ブラームス 「ドイツ・レクイエム」作品45 (その2)
2025 SEP 18 1:01:37 am by 東 賢太郎
ドイツ・レクイエムについて書こうと思い立ったのはなぜか。深いという言葉の真の意味において、まさしく海のように深い音楽を彼は33歳(写真)で書いたからだ。こっちはといえばたいした悩みもなくロンドンで毎日暴れまわっていた。もし33歳同士で彼と会っていたら?話す言葉もないだろう。万一ひと声かけるなら、「重たい人生を来られましたね」だろうか。万人の心をわしづかみにする感情が、およそ人間が到達できる究極の美の結晶としてドイツ・レクイエムには封じ込められている。そのただならぬ感情の由来を知れば、なぜ彼が「人間の」レクイエムを書いたのか、一端が垣間見える。それを記しておこうということだ。
音楽でも絵画でも彫刻でもそうなのだが、「わかる」「わからない」という人が多い。これはまったくもっておかしい。その昔、「違いがわかる男のゴールドブレンド、ダバダ~」なんてCMが一世を風靡した。それでコーヒーが売れてたのは「違いがわかる男」がシブくて女にモテたからではない。きっとモテるんだろうとモテない男が買ったからだ。”それ” が何かは問わない日本特有のアバウトさがすごい。選挙もそうで、芸人の才があって台本を読む演技がうまく、もっともらしい演説パフォーマンスをすれば壮絶な馬鹿でも総理大臣になっちゃう。インスタントの違いなんかわかってどうすんだと笑ってた「違いがわかる男」たちはそんなものは買わず、やがてCMは消えた。
近ごろ、AIを使った三次元の体験型アートが流行っていて、それを没入型(イマーシブ)という。アートというものはそうやって没入できるかどうかがすべてであって、算数や英語みたいにわかるものではない。例えばクラシック音楽というものを僕はそこそこ知っていると思うが、本当に好きなものは50曲ぐらいしかない。ということは7、8割ぐらいは没入してない。するに値しないのではなく僕個人がそうできている。それがヴェルディであったりマーラーであったりするのだから「音楽をわかっていない」という声はあって当然だが、その「わかる」を僕は否定している。
好きな50曲については音を覚えている。没入するとそうなる。そのプロセスは、例えば、ドイツ・レクイエムは、58ページあるピアノ版スコアをつっかえつっかえでも自分の手で弾いてみようと思っている。こうした行為が没入の結果だ。これを昔から今に至るまで延々とやっており、ピアノという楽器は僕にとってはショパンを弾くためでなくそのためにある。仕事しながらよくそんな暇がありましたねと言われるが、没入と時間は関係ない。
きのう初めの3ページ、讃美歌みたいな譜面を弾いた。あの心が吸い寄せられる合唱はいきなり没入をさそうが、それが自分の指先から出るともはや忘我である。そして、やがて理性が戻る。譜面づらは交響曲第1番冒頭だ。この時期、頭の中では両曲のレシピが混在していたことを知る。ヘ長調にesが入って金縛りになる。Ⅰー Ⅰ⁷ー Ⅳの和声はモーツァルトPC23番冒頭だ。他人のレシピも混ざっていた発見にさらに没入が加速する。すなわち、この作業は没入がトリガーで連鎖するのであり、その他のすべての没入しないものに踏み入ることは僕は皆無だから、時間の問題はエコノミカルに対処できていたと思う。
この作業をもう少し一般化しよう。パルテノン神殿でエンタシスの柱廊を見て、しばし没入の時がやってきた。やがて理性が戻り、これが法隆寺にやってきたのか!ならば、あの直径比と観測者の位置関係が抽象的な美の原理にのっとっているんだろう。ならそれは何だろう?という疑問がどこからか降ってきた。誰でも計れる数値だから知られているはずだ。でもなぜそれが「美」になるんだろうというと、なぜ円周率が π なんだろうという不可思議に匹敵する。そういう好奇心が美学(aesthetics)という哲学となったと思われ、本を読んだが、日本語の哲学書はわからない。好きな曲のスコアを見て湧き起こるのがこの好奇心というだけで十分だ。一文のゼニにもならないが、これを抱くことこそ生きている証拠であり、綺麗な女性を見たときに感じるものに近い。ということはこれが沸き起こらなくなったら人生終わりである。
以前に書いたが、CJキムという韓国の女流ピアニストは「没入」を明言して実践していると思われる、僕の知る限り唯一の演奏家だ。じゃあフルトヴェングラーはどうなんだと思われるかもしれないが、彼は我々よりはベートーベンに近いが同時代人でなく百年も後の人だ。同じドイツの巨匠だから正調だと思いこむのはダバダ~のコーヒーを信じて買うのとあんまりかわらない。キムはベートーベンのピアノソナタ全集を録音するにあたって、作曲家の人生に関心を持ち、楽譜を読み込む以前にLudwig van Beethovenなる人物の生きた時代背景や関連資料を読みこみ、生身の彼が生きたさまざまな場面での感情を知り、想像し、「彼と出会ったかのような感覚」を持つ状態になってから録音したという。
これが演奏家としてあらまほしき姿と思う。楽譜は完全ではない。ブラームスのヴァイオリン・ソナタ3番の tranquillo なる “妙な” 指示をクララは「卵の上を歩くようなものよ」と語り、ブラームス自身が大幅に減速して弾いたの見て「つま先立ちで歩いたね」とニッコリ顔を見合わせたことをシューマンの娘たちが証言している。楽譜に減速しろとは書いてないのだから楽譜の遵守が演奏ではなく、そのとおりに再現するための技術が音楽演奏の主人というわけでもない。クララは彼をよく知っている。だから音楽も知っている。技術は「それ」を具象化する家来にすぎない。
クラシック音楽を演奏するという行為は、技術云々の以前に、作曲家の魂を呼び覚ます、いわば恐山の巫女のような、当事者同士以外には不可侵である精神的領域がまずあって、鑑賞する側においても、呼び醒まされた魂がどんなものかを最低限は知る状態にあるのが望ましい。CJキムはのっけからバックハウスみたいに弾こうとは思っていない。それを完璧にすればコンクールで優勝するかもしれないが、よくできたコピーに価値はない。そこで、彼女は作曲家と出会ったイマーシブ状態に身を置いて、出てきたものを素直に音にする試みをしたと思われる。とてもクリエイティブな発想だ。リスクはある。同様のイメージを抱いておらず、ただ無条件にバックハウスが正しいと思い込んでいる聴衆には響かない。現に我が国では評論家が「もう少しベートーベンを勉強した方が良い」などというコメントをしていた。老木である。
ブラームスは恩人シューマンの遺品である作曲計画リストに「ドイツ・レクイエム」を見つけ、その実現にとりかかる。カソリックのラテン語の定型によらないレクイエムだ。作曲は母の死を契機に完成へと向かう。『マタイによる福音書』のSelig sind, die da Leid tragen(悲しむ者は幸いなり)で始まる第1楽章は死者への弔いではなく、残され、祝福された(Selig)者への生きる希望だ。悲しみに溢れ、クラリネット、トランペット、ヴァイオリンを欠いて葬儀のようにしめやかなのに、不思議と心が暗くはならない。こんな音楽を書いた者はブラームスしかいない。それが33歳。モーツァルトはクラリネット五重奏曲 イ長調 K. 581を書き、シューベルトはもう亡くなっていた。この二人がもっと生きていたら何が生まれたか、幸いなるかな64歳まで生きたブラームスが空想のよすがを与えてくれたようにも思う。
第1楽章をチェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニーでお聴きいただきたい。Zemlich langsam(かなり遅く)。こうした音楽に彼の本領は発揮される。ライブでソプラノ・パートがいまひとつだが音楽の深い呼吸と大きなうねりによる魂の吸引力はさすがである。
この楽章はバッハのカンタータ第27番「たれぞ知らん、我が終わりの近づけるを」との関係が指摘される。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
Categories:______ブラームス




