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カテゴリー: ______世相に思う

大坂なおみは米国に住んだ方がいい

2018 SEP 11 22:22:02 pm by 東 賢太郎

テニスはよく知りませんが、だいぶ前にどこかで見かけた大坂なおみのフォロースルーの写真がきれいで欲しかったのです。えもいえずアスリートであって、ああいう姿は誰でもできるわけでないですね、ポスターで部屋に飾りたかったがネットで探してもありません。あれは誰のものだったんだろう。

ニューヨークでセンセーションを巻き起こし、全世界何億人の見守る中で「初めて」、「アウェイ」、「アイドル」の3つの壁を破った二十歳。心から祝福し、尊敬します。セレーナ・ウイリアムズはけしからんという声が米国のプレスでもあがっているし、あれは米国人が望んだ結果ではなかったという声もある。しかし、そんなことがどうあれ、女王をあそこまで追い込んだ大坂なおみの力が勝ったということ、それ以外に何があるんでしょう?

1989年にウィンブルドンのセンターコートでグラフ対ナブラチロワのファイナルを前の方で観戦しましたが(グラフの勝ち)、激戦でしたしスタンドは熱気をはらんで大いに沸きましたが、両プレーヤーが自国人でないことを割り引いても英国人はいたって紳士的なものでした。米国人はあんなもんかと世界が思ってしまっただろう。あのごうごうとしたブーイングを一身に浴びたら誰でもびびるのは当然で、まして自分のアイドルだった相手が怒りまくってラケットをぶち割ってる。そこで冷静にプレーできた大坂の技量が女王を脅かすほど高く、メンタルタフネスでも女王を追い詰めたことこそ話題にされるべきと思います。

彼女はハイチ系米国人とのハーフで、日の丸背負って負けそうになると悲壮感が漂うタイプの人ではないでしょう。これまではマスコミは彼女が勝っても何でもなかったのに、ここに至ってにわかに日本人だ日本人だと騒ぎ出しました。そんなことしないでも彼女のしたことは何国人であろうが快挙で、国籍で評価したりしなかったりというのは幼稚だ。ストラヴィンスキーが春の祭典の初演でシャンゼリゼ劇場の客から大ブーイングを浴びたのと同じですね。見る方も大人の評価をしてあげたいものです。

私見では大坂なおみは米国を本拠でやった方がいいかもしれません。日本でマスコミにスポイルされ、ちやほやされるうちに勘違いして只の人で消えていったアスリートが何人いることか。彼女の言動を見ていると恐らくそういう軽い輩ではないと思いますが。米国は少々お品には欠けるが徹底した競争社会で、強いと認められてしまえば相応の報酬と名誉を惜しみなく与えてくれます。そこで磨かれたら10年は大坂の女王時代が来るかもしれない。是非見てみたいですね。

 

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大人買いCDセットによるクラシック音楽市場の死

2018 AUG 25 22:22:01 pm by 東 賢太郎

アマゾンからマーキュリー・リヴィング・プレゼンス・コレクターズ・エディション3が届きました。アンタール・ドラティ、ポール・パレー、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー、アナトール・フィストラーリという気になる指揮者の1960年前後の録音が中心に53枚組というブロッキーなものです。

それが、昨日の午後にネットで見つけて注文したら今朝に家に届いている。店舗で買って、重たい思いをして持ち帰って一晩で53枚聴けるわけありません。でも、3日もたっての配達だとやや熱が冷めてしまう。翌朝のお届けは絶妙ですね。事務用品通販のアスクルは明日来るが売りでしたが、アマゾンの出現で全商品それが当たり前になってしまいました。

だからほとんどの実店舗型小売りは売上が減少し、米国でついにトイザらスが倒産というショッキングなニュースに至ったのはご記憶に新しいでしょう。残酷なようですが自由主義、資本主義はこういうもの、「アマゾンによる死(Death by Amazon)」は盛者必衰の理の一断面であります。

米投資情報会社ビスポーク・インベストメント・グループが2012年に設定した指数で、アマゾン躍進で負け組になりそうな実店舗型小売業を集めた「アマゾン恐怖銘柄指数」(Bespoke “Death by Amazon” index)の株価パフォーマンスを見ると2016年からの2年間でまさに恐ろしいことになっています。


思えばその昔、石丸電気などでLPレコードをあれこれ迷うのは絶大な楽しみでした。LPレコードは収録されているコンテンツの是非以前に、塩化ヴィニールの表面を擦過する針音が一品ごとに微妙に異なるという是非がありました。だから購買にはレジでの検盤という重要なプロセスがあり、それでも帰宅してターンテーブルに乗せてみないと針音はわからないというリスクは除去できず、さらにコンテンツである演奏が気に入るか否かというダブルのリスクがあったのです。

それをCDが駆逐して電子的読み取り信号が商品となった瞬間に目視による検盤は無意味となりました。「第1のリスク」は除去できたものの擦過がなくなり、購買という行為は均質な工業製品の仕入れと変わらなくなりました。しかしそれでもCDはモノではありました。それが今やEコマースだ。僕らはもはや物体でない「虚像(イメージ)」を紙幣という物体すら介さずにプラスチックのカードに記載されている無機質な数字列と引き換えているのです。

まあここまでは百歩譲って「利便性」の勝利と認めましょう。自由主義、資本主義はこういうものだと。しかし均質な工業製品は品質を落とさずに大量生産が可能で小型化により輸送費も在庫管理費も低下して物体としての製造、小売り単価は劇的に圧縮されます。すると「第2のリスク」である「コンテンツである演奏が気に入るか否か」は大方の購買者にとってリスクではなくなってきます。たかが1枚150円のCDがハズレでも大したことはないからです。

そこまで割り切ってしまった自分でしたが、新品53枚組のケースを開けてみると、しかし、これはなんということだと絶句してしまったのです。ドラティのブラームス交響曲全集がドーンと目に飛び込んで・・・。

ここから53枚目に至るまで、一枚一枚のジャケットに感嘆の声をあげながら中のCDを取り出し、いつくしみ、こんなやつが出てくると狂喜し、

こんなのが出てくるや、これは単品では絶対に買わなかったぞと嘆息するという塩梅でした。

このさまを観ていた家内にはわからないだろうと咄嗟に「子供の時にメンコのセットを買ってもらった時の気持ちだよ」と、我ながらうまいことを言うなと納得の説明をしたのですが、さらにわからなくなったようでした。ところがです、一連の出会いの感動からだんだん覚めてくると、この僕にもわからないことが頭をもたげてくるのです。

ちょっとまてよ、セットはいいが53枚組で8千円?なんだそれは、1枚150円かよ?カラのCDRがそんなもんだったじゃないか、ということはコンテンツはタダのおまけか?何かおかしいぞ、ドラティのブラームス、俺は1万円でもいいぞ、コープランドは5千円でも。

ほんとうです。まったくイラショナル(非合理)なことですが、僕は150円じゃなく1万円、5千円払いたいのです。もしそれで昔の価値観の時代に戻るなら・・・。

2000年ごろ不良債権のバルクセールというのがよくありました。纏め売り、バナナのたたき売りであって、単品では売れないクズ不動産を「オトナ買い」させたい銀行の窮余の一策でした。「53枚組はあれと同じか?そんなにCDは売れないのか?」、危機感が僕の頭をよぎりました。現実に売れ残りのバルクの中に箱根の土地があった。芦ノ湖、プリンスホテルを眼下に望む景観があって、えっ、こんな安くていいのという値段でした。

リゾート地が売れなくなる。業者は資金効率のために売らんかなの姿勢になる。すると売れる市場価格まで値が下がる。すると景観の価値は度外視になるのです。駅近、治安、生活インフラなど万人が気にする要素(地価を決めるハードとしての要素)に比べ趣味性が高い景観は先に無視される要素なのです。CDにおいてコンテンツである音楽は趣味性の要素で、売らんかな姿勢の業者がバルクセールをすれば、値段はハード(工業製品)原価であるCDR1枚の値段まで下がり得るということです。

それは購買者としてはむしろ有難いことです。しかし、マクロ現象として長期的な目で見るならば危機をはらんでいます。53枚組のどの1枚だってLPの頃は1500円はしていた。インフレを加えると10分の1超に至る価格破壊が「第2のリスク」を軽減してはくれます。しかし、その背景で由々しきことが進行しています。購買者は選択の安心と引き換えに鑑賞への集中力を無意識に放棄しているということです。まあ安いから聞いてみようか、1枚150円のCDがハズレでも大したことはないや。10倍のお金で買った場合とは集中力はおのずと違います。それが常態化すると人間は徐々に不要となった能力を失うのは進化の歴史が証明しています。

供給者側でも、アダムのジゼルの程度のクオリティの音楽、つまりたいして売れそうもないコンテンツを当代一人者のフィストラーリのような演奏家、最新鋭の録音システムでコストをかけて商品化しようというインセンティブは著しく低減するでしょう。英Deccaがヘルベルト・フォン・カラヤン / ウィーン・フィルを起用したジゼルは1分当たりの(音楽の価値)÷(製造者原価)の値が最も低い録音だろうと思われ、収録した1961年あたりにクラシック音楽ソフト市場の数値のボトムがあった可能性が高いと考えております。

需給の両サイドでの質の低下は確実に文化を変質に追い込みます。経済学のわかる人は本稿の趣旨である「アマゾンによる死(Death by Amazon)」との類似性を見抜かれるでしょう。大人買いCDセットはクラシック音楽ソフト市場の断末魔になりかねないのです。

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ワールドカップのポーランド戦は是か非か?

2018 JUN 29 23:23:21 pm by 東 賢太郎

デイリースポーツ新聞は阪神が勝つと一面は常に阪神。これが例外なしの不文律だったが、今回のポーランド戦では、「阪神3連勝」、「能見100勝達成」の大ネタを捨てて初めてサッカーを一面にしたそうだ。ワールドカップのポーランド戦は物議をかもした。あんなのを見せられたらサッカーはつまらんスポーツだなと思ってしまう。

あれがYesかNoかは、本質を突き詰めればサッカーが「スポーツ」か「ゲーム」かという宗教論争なのである。だから結論はない。なぜかというと、ゲームというものは勝てば官軍である。勝たないと意味ないから手段は問わない。極論すれば、バレなければいかさまでもいいし相手がクレームしなければルール違反でもいい。

パチンコで負けて出てきたおっちゃんに「惜しかったですね」、「いいゲームしましたね」、「次につながる負けですね」なんて声かけてみればいい。「兄ちゃん、あんたアホちゃうか?」でおしまいだろう。将棋も囲碁もチェスもポーカーも麻雀も、負けた人に救いの言葉はないのである。

しかしスポーツにはそれがある。敗者もいい戦いだったと讃えられて報われたと思えるものがある。勝敗はもちろんプライオリティーだが時の運でもあり、勝負の中でみせる技術、勇気、フェアプレー精神を是々非々で評価しようという心の在り方がスポーツの根幹にはあるのだ。

サッカーをスポーツと考えるならあれは誰が見ても異論のない無気力試合である。イエローカードの差など何枚あろうがなかろうが、チームごとレッドカードで退場であろう。一方でサッカーをゲームと考えるならあれは他力本願だろうが負け試合の時間かせぎだろうがなんだろうが、是であろう。

西野監督はワールドカップをゲームとして戦ったわけだ。だからあれは是である。彼はルールに則って合理的な判断をしたわけで、ではその根拠となる彼の使命は何かというと、野球場にも大勢いる「ファウルが誤審でホームランでもうれしい。なぜ?勝ったからだ。勝てばいいじゃないか、なんであろうと」という類の人たちをエンターテインすることだからだ。勝てばいいじゃないか、なんであろうと、の人たちが西野はボケだとけなし、翌日に勝つと神だと讃え、鉦や太鼓をたたき、そうやってサッカーを支えマスコミの井戸端会議をにぎわわせてくれるからだ。デイリースポーツの編集長はだから悩んだのだ。西野は苦渋の決断と言ったが、本来サッカーはスポーツであるという信念との齟齬に苦しめられたのであろうと同情する。

なぜかというと、僕はあれを見せられると、サッカーは問答無用でつまらないと思ってしまうからだ。そうではないことは知っている。ミラノのサンシーロで、8万人のスタンドがごうごうと揺れどよめく中で観たインテル・ミラノとACミランの白熱戦など一生忘れることはない。西野監督はワールドカップを「ゲーム」と割り切って勝ち上がりルールにコンプライアントな戦略を採ったが、そのルールがああいうことを招いてしまうのはサッカーにとって損失と思う。「無気力試合はチームごとレッドカードで退場」のルールも導入したら何か不都合でもあるのだろうか。

 

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スポーツマンシップの正体(日大アメフト部事件)

2018 MAY 25 2:02:39 am by 東 賢太郎

清規(せいき)と陋規(ろうき)という言葉がある。清規(せいき)とは人を殺めてはいけない、喧嘩や盗みはするな、借りた金は返せなどだ。法律が禁じたり義務づけているものはすべてそれだし、親孝行せよ、正直にせよ、弱い者は助けよなどの道徳もそうだ。

それに対して中国には陋規(ろうき)と呼ばれるものがある。薄給の役人が賄賂をとって生計を立てる。無論悪いことなのだが、それを為政者は(薄給に止め置く張本人なのだから)あえてお目こぼしにする。その代わりに「一定のルールを守ってやれよ」という。その最低限のルールが陋規だ。

これが転じて裏社会、アンダーグラウンドの約束事、掟の意味になったようだ。任侠道がまさにそれで、やくざ映画で

「お前さん、それをやっちゃあおしまいだぜ」「待て、待ってくれ」、ズドン!

なんてシーンがあると、「あーあ、仕方ないな、あれやっちゃあね」なんて堅気でも思う・・・そういうものが陋規だ。

世の中は実は陋規で動いているかもしれない。野球などそれだらけだ。内角攻めはビビらせるためにやる。「内角をえぐれ」なんていわれる。そんなのは当たり前でそうしないと好打者には打たれる。捕手が打者の懐のあたりに構えることもある。それで手元が狂って当ててしまったこともある。度を越して「それをやっちゃあおしまい」となるとプロなら乱闘だ。

巨人の山口投手が横浜ベイスターズ時代に、広島カープの会澤の顔面に死球をぶつけてグラウンドに救急車が入る大騒ぎとなった。会澤はしばらく入院した。それがありながら先日、山口は2打席連続で会澤にぶつけた。これにはベンチも騒然となり、まさしく「それをやっちゃあおしまい」であって、血相変えた会澤がマウンドに向かっていって乱闘寸前になった。山口が故意でやったとは思えない。会澤という打者が苦手なんだろう。

さらにその末にあったのが一昨日のゲームだ。巨人先発はお待ちかねの山口。ここで広島の緒方監督は普段は7,8番の会澤を5番に入れた。これはファンならわかる異例の打順で、会澤を含む全選手の発奮を促すオーダーだったと思う。この試合、発奮したのは山口で2安打完封した。カープもあっぱれと思ったろう。男の勝負というのはそんなものだ。

そういう場にわけのわかってない人たちが出てきて「内角をえぐれと命令されたんですね」とか「傷害罪ですね、未必の故意があります」とかなるのは誠に興ざめだ。そんなことのないよう、つまり勝負事としての投球術の常識の範囲で処理できるように「危険球退場ルール」ができたのだと思う。意図は微妙に不純だがあえてお目こぼしにする。しかし「頭を狙うなよ」という裏取引の最低限のルール(陋規)が明文化された(清規になった)レアなケースと思う。

アメフトで「潰してこい」が何を意味するかは知らない。「思いっきりいけ」「ぶちかましてこい」程度の発破ならぜんぜんありだが、チームに一人しかいない要のQBをあえて狙った、2秒後だったということで「よほどの場合」になってしまったのは仕方ない。世間でなく相手チームが怒ったということだからこれは明らかに陋規違反なのであり、法律が出てくる以前に現場の掟として許されないことだ。

問題は実行した選手が泣いていたことで、陋規違反とわかっていたからと思われ、ということは清規においても故意があった実行犯となるだろう。監督、コーチは「潰してこいはどこのチームもかける発破だ、まさかあんなことをすると思わなかった」とするのが常套だろう。監督らにも故意が認められ教唆(共同正犯)になるかもしれないが3人悪いことになるだけならば何とも救いのない気の毒なケースだ。

陋規を書いているのだからマキアベリ風、半沢直樹風に徹しよう。敵の主力が不調になればありがたいと監督、コーチが思うのは、思うだけなら罪ではない。内角をえぐるのはスイングをおかしくしようという実力行使でもある。巨人以外の全監督は菅野がイップスになって二軍落ちでもしてくれればラッキー、しめしめだろう。「そう思うこと自体いけないですね」などと善人を演じないと常識人、知識人ではないという風潮は「女性をいやらしい目で見たらでセクハラです」と取り締まるに似る。男にそういうことはさせませんと子供にウソを教えて無菌室で育てるようなもので、かえって怪しい男がわからなくなって危険である。

「スポーツマンシップ」という言葉は、往々にしてマスコミによってその文脈で使われる。「わけのわかってない人たち」が善人を装う場においてだ。敵の主力が不調になればありがたい?とんでもありませんね、青少年に夢を与える場ですよ、そんなこと考えるだけで不純です。こうして「女性をいやらしい目で見る男はいない」という虚構のお花畑が作られる。そうやって昨今巷にあふれだした勘違いの青少年が作られていくのだ。これはいずれ日本を滅ぼす。スポーツだけはそういう子を作らない最後のバックストップなのに。

今回、日大のコーチが言った「潰してこい」は昔の子なら含意とTPOを忖度してぎりぎりの偶然性を装う中で実力行使をしてきたかもしれない。そういう忖度反応が見えないことが、才能があるだけに、監督のこの選手への「成長不足」という苛立ちの蓄積となり、それをおまえの指導不足とされそうなコーチが本来は含意に留めて言わなくてもいい本音の部分をわかりやすく「解説」してしまった。その通り実行しないと干されると思いつめた選手が素人目にも異常な形で彼なりにその通りに泣く泣く実行してしまった悲劇というのが真相なのではないか。

「スポーツは青少年の健全な心と体の育成の場です」。よく耳にする美しいメッセージだ。僕も育成してもらったが、覚えたのは勝負事(=ケンカ)の掟だけで美しい心が育成されたかどうかは自信ない。勝負からどうして走れメロスみたいに健全で、修道女みたいに敵まで思いやる精神が出てくるのかは僕にはわからない。体育会なる言葉は昨今イメージが甚だ良ろしくないが、それは日馬富士騒動で角界の古い体質だとこきおろされたものと重なる。体質ごと悪いと切って捨てるなら勝負事の面白みは消える。水清くして魚棲まず。人を殴るなんてとんでもないとなればボクシングはいずれ廃止になるだろう。

おそらく、誰も相撲やアメフトを廃止したりつまらなくしたいわけではない。ラフにやってもいいけど「一定のルールを守ってやれよ」、つまり、冒頭に書いた「陋規」を守れという事なのだ。その陋規こそがスポーツマンシップと呼ばれているものの正体であって、そういう名の法律やルールブックがないのはそれが裏社会、アンダーグラウンドの目に見えない掟という性質のものだからである。スポーツが文科省推薦の「青少年の健全な心と体の育成の場」なら立派なスポーツマンシップ憲章でもできるだろう。しかし、幸い、まだそれは勝負事(ケンカ)でいる。

僕が気になったのは日大の監督が「我々は常にルールを守ることを原則としている」と繰り返し抗弁したことだ。そんなことは当たり前である。「それならルール違反した選手をなぜすぐに退場させなかったのか」と記者につっこまれて「見てませんでした」とあえなく撃沈されてしまった。むしろ、ルール違反でなければ何をしても良い、つまりスポーツマンシップにもとる行為かどうかは二の次だとも聞こえる。

そうではない。陋規であるスポーツマンシップが根っこにあって、そのうえで、清規であるルールブックが出てくるのである。この事件が日大にとってまずかった最も本質的な理由はタックルがルール違反だったからではない。

やくざ映画で「お前さん、それをやっちゃあおしまいだぜ」「待て、待ってくれ」、ズドン!

になってしまったからなのである。その音を聞きつけて、アメフトを人生で初めて見たルールも知らない堅気衆が「ルール違反だ」と騒ぎ出したのが事の顛末だ。そこで「ルールを守ってます」と抗弁するほど頓珍漢な見世物もなかった。

山口は会澤に3発も当てて大怪我させたけれども、死球は禁止するとルールブックには書いてないのだから「巨人軍はルールを守ることを原則としている」と言えば言えてしまうのだ。しかしあの3発は誰の目にも異常でスポーツマンシップに反すると見えた。だから会澤が怒って彼をぶん殴っていても世間は批判しなかったろうし、警察も傷害容疑で逮捕しなかったろう。スポーツというものは社会行事でなく勝負事であって、法律やルール以前に陋規であるスポーツマンシップが根っこにあるという証拠である。

昨今の「法律違反でなければ何をしても良い」という風潮に僕は大反対である。危険であるとも考える。なぜなら、世間は法律というものに嫌でも縛られるが、ほとんどの人はそれをよく知らない。知識人という名の大衆も知らない。「セクハラ罪という罪はない」という麻生大臣を「ある」と思って批判した人が多いのは、僕は彼をかばう気はないが、危険だ。清規というものは為政者の道具だからである。根性論が嫌いだからとスポーツに「清規の網」をかぶせ、こういう事件があるとここぞとはりきって体育会精神をファシズムだと批判するような軽薄な風潮は、そっちのほうがよほどファシズムの温床となり得るのである。

「清規の網」をかぶせられ、スポーツ界がケンカでなく綺麗事のショーに堕落すればいずれ人気は凋落する。大衆は殴り合いや昏倒シーンが見たい、流血も見たい。格闘的要素を含むスポーツは「陋規がある」ことを前提に、ローマ時代の昔から大衆の野蛮なニーズは目的ではないような顔をしながら非日常空間を提供する場として存在している。ボクサーが傷害罪にならないのはそれが刑法35条の正当業務行為だからだが、合法だからボクシングがあるのではない、ボクシングは面白いからあるのである。

 

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予想屋ではないけれど

2018 APR 24 0:00:15 am by 東 賢太郎

僕は予想屋ではない。仕事ではわからないことはいっさいやらない主義だから予想というものは不要だ。いっぽうブログは仕事でないので気軽にたくさん予想するが、下手な鉄砲でどれかは当たるという仕組みになっている。

しかし、昨今、その「当たり」が有難くないほうばかりに偏ってきていてどうもよろしくない。例えば今年の3月25日に東京ドームで巨人対楽天のオープン戦を観戦したブログにこう書いた。

オープン戦は当てにならないが、見る限り中日も良さそうで、去年お客さんだったこの2チームが復活するとカープは場合によってはAクラスも危ない。今日SBに逆転負けして5連敗だが、投手がいない。僕は去年は岡田、薮田が出来過ぎだったと思っており、それは黒田効果の余熱だったと考えている。熱は残ってるのだろうか。大瀬良も打たれ九里もだめで先発はジョンソンと野村だけだ。中継ぎもジャクソンが危ないしカンポスはどうも中途半端だ、もっといいのがいなかったのか。抑えも中崎だけだがサファテ、カミネロのウルトラ・パワーに比べるとどうだろう。打線は鈴木誠也次第でそれなりに点は取るだろうでが、投手力は大いに不安があるのである。

きのう、カープはついに中日に3連敗を喫し、薮田は3連続四球でKOだ。岡田もパッとしないし大瀬良は3点は覚悟のピッチャーに落ちた。野村は打撃投手みたいに打たれ、ジョンソンもかつての勢いなくジャクソンは中継ぎ失敗続き、カンポスは影すらない。故障者が復帰すればソフトバンク並みと思われるDeNAが走りそうだし、お客さんの巨人、中日に食われれば4位がいいところだ。

まあ野球などかわいい。問題は北朝鮮だ。去年の5月22日に書いたこれが当たってしまいそうでぞっとする。

金正恩のさらなる高笑い

こっちは去年の5月26日の投稿だ。そのころ、まさか天下の財務省にまで飛び火しようとは思わなかったが・・・。どうしてこういうことが起きたか、ここに書いたことが巷で言われだしている。

加計学園問題を注視すべき理由

最後に、ひとつだけ明るい話題。これがこんなに早く適中するとは!!!大谷君、日本を背負ってるぞ、頑張って。

「エースで4番」とはなにか?

 

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たまたまそこにいた罪-森友学園問題-

2018 MAR 28 1:01:56 am by 東 賢太郎

時の人となっている佐川元国税庁長官が高校も後輩だとは知らなかった。かといって行為を是とするわけではないが、見ていて気の毒な気もする。官僚であれ民間であれ、組織人というのは、時に「たまたまそこにいた」ということから出世したり落後したりすることがあるからだ。

前に書いたが忖度が悪いこととはかけらも思わない。大組織がそれなしに上意下達で動くなどと考えるのは絵空事だ。動かすには忖度できる有能な部下が必要であり、それが悪であるのは上意が悪なのであって忖度に善悪の色はない。「よいしょ」は無能でもできるが忖度は高度に知的な作業である(よいしょの一種とは思うが)。有能な者は有能なりの巧みな忖度ができ、できるならば出世に有利だから官僚のように能力差が紙一重の世界ではびこるのは不思議でもない。そこにつけ込んで内閣人事局に権力集中した官邸が老獪だったということに尽きる。

まったくの推測だが彼は忖度し過ぎたのだろうか?公文書は書き換えると犯罪だが、捨ててしまえば合法だ(文書管理規則に従えば)。「ない」と断言したのは「文書管理規則上という意味」でした、軽率でしたと証言したが、これはひょっとして本当にそうだった事実の一端をつい言ってしまい、実は当時そう(あるはずないものにできると)確信しており、その確信をもって総理に忖度ブリーフィングして喜ばせ、それによって確信をもって安心した首相から勢い余って「議員辞めます」発言が飛び出してしまい、ところが後にサーバーに残っていることが発覚し、ひょっとして内部告発もあり、いずれバレると覚悟し、書き換えさせた。そのぐらい強い合理性のある動機がないと彼ほど優秀な人が忖度したいだけの目的でそんな危ない橋を渡った推理は成り立たないように思う。だから上からの指示とか夫人とか政治家の関与や指示は、こと書き換えに関していえば、本当にないのであって、だから偽証罪に問われるリスクがあるのに「ない」と今日言い切れたのではないか。

この時代に文書(ペーパー)で何年残しましょうなどという規則は時代錯誤だ。残そうと思おうと思うまいとサーバーには残ってる。それを知らずに読み違えたチョンボブリーフィング事件だったなら結構辻褄があう。「辞めます」発言が原因で忖度が始まったのでない、逆に、局長の忖度が安倍発言を生んでしまって局に緊張が走り、そこへ「なかったことにしたもの」がドカンと出てきて将棋は詰んでしまったということではないか?「すいません、ありました」となれば首相退陣→局長の官僚人生は終焉、だった。えい、それならば・・・だったのではないか。もしそうであるなら、野党が書き換えと官邸や夫人の関与との関係をいくら追及してもないものはないのだから、佐川氏の問題は佐川氏の問題ということが検察捜査で徐々にわかるだけで安倍政権の急所に至る証拠は出てこないだろう。

ともあれ、彼が自分の証言するとおり責任者であるならば、やったことはいかなる理由があれ許されることではない。人までなくなっており全官僚の信頼を損ねたという批判においてもそうだと思う。何かを身を挺して守ろうとしたなら、その相手である物や人は、こうなると身を挺してくれるわけでもない。そんなリスク・リターンの悪い職業なのかと若者が思ってしまったならば、それも将来の官僚の質を下げてしまう罪だろう。米朝接近、中朝密談と、国会でそんなことをやってる場合ではない国際情勢のなか、こういうことになった責任も重い。

真相はわからない。しかし、刑事訴追されようと、官僚があるまじきケアレスミスで首相を追い込んだという末代までの省の汚名よりはましだろう。もしそうならば、彼は徹底黙秘して世論の終息を待ち、刑事訴追されても最後は大阪地検と財務省の手打ちで闇の中で終わらせるのかもしれない。理由は永遠に不明なままに葬って、少なくとも身を犠牲にして組織を守ったという官僚社会の最後のクレジットだけは保持した方が得策というぎりぎりの判断で書き換えはやったことかもしれない。本当にそうだったかどうかはともかく、そういうことだったよなとしてしまえば官邸も佐川氏も守られ、本質論でないことで官邸は目くらましと4月17日の安倍・トランプ会談までの時間稼ぎができる。

一つだけ言えることは、個人的には、彼は何かの運命でそこにいたということだ。たまたま。事の軽重はあるが僕もそうやって良かったことも悪かったこともある。悪かったけどそれがあって結果は良かったこともある。本人は不本意だし苦しいだろうし誰も救うことはできない。真面目に官僚人生を歩んでこられてこうなるというのはもと勤め人として不憫に感じるが、長い人生 hard luck だってあるさとだけ書いておきたい。

 

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メダリストの威厳

2018 FEB 27 23:23:21 pm by 東 賢太郎

僕は雑音が耳に入ると目の前の人の言葉がわからなくなる。特に高い音と紙などのゴソゴソ、シャラシャラ系に弱い。横で女性が小声で話したり新聞をめくられるとテレビがききとれなくなる。コンサートが始まって隣がプログラムを手に持っていると、もうその日は観念だ。

女性の声が高いのは赤ちゃんに聞こえやすいためだそうだが、だからだろうか大人にもインパクトが強い。電車の中で女性軍団のぺちゃくちゃがはじまると逃げることになる。めったに見ないTVをつけたら、声が素っとん狂に高い政治評論家かなんかが、きゃーきゃーひゃーひゃー(としか聞こえない)立て板に水でしゃべりまくってる。カラスよりうるさい。すぐ消す。

言えば勝ちみたいな軽薄さがお茶の間でも幅を利かす時代かと観念していたら、平昌オリンピックのメダリストの女性たちが溜飲を下げてくれた。競技ではない、インタビューでだ。女性は凛々(りり)しい、威厳があると言われても嬉しくないのかもしれないが、そうとしか書きようがない。スケート、ジャンプはもちろん、明るい、かわいいで人気のカーリングだってすごくそうだった。

自分でやった人の言葉は重い。インタビューでの一言一句を真剣に聞かせていただき、感動を新たにした。高木姉妹はお姉ちゃんがマススタート。佐藤さんが転倒して不利の予想だっただけにあの金メダルは劇的だったがインタビューも凛々しかった。戦略勝ち?運も味方した?どうでもいいさ、勝った者にはどんなに楽勝に見えても運があった、運の定義とはそういうものだ。

カーリングも土壇場で英国に勝った。負けた方はミスだったから仕方ないとは言ってもらえない。それが実力よとなる。ということは勝った方もそれが実力よでいいのである。歴史的メダルおめでとう。どんなスポーツだって運だけで勝てることはない。だからこそ、何はともあれメダルを取った、この事実に勝るものは宇宙に何一つない。

スポーツ界はユートピアだ。選手は皆それを知っている。だから負けても勝者を讃えるし、負けた韓国選手を小平奈緒さんがいたわれる。それに拍手を送る世界の観衆だってみんなそう美しく生きていきたいが、実社会は嘘つきや姦計や裏取引みたいなワルやズルに満ち満ちている。だからスポーツぐらいは正々堂々、ピュアでいたいねとなってドーピングや八百長が断罪されるのである。

平昌オリンピックは嘘つきや姦計や裏取引の政治色満載で開始したが、そんなことは関係のない選手の皆さんのおかげですがすがしい大会となり、一服の清涼剤だった。メダルを勝ち取った皆さんの威厳ある言葉と姿だけを記憶に残したい。後講釈のきゃーきゃーひゃーひゃーだけは是非やめてほしい。

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またかいな、iPS細胞論文の捏造・改ざん

2018 JAN 23 1:01:00 am by 東 賢太郎

海外に16年住んでみた経験だが、官民に関わらず日本のもろもろの管理システムはしっかりしていると思う。しかし、そのパフォーマンスのかなりの部分は日本人のもつ真面目さ、勤勉さ、責任感などの人的要素に依存しているのであって、必ずしも機械が優秀というわけではない。このところ、そう痛感する二ュースが多いのがとても気になる。

相次ぐ名門企業のスペックごまかしと隠ぺいがあると思えば、新幹線の台車ひび割れ事件でJRの管理体制の甘さにぞっとした。そうしたら日本航空機が管制の許可を受けないまま関西空港に着陸だ、しかも管制側も着陸の許可を出し忘れていたというのだからお似合いのペアだったわけだ。

以上はすべて人命にかかわることだ。誰もが信頼する公的な管理システムが実は「ごめんなさい、忘れてました」で済む軽さで作動しているのだろうか。事故が起きればトップが並んでカメラの前で45度のお辞儀を15~20秒して終わりなのか。管理システムもお辞儀もどこか「マニュアル化」しているように思う。

人命には関わらないが人生は左右する場面でも目を疑うことが起きている。センター入試で試験官のスマホが試験中に鳴って、それが英語のリスニング中というのだからひどい。阪大は物理の出題ミスで誤って不合格となった受験生が30人もいたが、認めたのが1年後だ。京大も昨年の物理の入試問題に「条件が不足しており、解答不能ではないか」の指摘が出ている。

東大入試だってあった。1975年の二次試験、数学の設問2は ℓ ≠0という条件がないと解けず僕は答案に「出題ミスである」と文句も書いた。人間だから仕方ないが、出題なんか間違うなら採点のミスはないのかとも疑ってしまう。確定的に答えが出る理数系は複数の目でチェックすれば防げるはずであって、それをしていないと考えるしかない。

ここまで書いたら、ついに「京都大学iPS細胞研究所で論文のデータに捏造、改ざん」というニュースが飛び込んできてしまった。STAP細胞事件の顛末を知りながらどういう野太い神経でこれができてしまうのか、蛮勇に敬意を表するしかない。どうせばれないだろうというお気軽な魂胆は名門企業のスペックごまかし・隠ぺい事件に直流で繋がっている。

僕はシューマンの交響曲のスコアを「改ざん」する奴は許し難いと思っていてシューリヒトのようなクズのCDは廃棄処分する。まして科学研究だ。スコアを書いたのは「神」なのだ。「論文の見栄えを良くしたかった」と女がアイメイクする気軽さで神を超えたこの助教は何様なんだろう?そういう視点に立てない人は科学者も指揮者もだめだと烙印を押すのに何のためらいも感じない。

それが人間なのだろう。そういう輩はいつもどこの国でも出現する。法律という社会正義に違反するわけじゃない、科学者としてジ・エンドになるだけだ。しかし、その人の人生が打ち止めになろうと自己責任だからどうでもいいが、その巻き添えで人生打ち止めになる他人が出る社会は正義に反していると思う。

以下は私見だ。

山中教授に管理責任は及ぶのかもしれないが、あれほど大問題を起こして屁の河童の相撲協会理事長もいることだ。教授が米国に行ってしまうような事態は避けたい。中村修二教授は米国籍になったが新発明の紫色LEDは日本でお役立ちすべきだと僕は考えてご支援している。文学者のノーベル賞も結構だが日本は永続的に科学立国であるべきで、ワールドクラスの科学研究は国をあげて守らなくてはならない。

 

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貴乃花親方の目

2017 DEC 22 1:01:53 am by 東 賢太郎

相撲が面白いと思ったのは北の湖のころだ。強すぎてヒール役だったから僕は嫌いなはずなのだが、たまたま新婚旅行で北海道へ行ったおりに横綱のお父さんにお会いして蜜柑をごちそうになった。それでファンになってしまったのだからいい加減なものだが、北の湖は強いうえに姿も勝ち方も美しかったと思う。そればかりか、ほんのたまに負けた時さえも、本当に強い人が負けたんだ、これぞ価値ある金星だと見えた。いまどきの金星なんてお小遣いもらったよラッキーぐらいにしか見えないのが多い。彼がヒールだったと評するよりも、そこまで堂々の圧勝で憎たらしいほど強い横綱があまりいないと言った方が近いのではないか。

北の湖と輪島の両横綱が優勝をかけた千秋楽の大一番というのが最高の見ものだった。輪島もこれまた滅法強かったのだ。盤石の腰の重い北の湖を唯一振り回す威力のあった「黄金の左」の炸裂には熱狂したしスポーツであれほど興奮できたのもそう記憶がない。加えて、輪湖をおびやかした貴ノ花、僕の好みだった投げの魁傑、ピラニアの旭國、ふてぶてしい長谷川、四股の足がよく伸びた豊山、色男の若三杉、がぶり寄りの荒勢、地味に強かったがまわしのゆるんだ三重ノ海、元祖技のデパート増位山、そして麒麟児、鷲羽山、高見山、黒姫山、富士桜、金剛・・・凄い。なんて個性ある力士たちだろう。どの組み合わせの取り組みだって思いだしてわくわくする。

魁傑・旭國戦なんて最高、いぶし銀の輝き!まさしくライプツィヒ・ゲヴァントハウス管のシューマンである。いまも記憶にあるこの一戦は熱かった。

この時代、大学生で暇だったから一番一番じっくり観ていたのだ。就職したらもうこの時間帯は無理。そこから海外へ行ってしまったから大相撲というと輪湖時代になってしまうのだが、この頃が面白かったという方は結構多いようだ。

あるとき国技館で勝ち名乗りをうけて意気揚々と引きあげる北の湖の左肩を叩いてみたら巨大な岩みたいで衝撃だった。あれでぶつかりあうなど常人の想像を絶することで、米国の巨漢アメフト選手が幕下力士に吹っ飛ばされてしまうときいた。最強の男たちが命がけでガチンコで当たる。強い方が肩で風切る。男の世界で当たり前じゃないかと思ったし、憧れでもあった。まったく同様のノリで当時ハマっていたのは任侠映画の高倉健、鶴田浩二、洋物はゴッドファーザーのドン・コルレオーネ(マーロン・ブランド)であった。

後に社会人になって営業店に出たら「数字が人格」と堂々と言われた。当時の証券営業はそういうもので新人はその禊を経て一人前、そこで多くが辞めてしまう離職率ダントツの業界であり、中でも野村は数字序列の厳しい会社として一般世間ではヘトヘト証券と揶揄されたが業界内では掛け値なしに嫉妬も畏敬もされていた。覚悟はあったもののまさにこれは「角界」であり、ここで肩で風切るのは無理だと辞表を書きかけたことがある。いろいろの僥倖もあって生き残ったが、あまりの厳しさに首の皮一枚まで追い込まれていた。

いま思えばそこで音を上げてもクビにはならなかったろうが、「おい帝大」と呼ばれ「お前に株は無理や」と言われてメラメラと負けん気に火がついたのが人生を決めた。よーしそれならと体育会感覚でプライドの戦いを挑んだから人格まで変わった。そこから10年、ロンドンを終えるまで絶対に数字で負けないという強烈なプライドで営業の「背番号」を背負ったが、株の世界で僕に意見する人はだんだんいなくなった。

それがサラリーマンとして正しい道だったか不明だが、抗いようもない性格であった。営業成績で出世する会社ではあったがもちろんそれだけではない。しかし社内政治はしない。そこに証券不祥事を機に会社のガバナンス御一新みたいなのがあって、営業成績主義はやめ、できる奴は危ないという空気になったのが決定的だった。わざわざ出来ない奴が経営するんだからここについては失敬になるし書かないが、命がけで来た道がだめでしたとなっては他社に移籍する不安よりそこに残る苦痛のほうが大きかった。捨てる神あれば拾う神ありで、噂の段階で真っ先に声をかけてくださったのが2つの銀行系だ。いない毛色の人間であったようで、最初にお会いしてひとめぼれの相思相愛になってしまった。

自分で辞めたというのは新人の時代とはわけが違う。本社のライン部長であったのだから経営の一部であり、体制に反旗を翻したということである。それもライバルの興銀、富士、第一勧銀を母体とする証券会社への移籍、しかも銀行トップが命運をかけていた戦略部署の株式引受ヘッドだったから目を引いたのか、そういう趣旨の特集記事が経済誌の表紙を飾ってしまい、インタビューもされずに氏名を書かれたのも困ったが会社にご迷惑をかけたのは痛恨だった。なぜなら会社が嫌いになったわけではなく、自分のビジネススキルのすべてを作っていただいた野村イズムはいかなる理屈も超越して大好きだったからである。

こんなことを思い出してしまったのは、先日の相撲協会理事会で周囲を睥睨する貴乃花親方の目を見てからだ。あなたがたのことは歯牙にも掛けてませんよ、徹底的に戦いますよというあの目は心の奥底で僕にカーンと音をたてて響くものがあった。あれは仕方ない。命を削った仕事の結果、794勝+優勝22回の男が591勝+優勝8回の男にあの目を向けるのは僕にはあまりにフツーである。そうじゃないという人は男が命を削るということを知らない。人はみな平等とか一般社会常識とか、そんなもので論じることなどアホらしいほど無意味なのである。僕は公益財団法人日本相撲協会は社会常識で運営されるべきと思う。しかしその構成員が戦績やプライドをご和算にして仲良くやりましょうなんて必要はさらさらない。

命を削ってない相撲があると週刊誌沙汰になっている。真偽はわからない。ただ、仮にそうならばそんな相撲ショーは素人にだって見抜かれ、やがて見放される。だからそういう横綱が何十回優勝しようと、人気があって客が入ればいいというなら協会は目先の繁栄と引き換えにいずれ相撲という神事、国技はおろか興行としての業界をも潰すだろう。それを止めるガバナンスが定款にビルトインされていないことを公益財団法人日本相撲協会が確認することがここからの問題であろう。しかし協会を人間に例えるなら、脳みそがどこについているのか僕にはさっぱりわからない。自分で横綱に推挙した白鵬、鶴竜を処分しながら、推挙した自分の非には言及しなくて済む横綱審議委員会の権能の由来を相撲通の外人に尋ねられたが、そんなもん俺は知らん、Only God knows.(神のみぞ知る)と答えたらOh, I see it’s Shinto business.(そうか神事をうたったビジネスだもんな)とジョークがきた。空気を醸し出しておいてソンタクしてねという仕組みは、流行語大賞にはなれてもgovernanceと呼ぶに能わずである。

貴乃花はあの輪湖時代の雰囲気のある強くて美しい横綱だったと思っており、相撲の王道を哲学に持っていると信じたいがまだわからない。それを見せてほしいし、それが確認できれば支持するという国民は僕を含めてたくさんいると思うが、男は黙っての時代でもない、説得力ある言説を望みたい。格下を見下すのは結構だが、そのあまりにガバナンスを壊せば返り血を浴びる。本気でケンカするならぜひ強い横綱であっていただきたい。

 

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日馬富士事件の謎

2017 NOV 18 22:22:25 pm by 東 賢太郎

人それぞれ生い立ちは違うから倫理観や価値観はまちまちだ。僕は子供から野球をやって上下関係の厳しさを教えられて育った。ただ持って生まれた性格は自由奔放で束縛が大の苦手だから先輩後輩のけじめにはとまどったし、なんでこの人に言われないかんのと態度は抑えても顔には出ていたはずだ。

社会人になってやらかしている。ある時、書いた調査レポートにご指導を食らって、その先輩が普段からくだらないことにくそうるせえと思っていて、ついそれを言っちゃあおしまいよというのを言ってしまった。何事もなかったが後悔にさいなまれることになった。別な先輩には理解できないことで罵倒され、うるせえと彼が去っていく方に向けて用具棚を思いっきり蹴たおして周囲に羽交い締めにされた。

ところが月日がたって30の半ばごろ、酒席で若手が酔ってからんできて東さんなんかもうジジイなんですよ、うるさいだけなんですよ、となって、なんだとこの野郎とぶち切れた。何人かが間に入って僕を止めなかったら危なかった。体育会でこういうのはあり得ないのであって、こいつは一丁かわいがらんとろくなもんにならねえなとなってしまうのはその世界で育った性だ。

このクソジジイ!とこのクソガキが!の両方やっている僕として、今回の日馬富士の件はわからない。報道による限りだが、スマホをいじってクソジジイをかましたらしい貴の岩がどうして何十発も無抵抗で殴られたかがだ。しかも頭蓋骨まで危なくて入院するほど激しくやられたら力士じゃなくたって抵抗ぐらいするだろう。そこまで先輩に悪態をつく度胸があるなら反撃すればいいじゃないか。

何かの理由で自制したなら何にビビッたかだ。相手が横綱だからじゃない、それなら最初から悪態はついていない。日馬富士がそこまでぶち切れたことにじゃないか?相手をなめていてつい言葉に出た。その程度は悪態という認識がなかった。それが引き起こしたリアクションの物凄さに慄然としてまずいとなったのではないか?だったら教育の問題だろう。貴の岩も被害者かもしれない。

モンゴルの人だ。ウルトラ儒教的体育会的と思われる角界の先輩後輩のけじめは教育されなければ自明のことではないかもしれない。日馬富士はそれを日本で苦労して修養し、郷にいれば郷にしたがったわけだ。そのけじめが古いのかどうか是非を論じる気はないが、自分の育ちからしてぜんぜん悪いと思わない。古いイコールいかんがはびこるなら江戸時代のチョンマゲなんか取ればいいだろう。

警察ざたになった以上暴力は暴力として、行為として、是々非々に裁かれるのはいいが、誰も知らない変な反戦のおばさんみたいのがテレビに出てきて暴力はとんでもありませんで議論をまとめにかかるのも角界御一新みたいなにおいがしてくるのも非常に違和感がある。

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