ディズニーの遊び心はアメリカ人の鏡
2025 OCT 8 2:02:06 am by 東 賢太郎
フィリーズがやられた。乗り込まれて2敗!フィラデルフィアはこの野郎と屈辱で真っ赤に燃えてるに違いない。かたやドジャースは佐々木朗希も出てきたし日本人さまさまだ。総理大臣は無名だがオータニサンは子供でも知ってる。
先週、ディズニー関係のディールでLAとオンライン会議をした。ちょうど大谷が1本目のホームランを打ったあたりだった。相手の社長に「ドジャースいけるんじゃないか?」とエールを送ったつもりが「俺はブルージェイズだぜ」ときた。カナダ出身か、知らなかった。この時期、アメリカで野球の話は微妙だ。
会社時代、ニューヨークのヘッドとそりが合わず常々この野郎と思ってて、もちろんこいつも僕が大嫌いであった。ところがフィリーズvsヤンキースのワールドシリーズで僕が応援してるのをどこで聞きつけたか「俺もフィリーだ」と電話してきて一気に仲良くなった(フィリーは「フィラデルフィア市民」の意味)。
かようにアメリカ人は野球に熱い。同社にニューヨークの日本企業対抗でお前の球を打ったという奴がいて、覚えてない、打ったんかときくといや一球も当たらなかった(笑)で一気に仲間だ。これがアメリカだ。僕はオバマ・バイデンの民主党が大嫌いである。しかし、カープファンだと言われたら危ない気もする。
そういえばディズニーランドが開業70年らしい。知らなかったが同い年だ。1977年、大学時代に初めて渡米してLAで真っ先に行った。うわー凄いとこ来ちゃった!とワクワク、ふわふわの丸2日間だった。よく考えると22歳だ。同期は就職活動だよ。浪人したからこんなところで遊びほけてて人生わからんね。
ディズニーの遊び心はアメリカ人の鏡だ。去年に東京のスペースマウンテンがクローズしたらしいが、このコースターは名品である。調べると、LAのオリジナルは1977年5月27日完成とあるから僕はオープン2か月後に乗ったことになる。たしかにこんな感じだった。
まあ日本の遊園地にこんなものを作る発想はないだろうね、技術はあったってね。そこだと思う、これから日本に大事なのは。ぶっ飛んだアイデアを良しとしないとAI時代は生き抜けない。ガリ勉して覚えたもんなんてみんなAIができちゃうからね。ただの秀才は失業。AIは遊ばねえ。だから大いに遊ぶことだよ。
政治家も役人も前例踏襲で、ちょっと尖ったこと言うと「いかがなものか!」だ。オールドメディアもね、化石人類だね。戦前みたいなこと言うなって左が右を批判するが、それ、どっちも「殿中でござる」の江戸時代なんだよ。それで行くんならトランプにやっぱり80兆円やめます、鎖国しますっていうんだね。
僕はアメリカ文化が嫌いじゃないが囲まれて生活したいわけじゃない。でも20代にそのシャワーを浴びといて良かった。何が出てきても驚かんし、どんな奇天烈だろうと良いものは良いという感性ができた。そういうアメリカ人にたくさん出会ったからね。原爆落としてこの野郎とは思ってるよ、でも目の前の人が落としたわけじゃないからね、外国人はお断りなんて主義主張は個人の自由だがそういうのは心の鎖国でね、自分のためにならないよ若い人は。
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祝オールドメディア勝利の祝勝会
2025 OCT 7 6:06:59 am by 東 賢太郎
2025年10月5日 22時49分(朝日新聞デジタル)
投開票を控えた3日夜、東京・赤坂の衆院議員宿舎の一室。勝利を確信していた小泉氏の陣営メンバーによる「祝勝会」が開かれていた。騒ぎを聞きつけた他陣営幹部は眉をひそめた。
僕の質問
「前夜に祝勝会して負けた世界の例は?」
ChatGPTの回答
「前夜に祝勝会をして負けた」という形そのものをドンピシャで表す歴史的・有名な例をすぐには挙げるのは難しいです・・・
凄い。世界史上初だ。歴史的な祝勝会に出たんだぞと子孫に自慢できますね。

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自民党総裁・高市早苗氏について
2025 OCT 6 1:01:22 am by 東 賢太郎
尊敬する政治家を一人だけあげるならマーガレット・サッチャーである
僕はここにそう書いた。5年前(2020年)のことだ。
これを書いたのは、サッチャー氏が女性であるからではない。氏の愛国心と強固な意思と知性と指揮執行した政策を6年勤めたロンドン時代にこの目でリアルタイムで観察し、国を護る本物の政治家というものに大いに感銘を受けたからであり、それに対する腐りきった自民党政治に辟易していたからである。
以下は我がブログ履歴でたどることが可能なのでご興味ある方は検索いただきたい。僕は第二次安倍政権の掲げた経済政策(アベノミクス)を支持していたことがわかる。東日本大震災に続く民主党政権の大失政で日経平均株価が7千円台と、見るもおぞましき歴史的低迷に陥った日本国の評価がその背景だ。2012年、政権発足とほぼ軌を一にしてSMCを立ち上げてブログ執筆に着手したのは期待もあったからだったと思う。
僕は安倍氏も含め、誰であれ政治家ではなく政策の支持者だ。奢りが出た政権末期~菅政権には一転して批判的だった。そして、安倍暗殺事件を契機に自民党は奇怪なる変質を遂げ、岸田、石破政権に至っては語るも無残、急転直下の左傾急旋回に至ったのである。僕は米中欧の極めて個人的な情報網アクセスを通じてビジネスをするバックグラウンドを持つ、日本にはない立場の人間だ(例えばその指示で一族郎党にワクチン厳禁令を出した)。「彼我」(あちらとこちら)なら「彼」が主なのだが、世界は残念ながらそう回っている。だから「我」のパーツにすぎない自民党が右に行こうが左に行こうが局地現象でしかない。
僕は自民党の岩盤保守でも何でもないが票を入れることは多々あった。しかし、グローバルに投資機会を探す業務の中で、左傾急旋回した自民党という政党は仮に誰に命じられようと全く関与する気のおきない場所に自らが行ってしまった。喩えるなら、それで半世紀近く飯を食っている僕の頭の中で警報が鳴り響き、「投資できない」と言っている。未来がない。即ち、この政党は滅びの道を行くという意味に他ならない。
高市氏についてはよく知らない。発言を聞く限り勉強家だ。一般論だが、勉強してない人は知的な判断を伴う仕事はできない。冷たいようだが、向かないのでなく、できない。学歴ではない。田中角栄の内閣総理大臣秘書官だった木内昭胤氏に直接聞いたら、畳の上に年賀状を千枚ならべて全部に自筆で一行コメントを書く驚異的記憶力の持主で東大出の役人が誰ひとりまったく歯が立たなかった。つまり、角栄だって・・と「小学校卒でも総理ができる」という一般論を引き出せるわけではぜんぜんなく、我々凡人は懸命に勉強するしかない。
日本もしばらくは欧州的な多党政治の時代になるだろう。とすると与野党の政策協議が常道となり、小泉政権なら裏で役所が省利省益で好きにやったろう。そこに民意を汲んだ高市総理大臣が立つ可能性が高い。これぞ民主主義、憲政の王道でなくて何だ。右だ左だと些末なことを言ってる議員や野党の党首や、オールドメディアが代弁者に使う学者や政治評論家のお歴々は、目下ぜんぶが国にとってどうでもいいという証明が為された。
僕は高市氏を尊敬する政治家はマーガレット・サッチャーだと明言している一点をもって評価する。それが「女性初」の意味なら即座に撤回するが、そうでないことを祈る。
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自民党と広島カープはとても似ている
2025 OCT 5 3:03:07 am by 東 賢太郎
カープは今年も弱かった。阪神は19勝6敗、最下位ヤクルトも15勝8敗と「お得意様」を超えて二軍のピッチャーでオッケーのレベル。村上の故障がなければぶっちぎりの最下位だった。
5位で今季を終えた新井監督がファンにあいさつした。
「変わろうとするとき、また新しい力が生まれるとき、必ず苦しみが生じます。来年以降もこの苦しみは続いていくと思います・・・」
ふつうは、ここで球場が「がんばれよー」と温かい拍手と声援につつまれる。オーナーも新井もその予定だったのだろう。ところがだ。マツダスタジアムはにわかにざわめき、怒号が飛び、新井は16秒間も沈黙してしまったのである。
もう時代は変わっている。
ファンが厳しくなったわけではない。ネットで他のファンの情報や意見を知って、目が肥えたのだ。勝って欲しいのだから何をやってるんだと怒りを覚えてくるのは自然である。
政治の世界でもそうだ。一般の有権者がこれまで知らなかった情報や意見をネットで知り、政治家や役人は何をやってるんだと怒り、デモや落選運動をするようになってきた。
新井は誰もが「いい人だ」とほめるらしい。これ、誰かさんに似てないか?「会ったよ、あいつはナイスガイだ」と我がパートナーのアメリカ人があっさりほめてた自民党の小泉進次郎議員だ。
「小泉を総理にしとけば国民はなんとかなるから好き勝手できる」
自民党のお爺ちゃんたちがそう思っても不思議じゃない。
「新井を監督にしとけばファンはなんとかなるから弱くても満員だ」
カープのオーナー様が思っても不思議じゃない。
今時の世の中、どっちも大きな勘違いだ。総理大臣も、野球の監督も、企業の経営者も、結果を出さなければ何の価値もない。彼らの成果は世間にあからさまにネットで公表され、厳しい批判の目に晒される。昔とは違うのだ。
つい昨年まで「昔」が続いていると勘違いしていた自民党は3連敗に懲りたのか小泉を総裁に選ばなかった。新井は続投だ。
ネットの書き込みを見ると、ファンはよくわかってる。
ホームラン数リーグワースト。 得点、失点ともリーグ5位、二軍も大きく負け越し。絶対的な4番もエースもいない。ドラ1がぜんぜん育ってない。最終戦に向けての負け方はファンを無視で目に余る。現在の監督・コーチでまんねりを続けないか心配だ、そうなれば今年以上に客は来なくなるね。普通は監督変えないにしてもコーチ総とっかえとか、結果を出せなかったことにファンに対しての示しはつけるもの。
新井の後に挨拶をした田中広輔が「一軍は勝ちを求められる、監督の言葉に甘えることなくスタジアムを満員にする野球を」と言っていたがその通りだ。
ネット情報でファンの眼はどんどん肥えてきている。自民党より遅れてるって、企業経営としてもう絶望的じゃないか。
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ブラームス 「ドイツ・レクイエム」作品45 (その4)
2025 OCT 4 11:11:34 am by 東 賢太郎
幼少のヨハネス・ブラームスが熱中するものがあった。ブリキのおもちゃの兵隊である(写真はイメージ)。並べて大隊を組成しては直し、飽くことなくまた組成し直す。母は「28才にもなって、大事そうに机にしまって鍵をかけてたのよ」と語った。この女性は男子の正しい育て方を知っていた。これが「作品を寝かせ、それが1つの完成した芸術作品として仕上がるまで、音符の多過ぎ少な過ぎがなくなり、改善できる小節がなくなるまで何度も書き直す。それが美しくもあるかどうかは全く別の事だが、それは完璧であるに違いない」(友人G. ヘンシェル作曲の歌曲に対する助言)という作曲への完全主義に通じている。そして、それがあの交響曲やドイツ・レクイエムという大輪の花を咲かせるのだ。
そうやって育てられた男子は多いのではないか。僕の場合は鉄道模型であった。事あるごとに父にせがんでちょっと大きめのOゲージを買ってもらい、毎日嬉々として居間から台所に至るまで家中に線路を敷き詰めて走らせた。重量感を欠くHOゲージは無用だった。実物の車両の連結器の横にある重量のトン表示を綿密にチェックするほど「質量」にこだわりがあったからだ。それを与えるため客車の内部にはビー玉や石ころをぎっしり詰めずっしりと重くした。電動ではなく手で走らせることにリアル感を覚え、何時間でも這いつくばって飽きることなくやった。足の踏み場もなかったが母に文句を言われたことは一度も無く、ただ、7時前になると「パパが帰ってくるよ、叱られるよ」と言われしぶしぶそれを片付ける。完璧さを求めるため何度でも何度でも線路をつなぎ直してた。これが僕を完全主義にした。
ヨハネスは7才で前述のピアノ教師オットー・コッセルについて鍛えられた。「一度だけサボった日は人生最悪でね、帰宅すると父にバレていてこっぴどく叩かれた」と回顧している。10才でベートーベンの五重奏とモーツァルトの四重奏を弾いた公演を聴いた興行師が「神童だ。アメリカツアーをぜひ。莫大な富がはいる」ともちかけた。契約金に目がくらんだ父は即決。本気になって母の小さなお店を損してまで売ってしまった。ヨハネスは後年に「親父は愛すべき昔の男でね、単純で世慣れしてなかったんだ」と愛情をこめて述懐した。
コッセルはというと、仰天し、やめるよう全力で父を説得したが、貧困を脱したい父はきかない。ここは自分のヨハネスの才能への確信を示すしかないと、自分
の師であった大家エドゥアルド・マルクスゼン(左)をひっぱり出した。これが効いて米国ツアーはキャンセルされ、ヨハネスは10才から18才までこのハンブルグ最高の教師につき、演奏技術と作曲技法に多大な教示を受け、ドイツ民謡と変奏曲への嗜好を継いだ。普通科の学校教育は受けたが音楽学校は不要だった。モーツァルトが父から学んだように二人の教師の教えをバッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、シューベルト作品など古典の独学で高みへ導いたのであり、後年にその集大成であったピアノ協奏曲第二番をマルクスゼンに献呈したことで感謝が伺える。完全主義の彼は自己の才能を信じ、それを発見し、信じ、共有することができた父、マルクスゼン、そしてロベルト・シューマンを讃えたのである。
師弟関係はアップグレードされたが出費は嵩んだ。ヨハネスは家計を補うため13才で父の仕事に借りだされ、深夜まで酒場でダンス曲を弾く激務に疲労困憊し、心配
した両親は14才の夏にヨハネスを郊外の街ヴィンゼン(写真)にある父の知人ギーゼマン家に娘のピアノ教師として受け入れてもらう。この処置はヨハネスを救ったどころか、後年の趣味をも決定づける。温かく迎えられ、田園生活を楽しみつつ村の男声合唱団の指揮をして作曲、編曲をした幸福な日々はよほど心に深く残ったのだろう、後世までギーゼマンに深い感謝を述べ、合唱曲への止むことなき嗜好ができ、なによりこれが後年に夏のスイスやオーストリアの湖と森のある大自然の中で作曲する習慣になった(彼は23才まで海を見たことがない)。また、読書家の母の影響で文学に傾倒し、ギーゼマン家で後に作品33となる「マゲローネ」を娘と一緒に読んだ。その延長でハンブルグの運河の橋で売られる古書を収集して読み漁り、心を惹いた詩句、警句を書き綴った自選集のノートを「若きクライスラーの宝」と名づけた。15才だ。自らをなぞらえた楽士クライスラーはこれの登場人物である。
ヨハネスは終生ホフマンのグロテスクで不吉な世界に対する情熱を失わず、そこに潜むハイセンスな皮肉を愛好した。21才のとき(1854年2月27日)にシューマンが精神を病みライン川に投身自殺を図った直後に彼の主題を用いて「シューマンの主題による変奏曲」Op.9 )を書いた。この曲は意味深長で、前年に誕生日プレゼントとしてクララがロベルトに贈った同名曲の同じ主題(「色とりどりの小品 5つの音楽帳 第1曲 Op.99-4」)を「本歌取り」のごとく使用している。シューマンも “ムル” に心酔し、クライスレリアーナを書き、ダビッド同盟でオイゼビウスとフロレスタンに自己の内なる二面性を擬人化したが、ヨハネスはOp.9の各変奏にB(ブラームス)とKr(クライスラー)の符号をつけ、ムルの自伝に闖入するクライスラーのページに対応させており、それは自分に審判を下す「もうひとりの自分」(ドッペルゲンガー)の苛烈な箴言のように響く(第5、第6変奏)。
Bは{第4、第7、第8、第14、第16}、Krは{第5、第6、第9、第12、第13}
脳裏にクライスレリアーナが響かないだろうか。シューマンがクララ・ヴィークと狂ったような恋に落ちて書いた曲が。結婚を拒絶する父を慮ってクララが献呈を受けることを断ったほどダイレクトな狂気に満ちた恋情がオイゼビウスとフロレスタンに託される。21才のヨハネスはそれをB(自分)とKr(クライスラー)に置き換え、巧みな変奏技法で糊塗し、この作品をシェーンベルクは「ブラームスの最も完璧な作品」と讃えた。これが「ブリキのおもちゃの大隊」の結末でなくて何だろう。同年にこれと4曲のバラードを書いて以来、彼はOP.11のセレナーデ第1番(1858年)まで新作を書いていない。1854~1857年にピアノ協奏曲第1番を構想していたこともある。しかし、Op.9を出版した54年の11月にクララと Du で呼び合う熱い仲になっていたことこそが主因だ。シューマンの投身事件後、いよいよ「レクイエム的」なスケッチを書き始め、現在の第2楽章(「Denn alles Fleisch…」)、第4曲(「Wie lieblich…」)の動機がすでに部分的に存在していたとされるのは大変に興味深い。来たるべきシューマンの葬送とクララとの家庭・・・深層心理にあってもおかしくはなかろう。
その1954年6月11日にクララが生んだ末子フェリックス(左)がブラームスの子という説がある。仮にそうとすると受胎は前年9月頃で、初めてシューマン宅を訪れたのが8月だから否定派が多い。とすると、この子にクララがユダヤ人メンデルスゾーンの名を与えたのはヨハネス由来でないのだからシューマンがそうだということにならないか。ともあれクララは「隣にいる可愛い我が子を見るにつけ、病気によって夫が愛するすべてから遠ざけられ、この子の存在も知らないなんて胸が張り裂ける」と手紙を書きつつ、家賃の安い地区に引っ越す計画を立てた。まるで新しい所帯を持つ決心をしたかのように。そしてヨハネスもそれを親身になって助け、まるで遺品整理をするかのようにシューマンの書斎を整理して楽譜や文献を読める喜びを友人アルベルト・ディートリヒに書き送っている。Op.9はここでクララに贈られるのである。ブラームスのクライスレリアーナ。意味深長だ。
ところが、もはや絶望の容態と思われたシューマンは小康状態を取り戻し、あろうことか、問題のOp.9を賞賛する謝辞がとどく。驚いたヨハネスは気まずげに謙虚な返信をし、病院に彼を訪問し、ピアノを弾いて聞かせる。 梅毒は症状が出たり消えたりを繰り返すが、細菌やウイルスが発見されていない当時の人はそんなことは知らない。やがて病状は再び悪化し、それを見届けたヨハネスは演奏旅行に出たクララに「君を死ぬほど愛してる。涙でこれ以上はいえない・・」と師への複雑な思いに抗いながら熱いラブレターを書くのだ。12月5日だ。クララがハンブルグで演奏会を開くと知るや汽車に乗って急行し、彼女を両親に紹介までしてしまう。結婚の意思表示でなくて何だろう。クララは両親とうまくいき、「素朴(simple)だがちゃんとした(respectable)人たちをどれほど家庭的と感じたか」と書いた。ここまではよかった。しかし彼の精神は恩人の回復を望む自分と、クララを得るため死を望む悪魔のドッペルゲンガーのとの闘いに苛まれていたのである。
二人はすぐ両親のもとを去り、デュッセルドルフへ戻ってしまう。生まれて初めてXmasをハンブルグで過ごさなかったことに両親は当惑し、師のマルクスゼンは激怒した。ヨハネスの頭にはシューマンがあった。人気者であるクララは演奏旅行を続けたが、ヨハネスはシューマンを訪ねてはピアノを聞かせ、散歩させ、作曲は停滞してしまっていた。神童の名声を犠牲にしたこの義侠心とさえ見える感情は父にも見せたものだ。ところがクララはそれを見かね、彼を自分とヨアヒムとの演奏ツアーに引っ張り出す。女性はドライというか、まるで母親だ。ダンツィヒではクララたちとの室内楽で思惑通りにうまくいった。そこでいよいよ一人でライプツィヒ、ハンブルグ、ブレーメンの演奏会のソリストとしてモーツァルト、ベートーベンの協奏曲を弾く旅に行って来いと送り出す。しかし、これが良かったのか悪かったのか、大ピアニストのルービンシュタインに凡庸だと酷評されてしまうのである。
とうとう彼は決定的な鬱状態に陥ってしまう。「愛しているが自己否定がある」と、まさにゲッティンゲンでアガーテに愛想をつかされるのと同様の言葉をクララに書いてしまい、彼女はここから先のヨハネスへの手紙を後に廃棄することになる。証拠物件がないのだから色々な見方があっていいだろうが、手紙1本でふってしまい痕跡を消したのだから四十女に振り回された22才の悲劇と見えないでもない。フェリックスは父親と同じハイデルベルグ大学に学び、ヴァイオリンを弾き詩を書いた。気をとめていたヨハネスは作品63-5「我が恋はみどり」、作品63-6「にわとこの木のあたりで」と作品86-5「沈潜」に付曲した。クララの日記によれば、作品63-5を1873年のクリスマスにクララの奏するピアノに合わせて当代最高のヴァイオリニスト・ヨアヒムが弾いた。「彼に何も告げず、私たちが弾き、歌い出しますと、フェリクスは誰の歌かと尋ね、自分の詩を見ると蒼白になりました。あの歌もそして終わりのピアノの部分もなんと美しいのでしょう!」
後のこと、結核を病んでおり、フェリックスの命が長くない事がわかっていたヨハネスはヴァイオリンのメロディを24小節作曲して、その楽譜をクララに送る(ヴァイオリン・ソナタ第1番第2楽章になる)。
「あなたが裏面の楽譜をゆっくりと演奏されるなら、私があなたとフェリックスのこと、彼のヴァイオリンのことをどれほど心底思っているのかをあなたに語ってくれる でしょう。でも彼のヴァイオリンは鳴り響くのを休んでいます―」
この手紙に対するクララの返事にはフェリックスが亡くなったと書いてあった。
24才の訃報にヨハネスは打撃を受けた。同年作曲のヴァイオリン・ソナタ第1番第1楽章第2主題(1分32秒)にエコーしているのは「ドイツ・レクイエム」第2楽章の中間部(変ト長調、第75小節~)であることを指摘したい。
この部分のレクイエムの歌詞はこうだ。
かく今は耐え忍べ、愛しき兄弟よ、
主の来たらんとするときまで。
視よ、農夫は待つなり、
地のとうとき実を。
また耐え忍ぶなり、
朝の雨と夕の雨を得るまで。
かく耐え忍べ。
(新約聖書 ヤコブの手紙 5:7)
これは死者を送るかのようなこの歌詞の後に続く。
肉はみな、草のごとく
人の光栄はみな
草の花のごとし。
草は枯れ
花は落つ。
「主の来たらんとするときまで耐え忍べ」という。死と戦っていたフェリックスに向けた祈りのようにも聴こえる。しかし、6年前の誕生日に贈られクララが好きだった第3楽章「雨の歌」冒頭のリズムが第1楽章冒頭にもなっているということは、亡くなってから書かれたのだ。レクイエムの引用なのだから・・・
その第2主題が初出したあたりで立ち昇る、差しこんだ眩い陽の光に胸が躍り、香しく若々しい、未来への夢に満ち満ちた情感。幾度耳にしても悲しい。クララはブラームスに宛てて「私の心はあなたへの感謝と感動に高鳴っております。そして心の中であなたの手を握ります」「このような音楽こそが、 私の魂の最も深く柔らかいところを震わせま す!」と書き、この作品を(フェリックスのいる)天国に持って行きたいと語った。
ドイツ・レクイエムの第1、2楽章は28歳(1861年)に書かれた。第2楽章が形になり始めたのは母が亡くなった1865年から。67年にウィーンで第1〜3曲の初演をしたが失敗。翌年、ブレーメン大聖堂にて6楽章版(第1〜4、6、7)を演奏して大成功をおさめ、この演奏の後、ブラームスは母を思ってもう1曲を追加することを決意。それが前稿にしたチューリヒ(フルンテルン)で書いた第5楽章で、全7曲の現行版が完成し1869年に出版された。人間的体験と完全主義の合体が、この大名曲を生んでくれたことを音楽の神様に感謝しなくてはならない。
第2楽章はティンパニが運命リズムを刻む葬送曲で始まる。中間部の変ト長調、第75小節、天国の響きにどう転換するかは聴きどころだ。僕は古楽器オケが好きでないが、この曲は2台ピアノ、各パート1楽器のオケでも十分に聴けるので気にならない。モンテヴェルディ合唱団は非常に強力である。
62年録音の旧盤。若きサヴァリッシュがウィーン響を振る。ティンパニを強打し、質感はバッハ、ベートーベン路線の鉄のように堅牢で筋肉質な造りだ。ウイルマ・リップ、フランツ・クラスも立派なもの。全曲おすすめしたい。魂を癒すレクイエムが完全主義者ブラームスの書いた音楽であることを雄弁に物語る。耳ざわりの良いきれいな音を出そうなどという気は全くない。熱い。ウィーン楽友協会合唱団は粗さがあるが、初演当時はこういうものだったかと感じるものがあり興味深い。ライブで聴いたら打ちのめされていたろう。
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英語ディベート6時間の雑感
2025 OCT 2 8:08:03 am by 東 賢太郎
米国の友人Hが来た。4時から1時間の予定が議論が白熱し、ニューオータニkato’sで夕食になって気がついたら10時である。こうやっていつも閉店までなのを店も心得てくれてる。ウルトラ元気な男で鉄砲玉みたいな英語がとぎれることなしだ。話題はもちろんビジネスにつきる。
半年ぶりぐらいだが「顔が変わった。肌のツヤも全然違う」としげしげ小生を眺める。「スキンケア?そんなもん俺がするわけないだろ、体重も変わってないよ」「アンチエージングしたか」「ああNMN注射な。でもだいぶ前だ」「ステムセル(幹細胞)がいいよ。トランプもバイデンも打ってる。自分は55歳だがバイオ年齢は36歳だ」とスマホの血液データ分析を見せる。僕は確かに元気は元気だ。月2回お世話になっているセラピストのYさんも「筋肉が柔らかくなってます、プロとして断言できます」という。そういや先週も終了後に「ありがと、3イニングぐらい投げられそうな気がするね」と高校時代に戻ってたし。
というわけで誰も古希は信じない。自分も忘れてて時々書類の年齢欄に60歳と書きそうになる。仕事が立て込んで徹夜に近い日もあったがなんのことはない全然翌日もOK。大学時代、徹マンの翌日もこの程度の感じだった。親に感謝するしかないが、視力も裸眼で1.2あるし、何年か前のコロナ入院と、崖から落ちたのと、神保町で転んで右手の親指を怪我したの以外、体は何らの異変もない。これは20年間飲み続けている神山先生の漢方薬のおかげ以外に理由は考えつかない。
問題は頭だ。身の回りの物忘れや人の名前が出てこないみたいのはたくさんある。でも鉄砲玉の英語ディベートを6時間やっても回転は大丈夫だ、こいつはまぎれもないウォートン・スクールで2年鍛えてもらった成果だ。野球で毎日皇居一周してたので今でも難なく5キロぐらいは走れるが、それと同じで、アメリカMBA留学ってのはアスリートに近い頭の筋トレだったと思う。10代、20代の皆さんは頭も体も死ぬほど自分を追い込んで鍛えまくっておくことです。その年代しかできません。一生の財産になるし必ず仕事でも人生でもメンタルにもあなたを助けてくれる強みになると思いますよ。
Hはものすごいガッツの塊ですべてに前向きで頭も回る奴で、こっちもアドレナリンがどんどん出てくる。頑固だが知らないことを教えると謙虚に学ぶ、その姿勢がとてもいい。こっちもアメリカの最新事情は教わることばかりで、ディベートの中からビジネスチャンスがのぞいてくる。僕はこういう奴が好きだし奴もそうなんだろう、話が途切れることなくこのままだと10時間でも何時間でも行きそうだ。大学時代に気の合う連中と夜中まで、あるいは朝まで語り合ってたあれを思い出したりする。つくづく思うが、日本人にこういう奴はほとんどいない。少なくとも僕は知らない。そんなにたくさんは会ってないアメリカや中国にはゴロゴロいる。だから時価総額百兆円もの新興企業が出てくるんだ。
日本は財務省の緊縮財政で30年間を失ったとみんなが口を揃えて言うが、そればかりじゃないよ、やっぱりビジネスをゼロから起こしてでかくするという情熱とかアンビションとか、そういうのがさっぱりなくなっちゃってる気がする。だから、これから世界を変える生成AIの波に完全に乗り遅れちゃった、これは致命的だ。ロスジェネとか言って傷をなめあってる場合じゃない、雨はあなただけじゃなく全員に降るからチャンスはどんな世の中でも資本主義国なら常にある。そこで勝ち抜いても生成AIに職業を奪われるのが確実な未来だ。ほんとうに傷をなめあってる場合じゃない。政府が金をばら撒いたらGDPが増える、そんな紋切り型の経済学で経済成長なんか持続できるわけないでしょ、成長は資本の成長からくるんです、政治や行政なんか関係ありません、それができる人材こそが国を引っ張るエリートである。そういう人材が昭和はまだそこそこはいたから日本は経済大国になったんです。続々と出てこないとそれこそ日本はダメになるよ。
僕に年齢はない。たぶん体が朽ち果てるまで寝ても覚めてもそういうことばっかり考えてる。ワーカホリックと言う勿れ、モーツァルトだってベートーベンだって毎日音楽の事ばっかり考えていたでしょ。人に使われると労働者になっちゃう。それじゃ人生つまんない。自分で起業してビジネスを創造する、これはクリエイターの喜びである。MBAは何の専門家でもない。経済学も会計学も経営学も数学も統計学も法律も証券分析もマーケティングもプレゼンスキルも、ぜーんぶがビジネスの道具にすぎない。心理学、人類学、骨相学、量子力学なんてものもその一部になったりする。それらを駆使して戦った成果は数字、つまりお金というもので評価される。運てものもあるから勝ったり負けたりはするがわかりやすいでしょ。僕にとっては麻雀や野球をやってるのとあんまり変わらないが、遊びでないので負けるわけにはいかない。この緊張感、最高のアンチエージングだ。
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ブラームス 「ドイツ・レクイエム」作品45 (その3)
2025 SEP 29 8:08:27 am by 東 賢太郎
ヨハネス・ブラームスの伝記はドイツ語で読みたいが時間が足りない。バーデン=バーデンやハンブルグで買い求めた資料は訳文がなくまだ読破できていないが、ドイツ語原書の日本語訳、英米人による英語本、そして日本人による日本語本で手に入るものはほぼ読んだと思う。AIを使うとさらにわかる便利な時代になったが、それによってハンブルグ時代については一次資料が不足しており詳しくはわからないことも見えてきた。彼がエルベ河の埠頭に近いハンブルグのシュペック通り60番地のアパートの2階(写真)で生まれたことは書いた。1905年、そこを訪れた弟子のフローレンス・メイは、「階段を上り、ブラームス家が住んでいた狭い部屋にはいった私は当惑と落胆で震えた」と伝記に書いている。いまはビル街に記念碑だけがぽつんとある、その空漠としたよそよそしさは何だろう。151曲あったと伝わる初期作品を彼はほとんど破棄している。これが「厳しい自己批判」だけの仕業だったのだろうか。もし自分だったら?「家族にとって百万もの不愉快があったその時代を消したかった」こともあろうかと想像したりもするのである。
偉人の伝記がどう書かれるかは興味深いテーマだ。画家や彫刻家は作品が語るが、作曲家、作家、学者は作品、著書という「紙」が語る。演奏家の名技は聴いた人の書いた紙から想像する。モーツァルトは父子の膨大な書簡集が、ベートーベンは会話帳があるが、それもまた
紙だ。つまり、当時の音楽家にとって紙というものは商品にもなり、書簡の場合は後世に残ってしまう可能性のある、すなわち「自分の人生をどう後世に残すか」に関わる自画像の一部でもあった。だから、望ましくないものは焼いてしまう。モーツァルトはその気使いをせずベーズレとの行為が周知になってしまったが、都合の悪いものは焼却処分したコンスタンツェがなぜかそれは焼かず大作曲家の自画像の一部とした。ブラームスはほとんどの書簡を自ら処分したとされる。だから残っているものは自ら認めた自画像なのだが、結婚の気持ちが冷めた後、クララが彼の書簡を処分してしまったのでそれは完全なものとは言えない。
残っているのは、冷める以前の両人の赤裸々なラブレターである。伝記をロマンティックに読む人は、どこからどう見ても熱いそれによって、満たされぬ結末となるクララとの恋を重く見る。しかし、彼女はというと結婚の気持ちが冷めた後、彼の書簡を処分してしまったのでそれは実は「上書き」されていたはずであり、伝記として客観性ある視点ではない可能性がある。一般に(と僕は思っているが)、別れた相手を男はいつまでもうじうじと覚えており、女はあっさり忘れる。当時の彼は二十歳そこそこの世慣れぬ若者であった。恩師シューマンの影をどうしても踏み越えられず、うじうじする結末になったわけだが、クララはアガーテに気が行った彼を見てあっさりと冷めた言葉を残している。彼は彼で、年月を経てからは当のクララの娘までという数々の女性に恋心を抱いた男でもあったことで、両人の関係はバランスが取れるところに落ち着いたのであろう。
結婚にふみきれなかったもう一つの理由は両親の関係にある。Paul Holmes著、BRAHMS his life and timesによると、落ちぶれてはいるが地方貴族の末裔だった母は上昇志向のある父にとって欠点を補って余りある存在だった。それが、恋仲だった同年輩の女性とのお似合いの結婚ではなくアンバランスな方を選択させた。その甲斐あって、同年に父はハンブルグの市民権を得ており、ヨハネスは自らの出自の証としてそれを誇らしいと語っているが(Max Kalbeck『Johannes Brahms』)、後にクララに「僕はハンブルグ市民でなく、小市民の息子だった」とも語った。実は小市民ですらないという真の出自へのアイロニーにも聞こえる。この “ルサンチマン” は根深かった 。ゆえに作曲家として頂点を極めることがレゾンデトル(自己存在認証)であるという道に入りこみ、抜き差しならない斯界の高みにまで登ってゆき、孤高の登山家のような人生に足を踏み入れてしまった。家庭には憧れた。しかしそれに足を縛られたり、連れ子の父親になるような重荷を負っては目的は成就できない。ゆえにアガーテは去り、クララは親友か母親かという存在にならざるを得なかったのである。
ひとことで括れば、彼は自分の出生に関わる複雑な認知的不協和を抱えて生きた人だったということになる(参考:マルクスとブラームスの自己同一性危機 | Sonar Members Club No.1)。自ら打ち建てた自画像どおりの大作曲家になった、そのことに僕は形容のできない尊敬の念を懐かずにおられず、そうするしかない生い立ちの中で究極の努力を重ねて最高の幸せを得たのだと信じたい。そのおかげで、我々は、複雑な感情の不協和の中に慎みと秩序がありながら、渋みと悲しみと淡いロマンの入り混じった、彼にしか書けない音楽を持つことができたのだから。『ブラームスをきく』というのは、なんという含みと味わいのある言葉だろう。フランソワーズ・サガンの小説「ブラームスはお好き?」は彼なくしては構想もされなかったろう。レクイエムを「ドイツの」ではなく『人間の』(menschliches)でも構わないと語った彼は、宗教的信念に関係なく、すべての生ける者に慰めを提供したいと願った。ドイツ・レクイエム第3稿では、彼自身がいみじくもその作曲にあたって採った「人間の」という立場の由来について、彼の家族に関わる視点から述べてみたい。
前稿にもふれたが、父ヨハン・ヤコブ(1806–1872)はハイデの宿屋の次男だ。ハイデという街はハンブルグの北105キロ(鉄道で1時間半)にあり、現代の人口2万と東京から見れば熱海(105キロ、人口3万)程の距離と規模である。漁師、大工の家系にして音楽を志し、両親は反対すると家出もしかねない情熱に負け音楽学校に学ばせている。19才でハンブルグに出て街頭や猥雑な酒場のバンドで演奏をした。この写真を見て、僕は自信家で弁舌に優れ、構想力・思索力よりも、野心に満ち、行動力、対人能力、発信力がある人物との印象を強く懐く。何で成功するかといえば機を見て敏なる商売人か。ヨハネスにその印象は薄いが、彼はその血を引いている。
19世紀のハンザ都市は中世の世襲身分である大市民が支配しており、流れ者であるヤコブはまず音楽家ギルドに所属し、コントラバス奏者として洒落た貴族サロンの六重奏団に加わり、軍楽隊のホルン奏者として上級歩兵に擬せられる地位になる。能力があった。だから息子の楽才を幼少にして見ぬき、友好関係を築いていた音楽人脈から最高の教師を選び息子の将来を託すことができた。商才はそこに発揮されたのである。そうした父の出自にまつわるプロフィールはヨハネスが作りあげた自身のイメージとは似つかぬものだが、だからこそ僕は大方の伝記が通説として語る彼の人物像に些かの違和感を懐くのだ。
「ハンガリー舞曲集」は酒場で弾いていた父の系統の音楽だ。彼はエドゥアルト・レメーニにジプシー音楽を教わって20才でドイツ各地を演奏旅行する。港町ハンブルクはハンガリーからアメリカへわたる移民たちの拠点でアメリカ楽旅の出航地であり、レメーニもハンブルグに立ち寄り、ティーンエイジ最後のヨハネスと知り合い意気投合したのだ。レメーニはウィーン音楽院に学んだハンガリー系ユダヤ人で、コシュートの革命に加わった疑いで追い出され放浪楽師となった男だ。そのジプシー音楽はヨハネスの心をとらえた。ヨハン・シュトラウスのワルツなど、彼には父由来の大衆音楽、しかもユダヤ系のそれへの嗜好があった(シュトラウスもユダヤ人である)。音楽を生活の糧とする実利主義も父由来で、「ハンガリー舞曲集」の楽譜は大いに売れ、レメーニに盗作と訴訟されるに至ったが、幸いにして楽譜に「編曲」と記していたためヨハネスが勝訴している。ちなみに、ウィーンに出たのち、後進のドヴォルザークに目をかけたのは肉屋の子という下層の出自への共感もあると思われ、経済的援助も視野に入れ紹介した出版社ジムロックが同類の「スラブ舞曲集」を書かせヒットしている。人間ブラームスの素顔だ。
上掲のアパートで授かった三人の子供のうちヨハネスは二番目で、姉エリーゼ、弟フリッツがいた。後に彼は「姉とは似た所がほとんどなく、弟とは付き合いがなかった」と語っている。偏頭痛もちで病弱だったエリーゼは音楽の教育は受けられなかったが、母は愛情をこめて「太った愚かな農民」と呼び、両親が別居してからはヨハネスが彼女の生計を助けた。夫を亡くしたクララと子を慰めるためヨハネスはライン地方からスイスへ旅をするが、同伴したのが姉エリーゼだ。40才で時計職人と結婚してもうけた子供は生まれてから数日後に死亡した。ウィーンに出て大作曲家になった弟を誇りに思い、送った200通もの愛情がこもった書簡はエリーゼが1892年に亡くなるとヨハネスに返却された。他のほとんどの書簡を処分した彼は、それだけは燃やさなかった。
フリッツは兄と公平に扱われ、父親はオーケストラ奏者にしようとハンブルク・フィルのコンサートマスターに学ばせたが挫折した。ヨハネスが終生感謝した名教師たち(オットー・コッセルとエドゥアルト・マルクセン)にピアノを習い、自身も教師にはなったがクララ・シューマンはテクニックはあるが演奏は退屈と評した。フリッツと姉は、昔の女と浮気した父を批判して母の味方についたが、ヨハネスはどちらの側でもなかった。母の没後に父が再婚した女性とも良好な関係を築き、フリッツが晩年に健康を害すると経済的な援助を惜しまなかった。人間ブラームスの真骨頂だ。
父ヤコブの性格は、たまたま泊まった雑貨屋の親類で裁縫師をして生計を立てていたヨハンナ・ヘンリカ・クリスティアーネ(1789-1865)に知り合って、わずか1週間でプロポーズしたことに見て取れる。この求愛はロマンス小説とは程遠く、クリスティアーネ自身が「年齢がちがいすぎるので信じられなかった」と亡くなる直前にヨハネスへの手紙で述懐している(筆者注:17才年上)。ベートーベンの伝記作家ヤン・スワフォードによる「彼女は小さく病弱で、片方の足が短く、魅惑的な青い目をしていたが顔は地味な41才の女性」との記述がある。写真を探してみたがこれしかないようであることからも、ヤコブとの運命の出会いがなければ、第2子が生まれていなければ、後世が知ることはない女性だった。敬虔なプロテスタントであり、粗末な家を鳥籠や草花や装飾で明るく彩り、才能ある料理人であり、明るく前向きな女性だった。特筆すべきは思慮深い読書家でもあり、当時の女性としては秀でた読み書きの力があったことだ。息子への書簡がそれを物語る。ヨハネスの楽曲にみる、どんなに熱を持っても常に趣味が良い情感、滋味、重厚で深みある精神性とロマンのバランスは母に由来しており、この母なくして彼が巨匠になることはなかったと僕は思っている。
1853年6月、二十歳になってレメーニと新天地を求める楽旅中の息子に送った「今あなたの生涯が本当に始まったのです。ハンブルグで一生懸命蒔いたものを刈り取るのです。あなたの時が来ました」という、他人の僕さえ打ち震える母の言葉は息子の人生を決定的なものにしたと確信する。二人は常に深い愛情の絆でつながっていた。ハンブルグで一生懸命蒔いたもの。それは彼にとって思い出したくもなく、ウィーンで通用するものでもなく、みな破棄してしまった作品なのだが、養分はヨハネスの中にたっぷり残っていた。それを刈り取って10年もたったとき、母が天に召された。弟フリッツから「私たちの母にもう一度会いたいなら、すぐに来てください」と電報がありハンブルグに急行したが、母は脳卒中ですでに亡くなっていた。ショックだった。その喪失感が「ドイツ・レクイエム」という大輪の花を咲かせることになり、シューマンが初対面で激賞したヨハネスの楽才を楽界に証明する最初の作品となった。このエピソードは、自分が就職するとき、それまで一度もその類いの会話をしたことがなかった母からまさに同じような言葉をもらったことと心の深い深い奥底で共鳴する。だからどんな辛い目に遭っても負けずに、強く乗り越えて来られたと思っている。
「ドイツ・レクイエム」第4楽章はこう歌う。
いかに愛すべきかな、なんじのいますところは、
万軍の主よ!
わが魂は求め慕う、
主の前庭を。
わが身と心は喜ぶ、
命の神の御前で。
幸いなるかな、なんじの家に住むものは、
なんじをつねに讃えまつるものは。
「なんじのいますところ」、それはフローレンス・メイが当惑と落胆で震えたハンブルグのシュペック通り60番地のアパートの2階である。「なんじの家に住むもの」、それはヨハネス自身である。
前稿に書いたように、僕はこの楽章の出だしを聴くと、物心ついてから中1まで住んだ和泉多摩川の団地の、日が燦々とさしこむ6畳の居間の光景が浮かんできて涙を抑えられない。母は草花や手芸で編んだ装飾や皮細工で彩ってくれ、小鳥と黒猫を飼ってくれ、そこはいつも明るく気持ちよく、幸せだった。ヨハネスがそのような思慕をもってこの楽章を書いたかどうかはわからないが、歌詞の選択からそうだったと確信する。それほど僕はこの音楽に反応してしまう。大曲の中で最も短いが、一番愛するのはこの楽章である。前から数えても後ろから数えても4つ目。7つある楽章のど真ん中に彼は母をすえたのである。
ダニエル・バレンボイム指揮シカゴ交響楽団。素晴らしい演奏だ。バレンボイムのロマン派というと、まだ彼が39~40才だったフィラデルフィアでのリストのロ短調ソナタが忘れられない。リストの代名詞である速くて名技的なところではない。ひそかに沈静していくコーダの漆黒の闇だ。弾き終わった彼は魂の抜け殻のようで、なんというピアニストかと思った。
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読響定期 マーラー交響曲第7番 ホ短調
2025 SEP 27 13:13:11 pm by 東 賢太郎
第651回定期演奏会
2025 9.25〈木〉 19:00 サントリーホール
指揮=ケント・ナガノ
マーラー:交響曲第7番 ホ短調 「夜の歌」
15分前にあわただしく席についてプログラムを開く。まいった。同じことが7年前にもあった。そしてこれを書いた。2018 FEB 11とある。ここまでクラシック音楽をボロカスに書いたのは我ながらさすがに珍しい。
この日の7番、ひとことで言おう、大変な名演であった。帰りぎわ、興奮冷めやらぬ中、「この曲は大嫌いで今日初めていいと思いました」とD氏に語る。ケント・ナガノは欧州で機会がなかったように思う。なにかきいたろうか思い出せない。
巨大な交響詩というマインドでのぞんだのも良かったかもしれない。存外面白い。楽器はギター、カウベルまで色々出てくるし場外のシアターピース効果もありゴージャスなもの。そういうものこそ、「だから何だ」と思っていた。その路線でこの水準まで達したのは人類史でマーラーとR・シュトラウスしかいないことはこれだけのオーケストラ演奏でないとわからず、ザルツブルグでカラヤンとウィーンフィルで聴いた「ばらの騎士」以来か。管弦楽法の綾は9番を予見し、並の演奏だとそれらがごった煮で散漫になる。なによりまず筋がぴんと通って強い説得力がある指揮が圧倒的だ。オケの底力を解き放った、これだけのものは中々接するものではない、浅薄な世の中に久々に黒光りするホンモノが現われて安堵すらもたらす域に在る。読響も素晴らしい。日本が誇るワールドクラスのオーケストラである。
もうひとつ、出だしから、あれっと思うことがあった。耳が良く聴こえる。そういえば上掲のN響のあたり、読響の「バルトーク青髭公」で耳に異変があった。高音の ff で鼓膜がびりびりいう感じがあり危機を覚えたが、読み返すとその稿に言及はない。よほど怖かったと思料。 2017 APR 16とあり、母が亡くなるひと月前だ。何かが起きていた。それ以上の悪化はなかったがそのままだったんだろう、それが常態化し、忘れていたと思われる。上掲の7番はそのさなかだった。
ところが、この日、サントリーホールでこんないい音は初めてだとびっくりしたのだ。オーディオなら2段階ほどグレードアップしたかの如し。読響が素晴らしい演奏をしたことは相違ないけれど、どうもそれだけではない、各セクションに鮮やかな色彩があり、古びた油絵を洗浄したかのようだ。
もしかしてだが、3月から使用している某医療器具のせいかもしれない。そいつは水を細かく分解し血液をサラサラにするから末端の毛細血管が蘇生する効能がある。鼓膜のあたりでそういうことがあったのか・・。
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気ぜわしい昼下がりの乃木坂散策
2025 SEP 24 2:02:09 am by 東 賢太郎
アメリカの友人Hが来日した。世界4大会計事務所のひとつKPMG出身の経営アドバイザーである。チェルシー、ドジャースのオーナーも仲間だ。僕は新入りのほうだが、餅屋は餅屋を見ぬくのに何年も要らない。会って10秒で決まった。掟は口が軽い奴はアウト、どんな微細でもブラック歴のある奴はアウト、そして守秘義務契約書に署名。このビジネスは 100% “プライベート” で完璧に属人的な鎧の中だけに存在する。米国なのかユダヤなのか由来は詳らかでないが、昨今のMAGA的世界が嫌うグローバリストビジネスであることは一片の疑いの余地もない。それでいながら、ブログをお読みになれば僕は10年も前からまぎれもないトランプ支持者であり、政治信条と経済的利益が背反しているとお感じになる方はおられるかもしれない。それは正しい。背反は大人の解決を試みているだけで、ストレスフルな毎日になった。逃れるには仕事を辞めるしかないが、暇になるとそれがもっとストレスだろうという恐怖で踏みだせないでいる弱い人間だ。
Hとは要点だけ議論し、懸案の件、俺の顔を潰すなよでぴったり1時間。運動にとグランド・ハイアットから紀尾井町まで歩くことにした。すると途中でどうしても乃木公園に足が向く。乃木希典。父が崇拝しており、幼時にきいた戦争談話
で名を覚えたことは確かだ。いちいちは記憶にないが、きっと語られた原子爆弾、ひょっとしてそれで小学校2年で縁もゆかりもない広島カープを応援しだしたのかとふと思いついた。あり得ることだ。16歳で開戦、赤紙で陸軍に入隊し片耳の聴力が失せた。感情としては戦争も米国も唾棄して消し去りたかったろうが、終戦後10年で生まれた息子には英語を勉強しろと信念をこめて奨励し、敵性の野球も音楽も放任し、長じてあろうことか敵国に留学したがそれを喜んだ。自分が父であるいま、娘がフランス留学してMBAになって喜んだが僕はフランス好きだから比較できない。乃木は野球を「必要ならざる遊戯」であると嫌った。一応は巨人ファンであった父の本当の心持がどうだったかはついに聞けなかった。
長州藩士乃木希典の最終階級は陸軍大将である。旅順の敵将ステッセルらロシア軍人の名誉を重んじた処遇が「世界的賞賛」を受け、当の敵国ロシアの雑誌すら乃木を英雄的に描いた挿絵を掲載し、ドイツ帝国、フランス、チリ、ルーマニアおよびイギリスの各国王室または政府から各種勲章が授与された。武士道は世界にも讃えられるものである犯し難い証拠だ。国粋主義者がそれは日本人だけの魂と否定するなら「日本の正義」がといいかえてもよい。正義がない国は滅ぶ。しかし、当時はなんという懐の深い世界だったかと感嘆すると同時に、なんという下賤な餓鬼道が悪党猛々しくまかり通る世界に堕落してまったのかと悲嘆もする。父の戦
争談話が効いたのか武官の血なのか、乃木大将の武功と殉死にいたる壮絶な人生は、夫人まで逝くことはなかったという一点を除き心に響く。しかしだ、「大学までそんなじゃなかったのよ、会社に入ってからよ、あんな上品なお母さんに育てられたのに」と我が妻は面と向かって嘆くことしきりなのである。俺は下品でない。それでは会社の名誉にもかかわるとは言う。社内でも最右翼の武闘派であり、スイスでは大使館の防衛庁出向の方にどうして我が省に来られなかったの、いい武官になられたのにと仰せつかったのは後天的影響では説明はつかないだろう。いかにも文官然たるエリートづらの社員は大嫌いで、悉くなめきっており、それが上官だと命令もきかないから実は武官でもなく、宮仕え人でもなかった。我が国を護った将軍に深い感謝の念をこめて殉死之室に合掌し、万感の思いで乃木邸をあとにした。
外苑東通りを青山までくるとカナダ大使館が右手に聳える。ファサードだけ見るとそうでもないが、裏手は巨大な建造物である。その赤坂側、青山通りをはさんで赤坂御所と向かい合うように5,300㎡ほどの高橋是清翁記念公園がある。
是清は、おそらくは、奴隷になったことのある世界で唯一の国家首長であろう。絵師の私生児だが仙台藩の足軽家の養子となり、藩命で米国留学となるが横浜にいた米国人貿易商に騙されて金を詐取されたあげくオークランドで奴隷に売られた。そうとは知らず修行と思いこみ英語をマスターして帰国する傑物である。英語教師、役人となるがペルーの銀山でまた騙され、すってんてんで帰国してホームレスになる。それを拾って日銀に入れた総裁の川田小一郎だがこれまた正規の教育はまったく受けていない傑物で、副総裁となった是清は日露戦争の勃発に際し戦費調達のために戦時国債の公募の目的で同盟国である英国に向かったのである。要するに清との戦争で国家財政はボロボロであり、借金証文(国債)を渡すから頼むからカネを貸してくれという物乞いである。その先こそが、ロンドンのM・N・ロスチャイルドであり、僕は野村でその担当者を拝命し、額に入れて応接間に飾られている当該国債の券面を拝見した。
是清は明治のダイナミズムを象徴する馬力ある男だ。失敗からカネと金融の摂理をよく知得しており、ロスチャイルドが日・露のマーケットニュートラルポジションを米国の子分であるシフ財閥を使って組んで表に見えなくしたことを裏の裏まで見ぬいていたと思われる。だから二等国の低姿勢を装いつつも英国相手にディールを強気に押し込め(リスクフリーの相手だから当たり前)、国家の危機を救った。ウォールストリートのキャンター・フィッツジェラルド証券の現職CEOで著名な凄腕証券マンである「ラトちゃん」に接待・篭絡されて80兆円も騙し取られて浮かれて帰ってくる馬鹿な文官とは比べるのも阿保らしい。無学であろうが是清の洞察のようなものを「インテリジェンス」と呼ぶことを我がブログの読者は皆ご存じだ。ガリ勉だけのひ弱な東大卒など企業でも上級経理課長ぐらいしかなれないのである。是清は「地頭のいい男」であり、どん底で泥まみれになろうと這い上がる胆力もある文武両道の上玉の男であった。地頭が悪いうえにケンカも弱く、今だけ・カネだけ・自分だけの政界に巣食う餓鬼道野郎どもとは比べるも汚らわしいというものである。
こういう男は幕末諸藩の30代あたりの武士階級にいくらもいたと思われる。英国と一線を交えインテリジェンスを涵養した薩長のそうした下級武士がグローバリストと組み、倒幕という名のクーデターを決行し、清濁併せ飲み多くを闇に葬って「御一新」という美名を冠して丸め、結果的に支配の邪魔である武士階級の根絶と廃藩置県に成功したのである。このことの正義の有無はここでは論じない。志はなく私利私欲の卑劣のみであるが、いま自民党が裏金を理由に安倍派根絶を同じ目的で決行していることだけは指摘したい。総裁選でうまくいけばいったで、国民の鉄槌で自民党は解党的な自死に追い込まれるだろう。僕はまじめに、太平洋戦争で我が国は文武両道の上玉男子の上から3百万を喪失し、各藩が存続をかけて優等に保ってきた彼らの遺伝子は半分は女子に残ったとはいえ、メンデルの法則により希薄化しなかったことは生物学的にあり得ないと確信している。日本国はウォー・ギルト・プログラムのみならず内在的要因によっても劣化した。二度敗戦したドイツも同様だったことを現地に住んで興味深く観察したが、欧州は民族がもとより混血しておりその被害は相対的に少なく、知的領域でドミナントなユダヤ系が米国に逃げたことの方がはるかに甚大な国益損失であった。逃がしたドイツと受け入れた米国は、戦争そのものの勝敗だけでなく、ナチを根絶やしにしても時すでに遅しというそれを主要な原因の一つとして雌雄を決する結果となったのである。しかし事の真相はもっと複雑だ。さもなくば、ドイツ語話者の集合体というだけでプロイセン、バイエルンが対立し群雄割拠だった「ドイツ」なるものをアーリア人が支配し続けることができたかという問題だ。
二・二六事件で是清は亡くなった。自宅二階で胸を3発銃撃された後、6太刀を浴びせられ、暗殺された現場がこの公園だ。政財界癒着と階級社会化への積もり積もった凄まじい憎悪である。日清日露の遺産にかまけた老害を一掃せんと軍部は士官学校出の学歴エリートが台頭し、安藤輝三大尉は事件前、天皇を太陽に、国民を作物になぞらえ、太陽の光を遮る側近や財閥を取り除かなければいけないと部下に語っていた。是清は犬養内閣の大蔵大臣(現在の財務大臣)として金解禁停止を行い、財閥をドル買いで儲けさせた政財界癒着のキーマンと見做され、反対に軍事予算を抑制しようとしたことが貧困にあえぐ農村出身の青年将校の怒りの火に油を注いだのである。陸軍主導の御一新は昭和天皇の激怒で鎮圧され灰燼に帰したが、学習院で裕仁親王時代の天皇が「院長閣下」と呼び、後に自身の人格形成に最も影響があった人物として名を挙げられたのが乃木希典陸軍大将であったことは陸軍の内在的矛盾だ。日露戦争において第一艦隊兼連合艦隊司令長官として日本海海戦などを指揮した東郷平八郎とともに英雄とされた乃木大将を否定する気は、どんな世になろうと僕には些かもない。天皇のお立場こそ違え、安藤輝三大尉の言葉は今の世も重く響くのではないか。
それを知りつつ、自分は外国人と交易し、昨今のMAGA的世界が嫌うグローバリストビジネスに身を置く人生を送ったことが認知的不協和であることは否定できない。留学を契機に会社が海外部門に置いたことでスキルを身につけた結果だが、父が英語を奨励しなければそうなっていなかったかもしれないとも思う。しかしながら、同時に、冒頭に書いたビジネスは考え得るほかのどんな業務よりも自分が向いており、今もって労役感のかけらすらなくできてしまう。意図してなった結果ではなく、つまり、これも血でありそれも血である不協和と考えざるを得ない。表層は異なれど、不協和が深層の土壌の四方八方に張った根のごとく潜むのがヨハネス・ブラームスという男の音楽だ。おそらく、それが深層のまた深層で僕の何かに共鳴し、永くその音楽を愛してきたのではないか。まだドイツ・レクイエムは終わっていない。
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「三段論法を二段で間違える人」に関する平易な論考
2025 SEP 20 15:15:53 pm by 東 賢太郎
「総理就任おめでとう」
「光栄ですプーチンさん!初対面なのにまるで初めて会ったみたいです!!」
「総理就任おめでとう」
「光栄ですトランプさん!」
「今日は僕の誕生日でね」
「そうですか!私も誕生日に生まれたんです!!」
同じ文章の中でトートロジーが発生する人というのを僕は長い人生でいまだかつて見たことがなく、今後も見ることはないだろうと確信するほど稀有の存在であり、仮定の話だが、いるとすればこうだろうという例文をお示しした。これを英語でそれなりの人に話せば、ほぼ100%の確率で瞬時にこいつは馬鹿だと判定される。「AだからB、BだからC、よって、AならC」というのを論理的思考のイロハのイである三段論法というが、二段である「AだからB」で混線しないとトートロジーは発生しない(黒い黒板、未婚の独身者など)。二段で間違える人は、確実に、三段論法はできない。よって、そういう人は数学の試験はほぼ零点だろう。「そんなものは人生に必要ない。人は経験を積めば成長するものだ」と主張する人も、零点だった人である。
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