで20才の「初版」を作ったのです。まあやりすぎです。でも気持ちは100%わかる。涙が出るほど感動してます。もちろん付け焼刃の思い付きではありません、メンデルスゾーンに対する深い愛情です。ユダヤ人の十字架を知る者の。彼亡き後、こんなことができる指揮者がどこにいるでしょう?
その演奏、バイエルン放送交響楽団を1969年に振ったものです。
もうひとつ、僕が好きなのはペーター・マークです。彼がロンドン響を振ったDecca盤は長らく人気を保っていますが、若い頃で少し熱がありすぎる。ややクールに暗い部分にも意を用いたマドリッド交響楽団との演奏は中々です。コーダのイ長調も、ぎりぎり速くないテンポで抑えており指揮者の良識が感じられますね。ヘンリー8世、エリザベス1世に敵対したスペインのオーケストラの人たちが3番をどういう気持で演奏したのか?音楽はヨーロッパの歴史の一断面です。面白いものだと思います。
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僕の愛聴盤(2)
2020 SEP 27 13:13:23 pm by 東 賢太郎
チェルミナーロ氏のビデオ。
次に、やはり1度目にこう書いてくださったSacred Tarot氏。
Nobody conducted Daphnis et Chloe like Boulez. I was lucky enough to hear him conduct it twice in concert, first with The London Symphony Orchestra and London Philharmonic Choir, and secondly with the BBC Symphony Orchestra, Chorus and Singers. I remember reading an interview with him where he was asked about his career highlights. The first he mentioned was making this recording with the New York Philharmonic. If I could only have one recording of Daphnis; my favourite piece of music, it would without question be this one .
インタビューで「ご自身の(指揮者としての)キャリアの頂点は?」と尋ねられたブーレーズは、「複数あるがニューヨーク・フィルとのダフニス録音の頃がその最初のものだ」と答えたとある。「ダフニスを彼のように振れる者は他にいない」Tarot氏のご説に同感だ。ちなみに、僕の「最高のダフニス」は94年にブーレーズがベルリン・フィルを振ったものだ。彼の顔を右横から見おろす位置の席で、同年のカルロス・クライバーのブラームス4番のちょうど反対側だった。あんまり良い席ではなかったがオケのすべての音を味わい尽くした、というのはフィールハーモニーが音響のよいホールであることもあったが、なにより演奏の質が、もしライブ録音したらCBS盤に遜色ないほど細部にわたって ”完璧” だったからだ。
今になってその理由がわかったように思う。チェルミナーロ氏のようなワールドクラスの凄腕プレーヤー達がブーレーズの耳と指揮に心服し、しかも録音が商業的に成功してしまうことを知っていたからモチベーションも高かったのだろう。「ミスしない」ことのプライドを氏はコストにひっかけて説明され、プロだから当然と思われてしまうかもしれないが、一流二流の差はミスしないことだと僕は思う。スポーツでも将棋でも料理でも受験でも仕事でも、「ワタシ失敗しないので」の外科医でもなんでもそうだ。106人の一流奏者がその緊張感とモチベーションでやれば立派な成果は自ずとついてくるだろう。心の底から深い満足と興奮を得たのが忘れ難い。残念ながら、あれが人生ベストになるだろう。
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僕の愛聴盤(1)
2020 SEP 26 0:00:36 am by 東 賢太郎
youtubeに我が愛聴盤を載せています。趣味の違う方も多いでしょうが、時折、それが一致していそうなコメントをいただきます。世界中のそういう方と巡り合う旅はとても楽しいものですね、よくぞわかって下さった!と快哉を叫びたくなるものもございます。これから少しづつ転載させていただきますので、ぜひ皆様ご自身の感じ方と比べてみてください。
①ドヴォルザーク交響曲第7番(ハインツ・ボンガルツ / ドレスデンPO)
Eric Zuesse氏
the greatest-ever recorded performance of this masterpiece from Dvorak. It’s one of the two best recorded performances by Bongartz, the other being the Bruckner 6th.
②プロコフィエフ ヴァイオリン協奏曲第1番(ルッジェーロ・リッチ / ルイ・フレモー / ルクセンブルグ放送SO)
Alex Saldarriaga氏
One of the most innovative and unique interpretations of this work that I’ve ever heard. The interplay between violin and orchestra was exemplary. Ricci captures the hypnotic, dreamlike character of this work. And the incisive use of his bow bordered on the miraculous. He truly is a wizard and his delivery of this concerto is a work of sorcery.
③ベートーベン交響曲第4番 (ミヒャエル・ギーレン / 南西ドイツ放送SO)
qi zhaiteng氏
迷ったらギーレン先生に聴け。回答はそこにある。贅肉を削ぎ落とした知的な清貧さこそギーレン先生の本領だった。 If you get lost, listen to maestro Gielens masterpiece. The answer is there. The intellectual poverty that cut off the luxurious meat was the essence of Geelen.
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クラシック徒然草《カルメンの和声の秘密》
2020 SEP 22 14:14:39 pm by 東 賢太郎
前稿で1分で終わる「NTVスポーツ行進曲」のインパクトについて書きました。しかし、それをいうならこれを書かないわけにはまいりません。カルメン前奏曲です。主部はたった2分ですが、万人をノックアウトする物凄さ。僕はこれを中学の音楽の授業できいて「クラシックはすごい!」と衝撃を受け、この道にのめりこんだのです(もりや先生ありがとうございます)。
まずは聴きましょう。
この前奏曲にはベンチャーズやビートルズしか知らない耳には奇異に聞こえる部分がありました。そのころまだピアノが弾けません。ギター(これはマスターしていた)でさらうと考えられないコードが鳴っているのです。囲いの部分です。
中学生の僕に楽譜は読めません。しかしポップスのコード進行ならいくら珍品のビートルズのIf I FellやI Am The Walrusでも、Hard Day’s Nightの始めのジャ~ンも難なく耳で書き取れたので結構上級者だったでしょう。なぜならギターを通じて「バスを聴け」の大原則を発見していたからです。これは今でも音楽鑑賞に耳コピに、絶大な威力を発揮しています。ご興味ある方はこちらのレッスンをやってみてください(音楽の訓練を受けてなくても誰でもできます)。
ところが、無敵なはずの大原則がカルメン前奏曲には通じなかった。当時の僕は「うぬぬ、おぬしやるな・・・」と固まってしまうしかすべがなかったのです。イ長調の主題がそのまま4度上のニ長調になり、たった3拍でイ長調に戻す部分なのですが、トロンボーンとバスーンでよく聞こえるバスがいけない、奇矯だ、と思うのはコンマ何秒のことで、あっと驚く間もなく E7 になって、なに驚いてんの?とあざ笑うように A (ニ長調)に復帰してブンチャカ始まっているのです。野球をしていて「手が出なかった見逃し三振」というのは最高に悔しいのですが、ここは、140キロぐらい速い上にググっと予想外の変化もして「ストライク!」と言われる感じがする。気になって眠れません。
このおかげ、悔しさのおかげで、僕は楽譜が読めるようになったのです。
そこで何が起こったかというと、「どうしてだろう?この『変だ』という感覚はどこから来てるんだろう」と即物的に解明を試みたわけです。そこで実験道具である楽譜を買います。対象部位を特定します。バスが d → g#→c#と動くことをつきとめます。『変だ』の理由を探します。わかりました。d → g#が増四度だからが解答でした。こんなのポップスには出てこない「見たことない球」だったのです。g#→c#のほうは完全4度のあったりまえのもので、急にぎゅんと曲がってあとはまっすぐという変化球です。
となると、打席で「うわっ」とびっくりして手が出なかったのは g#に乗ってる和音だ、こいつが曲者だったとロジカルに追い詰めることができるのです。
正体見たり。こいつはワーグナーやブルックナーによく出てくる “g#,h,d,f#” で E9 のバス e を取って g#に置換したもの。コード記号で簡略に書くとD⇒C#⇒E⇒Aでイ長調に帰る。Dを半音下げるのはまことに強引で、そこで間に緩衝材としてこの和音をはさんでいます。 Bm6 とも書けてしまうがそのおまけの 6 (g#)がバスに来てしまってトロンボーンとバスーンで我が物顔に鳴るから Bm6 とは別物の倍音を撒き散らしている、つまり、ビゼーはこれを「たった3拍でイ長調に戻す」舞台回しの大トリックの要諦としたと思います。その証拠は上掲のピアノ譜にありますので解説します。よ~くご覧ください。
これはビゼー自身の編曲ですが、この増四度を変だと聞いてしまう僕のような輩がいることを危惧し、イ長調が元々の設定なのだから本来は書く必要ない # をわざわざ g につけているのです。一瞬の浮気で転調しているニ長調は g に#はない。きっとアホな演奏者がいるだろうなあ、♮されかねないなあ、この#が本妻のイ長調復帰の狼煙になるんだよなあ・・。彼は初演直前になって「アタシ、カルメンよ、ちょっとぉ、こんな歌ばっかりじゃ見せどころないじゃないのよぉ」とごねるくそうるさいプリマドンナに13回も書き直しを余儀なくされ、イラディエルのハバネラ《 El Arreglito》なる作品をぱくって「ハバネラ(恋は野の鳥)」を書いてやりました(民謡と思っていたらしい)。そんなおおおらかな時代だから変位記号の見落としなんて平気にあったろうし、彼がマーラーやチャイコフスキーに並ぶ完全主義のmeticulous(超こまかい)人間であったことをうかがわせます。まあmeticulousでない大作曲家はいませんが。
後にカルメンは全曲が肌から浸みこみ、もはや血管を流れるに至っています。ぜんぶ音を諳んじているオペラはほかには魔笛とボエームしかありません。そこに至って、和声のマジックはここだけではないことがわかってきました。例えばジプシーの歌です。これは実に凄い。和声の万華鏡である。お聞きください。
余談ですがこのメッツォ、ギリシャ人のアグネス・バルツァですが、このプロダクションはメット(レヴァイン)とチューリヒ歌劇場(フリューベック・デ・ブルゴス)で観て強烈な演技と妖艶さに圧倒され、もう誰のを観ても物足りなくなってしまったのは困ったものです。
驚くのはここ、ラーラーラーラララララーです。
バスはずっとe (オスティナート)で、Eaug、A、D#、E、C#、F#m、B7となるのです。このビゼー版は C# のファ音が入ってないのが不思議ですが、僕がテキストにして
いる Schirmer Opera Score Edition (左)では入れてます。こういうところ、ビゼー版は一筆書きの風情で声部が薄いのでバスと短9度(または短2度)でぶつかるファは略したのか、あんまり気にせず勢いにまかせてスイスイ書いたのか。頭ではファが鳴っていたわけですね、なぜならオーケストラ・スコアでは第2ヴァイオリンがミ#を、チェロがファ♮を弾いているからです。ともあれ、この部分のコード・プログレッション、頭がくらくらします。バルツァのラーラーラーも男を酔わせて三半規管を狂わせますが、それ以前に彼の書いた尋常じゃない音符にくらくらの秘密があるのです。
例えば、出だしは並みの作曲家なら E なんです。ところがビゼーは曲の頭なのにシを半音上げてド(増三和音)にしちゃうわけです。なんという効果だろう!不条理に生きる女、カルメンの妖しい色香が匂い立ってくるではないですか。降参。このスコアはどこを弾いてもかような感じで唸るしかないのですが、前奏曲とこれはとりわけカタルシスが得られます。麻薬です。モーツァルト級の天才であったビゼーはこれを書いて36才で心臓発作であっけなく死んじまったのでなんだか一発屋みたいに見えますが、とんでもない。音楽史を俯瞰すると、ある日突然にぽこんと突然変異のように “あり得ない作品” が生まれるのですが、これはそうでしょう。まあ野球なら王、長嶋、金田、イチローみたいなもん。この人たち図抜けすぎていて「2世」といわれる存在が出てきませんが、魔笛、エロイカ、トリスタン、春の祭典もないのです。カルメンも後継がないですね、こういうオペラを作曲家なら誰だって書きたいはずだけど、やれば見え見えの猿真似になってしまうでしょうね。
ただし、ひとつだけ、アレキサンダー・ボロディンはカルメンを研究したかもしれないという仮説を書いておきます。猿真似にならんようにエキスだけ盗んだかもしれない。というのは、いろいろ発見があるんですが、例えばジプシーの歌を弾いていて、ある箇所がダッタン人の踊りの半音階和声進行に似ている(音というよりも指の動きがというのが深い)と思ったのです。オペラ「イーゴリ公」は未完で1887年の死の年まで書かれていました。カルメンのオペラコミークでの初演(1875年)は先進的すぎて成功しませんでしたが、同年のウィーン公演は当たりました。ワーグナーが称賛し、ブラームスは20回も観た(!)うえに「ビゼーを抱擁できるなら地の果てまででも行ってしまったろう」と言ったそうです(もう亡くなってたんですな。こういうところ好きだなあ、ブラームスさん)。その後数年のうちにロンドン、ニューヨーク、ザンクト・ペテルブルグなどで広く演奏され、全欧州で有名になったこのオペラをちょくちょくドイツ(イエナ大学など)に来ていたボロディンが聴かなかったと考えるのは無理があるでしょう。
ボロディンは交響曲第2番を1877年に完成しましたがその後もオーケストレーションなどを推敲しています。
この稿に、
このチャーミングなメロディーが10小節目でいきなり半音下がる!!こんな転調は聴いたこともなく、一本背負いを食らったほどすごい衝撃です。
と書きましたが、さきほど、
D⇒C#⇒E⇒Aでイ長調に帰る。Dを半音下げるのはまことに強引で・・・
と書いたわけです。そして、交響曲第2番を締めくくる一撃は、ジプシーの歌の最後のドカンそのものであるのです。お確かめください
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ラヴェル 舞踊音楽「ダフニスとクロエ」(全曲)(ピエール・ブーレーズ / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団)
1度目のアップですぐ、
「すばらしい!今日の朝食が何だったか忘れてる私が、40年前のこの録音のことははっきりと思い出せるのです」
とコメントを下さったのは、まさにこのダフニス録音で1番を吹いているニューヨーク・フィルの首席ホルン奏者、ジョン・チェルミナーロ氏(http://John Cerminaro – Wikipedia)だった。NYPOでラインスドルフ、メータ、ブーレーズ、後にロス・フィルに移籍してジュリーニ、プレヴィンの下で首席を務めた世界的奏者だ。
John Cerminaro氏
Fascinating! I can’t remember today’s breakfast, yet vividly recall this recording over 40 yrs. ago! It shot off the charts like a meteor, lots of awards (Grand Prix du Disque, etc.) & won Andrew Kazdin & CBS records “Best of Kind” status nearly overnight. One of my own joys: At $2.50 per second (w/106 musicians) i only needed one take for all the touchy stuff..the lonely opening solo at 1:06, or that 3-octave lip-slur to high-C at 13:99..notorious for multiple takes, but could see Pierre & Andy beaming in the booth during replays! One horn player can single-handedly carry a session into double-digit overtime. Even so, my luck held for all our 1970’s hit parade discs! Cheers to anyone left from the ol’ glory days! Ciao & shalom… JC
意訳
この40年前の録音は発表されてあっという間に流星みたいに数々の賞を総なめにしました。私が個人的に嬉しかったことですが、この曲はホルンに著名なソロの難所があり、撮り直しで10分以上も食うのがざらです。106人の奏者を雇っての録音経費は1秒で2ドル50セントもかかりますが、幸いに私は一発でうまくいき、ブースでリプレイを聴いていたブーレーズとカズディン(CBSのプロデューサー)が微笑んでいるのが見えました。私の幸運は70年代(訳者注・ブーレーズ時代である)のヒットパレードディスクの録音でずっと続いてくれました。