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ベートーベン ピアノ・ソナタ第28番 イ長調 作品101

2019 AUG 27 1:01:07 am by 東 賢太郎

ベートーベン(以下、LvBと書く)のピアノ・ソナタ第28番は後期の入り口の作品とされている。29番の前にひっそりと立つ28番の不思議なたたずまいは長らく気にかかるものがあったが、第1楽章(以下、Mov1)が自分でなんとか弾けることを発見したのはつい最近だ。不思議に思った。最新式のピアノ(ハンマークラヴィール)を前に創作意欲をたぎらせた大作が29番なのは納得だが、最初に作ったのは28番だ。どうしてこんなに穏やかに始まるのだろうと。

この楽章はしばらくホ長調であるかのようなそぶりを見せる。そのために「属調で始まり云々」と解説される。しかし旋律が延々と続いているのは和声が解決しないからであって、属調で始まることより調性は不安定であることの方が大事に思える。むしろ第1,3小節の美しい長7度の不協和音が新しいとも感じる。ワーグナーは28番を好んだと伝わるが、トリスタンの無限旋律の原型をここに見たかもしれない。

28番は1816年夏に作曲されたが、直前の4月に完成した連作歌曲集「遥かなる恋人に」(An die ferne Geliebte)Op. 98の情緒の中にあったというのが私見だ。「恋人」は手の届かない遠くにいる。満たされない気持が6つの詩に託される(彼は連作歌曲集なるものを初めて書いた大作曲家である)。

そのままの心象風景が28番Mov1に投影されて無限旋律となり和声が解決しない。この曲はドロテア・エルトマン男爵夫人(右)に「さあ、どうぞ受け取って下さい、あなたのために長い時間をかけて作ったこの作品を、あなたの芸術の才能とあなた自身に対する私からの賞賛の証しとして、どうかお手元に留め置かれんことを!」との手紙を添えて献呈された。ピアノの弟子であり当代きっての自作の理解者であったこの女性との関係は、末子を亡くした彼女の悲しみを即興演奏で癒したとの伝承で知られる。

28番のMov3の序奏部で、上掲楽譜にお示ししたMov1冒頭主題が回帰する。非常に印象的で誰しもがはっとさせられるこの瞬間、僕はベルリオーズ「幻想交響曲(1830)」のイデー・フィックス(固定楽想)を想起せずにはいられない。この回帰には仕掛けがあって、序奏部でずっと踏んでいた弱音ペダルを直前の小節で「1弦ずつ開放せよ」と指示がある(現代ピアノではできない)。オーケストラのクレッシェンド効果であり、「Mov1冒頭主題の回帰」にスポットライトをあてようという工夫に他ならない。しかも回帰した主題はフェルマータを付した休符で「思わせぶりに」動きを止める。僕は直観的に、これは霧の中から現れた女性の姿なのだと感じる。それが “Geliebte” であって何の不思議があろう。「遥かなる恋人に」(An die ferne Geliebte)をお聴きいただきたい。

この歌曲集の終曲(第6曲、12分43秒から)にも、第1曲の主題が回帰することは特筆してよいだろう。楽譜が読めないテノール歌手はいても、本来が記号論理学的な側面を持つ楽譜を書くことを生業とする作曲家においては、音符、形式を言語とするなら単語、文法に鋭敏な感覚とこだわりがない方がおかしい。LvBは作品の論理構造に対して建築学に類する確固とした美学があり、バッハの技法をミクロ構造として独自のマクロ構造をフラクタルのように構築した人だ。アカデミズムに満ちた「強い頭脳」の持ち主でなくしてそういう作業は成し得ない。楽器やメトロノームに対するあくなき関心と探究心は科学者のようであり、主題労作は高度な職人芸を思わせる。その彼が主題回帰を情緒で考案、試行するとは僕には到底信じられない。それは彼独自の音楽言語においてひとつの文法であり、Op. 98とOp. 101の近親関係が偶然とは思えないのである。

それでいて彼の楽曲がひからびたアカデミズムに陥らず、人の心を打つのは終生女性に関心を失わぬ恋多き激情の人であったのが幸いしたと思うが、しかし、知性がリミッターとなってあからさまにはそれを吐露しない。後期の楽曲はバッハ研究でのフーガへの嗜好の鎧を纏い、容易に心情の奥底をうかがわせない不屈の気構えすら感じる。彼の最後の弦楽四重奏曲や大フーガを気休めや癒しに鑑賞することは難しいが、僕はそれどころか知の領域での挑戦に聴こえることすらある。彼は人生の終盤に至って、何かを残したかったが隠したくもあり、“Muss es sein?(かくあらねばならぬか?)”のごとき思考の痕跡を楽譜に書き残した。ショスタコーヴィチが最後に至った境地はそこにヒントがある。彼は明白に隠したかったものがあり、7番や12番の交響曲ではあからさまにしたが人生の結尾を悟った15番ではそうしなかった。

28番に戻る。Mov2(生き生きと行進曲風に)は誠に驚くべき音楽であり、この特徴的な律動はシューマンの幻想曲ハ長調、交響的練習曲、交響曲第4番に明白にエコーしており、チャイコフスキーの悲愴のMov3行進曲主題もそうかもしれない。センプレ・レガートと書かれた部分はサステインペダルを踏んだままの指示があり、魂が天国に飛翔するごとき顕著な効果を生んでいる。非常にマニアックなことになるが、この部分はソナタ29番のMov3の開始から間もないこの楽譜の2小節目からの高音の旋律を想起させる。

全くの僕の主観であるが、そう思わせてくれたのがドイツ・グラモフォンのエミール・ギレリスの魂の籠った音色、その青白く虚空に浮いた狐火のような、妖しくも儚い浮世離れした「なにか」である。

記述の弱音ペダル解放と並んでピアノに装備された新機能を使おうという実験精神に満ちた部分であり、28番をハンマークラヴィール・ソナタと呼んでもいいほどだ。変ロ長調の中間部では新たな律動パターンが刻まれるが、冒頭に戻る直前、右手が2分音符になり左手がその律動をppの低音で奏でる部分は不気味だ。地底で悪魔の鼓動のごとく脈動していたものが高音部が消えてリズム・スケルトンが露出する、これに酷似した異様な光景はシューマンの交響曲第3番Mov1にも現れる。

Mov1主題回帰が先導するMov3は、同じイ長調の第2番作品2-2と同じ下降する2つの強音で始まる。”Geliebte” の姿が再現して胸に希望が満ち溢れ、「速く、しかし速すぎないように、そして断固として」の標語どおり決然としたソナタ形式の主部となる。やがてその主題は4声のフーガとなり、次のソナタの世界を予見するのである。28番につきスビャトスラフ・リヒテルは「おそろしく難しい。作品111(第32番)以上で、危険さにかけてはハンマークラヴィール・ソナタをしのぐ」と語っている。29番より難しいピアノ作品があろうとは想像もしなかったが。

 

スビャトスラフ・リヒテル(1986年5月18日、プラハでのライブ)

Mov1をこう弾ける人はいない。彼がシューベルトの後期ソナタで展開した思索的な佇まいがここにもあり、ロンドンで聴いた暗闇の中で蝋燭の明かりだけのコンサート風景を思い出す。Mov2のリズムの切れ、中間部の神秘、29番に通じる終楽章フーガの彫の深さは自身の言葉に反して困難を感じさせないが緊張感とオーラが伝わる。

 

ブルーノ・レオナルド・ゲルバー

この人は1997年のルツェルン音楽祭でショパンの協奏曲第1番を聴いたがこういう音だった。ひたすら天国的に美しくしかも驚くほど易々と弾けており、これだけの技術の裏打ちがあってこその余裕の高みから作品が俯瞰できることは稀有の楽しみと思う。ベートーベンの後期が輝かしい美を発散することを証明してくれる。

 

マルタ・アルゲリッチ(1969年2月10日、ヴェニスでのライブ)

youtubeで聴いた。彼女が28番を弾いていたとは初耳だが、これが誰のものであれ驚くべきハイクラスの演奏だ。

 

アルフレート・ブレンデル

ロンドンのころ彼を何度か聴いたが表面的な強い印象は残っていない。大向こうを唸らせる芸風ではなく、展覧会の絵などいまひとつだったがモーツァルトの室内楽は自然と幸福感に浸らせてくれる得難い品格があり、英国での人気の秘密はそこにあったと思う。ここに聴く28番のような内省的な音楽には相性が良く、無理なテンポや技術で押し切ったインターナショナルという名の無国籍ではない、飽きの来ない欧州の伝統と良心を感じる演奏だ。

 

ベートーベン ピアノソナタ第29番変ロ長調「ハンマークラヴィール」 作品106

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