クラシック徒然草-音楽のマクドナルド化-
2014 MAY 7 12:12:15 pm by 東 賢太郎
斉藤さんからいただいたコメントをなつかしく拝見しました。ズビン・メータの「春の祭典」が我々が親しくなるきっかけだったというのは面白い。当時はクラシックでもポップスでも「新譜」の発売というものにイヴェント性があったんですね。メータがCBSに移籍して初録音は何になるかファンはやきもきして待っていた時代です。歌謡曲(死語になりましたが)にしてもビートルズやキャンディーズにしても次の新曲はアルバムは?というのでわくわくした経験のあるシニアは多いでしょう。クラシックにもそれがあったのです。
ネット時代になってyoutube等で音楽が電子情報としてばらまかれています。それを従来のオーディオ・フォーマットに落とそうとすればお金はかかりますが、パソコンのスピーカーやスマホのイヤホーンで満足なら全部無料です。タダは無敵です。音質ぐらい目をつぶってもいいやという人が増え、音楽の録音技術やオーディオ再生のマニアックな部分は売れずにどんどん淘汰されます。悪貨が良貨を駆逐して世の中悪貨だらけになる。マックが街のハンバーガー屋を淘汰したのと同じ。音楽のマクドナルド化です。ポップスはいいかもしれないが、クラシックでのそれは由々しき聴衆の劣化を招くと危惧しています。そういうことにこだわらないならクラシックを聴いても面白さ半減だからクラシックは死へ向かうといってもいいでしょう。ビッグマックモーツァルト風、ないんですそんなものは。
クラシックのマック化はライブ録音の増加という形に現れています。コストがかからないからです。たしかに一部の演奏家はライブの方が面白いということもあり、ライブを好む聴衆もいます。しかしそれはスタジオ録音というレファレンスがドンと真ん中にあったからでしょう。それと比べてどうかという楽しみがあったのです。それが昨今はスタジオ録音の新譜というと、オペラやオーケストラのように録音にお金がかかるものはほとんど見なくなりソロや室内楽ばかりで寂しいと感じるのは僕ばかりではないでしょう。
録音は写真のようなものだと思います。スタジオ録音というのは、成人式や結婚式で一生残すために着飾っておすましして撮るあれ。かたやライブ録音とはスナップ写真です。だから昔のアーティストは嫌う人もいました。カラヤンはライブの正規録音はほとんどありません。スタジオで撮影するというのは永遠の記録に残すのだから気合いの入り方も違います。写真がお遊びのプリクラにも芸術にもなり得るように、録音そのものが芸術であるということが稀にですがあります。
それの最たるものが、ピエール・ブーレーズがCBSに録音した春の祭典です。これがライブで収録できる可能性は確実にゼロです。写真芸術であり録音芸術なのです。それによって被写体に興味を持ち、クラシック探訪の道に入りこんだ方は数知れないと思いますし、僕本人がその一人です。そういう出会いがあるから、当時のクラシックリスナーは全神経を集中して音を聴き、新譜を待ち焦がれていたのでしょう。こういうことがプリクラやスナップ写真でおこるというのはちょっと想像しがたいのです。
僕のブログ「アビイロードB面の解題」は、ビートルズの後期のアルバムは写真芸術、録音芸術の領域の産物ではないかという僕なりの仮説であることをご理解いただけるでしょうか。ライブでそれができないからスタジオにこもった、そしてそれは最近書いたグレン・グールドの晩年の方向性とも合致していると思うのです。アーティストにこういう芸術領域が与えられないなら、音楽のマック化現象はやがて音楽芸術を滅ぼします。ライブの方が感動的だ云々の皮相的な話ではないのです。
僕は音楽ブログは演奏の観点ではなく作品の観点から書いております。それは被写体が良くないものをスナップ写真の加減で良く見せるのはそもそも芸術でないと思っているからです。そういうものは消費の対象にはなるかもしれませんが鑑賞するものではない。ポップスは普通は消費する物ですが、アビイロードみたいに鑑賞できるものもある。そういう例としてあれを書きました。だから逆にクラシックにおいて消費する物ばかりが市場にあふれるのはどうかという気がしてなりません。気合いを入れて造ったものを気合いを入れて味わう。その両方があって初めてアートはなりたつんですね。
斉藤さんと、あのころにお会いしてよかった。今だったらメータの春の祭典のライブ録音はどうですかなんてご質問はなかったろうし、僕はそんなものをまじめに聞いてもいなかっただろうからお友達になるきっかけもなかったですね。
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中島 龍之
5/8/2014 | 11:00 AM Permalink
昔はレコードの発売日を待ち焦がれて、当日レコード店に買いに行ったものですが、今は発売前に配信して聴けるので、区切りがなくなってしまいました。私が、最初に買ったレコードはビートルズの「抱きしめたい」ですが、発売日1964年1月21日(記憶が正しければ。)にレコード店に買いにいきました。正に私のビートルズ記念日です。今は「待つ」楽しみがなくなってしまいましたね。それとともに、レコードからカセットテープ、CDに変わり、今は、CDも持たなくなる時代で寂しい気がします。古いのでしょうか。ライブとスタジオ録音については、クラシックとポップスとは異なりますが、別の種類の音楽と言ってもいいと思います。音楽を聴き始めたころは、ライブでレコードと違うのでがっかりしたものですが、その後、ライブは臨場感という点で、それはそれでいいと思ってます。私程度の知識で言える立場ではありませんが、クラシック音楽ではそうは思いません。クラシックコンサートで間違ったら、多分、台無しだと思います。ロック、ポップスは、ライブではノリがよければ、ミスも愛嬌になりますからね。
東 賢太郎
5/8/2014 | 12:21 PM Permalink
僕はベンチャーズはEMIスタジオ録音が耳に刷り込まれていて、ライブはどれを聴いてもがっかりです。あの圧倒的に素晴らしいキャラヴァンや10番街の殺人はたまたまだったのかなと。そして新譜で京都の恋が出てしまったあたりで完全にサヨナラでした、これはもう別世界の人たちだなと。でもベンチャーズもビートルズもマックじゃなかったですね。
斎藤 春洋
5/11/2014 | 8:57 AM Permalink
再び名前を出していただき恐縮です。先日読んだ記事では、日本はまだマシな方で、欧米においては衰退からほぼ消滅も秒読みといったことが書かれていました。もっとも日本のCD売り上げもAKBの握手券商法に依存しているので、実情は変わらないかもしれません。
東 賢太郎
5/11/2014 | 11:21 AM Permalink
そうですね、欧米のポップス界ではCDはもはや無料で配布する宣伝媒体になってしまっていて、それで集客してライブで儲けるスタイルになっているそうです。街角で配るティッシュペーパー並みということです。「コンテンツはタダ」「リアルで課金」がITビジネスの原則だからi-tuneのようにコンテンツ課金ビジネスの存在はまだ救われる方で、音楽もオンライン化すると限りなくタダになるという原則通り進むでしょう。音楽家はブログやSNSで無料宣伝してi-tuneで売り、聴衆はライブへ行くかダウンロードしてスマホで聴くかです。CDは消えるでしょう。これは進化だから仕方ないと思っていますし、むしろ素人が交響曲を書いて自分でシンセ演奏したMIDI録音を紹介したり売ったりできる可能性を開くからプラス面もあると思いますよ。ただその現象が引き起こす「クラシック聴衆の減少と劣化」が進むとそれもなく、とても心配ですが。
斎藤 春洋
5/11/2014 | 8:12 PM Permalink
うっかり「Return」キーを押したら、途中でアップされたようなので続きを書かせてください。「春の祭典」でブーレーズを引用されたのは昔と全く変わりませんね。当時「ブーレーズは数学者だから・・・」と話されていたのは、今思えば数学好きの東さんらしいと思います。それ以外ではマイケル・ティルソントーマス(MTT)を紹介していただいたのを覚えています。
実はこれをきっかけにMTTのレコードを聴き始めたのも私にとっては新しい経験でした。その後ガーシュイン、コープランド(同じくおすすめの「アパラチアの春」は最高です!)バーバー、アイヴス、ヴィラ・ロボスなど未知の音楽を聴くようになり、ヴィラ・ロボスはとうとうブラジルに行くまではまってしまいました。
本当は東さんから頂いた「大学への数学」別冊についても書きたかったのですが、また次の機会にさせてください。(表紙裏に「多摩川に行った日」と書いてあったのを今でも覚えています。)
東 賢太郎
5/12/2014 | 7:56 PM Permalink
「ヴィラ・ロボスはとうとうブラジルに行くまではまってしまいました」とはすごい!あの半年の日々があってそういうことになったというのは、もう自分の人生に起きたことのように大きな感動を覚えます。MTTからそっちへ行かれたというのも大変興味深いことです。バーバー、アイヴス、ヴィラ・ロボスは僕の苦手科目ですので斉藤さんにブログで書いていただかなくてはなりませんね。
「大学への数学」をさしあげたことは、う~ん覚えてませんね。本当に嫌になります。ごめんなさい。それ多摩川へ持って行って読んでた?かもしれなし、愛読書だったことは間違いないですが・・・。ぜひ書いてください。