点と線(ヴェルディとゼッフィレリの場合)
2023 APR 15 11:11:26 am by 東 賢太郎

フランコ・ゼッフィレリ(1923-2019)についてそんなに知ってるわけでないが、我が世代にとってこの人といえばまず映画「ロミオとジュリエット」だろう。封切りは1968年だった。ヌードシーンがあるというので当時中学生の僕は手が出せず、観たのはずっと後だ(ビートルズのマッシュルームカットすら禁止の時代だった)。だからリアルタイムではあの甘い主題曲しか知らない。最初にロミオ役の出演依頼を受けたポール・マッカートニーは断ったそうだが正解だったかもしれない。主演のオリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが70才にもなって「あのヌードは児童虐待だった」と映画会社パラマウント・ピクチャーズを相手に数億ドルの損害賠償裁判を起こしたからである。ポールにそんな恥ずかしいことがおきなくてよかったが、そこまでしてカネはもういらなかっただろう。
対極の話がある。名前は伏せるが、日本の某大女優の私生活の話を聞いて驚いたのだ。「行くからよろしく」といわれて待ちかまえていた料亭の店主が、あまりに質素なので他の客に紛れて目の前に座っているのに気がつかない。なんと家では今でもまだブラウン管テレビをご覧になっている。若かりし頃を知る僕としては「あの頃」を大事にされているのだと思いたい。かたや、あの目を見張るほど可愛かったハッセーさんの変わり果てた裁判のイメージ。こんな郷愁にひたるのは日本人だけだとわかってはいるのだが・・。
エンタメ界における男女の性的なハチャメチャぶりはモーツァルトの昔からあって、不謹慎な僕などこの業界それなしでは華がないぐらいに思えてしまうのだが、これは動物である人間の本能の発露にすぎない。だからこそキリスト教が「汝姦淫するなかれ」と説く必要があったのだ。それを内に外に強制する教会という存在は不自由の権化であり、だからこそ、その禁断の呪縛から劇と音楽が解き放たれた喜びは絶大だった。シェークスピアはそれを敵対する家の男女の燃え上がるような恋、禁じられた恋の喜びに昇華させて見せ、ティーンエージャーの汚れなき純真さと、穢れきってしまった大人社会の相克が弱い者の死によって贖われる不条理を劇にした。こんな劇が現れ得たこと自体が、教会からの開放の喜びという二面性の象徴だったのだが。
ゼッフィレリはそこで画期的なロミオとジュリエット像を創造した。シェークスピアは二人が絶世の美男美女とは書いてないし、美醜に関わらず物語は成り立つだろうが、現代の読者は、この “空前の” 悲恋物語には “空前の美男美女” こそふさわしいというイルージョンを懐く。それは映画というフィクションが人類に与えた人工甘味料なのだ。ゼッフィレリはその効能を鋭敏に予知し、早々に具現化して当てたのだ。あのヴィジュアルの二人を配した大成功で、原作も音楽も及ばぬ映画のバーチャル世界がハチャメチャの深奥に踏み込んだ美の市民権までを擁立したかに見える。本作はさらに大きな潮流として「ヴィジュアル万能時代」の幕開けを呼び起こすのだが、この映画が人間にストレートに突き刺さる「視覚」を通して問いかけているのは「こんな美少年美少女がこんなひどい目にあっていいの?世の中まちがってない?」という脱キリスト教的で新鮮味すら加味された不条理なのだ。そこで生まれた感性が欧米ではBBCが報じたジャニー 喜多川みたいな方への歯止めをなくし、日本では戦国大名の頃からあったものが美女、イケメンなら少々のことをやらかしても許されてしまうおかしな社会的風土の方へ行ったと僕は思っている。「美人なら旦那が逮捕されても問題ない?またテレビに出る?そんなことはない!」という理由が「彼女はよく見るとそんなに美人じゃない」だったりして、まあ僕にはこんなものまったくどうでもいいが、奥深い仏の悟りなのか国ごと不条理なのか皆目見当もつかなくなっている。
そうした時代の方向性にとどめを刺したのが、イタリアのエンタメ界のドン、ルキノ・ヴィスコンティ(1906-76)がマーラー5番の耽美的な旋律にのせて美少年を刻印した『ベニスに死す』(1971年)だった。このヴィスコンティという男、父は北イタリア有数の貴族モドローネ公爵であり、自身も伯爵でバイセクシャルであった。僕の中ではそのどれもがロシアの地方貴族の出だったセルゲイ・ディアギレフと朧げに重なる。どちらも貧しい美少年美少女を集めて囲ってマイ社交界をつくり、富裕層を篭絡し、バレエ、演劇、オペラ、映画などエンタメ産業の装置を駆使して大衆にまでアピールし、人類に名作を残した。ヴィスコンティはパルチザンを匿う共産党員だったが視点は怜悧なネオレアリズモのインテリ貴族だったのに対し、ディアギレフはビジネスライクで世俗的な人たらしのイメージがあるが両人とも大いなる成功者であった。
対してゼッフィレリは大衆が求めるヴィジュアルに鋭敏なセンサーを持っている、ヴィスコンティに憧れて囲われていた美少年のひとりであった。双方別の相手と婚姻中であったお針子の母親と服のセールスマンの父親の間の情事によって婚外子として生まれ、やはりヴィスコンティの取り巻きだったココ・シャネル(1883-1971)とも親密だった。シャネルは露天商と洗濯婦の子に生まれ修道院で育った孤児だ。お互いを憎からず思う出自であったろうふたりの共通点はそこから欧米の社交界の頂点に上りつめたことだが、出生時に戸籍を記した役所のスペルミスを終世そのまま姓に使った点もそうだった。もう一人、ヴィスコンティの取り巻きだった女性がいる。ニューヨークのギリシャ移民の子マリア・カラス(1923 – 77)である。J・F・ケネディの未亡人ジャクリーンと結婚するまでの大富豪オナシスの愛人であり、やっぱりゼッフィレリと親密になり、映画「永遠のマリア・カラス」が生まれている。
ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)の両親は宿屋主と紡績工である。出生時の名を父がフランス語で書いたためフランス人として生まれた。彼の音楽については文字を書く資格を僕は有していない。アイーダという彼の代表作をロンドンで1度だけ接待のため観ているがその1度だけであり、幾つか見たと言ってもチケットをもらったかお付き合いの接待か、少なくとも勉強しようと半ば義務感から自分で買って行ったのはリゴレットと椿姫とイ・ロンバルディだけで、どれも半ば居眠りしているうちに終わり、もういいやで帰ってきたのである。
だから我ながら今回の新国立劇場のアイーダを観ようと思ったのは空前のことだった。なぜか?ゼッフィレリの演出だったからだ。いま何がしたいといって、古代エジプトにずっぽり浸ってみたい、もうこれしかない。だって現代の世にこんな異界のライブ体験なんて、ディズニーランドに行っても味わえないのである。なぜ浸りたいかって、理由はない。僕は時々発作的にこういうことがあってひとりでふらっとバンコクやウィーンに飛んだりしている。パニックが怖いから飛行機は嫌なのに、それをも打ち砕く衝動というものには勝てない。でも今回は行ったって仕方がない、クレオパトラが出てきそうな古代じゃないとだめだから。
かくして思いは遂げられた。
これがオペラの醍醐味とまではいわないが、これを味わわずに死んでしまうのはもったいないとなら自信を持っていえる。総勢300人と1頭(白馬)が舞台をうめつくし、歌い、踊り、駆け抜け、トランペットを吹き鳴らし、生き物のように蠢く。この第2幕を9列目から眼前に眺め、空気の揺動を感じ、すさまじい気に圧倒され、ロビーで過ごした第3幕までの25分の休憩時間というもの、尋常ならぬ感動でずっと涙が止まらなくて困った。人間、求めていた図星のものを手に入れるとこんなになるのだ。後ろの席から「ここで終わればいいのにね(笑)」の声が聞こえ、なるほどと思ったのだろう、思わず僕は「これだけで3万円でも安いね」とつぶやいた。冒涜ではない、クラシック史上もっとも稼いだ作曲家への正当な賛辞と思う。
ヴェルディが「ヴェリズモ・オペラ」を書いたとするなら真骨頂は第3,4幕であり、第2幕は運命の暗転と奈落に落ちる前の束の間の歓喜だ。そこに人間劇はないし当時の饗宴を目撃した者などいないのだからレリズモのしようもないわけで、空想をふくらませて思いっきりラダメスを高く持ち上げておいて、後半でつるべ落としにする。その悲劇に三角関係の女性がからみ、地下の獄中死という更なる悲劇への人間ドラマに迫真性が増すという寸法だろう。だから、所詮は空想である饗宴という飛び込み台は高ければ高いほど効果的だ。
しかしここまで思いっきり持ち上げてしまうと、逆に、ラダメスがなぜアムネリスをふってアイーダに走ったか納得性が毀損するなんてことを考えてしまう。軍の機密を漏らせば英雄といえど死刑になる、彼はそれを知っている、だからこそ普通の男なら王女アムネリスとねんごろにうまくやって安泰じゃないのと思うわけだ(と思うのが僕を含む普通の男だろう)。「いや英雄は愛に生きるのだ。普通の男じゃないのだ」というならせっかくのリアルな人間ドラマに旧態依然で黴臭い「神話」がかったものが混入する。レリズモなんて嘘じゃないのと冷めるのだ。ということは、アイーダがそんなにいいオンナだったのだという、雑念を消すほどには納得性のあるヴィジュアルが求められるという一点に配役、演出の成否がかかる(ちなみにこの日はこれも納得で満足だった)。
この問題はラ・ボエームで顕著にあると僕はいつも思ってしまう。だから大好きなこの曲はCDで音だけきくことが多く、サロメやジョコンダのソプラノがいくら大きくてもそれはない。肺病で死んでいくミミに痩身で可愛いソプラノ・リリコを選んでしまうと、音楽的には最も肝心である第1幕の二重唱がどうかという作品自体に潜む現実的制約に悩むのだ。聴き手側に視覚と聴覚の調整を強いるキャスティングが「ヴェリズモ・オペラ」になるのかどうかという問題だ。しかし、ゼッフィレリ流は精緻なフェークに作りこまれたレリズモである。大人の妥協に波紋を投げかけるのだ。だからきっと、時代と共にタイプが変わる「美女のアイーダ」という制約条件に永遠につきまとわれるだろう。「ロミオとジュリエット」で「ヴィジュアル万能時代」への道を開いたツケが回ったわけだが彼は謎を残してあの世に旅立ってしまった。このオペラは面白い題材だったろうし、彼自身、高く評価したのはスカラ座と新国のアイーダだったときく。感謝の気持ちで書いておくが、このアイーダは世界のどのオペラハウスと比べても遜色ない。指揮のカルロ・リッツィが東京フィルハーモニー交響楽団(素晴らしい!)から引き出した音はスカラ座で聴いたものと変わらない。歌はアムネリスのアイリーン・ロバーツが印象に残った。
では最後に、ヴェルディについてだ。作曲料としてかなり法外な金額(今の1億5千万円)と、それに加えてカイロ以外のすべての上演料まで請求している。凱旋行進曲に華を添えるアイーダ・トランペットまで特注して盛り上げたかった彼がゼッフィレリの第2幕演出に反対する理由はなかろう。国会議員にもなって統一後のイタリアで「名士」に列せられた彼を聖人化して、そうではないと反論される方は、
最盛期には約670ヘクタールの土地(東京ドームのおよそ143個分)を所有していた(中略)最晩年のヴェルディのポートレートは、「作曲家」というよりもほとんど「農場主」そのものである(平凡社『ヴェルディ―オペラ変革者の素顔と作品』加藤浩子、根井雅弘評)
という意見にも反論する必要がある。というよりも、それが事実なら問題だ、不純だしあってはならないなどと感じる感性があるとすればそれは金儲けを悪とする日本的共産主義思想の産物でしかなく、才能あるイタリア人にそんな極東の特殊な思想があるべきと希求すること自体が国際的には理解されないナンセンスだから苦労して反論する意味もあまりないと思う。ヴェルディこそ、百年前の先人モーツァルトがコックのテーブルで食事させられて怒り心頭に発したことへの仇討ちをした人物であり、著作権の概念がまだ未熟だった時代に作曲家という高度に知的な職業の本質的価値を、契約法を勉強することで自ら経済的に実証した最初の有能なビジネスマンだ。天が二物を与えることを信じたがらず、どういうわけかそれを認める者を批判さえする人は各所にいる。メジャーリーグの古手の野球ファンにもいるにはいたが、大谷の活躍がそれを蹴散らした。僕はヴェルディをそう評価しているし、それが作曲家としての名声を高めこそすれ、いささかも貶めるなどとは考えない。
ゼッフィレリがアイーダ第2幕で造り上げた究極の豪奢は蓋し空想のフェークなのだが、大衆が求めるヴィジュアルに鋭敏なセンサーを働かせた微細にリアルで見事なセットであるゆえに、僕には人間が生きるためには不要なゴミであるという反語的象徴のようにも思える。観客に見せるためでなく正気でここまでやったのだとすればもはや喜劇ですらある。「喜劇と悲劇は裏腹だ」。ゼッフィレリがそう訴えたならコミュニストのヴィスコンティに近かったかもしれない。しかし、彼が師から受け継いだレリズモはヴェルディにこそ忠実だった、と僕は思う。その理由を氏素性に求めるのは酷かもしれないが、名誉も金も哲学もあったヴィスコンティにはやりたくてもできないことをゼッフィレリもヴェルディもできたわけだ。それは「ヴィジュアル万能時代」のような世の流れを大衆から読み取ることだ。本稿を書きながら、筆の流れでそんな結論に行き着いた。しかし、新国のロビーでワインを飲みながら、第3幕までの25分の休憩時間ずっと涙が止まらなくて困った僕も、読み取られた側の大衆の一人なのだ。ヴェルディ、ゼッフィレリ万歳!
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1989年は世界史の分水嶺である
2023 APR 7 23:23:58 pm by 東 賢太郎

1987
オイゲン・ヨッフム、 モニク・アース、 ジャクリーヌ・デュ・プレ、 ヤッシャ・ハイフェッツ
1988
エフゲニー・ムラヴィンスキー、 ヘンリク・シェリング
1989 (平成元年、「ベルリンの壁」崩壊、日経平均が史上最高値)
ヘルベルト・フォン・カラヤン、ヴラディーミル・ホロヴィッツ
1990 (東西ドイツ統一、湾岸危機)
レナード・バーンスタイン、 アーロン・コープランド、
1991 (ソビエト連邦崩壊)
ルドルフ・ゼルキン、 ヴィルヘルム・ケンプ、 ジノ・フランチェスカッティ
1992
オリヴィエ・メシアン、 ジョン・ケージ、 ナタン・ミルシテイン、 ニキタ・マガロフ
以上が著名クラシック音楽関係者の没年である。名演奏家が消え、1989年を極点として時代は転換していったように思える。
同年には昭和天皇、手塚治虫、松下幸之助、 美空ひばり、チビも逝去している(注・チビは高校時代からお世話になった猫)。世界史もこの年に「ベルリンの壁」崩壊という分水嶺を迎え、東西ドイツ統一、湾岸危機、ソビエト連邦崩壊へと雪崩をうつように急展開を遂げた。
そこから三分の一世紀。株式時価総額が米国のそれを一瞬上回ったがそれっきりだった日本国も、売り上げトップのカラヤン、バーンスタイン、ホロヴィッツを一気に失って救世主が出なかったクラシック産業界も暗黒時代を迎えている。
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ポジショントークやる奴は例外なくクズ
2023 MAR 14 2:02:35 am by 東 賢太郎

ポジショントークなんて英語はない。こういう和製英語を誰が発明するかは知らない。馬鹿がシミュレーションをシュミレーションと英語できます顔で言ってるのと変わらないレベルだが、要はそれが横行しているから名前が付くのだ。ポジショントークは自分が利益を得る我田引水の主張を気づかれないようにそれとなくすることで、誰が見てもその売り子ですよという者が堂々とやるセールストーク(これも和製っぽい。米語はpitchだ)とは異なる。
要するに、象徴的にいうなら、自分が持ってる株を「上がりますよ」と言って皆に買わせて株価を吊り上げようとする行為のことであり、そういう魂胆があるなら「それとなく」だろうが「堂々と」だろうが品性を問われることに変わりない。資産(持ち高)を “position” と呼ぶのは金融業界の用語であることから、和製英語「ポジショントーク」の発生源には我が業界が関与していた可能性は否定できないように思う(ちなみにこの業界はグローバルを気取る者の巣窟だが、英語がまともにできる者はほとんどいない)。しかし品性の是非はともかく、金融業界はおカネを商品とするそういう業界なのであり、嫌なら入るなというものだ。日本だけでない、この業界は世界的にそうであり、そこの住人である僕はその是非を論じる気はない(それこそポジショントークである)。
そうではなく、問題と思うことは、金融業界の住人ではない人たち、つまり社会的地位はあってもこの一点において僕の目には一般人、シロウトにすぎない人達が国会やテレビなどの公の場でポジショントークをしゃあしゃあと展開する風潮の世の中になってしまったことなのだ。立ち位置(例えば「私はこの会社の社員です」「その株を持ってます」)を明確にお断りしておいてからその会社をほめるならそれはセールストークであって許容される。さらにいうなら、自分で自分をほめる行為だって宣伝、広告、PR、マーケティングであって何の問題もない。しかし自分のポジションを隠しながら巧妙にそれをやろうとする魂胆(悪だくみ)があるのがポジショントークであって、一歩間違えば詐欺と変わらない。そういう輩が増えたことと、電話で老人を騙す詐欺師が増えたことは同根の社会現象と僕は考えている。理由は簡単だ。どちらも表向きはどうあれカネ目あてなのである。とすれば、金融界というカネを商品として扱って稼ぐそのプロの世界で100年かけて磨きぬかれた手法が世にはびこるのは道理があることだ。
しかし、カネが商品でない業界がそれを真似ることに僕は一抹の危惧を覚えざるを得ない。学生だった頃、「レコード芸術」誌の音楽評論を熟読しながら「推薦盤」の裏にコネの癒着はないか疑った。ひねた学生だったのは、受験勉強をしながら問題を作る側の心理を見抜く癖がついていて、評論家にそれを当てはめて文章を読んだからだ。個々の推薦に癒着はなくても、商品としてのレコードを論じる雑誌はレコード業界全体の羽振りが良いことこそ自誌の寄って立つ好適な「ポジション」であり、どれであれレコードは売れて欲しい、つまり “推薦盤” としたいバイアスが雑誌社にはあるはずだ。するとその会社にカネをもらって雇われる評論家にも「 “無印” はあっても “買うな” はない」(どのレコードも基本的に良いものだ)というバイアスがかかり得る。その意味で、癒着とまではいわないが共生しているわけだ。
演奏家のえこひいきぐらいは人間のサガで許せるが、カネ目あてになってよい業界といけない業界は厳然と線引きがある。いや、まともな国家であるならばなくてはならないのである。雑誌は所詮そういう性質のものだから前者で結構だが、芸術は後者である。アートの評価がカネで買えるなら文化は崩壊するからである。ましておや、国の会議、公共の電波を使うテレビ等でポジショントークをたれ流すとなると、その者は公共財を流用して世論を私利のため操作して我田引水を目論んでいるわけだから、それに成功しようがしまいが、その行為だけで国家が厳罰に処すべきなのは当然のことだ。その者をメンバーに指名した者、雇って出演させているテレビ局は、その者の魂胆(悪だくみ、疑似的詐欺)をシェアしていることにおいて同罪の共犯者であり、公共財を使用させる資格要件を本質的に欠く者であるという世論の審判を下さなくてはならない。
法人業務が大きな収入源である証券会社が書くアナリスト・レポートの「売り」推奨比率が圧倒的に少ないのも同じことだ。株式を推奨される法人が顧客でもあるからだ。僕は証券会社に入ってみて、左様なことがあまりに日常的に当然のように堂々と業務としてまかり通っているのにけっこう驚いた。これが社会というものか、世の中とはそういうものなのかと。しかし当時はまだ健全な世の中であったと感慨すら禁じ得ないが、それは社会でも世の中でもなく、株を売買してもらわないと収益があがらない「証券会社というポジション」の中だけのことだった。つまり売買手数料で儲けるというビジネス・ポジションを張っていれば、売りだ買いだと情報が飛び交う環境を作ることで注文が増えて得になり、それが法人業務の基盤にもなる。レコード業界の売上が多くないと売れない音楽評論誌と同じ理屈なのだ。だからそれはポジショントークになり得るが、証券会社は自己の立ち位置を公然と明かして堂々とやっており、社内では適切な用語で「セールストーク」と呼んでいたのである。
初めは抵抗があったがその理屈と業界のなりわいには一理あった。当時の東証一部の日々の出来高は3億株ほどで、それだけの売買量があるから企業は銀行借入れより低コストの資金調達を株式市場からすることができ、日本経済は1980年代に世界を驚かす未曾有の急成長を遂げることができたことは誰も否定できない事実である。もし最大手の野村證券が売買情報提供のサービスを止めれば出来高は5千万株もなかろう、それでは大企業の資金調達は無理だろうなと社内でリアルに体感していたのをはっきりと思い出す。だから大河の中の一滴に過ぎなくとも参加はしなくてはと、自分が良いと思う株を買ってもらうためにセールストークを磨こう、どうしたら投資を知らないお客様に心から理解、納得して買っていただけるだろうと日々研鑽を積んだ。
だから僕はポジショントークをやろうと思えば苦も無くできる。プレゼンというのは何か商品やコンセプトを買ってもらう目的でやるポジショントーク全開の場であって、それは息をするぐらい自然にできるプロとして長年この業界を渡ってきたし、何より海外で食うか食われるかの交渉をする場で野村の利益を守る最強の武器としてもワークした。しかしその技術は自社の利益や自分のボーナスに直結するものの、基本的には資本市場が健全に働く公益のために使用していると少なくとも自負してきたし、しなくても常にそうすべきものなのであって、私利私欲だけの目的で使えば下賤になりかねないという倫理観を伴うべきもの、空手やボクシングの選手が喧嘩に技を使ってはいけないような性質のものだと思っている。
僕が証券会社を辞めるに至ったのは、自分も、どんなに偉そうなことを言おうと所詮はさもしい金融業界の人間のひとりと悟ったからだ。「公益のため」のはずが「会社のため」「自分のため」にだんだんグレードダウンしてしまうのはどうしようもなく、放っておけば自分の中で正当化できてしまい、生きるためなのだとそのノリを超えている自分に気がつかなくなっていると危惧したことが大きい。つまり、「自分が良いと思う株をお客様に買ってもらう」といいながら、理由はともあれ、アドバイスするだけで自分は買わない証券マンという職業は倫理に欠けると思うようになってしまったからだ。だからソナーはアドバイザーと名乗りながらもまず自分が投資家であり、自分が買うものだけをお客様にすすめて同じリスクを取る。それを明かすのが自分が取るべき「ポジション」だと考えて起業した。ちなみにブログを実名、履歴を明かして書くことにしたのも同じ考えからである。
ところが僕の行動とほぼ軌を一にして、真逆の現象が世の中の目につくところにはびこりだした。私利私欲だけのポジショントークを弄する者がそこかしこに跋扈(ばっこ)しだしたのである。1億総証券マン時代かと目を見張るばかりだ。それも、どこで覚えてきたのか、笑ってしまう稚拙なレベルで堂々と国会やテレビのコメントや討論番組でその下衆な魂胆が開陳され、本人は自分が張っているポジションへ巧妙に利益誘導したつもりが恥ずかしい馬脚だけが現れ、醜態をさらして自ら株を下げているというたぐいのものが多いのである。それでいて本人はどうだ賢いだろう、議員や知識人として賢く見えてるだろうと得意がっている風情があって、まさに英語のつもりでシュミレーションを連発してる馬鹿に等しいことを知らない。
断言するが、私利私欲のためだけにポジショントークをやる奴はウソつきであり、例外なく人間のクズである。これは古今東西、まともな人が他人を評価する恒久的鉄則なのである。自分のポジションを相手に悟られると計略がバレるからそれを隠しながらトークをやるわけだが、それがみっともないことだと気づく品性どころか見抜かれてるかもしれないと警戒、自省する知性すらない。こういう者が選挙で圧勝したりテレビでお茶の間の人気者だったりし、わーわーうるさいだけで何言ってるかわからない不思議ちゃんが不思議ちゃんにウケてるこの国の民主主義は大丈夫だろうかと有権者が考えないのも実に不思議である。連中をはびこらせているのは国民なのだ。国民の20%も投票してない政党が万年与党であり、それはおかしい、打破するぞと勇ましく言うのが仕事であり万年ポジショントークである野党はビジネス左翼の利権を守るだけ。異次元の不思議な国だ。
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「陰謀論だ!」という陰謀論について
2023 FEB 26 22:22:35 pm by 東 賢太郎

陰謀論というのは陰謀のことではない。何らかの事件が発生し、「その裏には陰謀があったに違いない」と疑義を唱える企み、行為のことをいう。
そこで、陰謀を練った方を「陰謀側」、「陰謀があったに違いない」と疑義を唱える方を「懐疑側」、どちらでもない者を「中立者」と呼ぶことにする。
「陰謀側」は世論操作によって多数派を占め、少数派の「懐疑側」を貶め、侮蔑する含みを持って否定するのが一般的だ。
ところが、「懐疑側」が挙げる証拠に信憑性のある場合は、だんだん多数派の数が減っていき、やがて、「陰謀論だ」と批判する「陰謀側」の行為の方がむしろ陰謀論に見えてきてしまうという逆転現象がおこることがある。
特に、「懐疑側」の証拠の信憑性が科学的である場合、反論を試みれば試みるほど「中立者」に非科学的な印象を与えて不利である。よって「陰謀側」はあらゆる手段で懐疑を無視し、封じ込め、脅し、抹殺することに全力を傾注する。
ところが、それが全力であればあるほど陰謀の露呈を恐れていると「中立者」には見え、陰謀の存在がより強く推察されてしまう。このジレンマを避けるため「陰謀側」は行為後にすみやかに科学的証拠を隠滅することに全力を尽くす。
万一、証拠が残ってしまった場合は、論争の途中で意表をついて、自らの陣営が「懐疑側」に組して見せることで、「中立者」の目に、あたかも別の「陰謀側」がいたかのようにふるまう “分身の術” を弄することがある。
分身を演じる者がうまく立ち回って「中立者」の支持を得た場合、そちらに合一してしまうことで「フェイクの懐疑側」となり、「陰謀側」に疑義を呈して裁くふりをすることで虚偽の真犯人をでっちあげることができるからである。
分身を演じる者は必ず「陰謀側」の一味であるから陰謀の全貌を絶対に明かすことはない。単なる「おとり」であり、「中立者」をミスリードする「レッドへリング」にすぎない。従って、支持はせずに無視しておけばやがて自ら消える。
分身の演技に疑義が持たれる危険性がある場合、「陰謀側」は「第三者委員会」という名称の分身を組成して演技を続行する。第三者性の不在証明は致命傷になるため徹底管理される。この場合は「中立者」の眼力が問われる。
科学に疎い「中立者」が大多数である場合、宗教、憎悪、憐憫など情緒的根拠を針小棒大に報道することで科学的論理性を糊塗する戦略は有効である。論理は経年劣化しないが情緒はするので、「なかったことに」で封印できるからだ。
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東京芸大の練習室ピアノ撤去
2023 FEB 20 12:12:22 pm by 東 賢太郎

これを知ってどう反応するか。国の財政緊縮の一環と思うか、文科省の都合と思うか、保有台数に無駄があったと思うか、学生に同情するか、芸術の未来を心配するか。僕はどれでもない。報道によると芸大は「大学全体としての経費削減」「台数は十分確保されている」としている。2部屋のピアノを撤去して減る経費など微々たるもので、大学の予算削減策への抗議かもしれないと推察するが、それ自体は大した問題でもなかろう。問題はもっと大きなものだ、それを述べる。
国立大の授業料は年額53万5800円(標準額)だ。僕の代は3万6000円で、S51年入学者から9万6000円になり、10年後は7倍になり、いまは15倍だ。それでも私立よりは4割安い。学生には結構だが教職員は困る。東京芸大教授の最高年収(たぶん学長)はネットで見る限り1,359万円、東大総長は2,396万円だ。公務員とはいえ実業界なら課長、部長ぐらいの年収であり、役職の重さからしてこれはないだろう、名誉はあっても本当にそれで満足なのという気がどうしてもしてしまう。
ちなみに、大学院ではあるが、ペンシルベニア大学ウォートン・スクールの年間授業料は1,100万円ぐらいで日本の15~20倍だから教授も当然それなりの人がそれなりにもらっている。芸大や東大の先生も人間だ。カネだけではないというきれいごとで自分も世間も納得という時代は昭和でとっくに終わっている。高給も名誉も得られるそのポストを熾烈に争うウォートンの先生達の講義の質・量・熱は異次元の凄さであり、あれを体験してしまうと、年収20万ドルでやってくれといって応じる先生は世界にひとりもいないと確信できる。だから生徒も全米トップクラスが集まる。あまりにわかりやすい世界なのである。先生がそうなれば日本の大学にも優秀な留学生は集まるし、世界ランキングも勝手に上がるだろう。
国立大学法人も広義の独立行政法人だから自力で稼げ、運営費交付金は減らす。というなら芸大が国立であることはハンディである。なぜなら日本の公務員の給料で集まる先生しか雇えないし、当然優秀な方ばかりであるはずだがその限りのモチベーションでいいというカルチャーになってしまうだろう。その条件でウォートンと競うビジネススクールを日本に作るなどといえばジョークのネタだ。校名のブランドがあるだろうといって、芸大も東大も海外ではブランドでも何でもない。井の中の蛙である役人と大多数の国民がそう思っているだけであり、それが世界大学ランキングの順位なのだが、あれは英米だけの評価だと主張する人に評価されるなら無理難題だ。だから学長は経営者でなくまとめ役になり、とすれば1,359万円だろうという役所的な整合性が取れてくるという寸法なのである。
たとえば日本同様にクラシックの本場でないアメリカのカーチス音楽院はバーンスタイン、チェリビダッケがふらっと来て学生オケを指揮してくれる。そういう環境があるからユジャ・ワン、ランランみたいな留学生が来て世界で活躍し、母校のブランド価値を高めてくれる。アメリカができるのだからその環境が日本にあっても全く不思議でないが、給料安いけどゲーダイですよでは世界トップの人達は動かないし生徒も世につれてだんだんそうなる。現に先のショパンコンクールで2位、4位の歴史的快挙を成し遂げた反田恭平、小林愛実は二人とも桐朋出身だ。現実を直視せずにお役所仕事につじつまを合わせざるを得ないなら、授業料に上限がありファイナンス面の足かせもある芸大の経営は誰がやっても難しいだろう。
僕は昔に入りたいと思った芸大には思いがある。だから期待している。日本トップクラスの才能である学生たちに世界に雄飛して欲しいという気持も強く持っている。練習室のピアノ2、3台ぐらいは「ショパンコンクール優勝します」プロジェクトでも立ちあげてクラウドで投資してもらえばどうにでもなる話だ。そのぐらいのコミットメントとモチベーションをもってやれば、音楽に限らず何をやっても世の中は若者を応援してくれると信じている。
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無力で堕ちていくだけの日本は見たくない
2023 FEB 19 11:11:40 am by 東 賢太郎

地球の人口は80億に接近中だ。我々までの4世代で50億増えたが、過去5千年間に1万4500回の戦争で35億人が死んでいる。世界には核弾頭が19000個以上あり、核戦争をすれば人類が20回滅亡してまだ余る。確実なのは、9億年後に地球の温度は摂氏100度になり人口はゼロになることだ。そこで人類は消える。何もしなければだが。
何かできるのだろうか。オランダの会社が火星移住の希望者を募集した。火星から地球に戻ることは現在の技術および資金的に不可能だが20万人いた。NASAは火星に1トンある無人探査車を着陸させるプロジェクトに3000億円かけた。人類が消えないためだが、探査車の名称はいみじくも「キュリオシティ」(好奇心)だ。新大陸の次は火星かと思うと、西洋人の生きることへの執念を感じる。
1960年代は米ソの宇宙開発競争の時代だった。有人月面調査の「アポロ計画」は1961年から1972年にかけて実施され、1968年に『2001年宇宙の旅』を米国のスタンリー・キューブリック監督が、1972年には『惑星ソラリス』をソ連のアンドレイ・タルコフスキー監督が発表した。日本で流行っていたのは『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』である。リスクをかえりみず冒険する者が世界にはいる。9億年後はともかく冷戦の対立で核を撃ち込まれることだけは米ソともに恐れ、それが動機となった宇宙開発競争で科学技術は大きく進化した。ロケットに核弾頭を積めば敵を殲滅できるという示威活動であり、いまそれを北の国が盛んにやっている。気球も武器だ。18キロ上空になると沸点は36.5度と、撃ち落とすにもパイロットは命の危険にさらされる国防問題だ。
2月17日、JAXAのH3ロケットが上がらなかった。「失敗」かどうかで騒いでいるがそんなことはどうでもいい、これが知能が劣る日本のマスコミだ。翌日、ザマを見せつけるように北の国はICBM級のミサイル1発を日本の排他的経済水域(EEZ)内の日本海に撃ち込んだ。平壌国際空港から発射され最大高度5768・5キロまで上昇し、989キロを1時間6分55秒間飛行し、北海道の西わずか200キロの日本海の公海上の目標水域を正確に打撃した。なんでこの技術格差を騒がないんだこいつら、馬鹿としか言いようもない。何度も書いてきたが、日本は理系大学、学部に国家予算をつぎ込むべきだ。ただでさえ高等教育補助金は先進国でドベから2番目なのだ、どうでもいい文系は削って理系学生を増やさないと国が滅ぶ。観光立国?ジョークやめてくれ。数学もやってないド文系のアホな議員や記者ばかりになるからそんなことがまかり通るのである。
政府の仕事は国防と外交だ。地方自治体にないのはそれだけだ。外交はいまだサンフランシスコ講和条約前と変わらん位置づけなのだという事実を再認識させるばかりのていたらくでおぞましいにもほどがある。国防は自国に最先端科学技術の分厚いベースあってのことだから末恐ろしい事態であって、とても零戦を作った国の話とは信じ難い。戦争ができない国になるとここまで墜ちてしまうのか。明治の元勲たちは若かったがリスクに鋭敏で、阿片戦争を知り日本もああなると踏んだ。英国、ドイツに出向いていって法律と科学技術と軍事を学び、10年で100年の遅れを取り戻して近代国家になった。頭脳も行動力もあったが、危機感こそが動力だった。
今はそのぐらいの危機である。日本の国会議員は713人もいるが、この人たちはいったい何をやってるんだろう。2年前に僕は東京五輪に大反対のブログを書いたが、案の定、ふたを開けてみれば贈収賄、税金の中抜き、無責任のオンパレードだったことが白日の下にさらされた。国が大事なら科学技術、理系学生につぎ込むべき税金をこんなくだらないものに使い、開催地なのに何ら見られもしなかった東京都民は税金をふんだくられただけだ。何の情報もない僕にすら臭いにおいがプンプンしていたのに国会議員は何もしなかった。いま、国の未来を左右する危機のニオイがプンプンだが、また何もしないのか。ならガーシー議員と何が違うんだ、出てくりゃいいってもんじゃないし参議院はいらないだろう、議員は歳費をドブに捨てるだけだから定員を半分にしてくれ。
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縁故主義とオンデマンド社会
2023 FEB 14 10:10:06 am by 東 賢太郎

縁故主義のことをネポティズム(nepotism)という。親の七光り、縁者びいきというやつだ。直訳すれば「甥っ子主義」「姪っ子主義」で、悪いニュアンスばかりに使われるが、一概に悪いかというとそうでもない場合はある。信頼できる腹心が周囲にいることはトップになると助かるし話も速い。仕事が効率的になるなら組織にとって悪くないから息子が秘書でもネポティズムといわれないこともあろう。
ただし、それは論功行賞が公平な場合に限ることは三国志の故事である『泣いて馬謖を斬る』が示している。諸葛孔明は命令に背いて戦に負けた愛弟子を処刑した。守ったものは「軍律」だ。それが有能な部下より大事という見せしめであり、だから孔明自身も軍律に服して三階級降格の罰を受けている。評価が公平だから家来は死に物狂いで戦い、孔明は名を成した。後世にバカ殿による論功行賞の失敗がたくさん起きたから、この史実が戒めの諺となって1800年間も語り継がれてきたのではなかろうか。
すなわち、「論功行賞が不公平」=「軍律はありません」という表明なのだ。ということは殿を縛る軍律などましておやあるはずなく、論功行賞は殿の好き嫌いで、好かれれば何でもやり放題になり、人間の汚い本性が出て自分に甘く、縁者に甘く、七光りの馬鹿息子が何の苦労もせず跡を継ぐ。この腐臭ただよう事態にネポティズム認定の鉄槌が下るのだ。だからキリスト様は「縁故などというものは正しい信仰の敵」と言い放ち、信仰組織が世襲制によっていつしか自分の子供ばかりを偏愛する者たちの巣窟のようになってしまうからカソリックの聖職者は結婚したり跡継ぎの子供を作る事は認められていないのである。宗教を引きあいに出す気はないが、人間の本性と組織の関係を鋭く射抜いた例ではあろう。
昨今の我が国において経済は一向に成長しないが、ネポティズムだけは順調に芽を伸ばしているように思える。真面目に汗水たらして働かないと給料は増えないが、国民から搾り取った税金をむさぼるのに労働はいらない。いるのは仲間の数なのだ。そこで「愛(う)いだけでオッケー」の集団が生まれる。数が欲しいのだから縁故すらいらず、「愛い奴」であれば実績も能力も知力も不問というユルユル集団であって、厳密にはネポティズムですらない。そこでこれをクローニー(crony、気のおけない仲間)と呼んだりもする。まあ要するに、多数決=権力である資本主義に “寄生” することだけを目的とした松食い虫の群れみたいなものである。この連中が繁殖して樹液を吸えば、いうまでもなく松は枯れる。
真面目に頑張って戦果をあげる者は実績も能力も知力もある。馬鹿の出世に不満だから反旗を翻すしかなく、必然的にボスには「愛くない奴」になって排除される。「愛い」だけが取り柄の集団にとってはざまあみろブラボーであり、ボスも歓声を浴びて地位安泰になり、全能感にひたってますます道を誤る。軍であればさように有能な武将たちがやる気をなくせばボスも命はないが、近代国家は法が統治する一種のマシーンであるから、この無能集団がコックピットに入ってハイジャックしても飛行機はとりあえずは落ちないのである。だから無能な武将ばかりになってもしばらくは安泰で、自分の寝首を掻かない者で周囲を固め、任期中だけは落ちるなよで済ます者が百出する。我が国の「平成の大失速」、「失われた30年」はこうしてもたらされたのだ。
その集団が権力を持つと指導原理は「愛い奴よのう」から「おぬしも悪よのう」に軽いタッチで変異する。縁故など元からどうでもいい。税金にたかる利権という樹液を吸うだけを絆とした松食い虫の大群になり、ボスが後ろ盾で守ってくれるから談合、中抜きやりたい放題。更に図体は太る。ボスの一族はそのコロニーの女王蜂みたいになって疑似皇族的な世襲貴族となる。これが我が国の現状だ。政治家というファミリービジネスは世代を超えて税金にたかるが、自分の相続は「票田」だから税金は払わない。資産は世襲で目減りせずに女王蜂は何代でも生きのび、得体のしれぬ宗教まで動員してますます数を増やす。幹のど真ん中に “寄生” しているのだから駆除は大変に困難なのである。
ネポティズムは一歩間違えばこうした悪を生む有力な原因にはなるが、くりかえすが一概に悪いかというとそうではなく、国であれ企業であれ全体の利益のために効率的な場合はある。一族経営の企業がその例だ。見ず知らずの株主に無用の批判を受けたりハイジャックされたりするぐらいなら上場は見送って堂々とネポティズムで行こうという高収益企業はいくらもある。それが悪なら会社は潰れるはずだが多くがうまくいっているのだから、一般論で悪だというのは左翼が階級闘争とごっちゃにして騙そうとしている証拠で全くの見当違いである。
ネット社会にそれがどれだけ耐性があるかは未知数だ。ネポティズムは組織が盤石で無能でも勤まるポストがあることが大前提だが、仮にあっても周囲が離反すればワークしない世の中になりつつあり、やがて来るオンデマンド社会ではポストに好適な人材はポストが決めることになる。たとえば管弦楽団で第1フルートが定年になる。日本的感覚では第2奏者が昇格しそうだがそうではない。第2奏者が第1の息子であっても関係ない。第1の公開オーディションをするのだ。オンデマンド社会ではこれがそこかしこで起きる。少なくとも高年俸のポストは業界関係なくそうなる。第1は第1の格の人が吹かないと楽員の賛同が得られないし、楽団ごと質が落ちて全員が失業する可能性があるからだ。
つまりオンデマンド社会はネポティズムと相性が悪い。おそらく後者は衰退していくだろう。政治家が息子を秘書にしても、彼が有能であって公平に評価されれば構わないが、そのことは父親でなくネットを通して国民全員が審査することになり、無能がバレれば私刑と呼ばれようが何だろうが袋叩きにする。今のところは大手メディアが「報じない」という情報操作をして守っているが、そんなことをするメディアは食えなくなって先に消える。公人だとネットで炎上すれば有名税だねざまあみろで終わり。書き込みは末代に残る恥辱となる。これが良いことかどうかは言論の自由を規制するかどうかの問題であり、法的に処理することは中世的ガバナンスのまかり通る国家でなければおそらく困難だろう。とすると公人となって国のために活躍して勲章をもらうことのリスク・リターンのバランスは変容するだろう。ネポティズムの評価同様に一概に2世3世議員がいかんということはないが、現状は無能なのがたくさんいる。日本という国が盤石でそれでも勤まるポストだったからだ。松が元気な時代はもう終わっている。
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森保ジャパンに見た日本人の進化
2022 DEC 7 13:13:26 pm by 東 賢太郎

これまでもワールドカップ(WC)はそれなりに見てはいましたが、そもそも今回ほど真剣にサッカーを見たことも応援したこともありません。それほど森安ジャパンの大活躍は社会的にも大きなインパクトがありましたし、僕個人においてもこの競技の面白さを存分に教えてくれたという意味で忘れられないものでした。クロアチア戦については非常に残念だったしいろいろ思うことはあります。しかし負けて一番悔しいのは選手です。それを我々も分かち合えばいいし、それが彼らへの一番のリスペクトとねぎらいでしょう。必ずや彼らは再起して4年後にまた力強く戦ってくれると信じます。
救いというわけではありませんが、今朝はあのスペインも、モロッコ戦で120分の激闘を0-0で分けた末のPK戦で負け、姿を消しました。ただの負けではありません。ひとり目はゴールを外し、あと二人も連続で止められて3-0の完敗。強豪の茫然とした表情に、ある意味でスポーツの残酷さまで見た思いです。スペインですらPK戦は4回やって3敗、これで5回やって4敗になったわけです。勇気をもって蹴った日本のキッカー達が何ら恥じることもありません。これを糧に徹底的にPKの技術とメンタルを鍛えればもっと勝てるとポジティブに考えればいいのです。
今回の日本チーム、選手たち自らが史上最強と評してましたが、それは勝って結果がついてきたからでもありましょう。優勝経験のあるチームが2つある唯一の組で1位通過はたしかに日本サッカーの歩みの延長線上では歴史的サプライズですが、75%がWC未経験の選手でそれを成し遂げた、このことはもっとサプライズではなかったかと僕は思うのです。経験者に頼ることをせずリスクを取って若手を選抜し、見事に束ねきって勝った監督の眼力、マネジメント力あってのことでもあったわけですが、そのポストにあった森安氏の資質が時流にぴったりだったという評価をしても彼に失礼にはならないと考えます。
その抜擢にこたえ、未経験をものともせず、強豪に気おくれなど微塵も感じさせず堂々と渡り合った20代前半の頼もしい若者たちがそこにいた。このことが僕にどれだけ勇気をくれたか。過去にも多くの名選手はいましたし、僕は本田選手の大ファンでもありますが、5人入れ替えてもチーム力が落ちないほどの人数はいなかったということです。多くが欧州プレミアリーグでもまれて層が厚くなったのでしょうが、実力がなければ行けないわけだし、行こうという気概があることが素晴らしい。ビジネスに生きてきた人間として、商社に入った人が海外勤務は希望しない、学生の一番人気は地方公務員という時代に何という光明だろうと感銘を受けたのです。
僕はWCで負けるたびに「フィジカルのハンディ」という声が聞こえてくるのが残念でなりませんでした。それを言いはじめたら百年は勝てないわけです。しかし今回、身長差のデータは示されていましたが少なくともそういう声はあまり聞きませんでしたし、見る側も「3センチの差か、だからなんだ?」と落ち着いていられた。これ、大変なことだと思うのですね。それを確認したのが森安監督のいう「世界で戦える」「新しい景色」だったかもしれません。でも、堂安のコメントを聴くたびに思ったのです、監督、もうそんな時代じゃない、彼らの世代はでっかい外人にそもそもビビってないぞと。
例えばドイツ戦の浅野のゴールです。僕が言うのもおこがましいのですが、日本サッカーはこんなに進化していたのか、フィジカルの気おくれなど微塵も感じさせないじゃないかと驚きました。たかが一つのプレーかもしれませんが、ドイツのディフェンダーに背を向けてロングパスを受け、潰しにくる彼を左手で押えておきながらゴール前まで攻め込んで世界トップのキーパーを出し抜いた。この個人技は技術もさることながら目線の高さにおいてもうワールドクラスでしょう。クロアチア戦で見せた三苫の快速のドリブルとシュートもそうですね。そういう心身両面にわたる進化がなければドイツ、スペインに勝つ確率は非常に低かったろうし、それはフロックでなかったということです。
僕のようなにわかファンさえそう見たのだから、多くのサッカーファンの皆さんがベスト8に期待したのは当然ですし根拠のあることです。でも、完全な個人技であるPK戦は別物だったのですね。欧州のプレミアリーグではあまり蹴る立場にはないんでしょうか、練習は充分でも修羅場でのここ一番では経験不足に見えました。かたやクロアチアは百戦錬磨の自信と余裕がありましたね。あれではどんな勝負でも負けます。でもくりかえしますが、あのスペインでもアフリカ勢、アラブ勢として唯一勝ち残った新参者のモロッコにPK戦で零封されたのです。だからそれを4年後にやればいい。良い課題が残ったと考えればいいのです。
世界トップレベルの戦いでそうそう一気に頂点に行くのは無理だ。僕ら昭和世代の常識ではそうです。何事においてもそういう思考回路が働いてしまうのがこの世代なのです。今大会、日本の若者にその常識を当てはめてはいけないことを悟るべきでしょう。僕らは太平洋戦争に負けた次の世代です。育った時代による思考の制約というものがどうしても働きます。欧米には勝てないんだ、戦争は二度とするなと骨の髄まで叩きこまれているからです。戦争についてはその通りです。いかなる時代であれ国家の利益のために人殺しをしてよいはずがありません。しかし、欧米に勝てないは余計だろう。アウエーで16年仕事をしていたものですから長らくそう思っていました。だから「フィジカル」という言い訳が聞こえてくるサッカーはあまり好きでなかったのです。
なぜなら大相撲をご覧ください。そんな言葉は辞書にないわけです。「柔よく剛を制す」がモットーである柔道にもありません。それが武士道にもつながる古来からの日本人の誇るべき精神であって、だから科学技術で欧米に300年も遅れた国が明治維新をおこす気概を持っており、ちょんまげを切ってからわずか30年あまりで列強が脅威に感じるまでになった。その過程で国家による人殺しが盛大に行われたわけでもない、まさに世界に類のない格別に徳のある立派な国なのです。このことを我々は再認識すべき岐路に来ていると強く感じています。それを過信して戦争に負けたじゃないか。たしかにそうでしょう。だからこそその敗戦から学ぶべきでなのであり、お手軽な観光立国などでなく、徹底した科学技術立国であることを貫徹すべきなのです。
柔道の体重別階級制は国際競技にするために欧米人が作ったのです。本来それをハンディと見ない我々には余計なお世話なのですが、昭和の教育を受けた我々は敗戦国教育のたまもので格闘技でもない競技でさえフィジカルのハンディを自分から言うようになってしまった。弱さの言い訳でなくて何でしょう。戦う前から負け犬なんですね、アメリカに住めばわかりますよ、なにより、当の彼らがそれをアンダードッグと呼んでいちばん馬鹿にしてるわけです。それに何の疑問もなく甘んじてしまう、そういう精神構造に仕上げられてしまった我が世代の情けなさ。僕もそうだったのです。だから経済大国ともてはやされると勘違いして有頂天になり、その座を追われるとシュンとなってしまうのです。
皆さん、試合後の代表選手たちの立ち居振る舞いに何を感じられたでしょう。彼らは終わったことに捕らわれず、何が足りないか、次は何をすべきかを勝っても浮かれずに淡々と語っていました。そこまでして戦った者だけが絞り出せる敗戦の弁も、そのずっしりとした重みに老いも若いもないと感じました。彼らに昭和世代の負の先入観はなく、のびのびと世界に雄飛してくれ、40代になる20年後にはサッカーのみならずすべての面において日本を真の一流国にしてくれる。そうなれるように背後から彼らをサポートしてあげるのが我々世代の最後の仕事である。そう思った次第です。
監督、そして選手の皆さん、身を削るような努力で4年の準備を重ね、これだけの堂々たる成果をあげて日本を明るくしてくれました。お疲れ様、心から感謝します。
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永遠に讃えるスペイン戦の勝利
2022 DEC 3 17:17:51 pm by 東 賢太郎

サッカーは何もわからないが、それでもスペインに勝つわけないだろうぐらいのことは思っていた。コスタリカ戦はいけるかもと思って期待して見ていたが、昔の弱い日本サッカーを見ているようだ。ああこりゃだめだで終わってしまい、なんだか世の中もドイツ戦で盛り上がった分だけ盛り下がってるではないか。TVではスペインの3トップの移籍金が合計で277億円だなんてやっていて全日本OBの解説者が聞かなければよかったですなんて笑ってる。コスタリカに1-0で負け、スペインはそれに7-0で勝った。じゃあ8-0かなと思った。
それでも気にはなって午前4時まで頑張ったが、前半はほとんどボールを支配されっぱなしであっけない1失点。やっぱりねとなって、3-0で負けならオッケーかなと寝床に入って熟睡してしまった。そうしたら「たいへんたいへん、逆転してるよ!」と娘に叩き起こされるのである。後半の半分ぐらいからアディショナルタイムの7分まで、わくわくどきどきしながら見守った。やった!この瞬間に立ちあえてよかった、娘に感謝だ。この勝利は一生忘れないぞ。ほんとうによくやってくれた!!
堂安、田中碧のゴールシーンは録画で見たが、何度見ても胸がすくほどすばらしい。三苫の折り返しがインプレー判定となったのは執念の証しである。ドイツ戦の浅野の2点目なんてのは、ああいうのはブラジルやスペインの肉食系のやつしかできない、農耕民には無理だなんて思いこんでいたプレーであって、何とスペイン戦でも8割の時間ボールを支配されながら間隙を縫ってそのレベルのを2つも決めてる。堂安の落ち着きはらった左足なんか世界レベルでなくて何だろう。
もう嬉しくて感動の極みだ。日本の20~30代の若い子たちが世界でここまで躍動し、何の臆面もなく堂々たる勝負をくり広げ、世界の超一流を完膚なきまでねじ伏せて「死の組」を首位通過。凄いとしか讃えようもない。こんなことは、サッカーに限らず、僕らの世代ではぜんぜん無理なことだったのである。完全に脱帽だ。日本人は劣化していると思っていたが、とんでもない、劣化していたのは我が世代であって、若者は進化している。
今年は暗いニュースばかりでなんにもパッとしたことがない、村上の三冠王ぐらいかなと思っていたら流行語大賞がそのものずばりの「村神様」である。それほど村上が凄かったわけだが、ここまでそれかよと案の定すぎてかえってその他の暗さが引き立ってしまうところに現状の日本社会の病気に近い閉塞感を覚えるのは僕だけだろうか。
現にコスタリカに負けると一部の選手を批判する書き込みが乱れ飛んだらしく、田中碧選手が「同じ国民なのになぜ一緒に戦ってくれないんだ」と嘆いていたと聞く。まあ期待の裏返しでもあろうし、どの国でもそんなものかもしれないが、いまの日本にはコップに半分の水を「まだ半分もある」でなく「もう半分しかない」と見てしまう空気が充満してる。それを思いっきり打破した選手たち、ありがとう、ここぞで勝てる日本を証明してくれた君たちが誇らしい。僕は心の中に君たちの銅像を建て、永遠に讃えるぞ。
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親ガチャの功罪(その2)
2022 AUG 18 0:00:32 am by 東 賢太郎

人生は祭りだってイタリアの映画監督フェデリコ・フェリーニは言ったんだ、俺もそう思うね。望んでどうなるもんでもない、祭りと思ってれば無理に頑張んなくなるしいつ死んでもケリつくし
あれっ、そういえば、安倍さん同い年でしたっけ
はい、あっちは29年。ショックだよ、同期だったってだけなんだけどね
わかります、自分もありますよ同期には意識が
30年生まれは郷ひろみもそうだ、彼には負けてるな
どうしてですか
だってカッコいいだろ、それって俺の世代の男の絶対的ベンチマークなの。それで負け、収入も負けだよ。完敗だ
そうか、カッコいいとイケメンは違うんでした
もちろんよ。冴えない奴は最低、俺なんかいつでも気持ちはカッコよくいたいね。ゴッド・ファーザー、ドン・コルレオーネ路線でね
ヤクザもの好きですもんね(笑)
うん。ならここは筋通してもらいますよぐらいは平気で言ってるし
けっこうビビります
基本、静かに言葉でいくんでね。弁護士の鼻先で「これ何でしたっけね」ってビリビリって契約書破いたし
う~ん、ナニワ金融道だ
本気で怒ってたんだろうねよく覚えてないけど。でも鬼軍曹みたいなのは嫌いなんだ、机ぶっ叩いて怒鳴ったり、カッコ悪いよね。俺、成城学園だからさ、やっぱ品格ってのはね(笑)
でも証券会社の支店はどうだったんですか、当時は特に激しかったんじゃ
そりゃあもう。営業場で灰皿砕け散ったし鉄拳も飛んだ。だからあとで「ナニワ金融道」読んだらあるあるの嵐でさ(笑)。でも俺はなぜかそういう風にはならないの。2年半支店にいたけど楽しかったね。送別会、居酒屋で大勢でワイワイやってくれて、最後にスピーチしたら全員泣いて俺も泣いて、そんなんだった
どうして入社されました?
そういうとこだって知らなかったの(笑)。生きのびれたのはお客さんのおかげだよ。世の中にこんな凄い人がいるのかってね、他じゃ絶対にわからなかった。あの2年半のお釣りでその後の人生あるようなもんだよ
ブログで読みました、あの鉄砲屋事件のことですか?
そう、例えばあの任侠の親分ね、俺、お宅に夜中の2時までいて真剣に殺されると思ったからね、すげえなこの人ってなっちゃったよ。目の前であれ見たらヤクザ映画なんて可愛いくってさ
とても成城と思えません(笑)
でもね、そういう空気の中で毎日を送るってのは若い時は大事なんだ。先輩だろうが同じ釜の飯ですっぱだかでつき合ってるんで、みんなお互いの酸いも甘いも実力も知っててね、そういう集団じゃないとできない質の仕事ってあるよ
例えば?
チームプレーだから一人へこむと誰かが埋めなきゃいけない。よし俺がってやるでしょ。俺がへこんだ月は心配すんなって先輩がね、絶対に言っちゃいけないんだよ、目だけでさ。そこがいいだろ。こういうチームはスポーツでも強いんだ
ちょっと軍隊っぽい感じですかね
戦争は行ってないから知らない。仕事なんて命取られないからね、戦争をそんな軽々に語っちゃいけないよ。でも、俺、仕事で何十回も韓国行ったよね、で、あっちはみんな30前に軍隊2,3年行ってるの。だから鍛えられてわきまえてるんだね、俺みたいな男の前に出るといい奴なんだよこっち日本人なのに。なんだこのクソガキみたいなの見たことないね
やばい!耳が痛いです(笑)
そういうのってね、上司だけじゃないんだよ、お客さんも見てるの。わきまえなさい(笑)
ところで、これからの案件はどうですか?
あるよ。不思議なもんでね、12年潰れないでやってるとね、そういうのがいくらか信用になるんだろうね
ソナーは投資会社じゃないコンサルっておっしゃってましたが
最初はそうしようと思ってたよ。ファミリーオフィスで始めてね。でもお客さんは皆さんが立派な方で人間として奥が深いし、資産家だからいい投資機会はききたいの。こっちは自分が投資するためにいつもソーシングしてるでしょ。だから見つけたら紹介してねって、それってコンサルだよね
間口は広げないんですか、客数を増やすとか
だって社員9人しかいないんだよ、無理でしょ。ひとりふたり雇ってもサービスの質は大きくは上がらない、みんなレベル高いから。だからお客さんも増やさない。各人のサービス落ちるからね
でももったいなくないですか、案件があるんだったら
大きくして売上あんまり変わらないと全員給料が減るでしょ。優秀な人はやめるよ。図体デカいと変わり身も遅くなってね、コロナみたいな環境変化についてけないから益々売上増えない。大企業ほどヤバいね、白亜紀の恐竜みたいに
たしかに規模の利益ってコトバ、聞かなくなりました
そうね、でもね、実は日本は前からそんなのなかったの、経済学的な意味ではね、規模じゃなくって競争のない利益だったんだよ、あったのは
カルテルみたいな?
そう、資本関係なしの親方日の丸クラブね、そこにいれば利益があってよそ者は入れない。長い物にまかれてりゃ楽。「ごりやく」っていうよね、神仏のお恵みのこと、漢字は利益でしょ、親方っていう神仏にたかってりゃ「りえき」が出るの、税金が降ってくるからね
そうか昭和では土建屋国家っていわれましたもんね。もうないですが
そんなことないよ、去年のオリンピックなんて堂々たるそれだったろ
そうか、今日逮捕者が出ましたね
まあしょうがないとこもあるわけよ、ああいうエンタメ、イロモノ界ってのはね、東大出の役人に絶対できないからさ、足元見てばっさり抜かれる。だからどうせ抜かれるんならどこにさせれば国民が納得するかって、ならばあそこは親方日の丸クラブのメンバーだから安心だろうってなるわけ。うまいね。で、ワルの政治家はその構図においしい利権が透けて見えてくるわけよ。まあその位のタマじゃないと政治なんてできないけどさ
IOCのお歴々なんて貴族づらこいて、儲けさせてもらってあたり前みたいなのばっかりですもんね、納得さすのってカネいったでしょうね
あいつらはクーベルタンとかオリンピアンの誇りも商材だって割り切った連中なの。タレントの出演料いらない興行だからな、原価ゼロな商品をスポンサー、テレビに競争させて値を吊り上げて丸儲けさ、こんなのは誘致どころかボイコットしてアテネに永遠にお返しすりゃいいんだよ。で、魚心に水心ってやつでさ、どうしてもやりたかった安倍さんと菅さんと森さんがね、本社ビル売るほどピーピーだったあの会社しかないでしょ、ほかに誰ができるのってやっちゃって、それでこの時勢に最高益なのよ。クラブの仲良しメンバーだってだけで株も上がって3%も配当できるんだ、凄いよねこのビジネスって。事業だから儲けるのはいいよ、大したもんだと思う。でも本当の問題はそこじゃないんだ。
そうか、税金にたかれれば権力もカネも無競争で手に入って勝ちってことですね。平等な競争環境なんて潰した方がいいんですね
ご名答だ。つまりね、国のてっぺんから「親ガチャ」になってるの。そこに生まれて資産があってちょっとイケメンだったりすりゃあね、どんな馬鹿息子でもはじめっから競争ないわけ。わかる?東大なんか行かなくていいの。そういうのは家臣団っていうか働き蜂っていうかね、御用学者もそうね、とにかく長い物に巻かれて安心安全に生きたい人達にやらせときゃあ行政サービスは見た目だけは質がいい。国民はそれで文句いわないし、あとはマスコミ手なずけとけば身分は安泰。アホでもオッケーさ
そうか、我々世代が親ガチャに見えてるのって、その投影なんですかね
国ごとそうなんだから自然に空気がそうなるんだよ。隠せないねこういうのは。で、お母ちゃんが幼稚園児の息子の尻たたいてあんた東大はいりなさいってね。なぜ?日本で一番長い物だからさ。できればそれに巻かれたい、謹んでお巻きいただきたいってね。いい、あんた、それが得な人生なんだよ、安心安全なんだよって。そうでもないんだよね現実は。その長い物が傾いてきたらそういう子は優秀でも若くして人生終わるよ、だって他のオプション何も持ってないからね
冷や汗です。はい私も想定してませんでした
この世の中の勝者はね、親ガチャ大当たり組に生まれた奴、何も苦労してません、何も考えてませんのボンだよ。寝てても勝ちの貴族階級ができちゃった。若者がガチャって自嘲して人生諦めるなんてとんでもない。だって政治家の資産は地元の地盤、票田だよ、貯金ありませんって関係ねえのそんなの。地盤、票田ってバランスシート載らないし、親父が死んでも相続税1円もかかんないから。だからIOCのバッハとかあいつらエセ貴族と臭いが近いんだよ、ぜったい仲良しになってはくれないけどね、欧州のローマクラブからみりゃただの田舎もんだから。でもこいつらカネもってくるなってね、金儲けだけならパートナーシップ組めるわけ。世界の常識だよそんなの
どうなるんでしょうかニッポン
知らない。Who knows? 妙齢の皆さんはもう人生お祭りで楽しくやればいいんじゃないですか。俺はそれしか考えてないよ。でも30代の君らは国と共に沈没するわけにはいかないよね。貴族階級なんてわけわからん中抜きの中二階はいらんよ、皇室があるんだからそれを立派な形で守ってさ。そう思う人は命かけて政治家になってください。
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