Sonar Members Club No.1

カテゴリー: ______世相に思う

感染リスクがあることは万事「致しません」

2020 FEB 22 1:01:30 am by 東 賢太郎

去年、僕はインフルエンザにかかり1月某日に発症した。いつどこで誰に移されたんだろう?日記を調べると、心当たりがあった。その顛末でこういう目にあったのはまず間違いない(ウィルスは本当に恐ろしい)。

思えばあのころ疲れが極限に達していた。ビジネスチャンスがあったからで、そういうハイな時はインフルなど頭になくガードが甘くなる。好事多しとはこのことだ。

そこでウィルスのことを素人ながら徹底的に調べ、「体内に侵入されたら終わり」「治す薬はない」「国も医者も誰も助けてくれない」ことを学んだ。そこで1月30日に不顕性感染者2人の存在が発覚した時点で、

僕は終息宣言が出るまでは誰とも濃厚接触を避け、手すりつり革は触らず、エレベーターのボタンを押した指までもすぐアルコール消毒し、満員電車には一切乗らない

と決めた。それに限らず、ちょっとでも危ないと思ったらソンタクも非礼も何もない、問答無用で「致しません」だ。

同時に、官邸も厚労省も「致しません」だろうと予感した。1月31日に投稿したこれの後半である(不顕性感染者ありは非常に重要な情報)。書いているうちにだんだんそっちがメインになって、なんだかわかりにくいブログになってしまったが、わかる人はわかってくださっているようで安心した。

3週間たってまさにそこで心配した事態が発生しているが、自民党や厚労省を責めても仕方ないのだ、政治に関係ない現場は必死にやっておられると信じるが、もはや日本国の政治力学がそうなっているのだ。オーナーでない組織の通過体にはそんなリスクを取る気がないか、保身でできないか、したくても専門的理解がないか、それ以前に頭がないか、しない方がいい理由があるか、そのどれかだ。

 

東大は「受験不可」

2020 FEB 20 0:00:00 am by 東 賢太郎

令和 2 年 2 月13日
                       
 
 
本学の入学試験を受験する皆さんへ
 
東  京  大  学
 
 
令和 2 年度東京大学入学試験における新型コロナウイルス等への 対応について,以下のとおりお知らせします。
 
 
・ 試験当日まで,新型コロナウイルス等への感染予防(手洗いやうがいの励行,外出 時のマスク着用等)に気を配り,体調管理に努めてください。
 
・ 試験日近くに発熱・咳等の症状のある受験生は,必ず医療機関で受診し,適切な治 療を受けてください。
 
・ 試験当日は,感染予防のためにできるだけマスクの持参・着用をお願いします。   また,試験会場では, 「手指消毒用アルコール液」を準備するので必要に応じて使用  してください。
 
・ 令和 2 年 2 月 1 日,新型コロナウイルス感染症は,政令により指定感染症及び検疫 感染症に指定され,学校保健安全法施行規則が規定する第一種の感染症と見なされる こととなりました。そのため,罹患者は本学の入学試験を受験できませんので,ご注 意ください。 なお,追試験等の特別措置は予定しておりません。

 

「罹患者の試験は致しません」「追試験も致しません」。この判断には複雑な思いがある。いろいろなファクターを検討した結果としての苦渋の決断だろうからその是非を問うことはしない。しかし、この「お触書」を見た表面的な解釈は、年1度しかない入学機会の提供よりも、全受験生をウィルスから守ることを東大は選択したということになろう。それが嫌なら罹患しないよう注意すればいいだろう、自己責任だと言っていることになる。その能力も本学生の資質の内とされるならやや疑問はある。

受験はオプションである。受かるかどうかはともかく、受験料というオプション代金を払えば誰でも権利は得られるという建前がある。それを剥奪する合理的な理由はなかなか思いつきにくい。そこで、追試験をすればそれでも構わないではないかという議論が起こるだろう。しかし、それもしないというのが結論なのだ。

追試験に本試験と同じ問題を出すわけにはいかない。とすると、本試験と追試験は別々なスクリーニング・カテゴリーで合格者を選別することになり、被選別者のクオリティーに誤差が発生することは避けられない。東大はそのリスクを回避して、歴史の連続性を担保すべきと結論したという結論になろう。大学院からの入学も本試験入学とは質的にまったく別であることも含め、妥当と思う。

 

 

 

満員電車のっちまえ族

2020 FEB 1 20:20:54 pm by 東 賢太郎

僕はそのひとりであった。中学から12年ほどお世話になったから、そこそこ筋金がはいっている。往復3時間、トータルするとほぼ丸1年間を満員電車で過ごした計算になるからだ。

小田急線も中央線も朝夕は殺人的だった。座るなど論外であり、吊革(つりかわ)につかまれただけでラッキーと思うも束の間、線路のカーブで物凄い圧で後ろからのしかかられ、慌てて手をついた窓ガラスがしなって割れそうになり、仕方なく座っている人の上に倒れこんで御免なさいなんて都会ではあるまじき光景が展開する。押しくらまんじゅうという遊びがあったが、あの状態のまま右に左にジェットコースターみたいに振り回され、足を踏まれ、見知らぬ人の汗と体臭と息にまみれる。人間事と思えぬ地獄の3時間であった。

あれに乗ると何かいいことがあったろうか?ない。というより、それを考えたことも疑問を持ったこともない。東京都下の鶴川に住んでいた僕にとって満員電車は家具のように生活の一部であり、敷かれたレールの上を当たり前のような顔をしてやってきた。レールの先の霞みの遠くのほうには大学、就職という名の駅があるらしかったが、さらにその先はというと終着駅は名前も見えておらず、やがて時がたってそのあたりまで来たつもりがいつの間にかレールは途切れていたから何を保証してくれたわけでもない。満員電車は「嫌だろう?のりたくないだろう?でも多勢に無勢というぞ。長いものには巻かれるんだ。のっちまえば楽だぞ楽だぞ・・・」と何者かの声が潜在意識下で聞こえている気もするが、それ以前に家具である。「満員電車のっちまえ族」の第一の特徴である。

海外勤務になったのがどれほど福音だったか。あれに乗らなくていいというのは、僕にとって英語ができるようになるよりもボーナスが倍になるよりも価値があった。ロンドンでも1年ほど地下鉄通勤をして、時間帯によってはそれなりに混んではいたが、ぎゅー詰めでドアが閉まらぬ事態のために乗客の背中や尻を押す達人を配備した駅というものはなかった。世界で初めて地下に鉄道を走らせた彼らはそれをトンネルの形状からチューブと呼ぶ。僕は丸っこい穴からにゅっと出てくるモグラを連想していたが、東京に初めて来た英国人は満員電車を目撃して convoy(護送車)と形容した。

こういう電車は東南アジアにもある(写真はタイ)。日本もかつては貧しかった。しかし、G7にまで昇りつめ世界3位のGDPを誇る国になっても、50年前と変わらぬ姿で存在している満員電車なる空間はいったい何なのだろう?何を意味してるのだろう?お考えになったことはあろうか?それがNOであることが「満員電車のっちまえ族」の第二の特徴である。

インドやタイの一人当たりGDPが今の日本なみになれば、こんな電車に好んで乗りたい輩は素直に消えているだろう。素直に存続している日本は世界でも稀なる国であり、満員電車はそれを象徴する特異な空間というべきなのである。それは、日本語という世界でも特有の粘着質の言語と文化が強固なグルーとなって人々が結合した、日本国なるスペクトラムの内にしか存在しない、ある種の宗教的スペースである。毎朝6時すぎにあれに乗り、死ぬほどの苦行を共にすると、何という安心感が得られたものだろう!俺は私はがんばっている、レールに乗っている。そういう見知らぬ人々が、私もあなたも日本人だね、それわかってるよ、だからここにいるんだよね、お互いにいやだけどね、ああ疲れた、やっと到着だ、でもこれが人生だ、まあ辛いけど今日も頑張ろうと、貴重な時間と忍耐を人質に差し出して日々の生活の安堵をいただく。

それはお正月、神社へ出かけて願をかける初詣という安らぎの儀式のデイリー版のようなものなのだ。我々は西欧の原理、呪縛、科学や法律や数式や合理主義の衣をまとって日々生きている。ああ面倒くさい、鬱陶(うっとう)しい。世の中そんなもんで動いてね~よ。その衣を、お賽銭を投じてえいっと脱ぎ捨てるのだ。その瞬間、やさしい和の心をもった神様が現れて願いをきいてくださる。理性ではそんなはずはないだろうと思いつつも、真剣にお願い事を心に唱えると安らぎの気持ちがいただける。お札や破魔矢や熊手を買っておみくじを引いて、ああ、日本人でよかった、やるべきことをやった、これで今年も安心だ!日枝神社がどんなに凄まじい雑踏になろうが、立ちんぼで1時間待たされようが構わない、むしろありがたい。行った神社がガラガラでは御利益がない気がする。「満員電車のっちまえ族」の第三の特徴である。

ドイツに赴任して何年目かの一時帰国休暇で東京の地下鉄に乗った。たしか水天宮のあたりだから半蔵門線だったのだろう、真っ昼間なので車両はガラガラである。すると隣りに座っていた幼い娘がきょろきょろしながら「ねえパパ、あの白くて丸いものなあに?」と上の方を指さした。

言われて吊革をまじまじと眺める。初めて見た娘の疑問はもっともと思った。無数の輪っかが空中に延々と、まるで陸軍の隊列みたいに寸分の狂いなく一直線に並んだ光景は美しい。しかも、たしかに白い。七五三の飴みたいに、ぴかっと真っ白なのだ。ニューヨークの薄汚れたサブウェイを見慣れた眼からすると、こういう場にあるのは甚だそぐわしくもない穢れを知らぬ純白ぶりだ。この宗教的空間の欠かすことならぬ神具である。

ああ日本だと思った。こういう眼になっている。吊革の印象は僕の変遷してしまったビジョンと感覚の象徴であり、日本国のあらゆる物事についてすべからく、自覚はないけれど、僕は知らず知らずそんな眼で眺めるようになっている。だからもはや満員電車のっちまえ族ではない。日本人と思って同意を期待され、想定外のリアクションに驚かれてきたに違いない。16年海外で毎日英語で仕事したのは重い事だった。それをバイリンガルとか、そんな目線で語ることは無理で、僕の思考回路をDNAとするなら塩基配列の一部に英語回路が組み込まれてしまっている。正確に説明するには英語の方が楽だし、英語の方がぴったりの形容詞があったりするし、こうして書いている日本語もたぶん英語回路から出ていたりするのだろう。

といって、僕はそのことを正確に理解できる人は塩基配列の一部に英語回路が組み込まれている人だけだという悲しい事実も知っている。それは遺伝や育ちや学歴や職歴でどうなるものではない、英語人になって10年もしないと脳の神経回路は変わるものではなく、そうでない回路がいくら性能が良くとも概念的な理解や想像では把握できない。だからそうでない人に理解を求めようということもない。平成、令和と日本はどんどん昭和離れし、近頃は女子が昭和のオジサンをカワイイ!と愛でる時代だ。いずれその世代は「満員電車のりません族」になってテレワーク(在宅勤務)が常態化し、満員電車の人口密度は緩和されるのだろうが、決して「のっちまえ族」が滅亡するわけではない。塩基配列に何ら変わりはない「新型のっちまえ族」が日本の大多数派として出現するだろう。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

国語、数学の論述式について

2019 NOV 16 2:02:13 am by 東 賢太郎

国語、数学の論述式の採点をアルバイトがやるのどうので是非を議論されている。アルバイトだからいかんという理由はないが、論述となると採点者の採点力の有無を試験して採用しないと問題である。1次試験は〇✖で足切りして、論述力は各校がレベルに合わせて2次でしっかり見ればいいのでは。

僕は国語がはっきり言って大嫌いであったからあれこれ述べる資格もないが、そうなったのは理由が2つあるので書いておく。

①駿台の模擬試験で採点に疑問があり、それ用の質問表のようなのに文句をつけて出したら点数が増えたが、今度は増えた理由がもっとわからず、採点した人の頭の構造に疑問を持った。

②いつも現国の点が低かったが、梶井基次郎の「檸檬」が出た時だけは異様に点が良くてびっくりした。これは好きな小説だった。なんだ、読んでるかどうかの試験なのか、文学同好会の入会試験なんだと思った。

これをもって、僕は国語の勉強は時間の無駄であると結論し、数学で満点取れば零点でいいやと捨てることに決めた。文系だがそれで結果オーライであった。

先日TVのワイドショーで実験をやっていて、実際の現国の論述問題を受験生、採点者(教師)の集団に解かせ、学生の自己採点、教師の採点を比べると点数に有意な差が出ていた。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

いかがなものか野郎

2019 JUL 6 15:15:23 pm by 東 賢太郎

チューリヒでは会社でソフトボールのチームをつくった。野球場はないからソフトということだが、アメリカと違って現地の人がやらないし選手もいないだろう。気乗りしない。しかも僕はゴルフに忙しいのだ。ところがどういうわけか社員の方が日本企業のリーグ戦やりましょうと盛り上がってしまっていて、僕のニューヨークでの話は聞いていたろうしいま思えば社長へのソンタクの一環だったのかもしれない。知らないうちに立派なユニフォームができて、しかたなく監督をひきうけた。

野村スイスは当時日本の証券会社の海外ビジネスとしてそこそこ収益源だったスイスフラン建て債の引受拠点だから組織は大きく、年間起債額は1兆円もあって野村は総勢約150名と日本の銀行・証券の最大勢力を誇った。チューリヒが本店で、ジュネーヴ、ルガノと販売のための支店が2つあって支店長も置いていた。「ソフトをやるぞ、チューリヒに出てこい!」と週末に日本人は全員集合の号令がかかるわけだが、思えば大変なパワハラ監督であった。日本人だけで30人以上だからチームは2つ、3つできてしまう。練習になって皆の実力を見ないとレギュラーが決められない。ここでノックをかましてみる。ひとり5本で1軍が決まり、もう10本でポジションが決まり、打撃練習でひとり10発打って走って打順が決まる。そんな感じで即決で代表オーダーが決まった。

素人のソフトはタマが遅い。右が思いっきり引っ張るのでショート、サード、レフトが華でみんなやりたい。思い出したが大学の体育でソフトがあり僕は不動の4番ショートであった。この時も血が騒いでしまい、40才でショートはちょっとキツイから「俺がレフトな」となって誰もだめなんて言えるはずなく、3番を打った。野村というのは体育会出身が多く金融界において運動の偏差値はかなり高かった。スイス・トーナメントは銀行、証券、保険チーム相手に連戦怒涛の圧勝でV9の巨人なみだった。ただニューヨークのあの時とおなじで体育の先生が中軸でおられる日本人学校は強豪であり練習も積んでいる。そちらも勝ち進んでついに決勝戦で当たってしまった。

僕はチューリヒ日本人学校運営委員長という公職の身でもあり「委員チョ~、生徒も見てるのよぉ~負けないとあとでお仕置きよぉ~」なんて校長先生からおそろしいヤジもいただいたが、選手たちどこ吹く風で元気溌剌。結局この大会唯一の僅差であったが優勝してしまった。胴上げされたのは人生で一度だけこの時で、上下左右の感覚が飛んでしまい天が雲がぐぐっと近づいてきて不思議な景色だった。その後、ソフトボール運営委員会で野村さんは強すぎる、チームAとBにするべきだと分割案も出たらしい。

この年、東京の部店長会議でスピーチをしろといわれ、壇上で仕事のほうはそこそこにこのソフトボールの話をアドリブでしたら、熱が入ってたのだろう大喝采となってしまった。1996年のことだったが平成という時代も野村證券もまだいい時代だったのだ。常務が「東、今日の原稿俺にくれないか」と来たが、「事前にスピーチ原稿を提出しなかったのは開闢以来お前だけだ」と企画室に怒られていたぐらいでそんなのはなかった。そうやって丸裸で勝負するスタイルを受け入れてくれる先輩がたくさんいたから僕は野村を選んだし、生きてもこれた。そうでなくなってきたのは世紀が変わったあたりからだろうか。

しかしそれは野村一社の話でなく世の中すべての流れだったのだ。その悠久の移り変わりのなれの果てなんだろうか、いまや野球の応援歌に「お前」はいかんらしい。部下はぜんぶお前だった僕は女性の部下を初めて持った時についに勇気をもって**さんを導入したわけだが、++くんは絶対になかった。女性の上司は経験ないが東くんより呼び捨てかお前がいい。僕にそれという感覚は女性には持ちにくいはずだ。「くん」は年齢が上とか、人事発令上の権限者であるとか、仕方なく上にいる者の権威をまとった上から目線を感じてしまう。そういうものが大嫌いで、逆になんでこんな奴に命令されるんだ、倒してやろうと思ってしまう性格なんで、僕の上に立つとしたら女性を捨てた実力者しかありえない。幸いいなかったが。

男であっても僕が「東、お前」でついていった少数の人とそうでない大多数の人がいる。お前がクンになる人もいるがその方の品格の問題だから構わない。人事権で上に乗ってるだけのについていったことは開闢以来一度もない。長にある人が「東、お前」でくる、つまり自分も裸でぶつかってきて、それを見て、元から裸であるこっちが何らかの敬意を持つかどうかなのだ。それを僕はソフトボールで監督というものを初めてやって、なるほどと思った。野球というものを、その勝ち方を僕は知ってるわけで、それはやればみんなわかるわけで、だからついてきてくれて集団の士気が上がってひとつにまとまる。忖度でもヨイショでもなく男の子の勝利の雄たけびで自然に胴上げしてくれる。スイス3拠点が団結したという手ごたえを僕は職場よりグラウンドで感じたからそれを部店長会議で話したし、それを「神聖な場で遊びの話などいかがなものか!」なんて輩はまだいなかった。

いまなら「休日出勤ですよ、組合員の時間外勤務手当はどう処理するんですか、出張費、交際費は無理ですよ」なんてアナザーいかがなものかが出てくるだろう。うるせえ、みんなこの勢いであした100倍稼ぐんだ、お前はだまってろ、で当時の僕は終わってただろう。喝采してくれた部店長もそうだったろう。それが昨今の会社の内情を聴くとそういうものはもうかけらもないし、ある意味ふつうの上下関係のいい会社である。僕が新卒で入社試験を受けても絶対に落ちただろう。いかがなものか野郎がウンカのようにはびこったのはその後だ。僕は完全な体育会系武闘派であり、秀吉の号令一下で文禄・慶長の役で奮戦し、朝鮮へ行きもせず秀吉に「いかがなものか」の讒言を吹きこんだ石田三成を関ケ原以前にぶち殺そうと企てた七本槍みたいなものだった。僕は彼らよりも執念深い。実際こいつは絶対に許さないというのがいて、ずっと後々にある機を得てきれいに成敗した。

「いかがなものか野郎」は太平の世になった徳川時代から跋扈を始める大嫌いな人種だ。秀吉の世まではそんなのはいても武士でないのだから表舞台に出ようもなく、我が藩の存続のためにお考え下されなんて老中に諭されて考えてる殿なんてあっという間に滅ぼされてたのだ。それは殿が戦さ経験がないからであって、訳が分からないからいつも側にはべって比較的に利発なそいつの言う事をつい聞いてしまう。戦地で日々体を張って戦ってる武将はそんなことをする暇もチャンスもないから讒言にいいようにやられてしまう。徳川家康の偉かったのは、自身が誰の側近でもなかったからそういうダニに等しい讒言野郎がいることを良く知っており、戦場に「伍」の幟(のぼり)を立てた騎馬隊をそこかしこに走らせレフェリー(審判)にしたことだ。女に化粧させて虚偽もありえる首実検だけではなく、「伍部隊」の目撃情報も参照してフェアな論功行賞(人事評価)を行った。関ケ原の戦いで、「伍」の幟は撃ってはならぬという敵味方なしの戦場ルールもあった。それが政治をうまく運ぶにいかに大事かは封建時代の武将たるもの皆が了解していたのであり、それを知って合戦の見方が大きく変わった。

「いかがなものか野郎」は戦争なき江戸時代になって戦場ルールの衰退とともに出現したソンタク、ヨイショだけの宦官野郎の元祖である。主君の汚名をそそぎ、仇敵の首を取って仇討ちを果たし、自ら割腹してお家に忠義を尽くした四十七士の忠臣蔵は江戸の太平の世になってから1世紀を経て起きた事件だが、それがなぜ歌舞伎にまでなってこれほど江戸人の心を揺さぶったか?戦争がないのだから武士は公務員化しており抜刀して切りあうようなことはもうなくなっていたからである。武士はこうあるべきだよね、いまじゃもういないけどさ。つまり忠臣蔵は江戸時代の「走れメロス」なのだ。そんな人はいまやいないから道徳の教科書に載るのであり、君らは違うんだけどできればこういう人になろうね!という教えが学校教育としてレゾンデトールを認められるのである。事実、忠臣蔵を崇め尊ぶ江戸のサラリーマン侍を武闘派のままの薩摩侍は笑って馬鹿にしていたらしい。文化部系のもやしみたいな秀才が運動会で頑張ってるね程度に見ていたのだろう。

僕はふりかえればサラリーマン街道においては石田三成になっていればよかったし楽だった。でも秀吉にあたる方がいなくなってしまったし、逆にその時から逆風になってしまった。それでもいいヨットのスキッパーならジグザグにうまくレースを生き延びただろうがそういうのは下手だし良しともしなかった。物産の上海支店長だった祖父が何かは知らないがケンカして辞めて王子製紙の役員になった。その血は間違いなく引いてそっくりなことになってるし、長崎の祖母は陸軍大将を出した家だし武闘派も仕方ない。やっぱりサラリーマン上司を長いこと我慢するのは無理だった。「いかがなものか野郎」は木を枯らす害虫であって世の中にいらない。政治家も野党の演説は見事にそれだらけだ。でも、僕は誰からであれ、自分にネガティブな意見は聴く。実力のある人は、かつて僕の命を狙った敵であっても評価するし三顧の礼で引き抜くかもしれない。それは性格云々ではない、なぜなら、戦国武将はそうしないと生き延びられないからだ。

 

野村證券・外村副社長からの電話

 

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

副業解禁はウソ。好きなことを大事になさい

2019 JUN 9 13:13:30 pm by 東 賢太郎

筋トレは成果が出ているものの首が痛く、それを話したら他人をあまり褒めない後輩のF君が「神の手です」というのでかかってみた四谷の理学療法士Mさん。素晴らしい。彼女に「見えませんね」と言われてそうか俺は64才だったのかと我に返ってがっかりする。ジムの外転筋マシン150Kgでカラ元気がついてしまっている。

昔からみんなに言っているが金融の仕事が好きでこの道に入ったわけではぜんぜんない。人生、物心ついてから一貫して好きなのは音楽であって、アーティストの方が向いていたのかなと直島の現代アートを見ていて思った。きのう野球を観ていて好きなことで飯が食える選手たちがうらやましかったが、しかしあれを毎日やるのはしんどいだろうとも思った。両立しようがしまいが野球に煩悩が出てくるだろう。だったら「好き」ぐらいは「飯」から隔離して汚れないようにしてあげた方がいいのかもしれない。

僕は家事はしない。料理はもし本気でやれば相当うまいはずだがしない。そう母親に厳しくしつけられているので忠実に守っているのである。家内の作ってくれるものに満足しているしそれがWhen I am sixty fourの歌詞で貴重なこととわきまえてるし、敬意をもって女性の専門領域と思っているし、本気でしないならへたな職域侵犯だ。ということで、食事は出るのをじっと待つから猫と同格である。この点においても、子供時分から猫といっしょに育っていてよく先を越されていたから自然なことだ。むしろ、猫様がいてくれて僕は精神の平衡状態が保てているのだから先に食べていただいて当然である。

昔から生徒会長やキャプテンの柄でないから社長業はできればやりたくない。むしろ嫌である。飲み屋の話ではなく、社会人40年のうち数えたら17年も「シャチョー」とまじめに呼ばれているのは子供時分の自分から思えば驚愕の事実でしかない。ほんとうはクラス会で女子に「あずまくん」とまじめに呼ばれるほうがうれしい人間だが、周囲でそれを知っている人は誰もいない。ふりかえってみると僕は女の人のいうことはよくきくのだということがわかる。若い頃はそれを出すとみっともないと思っていたが、もうどうでもいいのでシャチョーをやってもらった方が気楽なくらいである。

という風に、「ふつうはこうですよね」とならないものがたくさんあって、あんまり書けないがその数からしてそもそもふつうでない。そうやって東京の子なのに昭和30年代に熱狂的カープファンになってしまう。だからふつうであることを要求されるシャインなどのっけから無理だったのであって、消去法の行く末にかろうじて残った職業がシャチョーだったと考えるのがいちばん説得力がある。留学生に選ばれたのも、英語ができたわけでもなんでもないのだから、クラシックが性根まで好きだというオーラが出ていて自然とそうなったと思う。

昨今、「副業解禁、主要企業5割」と話題でいよいよ銀行まで副業OKを言い出したが、そんなのは僕にとって何を今さらだ。シンセサイザーでチャイコフスキー悲愴、ドヴォルザーク8番、モーツァルト41番、ハイドン104番の全曲を演奏、録音したのはサラリーマンしながらであり、シャチョーしながらである。シンセがやりたいから稼業の仕事もついでにしていたようなものであり、しかもそこにゴルフというものが入ってきてそっちもシングルになるまで気持ちは本業になってしまった。ただし言い訳になるがそれで湧き出たエネルギーで一気に仕事も乗り切ったのであって、いまはそれが猫になっている。

「副業解禁」の本音は「当社にいても給料そんなに出ませんよ、他でお好きに稼いでね」だ。政府の「年金頼るな」発言とペアである。この問題に深く立ち入るのはやめておこう。なぜなら僕にはどうしようもない。「他で稼いでね」の部分で啓蒙ぐらいできると思って一時頑張ってブログを書いたことがあったが百万言を費やしてもそれで救われた人がいるとはまったく思えないと考えるに至った。日本人の投資の偏差値は30台であり、もう救いようがない。要するに、国であれ会社であれ皆さんの人生をお看取りまで面倒見てくれる他人など世の中にいるわけないという、もとから自明ではあった峻厳な事実と向き合うご時世になってきたのだ。

ひとことだけ書くなら、好きなことを大事にして、それを理解してくれる人を大事にすることだ。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

大坂なおみは米国に住んだ方がいい

2018 SEP 11 22:22:02 pm by 東 賢太郎

テニスはよく知りませんが、だいぶ前にどこかで見かけた大坂なおみのフォロースルーの写真がきれいで欲しかったのです。えもいえずアスリートであって、ああいう姿は誰でもできるわけでないですね、ポスターで部屋に飾りたかったがネットで探してもありません。あれは誰のものだったんだろう。

ニューヨークでセンセーションを巻き起こし、全世界何億人の見守る中で「初めて」、「アウェイ」、「アイドル」の3つの壁を破った二十歳。心から祝福し、尊敬します。セレーナ・ウイリアムズはけしからんという声が米国のプレスでもあがっているし、あれは米国人が望んだ結果ではなかったという声もある。しかし、そんなことがどうあれ、女王をあそこまで追い込んだ大坂なおみの力が勝ったということ、それ以外に何があるんでしょう?

1989年にウィンブルドンのセンターコートでグラフ対ナブラチロワのファイナルを前の方で観戦しましたが(グラフの勝ち)、激戦でしたしスタンドは熱気をはらんで大いに沸きましたが、両プレーヤーが自国人でないことを割り引いても英国人はいたって紳士的なものでした。米国人はあんなもんかと世界が思ってしまっただろう。あのごうごうとしたブーイングを一身に浴びたら誰でもびびるのは当然で、まして自分のアイドルだった相手が怒りまくってラケットをぶち割ってる。そこで冷静にプレーできた大坂の技量が女王を脅かすほど高く、メンタルタフネスでも女王を追い詰めたことこそ話題にされるべきと思います。

彼女はハイチ系米国人とのハーフで、日の丸背負って負けそうになると悲壮感が漂うタイプの人ではないでしょう。これまではマスコミは彼女が勝っても何でもなかったのに、ここに至ってにわかに日本人だ日本人だと騒ぎ出しました。そんなことしないでも彼女のしたことは何国人であろうが快挙で、国籍で評価したりしなかったりというのは幼稚だ。ストラヴィンスキーが春の祭典の初演でシャンゼリゼ劇場の客から大ブーイングを浴びたのと同じですね。見る方も大人の評価をしてあげたいものです。

私見では大坂なおみは米国を本拠でやった方がいいかもしれません。日本でマスコミにスポイルされ、ちやほやされるうちに勘違いして只の人で消えていったアスリートが何人いることか。彼女の言動を見ていると恐らくそういう軽い輩ではないと思いますが。米国は少々お品には欠けるが徹底した競争社会で、強いと認められてしまえば相応の報酬と名誉を惜しみなく与えてくれます。そこで磨かれたら10年は大坂の女王時代が来るかもしれない。是非見てみたいですね。

 

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

大人買いCDセットによるクラシック音楽市場の死

2018 AUG 25 22:22:01 pm by 東 賢太郎

アマゾンからマーキュリー・リヴィング・プレゼンス・コレクターズ・エディション3が届きました。アンタール・ドラティ、ポール・パレー、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー、アナトール・フィストラーリという気になる指揮者の1960年前後の録音が中心に53枚組というブロッキーなものです。

それが、昨日の午後にネットで見つけて注文したら今朝に家に届いている。店舗で買って、重たい思いをして持ち帰って一晩で53枚聴けるわけありません。でも、3日もたっての配達だとやや熱が冷めてしまう。翌朝のお届けは絶妙ですね。事務用品通販のアスクルは明日来るが売りでしたが、アマゾンの出現で全商品それが当たり前になってしまいました。

だからほとんどの実店舗型小売りは売上が減少し、米国でついにトイザらスが倒産というショッキングなニュースに至ったのはご記憶に新しいでしょう。残酷なようですが自由主義、資本主義はこういうもの、「アマゾンによる死(Death by Amazon)」は盛者必衰の理の一断面であります。

米投資情報会社ビスポーク・インベストメント・グループが2012年に設定した指数で、アマゾン躍進で負け組になりそうな実店舗型小売業を集めた「アマゾン恐怖銘柄指数」(Bespoke “Death by Amazon” index)の株価パフォーマンスを見ると2016年からの2年間でまさに恐ろしいことになっています。


思えばその昔、石丸電気などでLPレコードをあれこれ迷うのは絶大な楽しみでした。LPレコードは収録されているコンテンツの是非以前に、塩化ヴィニールの表面を擦過する針音が一品ごとに微妙に異なるという是非がありました。だから購買にはレジでの検盤という重要なプロセスがあり、それでも帰宅してターンテーブルに乗せてみないと針音はわからないというリスクは除去できず、さらにコンテンツである演奏が気に入るか否かというダブルのリスクがあったのです。

それをCDが駆逐して電子的読み取り信号が商品となった瞬間に目視による検盤は無意味となりました。「第1のリスク」は除去できたものの擦過がなくなり、購買という行為は均質な工業製品の仕入れと変わらなくなりました。しかしそれでもCDはモノではありました。それが今やEコマースだ。僕らはもはや物体でない「虚像(イメージ)」を紙幣という物体すら介さずにプラスチックのカードに記載されている無機質な数字列と引き換えているのです。

まあここまでは百歩譲って「利便性」の勝利と認めましょう。自由主義、資本主義はこういうものだと。しかし均質な工業製品は品質を落とさずに大量生産が可能で小型化により輸送費も在庫管理費も低下して物体としての製造、小売り単価は劇的に圧縮されます。すると「第2のリスク」である「コンテンツである演奏が気に入るか否か」は大方の購買者にとってリスクではなくなってきます。たかが1枚150円のCDがハズレでも大したことはないからです。

そこまで割り切ってしまった自分でしたが、新品53枚組のケースを開けてみると、しかし、これはなんということだと絶句してしまったのです。ドラティのブラームス交響曲全集がドーンと目に飛び込んで・・・。

ここから53枚目に至るまで、一枚一枚のジャケットに感嘆の声をあげながら中のCDを取り出し、いつくしみ、こんなやつが出てくると狂喜し、

こんなのが出てくるや、これは単品では絶対に買わなかったぞと嘆息するという塩梅でした。

このさまを観ていた家内にはわからないだろうと咄嗟に「子供の時にメンコのセットを買ってもらった時の気持ちだよ」と、我ながらうまいことを言うなと納得の説明をしたのですが、さらにわからなくなったようでした。ところがです、一連の出会いの感動からだんだん覚めてくると、この僕にもわからないことが頭をもたげてくるのです。

ちょっとまてよ、セットはいいが53枚組で8千円?なんだそれは、1枚150円かよ?カラのCDRがそんなもんだったじゃないか、ということはコンテンツはタダのおまけか?何かおかしいぞ、ドラティのブラームス、俺は1万円でもいいぞ、コープランドは5千円でも。

ほんとうです。まったくイラショナル(非合理)なことですが、僕は150円じゃなく1万円、5千円払いたいのです。もしそれで昔の価値観の時代に戻るなら・・・。

2000年ごろ不良債権のバルクセールというのがよくありました。纏め売り、バナナのたたき売りであって、単品では売れないクズ不動産を「オトナ買い」させたい銀行の窮余の一策でした。「53枚組はあれと同じか?そんなにCDは売れないのか?」、危機感が僕の頭をよぎりました。現実に売れ残りのバルクの中に箱根の土地があった。芦ノ湖、プリンスホテルを眼下に望む景観があって、えっ、こんな安くていいのという値段でした。

リゾート地が売れなくなる。業者は資金効率のために売らんかなの姿勢になる。すると売れる市場価格まで値が下がる。すると景観の価値は度外視になるのです。駅近、治安、生活インフラなど万人が気にする要素(地価を決めるハードとしての要素)に比べ趣味性が高い景観は先に無視される要素なのです。CDにおいてコンテンツである音楽は趣味性の要素で、売らんかな姿勢の業者がバルクセールをすれば、値段はハード(工業製品)原価であるCDR1枚の値段まで下がり得るということです。

それは購買者としてはむしろ有難いことです。しかし、マクロ現象として長期的な目で見るならば危機をはらんでいます。53枚組のどの1枚だってLPの頃は1500円はしていた。インフレを加えると10分の1超に至る価格破壊が「第2のリスク」を軽減してはくれます。しかし、その背景で由々しきことが進行しています。購買者は選択の安心と引き換えに鑑賞への集中力を無意識に放棄しているということです。まあ安いから聞いてみようか、1枚150円のCDがハズレでも大したことはないや。10倍のお金で買った場合とは集中力はおのずと違います。それが常態化すると人間は徐々に不要となった能力を失うのは進化の歴史が証明しています。

供給者側でも、アダムのジゼルの程度のクオリティの音楽、つまりたいして売れそうもないコンテンツを当代一人者のフィストラーリのような演奏家、最新鋭の録音システムでコストをかけて商品化しようというインセンティブは著しく低減するでしょう。英Deccaがヘルベルト・フォン・カラヤン / ウィーン・フィルを起用したジゼルは1分当たりの(音楽の価値)÷(製造者原価)の値が最も低い録音だろうと思われ、収録した1961年あたりにクラシック音楽ソフト市場の数値のボトムがあった可能性が高いと考えております。

需給の両サイドでの質の低下は確実に文化を変質に追い込みます。経済学のわかる人は本稿の趣旨である「アマゾンによる死(Death by Amazon)」との類似性を見抜かれるでしょう。大人買いCDセットはクラシック音楽ソフト市場の断末魔になりかねないのです。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

ワールドカップのポーランド戦は是か非か?

2018 JUN 29 23:23:21 pm by 東 賢太郎

デイリースポーツ新聞は阪神が勝つと一面は常に阪神。これが例外なしの不文律だったが、今回のポーランド戦では、「阪神3連勝」、「能見100勝達成」の大ネタを捨てて初めてサッカーを一面にしたそうだ。ワールドカップのポーランド戦は物議をかもした。あんなのを見せられたらサッカーはつまらんスポーツだなと思ってしまう。

あれがYesかNoかは、本質を突き詰めればサッカーが「スポーツ」か「ゲーム」かという宗教論争なのである。だから結論はない。なぜかというと、ゲームというものは勝てば官軍である。勝たないと意味ないから手段は問わない。極論すれば、バレなければいかさまでもいいし相手がクレームしなければルール違反でもいい。

パチンコで負けて出てきたおっちゃんに「惜しかったですね」、「いいゲームしましたね」、「次につながる負けですね」なんて声かけてみればいい。「兄ちゃん、あんたアホちゃうか?」でおしまいだろう。将棋も囲碁もチェスもポーカーも麻雀も、負けた人に救いの言葉はないのである。

しかしスポーツにはそれがある。敗者もいい戦いだったと讃えられて報われたと思えるものがある。勝敗はもちろんプライオリティーだが時の運でもあり、勝負の中でみせる技術、勇気、フェアプレー精神を是々非々で評価しようという心の在り方がスポーツの根幹にはあるのだ。

サッカーをスポーツと考えるならあれは誰が見ても異論のない無気力試合である。イエローカードの差など何枚あろうがなかろうが、チームごとレッドカードで退場であろう。一方でサッカーをゲームと考えるならあれは他力本願だろうが負け試合の時間かせぎだろうがなんだろうが、是であろう。

西野監督はワールドカップをゲームとして戦ったわけだ。だからあれは是である。彼はルールに則って合理的な判断をしたわけで、ではその根拠となる彼の使命は何かというと、野球場にも大勢いる「ファウルが誤審でホームランでもうれしい。なぜ?勝ったからだ。勝てばいいじゃないか、なんであろうと」という類の人たちをエンターテインすることだからだ。勝てばいいじゃないか、なんであろうと、の人たちが西野はボケだとけなし、翌日に勝つと神だと讃え、鉦や太鼓をたたき、そうやってサッカーを支えマスコミの井戸端会議をにぎわわせてくれるからだ。デイリースポーツの編集長はだから悩んだのだ。西野は苦渋の決断と言ったが、本来サッカーはスポーツであるという信念との齟齬に苦しめられたのであろうと同情する。

なぜかというと、僕はあれを見せられると、サッカーは問答無用でつまらないと思ってしまうからだ。そうではないことは知っている。ミラノのサンシーロで、8万人のスタンドがごうごうと揺れどよめく中で観たインテル・ミラノとACミランの白熱戦など一生忘れることはない。西野監督はワールドカップを「ゲーム」と割り切って勝ち上がりルールにコンプライアントな戦略を採ったが、そのルールがああいうことを招いてしまうのはサッカーにとって損失と思う。「無気力試合はチームごとレッドカードで退場」のルールも導入したら何か不都合でもあるのだろうか。

 

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

スポーツマンシップの正体(日大アメフト部事件)

2018 MAY 25 2:02:39 am by 東 賢太郎

清規(せいき)と陋規(ろうき)という言葉がある。清規(せいき)とは人を殺めてはいけない、喧嘩や盗みはするな、借りた金は返せなどだ。法律が禁じたり義務づけているものはすべてそれだし、親孝行せよ、正直にせよ、弱い者は助けよなどの道徳もそうだ。

それに対して中国には陋規(ろうき)と呼ばれるものがある。薄給の役人が賄賂をとって生計を立てる。無論悪いことなのだが、それを為政者は(薄給に止め置く張本人なのだから)あえてお目こぼしにする。その代わりに「一定のルールを守ってやれよ」という。その最低限のルールが陋規だ。

これが転じて裏社会、アンダーグラウンドの約束事、掟の意味になったようだ。任侠道がまさにそれで、やくざ映画で

「お前さん、それをやっちゃあおしまいだぜ」「待て、待ってくれ」、ズドン!

なんてシーンがあると、「あーあ、仕方ないな、あれやっちゃあね」なんて堅気でも思う・・・そういうものが陋規だ。

世の中は実は陋規で動いているかもしれない。野球などそれだらけだ。内角攻めはビビらせるためにやる。「内角をえぐれ」なんていわれる。そんなのは当たり前でそうしないと好打者には打たれる。捕手が打者の懐のあたりに構えることもある。それで手元が狂って当ててしまったこともある。度を越して「それをやっちゃあおしまい」となるとプロなら乱闘だ。

巨人の山口投手が横浜ベイスターズ時代に、広島カープの会澤の顔面に死球をぶつけてグラウンドに救急車が入る大騒ぎとなった。会澤はしばらく入院した。それがありながら先日、山口は2打席連続で会澤にぶつけた。これにはベンチも騒然となり、まさしく「それをやっちゃあおしまい」であって、血相変えた会澤がマウンドに向かっていって乱闘寸前になった。山口が故意でやったとは思えない。会澤という打者が苦手なんだろう。

さらにその末にあったのが一昨日のゲームだ。巨人先発はお待ちかねの山口。ここで広島の緒方監督は普段は7,8番の会澤を5番に入れた。これはファンならわかる異例の打順で、会澤を含む全選手の発奮を促すオーダーだったと思う。この試合、発奮したのは山口で2安打完封した。カープもあっぱれと思ったろう。男の勝負というのはそんなものだ。

そういう場にわけのわかってない人たちが出てきて「内角をえぐれと命令されたんですね」とか「傷害罪ですね、未必の故意があります」とかなるのは誠に興ざめだ。そんなことのないよう、つまり勝負事としての投球術の常識の範囲で処理できるように「危険球退場ルール」ができたのだと思う。意図は微妙に不純だがあえてお目こぼしにする。しかし「頭を狙うなよ」という裏取引の最低限のルール(陋規)が明文化された(清規になった)レアなケースと思う。

アメフトで「潰してこい」が何を意味するかは知らない。「思いっきりいけ」「ぶちかましてこい」程度の発破ならぜんぜんありだが、チームに一人しかいない要のQBをあえて狙った、2秒後だったということで「よほどの場合」になってしまったのは仕方ない。世間でなく相手チームが怒ったということだからこれは明らかに陋規違反なのであり、法律が出てくる以前に現場の掟として許されないことだ。

問題は実行した選手が泣いていたことで、陋規違反とわかっていたからと思われ、ということは清規においても故意があった実行犯となるだろう。監督、コーチは「潰してこいはどこのチームもかける発破だ、まさかあんなことをすると思わなかった」とするのが常套だろう。監督らにも故意が認められ教唆(共同正犯)になるかもしれないが3人悪いことになるだけならば何とも救いのない気の毒なケースだ。

陋規を書いているのだからマキアベリ風、半沢直樹風に徹しよう。敵の主力が不調になればありがたいと監督、コーチが思うのは、思うだけなら罪ではない。内角をえぐるのはスイングをおかしくしようという実力行使でもある。巨人以外の全監督は菅野がイップスになって二軍落ちでもしてくれればラッキー、しめしめだろう。「そう思うこと自体いけないですね」などと善人を演じないと常識人、知識人ではないという風潮は「女性をいやらしい目で見たらでセクハラです」と取り締まるに似る。男にそういうことはさせませんと子供にウソを教えて無菌室で育てるようなもので、かえって怪しい男がわからなくなって危険である。

「スポーツマンシップ」という言葉は、往々にしてマスコミによってその文脈で使われる。「わけのわかってない人たち」が善人を装う場においてだ。敵の主力が不調になればありがたい?とんでもありませんね、青少年に夢を与える場ですよ、そんなこと考えるだけで不純です。こうして「女性をいやらしい目で見る男はいない」という虚構のお花畑が作られる。そうやって昨今巷にあふれだした勘違いの青少年が作られていくのだ。これはいずれ日本を滅ぼす。スポーツだけはそういう子を作らない最後のバックストップなのに。

今回、日大のコーチが言った「潰してこい」は昔の子なら含意とTPOを忖度してぎりぎりの偶然性を装う中で実力行使をしてきたかもしれない。そういう忖度反応が見えないことが、才能があるだけに、監督のこの選手への「成長不足」という苛立ちの蓄積となり、それをおまえの指導不足とされそうなコーチが本来は含意に留めて言わなくてもいい本音の部分をわかりやすく「解説」してしまった。その通り実行しないと干されると思いつめた選手が素人目にも異常な形で彼なりにその通りに泣く泣く実行してしまった悲劇というのが真相なのではないか。

「スポーツは青少年の健全な心と体の育成の場です」。よく耳にする美しいメッセージだ。僕も育成してもらったが、覚えたのは勝負事(=ケンカ)の掟だけで美しい心が育成されたかどうかは自信ない。勝負からどうして走れメロスみたいに健全で、修道女みたいに敵まで思いやる精神が出てくるのかは僕にはわからない。体育会なる言葉は昨今イメージが甚だ良ろしくないが、それは日馬富士騒動で角界の古い体質だとこきおろされたものと重なる。体質ごと悪いと切って捨てるなら勝負事の面白みは消える。水清くして魚棲まず。人を殴るなんてとんでもないとなればボクシングはいずれ廃止になるだろう。

おそらく、誰も相撲やアメフトを廃止したりつまらなくしたいわけではない。ラフにやってもいいけど「一定のルールを守ってやれよ」、つまり、冒頭に書いた「陋規」を守れという事なのだ。その陋規こそがスポーツマンシップと呼ばれているものの正体であって、そういう名の法律やルールブックがないのはそれが裏社会、アンダーグラウンドの目に見えない掟という性質のものだからである。スポーツが文科省推薦の「青少年の健全な心と体の育成の場」なら立派なスポーツマンシップ憲章でもできるだろう。しかし、幸い、まだそれは勝負事(ケンカ)でいる。

僕が気になったのは日大の監督が「我々は常にルールを守ることを原則としている」と繰り返し抗弁したことだ。そんなことは当たり前である。「それならルール違反した選手をなぜすぐに退場させなかったのか」と記者につっこまれて「見てませんでした」とあえなく撃沈されてしまった。むしろ、ルール違反でなければ何をしても良い、つまりスポーツマンシップにもとる行為かどうかは二の次だとも聞こえる。

そうではない。陋規であるスポーツマンシップが根っこにあって、そのうえで、清規であるルールブックが出てくるのである。この事件が日大にとってまずかった最も本質的な理由はタックルがルール違反だったからではない。

やくざ映画で「お前さん、それをやっちゃあおしまいだぜ」「待て、待ってくれ」、ズドン!

になってしまったからなのである。その音を聞きつけて、アメフトを人生で初めて見たルールも知らない堅気衆が「ルール違反だ」と騒ぎ出したのが事の顛末だ。そこで「ルールを守ってます」と抗弁するほど頓珍漢な見世物もなかった。

山口は会澤に3発も当てて大怪我させたけれども、死球は禁止するとルールブックには書いてないのだから「巨人軍はルールを守ることを原則としている」と言えば言えてしまうのだ。しかしあの3発は誰の目にも異常でスポーツマンシップに反すると見えた。だから会澤が怒って彼をぶん殴っていても世間は批判しなかったろうし、警察も傷害容疑で逮捕しなかったろう。スポーツというものは社会行事でなく勝負事であって、法律やルール以前に陋規であるスポーツマンシップが根っこにあるという証拠である。

昨今の「法律違反でなければ何をしても良い」という風潮に僕は大反対である。危険であるとも考える。なぜなら、世間は法律というものに嫌でも縛られるが、ほとんどの人はそれをよく知らない。知識人という名の大衆も知らない。「セクハラ罪という罪はない」という麻生大臣を「ある」と思って批判した人が多いのは、僕は彼をかばう気はないが、危険だ。清規というものは為政者の道具だからである。根性論が嫌いだからとスポーツに「清規の網」をかぶせ、こういう事件があるとここぞとはりきって体育会精神をファシズムだと批判するような軽薄な風潮は、そっちのほうがよほどファシズムの温床となり得るのである。

「清規の網」をかぶせられ、スポーツ界がケンカでなく綺麗事のショーに堕落すればいずれ人気は凋落する。大衆は殴り合いや昏倒シーンが見たい、流血も見たい。格闘的要素を含むスポーツは「陋規がある」ことを前提に、ローマ時代の昔から大衆の野蛮なニーズは目的ではないような顔をしながら非日常空間を提供する場として存在している。ボクサーが傷害罪にならないのはそれが刑法35条の正当業務行為だからだが、合法だからボクシングがあるのではない、ボクシングは面白いからあるのである。

 

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

たむらあやこ
三遊亭歌太郎
福井利佐