スポーツとケンカ
2016 JUL 29 12:12:34 pm by 東 賢太郎
プロスポーツのメンタルがどういうものかは想像がつきませんが、同じ人間がやることだからという目で見ています。
ソフトバンクの内川がファウルフライを妨害されて捕れなかったとカメラマンを罵倒したり、中日の平田がヤジに応戦してスタンドにのぼりかける(右)などいろいろおこります。
内川はそういう男に見えないし平田は自分ではなく同僚ビシエドへのヤジに男気応戦だったようで、チームが勝てないことのストレスの反映なんでしょうか。こういう心理状態になると打席にも影響があるだろうなあと思います。
勝てなくなると連敗する。実力は伯仲なのにどうしてあのチームだけ一方的にやられるのかと不思議になりますが、チーム内でこういうストレスがそこかしこに蔓延すれば全員の打席やピッチングにひずみが出るのは避けられないでしょう。
一方でヤクルトのオンドルセクが監督に暴言を吐いてクビになってしまいました。こうやって外部にでなく身内にあたるケースも出てくると重症です。ともあれ、みんな負け=ストレスなのはよくわかります。
しかし、ストレスは昔からあったことで、そのはけ口はもっとシンプルに「敵」に向かってたような気がするのは僕だけでしょうか。ちょっとしたプレーで殴り合いになりベンチ総出の乱闘事件になるなどですね、これは顕著に減っているように思います。
プロ選手はリトル、高校と旧知の仲で、チームは違っても挨拶したりベース上でランナーと野手が会話したり、最近は合同キャンプまでしている。人間としてはいいことですが、どうも男と男の一騎打ち、ケンカという側面が失われてきている感じがするのです。
僕自身そうですが、男は本来きっと野蛮であり社会ではその蛮性を理性で包み隠して生きているように思います。大昔のガキの頃ですが、職場で上司に怒り道具箱を蹴倒して抑え込まれたことがあります。オンドルセクどころでない事件で、それでも会社で生きてこられたのは幸運だったのですが、ストレスはそれ自身が凶暴なものです。
負けをすんなり認めて尻尾を巻いてしまう男の心理は知りませんが、負けという悔しい状態のままストレスをため込むよりは発散する、それも身内やファンに対してではなく、負けた相手、敵にストレートにぶつけるという意味では、男にとって乱闘は筋が通っておりわかりやすい。
実社会でそれは絶対に許されないがグラウンドなら、という見る側の心理はあるように思うのです。実社会でできないからむしろやってくれ、戦争でやられたアメちゃんをたたきのめしてくれというのが力道山を応援した終戦直後のプロレスだったように思います。
僕の野球好きは王貞治vs大羽進に始まったことは書きました。外木場vs王、村山vs長嶋、清原vs野茂、清原vs伊良部、江川vs山本浩二・・・数々の名勝負。これは武蔵vs小次郎や伊賀の影丸の現代版で、これに魅入られてピッチャーをやりたいとなった。
これ、わかりやすくいえば、ぜんぶ男のケンカなんですね。合理主義、人道主義、友愛、フェミニズムなんかがはいりこんだスポーツはつまらないです。アルコールフリービールだけの飲み会みたいなもんだ。そんなのを金払って見る気はしません。見る方もストレス解消したいですから。
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ブンタロー
7/29/2016 | 5:41 PM Permalink
今回と、「いや〜、そうは言っても、オカマもいますからね」と、「半沢直樹とモーツアルト」の三回を興味深く読ませて頂きました。
ケンカは(戦争のごとく)ルールがない。スポーツはケンカをルールに「あえて落としこんでみて」戦っている。私は、排中律(ルール)に「あえて落としこんでみて」質問を投げかける側は、すでに答える側を支配し始めているように思います。よって、スポーツは(ルールを拒否する)ケンカではない、と思います(だから乱闘です)。
東さんが実社会で「負けてよかったということもある」と書くとき、「A または B、どっちが正しい?」という問題に「C だ」と答えている(ルールを回避している)と感じるのですが、いかがでしょうか。
東 賢太郎
7/29/2016 | 6:23 PM Permalink
最近僕をよく知る人が「読んでますよ」といってくださることが増えてきて、ブンタローさまのように旧稿まで検索してご覧いただいているかたもおられて、有難いことと感じ入ります。
では戦争も一応は国際法のルールはありますからケンカではないのでしょうか。スポーツを(両極端でいえば)ケンカのスピリットでやるかやらないか、どっちも可能でしょうが僕は前者しか見ないということを本稿は言っておるつもりです。スポーツにルールがあるのは勝敗の判定が生死でなく、さりとて敗者に「いや〜、そうは言っても」を言わせないためだと理解しております。
僕が宮仕え戦争で負けて良かったと書いたのは負け犬の遠吠え、負け惜しみです。どこがCなのか不明ですが、そのお蔭でモーツァルトに共感できたということを書いたつもりです。
ブンタロー
7/30/2016 | 9:33 AM Permalink
「遊びのすすめ」(遊びは戦争のシュミレーション)を拝見しています。
A:勝って良かった
B:負けて「人間として全人格的に勝者に否定され、劣後した気持ち」
のうち、どちらかを選択するのがスポーツで、排中律(ルール)が成立します。
C:負けてよかった
は、スポーツの「原理」が変わっています。
「自分で会社つくってオーナーになること」は、サラリーマン戦争の「原理」からは「面白くない」ものの(局面 B )、勝ち続ければ決して訪れない新たな局面 C だと思います。
東 賢太郎
7/30/2016 | 2:06 PM Permalink
Ⅰご説の前半について
①自明です
A、B二択はスポーツの定義です。
②スポーツ競技中に「負けてもいい」と思う人は(自分を含めて)いません。
③よって、スポーツの「原理」を変えておりません。
Ⅱいや~、そうはいっても、オカマもいますからね について
僕は二択で人生を送っているわけではありません。二択は「何か役に立つ結果を導いたり推論したり」する場合に便利と書いておりますし、大概のものは落とし込める可能性があると思っておりますが、役に立つ結果や推論に結びつくと思わない場合は意味ないのでいたしません。
Ⅲ「遊びのすすめ」(遊びは戦争のシミュレーション) について
スポーツはシミュレーション手段の一つと書いております。手段は個人的にスポーツ、麻雀、個人海外旅行の経験しかなく、すべて「悔しい思い」をもたらしたことで共通しております。
半沢直樹小説は「倍返し」のモチベーションが題材で、それは「負け」(左遷、降格、いじめ)から出てきます。社会に出て二択ではない戦争に必然として巻き込まれ、そこで初めて負けて終わるぐらいなら練習したらどうですか?そっちは負けても人生は終わりませんよという趣旨です。ただし、その負けが「人間として全人格的に勝者に否定され、劣後した気持ちにな」るようなものでないとモチベーションがわきませんから練習問題になりませんよ、ということです。だから「いや~、そうはいっても、オカマもいますからね」を許さない二択で自分の逃げ道をふさぎなさいということです。その例としてスポーツが出てきております。この主張が「スポーツは負けてもいい」と考えていると解釈されることは想定しておりませんでした。
Ⅳ 「自分で会社つくってオーナーになること」は、サラリーマン戦争の「原理」からは「面白くない」ものの(局面 B )、勝ち続ければ決して訪れない新たな局面 C だと思います。について
そう思いますが、サラリーマンの勝ちは価値観で決まります。社長にならなければという人もいれば定年までいられればという人もいて、達成すればどちらも勝ちです。どういう「原理」か不明ですが、少なくともご重視される二択のルールではありませんから三択でも矛盾しないのではないですか。
僕の価値観で勝ち続けることはできず、従って負けでしたが、「勤め人になるのがいやだったし、役所や銀行は向いてないし、できれば好き勝手出来る自営業がいいなというぐらいで何の切迫感もない学生」(どうして証券会社に入ったの?(その1)より)だった人間の価値観からすれば、サラリーマンになったことが「負け」でした。