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カテゴリー: ______世相に思う

縁故主義とオンデマンド社会

2023 FEB 14 10:10:06 am by 東 賢太郎

縁故主義のことをネポティズム(nepotism)という。親の七光り、縁者びいきというやつだ。直訳すれば「甥っ子主義」「姪っ子主義」で、悪いニュアンスばかりに使われるが、一概に悪いかというとそうでもない場合はある。信頼できる腹心が周囲にいることはトップになると助かるし話も速い。仕事が効率的になるなら組織にとって悪くないから息子が秘書でもネポティズムといわれないこともあろう。

ただし、それは論功行賞が公平な場合に限ることは三国志の故事である『泣いて馬謖を斬る』が示している。諸葛孔明は命令に背いて戦に負けた愛弟子を処刑した。守ったものは「軍律」だ。それが有能な部下より大事という見せしめであり、だから孔明自身も軍律に服して三階級降格の罰を受けている。評価が公平だから家来は死に物狂いで戦い、孔明は名を成した。後世にバカ殿による論功行賞の失敗がたくさん起きたから、この史実が戒めの諺となって1800年間も語り継がれてきたのではなかろうか。

すなわち、「論功行賞が不公平」=「軍律はありません」という表明なのだ。ということは殿を縛る軍律などましておやあるはずなく、論功行賞は殿の好き嫌いで、好かれれば何でもやり放題になり、人間の汚い本性が出て自分に甘く、縁者に甘く、七光りの馬鹿息子が何の苦労もせず跡を継ぐ。この腐臭ただよう事態にネポティズム認定の鉄槌が下るのだ。だからキリスト様は「縁故などというものは正しい信仰の敵」と言い放ち、信仰組織が世襲制によっていつしか自分の子供ばかりを偏愛する者たちの巣窟のようになってしまうからカソリックの聖職者は結婚したり跡継ぎの子供を作る事は認められていないのである。宗教を引きあいに出す気はないが、人間の本性と組織の関係を鋭く射抜いた例ではあろう。

昨今の我が国において経済は一向に成長しないが、ネポティズムだけは順調に芽を伸ばしているように思える。真面目に汗水たらして働かないと給料は増えないが、国民から搾り取った税金をむさぼるのに労働はいらない。いるのは仲間の数なのだ。そこで「愛(う)いだけでオッケー」の集団が生まれる。数が欲しいのだから縁故すらいらず、「愛い奴」であれば実績も能力も知力も不問というユルユル集団であって、厳密にはネポティズムですらない。そこでこれをクローニー(crony、気のおけない仲間)と呼んだりもする。まあ要するに、多数決=権力である資本主義に “寄生” することだけを目的とした松食い虫の群れみたいなものである。この連中が繁殖して樹液を吸えば、いうまでもなく松は枯れる。

真面目に頑張って戦果をあげる者は実績も能力も知力もある。馬鹿の出世に不満だから反旗を翻すしかなく、必然的にボスには「愛くない奴」になって排除される。「愛い」だけが取り柄の集団にとってはざまあみろブラボーであり、ボスも歓声を浴びて地位安泰になり、全能感にひたってますます道を誤る。軍であればさように有能な武将たちがやる気をなくせばボスも命はないが、近代国家は法が統治する一種のマシーンであるから、この無能集団がコックピットに入ってハイジャックしても飛行機はとりあえずは落ちないのである。だから無能な武将ばかりになってもしばらくは安泰で、自分の寝首を掻かない者で周囲を固め、任期中だけは落ちるなよで済ます者が百出する。我が国の「平成の大失速」、「失われた30年」はこうしてもたらされたのだ。

おぬしも悪よのう

その集団が権力を持つと指導原理は「愛い奴よのう」から「おぬしも悪よのう」に軽いタッチで変異する。縁故など元からどうでもいい。税金にたかる利権という樹液を吸うだけを絆とした松食い虫の大群になり、ボスが後ろ盾で守ってくれるから談合、中抜きやりたい放題。更に図体は太る。ボスの一族はそのコロニーの女王蜂みたいになって疑似皇族的な世襲貴族となる。これが我が国の現状だ。政治家というファミリービジネスは世代を超えて税金にたかるが、自分の相続は「票田」だから税金は払わない。資産は世襲で目減りせずに女王蜂は何代でも生きのび、得体のしれぬ宗教まで動員してますます数を増やす。幹のど真ん中に “寄生” しているのだから駆除は大変に困難なのである。

ネポティズムは一歩間違えばこうした悪を生む有力な原因にはなるが、くりかえすが一概に悪いかというとそうではなく、国であれ企業であれ全体の利益のために効率的な場合はある。一族経営の企業がその例だ。見ず知らずの株主に無用の批判を受けたりハイジャックされたりするぐらいなら上場は見送って堂々とネポティズムで行こうという高収益企業はいくらもある。それが悪なら会社は潰れるはずだが多くがうまくいっているのだから、一般論で悪だというのは左翼が階級闘争とごっちゃにして騙そうとしている証拠で全くの見当違いである。

ネット社会にそれがどれだけ耐性があるかは未知数だ。ネポティズムは組織が盤石で無能でも勤まるポストがあることが大前提だが、仮にあっても周囲が離反すればワークしない世の中になりつつあり、やがて来るオンデマンド社会ではポストに好適な人材はポストが決めることになる。たとえば管弦楽団で第1フルートが定年になる。日本的感覚では第2奏者が昇格しそうだがそうではない。第2奏者が第1の息子であっても関係ない。第1の公開オーディションをするのだ。オンデマンド社会ではこれがそこかしこで起きる。少なくとも高年俸のポストは業界関係なくそうなる。第1は第1の格の人が吹かないと楽員の賛同が得られないし、楽団ごと質が落ちて全員が失業する可能性があるからだ。

つまりオンデマンド社会はネポティズムと相性が悪い。おそらく後者は衰退していくだろう。政治家が息子を秘書にしても、彼が有能であって公平に評価されれば構わないが、そのことは父親でなくネットを通して国民全員が審査することになり、無能がバレれば私刑と呼ばれようが何だろうが袋叩きにする。今のところは大手メディアが「報じない」という情報操作をして守っているが、そんなことをするメディアは食えなくなって先に消える。公人だとネットで炎上すれば有名税だねざまあみろで終わり。書き込みは末代に残る恥辱となる。これが良いことかどうかは言論の自由を規制するかどうかの問題であり、法的に処理することは中世的ガバナンスのまかり通る国家でなければおそらく困難だろう。とすると公人となって国のために活躍して勲章をもらうことのリスク・リターンのバランスは変容するだろう。ネポティズムの評価同様に一概に2世3世議員がいかんということはないが、現状は無能なのがたくさんいる。日本という国が盤石でそれでも勤まるポストだったからだ。松が元気な時代はもう終わっている。

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森保ジャパンに見た日本人の進化

2022 DEC 7 13:13:26 pm by 東 賢太郎

これまでもワールドカップ(WC)はそれなりに見てはいましたが、そもそも今回ほど真剣にサッカーを見たことも応援したこともありません。それほど森安ジャパンの大活躍は社会的にも大きなインパクトがありましたし、僕個人においてもこの競技の面白さを存分に教えてくれたという意味で忘れられないものでした。クロアチア戦については非常に残念だったしいろいろ思うことはあります。しかし負けて一番悔しいのは選手です。それを我々も分かち合えばいいし、それが彼らへの一番のリスペクトとねぎらいでしょう。必ずや彼らは再起して4年後にまた力強く戦ってくれると信じます。

救いというわけではありませんが、今朝はあのスペインも、モロッコ戦で120分の激闘を0-0で分けた末のPK戦で負け、姿を消しました。ただの負けではありません。ひとり目はゴールを外し、あと二人も連続で止められて3-0の完敗。強豪の茫然とした表情に、ある意味でスポーツの残酷さまで見た思いです。スペインですらPK戦は4回やって3敗、これで5回やって4敗になったわけです。勇気をもって蹴った日本のキッカー達が何ら恥じることもありません。これを糧に徹底的にPKの技術とメンタルを鍛えればもっと勝てるとポジティブに考えればいいのです。

今回の日本チーム、選手たち自らが史上最強と評してましたが、それは勝って結果がついてきたからでもありましょう。優勝経験のあるチームが2つある唯一の組で1位通過はたしかに日本サッカーの歩みの延長線上では歴史的サプライズですが、75%がWC未経験の選手でそれを成し遂げた、このことはもっとサプライズではなかったかと僕は思うのです。経験者に頼ることをせずリスクを取って若手を選抜し、見事に束ねきって勝った監督の眼力、マネジメント力あってのことでもあったわけですが、そのポストにあった森安氏の資質が時流にぴったりだったという評価をしても彼に失礼にはならないと考えます。

その抜擢にこたえ、未経験をものともせず、強豪に気おくれなど微塵も感じさせず堂々と渡り合った20代前半の頼もしい若者たちがそこにいた。このことが僕にどれだけ勇気をくれたか。過去にも多くの名選手はいましたし、僕は本田選手の大ファンでもありますが、5人入れ替えてもチーム力が落ちないほどの人数はいなかったということです。多くが欧州プレミアリーグでもまれて層が厚くなったのでしょうが、実力がなければ行けないわけだし、行こうという気概があることが素晴らしい。ビジネスに生きてきた人間として、商社に入った人が海外勤務は希望しない、学生の一番人気は地方公務員という時代に何という光明だろうと感銘を受けたのです。

僕はWCで負けるたびに「フィジカルのハンディ」という声が聞こえてくるのが残念でなりませんでした。それを言いはじめたら百年は勝てないわけです。しかし今回、身長差のデータは示されていましたが少なくともそういう声はあまり聞きませんでしたし、見る側も「3センチの差か、だからなんだ?」と落ち着いていられた。これ、大変なことだと思うのですね。それを確認したのが森安監督のいう「世界で戦える」「新しい景色」だったかもしれません。でも、堂安のコメントを聴くたびに思ったのです、監督、もうそんな時代じゃない、彼らの世代はでっかい外人にそもそもビビってないぞと。

例えばドイツ戦の浅野のゴールです。僕が言うのもおこがましいのですが、日本サッカーはこんなに進化していたのか、フィジカルの気おくれなど微塵も感じさせないじゃないかと驚きました。たかが一つのプレーかもしれませんが、ドイツのディフェンダーに背を向けてロングパスを受け、潰しにくる彼を左手で押えておきながらゴール前まで攻め込んで世界トップのキーパーを出し抜いた。この個人技は技術もさることながら目線の高さにおいてもうワールドクラスでしょう。クロアチア戦で見せた三苫の快速のドリブルとシュートもそうですね。そういう心身両面にわたる進化がなければドイツ、スペインに勝つ確率は非常に低かったろうし、それはフロックでなかったということです。

僕のようなにわかファンさえそう見たのだから、多くのサッカーファンの皆さんがベスト8に期待したのは当然ですし根拠のあることです。でも、完全な個人技であるPK戦は別物だったのですね。欧州のプレミアリーグではあまり蹴る立場にはないんでしょうか、練習は充分でも修羅場でのここ一番では経験不足に見えました。かたやクロアチアは百戦錬磨の自信と余裕がありましたね。あれではどんな勝負でも負けます。でもくりかえしますが、あのスペインでもアフリカ勢、アラブ勢として唯一勝ち残った新参者のモロッコにPK戦で零封されたのです。だからそれを4年後にやればいい。良い課題が残ったと考えればいいのです。

世界トップレベルの戦いでそうそう一気に頂点に行くのは無理だ。僕ら昭和世代の常識ではそうです。何事においてもそういう思考回路が働いてしまうのがこの世代なのです。今大会、日本の若者にその常識を当てはめてはいけないことを悟るべきでしょう。僕らは太平洋戦争に負けた次の世代です。育った時代による思考の制約というものがどうしても働きます。欧米には勝てないんだ、戦争は二度とするなと骨の髄まで叩きこまれているからです。戦争についてはその通りです。いかなる時代であれ国家の利益のために人殺しをしてよいはずがありません。しかし、欧米に勝てないは余計だろう。アウエーで16年仕事をしていたものですから長らくそう思っていました。だから「フィジカル」という言い訳が聞こえてくるサッカーはあまり好きでなかったのです。

なぜなら大相撲をご覧ください。そんな言葉は辞書にないわけです。「柔よく剛を制す」がモットーである柔道にもありません。それが武士道にもつながる古来からの日本人の誇るべき精神であって、だから科学技術で欧米に300年も遅れた国が明治維新をおこす気概を持っており、ちょんまげを切ってからわずか30年あまりで列強が脅威に感じるまでになった。その過程で国家による人殺しが盛大に行われたわけでもない、まさに世界に類のない格別に徳のある立派な国なのです。このことを我々は再認識すべき岐路に来ていると強く感じています。それを過信して戦争に負けたじゃないか。たしかにそうでしょう。だからこそその敗戦から学ぶべきでなのであり、お手軽な観光立国などでなく、徹底した科学技術立国であることを貫徹すべきなのです。

柔道の体重別階級制は国際競技にするために欧米人が作ったのです。本来それをハンディと見ない我々には余計なお世話なのですが、昭和の教育を受けた我々は敗戦国教育のたまもので格闘技でもない競技でさえフィジカルのハンディを自分から言うようになってしまった。弱さの言い訳でなくて何でしょう。戦う前から負け犬なんですね、アメリカに住めばわかりますよ、なにより、当の彼らがそれをアンダードッグと呼んでいちばん馬鹿にしてるわけです。それに何の疑問もなく甘んじてしまう、そういう精神構造に仕上げられてしまった我が世代の情けなさ。僕もそうだったのです。だから経済大国ともてはやされると勘違いして有頂天になり、その座を追われるとシュンとなってしまうのです。

皆さん、試合後の代表選手たちの立ち居振る舞いに何を感じられたでしょう。彼らは終わったことに捕らわれず、何が足りないか、次は何をすべきかを勝っても浮かれずに淡々と語っていました。そこまでして戦った者だけが絞り出せる敗戦の弁も、そのずっしりとした重みに老いも若いもないと感じました。彼らに昭和世代の負の先入観はなく、のびのびと世界に雄飛してくれ、40代になる20年後にはサッカーのみならずすべての面において日本を真の一流国にしてくれる。そうなれるように背後から彼らをサポートしてあげるのが我々世代の最後の仕事である。そう思った次第です。

監督、そして選手の皆さん、身を削るような努力で4年の準備を重ね、これだけの堂々たる成果をあげて日本を明るくしてくれました。お疲れ様、心から感謝します。

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永遠に讃えるスペイン戦の勝利

2022 DEC 3 17:17:51 pm by 東 賢太郎

サッカーは何もわからないが、それでもスペインに勝つわけないだろうぐらいのことは思っていた。コスタリカ戦はいけるかもと思って期待して見ていたが、昔の弱い日本サッカーを見ているようだ。ああこりゃだめだで終わってしまい、なんだか世の中もドイツ戦で盛り上がった分だけ盛り下がってるではないか。TVではスペインの3トップの移籍金が合計で277億円だなんてやっていて全日本OBの解説者が聞かなければよかったですなんて笑ってる。コスタリカに1-0で負け、スペインはそれに7-0で勝った。じゃあ8-0かなと思った。

それでも気にはなって午前4時まで頑張ったが、前半はほとんどボールを支配されっぱなしであっけない1失点。やっぱりねとなって、3-0で負けならオッケーかなと寝床に入って熟睡してしまった。そうしたら「たいへんたいへん、逆転してるよ!」と娘に叩き起こされるのである。後半の半分ぐらいからアディショナルタイムの7分まで、わくわくどきどきしながら見守った。やった!この瞬間に立ちあえてよかった、娘に感謝だ。この勝利は一生忘れないぞ。ほんとうによくやってくれた!!

堂安、田中碧のゴールシーンは録画で見たが、何度見ても胸がすくほどすばらしい。三苫の折り返しがインプレー判定となったのは執念の証しである。ドイツ戦の浅野の2点目なんてのは、ああいうのはブラジルやスペインの肉食系のやつしかできない、農耕民には無理だなんて思いこんでいたプレーであって、何とスペイン戦でも8割の時間ボールを支配されながら間隙を縫ってそのレベルのを2つも決めてる。堂安の落ち着きはらった左足なんか世界レベルでなくて何だろう。

もう嬉しくて感動の極みだ。日本の20~30代の若い子たちが世界でここまで躍動し、何の臆面もなく堂々たる勝負をくり広げ、世界の超一流を完膚なきまでねじ伏せて「死の組」を首位通過。凄いとしか讃えようもない。こんなことは、サッカーに限らず、僕らの世代ではぜんぜん無理なことだったのである。完全に脱帽だ。日本人は劣化していると思っていたが、とんでもない、劣化していたのは我が世代であって、若者は進化している。

今年は暗いニュースばかりでなんにもパッとしたことがない、村上の三冠王ぐらいかなと思っていたら流行語大賞がそのものずばりの「村神様」である。それほど村上が凄かったわけだが、ここまでそれかよと案の定すぎてかえってその他の暗さが引き立ってしまうところに現状の日本社会の病気に近い閉塞感を覚えるのは僕だけだろうか。

現にコスタリカに負けると一部の選手を批判する書き込みが乱れ飛んだらしく、田中碧選手が「同じ国民なのになぜ一緒に戦ってくれないんだ」と嘆いていたと聞く。まあ期待の裏返しでもあろうし、どの国でもそんなものかもしれないが、いまの日本にはコップに半分の水を「まだ半分もある」でなく「もう半分しかない」と見てしまう空気が充満してる。それを思いっきり打破した選手たち、ありがとう、ここぞで勝てる日本を証明してくれた君たちが誇らしい。僕は心の中に君たちの銅像を建て、永遠に讃えるぞ。

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親ガチャの功罪(その2)

2022 AUG 18 0:00:32 am by 東 賢太郎

人生は祭りだってイタリアの映画監督フェデリコ・フェリーニは言ったんだ、俺もそう思うね。望んでどうなるもんでもない、祭りと思ってれば無理に頑張んなくなるしいつ死んでもケリつくし

あれっ、そういえば、安倍さん同い年でしたっけ

はい、あっちは29年。ショックだよ、同期だったってだけなんだけどね

わかります、自分もありますよ同期には意識が

30年生まれは郷ひろみもそうだ、彼には負けてるな

どうしてですか

だってカッコいいだろ、それって俺の世代の男の絶対的ベンチマークなの。それで負け、収入も負けだよ。完敗だ

そうか、カッコいいとイケメンは違うんでした

もちろんよ。冴えない奴は最低、俺なんかいつでも気持ちはカッコよくいたいね。ゴッド・ファーザー、ドン・コルレオーネ路線でね

ヤクザもの好きですもんね(笑)

うん。ならここは筋通してもらいますよぐらいは平気で言ってるし

けっこうビビります

基本、静かに言葉でいくんでね。弁護士の鼻先で「これ何でしたっけね」ってビリビリって契約書破いたし

う~ん、ナニワ金融道だ

本気で怒ってたんだろうねよく覚えてないけど。でも鬼軍曹みたいなのは嫌いなんだ、机ぶっ叩いて怒鳴ったり、カッコ悪いよね。俺、成城学園だからさ、やっぱ品格ってのはね(笑)

でも証券会社の支店はどうだったんですか、当時は特に激しかったんじゃ

そりゃあもう。営業場で灰皿砕け散ったし鉄拳も飛んだ。だからあとで「ナニワ金融道」読んだらあるあるの嵐でさ(笑)。でも俺はなぜかそういう風にはならないの。2年半支店にいたけど楽しかったね。送別会、居酒屋で大勢でワイワイやってくれて、最後にスピーチしたら全員泣いて俺も泣いて、そんなんだった

どうして入社されました?

そういうとこだって知らなかったの(笑)。生きのびれたのはお客さんのおかげだよ。世の中にこんな凄い人がいるのかってね、他じゃ絶対にわからなかった。あの2年半のお釣りでその後の人生あるようなもんだよ

ブログで読みました、あの鉄砲屋事件のことですか?

そう、例えばあの任侠の親分ね、俺、お宅に夜中の2時までいて真剣に殺されると思ったからね、すげえなこの人ってなっちゃったよ。目の前であれ見たらヤクザ映画なんて可愛いくってさ

とても成城と思えません(笑)

でもね、そういう空気の中で毎日を送るってのは若い時は大事なんだ。先輩だろうが同じ釜の飯ですっぱだかでつき合ってるんで、みんなお互いの酸いも甘いも実力も知っててね、そういう集団じゃないとできない質の仕事ってあるよ

例えば?

チームプレーだから一人へこむと誰かが埋めなきゃいけない。よし俺がってやるでしょ。俺がへこんだ月は心配すんなって先輩がね、絶対に言っちゃいけないんだよ、目だけでさ。そこがいいだろ。こういうチームはスポーツでも強いんだ

ちょっと軍隊っぽい感じですかね

戦争は行ってないから知らない。仕事なんて命取られないからね、戦争をそんな軽々に語っちゃいけないよ。でも、俺、仕事で何十回も韓国行ったよね、で、あっちはみんな30前に軍隊2,3年行ってるの。だから鍛えられてわきまえてるんだね、俺みたいな男の前に出るといい奴なんだよこっち日本人なのに。なんだこのクソガキみたいなの見たことないね

やばい!耳が痛いです(笑)

そういうのってね、上司だけじゃないんだよ、お客さんも見てるの。わきまえなさい(笑)

ところで、これからの案件はどうですか?

あるよ。不思議なもんでね、12年潰れないでやってるとね、そういうのがいくらか信用になるんだろうね

ソナーは投資会社じゃないコンサルっておっしゃってましたが

最初はそうしようと思ってたよ。ファミリーオフィスで始めてね。でもお客さんは皆さんが立派な方で人間として奥が深いし、資産家だからいい投資機会はききたいの。こっちは自分が投資するためにいつもソーシングしてるでしょ。だから見つけたら紹介してねって、それってコンサルだよね

間口は広げないんですか、客数を増やすとか

だって社員9人しかいないんだよ、無理でしょ。ひとりふたり雇ってもサービスの質は大きくは上がらない、みんなレベル高いから。だからお客さんも増やさない。各人のサービス落ちるからね

でももったいなくないですか、案件があるんだったら

大きくして売上あんまり変わらないと全員給料が減るでしょ。優秀な人はやめるよ。図体デカいと変わり身も遅くなってね、コロナみたいな環境変化についてけないから益々売上増えない。大企業ほどヤバいね、白亜紀の恐竜みたいに

たしかに規模の利益ってコトバ、聞かなくなりました

そうねでもね、実は日本は前からそんなのなかったの、経済学的な意味ではね、規模じゃなくって競争のない利益だったんだよ、あったのは

カルテルみたいな?

そう、資本関係なしの親方日の丸クラブね、そこにいれば利益があってよそ者は入れない。長い物にまかれてりゃ楽。「ごりやく」っていうよね、神仏のお恵みのこと、漢字は利益でしょ、親方っていう神仏にたかってりゃ「りえき」が出るの、税金が降ってくるからね

そうか昭和では土建屋国家っていわれましたもんね。もうないですが

そんなことないよ、去年のオリンピックなんて堂々たるそれだったろ

そうか、今日逮捕者が出ましたね

まあしょうがないとこもあるわけよ、ああいうエンタメ、イロモノ界ってのはね、東大出の役人に絶対できないからさ、足元見てばっさり抜かれる。だからどうせ抜かれるんならどこにさせれば国民が納得するかって、ならばあそこは親方日の丸クラブのメンバーだから安心だろうってなるわけ。うまいね。で、ワルの政治家はその構図においしい利権が透けて見えてくるわけよ。まあその位のタマじゃないと政治なんてできないけどさ

IOCのお歴々なんて貴族づらこいて、儲けさせてもらってあたり前みたいなのばっかりですもんね、納得さすのってカネいったでしょうね

あいつらはクーベルタンとかオリンピアンの誇りも商材だって割り切った連中なの。タレントの出演料いらない興行だからな、原価ゼロな商品をスポンサー、テレビに競争させて値を吊り上げて丸儲けさ、こんなのは誘致どころかボイコットしてアテネに永遠にお返しすりゃいいんだよ。で、魚心に水心ってやつでさ、どうしてもやりたかった安倍さんと菅さんと森さんがね、本社ビル売るほどピーピーだったあの会社しかないでしょ、ほかに誰ができるのってやっちゃって、それでこの時勢に最高益なのよ。クラブの仲良しメンバーだってだけで株も上がって3%も配当できるんだ、凄いよねこのビジネスって。事業だから儲けるのはいいよ、大したもんだと思う。でも本当の問題はそこじゃないんだ。

そうか、税金にたかれれば権力もカネも無競争で手に入って勝ちってことですね。平等な競争環境なんて潰した方がいいんですね

ご名答だ。つまりね、国のてっぺんから「親ガチャ」になってるの。そこに生まれて資産があってちょっとイケメンだったりすりゃあね、どんな馬鹿息子でもはじめっから競争ないわけ。わかる?東大なんか行かなくていいの。そういうのは家臣団っていうか働き蜂っていうかね、御用学者もそうね、とにかく長い物に巻かれて安心安全に生きたい人達にやらせときゃあ行政サービスは見た目だけは質がいい。国民はそれで文句いわないし、あとはマスコミ手なずけとけば身分は安泰。アホでもオッケーさ

そうか、我々世代が親ガチャに見えてるのって、その投影なんですかね

国ごとそうなんだから自然に空気がそうなるんだよ。隠せないねこういうのは。で、お母ちゃんが幼稚園児の息子の尻たたいてあんた東大はいりなさいってね。なぜ?日本で一番長い物だからさ。できればそれに巻かれたい、謹んでお巻きいただきたいってね。いい、あんた、それが得な人生なんだよ、安心安全なんだよって。そうでもないんだよね現実は。その長い物が傾いてきたらそういう子は優秀でも若くして人生終わるよ、だって他のオプション何も持ってないからね

冷や汗です。はい私も想定してませんでした

この世の中の勝者はね、親ガチャ大当たり組に生まれた奴、何も苦労してません、何も考えてませんのボンだよ。寝てても勝ちの貴族階級ができちゃった。若者がガチャって自嘲して人生諦めるなんてとんでもない。だって政治家の資産は地元の地盤、票田だよ、貯金ありませんって関係ねえのそんなの。地盤、票田ってバランスシート載らないし、親父が死んでも相続税1円もかかんないから。だからIOCのバッハとかあいつらエセ貴族と臭いが近いんだよ、ぜったい仲良しになってはくれないけどね、欧州のローマクラブからみりゃただの田舎もんだから。でもこいつらカネもってくるなってね、金儲けだけならパートナーシップ組めるわけ。世界の常識だよそんなの

どうなるんでしょうかニッポン

知らない。Who knows? 妙齢の皆さんはもう人生お祭りで楽しくやればいいんじゃないですか。俺はそれしか考えてないよ。でも30代の君らは国と共に沈没するわけにはいかないよね。貴族階級なんてわけわからん中抜きの中二階はいらんよ、皇室があるんだからそれを立派な形で守ってさ。そう思う人は命かけて政治家になってください。

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「親ガチャ」の功罪

2022 AUG 14 20:20:29 pm by 東 賢太郎

「親ガチャ」って親は選べないってことらしいね。新語大賞だって?

そうです、それで人生決まる時代に生まれちゃったっていう感じですね

こういう会話が30代の人とあった。

そうか、俺の親はいたって普通だよ。サラリーマンの団地族だった。だから親ガチャは当たりでもはずれでもないよ

いや、当たりです、銀行員でしょ、それだけで大当たりなんですよ

そうね、子供の頃はね、でも社会人でこうなるのに親の助けは借りてないよ

高校ぐらいですか、そうなったの

ぜんぜん。俺にとって高校は暗黒時代なの。できればなかったことにしてほしい

どうしてですか?

野球だめで駿台の公開模試うけたら偏差値42だ(笑)。わかる?

へ~、頑張ったんですね

うん必死にね。でもこのことに親は出てこないよ

東さん、それ当たり組だから言えるんです、ずるいんですよ我々には

なんで?みんな1回ガチャやって平等だろ

はい、でも競馬でハズレだと悔しくて馬券破るでしょ(笑)

う~ん、馬ならねえ、でも人生レースの馬は自分だろ

そうです。だからこそ、足が遅いのは親のせいだって理屈になるんです

なるほど、たしかに俺もそう思ったよ、けど走ってみるとなんとかなった

東さんがそう思ったのは単なる当たり馬券の見落としです

なかなか手厳しいね(笑)。人生、馬券で決まるの?ならば努力はいらないの?

みんなしてます。でもそれだけで成功できない時代なんです、当たり馬券ないと

じゃあ逆に成功した人はみんな馬券のおかげかい?努力も苦労もしてないの?

いえ、して報われる人と報われない人がいるんです。それも親で決まりです。親の地盤なしで議員なれますか?それも親だし足が速い遅いも親です

そうか、でもその理屈だと美女、イケメンこそ人生の勝ち組ってならないか?寝てても勝ちだからね

それはそうです、親が当たり組ってそういうことですから

おかしいね、顔に努力はないだろ?

はい、生まれてくるのに努力はないんです、だからガチャに喩えてるんです

なるほど、とするとね、「ウチの子が泣くので運動会の順位やめて」と同じ?

それ、モンスターペアレントの話ですね

そうだよ。だったら走らせて足鍛えろよって。皆と一緒に努力してさ

いえいえ、東さん、それ体育会ですよ昭和の。いまどきパワハラ言われますよ。

だっておかしいだろ。かけっこ努力した子は評価しないでイケメンは寝てても評価するのかい?キミが怒ってるのって、まさにそれじゃなかったの?

怒ってはいないんです、それ世の矛盾ですよね、それに対する半ば自嘲です

演歌の「どうせ私は・・・」みたいだね、長い物に巻かれて居場所は確保してる

開き直りって強いんです、ガチャは親より上ってニュアンス出そうとしてますね

まあいいけどさ、そんなの強がってるくらいなら勉強した方が早くねえか?

しないんです。既存の競争から開放してくれる理屈が親ガチャなんで

そうか、いくら負けても仲間うちじゃ親のせい社会のせいだもんな、楽は楽だ

東さんの高校ドツボの時にあればよかったですね

そうだねえ。だったら俺、高校中退してたな。野球やりに学校行ってたからね

どうなってましたかね?

う~ん、板前かな、料理はね本気でやったらすごいよ。映画監督もよかったな

うわっ、そっち見たかったですね

おい、なんか悔しくなってきたよ

僕は若い人とメシ食べてざっくばらんにこういうしょうもない話するのが大好きだ。それで最後は「さすが若いですね、67なんて見えませんね」と持ち上がって気持ちよく帰る。おかげでストレスがあんまりたまらない。そう、これって、往時はクラブでお姉さんに囲まれてしてたんだ。そういえば親父も施設に入って最期まで若い看護師さんたちにかまってもらってた。それで97まで生きたのかな。だったらこれは親ガチャ当たりだ。

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百科事典とベートーベン交響曲全集の運命(改定済)

2022 AUG 3 23:23:21 pm by 東 賢太郎

むかしむかしあるところに百科事典というものがあった。大学の頃、ブリタニカのセールスの売り込みがあったのはたしか真夏であり、会うのは喫茶店、アイス珈琲がただで飲めるというので話をいちどだけ聞いてみた。たしかに知識の集大成は素晴らしいとは思ったが、セールスのポイントはそれではなく「一家におひとつ」だった。僕はまだ一家の主でないんでと断った。彼はセールスがうまくなかったようだ。

百科事典は皆さん世界史で習ったフランスの百科全書派と関係がある。ボルテール、モンテスキュ、ルソーなど新思想の大御所が著者となったよろず知識大全がエンサイクロペディーだったからそう呼ばれる。新興のブルジョワ階級に売れたのは国王、僧侶を批判した彼らの啓蒙思想が世の中を変えると信じられたからだ。フランスでそれはあの革命の火種となり、我が国では2百年たって応接間の装飾品となった。

「一家におひとつ」は戦後復興期のラジオ、扇風機、テレビ、冷蔵庫、洗濯機などにはじまる。核家族化で「家」が増えたこともあって売れに売れた。高度成長期で豊かになると対象は高額品のクルマと家に及び、「マイカー」「マイホーム」なる新語を生んだ(マイでないのが普通だったのだ)。「一家に一台」で買われたアップライト・ピアノはいま中古業者によって中国に年間5万台も輸出されているが、百科事典は街の古書店やリサイクルショップでは買い取りはおろか、引き取り処分も断られてしまうらしい。ちなみに、調べるとジャポニカの美品全18巻がメルカリで3,500円で売られている。本棚をまじまじと眺めたりしない客人の前で主人の教養をそこはかとなく漂わせるにはお安いのではないか。

同じころ、そのノリの世の中で百万枚も売れたクラシックのレコードがある。カラヤンの「運命」だ(ヴィヴァルディの「四季」もあるがここでは前者にフォーカスしよう)。百万となると書籍でも堂々のベストセラーであり、まして地味なクラシックでとなるともう金輪際ない数字だろう。まさか想像もしない極東でとカラヤンもDG(ドイツグラモフォン社)幹部も驚いたことは想像に難くない。ドイツ人は思ってないが日本人はドイツを友軍と思っている。敗戦でともに悲哀をかこった心の友が神棚に祭るベートーベン様。うまい商法だった。インテリはそのコマーシャリズムを鋭敏に嗅ぎつけ、「カラヤンは底が浅い、やっぱりフルトヴェングラーだ」とそれをだしに自己の審美眼を誇ることが同等に底の浅いファッションとなる。おかげでドイツでは同年代のファンがだんだん世を去ってお蔵入りになる運命にあったフルトヴェングラーのレコードが、むしろ故人になった方が仏様として祭られて有難味が出る日本市場では大量に売れるという驚きの発展を遂げるのである。カラヤンもベームも日本が好きだったが、最晩年には生きてるうちから神棚に祭られて気分が悪かったはずはなかろう。

そこでおきた現象がクラシックの百科事典化である。レコード産業の資本主義的成長の必然であった。その象徴が泣く子も黙る「楽聖ベートーベンの交響曲全集」であり、「一家におひとつ」のセールストークには格好のアイテムとなる。百科事典は開いたことはなくても、値の高いレコードを買って聞かないことはなかろうと誰もが思う。運命も第九も聞いたことのない主人が教養人に見える強みがあった。全集というと、ひとりの指揮者によるものは1930年代のワインガルトナーが最初ということになっているが、オケは複数であり、百科事典に不可欠である飾りになる威厳と統一感はまだない。フルトヴェングラーにこの仕事は来なかったからカラヤン出現の10年前まではそれを作る思想はドイツのレコード業界になかったと推察される。カラヤンは1951年から1955年にかけてフィルハーモニア管弦楽団と全集を英国資本のEMIに録音したが、これがその端緒だろう(百科事典のブリタニカも英国企業。もっと顕著には、米国の出版業者がクラシックレコードも出した例としてリーダーズ・ダイジェスト社が著名)。ベルリン・フィル一本で初めてそれを企画したのもEMIだが指揮者はフランス人のクリュイタンスだ(録音は1957~1960年)。契約でカラヤンは使えなかったようだがDGは旧敵国にそれをされたら屈辱というのもあったのではないか。

EMIのマーケティング戦略に刺激され、契約問題をクリアしたDGが満を持し、指揮者・オケ・プロデューサー・技師をお国の本丸で固め、前年のEMIの企画を上書きして潰すが如く同じベルリン・フィルを用い、プロテスタント精神の故郷ベルリン・イエス・キリスト教会で録音したコテコテのドイッチェ式こそがカラヤンの1回目の全集(1961~62年、左の写真)だったのだ。英国資本主義とドイツのナショナリズムはナチ問題で相反した。この全集には終戦後まだ16年しかたっていなかったドイツの文化人、知識人の複雑な精神構造、すなわち戦争責任とナチを分離し国家の存続と威厳を保持するという難題を文化のアイデンティティーという国民の心のよりどころでどう処理するかという思いがこもっていたと考えて間違いないだろう。そして、この全集から切り出した第5番「運命」が「一家におひとつ」の百科事典セールス興隆時代にあった極東の被爆敗戦国で空前絶後のセールスを記録し、当時としては高額の2千円のお値段で百万戸もの家庭に “収蔵” されたという今となっては驚くべき事実は、我が国の西欧文化受容史上、安保闘争、反米の左翼的気運が何がしか投影もしたであろう政治、文化風景の象徴的な一里塚と評して良いのではないだろうか。

ベートーベン全集よりも百科事典の性格をおびたと感じるのは同じカラヤンのブルックナー全集(1975-)だ。カラヤンは初期作品を演奏会にほとんどかけておらず、演奏現場からの必然はなく、つまり全集作成のためだけにそれらをあえて演奏したわけだ。2番などそれでこの出来かというレベルで、これがブルックナーかと眉をひそめる向きもあろうが、僕は初物を真摯に読み解いてBPOの最強の合奏力でリアライズしたこれが好みではある。ザルツブルグのカソリック文化で生まれ育ったギリシャ移民カラヤンにとってブルックナーは「ドイツ性」を身に纏うための大事なツールであったと思われる。彼のデビュー録音は当時は知名度の低くかつ長大な第8交響曲であり、楽団はベルリン・フィルだが製作はEMIだ。プロテスタントとのドイツ性の狭間にいたオーストリア人ブルックナーのアイデンティティーの葛藤を巧妙に自身の隠れ蓑として、由緒正しき保守本流のドイツ代表フルトヴェングラーの後継候補筆頭に躍り出んとするカラヤンの対抗馬がルーマニア人チェリビダッケであったことは僥倖だった。連合国の会社EMIがクラシック界の王道中の王道レパートリーである敵国ドイツ物をアルヒーフの中央に鎮座させるためのエースで4番として、玉虫色にマーケティングできるカラヤンをナショナリズムとナチ排斥の自己嫌悪の分裂に乗じて契約で縛ってしまい、プロテスタント楽団のエースで4番であるベルリン・フィルごとかっさらおうという戦略の仕上げに名刺代わりの第1作をブルックナー8番の2枚組LPとする。これで連合国、ドイツ両陣営の市場を抑えられ、時がたてば米国市場にも切り込める。カラヤンの名誉のためにも美学上の理由もあったに違いないと僕は信じているが、事業家としての観点からも実に秀逸な戦略だ。6年にわたり英国の上流知識階級とがっぷり四つで商売させてもらった僕が英国インテリジェンスに心酔するのはこういうところだ。

Herbert von Karajan
(1908-89)

ベートーベン全集から10余年置いて企画されたDGによるカラヤンのブルックナー全集の重みはそうした背景を知って初めてわかる。出来栄えからして百科事典であって何一つ文句はないが、一方で、これが苦も無く超ド級の演奏水準でスタジオで達成できる彼らが、やる気になれば何の問題もなくやれたであろうし売れたでもあろうマーラー全集はつくらなかったのはとても興味深い。こういうところに欧州文化の深層が見て取れるからだ。ユダヤのマーラーとカソリックのブルックナーは1960年辺りまでは多分に忘れられた演目だった。大オーケストラによる長大な後期ロマン派作品という以外は音楽の性格においてなんら相関のない両者が1970年ごろからそろって人気演目となる背景は、オーディオテクノロジーの進化で長時間の高音質録音が可能になり、LP2枚組で新たな市場が開ける可能性が出たことにある。マーラーは1,2,4,5番、大地の歌など単品としての人気曲目はあったが、人件費のかかる8番、知名度の低い7番、演奏が至難な9番までそろえた「百科全書」はユダヤ系米国人のバーンスタインの起用を待つことになる。マーラーの一番弟子で泣く子も黙る百科事典録音適格者だったブルーノ・ワルターは、米国帰化後にユダヤ系資本CBSからコロンビア交響楽団を提供されて好きな曲を好きなだけ録音できる特権をもらいながら、私見では賢明と思う純粋に芸術解釈の美学上と思われる理由(発言がある)から、3,6,7,8番は選ばなかったからだ。

Leonard Bernstein(1918-90)

カラヤンが10才年長で両人はほぼ同じ年まで生きたライバルだったが、バーンスタインが生涯を通じてブルックナーは9番しか録音をしなかったという重い事実を、宗教、戦争、政治が芸術と無縁と思っている、あるいはそこまで無知ではないがそうあって欲しいとは願っている日本人音楽関係者やファンは考えてみたことがあるのだろうか。彼が晩年はマーラーを契機にウィーン・フィルと蜜月になったことは意味深い。筆者は1997年にウィーンで同楽団のヴィオラ奏者たちと会食した折に「我々にマーラーを教えたのはバーンスタインである」という直々の言葉を聞いているが、正妻ベルリンフィルとの諍いがあり、むしろウィーン・フィルを恋人にしていたつもりのカラヤンには心胆寒からしむる思いがあったもしれないからだ(フルトヴェングラーが正妻ベルリン・フィル楽員に人気だったイケメン男カラヤンに懐いた嫉妬心のような)。しかし、カソリックのウィーン・フィルを手中にしても、あれほど何でも振る能力があったバーンスタインはブルックナーは9番しかやらなかったのである。そのようなことを知ってはじめて、4,5,6,9番,大地の歌,亡き児を偲ぶ歌,リュッケルトの詩による5つの歌曲だけで終わったカラヤンの「マーラー進出」は簡単でなかったことが分かる。軽々に芸術解釈の美学上の理由だけと割りきって推察することも本人が語っていない以上はリスクがあり、私見ではナチ問題をひきずって踏み込めなかったバーンスタインの牙城米国という根深い問題が透けてみえているように思う。

Daniel Barenboim(1942-)

戦争が勃発しているいまこう書くのは些か気が引けるが、それでも両人の戦いから半世紀がたったいま、ずいぶん世界はひとつになった。仏教徒がマーラーをやろうがブルックナーをやろうが元から何の関係もないが、ユダヤ人のダニエル・バレンボイムはイスラエル・フィルでワーグナーをやるには細心の気を配ったにもかかわらずブルックナーは気兼ねなくシカゴ響、ベルリン・フィル、ベルリン・シュターツカペレと3度も全集録音を果たす傾倒ぶりであり、かたやマーラーは大地、5、7、9番、歌曲集だけという塩梅であってナチ問題、宗教、美学を分離しているように観える。芸術解釈をザッハリヒに行なう主義を僕は否定はしないが、ことマーラーのような主情的な音楽をそれと切り離して解釈するのは演歌を譜面通り歌うのと同じほどナンセンスだろう。バレンボイムがそれと相いれないパーソナリティの持ち主ならば演奏しないことが解釈なのだという態度をとるしかない。それが許されるほど世界はひとつになったのだ。

東洋人をなめ切っていた米国が最も恐れるのは中国という時代だ。辺境から搾取するのが資本主義なら、巨大な辺境だった中国がそうでなくなろうとしている今、資本主義は行き詰まるだろうという主張はけっして誤りではない。リッチになった中国では、実は日本でもまったくもってそうだろうが、マーラー、ブルックナーは単なる商品であって、ユダヤだろうがカソリックであろうが、そんなことは99.99%の人にはどうでもいいのである。そのノリで新興ブルジョア家庭が子女教育に血眼になり、品質のいい日本の中古ピアノが資生堂の化粧品やピジョンの哺乳ビンの如く飛ぶように売れる(年間5万台、一台20万円上乗せなら100億円の営業利益だ)。むかしむかし、いまの中国人のようにハイカラを気取りたかった我が国の中流家庭によって、娘の誕生における新しいライフスタイルの心弾む新常識として争うように買われたピアノというものは、やがて百科事典と同じ運命になって置き場所に困った大量の長物と化している。だからその商売が栄えているのだとしか考えようがなく、あの気障りなテレビCMを見るたびにいつも機嫌が悪くなる。中古レコード屋に大量に出回るLPもそんなものではないか。楽ではない家計を切り詰めてピアノを買ってくれたおじいちゃん、おとうさんが亡くなったら、なんでこんな重くてかさ張るものが何百枚もあるのよ、早く処分しといてねってことになるんだろう。ウチばかりはそんなことはなかろうとも思うが、カラヤン、バーンスタイン死して30余年、クラシックリスナーなのに彼らの名前も知らない人が出てきてそのCDが1200円という時代がくるなんて当時考えた人はいないのだ。

それを恐れざるを得ない僕は息子に、地下室はぜんぶお前にやるからそのかわり絶対にメルカリに出すなと厳命している。

 

 

 

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日本は「飛ばないカラス」(若者への警鐘)

2022 JUL 28 20:20:56 pm by 東 賢太郎

いま写真の本を読みかけている。若い方、昭和史はあまり学校が教えないだろうから詳しくないかも知れないが、昭和11年2月26日未明に帝国陸軍青年将校による武装クーデターが発生し、首相、蔵相、内大臣らを襲撃、高橋是清、斎藤実、渡辺錠太郎ら現職の政府要人を殺害し、永田町、霞が関一帯を占拠したが鎮圧された事件だ。単発の騒動ではなく、昭和7年には海軍将校による犬養毅首相射殺事件(五・一五事件)がおきていた。かくなる軍部の内部抗争の力学が影響した国家最悪の事態として、300万人が亡くなる太平洋戦争突入が決まってしまうのである。この事件を教訓として学んで欲しい。

青年将校たちが「君側の奸」と呼んで襲撃した要人たちと比べると、いまの権力者は信念も国家観もない日和見だらけで、終始一貫している唯一のことは親米親中を問わず自分の既得権益ファーストの売国奴ということだ。彼らが話す言葉は我々の業界でいう「ポジショントーク」で、ある株をたんまり持っていて売りたいので「いい株だから買いですよ」と専門家面してもっともらしい理屈をこねるのである。バレたって「いい株だから私持ってるんです。それが何か?」で逃げられる。コロナや戦争でテレビに出てるコメンテーターの言葉もそれだ。真理を話すのが目的ではない、そんなの誰もわかってないし俺だってわかんないよ、でも自分は「専門家」って紹介されてるしこんなのでギャラくれるし、また呼んでもらえるようにテレビ局に都合の良い話をもっともらしくしておこう。ギャラはもっともらしさに支払われるという点において、薄っぺらな政治家の選挙演説と同工異曲である。真理はどうでもいいのである。僕とは真逆の精神の人達だ。

こういう連中がいくら演技しようが、職業上、もっと高度なプロ対プロのポジショントークを駆使しながら日々戦っている我々はすぐわかる。そいつのココロを読んだ瞬間にもう聞かない。プロの麻雀大会でツミコミがあってもやられる方が悪いで済むが、それを素人に仕掛けてはいけない。これは法律でなく職業倫理なのだ。それを素人にすることを職業としている方々とは悪いが人種が違うとしか申し上げようがない。昨今における、ただでさえ軽かった政治家の、羽毛どころかホコリの千分の一もない軽い言葉。「巧言令色、鮮し仁」なんてあまりにもったいなく、言われても理解できない者も多かろうし揶揄する気もおきない。国語の崩壊。それは国家の危機のバロメーターだと見抜いた三島由紀夫のような鋭利で腹のある男はもういない。世が世なら二・二六の現代版があったろう。昨年の東京五輪の意味不明の強行あたりから僕はそんなことを漠然と考え始めていた。しかし、もうおきないのだ。それが美しい日本の姿であり、成熟した日本国民の誇りなのだという声があちこちから聞こえる。そうだろうか。美しいのは富士山をはじめとする国土だけで、日本人は江戸時代からの伝統芸で外国人には到底まねのできない「長い物には巻かれろ」で生きる人が多数派から大多数に躍進しただけだ。長い物の能力は凄まじく劣化し、巻かれるほうはぬるま湯でもいい湯だねと思える国民的耐久力が進化した。その裏で、かつては隆々としていた覇気も上昇意欲も退化。飛ばないカラスみたいにみじめに凋落した二流国になろうとしているのではないだろうか。

認知症で記憶がなくなる直前に母に祖母のmaiden name(旧姓)を聞いてよかった。気丈な祖母は駆け落ち婚だから多くを語らなかったが、それが「まさき」と知ってすべてが始まる。ミトコンドリアゲノムは母系遺伝だから僕はそれでいうなら佐賀の真崎くんである。二・二六事件の不名誉な批判が我が事と思えてきたのはそれからだ。父からは台湾軍司令官だよと聞きどこかで騎乗の軍服写真を見た記憶があるが、それは本来が関東軍司令官であるところ政争の故あって飛ばされていたのだった。同書は極東国際軍事裁判における「真崎は二・二六事件の被害者であり、或はスケープゴートされたるものにして、該事件の関係者には非ざりしなり」(ロビンソン検事、不起訴にした)という立場であり、嬉しい書に初めて出会った。

クーデターをおこした皇道派は昭和天皇が正統性を否定して統制派に敗れたと教科書ではなっている。皇道派は天皇親政の下での国家改造を目指す荒木貞夫陸軍大臣と真崎甚三郎陸軍大将の派閥だが、陸軍には人事全権を握る皇道派しかなく、統制派などというものはなかった。様々なアンチが結集し永田鉄山(後に真崎を更迭したかどで暗殺される)を派閥の長として対抗した閥がそう呼ばれるようになっただけだ。真崎は若手将校たちに格別の人望があり、君側の奸を排した後の総理大臣に推挙されたが、なっていれば東条英機の運命をたどってA級戦犯となり巣鴨で処刑されていたから東条のご遺族には申し訳ないが幸運ともいえる。こういう諸々のことから彼の人となりを想像するに権力者の割には人間的でどこか憎からずというものを感じる。

さて二・二六事件あたりの世相に目を向けよう。大不況により企業倒産が相次ぎ、失業者は増加し、農村は貧困に喘ぎ疲弊していた。かたや大財閥などの富裕層は富を蓄積して格差が広がり社会不安が増大したというものだった。近未来を髣髴させる。青年将校たちは地方出身者が多く、娘を売る農村の惨状に悲憤慷慨し、権力中枢に巣食う勝ち組の売国奴どもを誅し、天皇親政の下での国家改造(昭和維新)をめざそうとしたのだった。真崎が主犯であるとする統制派は彼を政治的に抹殺すべく二・二六を利用したのであり、政治を犯罪要件として吟味したロビンソン検事が看破したとおりと信じる。将校たちの天皇親政への畏敬、国富偏在への危機感、国家観は当時のパラダイム下では不当なものではないが、真崎に頼り天皇に直訴してもらうしか実行手段はなかった。そうではなくクーデターへの道を進んだことの是非はここではおくが、命を賭して信念を貫く若者たちの愛国心には僕は日本人として感動を禁じ得ない。彼らに真崎が言ったと伝わる「お前たちの心はヨオックわかっとる、ヨォッークわかっとる」は僕もよくわかる。

僕がブログ読者として意識しているのは6割ほどを占める44才以下だ。そこには子供の世代である25~34才が20%、孫でもおかしくない18~24才も20%おられる。かたやこちらは67才で、白髪でメタボ腹の前期高齢者で、なんだかんだで書くことは昔を懐かしむだけ、己の成功を自慢吹聴しまくり、失敗の方は都合よく忘れてしまっているという不愉快なジジイである。65才以上の同世代読者が10%ぐらいというのは、パソコンができないか視力の問題か、さもなくば近親憎悪だろうと考えている。僕が世代のギャップを超えて孫、子の代と通じ合うものがあるとすれば、それはもう奇跡と呼ぶしかない。拙文はアニメ感覚で読めるものでなく、日本語が不如意な人は読まないだろうし、読める人はおそらく記憶力は良く、文章は画像より脳に定着しにくいが一旦すると消えにくいのだ。自分も若き年代に読んだ物はいまも心に残っており、一部は僕の美学にまでなって性格にとりこまれている。

ブログに影響されたという人が出てきたら人生で成功して欲しい。いや、首根っこをつかまえてでも成功させてあげたい。僕がものを学んだ時代、アメリカで教育を受けた時代、そして海外で仕事した時代の西欧の社会思想は、新自由主義、ネオリベラリズムへまっしぐら派(シカゴ学派、サッチャリズムetc)とソーシャリズム派(中道左派、欧州の社会自由主義政党の台頭)がクリアに分岐しつつあった。僕はリベラリストであるから個人の自由や市場原理を重視し政府の介入を最小限にする前者に共鳴し、サッチャリズムがリアルタイムで展開される英国で6年過ごした体感も寄与した。ネオリベラリズムは拡大してグローバリズムともされ、いま世界に所得の不平等をもたらした弱肉強食的な思想として蛇蝎の如く嫌われるが、ではケインジアンの大きな政府が介入したとして、所得格差は多少縮まるかもしれないが、経済全体がうまくいかなければ分配原資が減って国民全員が貧しくなる、これはどうするんだというと有効な答えはどこからも出てこない。コロナ禍救済策でやむなく出現した「大きな政府」の一環である中央銀行のバラマキが少なくとも株式市場を救ってはくれた。それは僕の事業にはプラスだったが、それで大きな政府が恒常化するドクトリンを信奉しようなどという軽さは僕には微塵もない。「ボクも貧乏キミも貧乏、それでいいじゃないか、みんなで辛さを分かち合おう」というのが猫の餌食になる飛ばないカラスだ。政治家や役人が経済政策、予知能力に長けた全能の賢人である可能性は限りなくゼロであることを歴史的賢人たちが世界史から学び取ったからこそ、万能ではないが人間よりはましな市場にまかせようとするのである。彼らより賢くない政府に任せるとどうして幸せになれるのか誰か論理的にご教示願いたい。

弱肉強食はいけないというのは「うちの息子が泣いて帰ってきたから運動会で順位をつけるのはやめてください」「これは虐待です。息子の人権を認めなさい」というモンスターな母親の理屈だ。それで社会を動かそうというのはひとつの考え方ではあるが、息子さんは幸福にはなるが国民は不幸になるなら採用すべきではない。弱肉強食は競争という社会に自然にあるものの誇張表現にすぎない。全員が平等なはずの共産主義国ですら政権で良いポストを得る激烈な競争がある。いかなる国家、経済体制でもヒトが2人いれば必ずある。だからそれに勝ちぬく力をつけることは、人類普遍の一般論として、良い人生を送るための必修科目なのである。学んで得と思うか否かは自由だが学んで何の損があろう。で、ここはジジイの自慢を思いっきりさせてもらうが、僕は誰にも習っていない自分であみだした方法で受験、仕事、出世、運用、蓄財、野球、ゴルフの競争をそれなりに勝ち抜いてきた。つもりや自負ではない、誰にも文句を言われない程度には事実である。だから我が方法の価値は客観性をもった証明ができ、それはカネをとって教えられる。何故しないかというと、そういうことはカネがない人の仕事だからだ。ない人は成功してないからない。どうしてその人の本や講義で成功できるのかわかる人がいたらご教示願いたい。僕はカネがあるからそんなことをする必要はない。だから全部ブログに書いているのである。

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ドーピングは問答無用で退場のイカサマ

2022 FEB 18 9:09:03 am by 東 賢太郎

ロシア国家の組織的なドーピングの制裁で、同国の選手たちは「ロシア」でなく「ROC」所属として出場している。そのROCでまたドーピングがあったとすると、次の五輪は何という団体名になるんだろう?そこでまた出たら次はなに?五輪の醍醐味がひとつ増えそうだ。開けても開けても同じ顔が出てくるあれ。いわゆるひとつの文化というべきなのか、お家芸であるか、はたまた病気か、いったいどれなんだろう。

今回のスケートのあの子は15才ぐらいだろうか、動揺があったのだろうフリーの演技は気の毒で、いかにも後味の悪い結果になってしまった(坂本さんがメダルを取れたのは良かったが)。16歳未満が「要保護者」なのは賛成だが、保護が必要な子供が自分でクスリを飲むだろうか?お爺ちゃんのコップを使ったぐらいでサンプル汚染と判明した他の選手の200倍も汚染されるだろうか?周囲の大人が下駄をはかせて勝とうと、ズル工作しなければこれはないだろう。その大人が人間のクズですねで済む話ではない。以下に書くが、そのことを裁く側の対応がこれまた問題で、世の中がそんなことで動くなら未来は誠に暗い。この事件には何ともやりきれない気持ちでいっぱいだ。

厳正な競争はフェアなルールがあってのみ成立する。したがって、特例を認めてそれを曲げるのは競争の管理者としてあるまじき自損行為であって、管理者の地位から放逐すべきだ。そして、ドーピングの実行者は試験のカンニングと同様、ひっかかった時点で問答無用で退場である。CAS(スポーツ仲裁裁判所)の「要保護者」の子供が傷つくから演技させましょうなどという甘ったれたお為ごかしはルールにはなり得ない。故意があろうとなかろうと即座に退場がルールで、子供であれば少年法の考えでそれ以上の罰は与えず、そんな事態に追い込んでしまった指導者や周囲の大人を所定の手続きで断罪すべきなのだ。さもなくばフィギュアは競技ではなく単なる娯楽のスケート・ショーになり下がる。すると血のにじむ努力を重ねた他の選手たち全員をも傷つけてしまう。つまりあるひとりのお行儀が良い悪いの問題ではなく、競技そのものを堕落させ、信用を失墜させる社会的重罪なのである。

東京大会の時点で書いたがIOCという組織はいったい何なのだろう?2036年の夏季五輪開催に手を挙げてくれるロシアは上客のようだ。フィギュアのあの子は素人目にもレベルが高く世界的な人気者であり、それを演技させないとテレビの視聴率が下がって大事なスポンサー様は逃げるし、ROCに格下げされたプーチンの機嫌をさらに損ねるという事情はあったのだろう。しかしながら、そこで「特例」をもうけて演技はさせる。厳正を装うための逃げ口上で「順位は暫定とします」ってのは完全なミスジャッジだ。ロシア様の「大きな力」の前では「イカサマ」オッケー。その犠牲になって、正々堂々と戦って勝った他の国の子が表彰台に登れなかったらなんてことは無視している。IOCは田舎紳士にすぎない移動サーカスの座長のレベルであり、世界の超一流である選手たちのほうは単なる客寄せパンダって、誰がどう考えても変じゃないのという怒りを覚える。

こうしたバッハ主義は、しかし、バッハ氏の責任だけとは言いづらい。世界にまん延している風潮である「なんでもカネでオッケー主義」を映す一個の鏡にすぎないという見方もできるからだ。カネで買えないものを換金することを「マネタイズ」という。いまや大統領選挙の票でも受賞論文でも奨学金でも愛でも買える世の中になってしまったのだから、IOCが五輪をマネタイズする団体であって何の罪があろう。「その精神でがっぽり儲けさせてもらいますよ、でもそのおかげで皆さんも4年に1度の五輪を楽しめるでしょ?」「だよね」「だよね」になってしまうと何が起きるだろう?フェアネス(公平性)というものは本来はマネタイズという腐敗から競技を守ってくれる防壁なのだが、「それをいじるといい商品になるよ?」という悪魔のささやきが聞こえてくるのだ。ゲーテのファウストのようにその誘惑に乗って禁断の木の実を食べた瞬間、あらゆる競争はショーに堕落する。それを決められるトップは自分の在任中ぐらいはまだバレないだろう、やらなければ後任者がやるだけだ、やらねば損となる。これは投資銀行の収益部門ヘッドの椅子に座った大概の人が陥る餓鬼道と似たところがある(リーマンショックはそれで起きた人災だ)。バッハ氏をいくら批判しても仕方ない所にIOCは居場所を作っているように僕には思える。

僕は東大がAO入試を始めた時点で同じことを感じた。東大教授でも東大卒でない人もいる。いつか悪魔のささやきに乗らない保証はない。ポリシーが堕落すればAO=アホでもオッケーの風穴があき、蟻の一穴から全部の公平性が瓦解すると危惧するのは僕だけではないだろう。子供のほうも、それで合格しても学内外でそういう冷ややかな目で見られるだけだ。すると、それでは気の毒だ、人生の大切な時期に人格形成でひずみが出るのでむしろ現行の入試は廃止すべきだろう、そして全員をAOで選別すればフェアではないかという一応は理にかなったあらぬ結論が見えてくるのだ。ケン玉が天才的だったり物まねの達人だったりという生徒も一芸に秀でてその道では日本一なのだから東大生でいいじゃないか。何も勉強だけが人生ではないだろう。学問の府も多様化の時代だ。時代に即して変わるべきなのだ。他校もそうすれば、大学のレベルは全国的に平準化して、学問の自由、学ぶ機会の公平という国民の基本的人権の観点から平等な素晴らしい社会が実現するだろう。岸田政権の標榜する新社会主義にもフィットした教育政策ではないだろうか。そうやって日本は国ごとゆっくりと偏差値50に収れんし、気がつくとアメリカに捨てられ、中国の最東端に位置する省になっているだろう。いいじゃないかタダで守ってもらえるなら。だよね。

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科挙のカンニングは死刑

2022 JAN 29 14:14:21 pm by 東 賢太郎

科挙は隋の文帝が598年に創設し、清朝末の1904年まで続いた。中国の皇帝は地上世界を治めるべく天命を受けた者であるが、地上は広く一人では統治できない。そこで官僚が必要となるが、文帝までそのポストは貴族の子弟が世襲してあまりに馬鹿が多く、統治が不安なため作ったのが科挙である。

代々皇帝は変われど約1300年も科挙が維持されたのは民間から頭の強い人材を登用することが国を強くするからである。だから19世紀から欧米もこのシステムを取り入れた。そのためには「公平」で「ズルがない」ことを国が厳格に管理することが大前提で、裏口があればシステムの有効性は崩壊してしまうのである。

日本は平安時代に模倣したがすぐに貴族の世襲に戻ったところがとても日本らしい。辺境の島であり外敵から隔離されていたからそれで征服されなかった。黒船が来てその特殊環境は消えて現在に至る。一般環境において統治者が世襲などしていたら滅びるというのが西洋および中国の歴史が証明する一般原理である。

科挙に合格すると権力と富が得られたため熾烈な競争となった。そこであの手この手のカンニング術も進化した。

これだけの凄技があればずいぶん稼げそうだが、役人になった方がもっとおいしかったということを示している。

カンニングが見つかると家族まで死刑になった。

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えっ「書き換え」?それって「改竄」でしょ

2021 DEC 16 18:18:47 pm by 東 賢太郎

三菱自工、三菱電機、日立金属、神戸製鋼所、日産自動車、SUBARU・・・

「データ改竄(かいざん)」で思い出す企業名だ。まだあった気がするが、どれも立派な企業ゆえにかえって記憶に残るのは皮肉だ。ググるとこのリストが出てきた。汚名は永遠に消えない。

http://www.directforce.org/DF2013/02_DF_katsudo/governance/pdf/DFKG-14-B-01.pdf

何が驚くって、ご覧の通り、ほとんどが「内部告発」でウソがばれていることだ。告発が意外なのではない、経営陣が「ばれないだろう」と思っていた事が驚きなのだ。いまどき社員だれでもスマホや家のパソコンで発信できる。「命令だから従うだろう、長くやってきたことだし、社員なんだから・・・」。いくら昭和世代のお爺ちゃんでもズレすぎだろう。そんな旧石器時代の経営してて大丈夫なんだろうかと心から心配するが、その程度で済むのは僕が株主でないからだ。何百億円も広告宣伝費を払ってきてこれ一発でパア?冗談よし子さんだぜ、役員全員クビ、代表訴訟で損害賠償でもやったるかって軽いタッチでなっていくよ。総会屋より怖いが誰も止められません。他人同士が自然に横で繋がるネット時代の株主はね。

僕は人種的に数字、理屈のピューリタンだ。それに反することは一切やらないし、反する人にも行為にも厳しい。お読みいただいているブログもすべてその精神が書いている。ちなみに数学は満点でないとおかしいと思ってる( 解ける ”はず” だから)。「世の中理屈じゃない」はウソだ。「そういう部分もある」が正しく「それ以外は理屈」なのである。やるかやらないか判断する材料に「人」と「数字」とがあって「どっちかが間違いです」といわれれば数字を選ぶ。人はウソをつくが、数字はいったん数字になってしまえばウソはつかないからだ。その数字を「データ」と呼ぶのである。

従って、データを改竄して論文や調査レポートを書いたり、製品を売ったりするのは僕にとって「数字」の冒涜であり、数字で判断する人間の人生を危うくする犯罪である。だから2014年にSTAP細胞事件を糾弾するブログを冷徹に書いた。何万人があっという間に読んだ。今年5月ごろデルタ株感染者数の “忖度予測” を五輪を強行したい政府に売ったいい加減極まりないリサーチ会社も実名で冷徹に批判した。世のためでも売名でも商売でもない(そのどれも僕の人生の重大命題に入ってない)。自分や家族の人生や健康に害が及ぶリスクがあるから「自助」したまでだ。

「数字で判断する人間」だって?そんなのほとんどいないぞと思われるだろう。それは「世の中理屈じゃない」が憲法第1条みたいな日本だからだ。僕は海外で数字、理屈だけで仕事した。うまくいった。金も儲かった。なぜか?数字、理屈が通るからだ。99%がそう思ってない日本はもっと楽ちんに稼げる。ということはやがて、理屈の帰結として間違いなく、日本は外国の食い物になる(もうなってるが)。その流れの中で、親米やら嫌中やらエモーションだけで動く「数字で判断しない99%」はかわいそうだが間違いなく奴隷の道になる。それを救う力は僕にはない。だから家族だけはそうならないようにする。

知る人はみな僕を「理系アタマだ」という。コチコチという意味だろう。そうじゃない。「数字、理屈のピューリタン」アタマなのだ。固い、頑固だという人達には「マルティン・ルターは立派な人ですね、ところで彼は理系ですか?」ときこう。2014年にこういうブログを書いたのが懐かしい。

小保方氏に見るリケジョとAO入試

ここから2つ引用する。

我が国は数学ができないがそれに疑問も抱いていない男性に満ちあふれている

理系・文系のくだらん区分けでこの事態を放置してきた文科省に重大な責任がある。保証するが、世界はそんな男で満ちあふれてはいない。日本を外国の食い物にし国民を奴隷にする国賊ものの教育政策である。

小保方さんの行為は倫理観以前に「数学千本ノック」をしっかりと受けた人の思考回路が許容するものとはどうしても考えられないのである

STAP細胞のニュースが出た当初、ノックを千本でなく三本も受けてない総理、文科大臣が軽いタッチで「女性の時代だ」「ノーベル賞ものだ」と恥ずかしく騒いでいたのが記憶に新しい。初めから「何かおかしい」と気づいたのは数字、理屈のピューリタンだけだった。同じ言葉を「建設工事受注動態統計」を改竄した国交省の役人に贈りたい。読者にはお耳ぐるしいとは思うが事実だから書く。東大は文系でも「数学千本ノック」をしないと入れない。だから役人の思考回路が「数字の冒涜」を許容したとは俄かには信じ難い。とすると「倫理観以前に」ではなく「倫理観の問題そのものでしたね」になるが、そうなら大臣がクビどころか役所ごと潰さなくてはいけない。「何百億円も広告宣伝費を払って一発でパア」は企業でも許されない。二千六百年も積み重ねてきた国家の信用が「故意にウソをつく役所」のせいでパアなんていう事態を許す国民はいない。

こういうことは首相や大臣が「遺憾」に思っても、それに「大変」がついても片づかない。税金にたかってばれた議員が「返金します」「寄付します」では済まないのである(万引きした商品を返せば無罪になるか?)。「二度とこのようなことが・・」って、一度でもあったらアウトだ。なぜって、議員や役人に変な人はいないと信用して国民は税金を払っている。「昨日は変でしたが今日はまともです」なんてのが通用すると思ってるだけで変な人だ。信用に払ってるのだからそれが消えれば税金は払えないねとなっていく。

落語のパロディーで「お爺さんとお婆さんが助けた白い鳥が恩返しに来たと思ったら、機を織るのではなく、家財道具を持って逃げてしまいました。鶴だと思ったらサギだったんですね」ってのがあったが、経産省キャリア官僚が給付金詐欺で逮捕なんて事件が本当にあった。善人のお爺さんお婆さん、がっかりしただろうね、でももう白い鳥は助けないだろうね。

(こちらもどうぞ)

「小保方氏に見るリケジョとAO入試」再論

(こちらが「何万人があっという間に読んだブログ」だ)(原文ママ)

小保方発表で暴騰したセルシード株(7月25日、追記あり)

「ワタシ、失敗しないので」と思ってる「大きな力」が「学歴・業績でっちあげ作戦」に失敗したケーススタディである。こういうのを野放しにしておくと国が腐る。マスコミもご覧の通り国交省の「改竄」を「書き換え」なんて改竄しちゃう腰抜けであり、野放しに加担するのみである。ネットが駆逐するべきだろう。

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