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クラシック徒然草-音の記憶という不思議-

2015 MAR 15 0:00:21 am by 東 賢太郎

僕は絶対音感はない。ピアノのキーを見ずにポンと押してもらって、はいシ♭ですとはいかない。しかし自分から正確に言える(歌える)音はある。ドとレとミ♭だ。

なぜかというと耳に焼きついている曲があって、たとえば春の祭典のアタマをじっと思い出すとあのファゴットが心で鳴る。それを声にして歌うと「ド」が取り出だせる。しかし最近はあれを聴いていないので成功率が落ちたかもしれない。

「ミ♭」は魔笛序曲かシューマン「ライン」だ。これは割とすぐ出る。「レ」はブラームスのヴァイオリン協奏曲で、これが一番自信がある。

ではなぜシ♭はだめなのか?わからない。変ロ長調の曲はいくらも知っているが、頭で鳴らしてもそれが原調という保証はないのだから仕方ない。

とすると、「その曲を知っている」というのと「頭でリプレー出来る」というのはちがうのだ、きっと。

アルトゥール・ルービンシュタインは「朝食の時、私は頭の中でブラームスの交響曲を演奏していた。その時電話が鳴ったので、受話器を取った。30分後、私は電話で話している間も演奏が続いており、今は第3楽章が演奏されていることに気づいた」と語ったそうだ。

僕はこの話を信用する。

13才のモーツァルトが父に連れられてヴァチカンへ行き、システィナ大聖堂で演奏されたアレグリの「ミゼレーレ」を一度聴いただけで戻り、楽譜にしてしまったのは有名だ。それはこれである。

これを「思い出して」書くのはどう考えても無理であり、彼は頭の中にボイスレコーダー があって、宿でそれをリプレーしながら音符に書きとったにちがいない。ルービンシュタインのいう「頭の中の演奏」だ。レコーダーだから電話していても鳴っていて、そこに意識がなくてもちゃんと先に進んでいる。モーツァルトはそうやって勝手に聞こえてくる音を譜面に書き取った、それならこの奇跡は理解できる。いや、奇跡ではなくて、頭の中にボイスレコーダー があるかないか、それだけだ。

僕の場合だが、春の祭典、魔笛序曲、ライン、ブラームスVn協は(ルービンシュタインほどではないが)リプレーできる。ハンマークラヴィール・ソナタ(変ロ長調)はできない。つまりそういう理由で冒頭のことになっているかもしれない。それはまあいいだろう、単にそういうことであってそれが本稿の主題ではない。

不思議なのは、たしかに春の祭典はよく聴いたが、もっと聴いた曲もあるのにそっちは「できない組」だという事実だ。そこがわからない。

記憶力とは不思議なもので個性があるようだ。僕はカタカナが覚えにくいので受験で世界史と地理は敬遠し、必然的に日本史と政経になってしまった。カタカナがダメなのではなく、シーザーがカエサルになったりする、そういうはっきりしないもの、あやふやなものをはじいてしまうように僕はプリセットされている。

つまり人のアタマにはみなそういうフィルターのようなものがあって、そこをすっと通り抜ける物は受け入れる。音楽でも人でも。だからすんなり名前も記憶するし、出会いが深いおつき合いに発展したりもする。そういうことを後からふりかえると「相性が合った」とか「ご縁があった」という表現になってくるのではないだろうか。

 

記憶法と性格の関係

 

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