ベートーベン交響曲第5番の名演
2013 JUL 27 23:23:28 pm by 東 賢太郎
いよいよ5番です。この曲、「運命」とあだ名されていますが作曲者がそう命名したわけではありません。この曲の演奏会プログラムに「運命」とあるのは日本ぐらいで、ドイツでもアメリカでも「交響曲第5番ハ短調」であります。
この曲は音でできた堅固な建造物であり、そういう曲作りを生涯指向していたベートーベンがたどり着いた最頂点であります。第3番エロイカで試行した多様な作曲技法が、ベートーベンの頭脳の非常にロジカルな部分で濾過されてきて、ある一瞬に「暗闇から光明へ突き進む衝動」という熱源を得て奇跡的な造形の鋳型の中で固まったかのような作品です。3番や4番においてご説明した作曲の経緯というものは、もちろんここにもあるのですが、運命というあだ名がしっくりしない気がするように、そういうことを知って聴いていただきたいという思いもしてまいりません。音だけで充分です。音をじっくりと聴いてください。
一つだけ記しておくとすると、同時に初演された第6番パストラーレ(田園)が、5番とは似ても似つかない作曲法によって生まれた曲になっているということでしょう。5楽章によるそちらの路線もベートーベンが試行した対極の最頂点であり、この2曲において彼の天才は最も遠隔地点にまで分化いたしました。その一方はブラームスの4曲を末裔とし、もう一方はベルリオーズの幻想やシューマンのラインという別種の交響曲を末裔として後世に伝わっていくのです。
ウィルヘルム・フルトヴェングラー / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 (1947年5月25日、ベルリン・ティタニア・パラスト)
僕はフルトヴェングラーの信奉者ではなく、どちらかというと疎遠な部類の人間ですが、彼の肌に合ったいくつかの曲で受けた衝撃はクラシック人生を左右するほど強烈なものでした。これもその一つです。ナチ協力の疑いから連合国の法廷尋問を受け指揮台を遠ざかっていたフルトヴェングラーが5月25日に「復帰記念コンサート」を開くと聴衆が殺到しました。チケットは奪い合いとなり、演奏後、熱狂した2千人の聴衆に指揮者は16回も指揮台に呼び戻されたそうです。ストーリーこそ違いますが94年のカルロス・クライバーのベルリン・コンサートでの熱狂を思い出します。あそこで聴いた実音は海賊版CDには入りきれていません。このCDも録音は貧弱であり、実音を想像するしかありません。そうであっても、そうする価値があるほど凄い演奏です。5番がこう演奏すべき曲かどうか以前に、フルトヴェングラーとはこういう指揮者だったという好例としてぜひお聴きいただきたい。第4楽章コーダの終止に至る大減速だけは昔は違和感があったのですが、最近こういうものだったかもしれないとも思えるようになりました。この2日後の27日の演奏もCD化されており、一般には多少録音も良いそれが代表盤となっていますが僕はこの生々しい熱気をはらむ初日の演奏を採ります。なぜ長年にわたってこの指揮者を神と崇める人が後をたたないのか、これを耳にすれば即座にご納得いただけると思います。
オットー・クレンペラー / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 (1968年5月25日、ムジークフェライン)
偶然ですがこれも5月25日のライブです。フルトヴェングラーとは対極的な演奏です。リズムは意味を込めて重く、フレージングは音の増減・加速減速・句読点により変幻自在であり、遅めのテンポの中で千両役者の威厳と秘儀が次々と繰り出される様は壮観としか申し上げられません。第1楽章のファゴットはホルンにせずそのままであるなど、いつもスコアを読み解いた結果こうなったと感じさせるのがクレンペラーの演奏です。そして第4楽章コーダの終止では最後の和音を断ち切るティンパニの一撃、この威厳をこめた幕切れにこの演奏の秘める巨大なエネルギーが象徴されていたと感じるのです。ヨーロッパでは珍しく間髪入れず爆発する聴衆の拍手。ムジークフェラインに感動の渦がマグマのように堆積し、それが堰を切って流れ出す様が手に取るようにわかります。クレンペラーはウィーン・フィルを高く買っていましたが、楽員は面従腹背で扱いにくく、言いにくいことは娘を通して伝えてくるとこぼしたそうです。それでもこんな8000メートルの霊峰を仰ぎ見るような表現ができてしまうのですから大変なカリスマでした。
カルロス・クライバー / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
そのウィーン・フィルをここまでのせてしまったカルロスのカリスマも巨大でした。この超高速のアレグロにオケ全員が納得したとは思えないのですが、結果として前代未聞のエキサイティングなこの演奏がライブでない場でなされたのは驚異です。これは彼の残した決して多くない録音のうちでも1,2を争う名演と思います。5番がこういう近代的な要素といいますか、現代の高性能オケにして初めて発揮できるシャープで筋肉質な質感でもって圧倒的な説得力を獲得するということは、これが1975年に現れるまで誰も知らなかったのではないでしょうか。僕はロンドンでこれ1曲だけのCD(当時はまだ新メディアでした)を買い、完全にノックアウトされ、しびれてしまいました。ベンチャーズにしびれたのとほぼ似た感じであったのです。ちょっと若い方への啓蒙的な意味も込めてあえて申し上げさせていただくと、クラシックをまったく聴いたことのないロック、ジャズ系の方、ぜひこれを聴いてみてください。クラシックが重ったるくてカビが生えたものというイメージは一気にぶっ飛ぶでしょう。「のだめ」でブレークした交響曲第7番も入ってます。こっちも皆さんの思い込みを根底から粉みじんにしてくれる強烈なビートのきいたカッコいい演奏なのです。それを天下のウィーン・フィルの会心の演奏で、しかも見事な録音で聴くことができます。人生を変えてくれる1枚になると確信いたします。
(補遺)16年1月17日
ピエール・ブーレーズ / ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
CBS全集67枚組の12枚目。第1楽章は推進力を犠牲にして運命動機を聴き手の耳に刻印する。第2主題も無機的。こんなに遅いのも珍しくさらに提示部終結では間があき、展開部の運命動機全奏の減速、再現部後半のテゥッティではさらに減速する。オケはどこか粗く、このレアな解釈に乗っている感じはしない。第2楽章も室内楽のように透明だが合奏のパートごとの出来はいまひとつ。第3楽章のトリオのくり返しが議論を呼んだが録音が過度にフォーカスしている弦の合奏精度の低さとこの遅いテンポでは冗長感しかない。終楽章も全奏でのパートごとの分奏が聞こえ運命リズムの輪郭の隈取りに神経が使われる。第1楽章同様に第3楽章主題回帰への減速が大きいなど音楽が常套的に突っ走るということが回避されつつ対位法的な動きが浮き彫りになるが音楽的に何か意味深いかというと僕には空疎でしかない。伝統的なベートーベン解釈へのアンチテーゼをクレンペラー(存命中)のオーケストラにやらせて楽員たちがつきあったという感じに聞こえる。
ヨゼフ・クリップス / ロンドン交響楽団
昔エヴェレストというレーベルで出ていて日本プレス盤の音が悪く、あんまり聴いていなかったクリップスの全集。4番を聴いてこれをかけたらあまりの落差のなさにうなったのです。4番のままという感じでこんなに力瘤の入らない5番も珍しい。いうなれば1-9番が典雅な音楽性に満ちた19世紀来のウィーン流で、ベーレンライター版を知った僕の世代がきくと気取った料亭で出てきた「おふくろの味」みたいな感じでしょうか。楽しめました。
(続きはこちらへ)
Categories:______ブーレーズ, ______ベートーベン, クラシック音楽
花崎 洋 / 花崎 朋子
7/29/2013 | 12:13 PM Permalink
東さんが、フルトヴェングラーを「イチオシ」されるとは、とても意外で、少々驚きました。ただ、もし、万一、推薦されるとしたら、第5以外には有り得ないだろうとも思っておりました。東さんが、5月27日の演奏よりも初日の25日の演奏をお好みなのは、良く分かります。27日の演奏は、フルトヴェングラーのマニア以外が受け付けないであろう、「悪い誇張癖」が随所に見られますので。マニアは、そこがたまらないのでしょう。私もマニアの端くれですので、27日盤という訳です。今回の私の投稿、思い込みが行き過ぎた記述で、たいへん失礼いたしました。花崎洋
東 賢太郎
7/30/2013 | 1:21 AM Permalink
以前書きましたが僕の拍手は90%は作曲家へなので演奏評価というとほんの10%です。鐘と鐘突きです。鐘突きが奇態なことをやって鐘の鳴りが悪いというのが最悪で、そういう演奏が非常に多いと感じます。例えば90点部分が50点で、従って10点部分がほぼ零点というものです。最近は聴き手も当たり前の演奏に飽きてきてそういう奇態を珍重するような傾向も感じます。オーディオ・ファイルが原音を通りこしてやたらとハイファイ的な音を求めるのに似ています。当たり前に良い演奏をすることが最も難しいし、音楽的に価値があるのですが。
鐘突きは人気商売でいわば芸能人でもあり人気者への嫉妬もすごかったようですね。アンセルメのモントゥーへの嫉妬も有名です。そういうことはともかく鳴っている音楽さえ良ければ僕はそれ以外に何も求めませんしそれがどこの誰かも関係はありません。配点90の部分を減らさなければ配点10部分は満点従って100点という風に考えています。
フルトヴェングラーは合う鐘があってそれを鳴らすのはうまいですね。5番はそうだとおもいます。特にこういう一期一会の場面での盛り上げは余人をもって代えがたく、天覧試合でホームランを打つタイプであり、即興で万座を感動させるスピーチの出来る人と思います。そういうものは練習しても体得できない範疇の能力ではないでしょうか。この場合5番という曲の本質ともずれていないので貴重なドキュメントと思います。演奏だけなら満点、録音が悪いので90点ぐらいの評価です。こういうものはクラシックを聴く大いなる楽しみのひとつと思い、25日を挙げさせていただきました。
花崎 洋 / 花崎 朋子
7/30/2013 | 7:54 AM Permalink
「当たり前に良い演奏をすることが最も難しいし、音楽的にも価値がある」というご記述に、東さんの作曲家に対する敬意を大いに感じます。音楽創りのプロセスよりも、完成品として「聴衆の前で鳴っている鐘の音が全て」なのですね。リスナーとして、最も心すべきことですが、ある意味、よほどの聴視力のあるリスナーでないと、実現不可能な難しいことであるとも思い、大いに考えさせられます。
東 賢太郎
7/30/2013 | 11:47 PM Permalink
音楽創りのプロセスを知ることはスポーツの試合前の練習を見るような意味では興味があります。ただ僕は野球の練習は多少わかってもサッカーのは見てもわかりません。オーケストラも楽器ができませんし合奏の経験もなくて実際に見ても意味がよくわからなかったというのが正直なところです。むしろ教わる所があるとすれば下手ながらも触っているピアノかもしれません。それはバッハ全曲演奏に挑んだりショパンのエチュードをがんがん弾くようなピアニストの練習ではなく、亡くなった井上直幸さんがモーツァルトのK.322の第2楽章、僕はこれが大好きなのですが、このある部分で「どうしてこのファに#がついているんだろう!」とひっそりと指を止めて感嘆されているような練習です。この逸話を知って井上さんに強い共感を覚えました。僕もあそこで#をつけたモーツァルトの心のひだを見た気がした経験があったからです。この曲を僕はうまく弾けませんが、井上さんの演奏が心を満たしてくれます。それは別に何も変わったものではなく、まさに当たり前に良い演奏なのですが。
花崎 洋 / 花崎 朋子
8/1/2013 | 6:19 AM Permalink
モーツアルトのK332、改めて聴き直しました。良い曲と素直に感じました。特に2楽章が人間的な心の揺らぎのような情感が良く出ています。この2楽章を「当たり前の良い演奏」に仕上げるのは、かなり難しいだろうな、などとも思ってしまいます。
井上直幸氏は私も好きなピアニストの一人で、私がまだ石油会社のサラリーマンで若かった頃、日本で開かれた井上氏の演奏会へも何回か行きました。その中でも、特にベートーヴェンの32番ハ短調は、いまだに印象に、しっかりと残っております。
東 賢太郎
8/2/2013 | 7:08 PM Permalink
当たり前のいい演奏はほめようがないので評論家泣かせなのでしょうか。そういう音のアンプをステレオ誌でオーディオ評論家の菅野沖彦氏が「保守本流の正統派の音。だけどそれゆえに売れないだろう」と評してました。正統派の評論家ですね。
花崎 洋 / 花崎 朋子
8/3/2013 | 6:07 AM Permalink
「保守本流の正当派が評価されず、売れない」とは困った世の中だと思います。音楽評論家の評価などには惑わされずに、結局は自分の感性を磨き、自分でしっかりと味わうことが、本当の意味で音楽から感動を得るためには、最も大切なことかもしれませんね。
東 賢太郎
8/3/2013 | 12:58 PM Permalink
そう思います。そうなってくると聴く曲もだんだん限られてくるようで、昔は冒険心もあってあれもこれも手を出しましたが今はもう本当に自分の琴線に触れるものだけでお腹はいっぱいになります。50年いろいろ聴いてそれでも覚えもしないというのは、残念ながらご縁がない音楽だと。逆に気に入っているものはもっと深くつきあいたくなるようです。
花崎 洋 / 花崎 朋子
8/4/2013 | 6:33 AM Permalink
そうですね。人間、50歳を過ぎると、自分に合う、合わないが明確になりますね。仕事をする上では、自分とは合わない人とも何とか折り合いをつけなければなりませんが、趣味の世界では、自分とシックリ来るものと深く付き合えばよいし、そうでないものとは疎遠になっても構わない、それが趣味の最大の良さかもしれませんね。
東 賢太郎
8/4/2013 | 11:27 PM Permalink
自分というものが定まっていなかったのがわかります。会社生活は自分を殺してしまいます。そこまでして得たいものが何だったのか今となると不思議です。趣味は仕事になると楽しめません。仕事を持ちながら趣味を主体に生きられたらと思いますが、どうも自分はいい加減に仕事していつも趣味優先で生きてきたかもしれないとも感じます。
花崎 洋 / 花崎 朋子
8/6/2013 | 6:40 AM Permalink
随分と前のことですが、とあるセミナーを受講した際に「プロの音楽家は相手を感動させることが仕事で、自分が音楽に酔ってはならない」、「趣味の音楽は、自分が感動し楽しむのが目的」という主旨で、プロ意識についての説明があったのを思い出します。本業で相手(顧客)の期待以上のアウトプットが出せれば、その余力を趣味につぎ込むのは、大いにOKであると思います。