長嶋茂雄さんと重なったあの17年
2025 JUN 9 15:15:17 pm by 東 賢太郎

長嶋茂雄さんが現役だったのは1958~1974年の17年間だ。これは自分が物心ついてから大学に入学するまでの期間に相当する。その17年がどんなだったかというと、クラスで一二を争うチビでケンカも弱く、勉強は何らの興味もなくいい加減で教室の記憶はほとんどない。劣等感の塊で中学まで良い思い出がなく、書きながらあれが俺かと思うぐらい虚弱で影の薄い子だった。何があってこうなったかというと、思い浮かぶのは野球ぐらいだ。好きで好きでとことん没入してしまい、気がついたらその17年がたって劣等感は吹き飛んでいたからだ。
最近よく人にいうのだが、「俺はツキだけなんだ。はっきりいって能力はぜんぜんたいしたことない。でもツキだけはあったんだ。自分の力じゃないからね、たぶん、誰かが後ろに憑いていて助けてくれてる」。こうまじめに言うのだからぶっ飛んでると思われてるだろうが全然かまわない。だってほんとにそう思うわけであり、どう思われようがなんだろうが、あるがままに「後ろの人」におまかせした方がベターということなのだ。17年の色々もそういうことだったと思う。
野球への没入がどこから来たか?それもよく覚えてないが、毎日8時からテレビで見ていたのがそれしか放映されない巨人戦だったことは間違いない。カープファンになったからONは天敵で大嫌いだったことも間違いない。見始めたのはV9のはじめごろで巨人は本当に強くて憎たらしく、念力を送ってでも負かしたいと熱望していたことも間違いない。この「憎たらしい」という強烈な感情が野球への情熱を呼んでいたのではないか。
といって、アンチ巨人でもない。それは巨人ファンの一種だが、巨人見たさでテレビを毎日見たわけではなく、愛していたのは「プロ野球」というユニバーサルなものだ。だから行ったこともない遠隔地の広島カープを何の違和感もなく応援できた。当時、森下仁丹のガムで「あたり」が出ると12球団旗がもらえた。小遣いをもらうたびにガムを買って大まじめに集めており、10ぐらいそろったが球団名は書いてあるから最後の2つあたりになると当たってもかぶってしまい、そのうち企画が終わってしまった。
この雑誌「週刊ベースボール」は小学生時代に細部に至るまで熟読・精読しており、選手や球団の事情を知ったどころか国語の教科書よりもこれで日本語を習得したのではと思うほどだ。このおかげで巨人が広島がというより名選手に憧れるようになり、ということは選手になってプロ野球に入りたいと本気で思っており、いわゆるひとつの熱い野球少年ができあがっていたことも間違いない。中1までクラスで一二を争うチビであったのにそう思えてしまう。それほどに当時の男の子にとって野球は魅力だったわけだが、僕にとってはそんな程度ではなく人生の本気の目標であり、それにはまず甲子園だと高校野球まで意識した。だから中3では野球の強い高校に入りたいと思いひとりで黙々と走り込みをしていた。もしそうしていればその17年はどうなっていただろう。落伍してグレたかもしれないが、体ができるまで試合に出られなかったろうから肩も壊さず、大学まではできたのではないかと思う。
ちょうどその17年間、プロ野球界で燦然と輝いていたのが長嶋さんだった。記憶に残るここぞの場面で打ちまくり、国民的スターの地位に登りつめていた。その独特な言葉までが話題になり、単なるマッチョでなく愛されキャラだったことも人気のうちだったが、僕は彼のビュンとかバーンとかいうオノマトペ(擬音)が変だと思ったことは一度もない。言いたいことが巨大だと通常のボキャブラリーを超える。それを使わなくても通じるのは普通のことだ。彼が伝えたいのは普通じゃないことであり、それを笑うのは普通の人なのだ。彼は普通の人であるお客さんを喜ばせるプレーを意識してやっていたようだが、オノマトペもそれだったかもしれない。
当時、人気絶頂だったON砲の長嶋派、王派がよく話題になった。僕は派というより長嶋さんに基本的な共感があった。というのは、後に証券マンになって、「こういうディールはピンとはねたらバーンとやんなきゃできねえだろ、なにやってんだこのボケが」なんて発言を僕は若いころ日常茶飯事のように部下にしていたからだ。当時の証券会社が体育会的職場だったことはあるが生まれつきそういう人間であり、怒ったのでなく部下を一人前にしたかった。昨今だって、たぶんこれ誰もわかってねえだろうなあというのがいくつもある。擬音は幼児のものだが、大人がボキャブラリーを超越したものをリアル感で伝える役にも立つ。それをわからせてあげたいという無報酬の情熱があるかないかに尽きるのであって、僕は「ある派」だから当然のように長嶋派だった。
結局、野球はだめで、というよりケガで突然奪われてしまい、人生最悪のどん底に落ちたのが17年の結末だ。真っ暗だった。大学にそこまでこだわる気はなかったがプライドを奪還できそうな手は他になく、初めて勉強に没頭した。そして長嶋さんが1974年に現役引退し、翌年、僕は合格し広島カープは初優勝をとげた。かように、人生のピースでど真ん中にあったのは野球であり、プロ野球選手になりたいという本気を馬鹿げているほどの年齢まで持てたというのが僕の個性であり、「後ろの人」の判断で僕は27才でニューヨークに呼ばれ、もとプロ野球選手たちと対戦し、MVPのトロフィーをもらって人生の帳尻を合わせてもらった。そう信じるしかない。
長嶋さんにお会いしたわけではないし、もとより熱烈なカープファンなのだからここに拙文をのせるいわれもないのだが、あの17年、彼の太陽のようにめざましい現役時代とぴったり重なった奇遇に手を合わさせていただいている。パフォーマンス(結果)に対するまっすぐな情熱があれほど人生をドライブしたような人を他に誰ひとり見たことがなく、野球はその内だっただけではないかとさえ思え、オーラは相手ピッチャーだけでなく日本人1億人を包み込んでしまう。そのひとりになれ、最悪のところからやる気を出させていただいたことには感謝しかない。心よりご冥福をお祈りします。
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