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ベートーベン 交響曲第2番ニ短調 作品36(その2)

2018 DEC 29 22:22:54 pm by 東 賢太郎

 

ベートーベン 交響曲第2番ニ短調 作品36(その1)

 

そういう経緯があるものだから、2番に対する僕の深い愛情は長らく不変である。それは音の構築物としての即物的な価値としてまず意識下に棲みついた。その価値がいかに膨大であったかは、それが作曲の動機を僕に子細に調べる事を命じ、上述のような結論に至らしめ、このような文章で語らしめたことでわかる。そうしたことで、次に、つらい境遇に陥った局面でこの曲が、3番よりは直截的ではないやりかたで、僕の精神を鼓舞してくれる特別の効果をもつことを知る。奈落の底から立ち返る原動力となった彼の心のマグマは2番の中でピンと張った生命の糸に置き換わる。それは曲のどの部分でも弛緩することがなく、あらゆる細部に至るまで畏敬の念を喚起する。それはモーツァルトの魔笛のような、およそ人間が創ったと思い難い物への畏敬ではなく、人間くさいヒューマンな物への畏敬だ。そんな音楽はまたとない、なぜなら音楽を書いた人でそういう履歴をたどった人間はいないからだ。

ベートーベン交響曲第2番の名演

ここに挙げたレイボヴィッツ盤をきく。彼はあのブーレーズの先生だが、ああいう超人が他人から何かを習おうと思ったとしたらレイボヴィッツはさらなる超人だったことになる。巷の演奏は誤りだらけだと言ってLvBのメトロノーム指示を守って60年代初頭にRCAに録音したこの全集、原典版などと新奇性をうたって楽譜順守のあまりに油分のない干物みたいになる悲しい例が多い中で、潤いと音楽性をも感知させる稀有な事例である。2番はアンサンブルを揃えた感じはない演奏だがオケをドライヴするパッションが尋常でなく、これだけのメリハリと推進力があるものというとトスカニーニ盤とシェルヘン盤しかない。それを春の祭典を聴く耳で微細に聴くとレイボヴィッツが勝る。

2番のスコアで心肝寒からしむる部分はここだ。第1楽章コーダでバスが d から半音づつ12音を総なめしてさらに先まで行き(14回上昇) 9度上の e まで達し、それに D7、E♭dim7、Am、F7、F#dim7、Cm、A♭7、Adim7、E♭m、B7、Cdim7、F#m、D7、B7、Em、A7、D、Bm、Em、A7という和声が乗る信じ難いほど素晴らしいパッセージだ(8分39秒から)。ブログにバッハと書いたがそれはバスの事で彼はこんな和声はつけない、やはりLvBオリジナルの革命的ページと思う。

レイボヴィッツはトランペットの短2度を強調して鳴らすが、和声変化に感応してバランスを取っており、原色的だが奇異にならない。まさに作曲家が狙った効果かくありと思う。これは一例だがレイボヴィッツの刻み込んだ音はどこをとってもスコアからえぐりだしたインテリジェンスを感じ、トスカニーニのようにパワハラ練習した風情はないのにどうしてこういう演奏ができたのか不思議だ。

2番の白眉というと第2楽章ラルゲットだろう。LvBの書いた最も素晴らしい緩徐楽章の一つと思う。この冒頭の弦の美しさは筆舌の及ぶものではなく、精神が天国に舞って浄化されるようだ。このピアノ譜を弾いてみればそれが再現できる。

これをさらに深淵にしたのが第九の第3楽章であるが、第九といえば、2番は第1楽章の序奏部に、第九の第1楽章の第1主題を思わせる下降音型が、同じニ短調で現れる。

第1,2楽章には、しかし、斬新な創意があるとしてもまだ伝統的なハイドン、モーツァルトの交響曲のフレームの中だ。それを破壊はしておらず、第九終楽章で否定される素材だ。

破壊が始まるのはここからである。

第3楽章は交響曲で初出のスケルツォだ。一気にラディカルに直進する。笑い声かもしれないシンプルな動機で旋律らしきものが出てこないのは5番の第1楽章を想起させる。

一方で音量は一小節ごとに目まぐるしく変化し、 pp、p、f、 ff、sf の5種類を変遷しながらリズムを強調する。そして和声は、ニ長調(D)で始まりすぐ変ロ長調(B♭)に、そしてトリオの部分で嬰ヘ長調(F#)に飛ぶ(楽譜下、下段2小節目)。

この3つの調はどの2つのペアも長3度の距離にあり円環形(円弧上に描けば正三角形)を成している。主調Dのドミナントを半音上げ、サブドミナントを半音下げたもので、どちらも古典派作品に前例はあるが両者を統合して幾何学的調和とした例は知らない。F#に飛んだ4小節に sf (急に強くしてびっくりさせる)が2度も書かれ、ここを聴衆の耳に焼き付ける。 

つまり旋律、リズム、和声の3要素のうち旋律美の追及は第2楽章に集約し、第3楽章ではそれを捨ててリズム、和声に斬新な仕掛けを施すという設計だ。捨てた旋律の代わりに簡素な素材(タタタであったりタタターであったり)をピースとしてミクロからマクロを構築する方法は彼の「スケルツォ」の本質であり、5番を経てその技法が最高度のレベルで凝縮したのが8番である(第1楽章提示部の繰り返し冒頭を聴けば、8番もタタタターで幕開けすることが分かる)。8番の稿に「全楽章がスケルツォだ」と書いたのはそういうことだ。

第3楽章が運命を大勢で笑い飛ばす宴会であったなら、第4楽章はその結末であるひっくという酔っぱらいのしゃっくりで始まる。

LvBは遺書に「本来自分は社交好きなのに」と書いている。社交。ワハハだらけの陽気な宴会でそこいらじゅうで酔っぱらいのしゃっくりが響く。常識派の方はそんな莫迦なと思われるだろうが、あり得ない話ではない。ハイドンがこれとよく似た音型を低音部に書きこんだ交響曲(第82番ハ長調)は、21世紀人にはおよそ意味不明な「熊」とあだ名がついてしまった厳然たる事実があるからだ。19世紀初頭のヨーロッパ人のセンスからすれば、82番の主題を、ハイドンにその意図はかけらもない「熊おどりである」と主張してセールスを昂進させようという試みは「そんな莫迦な」ではなかったのである。

もし2番がハイドンの作品であったなら、「びっくり交響曲」に並ぶ「しゃっくり交響曲」であったかもしれない。なぜそうならなかったか?それはあのLvBの作品だからである。ちなみにハイドン82番第1楽章は「運命リズム」が頻出し、第3楽章トリオ冒頭のファゴットによるとぼけたソ・ソ・ソ・ミ、ファ・ファ・ファ・レは、もしこの曲が運命より後に作曲されていれば運命主題のパロディとして満場の笑いを誘うところだ。LvBが先生のこの曲を知らなかったとは考え難い。

LvBは第4楽章をハイドンばりに一旦静止してからコーダになだれ込み、最後はモーツァルト(ジュピター)をひねったドミソミドで閉じている。彼は自らの運命に打ち勝って笑い飛ばし、酩酊し、先人への勝利宣言までした。繰り返すが、この2番を彼は「遺書」の半年前に書いていたのである。そして遺書の翌年の初演では、どん底から立ち直って見せて喝さいを浴びたのだ。かように、LvBの精神史における交響曲の位置づけは運命との凄まじい闘争の歴史書という側面があって、そんな視点で譜面を眺めるのも一興だ。

本稿の最後に、LvB氏を襲った宿痾と生への希求との闘争という心の闇が生んだ交響曲について私見を書いて本稿を閉じたい。

氏は生きるために、逃れようのない耳疾という宿痾が喚起するパニックの恐怖を意識から締め出し、忘れる必要が絶対にあった。このことはパニック障害に追いつめられた同病者しかわからない。人間のすることだ、長嶋一茂氏が極真空手に、僕が起業に、藁にもすがる気持ちで没頭したのと同じだ。気を紛らわせるといった生易しいものではなく、制御の効かない恐怖を抑止するためのストッパーを皮膚に埋め込むために血だらけになるぐらいすさまじい意志だ。

LvBはストッパーを得た。「封建制への熱狂的憎悪」である。2番作曲の時点ではまだ充分の勝利ではなく多分に空元気であり、むしろ苦しみの真相のほうが同時期に構想したピアノ協奏曲第3番がモーツァルトのやはり苦しみの吐露である24番ハ短調K.491をモデルとしたことに表れている。ところが彼にとって幸運なことに、封建制の破壊者ナポレオンがそこに良いタイミングで出現してくれた。彼の称賛はいわば「通りすがり」でナポレオンの業績に陶酔したわけではない(だから簡単に献呈を棄却できたのである)。むしろ同病相憐れむ僕としては、そこまで精力を費やして運命から逃避した彼の絶望、苦悩、恐怖が察しられ、そのことに胸が痛む。

そうして意図して産み落とされた英雄への狂信的傾倒が創作エネルギーとなったエロイカを経て、とうとう5番では仇敵である宿痾の恐怖を「真っ向から直視して袈裟懸けに叩き斬る」精神力の回復を見る。ついにやってきた真の勝利を謳い、二度と忌まわしいパニックが生き返って襲ってこないようくどい程のハ長調和音の強打で悪魔を打ちのめして全曲を結ぶのである。そうして彼はかつて遺書を書いたハイリゲンシュタットの田舎道を逍遥して自然の美しさに感じ入る。田園交響曲を生んだ精神の真相である。何というコントラストだろう。何の自己への欺瞞もなく楽しめる自分が愛おしく、嬉しく、人間として求めてきたものを得た幸福を6番に刻み込むのである。

彼は交響曲をそのために、つまり宿痾のパニック障害と戦って勝ち抜くために書いたのであり、5番に至るまでは精神の弁証法的発展の記録だ。そして、その目的を達した6番で書く意味を喪失した。だから7番は不埒な舞踏の享楽となるしかなく、弁証法的プロセスの一環とはならなかった。それは人生の意味をプログレス、革命的に新奇ながら歴史の大河の流れでもあるというテーゼで作曲した彼にとって自己否定だ。だからだろうか、僕は7番という曲に何の喜びも感じたことがない。そこで現れる8番は精神の本流への回帰の試みであり、形式は懐古的であるが随所に運命動機が拡散し、5番を書いた弁証法プロセスへの連鎖を試みる。そして9番に至って、従前には良いと思ったすべての主題を否定するのだ。そこに過去と隔絶した革命を起こしたのであり、そこが彼の交響曲の終結点でもあった。

否定された断片が2番の序奏と緩徐楽章からとられているのは象徴的だ。そこは彼の復活と勝利の起点である。2番が僕に摩訶不思議な力を与えてくれるのは、作曲家を反転させたパワーがぎっしりと詰まった音楽だからなのだろうか。彼にとって病気は災難だったが、それがあったから、それがスプリングボード(跳躍板)となったからその後があったと思う。本稿は皆様方の大事にされているベートーベン像を破壊しようというものではない。自分がかつて陥ったピットホールが実はそんなにシリアスなものではない、むしろ跳躍板かもしれないと、鏡を見ながら自分を納得させるための文章であることをお断りして筆を置きたい。

 

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本稿は2番に関わりつつ自分史の重要な部分を記述しております。なお、貼った動画で消されているものがありますが、あくまでオリジナルを尊重したく、投稿してからの歴史なのでそのままにしています。ご了承ください。

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