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カテゴリー: ______世相に思う

サファリパーク殺人事件

2025 FEB 15 8:08:53 am by 東 賢太郎

サファリパークとは広大な放飼場に大型動物や猛獣を放し飼いにし、バスや乗用車を使って車中から動物を観覧する動物園のことをいう。多様な種がいるが、面積がとても大きいので動物は自分たちが飼われていることに気づいておらず、自然のままの生活を見せてくれるのが楽しい。

Aサファリにはライオン、トラ、ゾウ、サイ、キリン、ハイエナ、二ホンザル、チンパンジー、ヒヒ、キツネ、タヌキ、ワニ、カバ、コアラ、パンダ、シマウマ、インパラ、カンガルー、ダチョウなどがいる。

ハイエナ

頂点に君臨するのはもちろんライオンだ。次いで強いのが、ちょっと意外だが体は大きくないハイエナである。いつも集団で狩を行い、囲まれるとライオンも逃げる。強力な頭骨と顎をもち組織力も知恵もあり、せっかく捕えた獲物を集団で横取りするタフな連中だ。だからだろう、普段は狩りは雌まかせの雄ライオンが、エサを争ってもいないのに歩いているハイエナを突然に襲ってかみ殺す。1対1ではひとたまりもない。邪魔者は消すのだ。

ところがAサファリで驚くべき異変がおきた。地球は猛暑つづきである。支配者であるライオンはすっかり怠けものになってしまい、獲物を追いかけてエネルギーを消耗するよりもハイエナが狩った獲物を横取りする事件が増えてきたのだ。これはまずい。知恵者のハイエナが考えた。よし、それならそれで逆手にとってやろうじゃないか。ためしに彼は獲物の肉片をちぎってそーっとライオンの目の前に置いてみた。するとそいつはノドをゴロゴロ鳴らし「おぬし愛い奴よのう」と喜んだのである。しめしめ、こんなのお安い御用だぜ、この方式を仲間でやりまくってやろう。

作戦は当たった。ライオンだけではない。ベンガルトラ、ヒョウ、チータ、ピューマ、ヒグマ、ホッキョクグマなど強敵の肉食獣はみな、狩った獲物の一部だけを裏でこっそり返してやる「キックバック作戦」で「おぬしもワルよのう」とゴロンゴロンになってしまった。やったぞ、これで俺たちは事実上の支配者になれる。やりたい放題のハイエナは仲間と子孫を増やし、パーク内の獲物の大半を食ってしまうようになり、そこいらじゅうがハイエナだらけになってしまった。

「おい、なんだこれは、ハイエナパークじゃないか、金返せ!」。

客の声が響き、経営不振で落ち目となった経営陣は取締役会を開き、せっかく育った草食動物がパークの売上に寄与していないことが借金激増の原因と悟ったのである。全会一致で「強いライオンが必要だ」との結論に達した。メーク・Aサファリ・グレート・アゲイン!そこで圧倒的多数の支持で選ばれたのが二匹のオス、やや高齢だが狩の名手で百獣の王の誉れ高いトランポと、頭が切れて行動力抜群で雌にもてる若武者ウーロンである。腐敗したボケライオンどもと悪事を働いて私腹を肥やすハイエナどもを蹴散らし、サファリの生態系をあっという間に元に戻してくれるだろう。誰もがそう期待した。

しかし何もおきなかった。あれ?こいつらもひょっとして肉もらって買収されちゃったのか?いやいや、余計なお世話だった。意図的にハイエナを油断させていたのである。一週間たったその日、買収用の肉をせっせと作るハイエナ部隊をセ~ノでいきなり襲い、一気にぜんぶかみ殺してしまったのだ。サファリに大激震が走る。さらに驚くべきことに、Aのハイエナは隣村のBサファリにまで侵入し、そっちのライオンにまで肉をばらまいて手なずけていた事実が次々と発覚する。隣り村の係のハイエナは届けた肉の一部を裏でBから返してもらい私腹を肥やしてたのだ。ウーロンは不届き者のリストをBサファリパークの経営者に渡した。

ところがリストに載ってるのにBのライオンは一斉に否定する。Bサファリはなんと経営者まで肉をもらって食っていたのである。こんなのがバレたら大事件になるぞ、次の選挙はぼろぼろだ。「言ってはいけないムード」でサファリごと「ヤバイ」と固まってしまったのである。「はい、たしかにAからハイエナは来ました。でも肉はもらってません」。なぜ大事件になるかというとサファリパーク事業にはれっきとした法律がある。大きな事件や問題は貼紙しないといけないのだ。しかも「公平である」といえなければ第四条第二号の、「事実をまげていない」といえなければ第三号に違反だ。「実はもらってました」となればもちろん、個人で肉をもらってる腐臭漂う専門家を雇って貼紙を書かせてるサファリ、不利なことは握りつぶして貼紙にすらしないサファリはお取り潰しもありだ。しかし、Bサファリはそうなっても構わない、肥やせるうちに私腹を肥やそうと全力を尽くす経営者、ライオンしかいなくなっていたのである。

「一言一句、異口同音」。これが2022年7月8日の全貼紙に出現したUFOもびっくりの “超常現象” であり、 “ニッポンサファリパーク” 開場の号砲でもあった。Bサファリは買収されたのである。それ以来、内部では新経営者による「造り物の画像」ばかりが流され、貼紙は読めないが動画ならわかる動物たちは大いに喜んだ。毎日ぼーっと見てる草食動物の脳に刷りこもうと飼料業者はCMを打つが、問題をおこしたFというサファリでCM停止がおき、業者に自社製品の売上がどれだけ落ちたかを検証する貴重なデータを提供してしまった。落ちていなければCMは不要であり、不要な経費を計上すれば株主総会で糾弾され担当役員はクビの動議が出るからだ。

自由が丘を走っての軍事的雑感

2024 SEP 16 1:01:15 am by 東 賢太郎

人間ドックで体重を5キロ落とせと言われた。2年ご無沙汰だったのは採血と胃カメラが嫌なのもあるが、コロナ入院から解放されて安心してしまっていた。その間にあれだこれだの数値がメタボ級になっており「このままだと糖尿まっしぐらですよ」と脅かされ、「5キロ落とせばみんな戻るでしょう」と励まされる結末に至った。ものぐさなのでシンプルな解決が好きである。よし、それならという気になった。

土手で転んだ傷もきれいになった。夜の9時ごろからのジョギングを再開したが、川は懲りたのでとりあえず自由が丘を目ざすことにした。この街、通過はすれどよく知らない。故中村順一が近くなので詳しく、行きつけの緑道沿いのナポリタンの旨い店とバーに行ったぐらいか。通りの表裏に居酒屋、ショットバー、あまり気取ってないイタリアン、フレンチもあったりと、世間ではこじゃれたイメージがあるが、江戸の老舗や個性的な中華などはないからあんまり興味ないというのが本音である。

駅前のロータリーから東横線のガードをくぐる。ラーメン屋、てんぷら屋のあたりにかけて看板やチラシを手にした男女がずらっと並んで客引きに忙しい。このごちゃごちゃした小路、「美観街」とあるがウィットだろうか。「自由」ってのも「なんたらが丘」ってのも、この辺は東急が開発するまで野っぱらだからで、良くも悪くも毒がない。新宿、渋谷、池袋あたりの裏路地のヤバそうなムードはないが、水清くして魚棲まずの感無きにしも非ずである。新しい街の住人はみな「移民」である。地縁がないからつき合いも希薄で共同体より個の意識が強い。ざっくりいえば、徳川時代の江戸だった東京の北東は村社会的で、南西は都会的だ。都会は個を気ままに貫けるが助け合いより競争的である。

自由通りの方に進むと、やおら高校生らしき男女が道にあふれ出てきた。9時半を回ってる。線路のあたりに駿台、河合塾、四谷学院、Z会などがこうこうと明かりをともしており、一斉に授業がはねたものと思われる。あたりに幼稚園の予備校まである。一緒に祭りの神輿をかつぐなんて土地柄でなく、都会の住民の子たちであろう。クモの子を散らすように猛スピードで暗がりに散っていった彼らは、本当に勉学が好きなのか親の管理下でそうなってるのか。ふと思い浮かべたのは「猫カフェ」だ。あんまりじゃれない猫たち。奔放にお客に嚙みついたりひっかいたりすると営業に向かないのだ、可愛そうにともう行ってない。

面白そうなのも見つけた。朝8時閉店までどうぞ、気絶するまで営業します!という人情居酒屋だ。こういうのがあるだけで元気をもらえる。それにしても徹夜で焼酎飲んで朝飯食って帰る奴ってどんなだろう、よほどの時差ボケか昼夜逆転した人か、いやいやそれでも普通は朝まで飲まないだろう。あんまりまじめなイメージはないが人間は面白いんじゃないか。イタリアみたいだなあと思う。奴らは明るくて遊び好きだ。クソまじめなドイツ人より面白いと思っていたらそのドイツ人だってアルプスを越えるとなぜか明るくなると自分で言ってたっけ。オペラやサッカーが11時ぐらいにはねてから騒いで朝帰りなんてあたりまえで元気であり、それでも優秀な奴がたくさんいたし、そんな中からヴェルディもプッチーニも出た。間違いない。人間力をつけるのは断然遊びだ。

このあたりに住んだのはプライベートは静かな処でと思ったからだが、転んで死んでても朝まで発見されないぐらい静かである。時に人恋しくなる。そういえば浅草は良かったぞ。演芸やお笑いが好きで仕方ない連中がたむろす人情味どろどろの世界で、恋も喧嘩もいいじゃないか、人間は持って生まれたものを全開にして生きた方がパワーも出るし幸せだ。落語、義太夫、見世物、そんな地酒、どぶろくの中にワインみたいなオペラを持ってくるとスッペのボッカチオが「ベアトリ姉ちゃん」に化ける。種子が根づいたのは鹿鳴館じゃない、パワー全開で人間くさい浅草だった。いやスッペなんてウィーンのどぶろくみたいなもんで、そういうかっこつけない生き方こそ正統派と思う。

明治の大衆はエネルギッシュだった。これがあったから日本は強国になれた。廃藩置県で幕藩体制が壊れ、刀もちょんまげも取り上げられたのだから武士の剣術でそうなったわけではない。ただ武士の子は藩校という世界に例のないエリート養成学校で幼時から文武を叩きこまれ、文にも武にもインテリジェンスのある傑物がいた。米英仏の口車で再三そそのかされても内戦をせず、無血開城で江戸を火の海にしなかった西郷と勝はそれであり、植民地にされる瀬戸際で命を賭したからそうなれたのであり、こういう者をエリートという。ガリ勉していい地位について国を売ってでも私益だけは守ろうなどという者を大量生産するなら、それは教育と呼ばない。

日本は西洋から船で来れば最も僻地である。米国からも遠い。外圧を防ぐ地の利はあったが、それでも薩長は大変にアウエーである英国と戦火を交え、ホームで大敗を喫した。弱かったからではない。徳川の世で戦さがなくなり、種子島の火縄銃を数日でコピーする知恵と器用さがありながら技術を進化させるには欧州に周回後れをとっており、気がついたらアームストロング砲の時代だったからである。だから両藩のインテリジェンスに攘夷などという言葉は最早ない。公武合体派の薩摩は薩長同盟で倒幕に切り替え、そこに「尊王」という定冠詞をまぶし国民国家の宣言となる王政復古の大号令を発して慶喜を賊軍に押しやった。我が国に王政の時代などなかったからこれは官軍の旗と同じくフェークであったがこういうことはやったもん勝ちである。

欧米は日本の何倍も大きい中国の解体を狙い、日本はそのための闘犬に仕立てるべく開国させて不平等条約で囲い込む戦略で一致した。明治新政府の「富国強兵」とは武器開発の後れをリカバーし、犬でなく人に昇格するインテリジェンスであり、これなくして不平等条約のタガがはずれることはなかった。その証拠に、英国が条約改正したのは日清戦争に勝って軍事力を認めてからである。これを愛国ともいえるが、犬扱いされた人間の当然のプライド、自尊心である。それを勝ち取るには軍事力が必要。きれいごとではないこと、実効性があることを北朝鮮が実証している。さらに闘犬は猛々しく露西亜も破り種子島での能力が伊達でないことを見せつける。これは欧米を恐怖させ、ワシントン海軍軍縮条約で主力艦の総トン数比率を米・英・日・仏・伊の軍縮に至り、対英米6割という屈辱を甘んじて受けたものの三大列強の一角になったのだから驚くべきことだ。戦後の高度成長は朝鮮特需であって新技術、新製品があったわけではない、まったくのアメリカさんの都合、棚ぼたであり、それを短期に供給できたことぐらいだ。我々が真に世界に誇るべきは近代国家の創成期に、短期間に軍艦建造大国になった工学力、つまり理系の技術である。

戦艦大和(左)と武蔵

この過程で米国が将来的な仮想敵国となるであろう事を軍部は強く意識した。統帥権干犯問題を盾に単独行動を強化し、国際連盟脱退、ロンドン海軍軍縮会議脱退から巨大戦艦の「大和」と「武蔵」の建造を開始、そして、その行く末に対米戦争に至るのである。この戦争の終結において米国は総トン数から核弾頭数へと武器のフェーズを更新し、英国を蹴落として世界覇権を奪取した。それをもたらしたのは核開発に枢要な理系人材の確保であり、敵国ドイツでナチに殺されかねなかったアインシュタインらユダヤ人物理学者を迎え入れアメリカ国籍も与える戦略をとった。同じことが音楽界でもおき、ユダヤ系のワルター、クレンペラー、シェーンベルクなどが続々と米国に亡命した。日本は法律も科学も欧米から輸入しひたすら翻訳、コピーした。だから東大という富国強兵のための官僚を作る大学の学部は法医工文の序列になり、法は不平等条約改正、工は軍艦や兵器の製造(工学部が大学に入ったのは日本だけだ)、文は洋書の翻訳だった。いまだに序列はそのままだ。東大法学部卒は海外へ出ると何でもないが国内では幅を利かすルーツはここにある。

政治家に理系がおらず、そうでなくとも思考訓練をしていればいいのだがそれもなく、ド文系が国を支配しているルーツも無縁ではない。これは「世の中は理屈じゃない」と神風を信じる日本人の精神構造そのものにも膾炙しており、政治家に理系が揃う中国はそれを是非とも温存させたいだろう。日本は欧米の科学を迅速にコピーして世界をあっといわせたが、それにかまけて最先端の基礎理論から自らの手で新技術を生むことを重視しなかった。ナチスに迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給し、彼らの亡命を手助けしたことで「東洋のシンドラー」と呼ばれた外交官、杉原千畝がいたのだからドイツ人物理学者は日本が保護する可能性もあっただろう。核爆弾はドイツも日本も研究しており、先に開発すれば広島・長崎は救われた。こういう手は奇策でも謀略でも何でもない、いわば喧嘩に勝つ悪知恵を考えて巧妙に手を回すインテリジェンスであり、米国ならCIAが堂々としてることで、だからその “I” が名称に入っているのである。杉原の善行を汚すことにはならない、なぜなら外国との虚々実々の立ち回りはそういうもののオンパレードであることは外国に住んで厳しいビジネスをした者にとっては常識であって、それでこそ国も助けた、国益に資する行為だったとなり、日本人は侮れぬと一目置く国際評価になるのである。「日本人はいい人だ」ではなんにもならないのだ。

くりかえす。米国にあって日本になかったのは情報(information)以前に諜報(intelligence)だ。真のインテリがいなかったのである。こういうことは学校でも塾でも教えない。わかるのは喧嘩や野球をしたり麻雀をしたりの「遊びの場」であると実体験から僕は確信する。秀才だけ何人いても国はだめなのだ。神国日本を信じ、理屈が嫌い、欧米が嫌いで反知性主義に傾きがちな保守的国民もそれで良しとした。そして、その嫌いな最先端科学技術で無抵抗に殺されたのである。無学の大衆は仕方ない、これは文系エリートの大失策である。最強の武器を持てば襲われることはない。自ら襲うことをせず日本人が古来より誇る賢さと謙虚さで生きていけば国民は安寧に生きていける。保守的国民、大いにけっこうだ(僕もその一部ではある)。しかしこれぞ幕末の「尊王攘夷」なのである。薩長は幕府に先駆けて英国と殴り合いの喧嘩をし、勝てないと知った。これがintelligenceであり、勝てない喧嘩をするのはただの馬鹿である。半藤一利氏は薩長史観を否定し尊王攘夷は倒幕の口実とする。その結果起きた戊辰戦争は暴徒と化した新政府軍の東北、越後への侵略戦争になってしまったという部分は同意するにせよ、薩長が動かねば国ごと英米の謀略と武力でじわじわと侵略され、明治維新などと美名がたつ国造りなどおぼつかなかった可能性がある。

「大和」と「武蔵」。僕は英国のヨークにある鉄道博物館で、新技術だった電気機関車にとってかわられる前、1938年に時速203キロを記録した最新式蒸気機関車マラード号を見た。この数字は驚愕だった。

ヨークの国立鉄道博物館に展示されているマラード

マラードの速度記録銘板

ひとめで「戦艦大和」だと思った。奇しくも大和の起工は1937年である。英国の凋落、米国の勃興の象徴。新幹線ができる26年前に200キロ出した機関車を生む技術、安全走行させる保線技術もが世界一でないはずがない。きかんしゃトーマスのスペンサーとして今も愛されており、現在もマラード号の記録は破られておらず、ギネス世界記録にも「世界最速の蒸気機関車」として認定されている。しかし、電気機関車の出現で1963年に消える。時代遅れの技術で最先端に立っても意味ないばかりか、依存してしまえば自信をこめて国運を過つのである。世界に冠たる大和、武蔵は世界一のスペックを誇る戦艦であったが、完成したその頃に海戦の主役は戦艦から空母機に代わり、沖縄へ向かう途上に多数の米軍艦載機による攻撃を受けて鹿児島県の坊岬沖で撃沈された。だから国民を安寧に生活させるためには常に最先端で競って勝っていなくてはならないのは自明であり、なぜ2番じゃダメなんですかという馬鹿な女が政治家をやり、1番は保安官におまかせなどという精神構造が国民にできてしまえば、それだけで国家の滅亡は予定されたようなものである。

いま海軍軍縮条約は核軍縮条約になり、国際法はあっても拘束力は何もない。無法者が何千発でも核弾頭を装備しいつでもミサイルをぶっ放せる中で核保有なしというのは、西部劇で「殺し合いはいけません」と銃を持たない処女ばかりが住んでいる清廉な街のようなもので、それが今の日本である。守ってる保安官は実は自分たちを襲った奴であり、そいつは他の街で喧嘩を煽って何十万人も殺してる。こんなお人よしの街はないだろうというと、世界史上に前例がひとつだけある。カルタゴだ。案の定、いちゃもんをつけられ保安官のはずだったローマに撃ち殺されて歴史から消えた。いま総理になるとかならないとか言われてる連中はカルタゴの名前ぐらいは知ってるんだろうか、いやそれも危なそうだと不安になるのがちゃんと総裁候補に用意されているではないか。イケメン俳優で台本どおりにもっともらしくセリフを吐くのだけがうまく、何も考えずに保安官が飲み食いしまくった領収書を経理部である国会に通すだけ、それでも国民から人気をとる芸がうまい。すばらしい。保安官からすれば、日本国民から税金を巻き上げて何も考えずに自分に貢いでくれる、そういう壮絶な馬鹿をおだてて総理に祭り上げてもらうのが何よりありがたい。幸い国民はそこまで馬鹿でない。そんな職業に就きたくないから傑物が政治家にならない。政治は互助会みたいなファミリービジネス化して、ビジネスだから株主利益追求が目的となり国民の命などどうでもよい。これを変えるに派閥潰しなどは国民の目くらましで何の意味もない。我々は真剣に選挙制度を根底から変えないとだめだ。西郷や勝のような傑物が政治家を志し、金も地位もない身でも総理大臣になれる制度を作ろう、そういう国会議員、まずそれに命をかける議員を選べばいい。

自由が丘で夜の9時半まで塾でがんばってる子たち、勉強は大事だよ、塾通いも結構。しかし勉強は偏差値を上げるためじゃなく、インテリジェンスをつけるためにするのだ。ぜひエリートになってください。

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どうしたTBS??(テレビがあっさり放映)

2024 JUL 10 7:07:26 am by 東 賢太郎

小池氏の学歴問題に「貝」になっていたテレビ局が動いた。それも「総力取材だ!」とTBS渾身の法螺貝が鳴った。なんだこれは、出陣の合図か?ぜんぶホラでしたのブラックジョークか?最後の二人の評論家のばつの悪そうな、貝の姿勢をキープしなくて大丈夫だろうか、オレ、電通に干されないかなのモゴモゴのコメントが失笑を誘う。

ネットでは「投票前にやれ!」と怒りの声が渦巻いてる。まあやっても公明党の岩盤票はびくともしなかったろうな。プロ野球オールスターのファン投票、去年はぜんぶ阪神、今年は日ハム、みたいなもんだ。国民の皆様わかったでしょ、日本人の民度はそんなもん、政治は “神様” が決めてるんだから。民主主義では国民のレベル以上の政治家は持てない。あっ、メディアもね。

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アンビバレントである今年の抱負

2024 JAN 8 16:16:59 pm by 東 賢太郎

ソナー・アドバイザーズの第14回新年昼食会が5日に赤坂維新號であった。横尾会長を筆頭に、11人にご参集いただいたが社員だけでなく懇意の関係者まで広げたのは初めてだ。各位のご紹介スピーチをしながら気がついたが、大学教授は2人おられるのに本業だった証券マンは野村の後輩1人だけだ。これは意図したわけではないが、僕が企図しているのは昔の延長ではなくまったく別な事業だからだ。11人中6人が慶応というのも意図ではないが、過去やコネを捨てているのではなく、シンプルに僕がリアリストかつプラグマティストである結果だ。

強みは何だと問われれば海外経験しかない。それも英語力や知識で僕より上の方は無数におられる。だから一言加える。僕は普通の日本人ではない。外国に出なくても多分そうだったが、16年海外にいてそれを検証したという点で海外経験は強みになった。これはほとんどの人に理解されないから「コスモポリタン」と自称している。何かやらかした「自称会社員」みたいなものだが、日本も世界もどの民族も文化も等しく美点凝視したい人を定義する言葉はそれしか知らない。

コスモポリタンと反グローバリストは政治的には矛盾だ。せっかく野村證券がそのルートに乗せてくれたのだから普通は楽にグローバリストで生きるが、いま、頑としてそうしたくない内なる自分に向き合う羽目となっている。それが大きな流れの中で日本を食い物にすることになるからだ。口だけの似非保守も含めそう考えるのが普通でなくなってるのが現状であり、だから僕は普通の日本人ではないと宣言せざるを得なくなっており、「今だけ・カネだけ・自分だけ」で食い物にする連中が金も権力も握ってしまっている。僕は相手を少々知っている。このままだと少数派は淘汰されてしまうとアラームが耳元でがんがん鳴っている。

しかし、正直に書くが、今さら政治家になる気もないしブログも無意味と思うようになってきた。つまり僕は無力である。同時に、生きていくことに関しては怜悧なリアリストかつプラグマティストに生まれついており、守るべきは家族と仲間と猫だけであり、その為に自分は世に存在していると考えるようになっている。その点においてゴッドファーザーのヴィトー・コルレオーネと何ら変わらない。イタリア系極道アメリカ人として税金は払うが国は守らず家族と仲間を守る為に社会的に一定のポジションにいる必要があるリアリストかつプラグマティストの映画だ。現実にいくらもいるしその一点において僕も変わらないのである。

矛盾を血のせいにしてしまうのは安易かもしれないが、この不合理は他に納得のゆく説明がない。今の世相は二・二六事件前夜を想起させる。当時ならどうしたかの結論が祖母・真崎ミカを通じていま内側に押し寄せてきているなら抗っても仕方ない。前夜といえば、ちなみにいつだったか覚えてもいないがたしか岸田総理襲撃未遂事件なる興味深い物があった。大変失礼だが、リアリストかつプラグマティストの僕の眼力において彼はいかなる理由であれテロの対象になる性質の人ではない。従ってあれはやらせというのが必然的憶測的私見だ。ただ、類似事件の特異性を糊塗するには出現がなかなか時宜に適ってはいるのであり、ああいうもので多数の国民の心が動いてしまうという現実を見せられるならもう手も足も出ない。

つまりそれがウルトラ大衆デモクラシーの実態ならもう日本は見捨てるしかない。果たしてそうなんだろうか。2018年の西部邁氏の自裁死はあそこがジョギング場所だったこともあり大いにショックだったが、彼は好きな国(人種)を「まずイタリア、次にイギリスと言いたいが、やはり日本」とし、嫌いな国(人種)を「まずアメリカ、次に韓国と言いたいが、やはり日本」とした。日本を代表するインテレクチュアル(知識人)であった氏は現世利害的なインテリジェント(似非知識人、専門莫迦)が跋扈し席巻してゆく日本に対し絶望的にアンビバレント(好き・嫌いの両面感情的)になった皮肉がこれであろうし、その無力感(というか阿保らしさ)に苛まれたのかとも推量する。そうであるならとてもよくわかる。

僕も精神は知識人のつもりだが、ビジネスにおいては現世利害まみれの専門莫迦に徹しなくてはならない。僕らにできるのは大手金融機関の店頭にない良質の運用案件を顧客の探知機としてみつけてさしあげることだ。ただどんな投資もリスクは不可避だ(全勝はあり得ない)から勝率を上げる確率のゲームなのであり、少々の失敗は気にしないお金持ちか、確率とはなにかをわきまえる人にしか商売としてのアドバイスはできない。そう思わないのは詐欺師だけであって、理解の浅い人に投資を勧めるのはこちらの行政リスクになるから危なくてできない。確率は高校へ行けば誰もが習うが、学校は「これを学べば資産形成に役立つ」なんてことは教えないので、インテレクチュアルの人種を除く日本人のほとんどが投資に対して合理的な判断ができず、さらにはそのアドバイスすら受けられず、あまり割のいいとは思えない万人向け既成商品を買って大手金融機関の収益に貢献するしか株高の恩恵を受けられない。NISAという節税スキームは誠に結構だが利益が出なければ意味がない。このことに僕らは手も足も出ない。

したがって僕はリアリストかつプラグマティストに徹し、おつき合いできる大切な仲間としてのお客様にその方の取れるリスクの範囲内でベストのアドバイスをすることをビジネスとするしかない。どなたでも儲かりまっせなんていう証券ビジネスとは程遠い。いま内外の不動産や戦争中のイスラエルのベンチャー企業まで視野に入れて研究中だが、べつに海外経験が強みだからではない。勝てる(投資リターンが得られる)なら日本だろうが地球の裏側の国だろうが火星だろうが関係ないからだ。しかし日本人を助けたいができない。確率ゲームを長期に勝ってきている図抜けた才能と20年に渡るデータベースが社内にあるのに使うのは外国人で、日本社会に役立てられない。なんてアンビバレントなことだろう。

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羽田事故は海保機機長の責任か?

2024 JAN 6 9:09:34 am by 東 賢太郎

元旦の朝、富士山を遠望しながら今年の行く末を思念した。まさかその日の午後からこういう年明けになろうとは思いもしなかった。亡くなられた方のご冥福を心よりお祈りしたい。そして被災者の一刻も早い救済を願う。

16年の海外赴任で数え切れぬほど飛行機に乗ったが、1月2日の羽田空港での18分の救出劇はJAL機長、クルーの方々の日々の厳しい訓練の賜物でなくて何だろうと思った。奇跡ではなく、誇るべき真のプロフェッショナリズムだ。

JAL機長、海保機機長、管制官の3者も訓練され、身を賭して業務にあたっておられるプロフェッショナルだ。ところが、残念ながら、こちらはそれでも事故が起きた。それにつき私見を述べる。

どこかに特異な事故原因(便宜的に「エラー」と呼ぼう)がなければこの事故は回避された確率が非常に高い。さもなくば、世界中の空港も旅客も毎日事故に怯えなくてはならず航空行政も事業も成りたたないだろう。

では本件のエラーは何だったか。それが1つでも、関わったのが3人全員か、2人か、1人かで7通りの可能性がある。さらに2つになって事故が起きたとすれば、それに関わったのが3人全員か、2人か、1人かで39通りの可能性がある。1つ増えると事故に至る道筋は32通りも増える。つまり抑止は等比級数的に困難になるので、2つ目を許すエラーは許されないのである。

人間のすることに完璧はない。これはあらゆる分野のリスクマネジメントにおいて世界の常識である。従って、1つ目のエラーが起きることは想定の範囲内とし、各々のケースで2つ目が誘発されないように防御策が講じられている。

1月2日に羽田空港で起きたことは、➀海保機が滑走路に出て40秒静止した➁管制官はJAL機に「滑走路は空いている」と伝えた③衝突した。以上である。

➀が海保機のエラーと仮定する。それを想定して➁を防ぐために各機はトランスポンダー(位置情報発信装置)を搭載しており(防御策a)、③を防ぐために空港には滑走路警告灯(可変表示型誘導案内灯)が設置されている(防御策b)。

問題はすでに多くの方がSNSで発信されている。「海保機に最新トランスポンダーが搭載されておらず、空港の滑走路警告灯が作動していなかった」、すなわち、防御策a、防御策bが1月2日の羽田空港では欠落していたことをである。

仮に➀➁が海保機あるいは管制官の「完璧でない行動」だったとしても、それは世界の空港事故事例の蓄積から想定の範囲内である(だからこそ、防御策a、防御策bが世界の常識になっている)。

JAL機長、海保機機長、管制官は「防御策a, bの存在を前提として訓練されたプロフェッショナル」だ。その欠落が想定外の「完璧でない行動」を誘発する偶発事象は想定の範囲内ではなく、JAL機長の「目視できず」という2つ目を生んでしまった可能性も否定できない(かように39通りの可能性で事故が起きる)。

従って、公共の安全の見地からは、問題の責任をJAL機長、海保機機長、管制官の3者による「完璧でない行動」に帰することは、エラーが単体であれ複合的であれ、問題の解決にならない。

事故確率を可能な限り低くすることは空港管理者の責務であり、世界の航空運輸の安全はそれを前提に成り立っている。防御策aの欠落は軍事的理由がある可能性を保留するが、防御策bの欠落が「特異な事故原因」であった可能性については理由を問わず国交大臣は説明責任を免れない。

航空法第4条 (東京国際空港は)国土交通大臣が設置し、及び管理する

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自民党女性局の外遊は税金で行きなさい

2023 AUG 2 7:07:44 am by 東 賢太郎

外国というのは行ってみないとわからない。いくら小説を読んだり映画を観たりしてもこればかりはどうしようもなく、「百聞は一見に如かず」のことだらけなのである。去年に娘をパリに留学させたが、コロナを恐れずチャレンジしてMBAになってきたのは褒めてやりたい。良い経験を積んだようだ。まず移民社会はいかに治安が悪いかを知った(今年でなくてよかったが)。大学の寮を出ようと下宿を探し、家賃を交渉し、シャンゼリゼ近くに比較的安くて大家が愛想のよい物件を見つけた。しばらくしたある日、部屋にネズミが出た。びっくりしてベッドの下を調べてみると、なんとネズミにエサが出ている。値上げに応じる借主が現れたので娘を怖がらせて追い出そうとしていたわけである。とんでもない大家だが、そんな浅知恵がバレないと思ってる程度の人間でまあ特段の悪党とも思わない。花のパリも一皮むけばこんなものなのだ。移民を入れれば少子化対策になりますね、フランスに学びましょう、パリに行って研修を受けましょうなんてお気楽な世界ではないのである。

自民党女性局の写真にはいろいろ思う所がある。松川るい以外は海外経験もなさそうだし、あそこに立てばああいう写真を撮りたくなる気持ちはわかる。経費をかけて行った以上は何を食べようが買い物をしようが「一見」のうちではあろう。外遊が一概に観光だということにはならないし、写真を撮ってなるべく多くの人に見てもらいたいのは女性にとって自然な気持ちだろう。女性局のレゾンデトルの一部かもしれず、女性議員を増やして活躍社会を築いていくエネルギーを女性に向けて発信もしたかったのだろう。何度もブログで書いたが、僕は娘が二人いるしそれには大賛成なのだ。考えてみよう。あのエッフェル塔ポーズを男がやったらお笑い3人組である。おもろいjokeとしてNFTにして売ろうぐらいのもんだ。つまり女性にしかできないアピールというものは存在するのであり、それが社会に意味を持つならポジティブに考えようというのが持論だ。

ただ、わからないことがひとつだけある。あの写真を不特定多数の眼に向けて開示して、なぜ昨今のご時世で起きそうなリアクションを予測できなかったのだろう?大批判を浴びてしまったポイントはそこだ。つまり女性だからでは済まなかったわけで、自然な気持ちの発露であろうがなかろうがそれを発信するか否かの判断は峻別すべき全くの別物ということなのである。それを誤ったということは女性のアピールの芽を摘んだばかりか民意を読み違えたということでもあり、それが職業である政治家としての基礎的能力が欠如していることを満天下に知らしめてしまったということになりかねない。ネットという仮想空間では世論が思わぬ速度とマグニチュードで積乱雲の如く形成され、その形状が如何なる変転を遂げようかは現代科学をもってしても予測できない。事と次第によってあらぬ誤解をされてしまうリスクがあることを本件から学ばれた方がいいだろう。

私事を牽く。ブログを始めてから11年間の一日の平均PVは2500あって、一言一句、世界の誰が読むか知らないリスクを念頭に書かなかったことはない。日本語世界だけだろうと高をくくっていたら、今年4月に米国プリンストン大学の教授から引用をしたいとリクエストがあってあながち杞憂でないことも悟った。SNSだからと軽い気持ちでアップしてしまうとたちまち大炎上しかねないし、甚大なリスクとして指摘すべきは、一度書かれるとサーバーから消えない限りそれは永遠に残る羽目になるのだ。つまりスキャンダルをおこして何かを書き込まれると、それが誤情報であろうがなかろうが、末代の恥として子孫に「伝承」され、お前の先祖はとんでもないなとなる危険性がある。どんなに立派な学歴、職歴を苦労して築こうが一発のチョンボでパーで、過失でなく人間性、性根の問題だから国民は二度と信用しない。永田町の「所詮SNSだ」と甘く見たスタンスはこれから悲劇を呼ぶだろう。それが有権者の目にも晒され続けるわけで、自分の職業上のリスク(=身の危険)にさえ気がつかず脇が甘いとなると、そんな程度の能力の人が国や国民を守れるのだろうかということにもなる。

この女性たちを批判はしないが、自民党本部が「費用は党費と各参加者の自腹で捻出し、党負担分は国民の税金である政党助成金からは支出しておりません」と詭弁で援護していることはそうはいかない。自民党の収入の約7割は原資が税金である政党助成金だ。この外遊、旅費の自腹を除いた金額の7割は我々の払った税金である。収入項目のネコだましで逃げようとしてもカネに色はない。国民がそう解釈しても反論できないし、したところで自民に投票はしないだろう。そういう屁理屈をこねて煙に巻けるほど全国民が馬鹿だと思っている魂胆が透けて見え、そうやってヤバいことは隠せばそのうち忘れるさとあなどる姿勢が実に不愉快だ。じゃあお前らはどれだけ賢いんだという気にさせるのである。

女性局の外遊は意味があるならやればいい。ただし、全額税金だ。民間では出張費の一部は自腹ですなんてことはあり得ない。ホテル代も営業上の飲み食いも個人の土産等以外は基本的に全額社費であり、会社に払わせる以上は増やしてお返しする、すなわちその出張によって経費を上回る収益をあげられるかどうかを問われるのである。他人のお金なのだから当然だろう。政治家に収支はないなら出張目的と計画を有権者に公表し、経費の使途をガラス張りにし、計画の達成度と成果をこれまた金を出している有権者にレポートで報告する。有権者団体がその議員の出張成果の成績表を作り、それを参考に選挙で投票するか否かを決める。民間では上司がかような管理と人事評価をするのは当たり前であり、だからトータルして会社は利益を出せる。「1割自腹切ってます」が免罪符になって「管理はほどほどに」なんて道はない。まして、本当は慰安旅行なんです、でも有権者の手前もあるし多少の後ろめたさもあるので1割自腹切っておきましょうなんてことは有権者は許してはならないのである。

お笑い3人組

 

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地球は惑星ソラリスである(安倍事件の怪)

2023 JUL 8 12:12:10 pm by 東 賢太郎

僕がそれに気づいたのは、ちょうど1年前の今日、日本中を騒然とさせた安倍元総理暗殺でのことだった。事件に驚いただけでない、直後から起こっていた、いや、起こっていると報じられてきたすべてのことのトータルな印象だ。何かおかしい、ふわふわしている、何か妙なビジョンを僕らは見ている。映画のCG(コンピュータを使って描いた画像)を見た感じだなと思ったのだ。理由はわからない。直感だ。

CGはあり得ないものを見せて目に焼き付ける。百聞は一見に如かず。古来より人間は見たものを信じるようにできている。嘘だろと思ってもだんだん見たものが理性にまさってしまうから、それをテレビはコマーシャルに利用するようになった。大事なのはリアルっぽいこと、そして何度も見せることだ。テレビほどそれ向きのメディアはない。偽物だろうが物理法則に反しようが構わない。嘘も百回で真実、大事なのは物量と力業、そしてそれをやらせる権力とカネなのだ。

ソラリス?なんだそれは?ご存じない方は映画を観てほしい(無料レンタルがある)。SF物の古典であり、クラシック音楽ならモーツァルト、ベートーベン級の最大傑作のひとつである。下のビデオは抜粋だ。ネタバレになってしまうのはもったいないが、それでも僕が言いたいことはわかるので時間のない方はご覧いただきたい。

ポーランドの作家スタニスワフ・レム原作の映画『惑星ソラリス』(1972)は太陽系外惑星ソラリスの軌道上に浮かぶ宇宙ステーション内での不可思議な出来事を描く。不穏な空気が支配するが真の恐怖はエンディングに訪れる。このどんでん返しは並みのサスペンスなど及びもつかぬ衝撃で鳥肌が立つ。

(筆者:抜粋がyoutubeから消されたようなのでFullで。英語字幕ですが)

ソラリスの海は「意思」がある生命体で、科学者たちはそれを調査する任務のために遠く地球を離れてステーションに住んでいる。海は人間の記憶をスキャンし、それを出現させて見せる。そうして、知った人物が現れるとあまりにリアルで現実と思ってしまうため、彼らは “それ” を「お客」と呼ぶようになる。三次元プリンターで人間が作られるようなものだ(映画の封切りは1972年だ。その技術だってSFだった)。そう考えると若者にはこの映画の怖さは減殺されてしまうかもしれないが、そこはタルコフスキー監督の腕である。それでも十分に怖いだろう。

科学者クリスの部屋に死んだ妻ハリーが現れる。ふれることさえでき、「私を愛してる?」と問う。しかしクリスは妻の肩に10年前に自殺した注射針の跡をみつけてそれが「お客」であることを知り、理性を失い、動転する。「早くこの恐ろしい夢から逃れなくては」。ハリーをロケットに閉じ込め、宇宙空間に放逐する・・・しかし彼女はまた現れる。クリスの理性はもはや麻痺しており、もう動揺しない。何が現実かわからなくなり、「お客」のハリーへの愛に支配されている。しかし眠って目覚めると彼女は手紙を残して消えていた。同僚が言う。「クリス、君はもう地球に帰ったほうがいい」クリスが答える。「そうかもしれない」・・・ところが・・・

安倍事件。テレビ画面の中、全国民の前に現れたハリーはふれることさえできるだろう容疑者Yという人間の形で現れた。「皆さん見たよね?聞いたよね?Yが安倍さんを2発撃ったよね?」全マスコミが徒党を組んで国民に問う。しかし物理的にあり得ない証拠を見つけて国民は理性を失い、動転する。「早くこの恐ろしい夢から逃れなくては」。しかしハリーは国民がネットで否定しても否定しても現れる。「それ陰謀論ですから、撃ったのはYですから」。眠って目覚めるとハリーはどこかに消えていた。精神鑑定で収監。そして公判は何と来年。全マスコミが徒党を組んでいう。「国民の皆さん、もう諦めたほうがいい」別な番組が答える。「そうかもしれない」・・・ところが・・・

ハリーというCGの報道。みんなこれだけ流せ。アレは全員がスルーしてなかったことにせい。これぞ「嘘も百回で真実」のセオリーである、わかったな。メディアも司法も警察もだ。さもないとお前らも・・・ネットはどうするかだって?トランプのツイッター、あれよ、あの手で行け。締めだして消すんだ、なかったことになるまでな。コトがおきたらせ~ので全メディアが同じ報道をせい。全メディアが翌日から理由はあの宗教でしたのCGに切り替えろ、いいな。

皆さんはいかがだろう。これだけ国の中心にいる全員が、まるでシンクロ・スイマーみたいに一挙手一投足まで完璧に同じ動きをする。CGにしたって異様すぎる。全会一致?そんなのマンセーの国にしかないだろう、今どき。僕はこの1年、悪酔いしたみたいに背筋がぞっとして吐き気がしたままでいる。誰か助けて欲しい。寝ている間にいつこんな星に来てたんだ?地球だと思ってたら、ここは惑星ソラリスじゃないか。

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点と線(ヴェルディとゼッフィレリの場合)

2023 APR 15 11:11:26 am by 東 賢太郎

フランコ・ゼッフィレリ(1923-2019)についてそんなに知ってるわけでないが、我が世代にとってこの人といえばまず映画「ロミオとジュリエット」だろう。封切りは1968年だった。ヌードシーンがあるというので当時中学生の僕は手が出せず、観たのはずっと後だ(ビートルズのマッシュルームカットすら禁止の時代だった)。だからリアルタイムではあの甘い主題曲しか知らない。最初にロミオ役の出演依頼を受けたポール・マッカートニーは断ったそうだが正解だったかもしれない。主演のオリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが70才にもなって「あのヌードは児童虐待だった」と映画会社パラマウント・ピクチャーズを相手に数億ドルの損害賠償裁判を起こしたからである。ポールにそんな恥ずかしいことがおきなくてよかったが、そこまでしてカネはもういらなかっただろう。

対極の話がある。名前は伏せるが、日本の某大女優の私生活の話を聞いて驚いたのだ。「行くからよろしく」といわれて待ちかまえていた料亭の店主が、あまりに質素なので他の客に紛れて目の前に座っているのに気がつかない。なんと家では今でもまだブラウン管テレビをご覧になっている。若かりし頃を知る僕としては「あの頃」を大事にされているのだと思いたい。かたや、あの目を見張るほど可愛かったハッセーさんの変わり果てた裁判のイメージ。こんな郷愁にひたるのは日本人だけだとわかってはいるのだが・・。

エンタメ界における男女の性的なハチャメチャぶりはモーツァルトの昔からあって、不謹慎な僕などこの業界それなしでは華がないぐらいに思えてしまうのだが、これは動物である人間の本能の発露にすぎない。だからこそキリスト教が「汝姦淫するなかれ」と説く必要があったのだ。それを内に外に強制する教会という存在は不自由の権化であり、だからこそ、その禁断の呪縛から劇と音楽が解き放たれた喜びは絶大だった。シェークスピアはそれを敵対する家の男女の燃え上がるような恋、禁じられた恋の喜びに昇華させて見せ、ティーンエージャーの汚れなき純真さと、穢れきってしまった大人社会の相克が弱い者の死によって贖われる不条理を劇にした。こんな劇が現れ得たこと自体が、教会からの開放の喜びという二面性の象徴だったのだが。

ゼッフィレリはそこで画期的なロミオとジュリエット像を創造した。シェークスピアは二人が絶世の美男美女とは書いてないし、美醜に関わらず物語は成り立つだろうが、現代の読者は、この “空前の” 悲恋物語には “空前の美男美女” こそふさわしいというイルージョンを懐く。それは映画というフィクションが人類に与えた人工甘味料なのだ。ゼッフィレリはその効能を鋭敏に予知し、早々に具現化して当てたのだ。あのヴィジュアルの二人を配した大成功で、原作も音楽も及ばぬ映画のバーチャル世界がハチャメチャの深奥に踏み込んだ美の市民権までを擁立したかに見える。本作はさらに大きな潮流として「ヴィジュアル万能時代」の幕開けを呼び起こすのだが、この映画が人間にストレートに突き刺さる「視覚」を通して問いかけているのは「こんな美少年美少女がこんなひどい目にあっていいの?世の中まちがってない?」という脱キリスト教的で新鮮味すら加味された不条理なのだ。そこで生まれた感性が欧米ではBBCが報じたジャニー 喜多川みたいな方への歯止めをなくし、日本では戦国大名の頃からあったものが美女、イケメンなら少々のことをやらかしても許されてしまうおかしな社会的風土の方へ行ったと僕は思っている。「美人なら旦那が逮捕されても問題ない?またテレビに出る?そんなことはない!」という理由が「彼女はよく見るとそんなに美人じゃない」だったりして、まあ僕にはこんなものまったくどうでもいいが、奥深い仏の悟りなのか国ごと不条理なのか皆目見当もつかなくなっている。

そうした時代の方向性にとどめを刺したのが、イタリアのエンタメ界のドン、ルキノ・ヴィスコンティ(1906-76)がマーラー5番の耽美的な旋律にのせて美少年を刻印した『ベニスに死す』(1971年)だった。このヴィスコンティという男、父は北イタリア有数の貴族モドローネ公爵であり、自身も伯爵でバイセクシャルであった。僕の中ではそのどれもがロシアの地方貴族の出だったセルゲイ・ディアギレフと朧げに重なる。どちらも貧しい美少年美少女を集めて囲ってマイ社交界をつくり、富裕層を篭絡し、バレエ、演劇、オペラ、映画などエンタメ産業の装置を駆使して大衆にまでアピールし、人類に名作を残した。ヴィスコンティはパルチザンを匿う共産党員だったが視点は怜悧なネオレアリズモのインテリ貴族だったのに対し、ディアギレフはビジネスライクで世俗的な人たらしのイメージがあるが両人とも大いなる成功者であった。

フランコ・ゼッフィレリ

対してゼッフィレリは大衆が求めるヴィジュアルに鋭敏なセンサーを持っている、ヴィスコンティに憧れて囲われていた美少年のひとりであった。双方別の相手と婚姻中であったお針子の母親と服のセールスマンの父親の間の情事によって婚外子として生まれ、やはりヴィスコンティの取り巻きだったココ・シャネル(1883-1971)とも親密だった。シャネルは露天商と洗濯婦の子に生まれ修道院で育った孤児だ。お互いを憎からず思う出自であったろうふたりの共通点はそこから欧米の社交界の頂点に上りつめたことだが、出生時に戸籍を記した役所のスペルミスを終世そのまま姓に使った点もそうだった。もう一人、ヴィスコンティの取り巻きだった女性がいる。ニューヨークのギリシャ移民の子マリア・カラス(1923 – 77)である。J・F・ケネディの未亡人ジャクリーンと結婚するまでの大富豪オナシスの愛人であり、やっぱりゼッフィレリと親密になり、映画「永遠のマリア・カラス」が生まれている。

ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)の両親は宿屋主と紡績工である。出生時の名を父がフランス語で書いたためフランス人として生まれた。彼の音楽については文字を書く資格を僕は有していない。アイーダという彼の代表作をロンドンで1度だけ接待のため観ているがその1度だけであり、幾つか見たと言ってもチケットをもらったかお付き合いの接待か、少なくとも勉強しようと半ば義務感から自分で買って行ったのはリゴレットと椿姫とイ・ロンバルディだけで、どれも半ば居眠りしているうちに終わり、もういいやで帰ってきたのである。

だから我ながら今回の新国立劇場のアイーダを観ようと思ったのは空前のことだった。なぜか?ゼッフィレリの演出だったからだ。いま何がしたいといって、古代エジプトにずっぽり浸ってみたい、もうこれしかない。だって現代の世にこんな異界のライブ体験なんて、ディズニーランドに行っても味わえないのである。なぜ浸りたいかって、理由はない。僕は時々発作的にこういうことがあってひとりでふらっとバンコクやウィーンに飛んだりしている。パニックが怖いから飛行機は嫌なのに、それをも打ち砕く衝動というものには勝てない。でも今回は行ったって仕方がない、クレオパトラが出てきそうな古代じゃないとだめだから。

かくして思いは遂げられた。

これがオペラの醍醐味とまではいわないが、これを味わわずに死んでしまうのはもったいないとなら自信を持っていえる。総勢300人と1頭(白馬)が舞台をうめつくし、歌い、踊り、駆け抜け、トランペットを吹き鳴らし、生き物のように蠢く。この第2幕を9列目から眼前に眺め、空気の揺動を感じ、すさまじい気に圧倒され、ロビーで過ごした第3幕までの25分の休憩時間というもの、尋常ならぬ感動でずっと涙が止まらなくて困った。人間、求めていた図星のものを手に入れるとこんなになるのだ。後ろの席から「ここで終わればいいのにね(笑)」の声が聞こえ、なるほどと思ったのだろう、思わず僕は「これだけで3万円でも安いね」とつぶやいた。冒涜ではない、クラシック史上もっとも稼いだ作曲家への正当な賛辞と思う。

ヴェルディが「ヴェリズモ・オペラ」を書いたとするなら真骨頂は第3,4幕であり、第2幕は運命の暗転と奈落に落ちる前の束の間の歓喜だ。そこに人間劇はないし当時の饗宴を目撃した者などいないのだからレリズモのしようもないわけで、空想をふくらませて思いっきりラダメスを高く持ち上げておいて、後半でつるべ落としにする。その悲劇に三角関係の女性がからみ、地下の獄中死という更なる悲劇への人間ドラマに迫真性が増すという寸法だろう。だから、所詮は空想である饗宴という飛び込み台は高ければ高いほど効果的だ。

しかしここまで思いっきり持ち上げてしまうと、逆に、ラダメスがなぜアムネリスをふってアイーダに走ったか納得性が毀損するなんてことを考えてしまう。軍の機密を漏らせば英雄といえど死刑になる、彼はそれを知っている、だからこそ普通の男なら王女アムネリスとねんごろにうまくやって安泰じゃないのと思うわけだ(と思うのが僕を含む普通の男だろう)。「いや英雄は愛に生きるのだ。普通の男じゃないのだ」というならせっかくのリアルな人間ドラマに旧態依然で黴臭い「神話」がかったものが混入する。レリズモなんて嘘じゃないのと冷めるのだ。ということは、アイーダがそんなにいいオンナだったのだという、雑念を消すほどには納得性のあるヴィジュアルが求められるという一点に配役、演出の成否がかかる(ちなみにこの日はこれも納得で満足だった)。

この問題はラ・ボエームで顕著にあると僕はいつも思ってしまう。だから大好きなこの曲はCDで音だけきくことが多く、サロメやジョコンダのソプラノがいくら大きくてもそれはない。肺病で死んでいくミミに痩身で可愛いソプラノ・リリコを選んでしまうと、音楽的には最も肝心である第1幕の二重唱がどうかという作品自体に潜む現実的制約に悩むのだ。聴き手側に視覚と聴覚の調整を強いるキャスティングが「ヴェリズモ・オペラ」になるのかどうかという問題だ。しかし、ゼッフィレリ流は精緻なフェークに作りこまれたレリズモである。大人の妥協に波紋を投げかけるのだ。だからきっと、時代と共にタイプが変わる「美女のアイーダ」という制約条件に永遠につきまとわれるだろう。「ロミオとジュリエット」で「ヴィジュアル万能時代」への道を開いたツケが回ったわけだが彼は謎を残してあの世に旅立ってしまった。このオペラは面白い題材だったろうし、彼自身、高く評価したのはスカラ座と新国のアイーダだったときく。感謝の気持ちで書いておくが、このアイーダは世界のどのオペラハウスと比べても遜色ない。指揮のカルロ・リッツィが東京フィルハーモニー交響楽団(素晴らしい!)から引き出した音はスカラ座で聴いたものと変わらない。歌はアムネリスのアイリーン・ロバーツが印象に残った。

では最後に、ヴェルディについてだ。作曲料としてかなり法外な金額(今の1億5千万円)と、それに加えてカイロ以外のすべての上演料まで請求している。凱旋行進曲に華を添えるアイーダ・トランペットまで特注して盛り上げたかった彼がゼッフィレリの第2幕演出に反対する理由はなかろう。国会議員にもなって統一後のイタリアで「名士」に列せられた彼を聖人化して、そうではないと反論される方は、

最盛期には約670ヘクタールの土地(東京ドームのおよそ143個分)を所有していた(中略)最晩年のヴェルディのポートレートは、「作曲家」というよりもほとんど「農場主」そのものである(平凡社『ヴェルディ―オペラ変革者の素顔と作品』加藤浩子、根井雅弘評)

という意見にも反論する必要がある。というよりも、それが事実なら問題だ、不純だしあってはならないなどと感じる感性があるとすればそれは金儲けを悪とする日本的共産主義思想の産物でしかなく、才能あるイタリア人にそんな極東の特殊な思想があるべきと希求すること自体が国際的には理解されないナンセンスだから苦労して反論する意味もあまりないと思う。ヴェルディこそ、百年前の先人モーツァルトがコックのテーブルで食事させられて怒り心頭に発したことへの仇討ちをした人物であり、著作権の概念がまだ未熟だった時代に作曲家という高度に知的な職業の本質的価値を、契約法を勉強することで自ら経済的に実証した最初の有能なビジネスマンだ。天が二物を与えることを信じたがらず、どういうわけかそれを認める者を批判さえする人は各所にいる。メジャーリーグの古手の野球ファンにもいるにはいたが、大谷の活躍がそれを蹴散らした。僕はヴェルディをそう評価しているし、それが作曲家としての名声を高めこそすれ、いささかも貶めるなどとは考えない。

ゼッフィレリがアイーダ第2幕で造り上げた究極の豪奢は蓋し空想のフェークなのだが、大衆が求めるヴィジュアルに鋭敏なセンサーを働かせた微細にリアルで見事なセットであるゆえに、僕には人間が生きるためには不要なゴミであるという反語的象徴のようにも思える。観客に見せるためでなく正気でここまでやったのだとすればもはや喜劇ですらある。「喜劇と悲劇は裏腹だ」。ゼッフィレリがそう訴えたならコミュニストのヴィスコンティに近かったかもしれない。しかし、彼が師から受け継いだレリズモはヴェルディにこそ忠実だった、と僕は思う。その理由を氏素性に求めるのは酷かもしれないが、名誉も金も哲学もあったヴィスコンティにはやりたくてもできないことをゼッフィレリもヴェルディもできたわけだ。それは「ヴィジュアル万能時代」のような世の流れを大衆から読み取ることだ。本稿を書きながら、筆の流れでそんな結論に行き着いた。しかし、新国のロビーでワインを飲みながら、第3幕までの25分の休憩時間ずっと涙が止まらなくて困った僕も、読み取られた側の大衆の一人なのだ。ヴェルディ、ゼッフィレリ万歳!

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1989年は世界史の分水嶺である

2023 APR 7 23:23:58 pm by 東 賢太郎

1987

オイゲン・ヨッフム、 モニク・アース、 ジャクリーヌ・デュ・プレ、 ヤッシャ・ハイフェッツ

1988

エフゲニー・ムラヴィンスキー、 ヘンリク・シェリング

1989 (平成元年、「ベルリンの壁崩壊、日経平均が史上最高値)

ヘルベルト・フォン・カラヤン、ヴラディーミル・ホロヴィッツ

1990 (東西ドイツ統一、湾岸危機)

レナード・バーンスタイン、  アーロン・コープランド、

1991 (ソビエト連邦崩壊)

ルドルフ・ゼルキン、 ヴィルヘルム・ケンプ、 ジノ・フランチェスカッティ

1992

オリヴィエ・メシアン、   ジョン・ケージ、 ナタン・ミルシテイン、 ニキタ・マガロフ

 

以上が著名クラシック音楽関係者の没年である。名演奏家が消え、1989年を極点として時代は転換していったように思える。

同年には昭和天皇、手塚治虫、松下幸之助、 美空ひばり、チビも逝去している(注・チビは高校時代からお世話になった猫)。世界史もこの年に「ベルリンの壁」崩壊という分水嶺を迎え、東西ドイツ統一、湾岸危機、ソビエト連邦崩壊へと雪崩をうつように急展開を遂げた。

そこから三分の一世紀。株式時価総額が米国のそれを一瞬上回ったがそれっきりだった日本国も、売り上げトップのカラヤン、バーンスタイン、ホロヴィッツを一気に失って救世主が出なかったクラシック産業界も暗黒時代を迎えている。

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ポジショントークやる奴は例外なくクズ

2023 MAR 14 2:02:35 am by 東 賢太郎

ポジショントークなんて英語はない。こういう和製英語を誰が発明するかは知らない。馬鹿がシミュレーションをシュミレーションと英語できます顔で言ってるのと変わらないレベルだが、要はそれが横行しているから名前が付くのだ。ポジショントークは自分が利益を得る我田引水の主張を気づかれないようにそれとなくすることで、誰が見てもその売り子ですよという者が堂々とやるセールストーク(これも和製っぽい。米語はpitchだ)とは異なる。

要するに、象徴的にいうなら、自分が持ってる株を「上がりますよ」と言って皆に買わせて株価を吊り上げようとする行為のことであり、そういう魂胆があるなら「それとなく」だろうが「堂々と」だろうが品性を問われることに変わりない。資産(持ち高)を “position” と呼ぶのは金融業界の用語であることから、和製英語「ポジショントーク」の発生源には我が業界が関与していた可能性は否定できないように思う(ちなみにこの業界はグローバルを気取る者の巣窟だが、英語がまともにできる者はほとんどいない)。しかし品性の是非はともかく、金融業界はおカネを商品とするそういう業界なのであり、嫌なら入るなというものだ。日本だけでない、この業界は世界的にそうであり、そこの住人である僕はその是非を論じる気はない(それこそポジショントークである)。

そうではなく、問題と思うことは、金融業界の住人ではない人たち、つまり社会的地位はあってもこの一点において僕の目には一般人、シロウトにすぎない人達が国会やテレビなどの公の場でポジショントークをしゃあしゃあと展開する風潮の世の中になってしまったことなのだ。立ち位置(例えば「私はこの会社の社員です」「その株を持ってます」)を明確にお断りしておいてからその会社をほめるならそれはセールストークであって許容される。さらにいうなら、自分で自分をほめる行為だって宣伝、広告、PR、マーケティングであって何の問題もない。しかし自分のポジションを隠しながら巧妙にそれをやろうとする魂胆(悪だくみ)があるのがポジショントークであって、一歩間違えば詐欺と変わらない。そういう輩が増えたことと、電話で老人を騙す詐欺師が増えたことは同根の社会現象と僕は考えている。理由は簡単だ。どちらも表向きはどうあれカネ目あてなのである。とすれば、金融界というカネを商品として扱って稼ぐそのプロの世界で100年かけて磨きぬかれた手法が世にはびこるのは道理があることだ。

しかし、カネが商品でない業界がそれを真似ることに僕は一抹の危惧を覚えざるを得ない。学生だった頃、「レコード芸術」誌の音楽評論を熟読しながら「推薦盤」の裏にコネの癒着はないか疑った。ひねた学生だったのは、受験勉強をしながら問題を作る側の心理を見抜く癖がついていて、評論家にそれを当てはめて文章を読んだからだ。個々の推薦に癒着はなくても、商品としてのレコードを論じる雑誌はレコード業界全体の羽振りが良いことこそ自誌の寄って立つ好適な「ポジション」であり、どれであれレコードは売れて欲しい、つまり “推薦盤” としたいバイアスが雑誌社にはあるはずだ。するとその会社にカネをもらって雇われる評論家にも「 “無印” はあっても “買うな” はない」(どのレコードも基本的に良いものだ)というバイアスがかかり得る。その意味で、癒着とまではいわないが共生しているわけだ。

演奏家のえこひいきぐらいは人間のサガで許せるが、カネ目あてになってよい業界といけない業界は厳然と線引きがある。いや、まともな国家であるならばなくてはならないのである。雑誌は所詮そういう性質のものだから前者で結構だが、芸術は後者である。アートの評価がカネで買えるなら文化は崩壊するからである。ましておや、国の会議、公共の電波を使うテレビ等でポジショントークをたれ流すとなると、その者は公共財を流用して世論を私利のため操作して我田引水を目論んでいるわけだから、それに成功しようがしまいが、その行為だけで国家が厳罰に処すべきなのは当然のことだ。その者をメンバーに指名した者、雇って出演させているテレビ局は、その者の魂胆(悪だくみ、疑似的詐欺)をシェアしていることにおいて同罪の共犯者であり、公共財を使用させる資格要件を本質的に欠く者であるという世論の審判を下さなくてはならない。

法人業務が大きな収入源である証券会社が書くアナリスト・レポートの「売り」推奨比率が圧倒的に少ないのも同じことだ。株式を推奨される法人が顧客でもあるからだ。僕は証券会社に入ってみて、左様なことがあまりに日常的に当然のように堂々と業務としてまかり通っているのにけっこう驚いた。これが社会というものか、世の中とはそういうものなのかと。しかし当時はまだ健全な世の中であったと感慨すら禁じ得ないが、それは社会でも世の中でもなく、株を売買してもらわないと収益があがらない「証券会社というポジション」の中だけのことだった。つまり売買手数料で儲けるというビジネス・ポジションを張っていれば、売りだ買いだと情報が飛び交う環境を作ることで注文が増えて得になり、それが法人業務の基盤にもなる。レコード業界の売上が多くないと売れない音楽評論誌と同じ理屈なのだ。だからそれはポジショントークになり得るが、証券会社は自己の立ち位置を公然と明かして堂々とやっており、社内では適切な用語で「セールストーク」と呼んでいたのである。

初めは抵抗があったがその理屈と業界のなりわいには一理あった。当時の東証一部の日々の出来高は3億株ほどで、それだけの売買量があるから企業は銀行借入れより低コストの資金調達を株式市場からすることができ、日本経済は1980年代に世界を驚かす未曾有の急成長を遂げることができたことは誰も否定できない事実である。もし最大手の野村證券が売買情報提供のサービスを止めれば出来高は5千万株もなかろう、それでは大企業の資金調達は無理だろうなと社内でリアルに体感していたのをはっきりと思い出す。だから大河の中の一滴に過ぎなくとも参加はしなくてはと、自分が良いと思う株を買ってもらうためにセールストークを磨こう、どうしたら投資を知らないお客様に心から理解、納得して買っていただけるだろうと日々研鑽を積んだ。

だから僕はポジショントークをやろうと思えば苦も無くできる。プレゼンというのは何か商品やコンセプトを買ってもらう目的でやるポジショントーク全開の場であって、それは息をするぐらい自然にできるプロとして長年この業界を渡ってきたし、何より海外で食うか食われるかの交渉をする場で野村の利益を守る最強の武器としてもワークした。しかしその技術は自社の利益や自分のボーナスに直結するものの、基本的には資本市場が健全に働く公益のために使用していると少なくとも自負してきたし、しなくても常にそうすべきものなのであって、私利私欲だけの目的で使えば下賤になりかねないという倫理観を伴うべきもの、空手やボクシングの選手が喧嘩に技を使ってはいけないような性質のものだと思っている。

僕が証券会社を辞めるに至ったのは、自分も、どんなに偉そうなことを言おうと所詮はさもしい金融業界の人間のひとりと悟ったからだ。「公益のため」のはずが「会社のため」「自分のため」にだんだんグレードダウンしてしまうのはどうしようもなく、放っておけば自分の中で正当化できてしまい、生きるためなのだとそのノリを超えている自分に気がつかなくなっていると危惧したことが大きい。つまり、「自分が良いと思う株をお客様に買ってもらう」といいながら、理由はともあれ、アドバイスするだけで自分は買わない証券マンという職業は倫理に欠けると思うようになってしまったからだ。だからソナーはアドバイザーと名乗りながらもまず自分が投資家であり、自分が買うものだけをお客様にすすめて同じリスクを取る。それを明かすのが自分が取るべき「ポジション」だと考えて起業した。ちなみにブログを実名、履歴を明かして書くことにしたのも同じ考えからである。

ところが僕の行動とほぼ軌を一にして、真逆の現象が世の中の目につくところにはびこりだした。私利私欲だけのポジショントークを弄する者がそこかしこに跋扈(ばっこ)しだしたのである。1億総証券マン時代かと目を見張るばかりだ。それも、どこで覚えてきたのか、笑ってしまう稚拙なレベルで堂々と国会やテレビのコメントや討論番組でその下衆な魂胆が開陳され、本人は自分が張っているポジションへ巧妙に利益誘導したつもりが恥ずかしい馬脚だけが現れ、醜態をさらして自ら株を下げているというたぐいのものが多いのである。それでいて本人はどうだ賢いだろう、議員や知識人として賢く見えてるだろうと得意がっている風情があって、まさに英語のつもりでシュミレーションを連発してる馬鹿に等しいことを知らない。

断言するが、私利私欲のためだけにポジショントークをやる奴はウソつきであり、例外なく人間のクズである。これは古今東西、まともな人が他人を評価する恒久的鉄則なのである。自分のポジションを相手に悟られると計略がバレるからそれを隠しながらトークをやるわけだが、それがみっともないことだと気づく品性どころか見抜かれてるかもしれないと警戒、自省する知性すらない。こういう者が選挙で圧勝したりテレビでお茶の間の人気者だったりし、わーわーうるさいだけで何言ってるかわからない不思議ちゃんが不思議ちゃんにウケてるこの国の民主主義は大丈夫だろうかと有権者が考えないのも実に不思議である。連中をはびこらせているのは国民なのだ。国民の20%も投票してない政党が万年与党であり、それはおかしい、打破するぞと勇ましく言うのが仕事であり万年ポジショントークである野党はビジネス左翼の利権を守るだけ。異次元の不思議な国だ。

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