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日本という国に本気で自信がなくなってきた

2024 MAY 2 1:01:19 am by 東 賢太郎

モーツァルトはインフレを知っていたと確信している。借金は得だということをである。インフレ率10%としよう。彼は2000万円ぐらい稼いでいたが2000万円借りる。2000万ぱ~っと使っても翌年の借金は実質1800万に減っており、同じ仕事をすれば2200万もらえる。カネは回りさえすればよく、借金を減らす努力はしなくても減るのだからインフレが予測さえできれば借りまくるべきだ。彼は予測できた。当時の貨幣グルデンは金含有で信用がなかったから価値が下がることをだ。カネに博識の父親をもちフリーメーソンで他国通貨の情報も得ていた。彼の知性をして予測できないはずがない。物乞いの手紙を書き借金にあえぐモーツァルト。贅沢と博打に浮かれ財産を残したモーツァルト。この二者をひとつにする理屈はそれしかない。

恥をさらすが僕もサラリーマンの最後の方で1億5千万ぐらい借りてぱ~っと使った。モーツァルトとは真逆でデフレの中だから大馬鹿の大損であり、一時は家を売るかという所まで追いつめられた。やっちまったことだ、何も考えずにまじめに働き、会社を作って10年かけてやっとこさで返済した。今はさあいよいよ増やすぞという段取りになってはいるのだが、このところ、だんだん日本という国に本気で自信がなくなってきた。特にこの2年の政治はあまりにひどい。拝米一徹の岸田総理の恥ずかしいズタボロぶりを見ると、彼は首相公邸で能天気に浮かれたあの息子が還暦を過ぎたらそうなるような人なんだろうと思う。彼の身の上などどうでもいいが、「恥を知る」という日本国民のゆかしきプライドまでずたずたにしているのは不快この上なく、看過できない。

彼は政策も政略さえもなんにも自分で決められず、議会演説までバイデンに書いてもらったアメリカのパペットだ。何をしでかすかわからない人ではなく、アメリカが決めてるからわからないだけだ。日本の税金を搾り取るのが仕事だから日本人に嫌われるにきまってるが支持率暴落だろうが補選全敗だろうがGWは海外に遊びに行けるのはバイデンが「よくやった!」と守ってくれるからだ。それには自民党のお歴々も、そして野党も無力である。屁のカッパはあまりに当然なのである。

島根県はいろいろあって松江、出雲に何度か行っている。県知事、市長、町長さんらにお会いしたし竹下さんの立派なダムも拝見した。地方財政は楽でない。だからどこも公共工事と政府の交付金が大事なのは昭和からの歴史であって、財務省とのパイプは何より大事である。その大黒柱である中国財務局長が候補者になったのだからいくらなんでも勝つと思っていたが常識があっさり覆った。立憲に共産も組んでるのだからリベラルの支持だけでなく自民忌避がなくては日本一の保守大国でこういうことはおきない。

2009年に民主党が政権を取った時のことは当選した友人の議員から内情を聞いてよく覚えている。あの時は密室で国民には意味不明のまま誕生し、何をやってもさらに意味不明だった森政権以来の自民の党首の無能、無策と政治とカネ問題から民主党が政権交代を強く訴えたことが「自民にお灸を」の流れになった。お灸だから病が治ればよく、3年で安倍政権に戻った。しかし今回はどうか。自民が左翼化し保守の戻るところがなくなった。2009年のGDPは世界2位だったがもう4位で経済力は見る影もない。当時より著しくアメリカの属国化が進み、パイプのない野党は財務省を通してしか認知されず本気で政権をとる気も実力もない。だから当時とは全然違う。それでも常識が覆っているのである。

思い浮かぶのはフランス革命前のブルボン朝を風刺した左の絵だ(下層民が聖職者と貴族を背負っている)。このころフランス財政は火の車だった。下層民(第三身分)からはこれ以上増税しようがないほど税を徴収していたにも関わらず聖職者と貴族には年金支給と免税特権が与えられ、下層民がどれだけ頑張って立ち上がっても権力側の反対勢力に潰された。マグマがたまる。追い打ちをかけたのが農作物の凶作だ。食えなくなった第三身分がバスティーユ牢獄を襲撃して革命ののろしが上がる。この凶作は1783年、アイスランドのラキ山大噴火による噴煙で全ヨーロッパが昼間も暗くなってしまったのが原因であってフランス政府に落ち度があったわけではない。しかし民には関係なくみんなギロチンで斬首してしまった。

ラキ山の噴火と同じ1783年に日本でも岩木山、次いで浅間山が噴火して各地に火山灰を降らせ、天明の大飢饉がおきた。農村部は死人の肉を食うほど飢え、逃げ出した農民は各都市部へ流入し治安が悪化した。江戸や大坂で米屋への打ちこわしが起こり、江戸では千軒の米屋と8千軒以上の商家が襲われ、無法状態が3日間続いた。これが1787年のことで、奇しくも日本とフランスは “同期” していたわけだが日本で革命はおきなかった。ここで老中である松平定信による「寛政の改革」なる、いわば首相官邸の強権発動が為される。これが江戸幕府の崩壊を50年ほど引き延ばしたという人もいるが、ともあれ幕府はつぶれた。

貧困と飢饉。日本はだんだんこれに向かっていないだろうか。一応まだ一流国だからアニメみたいなことはないが、いちど世界でちやほやされ贅沢を覚えてしまった我々が既に平均年収がシンガポールの半分以下で韓国にも抜かれそうというだけでも士気は激減だ。我が世代は責任もあるし反攻したい一心ではあるが70歳ちかい町民の爺いが何をほざいたところでむなしい。低所得者層の貧困はすでにある。飢饉に喩えるべきは円安だ。この2年の岸田政権下で国の経済力も威信もプライドもつるべ落としなのだから円高に戻る理由は何も見当たらない。そう予想したので僕は117円のときに金融資産を全部ドルに換えて今もそのままだ。この為替レートだと夏から秋にかけて生活物資や食品の値段が大幅に上がる。いまの物価高はコスト増で見かけだけのインフレだ。そもそも30年も緊縮財政をやって景気回復のチャンスをことごとく潰してきた日本はインフレなんかにならない。

ということは、冒頭のモーツァルトの話を思い出していただきたいが、日本は借金をするのは馬鹿者だという国であり、これからもそのままなのである。そういう中だから世界を驚かす発明をしたり技術革新をしたり会社を興そうという人は減るし、いてもアメリカに行ってしまう。日本をまだ一流国と勘違いした若者は海外留学に行かなくなっており、そのうち自分は国以上に一流でなかったことに気づくだろう。地元の公務員が新卒の第一志望になる。国は賢明なのだから正しい国家計画をしておりそのコマになるのが安心安全という考えだろう。賢明で正しければこういうことになっていないのだが、文科省という国家のもとでは大学はそう教えないので純ドメ真理教の信者みたいな使い物にならない学生ばかりが出てくる。だからだろう、今どきの商社には海外赴任はしたくないという人が入社し、自分は絶対借りませんという人が銀行の融資担当になり、株だけは買ってはいけないと親に教えられた人が証券会社の営業デスクに並んでいる。

前稿でこう書いた。

① 明日が今日より良い日と思いたい

② 他人に干渉されずに生きたい

③ そうできるような社会を保ってもらいたい

僕が政治に望むのはその3つだけだ。国家計画経済のコマになれ、それがエリートだなんて考えを生む経済環境を作るのは自由主義社会では思想的干渉以外の何物でもなく、そんな国で明日が今日より良い日と思えるのは税金チューチューの連中だけであり、中抜きはGDPにも貢献しない。賢明でないはずの庶民が借金して繫栄する図を国家は見たくない。本当に賢明なら百歩譲ってそれでいい。しかし、どう見ても頭がいいと思えない人や学歴をごまかしている人が国家をやっているとなるとそうはいかない。

10年借金をした大馬鹿者の肌感覚だ。日本はまだデフレである。30年の下げ相場で、日本人の古来よりの気質である「貯めこみ好き」が全開になってしまった。これは根深い。「消費大好き」のアメリカ人や中国人とは別な人間だ。景気過熱を案じるアメリカの金利と、ゼロでも借りない日本の金利を同次元で数字だけ比べること自体がナンセンスなのだ。そこでおこった大幅、急激な円安である。金利を上げれば経済を殺す。賃上げは消える。住宅ローン金利は上がる。大量に出した国債の金利もかさむ。といって、ドル売り介入は経常黒字分だけじゃあ弱っちい。米国債を売りたいがバイデンの犬ぶりをさらした岸田がそんなことをできるはずがないと金融界にナメ切られている。こういうのを王手飛車取りという。だから売られるのである。

とすると、インフレにならないのだから、モーツァルトに学んで借金して増やすチャンスは知れてる。残りの健康人生5年あるかどうか。4年がんばって成功して使おうと思ったらあと1年?そんな大馬鹿をまたこいたら何のために生まれてきたのか親に申しわけない。ならば資産を現金にして家内とぱ~っと使っちまうかという気が俄かに出てくるのは仕方ない。子供の分は残すが、いいか、もうこの政治じゃあ日本は20年後に国があるかどうかさえわからない、だからやばいと思ったら田畑売って金持ってオーストラリアかどっかに移住して幸せに暮らせ、といってる。一介の町人にできるのはそれぐらいだ。

 

自民党の補選3敗に思う

2024 APR 29 22:22:59 pm by 東 賢太郎

① 明日が今日より良い日と思いたい

② 他人に干渉されずに生きたい

③ そうできるような社会を保ってもらいたい

僕が政治に望むのはその3つだけだ。自分でやる気はないからそのコスト(税金)は応分に負担する。誰がやってもいいから押しの政治家はいない。いるのは「①~③のどれかで不合格の政治家」だけだ。

僕は棚ぼた(税金、利権だのみ)の生活も社会も良いものと思っていない。人間はまじめに努力し働いて①➁を得れば他人に干渉もせず明日は良い日になると考えている。「ずる夫」「ずる子」がいれば、その循環は途切れて社会は乱れる。

権力者は初めから権力者だったのではない。他を武力で圧した者が弱者を収奪して財を蓄え、さらに武力をつけた。それが権力となり、代々勤労せずに特権を保持する仕組みを作った。「ずる」はそうして生まれた

日本は1万3千年前から縄文時代が1万年も続いた国だ。その間に世界4大文明が発祥した。つまり「ずる」は人類にあまねく分布するが日本にはいなかった。③が長く保たれた地球上唯一の国だが、③は文明とは呼ばれない。それだけ。

弥生時代に現れた権力は別人種の征服王朝だが混血して現日本人となる。平安時代に政略結婚(ずる)が横行し、王朝は「藤原さん」だらけになってしまう。藤原氏は官職(権力)を世襲し、税金を払わなくてよい特権階級のはしりである。

藤原さんは免税特権がなくなると「ずる」が効かなくなり、あっさり没落した。まじめに武術にはげんだ平氏に権力を奪われ、明治維新まで武士の時代になる。そうして「日本人のまじめさ=強さ」の盤石の方程式が700年かけて完成した

藤原全盛の時代は外憂がなかった。白村江で負けた唐が滅んでくれたからだ。日本は外敵が来ると政治がひきしまる(明治維新)。来ないと藤原さんが出る。アメリカさんに隷従で外憂が消え、藤原さんだらけになったのがいまの自民党だ。

自民党が補選3敗した。国民は「脱税裏金党=藤原さん」だと気づいた。「国民ごまかし=ウソつき=不まじめ=実力なし」がバレた。拝米=増税=外憂だから「弱い自民」が政権与党では自分の生活が危ないと国民は見ぬいた。

岸田独裁(地検の安倍派潰し、訪米の大歓待)はバイデン政権の策略だ。日本にとって国益ゼロの拝米政権であることをやがて国民は気がつくだろう。だから支持率はゼロに向けて下がると読んだ。(日本人に砒素のように効くLGBT法)。

岸田はポチが価値で、防衛とウクライナ予算を通すだけが役割だが失脚するかもしれない。そこで、スペアに総理並に拝米の上川陽子の名前が出てくると読んだ(次期総理大臣を物理学で推理する)。予想通り推したのはCIA新聞の読売だ。

バイデンが怖い自民は岸田おろしを正面からできない。訪米成功と勘違いした総理は補選に勝つと解散しかねない。そこで茂木幹事長は手抜きの応援で負け「逆風でした」と言った。「順風」だろ。この勘違い、もう自民はオワコンである。

国民が見ぬいた「拝米」の是非が次の衆院選、総裁選の争点になる事をバイデンは知っている。ポチが死んだら大統領選に響くから懸命に守る。岸田はそれが唯一の命綱だからこれまでの何倍も、風がおきるほど盛大にシッポを振るだろう。

この劇的な円安は総理のポチぶりを見たウォールストリートが「日本は弱っちい」と日銀をなめくさったことが一因だ。円キャリーやってやばくなったらどうにかなる。怖くないから思いっきり売られ、日本人の生活を締め上げてる。

国民はアメリカとうまく付き合いつつ国益を命がけで守る強い政治家を望んでいる。英語はしゃべりゃいいってもんじゃない、使ってナンボの道具である。

 

不合格の政治家とは

① ウソつき(泥棒の始まり。脱税も裏金も平気。死ななきゃ治らない)

② 不まじめ(政治は看板。特権階級になりたい。窮地でケツまくり逃げる)

③ 自分ファースト(国益は二の次。ウソと利権作りと地盤培養だけのプロ)

④ 藤原氏(世襲ファミリー政治家、領地の「無税」「治外法権」特権で繁栄)

何党であろうと、こういう政治家にはまっさきに落選してほしい。

 

 

大人の童話「つるのおんがえし」(つづき)

2024 APR 27 22:22:20 pm by 東 賢太郎

前回のおはなし

大人の童話「つるのおんがえし」

 

つづき

 

つる

 

「おまえは泥棒サギだったんだな!」

「あらまあ、おじいさん何をおっしゃるの、ワタシ、鶴だわよ」

「ウソつけ、家具がなくなってるじゃないか、それなら鶴の証明書を見せてみろ!」

翌日のことでした。おばあさんが息を切らせながらこっちに駆けてきます。

「おじいさん、おじいさん、これ見てよ。動物園の張り紙だよ!」

そこには娘のへたくそな似顔絵が貼ってあり、その横に「本証明書は当園の正式な手続きにより発行された。信頼性を疑った者は名誉毀損である」とある。

不審に思ったおじいさんおばあさんは、すぐに動物園に出かけます。

「鶴のオリはどこだろう?」

あちこち探しまわると、あまり見かけない鳥のオリがあり、その中に汗水たらして買った家具が見つかりました。

「おばあさん、あったぞ!」

「おじいさん、よかったわね!」

「くそ、やっぱりあの娘は鶴なんかじゃなかったんだ」

「そうだね、でもなんて鳥なんだい?」

おじいさんおばあさんはオリの名札に目をやります。

「おばあさん、見てごらん、やっぱりね」

「おじいさん、やっぱりだったね」

ウソ

 

 

 

春の祭典ブーレーズ盤のミス

2024 APR 27 1:01:43 am by 東 賢太郎

完璧のように言われているブーレーズCBS盤だがミスはある。本稿では数多おられると聞く「春の祭典フリーク」の皆様のためにそれをお示しする(まだあるかもしれないが気がついた限り)。妙な音?も含まれており、ミスだけではないから「これで曲を覚えてしまったので後に困ったことになった所」のリストである。スコアは https://imslp.org/ で無料検索できる。

 

第1部

序奏2小節目       ホルンの3連符の2音目が長すぎ(ミス)

練習番号22           ティンパニがチューニングするb♭音が混入

36の3小節目       ピッコロ・トランペットの d が c になっている(ミス)

第2部

93の直前            スネアドラム?のような音がかすかに鳴る

98の前の小節      コントラバス?の g# がかすかに鳴る(なぜだろう?)

193の前の小節    ティンパニが十六分音符一個飛び出し(ミス)

〈ここでブーレーズが何か言葉を叫ぶ〉

194の2小節目       またミス(立ち直れずそこから4打が乱れる)

 

この録音は1994年のCDでは「Severance Hall, July28,1969」と記載されているが「練習場(教会)で楽員に伝えず一発どりした」とティンパニストのクロイド・ダフからきいた弟子の方が僕の上掲youtubeにコメントをくれており、とすれば記載は表向きの情報ということになる。193ミス直後のブーレーズの叫びは「止めずに最後までやれ」ではないかと想像する(聞き取れない)。あそこは切り取ってやり直しがきかない。195からエンディングまでの追い込みはライブさながらの熱したアッチェレランドであって、その瞬間に、一期一会の出来と判断したのだろう。うがった見方かもしれないが、それがあったから最後の3ページの、ライブでもそうはない白熱の締めくくりができたかもしれない、だから録り直しをしなかったのではないか。

「スコアにレントゲンをかけたようだ」という1970年当時の日本でのコピーは静的で分解能の高さを謳ったものでうまい表現だが、それは多分にCBSのプロデューサー、録音技師、スタッフの音の作りこみの特性である。演奏としての特徴を書くとこうだ。ミクロに至る指揮者のスコアリーディングのレクチャーに全奏者が納得し、技量が図抜けている彼らがモチベーションを持って実現する演奏自体が時々刻々彼らをインスパイアし、成功させるための尋常でない緊張感が支配しながら、名人ぞろいでリアライズに余裕がある演奏だ。つまり、オールスターメンバーがサドンデスの決勝戦に臨んだような、極めて稀(まれ)だが演奏会場で数回しか遭遇したことのないライブ演奏に近い。つまりレントゲン写真よりカルロス・クライバーとベルリン・フィルのブラームス4番に近い。それをこれまた稀であるオーケストラに近いマイクで倍音まで拾う分解能で記録した、稀×稀の超レアな録音なのである。

以上のミスをブーレーズが気づかなかった可能性は限りなくゼロに近い。アナログのマスターテープの修正はできなかったか、または、何らかの別な理由で見送ったと思われる。おそらく両方だ。演奏中から、録り直してもこうはいかないとブーレーズが判断したことだ。上記のティンパニ奏者クロイド・ダフ氏(1916~2000、首席奏者在籍期間1942~81)によると。朝8時に始まった「練習」は止まらず、ダフは「よし最後までやったろうじゃないか」とホルン奏者と目くばせしたと書いている。ブーレーズがオーケストラを欺いたのか興がたまたま乗ったのか、いずれにせよ奏者は予期してなかったからこそのライブ感と思われる。修正は音源をデジタル化してからなら可能だが、そうすると僕がyoutubeにあげたLPレコードとCDの齟齬をこうして指摘する者が現れ、著作権問題はなくとも指揮者、オーケストラの美学上の問題はありえた。

この稿を書くかどうか長年迷ったが、このミスを誰かが指摘しているかどうかは知らない。クロイド・ダフ氏はジョージ・セルが信頼し彼の時代のクリーブランド管弦楽団を支えた名手中の名手であり、ティンパニストの方は憚ったのかもしれない。名誉のために書くが、193,4は三連符の中なのを頭を叩いており同じ勘違いであり、セッションを分けて録るつもりだったのが一発勝負になってしまったからの本来あり得ないものだ。彼はそれ以外は全曲に渡って音程、リズムともそれこそ完璧でこの演奏の成功に大きく寄与している。152の f-d-a-f は今でもヘボいのが多く、これで記憶しているのでほとんどがアウトだ。僕がまずこのレコードを好きになったのはティンパニの音のすばらしさに衝撃を受けたからで、彼あってこそその音をアップしたバランスで録音する発想が出ただろう。

僕は同録音のLPレコード2種(①初出盤と➁米CBSリプリント盤)、③米CBSカセット、CDはドイツで買った④1994年SONY盤(Super Bit Mapping、オランダ製造)⑤2014年ブーレーズ全集SONY盤を持っているが、①が倍音成分が潤沢で音彩が豊かであり、リプリントのたびに落ちている。ただ解像度は④が高い。PCでは(僕のヘッドホンでは)チューニングのb♭は聞こえにくいかもしれないが④では明瞭だ。

クラシック徒然草《「春の祭典」論考》

2024 APR 22 21:21:56 pm by 東 賢太郎

本稿は「ブーレーズ / クリーブランドのトランペットの僅かな間違いの問題」に正答され、先日、だいぶ前の稿(マリス・ヤンソンス)にコメントをくださり、よろしければとお薦めのデプリースト / オレゴン盤を貼ってくださったhachiroさんがいかに「春の祭典」をお好きかと知ったその一点において、心よりうれしく、また触発もされたことで書いた。

同盤は初めて聴いた。hachiroさんは8位に推されているが、トーマス / ボストンを評価されていることからも納得がいく。練習番号86の第2Trのfがgなのは個人的には賛成しないのと、ティンパニが146の入りが少し(二度目も)、149の前の小節ではかなりフライングなのが惜しいが、録音もアコースティックも良く楽しめた。世界のオーケストラの同曲の演奏能力は70年代から伸びた。米国が一頭地をぬいたが、ジュリアード、カーチスの俊英(オケの人数しかいない)が各地で主席クラスにつくという欧州にはない中央集権的エリート養成システムの威力は小澤 / シカゴ響の1968年(!)の録音で確認できる。その恩恵はオレゴン響にも及んでいたのかと思わせる出来だ。

思えばもう20年前からほとんど買ってないし実演を聴いてもいないから祭典フリークは名乗れなくなった。この曲は20世紀最高のクラシック作品である。しかし、何度でも書いてしまうが、僕にとってはブーレーズCBS盤が規格外なのだ。2度きいたブーレーズの実演でもこんな音はしなかった。だからもう絶対に現れないイデア化した「レコード上のクラウドな存在」という意味でビートルズのSgt Pepper’sと同格になってしまった唯一のクラシック録音だ。となると誰のを聴いてもコピーバンドのSgt Pepper’sになってしまっているから困ったものだ。

ブーレーズCBS盤は複雑な各パートのリズムの精緻さが “数学レベル” に尋常でなく、そういう頭脳の人が指揮台に立っている緊張の糸が全編にピーンと張っているということだけにおいても驚くべき演奏記録だ。第2部序奏は、高校時代、別な恒星系の惑星に連れてこられた気がして背筋が凍っていた。管弦の mf を抑え、逆に、pである緩い張りのバスドラとティンパニを mf に増量した練習番号80は山のような岩から真っ赤な溶岩流がぷすぷすと噴煙を吐いて押し寄せるようで、恐怖で眠れなくなっていた。87(楽譜)ではいよいよ異星の奇怪で巨大な生命体を目の当たりにし、それが面妖に蠢きながら虚空に白粉のようなものを吹き上げている仰天の光景が見えてしまった。

僕は文学的、詩的な傾向の人間でもSF小説マニアでもなく、音楽からこんなにリアルで色まであるヴィジョンを受け取った経験もないから自分でも驚いた。このレコードは発売してすぐに買ったが、「スコアにレントゲンをかけたような演奏」がキャッチコピーだった。レントゲン?そんなものはかけてない。彼は mf を逆転させているように何かを “抽出” しているのだ。それはまずストラヴィンスキーの脳内に響き、スコアに内在しているものだ。いったい何だろう?僕は知りたい一心でスコア研究にのめりこみ、1991年にアップルのPCと米国製MIDIソフトとシンセサイザーとクラビノーバを買って、自分でオーケストラ・スコアを鳴らしてみた。この実験は鍵盤の前で膨大な訓練と時間を要求したが、それに見合うたくさんの感動と学習があった。

この曲はリズムだけでなく管楽器、打楽器の比重が弦より重い点でも伝統を破壊している。弦は91のVaソロ6重奏(ドビッシー「海」Vcの影響だろう)以外にレガート的要素がなく、その部分の旋律は(Vaだけロ長調で書いているが)シ、ド#、ミ、ファ#の4音だけででき、複調、鏡像の対位法であり、同じ4音のVc、Cbソロのピチカートと空疎なハーモニクスが伴奏するという超ミニマルな素材で異界の如き音楽史上空前の効果をあげ、最後の1音で弱音器付きTrがpppでひっそりG♯mを添えるとレ#が短2度でぶつかった三和音世界に回帰してほっとさせられる。以上たった8小節の事件だが文字で描写するとこれだけかかる。顕微鏡で分析すべきレベルの微細な和声とオーケストレーションの実験が為されており、ここをすいすい奏者まかせで通り過ぎる指揮者はもうそれだけでパスだ。

この曲が人口に膾炙しているのはロシア(ウクライナ)民謡由来の旋律を素材にしていること、つまり音素材も旋律素材もシンプルで朴訥で親しみやすく、奇怪の裏に仄かに人肌が残っている点で12音技法と一線を画しているからだ(「結婚」はよりそれが鮮明である)。素材がロマン派的効果に向かう火の鳥の因習的世界を「回避」したのがペトルーシュカだが、ついに「拒絶」に進んだのが春の祭典だ。従って、素材の口当たり良さを表に出しつつリズムの饗宴に仕立てて興奮を煽る最近の傾向は作曲者の意図とはかけ離れた “ロック化” であり、セリエル音楽だけがもっている、まるで入学試験会場のようなシリアスな緊迫感と微視性を張り巡らせたブーレーズ盤とは一線を画すどころか、もはや別な曲である。

論考というタイトルにしたが、この曲について語りだすとあの指揮者がどうのこうのというお話にならない話題には至らず、ワンダーランドのようなスコアのミクロ世界に入り込み、ブーレーズ盤でそこがどういう音響で鳴っているかに収束してしまうのはどうしようもない。口で話しても数時間はかかる。止まらないのでやめるが、演奏とはそこから何を読み取ったかという指揮者の脳内のリアライゼーションに他ならない。ブーレーズの聴覚、解析力は音楽世界でなくとも破格であり、高校時代、強烈に響いたのは彼の読み取ったもの、ストラヴィンスキーの脳が天界からのシグナルを受信したが自演ではリアライズされていなかった何物かだと考えるしかない。同様の経験の方はきっとおられるだろうが書物、雑誌等でそうした論評に出会った記憶はない(あれば感動して覚えている)。つまり以上はゼロからの私見であり、そこからブーレーズが産み出した音楽に興味が移り、20世紀音楽の森に分け入ることになった。クラシックへの入り口がそこだったのはやっと齢70手前でシューベルトに涙する境地に至れたという意味でとても回り道だったが、作品との関係というものは秘め事のようにプライベートでインティメートなものだと思う。

ブーレーズは春の祭典を研究している頃(または以前)にこれをピアノで着想したと思われる。ウェーベルンやメシアンが聞こえつつも、後に管弦楽に写し取った音響には春の祭典CBS盤の嗜好が伺える。

ピアノのための『12のノタシオン』1-4 & 7(1945)管弦楽版(1,7,4,3,2の順)

 

小池都知事の英語力を判定する

2024 APR 20 1:01:49 am by 東 賢太郎

英語がうまい人を「ぺらぺら」という。この語は漱石が「坊ちゃん」に使っているから古い。ぺらでもべらでも構わないが、要するに何を言っているのかわからないものの擬態語だから犬のわんわんに等しい。猫と会話できるなら「あの人、猫語にゃーにゃーだよ」という感じだ。我々は誰しも日本語ぺらぺらだがそれ以上でも以下でもないように、外国語もぺらぺらだからその国の大学を卒業できるわけではない。

政治家に必要な英語力なるものは、相手を動かすための複合的なパワーである点でビジネス英語に似るだろう。その観点からすると、動画で見る小池都知事の英語はうまい。政治家の中なら偏差値70だろう。発音のそれっぽさという点でも余裕で使いこなしているという点でも間合い・抑揚という点でも、ネイティブと相当な時間を費やさなければこうはならないと断言できる。しかし、とすると不思議なのだ。なぜカイロ・アメリカン大学からカイロ大学に転校したのだろう。学問的意図かというとそうも思えない。前者は米系私立大学で英語だから頑張れば卒業できたかもしれないし、そうしていれば何の問題もなかったわけだ。両校の違いを知る日本人は多くないだろうから、もし箔をつける目的だったならあまりリスクリターンの良くない選択だったように思える。

とすると「女帝」にある以下の仮説がより説得力を増す。中曽根総理とコネのあった父親が現地でそれを使い、エジプト政界有力者が “面倒を見よう” となった。軍政下だから大学は従うため、有力者のお墨つきを得れば「卒業」でも「首席」でも大学は否定しない。よって日本で自信をもってそう発表した。お墨だけだから卒業年月日はない。したがって、それのある名簿に載らない。卒業証明書も出しようがない。しかし有力者の決定を覆せないカイロ大は卒業していないとは言わない。よって、消去法的に、「カイロ大を卒業している」のだ。

だから2020年に日本で「嘘だ」と騒ぎになっても証明書は出なかった(よって「困ってるのよ」となり、今の偽装工作問題になっている)。2022年に小池氏はカイロ大学を公務として訪問し歓迎されているが、喉から手が出るほど欲しいはずの卒業証明書をなぜもらってきていないのかもそれなら説明がつく。押しても引いても出なかったのならカイロ大は政治に配慮しつつも学府の矜持は守ったことになる。小池氏が声明文を自作したとしても大学は自らが書いたとは言わず、エジプト国家(大使館)が裏書するだけだ。しかし大学も偽物だとは言わないのだから、「卒業がなかった」という証明は物証からは難しいのではないか。

この有力者の後継者が現在の有力者で、小池氏が日本国でODA等に関わる権力を握ることはエジプト政府にとって格好のポジションだから、私文書偽造罪で裁判になれば2020年のお手盛り声明を大学もが追認して救い、しかし卒業証明書は出さないまま小池氏の弱みを握る政略に出る可能性は否定できない。となると、法律違反であろうがなかろうが、それ以前に、小池氏が政治家でいることは日本国のリスクであるという主張には反論が難しくなる。岸田氏がアメリカ盲従なら、小池氏はエジプトのそれになるかもしれないという疑念は否定できなくなるからである。

この事態をまねいた種は小池氏が自らまいたものだから自分で除去するしかない。ただ、マスメディアにも責任がある。エジプト留学帰りだ、要人のアテンドもしてる、きっとアラビア語は堪能なのだろう。ここで彼らは「ぺらぺら」だけで海外の大学を首席卒業できると本気で信じたか、疑いはもちつつも商売として祭り上げたか、いずれにせよ彼女をキャスターに起用するなどして囃したて、様々なストーリーをまつりあげ、その国民的人気に乗じて政治家が群がってくることで『小池百合子というキャラクター』を国民の脳裏に植え付けることに成功したのである。それは小池百合子その人ではない。彼女に似てはいるが画面上だけに存在するバーチャルなイメージである点、ボーカロイドの初音ミクや、そらジローや、チコちゃんや、ひこにゃんや、くまもんや、つば九郎のようなものだと考えた方がわかりやすい。

小池氏を揶揄するわけではない。その現象はフランスのマルクス主義理論家、哲学者、映画監督であったギー・ドゥボールが看破した「スペクタクル」であるといっている。ここで詳述しないが、彼の著書によれば「社会」はマスメディアが生成して拡散するイメージ(表象)が支配し、イメージの集合体としてではなく、それが媒介する人と人との関係のことをいうようになる(もちろん政治もだ)。発刊は1967年だが半世紀を経て世界はまさにその通りの様相を呈している。トランプ大統領の出現はその象徴であり、小池百合子のキャラ化もその素地に根を張っている。だから彼女は選挙に圧倒的に強く、楽勝で東京都知事になり、キャラ化したら醜怪なだけの自民党議連のお歴々をぶっ飛ばせたのである。

もっと具体的に書こう。昭和のころ、銀幕のスターたちは映画館でしか顔を見ないにせよ、ファンには生身の人間として認識されていた。サユリストの間では吉永小百合はトイレに行かないという伝説があり、そう信じたいファンが多そうだなというフィーリングの伝播は “さもありなん” だという婉曲な形態でもって、彼女は半ばキャラクター化されてはいた。しかし、それがどうあろうと、昭和の世の中においては吉永小百合は早稲田大卒の女性であった。かたや初音ミクはというと、女性のようだが年齢も出身地も不詳であり、学歴はあるかないか誰も知らない。しかしファンにはどうでもいい。キャラクターとはそうした性質のものであり、それでも人気があって人が集まるのだから銀幕スターと何が違うのかということになり、社会も政治もイメージによってドライブされていくのである。それが「スペクタクルの社会」というものだ。我々はすでにその中に住んでいるのである。

つまり、これを世相の移り変わりであるとして、小池百合子は時代の申し子なのだで終わってはいけない。ドゥボールの「スペクタクル」は今も社会構造を根底から変えつつあるムーヴメントである。人気=権力であるという接合点を媒介して、日本の政界は芸能界と “同質化” した。参議院に芸能人やスポーツ選手が数合わせでいたのとは根本的に異なる、遺伝子交換に類するともいえるおぞましき交配現象がおきている。このままいけば、キャラで釣られる低学歴層が多数派になって国を動かし、とんでもないポピュリズム政権が誕生して独裁者が日本を破滅させかねないし、民主主義の手続きを経ながら日本を共産主義国家にすることだって可能だろう。

いま、大手メディアは報じないがネットメディアが取り上げている小池氏の学歴詐称疑惑を見るにつけ、僕はちょうど10年前に社会を騒然とさせたもうひとつの「キャラクター」を思い出している。それは、内容こそ違えども、「外国に渡って外国の利害に知ってか知らずか関わってしまい、日本を舞台として日本において利用されたと思われる女性」に関わるものであった。これが当時の稿である。

小保方発表で暴騰したセルシード株(7月25日、追記あり)

小保方さんはハーバード大学に留学した女性科学者であり、安倍内閣の「女性が輝く社会づくり」キャンペーンの花形であり、電通やマスメディアによって割烹着を着せられてテレビに登場し、「STAP細胞はあります」と世界を驚かせる論文をNature誌に発表した。日本人女性初のノーベル賞か!と報じられて世間の耳目を集め、あっという間に国民的キャラクターにまつりあがったのである。ここが小池氏のデビューと重なる。

当時、僕の関心は、セルシード社の株価がNature誌掲載と同時に急騰した裏にあると感じた不正取引(らしきもの)を調査することにあり、専門外のSTAP細胞に関心はなかった。ところが、しばらくして、小保方氏の論文にデータ改竄が見つかり、ハーバード留学も単なる数か月の短期ステイであり、密室での実験の結果STAP細胞は再現できないことが、これまた大々的に報道された。

科学の姦計と証券市場の姦計。実は「その両者が日米にまたがった同一犯の仕業である可能性がある」と指摘したのが上掲ブログと一連の補遺だ。胴元は米国だからだろう、本件を当局は捜査しなかった(と認識している)が、その帳尻は魔女狩りの如き小保方さん叩きによって合わされたかに見える。とすれば彼女は科学者としての心得の是非はともかく、巨悪に利用されて贖罪させられた犠牲者であるとも考えられる。同稿は毎日数万回ペースで読まれて多くの方の知るところとなり、不審なファイナンスが中止になるなど、天下の公器である証券市場が詐欺師に悪用されるのを抑止する一助にはなったと自負するが、後味はけっして良くはなかった。

小池氏が現況をどう打開するのかはわからないが、違法性があるとするならそれが立証されるか否かの可能性は既述のように思え、畢竟、最後の審判は有権者にゆだねられるのではないだろうか。僕は小保方氏の科学者としての心得についてだけは厳しく批判した。嘘となりすましの横行は国の幹を腐らせ、日本をますます衰退させるだろうが、真実・真理をひたすら追求するはずの科学者がそれに淫する図を見せられて心底衝撃を受けたからだ。政治は必ずしも真実・真理に基づいて行われるものではなく、国家の安泰と国民の幸福を得るための方策が何かは自国だけの都合で決まるわけでもないが、憲法が定める国民の多数決だけで常に最適解が出てくるわけでもない。それを導く叡智があり、その実行力を有し、正義に忠実な人が望まれる。国民はそれを審判するだろう。

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岸田総理の英語力を判定する

2024 APR 15 21:21:58 pm by 東 賢太郎

まず少々の前置きをしたい。他人の英語力についてネーティブでない人間があれこれ書くには、まずお前はどうなんだが問われるからだ。英語力を発音のことだと思ってる人が日本にはとても多いが、そういうものはカラスの鳴きまねを競うようなもので所詮は外人の英語だから目くそ鼻くそレベルだ(ただし帰国は違う、幼稚園からインターだった娘の英語は別次元だ)。我々後発組は正確に通じればいいのである。僕は自分の英語がうまいと思ったこともそういわれたことも一度もないが、電話一本で10年あまり何百億円も動かして失敗はない。

英語でスピーチした経験のある人もおられるだろうが、外国で現地法人の社長を7年勤めたから回数は多い。X’masパーティーや各種のセレモニーもあったが、特に多かったのは「調印式」であり、現地の銀行、証券、業者、マスコミなど100人ぐらいが集まり、株式や債券を発行する上場企業の社長が契約書に署名し、野村證券代表者として僕が署名し、幹事団の多くの皆さんが署名する。それを社長にお渡しして、握手してツーショットの記念写真、拍手という段取りである。この瞬間に何十億円というお金が動く。これが主幹事証券会社の職務であり、スイスでは多い月は週に1,2回これがあった。

調印が済むとさてレセプション(会食)となる。MC(司会)が皆さんご静粛にとやり、ホストである僕が乾杯のスピーチをするわけだ。ワインが注がれ皆さん壇上に注目し、大会場がシーンとなる。ここで当然、お会社様をほめ讃えなくてはいけないわけだが、日本人流に原稿を読んだりクソまじめな話をしては一気に座が白け、来ている幹事団は手練れのライバル社だから「あいつはボケの若造だ(他社の社長より一回り若い40歳だった)、次回は弊社に主幹事を」などと裏で平気でやられる。といって、ちょっとは気の利いた話をしようにも、それは俗にスカートにたとえられるほど短いほうがいいのである。これを何十回もやってどう切り抜けていたかはあんまり記憶にないが、高校時代にマウンドに登るぐらいの緊張はあった。まあ首にはならなかったが。

スピーチの良しあしはもちろんコンテンツにもよるが、役者と同じく演技の面もあり、これが結構大きい。慣れた人がやれば中身ゼロでも印象に残すことはでき、スピーチとしては成功なのだ。たとえば、僕はいきなりしゃべれと言われても大丈夫だ。何も頭にないのに、まず「それについて大切なことが3つあります」と、したり顔で言ってしまう。演技だ。1つぐらいはすぐ思いつく。それを語って時間を稼ぎながら2つ目3つ目を考えるのである。これはウォートンで習った技だが、MBAを取った人は訓練されている一種の「芸能」といえる。このぐらい屁のカッパでできないと金融の世界で大金を動かすことはできない。それを「英語でできる」ということであれば、通訳業はいざ知らず、ビジネスマンの僕としては「英語がうまい人」という評価になる。

ジョークが有効打であることは確実だ。面白いかどうかはともかく「ジョークを言う奴」はおしなべて好感がもたれる。言いそうもない日本人がやると効果は大だ。アメリカはエレベーターで他人と目が合うと必ずニコッとする。初めての時、若い女性にこれをされて驚いた。もちろん好感ありでもなければいい人なのでもない、誰が銃を持ってるかわからない国だ、お互い「危害を加えないよね」という合図である。ジョークも似たもの。いきなり原稿を読んだりクソまじめな話をするなんてのは匿名で顔を隠して他人をディスるイメージを持たれても文句は言えない。ジョークは中身より「人柄をあらわす」ことに意味がある。そこにウィットというひねりがあれば満点。そうなってしまえばそこから多少おかしなことを言っても受けいれられてしまうから不思議なものだ。

ということで本題に入る。

岸田総理の米国議会スピーチだ。うけるようにおさえる所をおさえていたから、十中八九プロが書いたものだろう。それはいい。述べたように、スピーチはコンテンツがどうあれ相手のハートをつかむことに意味があるからだ。つまり古典を演じる落語家やクラシックのピアニストにちかい。

結論。岸田総理は合格。英語力は日本の政治家として偏差値60代上の方、あれだけできる人は国会にほとんどいないだろう。ビジネス能力次第だが、英語だけなら証券、商社で生きていける。小学校1~3年をニューヨークで過ごしたのが大きいと思ったのは発音ではない、ここで笑いが取れると確信してあける “間” の取り方とポスチャー(所作)だ。ジョークも、ここをこう強調して言わないとうまく通じないなということをわかって言ってる。あれは日本の学校秀才ではできない芸だ。仮にスタンディングオベーションがやらせだったとしてもああいうものはごまかせないし、台本を家で猛練習しても知らないものはできない。丸暗記とディスっている人がいるが、その程度の人にあれを批判する資格はない。その場面は見てないものの、彼はアメリカ人と会話で意思疎通が十分にできるはずだ。

総理をほめているわけだが、これはもろ刃の剣で、あのシーンを見せられるとポチになってしまう素地がやっぱりあったのだ、こりゃもうだめだという危惧もいだく。ここは日本だ、英語なんかどうでもいい、そのために外務省や通訳がいるじゃないかという人もいるだろう。しかし、習近平ならともかく、ただでさえ軽くなった日本の総理の言葉が通訳をとおして米国を動かすなんて、もうそんなパワーはかけらもない。何より威力があるのは総理大臣自身の「パーソナリティと言葉」である。相手に心を開かせ、聞く耳を持たせ、日本の言い分を理解させ、納得させ、行動させる。サンフランシスコ講和会議に臨むまえ、マッカーサーは吉田茂は駐英大使だったから会話できると考えていたが、会ってみるとあまりの英語のひどさに唖然としていたとマッカーサーの側近の手記に書いてある。講和会議の契約書に日本語訳はなかった。いいようにやられてめくらサインをして今の日本のていたらくがある。最低、岸田スピーチぐらいの英語力がないと現状打開などまったく無理である。総理大臣を「純ドメ」(純粋ドメスチックの略)議員たちのくだらない政局なんかで決めていてはますますやられ放題になる、というより、純ドメがそうやって権力を握ってもアメリカのポチになるだけ、対米隷従が利権になっていくだけで、永遠に我々の子孫は独立できない。

希望は持った。岸田総理、むしろそれはあなただからやろうと思えばできる。「ポチのふり」だ。日本の国益になることを「アメリカが世界の主役であるために不可欠だ」とバイデンに思い込ませ、それを日本に「命令」させる。「さすがですね、それをやればトランプに勝てますよ」ぐらいヨイショのダメ押しもかます。そのぐらいのことはやってくれ、それなら長期政権でいいじゃないか。ぜひお願いしたい。

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大人の童話「つるのおんがえし」

2024 APR 13 10:10:23 am by 東 賢太郎

昔々、おじいさんとおばあさんが田んぼで罠にかかった1羽の鶴をみつけました。哀れに思ったおじいさんは罠をはずし、鶴を逃がしてあげます。すると、その日の晩のこと、1人の娘がおじいさんの家の戸をトントン、トントンとたたきました。「この雪の中、道に迷ってしまいました。どうか一晩泊めてくださいな」。快く受け入れると娘は家の手伝いをしてくれるようになり、喜んだおじいさんとおばあさんは「うちの娘になっておくれ」と3人で仲良く暮らしはじめたのです。

そんなある日のこと、娘は「今から布を織ります。布を織っている間は、決して部屋をのぞかないでください」とお願いをします。おじいさんとおばあさんが約束すると、娘はいいました。「これからこの部屋にこもりますからね。布を町で売っておじいさん、おばあさんの借金をゼロにします。田んぼの害虫もゼロにします」。おじいさんは涙を流してよろこびます。「おお、なんとありがたいことだ。あなたはあの日に助けた鶴だったんだね」。

数日たったある日のことでした。娘の部屋から布を織る音が聞こえなくなっていたのです。「どうしたんだろう」。気がかりになったおじいさんはとうとう部屋をのぞいてしまいました。すると、そこには憔悴し、途方に暮れた表情をした娘がいたのです。「のぞいちゃダメって言ったじゃない!」。そんな姿を見るのは初めてだったので、おじいさんはおどろきます。「いったいどうしたというんだい?」。娘は答えます。「困っているのよ」。おじいさんは助けてあげようと思い、部屋を見回すと、なんと、家具一式がなくなっているではないですか。びっくりしたおじいさんは尋ねます。「どういうことだ?あなたは鶴なんだろう?」。「そりゃ鶴だわよ。鶴の証明書だってあるわよ」。「おい、おばあさん、お奉行様を呼んでくれ!」。「おじいさん、だから言ったじゃないの、あの鳥は鶴じゃなくてサギだったのよ」。

 

鷺(サギ)

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読響 定期演奏会(カンブルランを聴く)

2024 APR 12 17:17:22 pm by 東 賢太郎

指揮=シルヴァン・カンブルラン

ヴァイオリン=金川真弓

マルティヌー:リディツェへの追悼 H. 296
バルトーク : ヴァイオリン協奏曲第2番 BB 117
メシアン:キリストの昇天

今季は読響定期(だけ)に行くことにしたが、新しい座席の音響が素晴らしいのが吉報だ(サントリーホールは席を選ぶ。途中で帰ろうかというひどい席もある)。プログラムも良い。カンブルランは僕がフランクフルトにいたころ歌劇場の音楽監督でワーグナーなどを聴いた。読響でもメシアンの「アッシジ」は歴史的演奏。彼以上にメシアンをふれる人は今はいないのではないか。「キリストの昇天」は日本では滅多に機会がなく意外にバルトークVn協もそうはない。金川真弓は中音域に厚みがあって怜悧になりすぎず、こういうバルトークもいい(楽器も良いものだろう)。良い意味でのエッジのなさはファイン・アーツのカルテットを思い出した。インパクトを受けたのはマルティヌーだ。こんないい曲だったのか。シベリウスを思いながら聴いた。

イマジンの西村さんとご一緒し音楽談義を楽しんだ。演奏者の方と話すのはinspiringだ。デレク・ハンのモーツァルト。伴奏のフィルハーモニア管がいかなるものか、クレンペラーのオケをあれだけ鳴らしているのがどれだけのことか。練習中のシューベルト即興曲D.899の1、3番、これがいかに偉大な音楽か語りだして尽きず、この人はひょっとしてモーツァルトより天才じゃないかと意見が一致。60になってだんだん大ホールでやる音楽よりinward、intimateなものが好きになっており、シューベルトこそまさにそれ。音符一つひとつ訴えかけてくる濃密な感情はとてもpersonalなもので彼と会話している気持になり、ああなるほど、そうだ、そうだよなあとぴったり自分の感情にはまる。それを感じながら弾く。西村氏ご指摘の通りこれはロザムンデのエコーだ。そういうところにも生々しくシューベルトの息吹を感じる。記憶力が落ちてるのか3番はなかなか暗譜できず譜面がないといけない。これじゃまだだめだ。教えてもらった「水の上の霊の歌」、豊饒な和声の海だ。いただいたCD、アレクセイ・リュビモフによるショパンのエラール・アップライトを弾いたバッハ、モーツァルト、ベートーベンと自作。面白かった。バッハのインヴェンションが彼にはこう響いていたのかと目から鱗だ。outwardなショパン演奏は趣味でなくまったく聞く気にならないが、彼自身は逆の人だったと思わせるものがここにある。

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