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ベートーベン交響曲第4番の名演

2013 JUL 21 19:19:27 pm by 東 賢太郎

オランダ系のベートーベンは名前にvanとあるが貴族ではありません。Beethoven(ベートホーフェン)ですが、Beetは砂糖大根、Hovenは農園主の意味のようです。平民の子でした。しかし彼は自分の楽才に対してゲーテが驚くほどのプライドを持ち、貴族階級はもちろんあのヨゼフ・ハイドンですら歯牙にかけなかったことをうかがわせるエピソードを残しています。

ベートーベンは1804年から1806年にかけて、ジョセフィーヌ・フォン・ブルンスヴィック(右)という女性と恋仲にありました。貴族でありダイム伯爵夫人となった彼女は月光ソナタを初めて弾いた人であり、1812年に生まれた最後の娘ミンナの父親はベートーヴェンだと言われている人でもあります。

ベートーベンは生涯独身でした。しかし親密な女性はたくさんいました。ピアノが弾けて売れっ子作曲家で収入もある男ざかりですから女性にもてなかったという方がむしろ不思議です。そうではなく階級コンプレックスがあったため周りにいる女性ではなく貴族の令嬢や夫人に惹かれ、結局身分や育ちの違いで破局になるというパターンが多かったのではないでしょうか。一般にある気難しくて孤独でダサいイメージは、後世が聴覚疾患と同じく彼を運命の逆境と闘う悲劇のヒーローに仕立てるのに都合が良かったものと思います。「楽聖」に私生児がいるなど言語道断ということです。

そのジョセフィーヌといい仲だったころ、そして、交響曲第3番エロイカを書き終えて、その精神の延長線上でそれをさらに純化した第5番を構想していたそのころ、それを一時中断して一気に書いたのが第4番です。

                                                               terezejurietta11

 

 

 

 

 

モーツァルトの場合、私生活上の出来事、恋愛や肉親の死のようなものが音楽に反映していることを聴きとるのは実はとても困難です。しかしベートーベンになると、ジョセフィーヌのお姉さんテレーゼ(左)にピアノソナタ24番をあげているし、月光ソナタはそのいとこのジュリエッタ・グイチャルディ(右)にあげている。贈られた女性たちが何らかのインスピレーションを彼に与えていて、本当にそれがそうかはともかく、僕たちがそれを聴きとったという気分になることぐらいはできる。ベートーベンの音楽の方がずっとロマン派に接近しているわけです。それが彼の死の2年後に書かれたショパンのコンチェルトあたりになると誰の耳にも女性への恋情と聞きとれる第2楽章を持つようになってきます。ベルリオーズでは妖怪になりますし、さらにワーグナーに至って恋情どころかエロスそのものまで反映されるわけです。かように見ると、女性の存在が音楽史を進化させていますね。大作曲家はみんな男だからそうなのか、だから大作曲家はみんな男なのか?

この4番の交響曲も「巨人に挟まれたギリシャの乙女」とシューマンが例えていますが、ジョセフィーヌ由来のものかどうかはともかく何か女性的なものを聴きとろうという姿勢が伝統的にあるように思います。どうも腑に落ちません。特に第2楽章です。いくらカルロス・クライバーが「テレーゼ、テレーゼ・・・と弾いてくれ」とオーケストラに力説しても、そもそもそういう性質の音楽には聞こえません。それなら2番の第2楽章のほうがずっといい。ピアノ版で聴くとよくわかるのですがこの楽章のバスの弾むような付点音符による単細胞なリズムはどう弾いたところで愛を語れるようなものではなく、僕はむしろ冗談音楽かメトロノームを連想します。交響曲第8番には緩徐楽章がないのですが、もし入れるならそこしかないんじゃないかとすら思う。和声的にも何も起こらず、僕の偏見と思っていただいて結構ですがこの楽章と7番の第3楽章は全9曲の中で霊感を欠くものと思っています。

この曲が女性的でもなければ恋人に思いを吐露するものでもないと僕が考えている理由はたくさんあります。第1楽章はアダージョの暗くてものものしい序奏がついていて古典派の世界に退行しています。シ♭のユニゾンに対して内声部が奏でるソ♭・ミ♭・ファ・レ♭は音名こそ違いますが5番の冒頭タタタターンの3度下降音型であって、直後に現れる輝かしい変ロ長調の主題があたかもその5番の世界とのひとときの別離を宣言するようです。これは運命動機が支配している熱情ソナタがエロイカ・5番の精神系列に属しているのに対して、清明なハ長調で神殿のようにそびえる風情のワルトシュタインソナタの領域に4番を置いてみようとベートーベンが意識したかもしれないと思えます。音階が上下するメカニックな書法は似ていますし、ソナタ第1楽章の再現部の前など「4番そのもの」です。

4番のその部分、それは「輝かしい変ロ長調の主題」を序奏の暗闇から導き出す部分で、これをひときわ輝かしくしているのが前の小節の4拍目にぎゅっと押しこめられた5つ、4つ、3つ、または2つの前打音のような音階です。ミファソラシ→ド、ファソラシ→ド、ソラシ→ド、ラシ→ド、のどれでもいいのですが、頂点のドに一気に登りつめるはじけるような高揚感、こういう部分に喜びが突き上げるようなハレの衝動を感じないでしょうか。この花火のように鮮烈な効果のある書法はベルリオーズを経てストラヴィンスキーの春の祭典にまでそのまま伝わっています。音の数を5,4,3,2とだんだん減らして速度と緊張感を高めていくベートーベンの書法はまさしく画期的なのですが、この直情的な喜びの爆発は非常に男性的なものではないかと考えます。ジョセフィーヌが何かを彼に与えていたとしたら、僕はこれだと信じています。

さらに加えますと、彼は爆発しかけた感情をそのまま世にさらすほど単細胞の人間ではなく、彼の芸術の秩序、脈絡の中で4番目の交響曲がどうあるべきか考えたでしょう。大まかに言いますと彼にとってピアノソナタは自分自身と親しい知人などのインナーサークル用、カルテットは音楽通の貴族を中心としたアウターサークル用、交響曲は名も知らぬ大衆への名刺代わりという位置づけにありました。フランス革命が生んだこの大衆という相手こそ彼の楽譜の売上げを伸ばすキークライアントであり、交響曲は音楽をよく知らない新規顧客にもすぐわかるように易しく書いていると思います。エロイカのパンチ2発ではなくモーツァルト風の序奏を付け、ワルトシュタインのあの神秘的な、まるで霧の中からうっすらとバッハの平均律が聞こえてくるような壮麗な終楽章ではなく、覚えやすく単純に興奮をもたらす無窮動風の主題にするなどです。そしてそれはハ長調ジュピターへの挑戦から始まり、短調交響曲へ挑もうという脈絡の中では、第39番に相当する位置づけを用意するという意味でも意にかなった選択だったのではないでしょうか。

ミヒャエル・ギーレン /  南西ドイツ放送交響楽団 

僕は93年5月にフランクフルトのアルテ・オーパーでこのコンビによるブラームスの交響曲第3番を聴き、心より感動しました。この3番はブラームスがヘルミネ・シュピースという若い歌手との老いらくの恋によって生み出したという、これも女性がきっかけになった曲です。しかも彼女が住んでいたのはフランクフルトからほどないヴィースバーデンという訳で、この演奏会はその意味でも心に残るものとなりました。ドイツでの3年間の滞在中、片っぱしからコンサートを聴きましたがこの3番のギーレンほど「ドイツ音楽」というものの神髄を味わわせてくれた指揮者はありません。何回もきいたこの曲が、初めてドイツ語にきこえたといったら近いでしょうか。オケの音も、あらゆる意味で、もうブラームスを聴くならほかのオケはいらないと思ったほど。第3楽章の弦の高貴でふくよかな美しさといったらなく、鳴りやまぬ拍手にこたえて非常に珍しいことにアンコールがあってそれがこの楽章でした。オケにそう伝えてすっとタクトをあげたギーレンに何のてらいもなく、それが安手のサービス精神ではなくて、演奏していた彼ら自身があまりの素晴らしさにもう一度味わいたいからやっているのだと納得するのにそう時間はかかりませんでした。イタリア人やフランス人が自国の音楽をやるのにこういうことがあるのかどうか、そこに住んだことのない僕にはわかりませんが、ドイツ人をこの時ほどうらやましいと思ったことはありません。写真 (14)

このCDはその直後に買ったもので、素晴らしい演奏、録音はアルテ・オーパーのあの日の音そのものであります(バーデン・バーデンのハンス・ロスバウド・スタジオ)。

僕にとってベートーベンの4番は彼が何をしたかったのか良くわからない曲であり、48種ある音源は誰のを聴いても特に面白くはありません。スコアを読んで眼から見た情報で僕がイメージしているこの曲に最も近いのがギーレン盤ということです。冒頭の第2ホルンをちゃんと鳴らしているのは知る限りこれだけであり、第2楽章の付点音符の伴奏音型を陳腐に陥らぬだけ意味深く彫琢しているのもこれだけです。ベートーベンの音符がこれほど「知性的」に鳴っている例は聴いたことがなく、20世紀以降の音楽家のうちで最も高度な部類のグループに属する耳と理性が選び取った音に接しているという喜びは、僕が何のために音楽を聴いているかの明快な解答とさえいって過言ではありません。余談ですがギーレンは昔に来日してN響を振って以来もう2度と日本に行く気はないそうです。日本には音楽がわかる者などほとんどいない、オケや音楽関係者とはぜんぜん話がかみあわないと言ったそうで、持ちかけられたのはオンナの話ばかりだったそうです。真偽は不明ですがそうだとすれば悲しいばかりです。しかし冷静に見れば、日本は大好きだと持ち上げる実はお金が大好きな外人演奏家が多い中でこの本音の剛直さは彼のスコアの読み方そのものであり、こういう人だからこのベートーベンができているのだと確信します。これが災いしたせいか本当にわかる者がいなかったせいかどうか、わが国の音楽評論家がこのインターコード録音のベートーベン全集をほめたためしがなく、わが国でセールスが不調だったせいかどうか、この会社は潰れてしまいこの最高に素晴らしい全集は廃盤で手に入らない!という理不尽な憂き目にあっています。再録盤がヘンスラーからCDとDVDで出ましたが、もはやあの脂の乗りきったブラームス3番の音ではありません。どこかのレーベルがこの、僕が何回聴いてもいいと思っているこの全集を出してくれること、ついでに言えばインターコード盤に併録されていたギーレンの自作曲(不協和音まで美しい!)も一緒に出してくれることを心から願ってやみません。

手に入らないCDだけでは無責任ですので、初めて4番を聴かれる方のために現在入手可能なものも番外として挙げておきます。

ピエール・モントゥー / ロンドン交響楽団

ジョージ・セル / クリーヴランド管弦楽団      

レナード・バーンスタイン / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 

3つともタイプは違いますが録音も満足でき、どれから入られても後悔することはない秀演と思います。

 

(補遺、3月7日、2016)

ウィルヘルム・フルトヴェングラー / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

1943年6月27,30日のライブ。大学1年の8月にこれのLPを買い、不幸なことにこれで4番を初体験することになった。フルトヴェングラーなる何やら神懸った指揮者への怖いもの見たさもあったが、実はそれよりも廉価盤であったことが大きな購入動機だった。カネがなかったのだ。当時4番はたしか正規盤がなくメロディアのこれが希少とされたがいかんせん貧弱極まる音であり、ざーざーいう雑音の中から聞こえてくる冒頭の四谷怪談でもはじまりそうなおどろおどろしい響きにはびっくりした。その後カラッとしたラテン的なトスカニーニの信者になろうという僕だ。緩徐楽章や第3楽章トリオUn poco meno Allegro のハエがとまりそうな遅さには絶句するばかりで、何の根拠をもってこういうことになるのか奇怪というしかなく、4番が嫌いになりかけた。今もってこれがいいと思ったことは一度もなく、4番は幸いトスカニーニによって好きになったがフルトヴェングラーは嫌いになった。

 

(補遺、10 June17)

ルネ・レイボヴィッツ / ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

ブーレーズの春の祭典(CBS、69年)が師匠レイボヴィッツの録音と酷似していることは指摘した。師に習ったわけではなくアナリーゼの流儀の帰結としてそうなったことは、両者ともストラヴィンスキーの自演盤に解釈のルーツがあることでわかる。レイボヴィッツ盤のライナーノートによると『「世界で一番演奏回数の多いベートーヴェンの第五の出だしのところで、ここのところの小節が一度も正確に演奏されたことがないということに気がついたことがあるかい? それからここのところと…ここのところ」そして48時間後には彼はベートーヴェンの交響曲の中で一般に行なわれている約六百ほどの誤りをみつけ出していた』。楽譜を記号として解釈するのは誤りだろうが、明確な論拠もなく指揮者が解釈を加える恣意を僕は好まない。4番の実像は本稿を書いて4年弱を経た今も明確でないが、このようなものだったかもしれないと考えるに至ってはいる。第4楽章をこのテンポで吹けるファゴット奏者がたくさんいるとは思えないが。

 

(続きはこちらへ)

ベートーベン交響曲第5番の名演

Categories:______ベートーベン, クラシック音楽

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