ソナー・アドバイザーズ(株)創立5周年
2015 OCT 21 8:08:13 am by 東 賢太郎
昨日10月20日、というか帰宅したらもう日付が変わってましたが、ソナー・アドバイザーズ(株)の創立5周年を食事会で祝いました。
子供だと七五三ですが、3年目はまだ祝うどころではありませんでした。なんとかここまで来ましたのはひとえにお客様と社員の皆様のお蔭です。
特に社員(というか仲間)には責任感あるプロフェッショナルな仕事をこなしていただき、僕が自由好き勝手をやる精神的すき間を作ってくれました。昔からこの状態でこそベストパフォーマンスになる人間なので、非常に大きなことでした。
いま気がついた意外なことがあって、お客様と社員の全員が、僕が会社勤めを2010年に辞めてから新たに知り合った方々なのです。そう意図したわけではなく、もちろん従前のおつきあいをないがしろにしたわけでもありません。
これがどうしてか、考えましたが理由は浮かびません。昔に頼る間もなくどんどん新しい関係ができてしまいました。想像だにしなかったし、なにか生まれる前からのシナリオでもあって淡々と当たり前のように進んでしまった5年間という印象もあります。
起業しなければそのご縁は絶対になかったわけで、たとえ小さくとも、なにかを成し遂げようというマインドセットで生きることは大事と実感しました。ここからどうなるかわかりませんが、少なくとも死ぬ前に2010-15年を振り返って、あの5年はしんどかったけど楽しかったと言える気がします。
もう5年は全力疾走でいくつもりですが、そうすると65才であり、いまの具合から推し量るにどれだけ元気と気力が残っているか。巨大なストレスと戦う仕事でもあり、それは周囲からは見えないのですが、それをどうマネージするか。後継者をどうするか。これまで考えなくても良かったようなことが大事になってきそうです。
(追記、2月4日、61才の辞)
「お客様と社員の全員が、僕が会社勤めを2010年に辞めてから新たに知り合った方々だ」というのは、勤めてきた大企業の余禄ではなく、自分の看板オンリーでやってるということです。会社時代、僕の実像は同僚にも必要ないので見せておらず、それを天下に開陳するという作業は3年間書き溜めたブログによってほぼ終わりました。
そして本稿を書いてから2か月でソナー・アドバイザーズ(株)の仕事は質・量とも変貌しつつあります。それは大企業のご威光・肩書つきの東賢太郎の虚像が完全消滅し、実像が歩き出したということです。日々の業務とブログで僕は30余年かけてできあがっていた虚像を剪定、断捨離したのであり、それによって社会的に生まれ変わりました。
これは実像だから地に足がついており、怖いものがありません。自分ができることだけやり、できないことはやらなければいいからです。できることで負ける気はあまりしません。会社時代もこうやって生きればよかったかもしれませんが、その勇気がなかった。だから今はちょっとだけ人間が成長した気分がしているのです。
それは、子供のころに背が伸びたという感じの成長ではなくて、親にいただいてまだ顕在化していない能力を懸命に引っぱりだしたという感じでしょうか。出さずに人生終わったらその能力はなかったことになりますから、祖霊を敬って生きるという意味は、日々そうした努力を死ぬまで積み重ねることだと僕は思っています。
そういう意味での大人の成長というものは、仕事という局面でなければ絶対に味わえないでしょう。観客席で他人の試合を眺めてああだこうだと言うのは面白いが何も生みません。そういうものをやっていられるほど僕に与えられた時間はありません。自分がフィールドに立ってプロと呼ばれ、競争の最前線で切磋琢磨する必要があるのです。
お金を扱う仕事ですから、僕はお金というものを冷徹に見ています。公益サービスやNPOは別として、能力が発揮されればお金は必然的についてくるのが資本主義です。給料が安いと嘆く人がいますが、自分のしているのは競争に勝てる仕事ではないと悟った方が成長します。お金は目的にすべきではありませんが、お金は自分の市場での競争力の忠実なバロメーターです。
そのお金という商品をどう扱い、どう社会に貢献していくかがソナーの課題です。当座は必要でない人の預貯金を必要な人にどう循環させていくか、それが政府の言う第三の矢にどう連関していくか、国民経済的にどう影響していくか?日々考えています。
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「東大脳」という不可思議
2015 OCT 20 13:13:45 pm by 東 賢太郎
神山先生の鍼を2か月スキップしていて、きのうやっと打っていただいたところだいぶ背中が張っているらしく、1回じゃ無理だよ来週も来なさいとなってしまいました。こんなことは初めてです。帰りに西武の地下を通るとリブロという本屋が三省堂に替わっていました。ネット時代になって書店の経営も大変なんですね。
ぶらっと見ていると、「東大脳」というキャッチコピーの本が目につきます。売れてるんでしょう、子供を東大に入れたお母さんなどが書いておられるようです。何冊かぱらぱらめくってみましたが、よくわからない。受かったのは本人が頑張ったのであって、お母さんがそんなに偉かったんだろうか。
東大生に共通の脳の構造などあるはずもなく、こういう回路を作ってこう使えば入試に受かるなんてのもありようがないでしょう。ここの試験は短時間に膨大なことをやらされますから、たくさん問題を解いて練習に練習を重ねるしか道はないです。
だから僕のような平均的人間が入るのは大変です。入ってもクラスメートに追いつけない。灘、開成、教駒といった連中は地頭の差というんでしょうか、こっちが10日もかかる本を1日で読めてる。甲子園でいえば常連校、PL学園と都立高がやってるみたいなもんで、勝負にならない、そのぐらい差を感じました。
浪人すればいいかというとそういうもんでもない。野球で弱い高校が1、2年余計に練習すれば甲子園出れますかって、時間の問題ではなく能力体力からして無理なんで同じことです。脳の性能で決まるとするならお母さんが幼少からそれを作ってあげるのは大事なことかもしれませんし、そういう努力を一概に否定しようとは思いません。
ただ地頭というのが四則計算、記憶力、回転の速さみたいなことなら僕は出来の悪い方で、だからだめということもない。そういうのはピアノの練習みたいに厳しいお母さんが間違えるとビシッと手をひっぱたくぐらいの訓練がものをいうので、それのあるなしということしょう。
私事ですがわが母はそういうことに一切関心なしで叱ったのは買い食いとケンカで負けたのだけでした。彼女は親父が慶応ボーイで東大は嫌い。ガリ勉するな、でした。だから「男は負けるな」という脳をつくってくれました。感謝あるのみです。
東大に現役ですいすい入れる脳が親の力で後天的にできるならやる価値はあるかもしれませんが、僕が見てきた本当の秀才たちは親が頑張らなくても勉強は勝手にできます。たぶん親は生むだけで遺伝子をあげればOKという連中で、そういう人たちがこの世にはいます。東大に入るだけの脳は彼らにはかなわないでしょう。
僕が幸運だったのは、彼らと机を並べて、頭では負けるということをあっさり認めたことでした。いやそんなことはない、実力を出せば俺だって・・・そう自分を守ってあげた方が楽ですができないことはできないのが現実で、それは全力でやってみないとわからないです。次回は都合よく出てくれる実力があるなら前回も出ていないとおかしいと考える方がほぼ当たりです。
そこで母が東大脳なんかにしていたら、僕は人生に絶望していたと思います。現に、そういうことかどうかはともかく、入ると消息不明になる人もけっこういます。ところが「負けるな脳」でしたから、負けるケンカはせずに生きられそうなフィールドを直感的に自分で見つけたと思います。戦国時代それが一族の生死を分かったように、勝てそうかどうか嗅ぎ分けるのは男社会で無事に生き抜くにはけっこう大事です。
東大脳?そんなのがあるのかないのか不明ですが、仮にあったとしてもそれで人生安泰ではないし学歴で食える時代でもありません。僕は子供には、結局うまく生きてってくれということに尽きる気がします。負けるなよ、万事自分の頭と鼻で判断しろよということで、そういう判断をできる訓練はしてやる。必要なときもう親はいませんから、そのほうが将来感謝されると思っています。
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シベリウス 交響曲第6番ニ短調作品104
2015 OCT 20 0:00:38 am by 東 賢太郎
凛としてすき通るような秋空にふさわしい音楽は何だろう。毎年この季節になると考えることだが、先日の演奏会でこれを耳にしてはたと膝を打った。
シベリウスの7つの交響曲でも、おそらく6番は人気がある方ではない。しかしこれの魅力は掛けがえがなく、僕には無上のインティメートな曲だ。心に住みついてから離れるということがない。好きな音楽はいくらもあるが、こうして恋情をいだくものは稀だ。
6番はどこかさびしい曲だ。これこそが魅力の要である。弟クリスチャンの死、経済的にも精神的にも援助を受けたカルペラン男爵の死というものがどこにどう影響したかは語られていないが、愛しい者がいなくなってしまう悲しさというものを長調の楽想でこんなに切々と伝えてくる音楽は他に知らない。
そもそも音楽がドラマと共に泣き、慟哭するのはオペラだ。世の中にはそんな赤裸々に訴えなくたってもっと泣けるものがあることを大人ならばみんな知っている。在るべきものが消えたときの心の隙間、喪失感。この30分に満たない交響曲は、べつに今は何も失っていない僕に、とてつもなく大切なものをまず味わわせ、そして最後にそれをとりあげてしまう。
そうすると、なんだか不思議なことだが、僕が人生でそうして現実として失ってきた数々の大切なものが、その無くなったすぐ後の心を吹き抜けたすきま風の茫漠とした記憶と一緒になってよみがえってくるのである。そしてそれは、こうして文字にするそばから陽の光を浴びてどんどん消え去ってしまう。悲しみという雪の結晶だ。
だから僕はこの6番をよく聴く。何が心に戻ってくるのかは、そのときまで知らない。何でもいいじゃないか、大事なものだったんだから。考えることもない、いつもこの素晴らしい音楽まかせなのだ。
第1楽章の冒頭、第2ヴァイオリンとヴィオラでそっと入る合奏は僕になぜか冬の日の葬送を思い起こさせる。死者の魂は冷んやりした青空に登る。いきなり悲しいのだ。なにが?それは後になってわかる。練習番号 I の第1ヴァイオリンによるこれだ。
何と楽しく嬉しげな!ここについているF⇒B♭(+g)の和音!何度も自説を書いてきたが、わかる人にだけはわかっていただけると信じたいが、トニックからサブドミナントへの飛翔は心の飛翔でもある。人間がもっとも幸せな瞬間である。このフレーズが僕の頭にすでに強く焼きついてしまっていて、6番を聴くとなると冒頭に早やリフレーンとなって悲しい色に染めてしまう。あの人、あの場所、あの楽しかった日々・・・・。そういう諸々のことだ。
この楽章のコーダは雲間にさす赤い夕陽のような金管の和音であたかも締めくくられたようだが、そうではなくて、弦と木管の合奏による虚ろな4小節が加わる。
これは何だろう?あれだ、あれだよ、もうないんだなんて、あれはどこへ行ったんだ?
書くときりがない。スコアには呪文のように不可思議なフレーズがあらわれては泡のように消え、わけもなく郷愁をそそり、心を疼かせ、かき乱してくれる。第4楽章の美しいが翳りのある女人の舞のような冒頭部分のオーボエや、主部の何かを峻厳に宣託するようなテーマにつく難渋な和音も耳に残るが、ここでもコーダが、僕がすべてを失ってしまったことをこうして告げてくる。
モーツァルトの24番のコンチェルトが幽界への黒々とした狭間をのぞかせるみたいに、息絶えようという魂が最後の飛翔をしようともがくのだが、ここではそれがDm、D♭、B、Aという和声で、第1ヴァイオリンの楽譜の f のところで大きく最後の息をして、esで停止してdesまた停まって、最後はニ短調の暗黒に至って、d のユニゾンで虚空にのまれていく・・・・。
5番まで、シベリウスは北欧フィンランドの人であった。しかし6番、7番においてついに彼は音という抽象的な素材で、何も描くということはなく、誰もやらなかった方法で語りつつ人間の深いエモーションに訴えるユニバーサルな音楽家になった。
ベートーベンが5番と6番で示した交響曲の分かれ道。抽象的素材を突き詰めた5番という絶対音楽の行く先はブラームスが、6番という具象と感情の喚起は幻想交響曲を経てマーラーが引き継いでいくが、シベリウスは6,7番において明確に前者の系譜に連なったと思う。6番の室内楽のような、エッセンスだけを凝縮したスコアには、幽界を透過して数百光年も彼方の星々の瞬きが見えてくる。
演奏について
6番は各楽章の頭の速度記号が基本的に変わらない(第2楽章、終楽章のコーダの前が例外)。だからallegro molto moderato 、 allegretto moderato – Poco con moto、 poco vivace 、allegro – Doppio piu lentoという4つの楽章のテンポ設定が演奏の性格を決める。その分、楽想の起伏と強弱の塩梅が好悪を分けるだろう。
加えて、明確にフレーズされた旋律の歌いかた、対位法旋律の扱いにこだわりたい。主題のなつかしい感じの根源はドリア旋法にある。レからドまで白鍵だけで弾ける音階で、この7音の3和音の組合わせで日本人好みのフシに和声づけできる。一聴ではわかりにくいが、音の構造上、6番は我々の口にあうメロディーに満ちているのである。それをどう感じ、どう聴かせてくれるか?
加えて、考え抜かれたリズムの彫琢、巧みな楽器法のパースペクティヴなど、録音では細部が出にくいが、弦の発音(アーティキュレーション)、木管・金管とのバランス、ティンパニの強打のインパクト、ハープの倍音のかませ方、など実演では聴きどころが満載である。そして、言わずもがなだが、あっさり終わってしまう音楽の性格づけである。どれだけ喪失感が悲しく心に響くか。魂をゆさぶるか。
渡邊暁雄 / 日本フィルハーモニー交響楽団
演奏のコンセプトとして僕はこれが好みだ。なんといっても音楽に対する渡辺の優しい視線にあふれ、6番がどう響いてほしいかがわかる。オケが音程もパワーも弱く伝えきれていないものがありそうだが、旋律にもっと思い入れや抒情があっていい部分もあえて深入りしない指揮である故に欠点にまでなっていないのは幸いだ。ロマンに傾かない節度で音楽の枯淡の側面をグレーの色調で見事に描いており、上記本文の「悲しみ」がふつふつと湧きあがるのはこれだ。
ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
第6番CD史上、最美のオーケストラ演奏である。これがドイツのオケである等々どうでもよいことで、第1楽章冒頭から聞き惚れるのみだ。カラヤンは6番が好きで3度録音しているが2番目のこれが圧倒的に良い。ドイツ流に楽器がピラミッド型に積み上がるのでの第2楽章は弦と管(特にホルン)のバランスが異質だが、ソロの超弩級の上手さと見事な音程に、これまたどうでもよくなってしまう。第4楽章、渡邊を聴くと情に流れてるかなと思うが、カラヤンBPOの絶頂期の音の前にこれ以上望むのは野暮というものだ。
ネーメ・ヤルヴィ / エーテボリ交響楽団
対照的なものを一つ。抒情味はまったく薄いが、テンポを速めに取った演奏として出色。第1楽章は僕の趣味だとちょっと速すぎだが第2楽章のPoco con motoの弦のアーティキュレーションは見事であり、第3楽章のリズムの切れ味と雄弁なダイナミクスは説得力あり。第4楽章も心もち速いが弦の明確なフレージングは主張があり全奏はシンフォニックに引き締まっている。オケが手馴れており十八番の安定感。交響曲としての6番の骨格を僕はこれで知った。
オスモ・ヴァンスカ / ラハティ交響楽団
精緻に細部までリズムが磨きぬかれた見事な演奏。やや速めのテンポで描く旋律もフレージングが完璧で弦のひとりひとりまで鍛えられている様はムラヴィンスキーのチェイコフスキーを思わせるほどだ。第3楽章は天空をかけめぐる妖精のような弦、森にこだまする声のようなスタッカート、実に素晴らしい。この路線ではトップクラスの演奏なのだが、音の重なりが透明すぎてやや現代音楽的に響くなど、僕のイメージするポエジーとはやや遊離するものがある。このyoutubeで全曲が聴ける。
レイフ・セゲルスタム / デンマーク国立交響楽団
セゲルスタムは2番を読響で振って、これが非常に良かったので、以来彼のシベリウスはマークしている。6番も大枠のコンセプトとして「門構え」が大きく、作曲家の眼で磨かれているが神経質にならないのが美点だ。たっぷりしたテンポで歌わせており、豊かなホールトーンとの調和が実に美しい。第4楽章コーダ前の減速はユニークで終結は感動的だ。ウィーンフィルのベートーベンをムジークフェラインで聴くという趣であり、全集として値段が安く(たしか2千円ぐらい)非常にお値打ちである。
クルト・ザンデルリンク / ベルリン交響楽団
何とも温かみのある音で包み込んでくれる。 カラヤン以上にドイツ的な音響と拍節感がオルガンのようでユニークだが、各楽器が独特な色づけのある有機的な音色で鳴っており、木管の音程など抜群に素晴らしい。これがシベリウス的であるかどうかはともかく、こういう音楽が心に滋養をもたらす良い音楽なのである。この演奏も本文に書いた「悲しさ」を味わわせてくれる筆頭であり、いつまででも聴いていたい。6番の本質とはスタイルではなく心に入ってくるものがあるかどうかである。
アレキサンダー・ギブソン / スコティッシュ・ナショナル管弦楽団
ギブソン(1926-95)はスコットランド人である。僕は仕事上イングランド人もアイルランド人もウェールズ人もつきあったが、スコットランド人と何故か特に深くつき合った。気が合ったのかお互い反骨だからか。いい奴が多かった。シベリウスは極北の音楽だ。異星に近い。あのブリテン島北端の荒涼とした風土は似あう。6番など最高だ。ギブソンは全集があるがそれなりの味がある、オトナのシベリウスだ。僕は彼のエルガーの1番を愛聴しているが、同じ土壌からにじみ出た泉という感じがする。
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クラシック音楽はこういうもの
2015 OCT 19 2:02:43 am by 東 賢太郎
とてもヨーロッパらしいビデオです。ご紹介したポーランド国立ワルシャワ室歌劇場の歌手たちが大道で魔笛のアリアを歌っております。たぶんポーランド語と思われますが、モーツァルトが完全にオラが音楽になってますね。初めがパ・パ・パです。
次が夜の女王。
ドイツでこういうのは見ませんでしたが、ぜんぜん違和感ないですね、ヨーロッパはこんなもんです。男性がアンドレイ・クリムチャック、女性がタチアナ・ヘンペルで今回も来日してました。別に超人的な歌手たちではありませんがいかにも自然にモーツァルトになっていて、この人肌感がなんともいえません。クリムチャックは前回のドン・ジョヴァンニが素晴らしく今回なかったのは残念でしたが次のビデオでそれが聴くことができます。2人のヴァイオリンとヴィオラは今回の来日のオケメンバーに名前がある人です。特にうまくはないんですが、でも音楽になってしまう。
この室内楽編成のアリアというのがまたよろしいですね。モーツァルトの時代に貴族の館でやっていたのはどんなだったんだろうと思ってましたが、ついにそれらしいのを見つけました。きっとこうだったでしょう。これでもちゃんとしたオペラ空間になってるし、やる方も聞く方も楽しんじゃってますからね、もう部屋の空気が音楽の喜びに満ちてます。巨匠の名演がどうしたとか、そういうことはもうどうでもいいですね。やっぱり音楽は「するもの」であって、こうして身近に楽しむものだと思います。こういうのをどんどんきいて気軽に楽しめるマインドになってくると、モーツァルトはがぜん心に入るようになりますよ。これが蕎麦屋でいえば「もりそば」なんですから。これで覚えて気にいったらカラヤンやショルティの豪華キャストのCDで「天ぷらそば」食べてみて下さい。5万円も払っておすましして聴くなんてそんなアホなと思いますが、ふところに余裕がある方はウィーン国立歌劇場の来日公演なんかでも行ってみて下さい。とにかく、この歌劇団が来日してくれるのは天の恵みです。
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ワルシャワ室内歌劇場の「フィガロの結婚」への一考察
2015 OCT 18 1:01:30 am by 東 賢太郎
今日は先日の魔笛をきいたワルシャワ室内歌劇場の「フィガロの結婚」でした。場所はオーチャードホール、席は1回中央25列目でした。
魔笛もそうでしたが、ヨーロッパの地方オペラハウスの普段着の演奏という風情であり、コマーシャリズムの毒に染まってないモーツァルトを聴けるのは心からの喜びであります。クラシック音楽の本当の喜びは音楽、楽譜に詰まっているのであって、スター歌手やヴィルトゥオーゾ・ピアニストのお出ましを願わなくとも充分です。
妙な例えにはなりますが、蕎麦通によると蕎麦屋は「もり」で味がわかるそうです。もりがだめなら何を食べてもだめ。ところが蕎麦屋の経営側からすると、もりだけではやっていけず「天ぷらそば」や「なべやきうどん」を食べてもらいたい。つまりトッピングで利益が出るのです。これがクラシック音楽の現状をわかりやすく示唆しているということをご説明します。
現代の蕎麦屋は大変な矛盾をかかえています。
人口一人あたりでいうと、蕎麦屋の数は江戸時代の江戸には今の東京の10倍もありました。国民的ファストフードであって、安くておいしい「もり」と「かけ」を主食のように毎日食べる人が多くいたので薄利でも経営がなりたっていたと思われます。江戸前の鮨も当時は同じく安価なファストフードであったのですが、ネタに付加価値を見つけて現代では3万円も取ったりする。蕎麦はそれができないのです。
現代の蕎麦は主食でも国民食でもなく、好きなほうである僕も週に1,2度蕎麦屋ののれんをくぐるかどうか、そして注文はもりと玉子と冷酒ぐらいでせいぜい単価は2千円です。これだけ客数が減って単価を上げないと経営にはならないにもかかわらず。つまり蕎麦通はちっとも儲けさせてくれず、蕎麦の味のわからない人をトッピングでたくさん呼び込まないとつぶれてしまうのです。しかし肝心の蕎麦に舌鼓を打たない客はリピーターにはなりにくい。そうして、その結果として蕎麦屋が減って困っているのは蕎麦好きの人たちなのです。
クラシックの世界でいいますと、カラヤン、バーンスタイン、カラス、ドミンゴ、ホロヴィッツらの巨匠たちは申し分ないトッピングとしてレコード産業が演出した「名演奏家の時代」を飾ったのであり、フルトヴェングラーはその時代には間に合わなかったが、時がたつほど味がでる(とされる)ヴィンテージワインなのだとしてトッピング(いや天ぷら)の付加価値を高めることに使われたのでした。
クラシック音楽産業はいま完全に蕎麦屋のジレンマに瀕しています。ワルシャワ歌劇場のモーツァルトは通に本源的な音楽の喜びを与えてくれるに不足はありません。立派な老舗の蕎麦屋なのですが天ぷらやなべやきは供さない。素人にはそっけないもりそばだけと思われてしまう。誰もそう宣伝しないからです。
メットやスカラ座が引っ越し公演で来日すると豪華で著名なキャストにゴージャスな舞台と演出、そして御用評論家の美辞麗句でハレの華やぎが演出されます。同じフィガロなのに、ワルシャワのS席1万5千円がメットなら5万円で売れる。差額の3万5千円で食ってる人がたくさんいるということです。喜びの源はモーツァルトのスコアなのに!
この関係がもりそばと天ぷらそばの関係でなくてなんでしょう?ワルシャワの歌手たちは確かに技術も華も超一流ではないが、なんら不足のない演奏を聴かせてくれる。それがどうしたというんだろう?天ぷらが食いたいならミュージカルや宝塚など、いくらもある天ぷら屋に行けばいいのです。
どうしてそうなるかというと、旧東欧圏はペレストロイカ後も西欧の生活水準には追いつけていません。ベルリンの壁がなくなったといっても西の人間が特に東に住みたいということはない。ポーランドがGDPで欧州上位に登るということはなく、たぶん今後もないでしょう。
だから東欧の音楽家やオペラハウスはコストをかけずに呼べるという構図が背景にあります。トッピングにカネをかけないもりそばだから舞台は簡素だしスター歌手もいない。しかし、そんなものはなくともモーツァルトの音楽は光り輝くのです。
その良さを愛でられる人が「通」だというのも妙なことで、それがなければ音楽の喜びなどそもそもないのであって、妙な権威主義的音楽教育と、トッピングに利益を見出した英米の音楽産業マフィアの戦略で作曲家の偉業をだしに金儲けする輩が音楽鑑賞の本質をゆがめてしまった。音楽好きには由々しきことが起きているのです。
NAXOSという香港のレーベルが廉価で比較的良質なCDを販売し始めたのが90年代前半で、トッピングの見せかけの付加価値で利益を食んでいたメジャーレーベルの売上が激減を始めました。これは当たり前に良い音楽を当たり前の価格で津々浦々に送り届けるという革命で、音楽にとってはプラスの事態でした。
ところがそのNAXOSもレアなレパートリー供給で企業として延命しましたが、すでに飽和感が出ている。なぜならネットの無料音源配信の勃興には勝ちようがないからです。それはそれで悪いことではなく、さらに音楽が広まって真の音楽好きが増えるはずなのですが、世の中は理屈通りに動きません。タダのものは所詮タダなりの価値しかなく、駅で流れる発車メロディ程度の扱いで馬耳東風に聞き流せばよいという位置づけになってきているのかもしれません。
ワルシャワ室内歌劇場は音楽好きにはこたえられない珠玉の存在であって、これの良さが値段が安いだけでは世も末です。このまま時代が進めば真の音楽好きは減っていくでしょう。これは日本だけではない。ドイツですら劇場は年寄りが目立ったし、若年層がどれだけクラシックに金を使ってくれるかという観点でいうなら日本と同じく危機的です。メジャーなレコードレーベルはみなユニバーサルに買われてしまったし、クラシック専門誌の経営は破たんしつつあり、とどのつまりは音楽家の生活にだってひびいてくる。演奏家のインセンティブやクオリティが下がれば、我々はいいモーツァルトが聴けなくなるのです。
これはトッピングに利益を見出した英米の音楽産業マフィアのまいた悪しき種であり、「名演奏家の演奏でなければ価値がない」と洗脳されてしまった聴衆が真の音楽を聴く耳を放棄してしまった結果なのです。「名演奏家の時代」を飾った名演奏家がみな死んでしまい、次世代を生み出そうにもネットの無料演奏でいいやという聴衆を洗脳して高い入場料やCDを買わせようという戦略がワークしなくなったのです。それを喜んで買ってくれるのはウィーンフィルやスカラ座を三ッ星のフレンチレストランと同じ基準で考える人たちばかりになりつつあります。
僕が音楽ブログを書く原動力は、何度も申しましたが、音楽の価値はトッピングにあるのではなく、作曲家の書いた楽譜にあるのだということを分かって下さる人を増やしたいから、それだけです。それは演奏家の才能や努力を軽視することではなく、そういう聴衆が増えてこそ演奏家の真の価値も正しく認識されるのです。そして、それこそ音楽産業も繁栄できる道なのです。聴衆こそが彼らの唯一の顧客なのですから。
ということでコンサート評からだいぶそれてしまいましたが、今日も充分に楽しませてもらいました。ちなみに今回の指揮者ルペン・シルヴァは06年来日時に後宮、魔笛、レクイエムを振って堪能させてくれたのは忘れません。帰りに上野駅でドン・ジョバンニを熱演してくれたクリムチャックら歌手の一行が山手線に乗ってきて、ひとしきりがやがやとやって池袋で降りていった。この庶民性もなんとも好きになりましたね。
これがご当地ワルシャワの劇場です。何千人も客を呼んで儲けようなどという商魂とは無縁なサイズの劇場。くだらない自己顕示に満ちた現代風演出など目もくれないオリジナルで古典的なステージ、ワーグナー時代のステージ下のオーケストラピット、心から楽曲を楽しんでいる聴衆。これぞヨーロッパのまことの音楽原風景であり、資本主義に芯までは毒されていない東欧にこそ古き良きものが残っているのです。
別に押し売りする気はありません。これは質素すぎてもの足りない、やっぱりメットやスカラのゴージャスさが好きという方もおられるでしょう。それは出し物にもよるし、僕がイタリア物を好まないのもあるでしょう。しかし、そうではあっても、モーツァルトの喜びを知らないで音楽を聴くというのも寂しいものだと思います。だから、本稿で縷々述べてきたことですが、現在の音楽界の危機的状況には自分なりに何かできないかと強く思っております。
僕にできることはブログで一切の虚飾なく、 クラシック音楽の虚構をぶち壊そう の精神で、自分の耳で聴いたものを忠実にわかりやすく文字にしてお伝えするのみです。音楽界の誰とも利害関係はありませんから、良い物は良い、だめなものはだめとストレートに書くのみです。僕が50年楽しんできてこういうものと思っているクラシック音楽がどういうものなのか自分では評価できませんが、少なくとも僕にとって良い音楽はどういうものであるか、それだけでもお伝えできれば何かしたことにはなろう、勝手ですがそう思っております。
(追記、16年1月23日)
ピアニストでもそういうことがあります。オルガ・ルシナ(Olga Rusina、1955—2013)という素晴らしいロシア-ポーランドの女流を僕はyoutubeで知ったのですが、なんと英語情報が皆無なのですね。彼女は教職にあったためメジャーレーベルのアンテナから漏れたのでしょうか、「西側」(もはや古語だが)に知られぬままでした。ワルシャワ室内歌劇場と似た立ち位置にあったわけですが、本当に上質の演奏家です。
誰でも知ってる「乙女の祈り」です。ポーランドの女流作曲家テクラ・バダジェフスカの作品ですが、このなんのことない旋律と左手のテンポ・ルバート!ショパンが右手は(ルバートしても)いいが左手はするなと言ったお手本がここにあります。
ショパンのアンダンテ・スピナート(作品22)です。澄んだ秋空のような右手が実に素晴らしい。彼女のショパンは座右に置きたいです。
(こちらもどうぞ)
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野球を観られればどこでもいいやという宗旨替え
2015 OCT 17 8:08:57 am by 東 賢太郎
このところコンサート続きで野球を見てません。もう少しで「ない季節」に突入というのにもったいないことです。やっと昨日帰ってTV観戦しましたが、下剋上ロッテにしてソフトバンクの厚い壁に簡単にはね返されてしまいました。本当に強いですね、ロッテに黒田とマエケンがいたとしても負けそうです。セリーグのオールスターチームとやっても勝つか、せいぜい互角じゃないでしょうか。こういうチームのファンになられた中島さんがうらやましい限りです。ストレスフリーの人生を送るのは、このトシになると最も重要な課題ですから。
しかし三軍まであって選手層の厚みは12球団でダントツなのが見事です。上っ面でその場しのぎの外人やFAでの補強でなく、ここまで徹底して根を張ってやる。孫さんの経営哲学でしょうが共感できますね。カネがあってのことですが、プロスポーツの経営なんてビジネスじゃなくて道楽ですからね、カネのない人が爪に火をともすようにやるもんじゃないわけです、本来的に。球場使用料が高いので球場運営会社ごと買収しちゃおう、DeNAの南場 智子社長の戦略はあっぱれです。そうやって金持ちが経営してこそファンは幸せになれるのです。
なんたってソフトバンクは選手名鑑の支配下登録だけで3ページもありますから。びっくりです。二軍の試合に出るだけでも大変そうで、その二軍も当然ながらぶっちぎり優勝でした。9勝無敗のバンデンハークは交流戦まで二軍にいたのであって、一軍はカープ戦が初先発だったのを覚えてますし。ソフトバンクの二軍がセリーグに入れば4位ぐらい狙えると思いますよ、冗談抜きで。南場さんもこうやって根を張る戦略に進めば強くなるしファンは増えて経営はさらに良くなるでしょう。なんったって地盤が横浜なんだから。
セリーグはヤクルトが順当勝ちですね。リーグ優勝してグラウンドでビールかけして、そのあと夜中の2時に山田、川端、畠山が神宮球場近くの立ち食いソバ食べてるのをフライデーされてました(左)。このソバ屋、僕はいつも試合前に腹ごしらえしてるところでね、早くて安くてうまいんです。夜中だからというのもあるでしょうが、この庶民性は親しみがわきますね。そういう寝不足二日酔いの連中が翌朝に新幹線で5時間も移動して疲れてどうでもいい試合に臨んだのに、それに負けてCSを逃した情けないチームもあったわけです。甲子園の誤審もへったくれもないですね。
巨人は打てませんね。阿部が当てに行って打率稼いでますが、当てる技こそが凄い、天才ですね。でも阿部がそれだとホームランの怖さがない。こんな巨人は見たことがありませんね。彼以来は和製大砲が育ってなくて外人頼みになって、その外人が不作でぺんぺん草も生えない。広島と同じですが勝負強さの差でここまできてる。
最近わかってきましたが、僕が愛してるのはどこかのチームというより実は野球というスポーツそのものであって、野球が見たくて球場に行ってます。多摩川の子供の試合でもジョギングがてらに見てますから、プロだアマだうまいのへただのは超越してます。
多摩川べりは結局戻ってきて今も住んでるわけですが、育ったところでもあり野球を覚えた所でもあり、もう人生と混然一体をなしていて抜き差し難い。ゴルフだって一時は夢中で公認ハンディ8までいったのですが、他人のを見る興味は今も昔もありません。
こんな大好きな野球を見るに、わざわざ弱いチームを応援してストレスをためるなどナンセンスであって、いつでも手軽に行ける神宮をホームとするヤクルトの試合を観られれば充分です。しかも山田、川端、畠山というタイトルホルダーがそこにいるんだから。
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SMCの3周年を迎えて
2015 OCT 16 23:23:42 pm by 東 賢太郎
昨日ですが、サーバーに問題があり一時的にSMCサイトにアクセスができなくなりました。現在は復旧して問題はございませんが、ご不便をおかけいたしましたことお詫び申し上げます。サーバーというのはちゃんとメンテしないと、こうして消えてしまいます。ある意味怖さがわかりました。
さて、この10月をもちまして、おかげ様でSMCは無事3周年を迎えることができました。その間に約40万ものご訪問を頂戴いたしましたこと、発起人として大変に光栄に存じます。ご来訪の皆さま方には厚く御礼を申し上げます。
メンバー制をとらせていただいているので普通のSNSとはいささか趣を異にしますが、なるべく開かれたオンライン・クラブ組織にしたいと考えております。またブログでご紹介しましたが、我が国の伝統芸能の世界への紹介などで、ささやかながら文化貢献ができればとも考えております。
ところで、SMCのトップページ左上の「メンバーズ・リスト」にお入りいただくと今日現在で27名のメンバーの写真があります。大学時代からの友人もいれば、つい数か月前にまったく偶然に知り合った人もおられます。かように、参加のご意志さえ固ければけっして敷居が高いわけではありません。
法人としてのSMCは畏友・西室が社長をしてくれていますが、その西室も知り合ったのは2年前です。そこで彼の人物、人となりを知って、そう時間をおかずに僕の方から社長をお願いしたのです。そのことはともかく、そのぐらい開かれているクラブだとご理解いただければと思います。
ですから僕は発起人ではありますが、単なるいちブロガーであり、SMCというクラブはメンバーの皆さんの総意のみで将来どうなるかが決まります。単なるブログの会なのか、なにか生産的な共同体になるのか、生涯の知己、友人を得る場になるのか?
組織は生き物ですから、自由に自然に、なるようになるのがいいと思っております。そしてSMCのメンバーに名を連ねることに少々のプライドを持っていただけるようにする、楽しく有意義な人生を送っていただけるようにする、我々の役目はそこにあると思っております。その取りまとめ、お手伝いを西室がさせていただくということです。
僕は個人的にはブログをある目的をもって書かせていただいております。それは全く個人的なことにすぎませんが、「遺言」ということです。初めは自分史のつもりでしたが、大したことも成していない人間にはおこがましいことでした。だから、誰でも書ける遺言ならいいだろうということです。それも子孫限定で財産をどうするというものでなく、世の中に言いたいことを書き遺すというものです。
どこの誰べえかわからぬ僕が仮に本を出版しても、知り合いに押し売りしたとしても4,500部がいい所だそうです。しかも絶版になればそれで永遠におしまいです。ところがブログにすれば40万近くになりました。サーバーをメンテさえすれば消えることはなく永遠に世界中で読んでいただけます。千年後に、僕らでいえば平安時代の先祖のブログを読むということが子孫に可能になる。素晴らしいロマンだと思いませんか?
名前を出したくない、ブログは書けない、コメントだけでいい、いろいろな方がおられることが3年やっているうちにわかってきました。もちろんそれでもかまいませんし、そういう方々も同様に大事な仲間と思っております。SMCを通して僕のアドレスに直接メールして下さる方もおられます。生の声がお聞きできるし、いろいろご相談にも乗れ、書く励みにもなっております。
どんな形であれ、我々のブログに関心を持って下さる方々は必ず大切にさせていただきます。どうせあと何年生きるかわからない僕らですから、「袖振り合うも多生の縁」「一期一会」ということを第一の命題にしてやっていこうと存じます。
今後ともSMCを何卒よろしくお願い申し上げます。
東賢太郎
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パーヴォ・ヤルヴィ指揮N響のR・シュトラウスを聴く
2015 OCT 16 0:00:53 am by 東 賢太郎
今日はパーヴォ・ヤルヴィのR・シュトラウスで、コンマスが伊藤亮太郎。
9月のエロイカにこれを書いていますが、N響・ブロムシュテットのエロイカ 席もオケも同じというのが信じられないほどの差でした。指揮者なのかコンマスなのか?
N響は伊藤亮太郎の時はOKです。彼はソロの場面で木管とのアンサンブルでも高音まで浮き出ず、木質の響きで溶け込んでいます。
第1ヴァイオリンの音が汚いオケなど何ら聴く意味がありません。僕には拷問ですらある。伊藤の都度のチューニングは音楽に誠実であると思います。
ヤルヴィは音の透明感、パースペクティブが良いのは何度か書きました。音響の冴えないロイヤル・フェスティバルホールでのロンドン響の牧神の午後で感嘆しました。今日のばらの騎士組曲でそれを追体験しました。
ドン・キホーテは曲があまり好きでないのでコメントは控えますが、オケの音が一新されていたのは驚きました。モルクのチェロは惚れ惚れする音でした。ティルは見事。上記の美点に加えて、音の「間の伸縮」がいいですねえ。単なるリズムではなく。これが絶妙なので音楽に生気が宿ります。ばらの騎士は演奏会形式でいいので全曲聴きたくなりました。
R・シュトラウスを生で聴くのは耳の贅沢です。極上のフレンチのフルコースです。今日のようにシェフがいいと特に。僕は若い頃は苦手で、たとえばドン・キホーテの冒頭の主題がいきなり転調してしまうのについていけませんでした。
それを当時の友人に言うと、何を言う、それがいいんじゃないとくる。こればっかりは生理的なものだから今でも同じですが、それに慣れてしまうとゴージャスな音響の魔力に負けてしまいます。
R・シュトラウスのティル、デュカの魔法使いの弟子、似たイメージのモチーフですが現れた音はあまりに違います。シュトラウスの音彩の描写のほうがアメリカにわたってハリウッドのムービーになったように思います。映画音楽の元祖という側面がありますね。とにかくオーケストラを極彩色で豊穣に鳴らす術にかけてはナンバー1でありましょう。
ヤルヴィが振ればN響は変われるかもしれません。コンマスは伊藤亮太郎に長くお願いしたいものです。
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ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場の魔笛を聴く
2015 OCT 15 8:08:46 am by 東 賢太郎
人類の創った最高の音楽はモーツァルトの「魔笛」である。
20代の身空で生意気にも多くの人に、もちろん家族にも、そう言い切って生きて参りました。以来30余年、たくさんの素晴らしい音楽に出会ってきましたが、この若気の前言を覆えすものは未だありません。
それを文字でご説明するのは宇宙の真理を10文字で解き明かすぐらい無理であって、体験するしかございません。この神品は僕を何度もウィーンに呼び寄せています。全曲は21セット持っていて、聴くたびにパパパ・・・で感涙にむせび、モーツァルトの御魂にいつも合掌しています。
このオペラの楽譜は僕には聖書、仏典であり、総譜、ピアノ伴奏譜、自筆譜のファクシミリと3つ持っていて、まさに1頁1頁、写経をするように眺め、ピアノで鳴らしてきました。奇跡のような音符がいくつもあって、それを書いておきたいのですがたくさんありすぎ、今はその元気がありません。いつか、モーツァルトが許してくれたら、書きます。
二つだけ挙げると、まず管弦楽です。バゼットホルン2本が入って幽玄な和音を響かせ、モーツァルトが嫌いだったフルート(2本)とトランペット(2本)まで入ってる。これらがどこで使われているかということです。序曲の3つの和音の上声の重ねはフルートです。Wie? Wie? Wie?の9小節目!これはフルート以外にありえない。神がかり的に凄い音符で、彼がこういう風な色彩でフルートを使った例は他に知りません。1791年、死の年のモーツァルトには何かが間違いなく取り憑いてましたね。
もうひとつ、調性の設計です。変ホ長調で始まり、終わる。第1幕のフィナーレはザラストロの太陽王国の讃美、そしてタミーノの試験合格シーンですがともにハ長調で前者はまぎれもないジュピター終止で幕を閉じる。そしてこのオペラの白眉であり最も重要な悲しみの箇所であるパミーナのアリア「Ach, ich fühl’s」と、パパゲーノの自殺の歌がト短調である。つまり「E♭、Gm、Cの三大交響曲の調性」が骨格を成しており、パパゲーノのト長調、夜の女王のニ短調が人格描写になっている。
今回はそのぐらいにしておきます。
ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場は2006年にたしかドンジョバンニ、魔笛、フィガロ、後宮を観ました。これが実によくて、貴重なメモリーとして心に残っており、今回も真っ先にチケットを入手しました。残念なのはドンジョバンニが今回はないことで(どうしてだ?)、前回のアンジェイ・クリムチャックのタイトルロールが僕がかつて見た誰より良かったのに・・・。
さて今日ですが、またまたこちらの頭が回転が鈍く音楽に乗りきれません。席は9列目で最高でしたが東京文化会館は音が来ないせいもありましたか。また、どういうわけか歌手たちのテンポ、特に第1の侍女とパパゲーノが前のめりで指揮が統制できてない。あれあれ、今日はハズレかなと集中力が落ちました。夜の女王もやや苦しくテンポは控えめで、まあライブはこういうハラハラが楽しいといえば楽しいのですが。
しかし、女性3人のハーモニーとは天上の美しさでオペラにこのアンサンブルを持ち込んだのは作曲家の卓見です。3人の童子は女性で、僕は子供の方が好きであんまり歓迎しませんが、今日の3人は良かった。侍女より良かったぐらい(特に1番のアレクサンドラ・ビスコット)。こんなことは珍しい。パミーナのマルタ・ボベルスカは前回も印象的でしたが今回も(歌も美貌)も良かったですね。この人はNAXOSから出ているアントニー・ヴィット指揮ワルシャワ国立フィルのマーラー8番で聴けます(これは名演)。
あとのキャストはSo soでしたがとにかく音楽のパワーが十万馬力だから普通に歌ってくれればいいのです。まったく文句ありません。この歌劇場はモーツァルトのオペラを全作品随時上演できる世界で唯一の団体ということです。もちろん僕は全部はきいたことがありません。たてつづけにやってくれるならポーランドに半年ぐらい住みついてもいいなあとさえ思います。
魔笛のストーリーについてはコメントを避けます。支離滅裂と僕も思うし、フリーメイソンの入会儀式かなとも思うし、陰と陽、光と闇、善と悪、聖と俗、生と死、規律と堕落、知性と野生、火と水、男と女、という二軸対立の物語でもある。しかしメインテーマは2つのカップルの誕生であり、特にモーツァルトが自己を投影したと思われるパパゲーノとパパゲーナのカップルである。
だから魔笛の真のフィナーレはpa-pa-paなんです。魔法の鈴のハ長調に童子のD7のブリッジが入って(これが感動的だ!)、ト長調でいそいそとはじまる。人間の、愛の、優しさの、生きることの、喜び。万国、何国人だろうと何人種だろうと、これはわかる。人間ならば。この音楽を涙なく聴きとおすのは僕には無理です。物語は架空のおとぎ話で荒唐無稽でも、音楽の方は深い深い人間の真実をえぐりだしていて、心の中でパパゲーノとパパゲーナのカップル誕生に絶賛の嵐がおきる。きっと誰でもそうだと信じます。
これを聴いてホールから出てくると、皆さん優しくいい顔になってるんですね。不思議です、世界のどこでもそうでした。心の中に住む一番いい人が表情に出ていますね。タミーノが魔笛を吹いて野獣を踊らせてしまう場面がありますでしょう、笛の魔法は聴衆にも効くのです。もっともっと聴いてもらえば戦争もなくなるだろう、犯罪も自殺も減るだろう。僕はまじめにそう思っています。音楽というものにいかにすさまじい霊力があるか、魔笛を何度も聴いて覚えてしまえば、必ずわかります。すべての音楽ファンに、ぜひその境地を味わっていただきたいと願っています。
(追記)
魔笛のCDをひとつというかた。上記歌劇場の東独路線のままでさらに上質のクオリティを体現した宝のような録音がひとつだけ現存します。
オトマール・スイトナー / ドレスデン・シュターツカペレ
テオ・アダム、ペーター・シュライヤー、シルヴィア・ゲスティ、ヘレン・ドナートという珠玉のキャスティング!欠点があるとすると二人の武士が弱く、第2幕の大事な「私のタミーノ!」の四重唱がまことに貧弱である。コストセーブだったなら同情するが武士は合唱団員なので二重唱にしか聞こえない。これは来日公演のビデオを聴いても同じであり肝心中の肝心であるのテナーのFroh~などぜんぜん聞こえないのだから論外というしかない。スイトナーの考え方がまったく不味い。モーツァルトの書いた天才的な、おそらくワーグナーがそれでマイスタージンガーの五重唱を書いたあの音符が聞こえないのだから。しかしそれだけ我慢すれば、他はおおむねクリアしております。もちろんもっと上手のザラストロや夜の女王たちの貫録の名唱を聴ける録音はあるのですが、例えばこの録音のレナーテ・ホフ(Renate Hoff)のパパゲーナは実にカワイイ。パパゲーナに大物なんか起用されると僕はげっそりで逃げ出したくなるのです。ホフはスイトナーが好きだったとみえ東京公演にもパパゲーナで連れてきたし「ヘンゼルとグレーテル」のグレーテルにも起用していますがその後は聞きません。僕も大好きなので残念でならず探しだしたいぐらいです。そういうことまで含めてトータルなコンセプト、個々のキャストの凹みのなさ、音程の良さ、三人の童子の上手さ、DSKという最高級のオーケストラ、スイトナーのテンポ、録音の良さ、と総合点は高く、全教科合計点の偏差値が最高であるこれをファースト・チョイスに太鼓判を押すにまったく問題などございません。値段も不当なほど安く、迷わずこれを手にして全曲を記憶されることを強くお勧めします。これとクレンペラー盤。この二つを聴かずして魔笛を語る勿れです。
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読響定期-ジョン・アダムズのハルモニーレーレ(和声学)を聴く
2015 OCT 14 1:01:02 am by 東 賢太郎
昔から計画性というものがなく、スケジュールは秘書様におまかせの悪癖がついていて訓練ができてません。それでこういうことになるのですが、先週はシベリウスのリハーサル、ウィーンフィル、京都でおどりを2回、中島さんライブ、シベリウス1,6番、と連チャンで入れてしまって、楽しかったのですがちょっと疲れました。
ところが今朝、今週のを見てみると、読響、魔笛、N響、フィガロとこれまた連チャンで入っているではないですか。音楽はしばし絶食状態にあったのに、こりゃあリバウンドです。来週も歌舞伎があるし・・・。いままでは仕事の気晴らしになってましたが、このペースだとなんだが仕事の方が気分転換になりそうだ!
今日はサントリーホールで読響定期でした。そういうことであまり気乗りでなく眠くもあり。こういうプロでございました。
指揮=下野 竜也
ヴィオラ=鈴木 康浩(読響ソロ・ヴィオラ)
ベートーヴェン:序曲「コリオラン」 作品62
ヒンデミット:「白鳥を焼く男」(ヴィオラと管弦楽)
ジョン・アダムズ:ハルモニーレーレ(和声学)
下野は好きな指揮者です。お子様ランチメニューもこなすがこういう通好みもやってくれる。勉強してないとできません。毎度毎度、お子様ランチで食ってる指揮者が多い中、応援したい人です。
音楽は不思議でして、ヒンデミットではヴィオラ一丁で満場を唸らせると思えばアダムスでは巨大なパイプオルガンみたいな音塊で魂を揺さぶる。どっちも同じぐらい良いのです。
ハルモニーレーレは初めて聴きました。ミニマルの音楽もライブで聴いたのはひょっとしてこれが初めてかな?はっきりしたメロディーがなく、リズムも単純な音型が速くなったり遅くなったりで、耳が何を聴くか迷ってしまいだんだん意識の焦点がぼけます。それが心地よい陶酔状態になるのですが、この曲の場合は和声の移ろいがなかなか快感であって約40分のあいだかなり真面目に集中して聴くことになりました。
いまこれを聴きかえしてみて、とても面白い。大音量の部分の音圧はライブならではですが細かい部分も凝った作品でスピーカーを通しても楽しめます。
ミニマルの同音型反復というのは、僕のイメージですが、ストラヴィンスキーのペトルーシュカの冒頭や乳母の踊りの伴奏で、木管やホルンがずっと2つの音を行き来するのを全管弦楽でやったようなものでしょうか。あれは大好きなので、これも好きですね。
それに和声の感情が乗っている。和声というのは人間のある一定の感情を喚起する化学物質です。ドビッシーが映像を書いて「和声における化学反応」という言葉を使ったのもそういうイメージがあったのだと思います。
下野がどこかで「作曲家はそれぞれトレードマークの和声連結(コードプログレッション)を持っている、それはモーツァルトにもある」語っていましたが、まさにそう。ちなみにモーツァルトのはハ長調ならC-Am-F-Gです、これぞ彼の紋章みたいなもので作品の至る所に現れます。
ハルモニーレーレは和声の固有の感情喚起をミニマルの陶酔効果に有機的に結合させた音楽であり、1985年にこれが出現したことは三和音での作曲にまだ道があるという光明への一里塚ではないのでしょうか。
日本初演が86年で、これが2回目だそうですが、もっと聴かれていい曲ですね。とりあげてくれた下野に拍手です。
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