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「今年の流行語大賞」と「大きな力」の関係

2021 DEC 2 19:19:33 pm by 東 賢太郎

2021年の流行語大賞は「リアル二刀流/ショータイム」だった。いちスポーツ選手の活躍が、「全スポーツ」の世界的祭典であり、史上2度目の東京大会であり、しかも我が国が史上最多の40個も金メダルを取ったオリンピック・パラリンピックより流行度が上というのはどうか。大谷翔平の偉業が破格とはいえ、野球のルールすら知らない人も日本にはたくさんいるし、まして地上波でやらないメジャーリーグの中継を全国民が見たはずもないし、大谷がどこのチームに所属しているのか知らない人だって多いだろう。不思議だ。

前回の東京五輪の1964年なら、流行語大賞はこういう五輪がらみのものになったのではないか。

『俺についてこい』『東洋の魔女』『回転レシーブ』『ウルトラ C』・・・

ちなみに野球では、王貞治が55本の本塁打記録を達成した国民的英雄であることは周知だろうが、その偉業も1964年だったことを僕は忘れていた。

不思議の原因は、それほど2021年オリ・パラが国民的には盛り上がらなかったということだ。選手はよくやった。しかし、社会現象として観るなら、事前の世論では五輪反対が6割もあった。元から五輪が嫌いな人がそんなにいるはずもない。ひとえに、コロナ禍のさなかに菅政権、IOCの「大きな力」が働いて強行開催というイメージが醸成されてしまい、「民意が置き去りにされた」という記憶が国民的に残ったことが理由だろう。一方、大谷MVPの盛り上がりは絵に描いたようにその対極だ。一選手、一個人の「小さな力」で「大きな事」を成し遂げた。それがより「すがすがしく」感じられる風景の年であったこともあろう。

僕は本ブログで大反対の論陣を張ったわけだが五輪が嫌いなわけではない。菅さんがコロナ無視の意味不明なごり押しに入ったからだ。当初から彼に批判的だったわけではない。政治主導の「俺についてこい」は結構だし、「自助」は小さな政府を示唆するから、大きな政府による税金バラマキで845億円の事務経費をかけて国民の皆さんに一時の小さな幸せをなんて極限まで馬鹿な政治家よりずっとましだった。しかし、あまりの科学無視(無知)、目に余る意味不明の言葉(呪文)、俺は総理だ国民は黙っとけ的態度(大きな力)に辟易してついていけなくなった。そしてデルタ株の空港検疫ダダ洩れで我が身の危険を察知し、何の罪もない五輪で怒りに達したのである。

本稿は流行語の話を書こうと始めたが、「大きな力」が蜘蛛より嫌いなことが通奏低音であることが書きながら自分でだんだん明らかになってきた。僕は猫科の動物なので支配されるのが耐えられない。先生も上司も権力者も権威者も苦手で、彼らが行使するパワーがそれなのだ。支配されてるように感じないが強制的に徴収された税金がしょうもないものに浪費されている景色も同じ理由で耐え難い。五輪強行はごり押しへの怒りに加えてそれもあった。都民は疫病リスクに晒され、IOCに場所を貸してやり、お前らはテレビで見てろだ。それで余分な税金をむしり取るのはどう好意的に考えようと筋が通らないぼったくりである。国民の多くもそう思ったのだろう、折悪しく五輪後に軌を一にしてデルタ株が東京で5千人という事態に至ったことが政権の命取りになった。それが今や5人だ。台風一過というかウィルスにもて遊ばれてる感すらある。岸田政権のクレジットでも何でもないが、政治にも運はあると思う。

税金というものは100%が「公」(おおやけ)の利益に供されるべきお金である。喩えるならマンション住人から取る「共益費」のようなものだ。それがビルの修繕や廊下の掃除やごみ処理やエレベーターの電気代ではなく、オーナーや一部の特権住人が私的に使い込んでましたなどとなれば厳罰に処されて当然だろう。国民の多数がコロナ医療との見合いで危機感を表明していた五輪は、主催側が「公」と思っているだけでその実はIOCとスポンサーという国民にとっては「私」でしかない者のために「使いこまれた」と感じた人が多くいたということが、アスリートの素晴らしい健闘にも関わらず不相応に盛り上がりを欠いた真の原因だろう。

使い込みでないにせよ国民が「公」と思わないものへの税金投入は、突き詰めれば私有財産を認める日本国では私権の侵害であって、「大きな力」で政府が勝手解釈で説明もなく本当に「公」かどうか不明な使途に投入できる状態は認容すべきでない。なぜなら選挙資金に回しましたという万死に値する犯罪が現実に広島で起きており、あんな巨額のバラマキなのに当初はバレてなかったのだから少額ならやり放題だろうというイメージを国民に持つなという方が無理である。このまま司法が処断せず放置するとますます政治不信となり、投票率が下がり、政治家の質がさらに落ちる。つまり「公の利益」のために取った税金が使途次第で「公の損失」になるという笑えない結末になるのである。

政治家は疑われないためにも「公の利益」を証明する明細書ぐらいは国会で開示した方が今時は身のためだ。疑念だけでも一度ネットに書き込まれてしまうとずっと残るので選挙のたびに蒸し返され、いわば人気商売である政治家にとって一生の足かせになる可能性がある。落選運動なんてものがネットを使えば簡単にできる。知性のない罵詈雑言、毀誉褒貶、誹謗中傷が何百万あろうと国民は無視するし、そうでなければ名誉棄損で訴訟すればいいが、知性の高いインフルエンサーが周到な準備と論旨で巧妙に狙い撃ちすればネット上に電光石火で駆け巡り落選運動は威力を持ち得る。新聞、雑誌の記者はそれはしない。取材できなくなるからだ。しかしネットという記者クラブ外のニュー・メディアが「視聴率」を伸ばしている。youtubeは「大きな力」で制御できるが、書き込みはインターネットを遮断しないと止められない。有能な政治家がそんなことで失脚するのも「公の損失」だ。

「公」「私」といえば、秋篠宮文仁親王が誕生日会見で皇室のそれについて触れられていた。皇族の「私」については難しい。望んでそこに生まれたわけではない。公務をする私人は公務員だが、皇族は公務をするが私人でも国民でも公務員でもない。そのために憲法上の権利がすべては適用されない。税金を払っている国民の思いに寄り添ってというのは皇族の「私」の制限の根拠になるのだろうか。皇室典範のようなものが我が家にだけあったら僕は即座に憲法違反で訴えるが、皇室の方はなぜそう主張されないのだろう。大学の憲法の授業ではわからず、以来しばしば考えてきたが僕にはいまだにわからない。

内親王ご結婚の件での皇嗣であり父親でもあるお立場の相克こそ「公」と「私」のそれだろうと拝察した。時代と共に皇族の「私」も変わるとされたが、それもそう思う。ただ、「私」はそうであっても皇室は日本国の「公」の中の「公」の存在であり、そちらは不変だから象徴としての意味がある。「公」まで世につれ人につれ変わってしまっては何を象徴しているか不明になり、人間宣言された天皇の恣意で国の正義、善悪が決まり政治利用もされかねない。皇嗣殿下は納采の儀等が軽いものという印象を与えてしまったかもしれないと言われたが、儀式は規則上は任意であるとしても、国民の多くはそれを知らず「公」と思っていよう。ということは、それをしなかったということは「公の部分は不変」という皇室のコンセプトも軽いものというメッセージになってしまった可能性がある。それを言われたのだろう。

儀式が税金で行われることを批判する国民はいない。それが伝統への畏敬であり、ひいては皇室へのそれになるのだが、その逆もまた真になり得る方向に国民も変わっていることは、皇室の「私」が変わるのを止められないのと表裏一体かもしれない。誹謗中傷は戦前なら不敬罪だがその法律は消えた。しかし、法の有無以前にそれをして意に介さない発信者、受信者が出現しつつある。ネット書き込み制限を検討するともあったが、事実でないなら宮内庁が名誉棄損で訴えるのが世につれ変わる皇室の「私」の姿でいいと僕は思う。書き込み制限は表現の自由を奪う憲法違反であり「大きな力」にはそれが許されるというなら憲法全部の否定になる。憲法は「大きな力」を縛るための法だからなんのこっちゃになり、では「両性の合意のみに基いて成立」(24条)するから婚姻を認めるとしたのは何だったのかとなるだろう。21条がいらないなら96条の改正手続きになるが、国民の過半数が賛成する可能性はゼロだろう。

ご会見にいちゃもんをつける気はさらさらない。それどころか僕は好きな者同士が結婚するのは一般人だろうが内親王だろうが24条があろうがなかろうが支持するリベラルな人間だ。すでに書いた通り、小室氏が自力で余裕で生計を立てるほど稼ぐ夫になれば雑音は消える。それこそが、皇室の品位と国民の常識にかなった正統な「雑音の消し方」であり、「大きな力」を持ち出して憲法を曲げるような方法を採れば、それを「象徴」と戴く国民の考え方や順法精神もやがて曲がり、昭和、平成の天皇が築き上げられた象徴天皇とは何ぞやという憲法問題に回帰するというトートロジーに陥るだろう。しかし、このことはなにも皇室だけの話でも内親王のご結婚が契機になったのでもなく、権力者が「大きな力」を大手を振って働かせにくくなった世情にすでに萌芽があったと見るのが私見だ。

市民革命を経ていない日本人は「長い物に巻かれやすい」とされてきたが、その傾向を減じている。我が世代には信じ難いほど「個」の欲求、主張が通る社会になりつつあり、確かに欧米人より律義にマスクはしていて従順に見えるがそれは「個」(私、利己)が大事という印であり、自分を守るためには社会と断絶して構わないという印でもある。だからマスクが安倍首相肝いりという「大きな力」で無料配布されても、見れば布製でサイズもみみっちく、ウィルスからの個の防御に役立ちそうもないという恐らく実証的な理由からだろう、見事に誰も使わなかった。総理に忖度の感謝をする気配すら微塵もなく、配布した側は世間一般においてすらの「大きな力」の減衰に対して唖然とするほど鈍感であって、良かれと思った施策が税金の無駄であると怒りや失笑を買って総理の権威を損なうことにすらあいなった。その話題の伝播はネット上でそれこそ電光石火の勢いであったのは記憶に新しい。

この「ネットなるもの」を政治家やメディアは何とかの一つ覚えで「SNS」と呼び、その語彙が包含する「コミュニティ型の会員制サービス」を想起させるものと誤認している様子を覗わせる。現にこうして書いている僕は読み手として何のコミュニティも想定せずネットの大海に向け発信し、分類しようもない読者がどこからどうして来たのかまったく知らないが、とにかく毎日2,3千件のアクセスがある。読み手はアノニマス(anonymous、名無し)で不特定多数だ。僕以上のインフルエンサーはネット上にごまんといる。乗数効果を伴ったネット記事の拡散が制御不能なことは、昨年の大統領選で民主党はトランプの発信元を丸々消し去るという無法者の荒業に頼らなければならなかったことでわかる。「大きな力」はリアル、バーチャルを問わずネットによって支配力を削がれつつあり、コロナによる生活のオンライン依存度増大が更にそれを加速している

政治学的視点で言えば「個」のオートノミー(autonomy、自治権)の増幅は民主国家をよりリベラルな方向に導き、国家権力とのバランスは修正社会主義的な処に均衡点がくる力学が働くだろう。そこに「社会主義市場経済」を標榜する中国との見かけの親和性が発現し、反トランプと中共が大統領選で「どんなイカサマをしても勝とう」と共闘する思想的接点となったと思われる。この共闘はある意味で、国境なき最強の「とても大きな力」であったといえる。しかしその一方で、自国内での「大きな力」による支配力が内部から減衰している民主主義国家としては、共闘して政権を奪取した民主党といえど、万事を「大きな力」だけで動かせてしまう中国という相手に対して同時に底知れぬ恐怖を覚え、必然として敵対するに至っている現状はちっとも矛盾しない。

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Categories:______世相に思う, 政治に思うこと

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