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クラシック徒然草《ニコライエワの平均律クラヴィーア曲集 第2巻》

2017 JAN 25 1:01:06 am by 東 賢太郎

ギターでは出せない和音があると知ったのは高1の時でした。それはストラヴィンスキーの火の鳥の終曲です。どうしても自分の手で鳴らしてみたかったのです。仕方なく小遣いを貯めて1万円以上する指揮者サイズの原典版オーケストラスコアを神保町の洋書店で買って、その部分の音符をピアノで弾いてみてわかったのです。

そこからしばらく見よう見まねで練習し、弾けたのはバッハのインヴェンション1番と火の鳥終曲だけでした。それがきっかけでピアノはすごいということに目覚め、自分でハノンをやっていい加減な指使いでモーツァルトやベートーベンも適当にさらったりしました。

結局、習ってないわけですからそれ以上は上達せずです。ただ、だんだんそうするうちに自分は弾くことより音楽の構造分析の方に興味があるということがわかってきました。長調が明るい、短調が暗いと感じるのはなぜか?そんなことが解明できないのだから第九を聴いてどうして人が感動するのかなど遠い道のりです。それを解明したいと思ったのが音楽にのめり込むきっかけでした。

オーケストラスコアをピアノ譜にリダクションしたり、ピアノ的な眼で見るというのが面白くて熱中し、シンセでオーケストラを演奏するようになりました。ダフニスとクロエの夜明けが相当音を落としてもそれらしくピアノで弾けることに感動したし、そういうことを通して楽曲のストラクチャーや和声構造がわかるようになって音楽がちょっと違う次元で聞こえるようになったかもしれません。

ピアニストにはハマりました。彼らは演奏家であると同時に指揮者でもあります。つまり自己完結した完璧な音楽家です。指揮者がどう音楽を作りたいかはオーケストラという他人の手を借りてしか音にできませんが、ピアニストはどんな複雑な曲でも自分だけの手で思うままに表現できます。その人のソウル(魂)にふれるという意味で、大変完成度の高い表現形態であることに惹かれました。

畏敬するピアニストは何人かいますが、ピアノ演奏の深遠さを学んだのはタチアナ・ニコライエワのバッハ平均律クラヴィーア曲集 第2巻です。

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これはなにか犯し難い人間の尊厳を漂わせ、ひたすら高貴な音で訥々と綴られた一編のドラマなのです。バッハがどうしてこんなに生き生きと歌えるのか、レガートで弾けるのか、オーケストラのようなソノリティが出るのか、現代のコンサートグランドのバッハでどうしてこんなに深みのある低音が響くのか?高度な技巧なのにまったくそれを感じさせない。聴くたびに何かいただいて、少しだけバッハの精神に近づけるような気がする僕には特別の存在です。

51s-QrQq3EL._SX347_BO1,204,203,200_若いころショーペンハウエルの幸福論をむさぼり読んで人生が少しだけ分かった気になった。いまや恥ずかしいばかりの甘酸っぱい思い出なのですが、それでも「本はばかになるから読むな」、「孤独こそ人生の理想の姿」など僕の精神にストレートに入って深く影響する言葉が残っているのは驚くばかりです。ワーグナー、ニーチェ、R・シュトラウスが傾倒した哲学はとくに難解ではなく、「腑に落ちる」から残ったのだと思います。ニコライエワの平均律はどこかそれに似て、お腹にずしっと響いた感じでしょうか。

 

なぜ第2巻かといって意味はなくたまたま聴いていただけで、第1巻も同等に素晴らしい演奏です。音楽に人生を求める必要はありませんが、ピアノ音楽の深みを知る意味ではこれはショーペンハウエルの滋味に似たものがあります。

 

 

J.S.バッハ 「ゴールドベルク変奏曲」

 

 

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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(4)

2017 JAN 24 1:01:41 am by 東 賢太郎

フルトヴェングラーのブラームスに話が飛んでしまったのは、ラインを聞き進むとほとんどの演奏がテンポの問題で暗礁に乗り上げてしまうからです。テンポを論じるとどうしてもフルトヴェングラーを引き合いに出さざるを得ません。

スコアをシンセで演奏してみて、テンポ設定とフレージング、アーティキュレーションの難しさを体験しました。管弦楽といえども演奏するものは「歌」です。歌というのは音楽の醸し出す意味や感情にそった呼吸の脈動であり、音の漸増・漸減があり緩急があって言葉の発音がある。テンポはそれらを 統合した結果、最も自然なところに落ち着くべきものと感じました。テンポが先にあって、それに他のものを合わせるというものではないということをです。

例えばallegro  moltoと指定があるがそのテンポで演奏したその音楽に共感が持てない場合は歌として呼吸が合いません。自分の持つパルスと音楽のパルスが共振しません。するとそのしわ寄せが上記のパーツのどこかに物理的に出て、説得力のないオーラの薄い演奏になってしまいます。

ベートーベンのメトロノーム問題が好例です。ベーレンライター版ですごく速いテンポになって、「共感はしないがオリジナルです」という主張の指揮者による演奏は、博物館の資料としては、あるいは好事家のコレクションとしては価値があるでしょうが、奇天烈な速度のコーダで終わる第九のようなものを僕はあんまり歓迎はしません。

これはあくまで主観ですが、フルトヴェングラーのブラームス交響曲は1番と4番なのです。そしてそれはテンポに深く関わっておりましたことは前2回の稿で書かせていただきました。それを導き出した彼のテンペラメントが1,4番に合っていたということと思われます。特に1番の52年盤については既述の通りですが、しかし、2番となると一転してこう感じました。

ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(1)

僕は別にフルトヴェングラーのファンではなく、ブラームスのファンです。彼の書いた音楽の崇拝者であって、ファンとして「こう演奏すべし」があって、それに近ければ是、遠ければ非というだけです。彼は2番にはうまく共振できていないという結論になりました。

一方、シューマンについてはテンペラメントの合う1番、4番しか残しませんでしたが賢明な判断でした。2番の歪んだ狂気の軋みは彼に似合わないし、3番に至っては彼の秘術、至芸の通じる部分はどこにもないでしょう。

 

以下、すべてyoutubeで音を聴けます。

ルネ・レイボヴィッツ / インターナショナル交響楽団

51Y9BqcRMiLスコアにマーラー以上の改竄があり、第1楽章のせっかくの良いテンポがコーダで瞬時に崩壊するのはがっかりです。再三の指摘ですが両端楽章のコーダに欲求不満を覚えてか加速する指揮者が多くいます。マーラーを始祖とし、肥大化した後期ロマン派のオケ目線から「シューマンの管弦楽法は下手くそ」とする人たちと源流を一にします。レイボヴィッツのベートーベンの読みが同じアプローチで一貫しているのは評価するのですが、時代がシューマンまで下るとワーグナーに発したブルックナー、マーラー路線とクララ、ブラームス路線の分岐の起点がやってくるのであって古典派のようにはいきません。

 

セルジュ・チェリビダッケ / ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

4148MOPwOML僕にはテンポが遅いのですが、盤石でゆるぎないラインの流れです。深々したオケの響きがなにかを語りかけ、意味深く神判のように鳴るティンパニに宗教的なものさえを感じる不思議な第1楽章。細部まで一点もゆるがせぬ神経で支配する彼の世界です。実に濃い。コーダの雄大なこと!テンポの不満を言うこちらが稚拙に感じてしまう。第2楽章も遅く、スケルツォでも舞踊でもないレガートの美しい絶対音楽。第3楽章はさらに遅い、春の森の陽だまりの夢想。第4楽章はテヌートのかかった各声部のまとわりが教会にこだまする交唱。こういう音の作り方、只者でないです。終楽章、やや遅めですが第1楽章と同様にこの速度でないと見えない音楽あり。コーダに向けて熱と密度が上がりますがテンポはそのまま。感服。こういう器量がない指揮者が曲の終結感に自信が持てず、アッチェレランドをかけるのです。マーラー版ではないが彼なりの変更があります。

 

ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー / エストニア国立交響楽団

789オケの音がシューマン的ではないが理想的なテンポで開始し、インテンポのまま第2主題に至っても揺らぐことなしです。エネルギーもテンションも見事であり、非常に満足感あるコーダで締めくくります。但しスコアはかなり改変あり。踊れる第2楽章を経て深みある第3楽章へ。ここは録音が貧しくて惜しい。第4楽章は金管の音がやや異質ですが重たい時が流れています。一転、明るい終楽章はやや弦が荒い。速すぎず良いが、このテンポだと第2主題でやや緊張を欠くようです。コーダもほぼインテンポで僕は満足。おそらくこれは多くの人を満足させないでしょうがこの指揮者のスコアの読みの深さは何を聴いても敬意を覚える水準にあります。

 

トマール・マーガ / ボーフム交響楽団

チェコ出身のドイツ人マーガの名前は懐かしい。オケが二流ではあるがティンパニをアクセントに気骨あるインテンポで通した立派な第1楽章です。スコアはオリジナルのようで中間楽章もロマンに背を向け淡々と進みます。終楽章もなんの細工もないが、管が厚みを欠く分ティンパニがモノを言い、充実のコーダに至って何の不足もない満足感を与えます。こう書けているスコアを二流の感性とテクニックで味付けして出す。素材の味がわからぬ二流の料理人だが、そもそもそういう人がどうして料理人をしているのかが僕にはよくわかりません。

 

ひとつ面白いものを。第4楽章をオルガン編曲した人がおられます。

この楽章を宗教的と書く意味を感じていただけると思います。J.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻第24番ロ短調の前奏曲、聞こえてきませんか?

(ご参考)

シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(第4楽章)

 

(こちらへどうぞ)

シューマン交響曲第3番の聴き比べ(5)

 

 

 

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フルトヴェングラーの至芸の解明(その2)

2017 JAN 23 13:13:51 pm by 東 賢太郎

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フルトヴェングラーの指揮は「即興重視で厳格な練習はせず棒も不明瞭」というイメージが固定化しているように思われます。毎回ノリが違っていて、いざやるまでわからないぞ、でも燃えた時は凄いぞというニュアンスですね。理知的な人間を嫌う日本では彼のスタイルはトスカニーニの機械的に対し人間的とされ、人間味=義理・人情という思考回路で浪花節的な人気さえ得ている印象がありました。ドイツ人は日本人に似ている、一緒に戦った同胞と思ってくれているという、事実とかけ離れた片想いにどこか通じたものを感じます。

前回書いた箇所のテンポや音量の一糸乱れぬ劇的変化がその場の「人間的な」思い付きや即興でできるはずはないのであって、彼は周到な計画と練習であれをやっています。もしそこに即興的な要素があったとすると、それは弾いている楽員やひょっとして彼自身もがそれを即興と感じながら演奏しているというパラドキシカルな現象が起きていたかもしれないということにすぎません。

彼はわざと棒を不明瞭に振ってアインザッツがきれいに揃わないようにしたそうです。おそらく奏者も聴衆も「即興を聴いている」と思いこませるためです。彼が日本人の大好きな「理知的でないおおらかな人」だからそうしたのではなく、非常に理知的な人であってベルリン・フィルという一流オケはそう振らないと縦線が揃ってしまい即興風にならないという計算からです。

そうやって今日は練習にはなかった「何か凄いこと」が起きているという緊張感がオーケストラに走ります。それが聴衆に音だけでないオーラとなって伝わります。客席にいた多くの音楽家、カラス、アシュケナージ、カラヤン、バレンボイムらが称賛したように、今度はそれを受け取った聴衆の期待がオーラとなって舞台にフィードバックされる。それが混然とあいなってあの尋常でない興奮を生んだのではないでしょうか。

目の前で創造行為が行われている「一期一会」に人が酔い、会場に満ちた空気は色が変わる。チェリビダッケが自身の演奏の録音を拒んだのは会場にいないとシェアできない空気の存在が音楽の音楽たる必須の要素と考えたからですが、それは彼の弁によれば崇拝したフルトヴェングラーの演奏会にそれを感じ取っていたからです。つまりそこにはそれが「在った」のでしょう。

ストラヴィンスキーとフルトヴェングラー

ストラヴィンスキーとフルトヴェングラー

 

フルトヴェングラーは作曲家であるため「音楽」を記号に封じ込めきれないことを悟っており、スコアという記号から作曲家の「スピリット」を読み取る姿勢が徹底していました。それは厳格な練習によるメカニックなアンサンブルで得られるものではなく、創造行為への参加によって現れる「演奏家と聴衆の醸し出すオーラ」が生むもの、チェリビダッケ曰く「超越的でメタフィジック(形而上的)なもの」という哲学であって、彼はそれを醸し出す類いまれな精神と技術を持った職人であったというのが僕のイメージです。

 

フルトヴェングラーのブラームス交響曲第1番の「痺れる箇所」の2つ目ですが、第4楽章の比較的後ろの方、第2主題が再現する直前の部分にございます。

その個所にいたる数小節(273小節から)を、よく聞こえる第1ヴァイオリンの譜面で示します。e-d#-e はこの楽章冒頭に提示した音型で ♪♪♪♩ の運命動機とリズム細胞を共有しており、この部分で暗示的に執拗に繰り返して興奮を高め、第2交響曲の冒頭主題にもなっていくのです。運命だよという暗示をこめながら。下のビデオの42分10秒からです。

音楽は苦しみの色を見せながらもぐんぐん興奮の度合いを高め、ff(marcato、音をはっきり弾け)に至ってついにアルペンホルン主題が顔を出し、「頭欠けリズム(8分休符で強拍をずらす)」で息も絶え絶えの様相になる。そしてとうとう N の ff で音楽は減七和音の苦味ある絶頂に至り、アルペンホルン主題を絶叫するのです。この楽章の、いや全交響曲の感情のピークはここにあると言って過言でないでしょう。

アルペンホルン主題はクララの誕生日祝いに書いた旋律である、千回もキスを送りますと書き添えて。なんと意味深長なのだろう。僕はこのヴァイオリンの譜面を眺めているだけでブラームスの気持が何となく心に浮かんでしまう、彼はクララと叫んでいるのです。

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ff で叫んだわずか2小節後に p にまで一気に音量が落とされる。これも異様である。ああ、ここはブラームスのトリスタン前奏曲なんだな、ここに至るまでの興奮の道のりはそういうことだったんだなと大人の理解をしてます。もちろん真偽はわからないし、ブラームスという用意周到な人がそんな風に見透かされるへまを犯すとも思えない。しかしフルトヴェングラーの演奏はそういう風に聞こえてしまうのです。

上掲スコアがヴァイオリン譜に続きます。

ここでどの指揮者もテンポも落とします。しかしフルトヴェングラーの落とし方は尋常でなく、アルペンホルン主題(クララ主題)をやさしい憧憬をこめて慈しむように歌いながら、もういちど mf を経て f に感情が高まります。心臓の高鳴りのようなティンパニの律動を伴いながら・・・。

そのドミナント(g)を p でたたいていたティンパニがトニック(c)を f でたたく印象的な瞬間は、シューマンの3番の第1楽章展開部でやはりティンパニが p のドミナント(b♭)からトニック(e♭)を f で打つ、まさに天才の筆による陶酔的な場面(271小節、第1主題がロ長調で回帰する前)とそっくりです。ここに夫のシューマンが顔を出している。しかし音楽はまた静まっていき301小節の第2主題の直前で完全に停止してしまう。

フルトヴェングラーの至芸はこの部分なのです。

シューマンであるティンパニをくっきり大きめに叩き、それが弱まると音楽は後期ロマン派の森の中をどんどん遅く、小さくなって、愛への希求を訴えつつ身も溶けるような深淵に到達します。やさしく愛を語りながら体は弛緩して完全停止してしまう。もうエロティックとしか表現できません。フルトヴェングラーはそう解釈したわけです。何度聴いても僕はここでノックアウトを食らいます。

このアルペンホルン主題は楽章の構造からすれば序奏に現れただけの、正規の家族である第1、第2主題からすれば「他人様」の存在なのです。他人である人妻への誕生日祝いに書いた旋律である。それが再現部になって第1、第2主題の間に衝撃的な登場をし、有無を言わさぬ存在を示して全曲のピークを形成する。

変でしょう?

僕のように理屈好きの人間に、死んだ後にでも気づいてもらいたかったのだろうか、やはり理屈っぽかったブラームスはそう語りかけている気がします。いやいや、でもソナタじゃないんだよ、キミ、それは考えすぎだよという迷彩もほどこしながら。

第4楽章になぜ展開部がないのか僕は長年わからなかったのですが、ははあ、そういうことですかね、ドクトル・ブラームス、さすがですねなんて思ってもいるのです。21年かけて書いた初の交響曲。緻密に構想して43才にしてとうとう発表したブラームスですが、彼の伝記からもそんな隠喩が秘められていて不思議ではないと考えています。

このアルペンホルン主題による痺れるドラマ、いかがですか?フルトヴェングラーの解釈がそうだったかどうかは知りませんが、他の誰の演奏もこうは聞こえず彼のだけが僕を打ちのめす音楽となっているのは、ブラームスの意図を、真相を、ぐさりと突いて共鳴しているからではないかと感じるのです。

62243上掲のビデオは前回と同じく僕が最も評価するBPOとの52年盤(右)ですが、ほかのオーケストラ(VPO、NDRSO)との録音もコンセプトはまったく同じです。フルトヴェングラーの至芸は即興の結果ではないのです。ただNDRSO盤は「愛の完全停止」がほんの少し短いなど他流試合だからかどこか煮え切らない観があります。こういうことは即興というよりライブの面白さでしょう。

 

クラシック徒然草―フルトヴェングラーのブラームス4番―

シューベルト交響曲第8番ロ短調D.759「未完成」

 

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森嶌医師の診断が下る

2017 JAN 22 11:11:50 am by 東 賢太郎

bioresドイツのRAYONEX社製の波動測定器バイオレゾナンス(右)は人体の各臓器の発する微弱電流を感知する驚くべき精巧な装置です。人間は臓器ごとに周波数のレンジは決まっており、病変があると数値がそこからはずれるので、この装置で測ることにより癌や腫瘍がどこの臓器にできているかが発見できるのです。友人がマーカーにひっかかったと聞いて心配になり、急遽きのう大阪の守口まで彼を連れて診断に行ったのでした。

ここに書いた森嶌医師は高度な技術のいるバイオレゾナンスによる診断を行うだけでなく指導までできる免状を持った唯一の日本人医師です。

森嶌医師との会食

電極を両手首・足首に装着すれば15分ほどでデータが読み込まれます。医師が解読して全臓器の状態をわずか数分でチェックします。

まず、「尿酸値は高めですね」と聞かれぎょっとします。そうなのです。人間ドックではそれだけ必ずひっかかる。血も取ってないのにどうしてわかるの?「腎臓排泄能力、大腸の機能がやや低下、肝臓の解毒力が低下してます」「副鼻腔炎があります」「重金属(水銀、鉛、アルミニウム)はほとんど溜まってません」と矢継ぎ早に診断が出ます。

biores1さらに驚いたのは、副鼻腔炎の原因菌の特定までできてしまったこと。これは菌のサンプルが入った試験管を次々にトレイに載せ、僕の体にテンソル(右)という金属製のバネのような器具を向けて振動させ、サンプルと体の発する微弱電流の波動の共振を測定するのです。二つの音叉のように共鳴したものが「犯人」なのです。そうして何十もあるサンプルから2つの菌が特定され、それを弱らせる漢方薬と乳酸菌が特定され、錠剤が処方されました。

「腸内細菌である乳酸菌と副鼻腔炎が関係あります」と言われたのも意外であります。乳酸菌というと我々はヨーグルトの宣伝文句で「いろいろある」「おなかに良い」ぐらいのもので、これほど分類されていることもピンポイントに効能が特定されていることも、悪玉菌があることも知らないのではないでしょうか。

テンソルの運動で波動共振(レゾナンス)を感知するのは訓練がいる部分のようでこの機械があれば誰でもできるものではなく、「楽器ですね」「まさにそうです」とのこと。まったく同様のプロセスで腎臓、大腸、肝臓の機能改善薬も選ばれ、それらがすべて生薬(LPSなど)である点も特徴でしょう。ドイツ的な徹底した合理主義と東洋医学が融和した印象です。

訪問の目的であった友人の問題部位と原因は簡単に特定され、転移もないし診断により原因は除去可能であると分かったので、あとは精密検査次第で必要ならば切除すれば治るし再発もしないでしょうということ。一安心です。この「原因の特定」というのがこの治療の最も優れた部分と思料します。病変は対症療法でその臓器だけ治しても原因が根治しないと再発します(僕の鼻のように)。「元から絶たなきゃダメ」というCMが昔ありましたがそういうことですね。西洋医学の限界はそこにあるということです。

僕の方は、

「脳内のストレスの数値が低いです」

「先生、逆でしょ、僕の仕事ご存じでしょ、高いでしょ?」

「いえ低いです、珍しいですね」

という診断が最後でした。誤診?を疑いましたが、

「東さんが高いわけないでしょ(笑)」

の友人のダメ押しで観念しました。家族と猫と音楽のおかげ、ということにしましょう。

診断所要時間はわずか30分、コストは薬代込みで5万円ほどで人間ドックと同じぐらいです。処方されたもののひとつ免疫ビタミンLPS(リポポリサッカライド)は免疫細胞を強くするので病気になりにくい体になります。

こういうことですから森嶌先生の診療所は4か月待ちの繁忙状態です。昨日は学会ご出席のため休診日なのに、事態を察して僕らのためにわざわざ3時から開けて下さいました。お人柄も医療のうちです。読者の皆様で、ご本人ご家族などがもし友人と似た状況にあれば先生を訪ねられてはいかがでしょうか。

 
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クラシック徒然草《フルトヴェングラーと数学美》

2017 JAN 20 22:22:02 pm by 東 賢太郎

シューマンの3番聴き比べをお読みの方は僕がいかにテンポにうるさいかお分かり(というか辟易?)でしょう。しかし仕方ないのです。世の音楽評論はそれに触れるのが稀ですが僕にはそれは文系的感想文であってグルメ日記と変わらない。音楽には計量的な要素が多くそれを明示しないと同じ好き嫌いでも根拠が不明です。

指揮者のすべき最大の仕事はテンポ(timing)設定だと僕は思います。たぶんほとんどのプロの指揮者にも同意していただけると思う。テンポの変わる音楽は基本的にクラシックだけで、指揮者がいるのもクラシックだけだという事実にそれは現れています。

アレグロ、ラルゴのように楽曲全体の基本となるテンポは指定されていても、それ以外に細かくは楽譜に書いてありません。楽曲を構成する複数の主題、経過句、変奏さらにそれらを構成するひと塊りの音符群(フレーズ)にもテンポという可変的要素はあって、さらにそこからピッチを除いたものをリズム細胞と呼べば、それにもあります。

有名な例ではウィンナワルツの1・2・3というリズム細胞で1が短い。3つが等価でも青きドナウは演奏できますがそれらしくならないわけです。記譜するなら1:2:3の数値比を示せばいいがシュトラウスはそれをしていません。そういうものが総じて伝統であって、同じことは世界の古典芸能、雅楽にも歌舞伎にもあるでしょう。

主題や曲想に合わせて場面場面の速度をどうとるか、緩急の継ぎ目において時々刻々の速度の変化率をどうとるかで演奏の印象は千差万別となります。フルトヴェングラーはその達人でした。ブラームスの交響曲第1番には彼しかできない痺れるような、多くの指揮者がそれをまねているが一向に様にならない至芸と僕が思う部分が2箇所あります。

今日はそのひとつ目をお話しします。

第1楽章展開部の最後のところ、293小節で一旦音楽は静まり返り、ppのコントラファゴットの低い呻吟のようなf#・g・a♭からだんだんクレッシェンドが始まりますがスコアにはちゃんとpoco a poco cresc.とありますからこれはブラームスの指定です。それが頂点に達するのが下のスコアの K(321小節)です。

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フルトヴェングラーの演奏を僕のイメージで書くと、まずコントラファゴットに向けてテンポも音量もだんだん減衰してきて、呻吟のppのところで世界は冷え込んで奈落の底で時が止まります。そこから今度はテンポも音量も徐々に上がって音楽が延々と加熱していき、トランペットの運命動機  ♪♪♪♩  が鉄槌のごとく鳴り響き、ついに K の直前で音楽は灼熱のピークに達して一瞬のタメをつくりつつ Kに至って一気にすべてのエネルギーを放出する大爆発を起こします。するとぐぐっとテンポの腰が落ち、弦のユニゾンの音色が吹きすさぶ突風のように驚くべき急変を見せ(!)、ティンパニの ♪♪♪♩  が地獄に落ちるかのような恐ろしい審判を聴く者に告げるのです。実に凄い。

以上のことが下降、ボトム、上昇という美しいV字のループ状の曲線を描いて展開するさまは一個の芸術品をみるようで、音量を形(shape)と感じたバランスかと思われますが、実は音量に伴って速度も同じ方向に変化しているのです(それはスコアにない)。Kに至る上昇過程で、音量および速度をY軸に、時間をX軸にとってグラフ化するとxで微分した速度、音量の値は常に合致しているのではないかと感じており、計測してみたい衝動に駆られます。彼にそういう意識があるとは思いませんし天性の直感なのだと思いますが、フルトヴェングラーの演奏にはいくつかこうした神懸ったものがあって、その裏には何らかの数学的な美が隠れている気がしてなりません。

お聴きください(コントラファゴットが8分45秒です)。

9分48秒から再現部ですが、その直前の「ティンパニ ff 強打」が鳥肌のたつ激烈さで、こんな凄まじい音がする演奏は彼の他に聴いたことがない。

これは伏線があって、フルトヴェングラーは3小節前の第1ヴァイオリンの c、c#、d にスコアにはないトランペットを重ねて f で吹かせているのです。この部分、展開部前の8小節はブラームスがスコア改定後に挿入したもので、オリジナルのままの主題再現で物足りず Bm、Dm、Fm、G7 を入れて第1主題回帰へのエネルギーを和声の進行推力で増幅しようというものでしょう。

それに加え、ブラームスはその個所で低弦にそこまでの1拍3つの音価を2つにしてリズムに「つんのめり効果」まで作って ff で弾かせている。つんのめりの姿勢が g⇒c のティンパニ ff 強打の強烈なドミナント回帰の勢いで持ち直して、その反動の加勢も得てどかんと第1主題にエネルギーをぶつけようというものです。

トランペット追加、ティンパニ ff 強打(スコアは f)ともスコアにはないのですがあたかもブラームスが書いたかのように自然である。上述のように分析すれば、彼自身がスコアに追加までして補強したかった方向にベクトルが合致しているのだから当然でしょう。フルトヴェングラーのデフォルメは「ワタシを見て!」ではない理にかなったものがあり、その場合は余人の及ばぬ名演奏を成し遂げていると思います。

彼の1番は優れた有名なものが2つあって①52年2月10日(BPO)と②51年10月27日(NDRSO)です(どちらもライブ)。②の美も認めつつ、僕はここに挙げた①を選びます。例えば再現した第1主題は②では挿入した8小節のままの速度で進みますが①では少し戸惑ってから速くなります。その速度が僕は好適と思うからですが、この辺はもう好き好きの領域です。

もう一つの至芸は第4楽章にありますが、次回に述べます。

 

フルトヴェングラーの至芸の解明(その2)

 

 

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トランプと習近平が証明したこと

2017 JAN 18 23:23:21 pm by 東 賢太郎

いよいよ習近平がダボス会議に現れて「保護主義は利益にならない」と主張しました。その昔黒船を送って開国を迫ったアメリカが「国を閉じます」と言って、嫌がっていた中国が「開け」と言っている。天地逆転であり、いかに歴史的大転換の時代に我々は生きているかお気づきでしょうか。

僕の香港駐在による経験的持論である「中国ビッグバン仮説」が、実は仮説ではなかったことをトランプと習近平が証明しています。オバマはTPPでグローバリズムの延長線上に安直な勝機を見ていたが、トランプはもはやビッグバンを引き起こしたそのゲームのルールのままでは勝ち目はない、そんな悠長な事態ではないと言っている。彼はおそらく正しいのです。

正しいというのは「社会の変化によって追認されてあとからそういう流れが底流にあったのかと気づくような根拠のある」、という意味で言っています。それは白人のヘゲモニーの終焉かもしれず、自分が決めたのにルールが悪いと批判してみたり、中国が非道だと責任転嫁をしてみたり、はたまたインテリになればもう資本主義は役目が終わったんだという議論まで出てくる。

しかし、トランプが僅差ではあれ選ばれたという「社会の変化による追認」は、それがどんなに気に食わないことであっても事実であって、そこに至る底流は中国が「グローバル大貧民ゲーム」で独り勝ちした以外に整合的な根拠を見出すことは困難である。だからトランプは「閉じる」であり、習近平は「開け」なのです。失業はしない学者は気づかないが白人キリスト教徒の労働者階級は気づき、移民排斥という別な形でも不満は噴出しています。

トランプは中国も批判するが、メキシコという身近なシンボルを攻撃して同じことを労働者にわかりやすく訴え、当選した。かたや「資本主義は終わりです」、「みんなで貧乏になれば平等でしょ」と主張する政党がリベラルであり、ユートピア国家を目指しましょうという左翼学者が大学で教えている我が国。自分だけは大貧民になりたくない人の方がずっと多かった米国はわかりやすい資本主義国です。しかし仮に今世紀中にヘゲモニーが中国に移転したとしても、中国ほど資本主義が好きな国はないからそれが終わることなどないのです。

「中国ビッグバン仮説」は机上の空論ではありません。大貧民ゲームは麻雀と同じく「点棒(=お金)を争うゲーム」と認識しているからです。この現象は政治学、経済学、歴史学という分断された視点からの分析ではわからない、例えれば、現代医学が臓器ごとに専門分化しているため胃を全摘して治ったはずの癌が他臓器に転移するリスクを排除できないのと似ています。癌の根源を断つのが合理的で、「お金」を横軸として観察するヘゲモニー分析はそれに相当し、その結論が我が説なのです。

米国だけでなく欧州の反EUの様々なムーヴメントも同じです。2001年の中国のWTO加盟の瞬間(=ビッグバン)からこの日に至るのは宇宙の膨張のごとき「不可避的結末」だったのであって、米国といえど原理には逆らっても無駄なのです。白人が有色人種国を「辺境」として搾取し、贅沢でプライドある生活にあぐらをかくというインバランスはこれから音をたてて崩壊します。僕は中国共産党を支持する者ではまったくないですが、そのインバランスをアジアで独り壊そうと試みた結果あの戦争に突入してしまった我が国として、「アジア人」がヘゲモニーの一翼でも担えるようになることは別に悪いことではないでしょう。

我々が米国と同盟国であり続ける形で世界平和に貢献することが今後も重要であることは変わらないでしょう。しかし米中の軍事バランスもいずれは拮抗するだろう。そこで我が国の未来のためにどんな均衡点があるのかはまだ誰もわかりません。朝鮮半島が一つになればそれは核保有国だ。とすれば核保有がその唯一の解になることも視野に入るでしょう。エスニックで人を見る白人社会が終焉したわけでない以上、それに対峙してアジア人のプレゼンスが増すことは大いに歓迎したいというのが海外で16年を送った僕の持論ですが、今度はインバランスが転移してアジアに癌を作らないことが重要です。

(ご参考)

中国ビッグバン仮説 (追記あり)
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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(3)

2017 JAN 17 12:12:58 pm by 東 賢太郎

エリアフ・インバル / フランクフルト放送交響楽団

042この録音が実演で聴くこのオケの音に近いのですが、アンサンブルの力は高いですがドイツにしては幾分軽く深みがありません。インバルは耳がよくピッチと楽器のバランスはいい、ただテンポは作為的で第1楽章第2主題後の減速はクレンペラーのような至芸は感じず人工的です。コーダはややテンポが動いて盤石感も興奮もなく中途半端。終楽章のテンポはいいですね、これは理想的だ。そのまま行けばいいのにコーダは加速、それがインバルの感性ということですね。採れません。

 

リッカルド・ムーティー / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

707えらく元気がいい出だし。この変ホ長調の音楽はVPOの美質と得意技がほとんど効かないということがわかる意味で面白い演奏です。ドレスデン、ライプツィヒのドイツ的重厚感のほうがずっとフィットするのですね。第1楽章はムーティの悪い面が出てうるさいだけに終始しますが、加速はなしであり、彼はいけいけのイメージがあるがそういう安っぽいことには控えめなのがここにも出てます。第4楽章は教会の厳粛な空気が良し。終楽章のテンポはとてもいいですね、コーダの前のホルンは生きてます。コーダは既述の誉め言葉が許すぎりぎりの加速がありますが、まったくない方が感動的でした。

 

ギュンター・ヴァント / 北ドイツ放送交響楽団

200x200_P2_G2104724Wティンパニを強打してどっしりと速めの出だし。アンサンブルは緊張感のなかで大変に緊密で筋肉質です。しかしほかの3つの交響曲はそれが生きますが、3番は引き締めがきついとポエジーがなくなる難しさがありますね。以前は骨っぽさが良いと思った演奏ですが、こっちも年をとったのかいまはドラムと金管のリズムの強調が軍楽のようにきこえます。ほぼインテンポで一貫する第1楽章、終楽章の頑固な潔癖さは好みですが、似た路線ではセルの方が芸格が上ですね。

 

クリストフ・エッシェンバッハ / 北ドイツ放送交響楽団

41X23A9NE2L上記と同じオケで音の質感はヴァントと似ますが指揮の性格と録音の違いからこちらのほうがしなやかな柔軟性、流動性を感じます。アンサンブルも横の線に目配りがあり残響のブレンドが美しいのはこちらの強力な美点です。テンポは微妙に曲想に合わせてゆらぎますが不自然でなく、エッシェンバッハの指揮はドイツで何度か接しましたがピアニストの余技の域ではありません。終楽章の快活はほんの少し速いし軽い。コーダのテンポは手が込んでますが効果は薄いですね。

 

ダニエル・ガッティ / マーラー室内管弦楽団(2014年6月9日)

素晴らしい演奏です。ドレスデン音楽祭のクラウディオ・アバド追悼演奏会。オケの自発性が見事で、木質の響きは上質でまことにシューマンにふさわしく、リズムは心地よくふっくらとはずみ、弦の中声部が厚みをもって鳴り切り、トゥッティも音楽に感じきった強弱が実に美しい。音楽心と詩情に満ち、大きな室内楽のようなアンサンブル。もう良いことづくめです。第1楽章はガッティを祝福したい名演で、このテンポは全面的に支持します。第2主題への移行がうまく、ホルンの音色美は抜群で要所のトランペットも品格をもって存在感を見せ、コーダは微動だにせぬ不動の威厳、これでなきゃ。第2楽章はスケルツォに聞こえるテンポですが木管がうまい。第3楽章は耽美的で花園のようなマーラー的世界。音色のブレンドと変化がデリケートで、ガッティが縦線にこだわらず個々の奏者の感性から詩情を引き出してます。この楽章を極点として、全曲をシンメトリーととらえるアプローチでしょう。第4楽章、ホルンとトロンボーンの横の線を出しつつ管弦のレガートの絶妙のブレンドで暗めのオルガン的な音色を出し、終結の2度の不協和音への深い呼吸からの持っていき方も痺れます。オケのピッチがいいからこそできることですね。終楽章のテンポもagreeです。出だしの弦は羽毛のように軽く、フルートを浮き立たせて、いいですねえ。コーダは、僕は「もっとインテンポ」を望みますが、決して浮ついたアッチェレランドはなく、これもぎりぎり有りでしょう。最後の和音が鳴って、皆さん、舞台の顔、客席の顔をご覧ください。団員は抱きあってます。この交響曲にどれだけ人を幸せにするパワーがあるか!こんなものがそんじょそこらにあるでしょうか?人類史に残るかけがえのない名曲、ただただロベルト・シューマンにこうべを垂れるのみです。

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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(4)

 

 

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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(2)

2017 JAN 17 1:01:58 am by 東 賢太郎

オットー・クレンペラー / ニューフィルハーモニア管弦楽団

200x200_P2_G1606500W古老がゆったり人生を回顧するように、されど雄大なスケールで開始します。第2主題に悲しい陰りがありメンデルスゾーンのスコットランドを思い出す、これは本当にユニークな表現で敬服です。第2ヴァイオリン、ビオラの内声部が生き、木管も意味深い。ホルンはここではライン河畔の古城を強く想起させます。コーダは一切の加速なし、そんな小技には目もくれない大人の芸格ですね。第2楽章もダンスには遅く中間部は愁いを帯びる。第3楽章は情緒綿々たる真にシューマネスクな世界です。第4楽章は一転して峻厳なバッハの宗教世界。そして死のにおいのするそこから人間界の生の喜びに回帰する終楽章。ここも人生急がず一歩ずつでこんな遅いのはめずらしい、僕はもっと速くしたいがクレンペラーなりのユニークの極み。極く少し速くなるコーダに至り、そこからまた減速してどっしりと終る。このスコアはこうも読めるのかという印象です。

 

カール・シューリヒト / シュトゥットガルト放送交響楽団

11_1101_01冒頭からいきなり弦がなよなよのヴィヴラート、レガート、ポルタメント攻めで絶句です。実に薄気味が悪い。マーラーより対旋律の楽器を増やしてそっちの方が目立って奇異な音が鳴るというのは、もういったい何が始まったんだというレベル。コーダの加速にヴァイオリンのオクターヴ上昇など怒りすら覚えます。しかしそんなのは序の口。第3楽章の木管への楽譜の漫画的改変はひどい、なんだこりゃディズニーか?第4楽章、最後の厳粛な和音に能天気な弦をかぶせるなんてシューマンの意図台無し、勘弁してくれよですね。終楽章はいいテンポで始まったと思ったら弦のままのはずが突如木管に切り替わり、悪いジョークかと笑うしかない。ストコフスキーも改悪と言われましたが、こんな珍妙で下品なのはない、まさに空前絶後である。シューリヒトは敬愛する指揮者ですが、彼にしてラインはこんなゲテモノになってしまう。いかに特殊な、特別な音楽かということが逆にお分かりになっていただけると思います。

 

アルトゥーロ・トスカニーニ / NBC交響楽団(1949年)

783開始のテンポは堂々たるものですがトゥッティのオケが乾いた音でシューマン的とはほど遠いです。トスカニーニのカンタービレの技が生きないしピッチもNBCにしては甘い。そういう曲ではないのですね。コーダを加速しないのはさすがですが、オーケストレーションも耳慣れない楽器バランスがありどうもひたれません。第4楽章は暗めの音で雰囲気をつかんでいますが金管のフォルテはやはり外面的に響きます。終楽章の弦はNBCと思えぬほどがさつ。指揮者の共感がないんでしょう、コーダの金管の合いの手も下品であり、加速こそないがどうしてこれを振ったのか不可思議であるかなりずれた演奏ですね。

 

フランツ・コンヴィチュニー / ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

706 LGOの弦は4番ニ短調では良く鳴ってますが変ホ長調のこれはくすんでます。ドイツのホルンの古色蒼然の音色がまたそれに合っていて、ティンパニも響かず、全体にどことなくヌケの悪いのがこの曲調にはいいんです。そして、何といってもテコでも動かないテンポ。これですよ、コーダはこうでなきゃ。第2楽章も朴訥な農民のダンスです。第3楽章の暖かみあるクラリネットも昔の風情。第4楽章は暗い森の中のような色調。終楽章もあか抜けない田舎の村の集いの風情で、たぶんシューマンが指揮してもこうなるんだろうと連想します。彼は田園交響曲を書いたんです。再現部まで来ると音楽が暖まってきます、そしてコーダは少しだけ快活なテンポになりますがそのまま終わる。これですね。

 

ディミトリ・ミトロプーロス / ミネアポリス交響楽団

R-7955764-1452373254-5198.jpeg「耳の化け物」の興味深い録音です。やや遅めの出だしで第2主題は大きく減速。ロマンティックな表現です。展開部前のパウゼ、デクレッシェンドはユニーク。コーダの減速!はすごいですねえ、しかし悪い印象はなしです。第2楽章の加速、なるほどこれはスケルツォだったんだ、驚きますが見識です。こうなると音は悪いがきいてしまう。第3楽章もテンポは絶え間なく伸縮。終楽章はやや速めですがいい。恣意的のようですべてが手の内にはいった自在さで名人芸ですね。

 

パーヴォ・ヤルヴィ / NHK交響楽団(2005年6月11日)

これはいい演奏です。この演奏会はNHKホールにて聴いておりました。基本的に動かず盤石な全曲のテンポ設計、弦のくっきりしたフレージング、デリカシー、金管のリズムの嬉しげなはずみ、どれも一級品。指揮者が音楽に共感しないとこうはいかないだろうという場面が連続です。オケの音もいつもより暖色系でシューマンにはまことに良し。終楽章のコーダ前に速度を落として見えを切ってから加速するアプローチだけがリザベーションで当日も失望したのを覚えています。そんなことをしなくても曲がいいのだからと思います。

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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(3)

 

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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(1)

2017 JAN 16 17:17:43 pm by 東 賢太郎

ラインガウのことを思い出していると、どうしてもこの曲に気持ちが向かいます。

第1楽章はローレライに近いこのあたりのラインの船旅で霊感を得たとされますが本当のことはわかりません。調性が同じだからシューマンの英雄だという人もいて、たしかに彼の先人でEs durというとハイドン103番、モーツァルト39番、ベートーベン3番ぐらいしかないのですが、しかしエロイカとはちがいますね。発想の根源が。外面はともかく霊感の根っことしては6番の田園のほうがずっと近いだろうと僕は思います。

あのあたりというのは僕にとってたんに旅行しましたという多くの外国の場所とは一風ちがっていて、家族との大事な思い出の舞台なものだからもう自分のなかではいわば「ふるさと」に近いものになっています。ロンドンやチューリヒもそうではあるのですが、そちらはむしろ苛烈なビジネスの「戦場」という色彩がつよく、ドイツのような幸福の縁取りはありません。38才で我ながら輝いていた時分の心の軌跡が、まるで後光がさすように投影されて見えるのがシューマンの3番であって、クラシック音楽で一番好きなものはといえば迷わず、他に何ら理由もなく、これということになります。

しかし、これを書いたころ、シューマンの精神疾患はすでに進んでいたそうです。このすぐ前に書いたチェロ協奏曲にそれが悲痛な兆候として出ているのでわかります。ところが、デュッセルドルフに引っ越してライン河畔の素晴らしい風景や気候風土や人々の歓待に接し、その気分を音楽に書き取ってみようと思い立った。そこでいっとき神様が病気を遠ざけたのでしょうか、心にそよ風が吹きこんで、微塵も病を感じさせないこの奇跡のような交響曲が彼に降りてきたのです。

だからこの曲は、人間の精神の奇跡でもある。人工知能がいくら進化しようと、疲れ気味のコンピューターにラインの船旅をさせたらこんな曲が書けましたという光景は想像しづらいでしょう。シューマンの精神に効用をもたらした何ものか、その目に見えない何ものかを僕は僕なりに、この曲とは関係のない所でものすごく愛してる気がします。それは言葉や形にはならない、何万年よりずっと遠い先祖がここに住んでいたのかもしれないぐらいの微弱なものだけれど、僕の精神には甚大な作用を持っている、そういう性質のもののようです。

こういう気分の時しかできない作業のため、以前に書きましたこれ( シューマン交響曲第3番「ライン」 おすすめCD)の続編として数ある3番の演奏につき数回のブログでコメントを加えます。非常に悔しいが自分で演奏ができないので、失敬ながら他人様の演奏にああだこうだ言わせていただくことで間接的に自分の思う3番の姿を残したいという努力であります。そのために、思いと違う姿の演奏はあえてばっさり否定しておりますが、私見をクリアにするためであり演奏のほうはその鏡であって価値を論ずるつもりはありません。ご不快があれば何卒ご容赦お願い申し上げます。

なるべくyoutubeで音を確かめられるものからやってまいります。

 

カルロ・マリア・ジュリーニ / フィルハーモニア管弦楽団

PRDDSD-350135-260x260ジュリーニの1958年録音、3回の録音の2番目です。第1楽章の雄大なテンポ!これはヴィースバーデンのワーグナーがマイスタージンガーを書いた家からのライン川の景色だ。フィルハーモニア管がやや即物的でオーケストレーションもマーラー版をベースにかなりいじってるのが気になり、終楽章のレガートの入りも気に食わないしコーダの加速は全く余計である。同じスタイルでさらに大人の表現となっているロス・フィルを採るべきでしょう。ただこの恰幅良さ、些末事に委細構わぬ悠揚としたテンポは指揮者の3番への強い思い入れと愛情なくてはオケにここまで伝わらない。その思いには共感があります。

 

ジョージ・セル / クリーブランド管弦楽団

817大学1年の6月に初めて買ってラインを覚えた思い出の演奏です。セルは3番を指揮できる人だったというのが重要な情報ですね。即物的で冷たいといわれたが、そういう人にこの曲はできないのです。レコードだけ聞いて批評してる人にはCBSの音作りの印象があったと思います。オーマンディの演奏会での音は日本の批評家のいうイメージではなかったですが、同じことはセルにもあったでしょう、彼はアンサンブルには非常に厳しいがとてもヨーロッパ的な感性だった。この3番にアメリカ的なものはかけらもなく第1楽章の終結も安っぽい芝居は一切なし。マーラー版で金管を補強してますが、どこを微細に聴いても立派な音が鳴っていて熟達の表現です。終楽章の冒頭主題のフレージング!!すばらしい呼吸、コーダの盤石なテンポ、最高です。これで曲を覚えたのは幸運でした。

ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

743彼はベートーベン、ブラームスは良くてシューベルトはいまひとつ、シューマンもなぜか4番以外はだめです。第1楽章、このオケと思えぬガサツな弦でほとんど練習してないかと思わせるひどい始まりですが、その後もヴィヴラートは過多だし、悪趣味なポルタメントはかかるわ、第2主題はぬめぬめレガートをかけるわ、ホルンのパッセージは意味ありげに安手のリタルダンドするは、再現部は第1主題に意味ない盛り上げの努力をするは、すべてが人工的、表面的で彼はラインガウでゆったりシュタイゲンベルガーなんか味わったことないんじゃないかと訝ってしまう。これが好きな人がいても構わないが僕とは極めて異質な感性であります。第1楽章で充分不合格で後は聞く気なし。

 

レナード・バーンスタイン / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

110VPOの音で始まるがやや力こぶが入りすぎで、テンポが頻繁に無用に伸縮してジュリーニのようなラインの風景が浮かびません。コーダの加速は意味不明で趣味が悪い。第4楽章のマーラーのごときロマン的な解釈は彼の個性としては良しで終結の悲痛さから第5楽章への場面転換は見事ですが、そのアプローチで全曲を劇的に構築しようというのはそぐわないでしょう。終楽章終結へのリタルダンド、アッチェランドは暴力的ともいえるひどいもので、VPOもこの曲がうまいわけでは全然なく、指揮者ともども感性にお門違いも甚だしいものを覚えます。

 

ブルーノ・ワルター / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

316音が悪くて敬遠してましたが前半は悪くはないです。ワルターのラインはこれだけです。第1楽章はややテンポの弛緩はあるがコーダで無用に興奮しておらず、第2楽章の暖かさはワルターらしい。第3楽章はちょっと速いですがこれがスコアの指示でしょう。オケにデリカシーがなく雑然と鳴るところがあるのは惜しいです。問題は終楽章のテンポと弦のフレージングです。これはマーラー版でもなく彼の主張ですがついていけませんし、再現部直前のルフトパウゼにはひっくり返ります。最後も微妙ですがアッチェレランドしてます。向いてません。ワルターファンのためのものでしょう。

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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(2)

 

 

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クラシック徒然草《コンヴィチュニーの指輪全曲》

2017 JAN 15 17:17:00 pm by 東 賢太郎

年末に欧米の演奏会プログラムの整理をはじめましたが大量であって、あれこれ思い出してじっくり読んでしまうためまだ終わらないままです。ドイツ時代のを見ているとだんだんその気分になってきて、CDをひっぱり出してニーベルングの指輪を全部きいてしまったりちっとも進まないのです。

ところで先日、人工知能の専門家にこういう興味深い話をうかがいました。

もの忘れの正体

記憶はばらばらに倉庫に入っている。面白いですね、思い出すときは各ピースを海馬に持ち寄って、脳が自分で勝手な「思い出し画像」を作る。でもそれはフェイクですよね。だから過去はフェイクなんです。アインシュタインが過去も未来も実はないと言ったのに平仄が合いますね。

では音楽はと聞けばよかったのですが時間切れだったのでここからは想像になります。

最近、昨日の夕食もときに忘れます。地名やら人の名前がなかなか出てこない。先生のいわゆる「各倉庫からピースがすぐそろわない」わけです。ところが音楽においてそういうことはありません。15時間もかかるリングでジークフリートのあの辺というとパッと出てくる。このアンバランス、何なのか?

記憶は長期と短期があるらしく、それは長期記憶だから昨日の夕食とは倉庫が違うのでしょう。しかし、では昨日聞いた音楽を忘れるかというとそうでもないから変です。しかも音楽は時間とともに変化する記憶だから単発の情報でなく、倉庫は相当でっかくないと入らないと思うのです。

素人考えですが、それは写真と動画に対応するかもしれません。世の中、森羅万象を我々は動画として認識してるから、そっちの記憶の方が定着するのかなと。このトシでまだいくらでも新しい曲を覚えられそうな気がしますが、ひょっとして使ってない9割の脳細胞が少しは役に立ってるのでしょうか?

昔のプログラム、やっぱりドイツのインパクトが強いのです。あそこで聴いた音楽がドイツの記憶の倉庫にぎっしり入っていて、だからドイツの出来事も音楽もいっしょにどんどん蘇ってきます。それがダントツにワーグナーなのは、きっとそれまみれの生活をしてたんでしょう。いや、ワーグナーなんか思えば何も知らなくて、わかったのはドイツに3年住んで聴きまくってからだったと思います。

オケの音というものそうです。ドイツで普段着で通っていたアルテ・オーパーやヤーレ・フンダート・ハレ、あそこで日常に聴いていたドイツのオケの音というのはまったくおひさしぶりになってますね。日本のオケからはついぞ聞いたことがない。出せば出るかというと、これだけ長いこと聞いていてないのだからそれは考え難いことでしょう。

というと日本ではすぐ「音色」の話になります。くすんでるとか渋みとかですね。レコードばかり聞いてるとそういうことになりますが、実際の音ではそんなマニアックな差よりもっと子供でもわかることに誰でも気づきます。音量、ボリューム感ですね。フォルテの音がでかく、音圧が半端でない、それも力一杯がんばってではなく。簡単に言えばベンツの600ですね、あれでアウトバーン200キロで悠々軽々と走ってる、あの感じそのものです。

日本のオケはカローラで150キロ。頑張ってるのはわかるが・・。日本人は清貧で一生懸命好きだからそれで食えてます。それ言っちゃあおしまいよなんでしょうが、しかし、クラシック音楽というのは本来贅沢品ですからね、そこで清貧いわれても苦しい。日本で爆演、奇演が受けるのもそう、必死の形相でスピード違反してもらうと満足する。変態ですね。ベンツ600は出せば300キロ出ますがね、そんなの誰も期待してない。普通に余裕の200キロ、それがいい演奏です。

去年読響でエルザ・ファン・デン・ヘーヴァーという人のR・シュトラウス「4つの最後の歌」を聴きましたが、彼女の声です、あれは日本人には出ない。発声の知識はないですが、まずあの体格がないと難しいのでしょう。音量でもあるが、質的なものもふくんだトータルなボリューム感としか言いようがない。じょうずなお歌じゃない、あの絶対の安定、豊穣、聴きながらドイツの風景がさあっと脳裏に広がったですね、彼女の歌で。

ドイツのオケもいっしょです。例えばコンヴィチュニーのシューマン4番、ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の音をいい音でお聴きになるといい。質量の重い、重心の低い、強い、粘度のある、それでいて中高音にオルガンの質感のあるクリアネス、華やかさがあって、「トータルなボリューム感」がクオリアとなってずっしりと押し寄せるのです。ああこれだと、これがシューマンだと。

シューマンはあの音が念頭にあったはずで、日本のオケの細密でデリケートではあるがボリューム不足のクオリアで、しかもあのプアで痩せた音響のNHKやサントリーでやられても僕は耳にひりひりして不快か欲求不満になるだけです。アルテ・オーパーもヤーレ・フンダート・ハレもホールとしては二級ですが、オケの威力で聴けていたのだということを日本に帰ってきて知りました。

これがワーグナーとなると歌手とオケの両方のクオリアになります。どっちが欠けても、らしくなくなりますからダブルパンチでどうしようもない。

僕はアカウンティング(会計学)は法学部なんで日本では簿記すら知らず、全部アメリカで英語で覚えたから日本語の用語を知らなくて帰ってきて不便でした。ワーグナーはそれと似てます。ドイツは二級のオペラハウスでも歌手はでかいですからね、それで何となくサマになってしまう。歌はへたなんだけど。ボリューム不足を小技のうまさで補うというのは成り立たないんですワーグナーは。

068先日これを見つけて、前から気になっていたので買ってきました。コンヴィチュニー/LGOのワーグナーはあまり残ってなくて、これもコヴェントガーデンのライブですが、そこはカネがあるところ一級品集まるの法則どおり、これが凄いメンツなんですね。何といっても聴きたかったのはアストリッド・ヴァルナイのブリュンヒルデです(これは期待通り)、そこにヴォルフガング・ヴィントガッセン(ジークフリート)、ハンス・ホッター(ヴォータン)、クルト・ベーム(フンディング)とくるとですね、これはもうV9時代の巨人軍であります。これで負けたら仕方ないねという。

59年の録音ですから原音のクオリアは収録されてない。しかし、そこで冒頭の人工知能の先生の話になるんです。

頭の中でドイツ時代のワーグナーの記憶のピースが合わさって、アストリッド・ヴァルナイの声は耳にびりびりきてるクオリアを感じます。フェイクなんですけれどもね。しかし、いくら最近のいい録音でも、いえいえライブですらですよ、こんなことはめったにない。この録音に物理的に収録されているものは乏しくても、原音が宿していたクオリアは僕があのころ聴き覚えたそれに共振して、その倉庫から記憶をひっぱり出すのではないでしょうか。

 
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