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太閤秀吉の完全犯罪(私説・本能寺の変)

2019 APR 26 1:01:04 am by 東 賢太郎

10年ほど前に福岡に行ったおり、秀吉が朝鮮出兵した「文禄・慶長の役」の折に諸大名を集結した基地である名護屋城跡を見に佐賀へ行った。韓国で秀吉は蛇蝎の扱いであって、平城まで攻め込んできた日本軍に立ち向かった李 舜臣(イ・スンシン)将軍は救国の英雄である。彼を知らない韓国人はいないから、ということは秀吉を知らない人もいないということだ。朝鮮出兵といわれ、結果的にはそういうことになってしまったが、本来の目的は「唐(明国)入り」であった。経路とされた朝鮮には迷惑至極な話だったが、逆に日本が侵略されかかった元寇もあるのだから秀吉の頭の中ではあいこの話だったかもしれない。

その時に名護屋城跡で眼下に見た玄界灘の光景が記憶に焼きついていて、のちに安土城址から眺望した琵琶湖の姿にそれが重なった。「唐入り」は周知のようにもともと信長のプランであり、重用したルイス・フロイスらイエズス会宣教師から得た地球の地理・地勢、天文学、航海術、宗教、交易の利、近隣国の政治情勢などに関わる知識とビジョンを彼は持っていて、それを若者に学ばせようと安土城の麓にセミナリオ(学校)まで造らせている。彼は神仏にすがらぬ唯物論的思考の人で、思考が合えば人種も宗教も一気に飛び越えられる。西洋人的であり、今流ならグローバルである。一方のイエズス会としてそれは無償のサービスであるはずがない。日本はもとより、強大な武力を有する信長を焚き付けて大国・明を攻め落とさせ、中国大陸に布教を進めようという下心があったと思われる。

しかし秀吉はというと信長の唯物論はかけらもない。やがてイエズス会を異質なものとして警戒し全面的に追放してしまうのだから、国内に焚き付ける者はもういなくなった。そこに「唐入り」プランだけが頑迷に彼の頭に残ったのは思えば奇異だ。それも病がちになる最晩年である。聚楽第から指揮しようというのではなく自ら朝鮮に渡るとまで言い放って名護屋に陣を構えた執着ぶりは生命を賭したもので、部下となった諸大名の心を外敵との戦さに向けさせる必要があったとはいえ、そこに勝算があると信じこめた彼のポジティブ・シンキングはビジネス的視点からすると誠に凄まじい。ただでさえ常軌でない日々を生きた戦国武将の心を平和ボケした現代人の常識や正義感で読み解くことには抵抗感を覚えるが、このケースはそうと知っていてもなお、凄まじい。

を囲む諸大名の陣形はこうだ。まさしくこの時点での戦国武将オールスターであって、徳川家康はもとより信長の次男、織田信勝、かつて三法師であった孫の織田秀信の名も見える。ルイス・フロイスが「あらゆる人手を欠いた荒れ地」と評した名護屋には「野も山も空いたところがない」と水戸の平塚滝俊が書状に記している。誰も来たくなかったし、まして荒海を渡って未知の土地で手の内の知れぬ異国人と斬りあいなどしたくなかったろう。全員が殿の乱心と見て取ったろうが、それが政権での仕事なのであり、権力には服従するしかない。秀長がなくなり、利休を切腹させ、鶴丸をなくし、母をなくし、秀頼が生まれ、そして後継含みの関白を譲ったはずの秀次を切腹させた秀吉がここにいた。老いのあがきや狂気と通解されるが、信長の残虐と同様に現代人の善悪観念では量り得ないものがあると思う。

後の関ケ原合戦での東軍、西軍の色分けを見ると、城周辺に東軍が多く、石田三成は離れて後方を固めているが、注目したいのは足利義昭の名がみえることだ。武力は期待できない征夷大将軍がなぜ陣を張ったのだろうか?

本能寺の変の真相、黒幕探しは諸説の百花繚乱だ。大体目を通したが、真犯人は秀吉という説が格段に面白い。文献資料がないため俗説扱いされるが、長年ビジネスの権謀術数でもまれた僕にはけっこうリアリティがある。ぜんぜん「あり」だ。なぜなら、秀吉は戦さもうまかったが、天下を取れたのは「調略」の達人だったからだ。「人たらし」という評判は、調略能力が上司に対して行使された場合のいち名称に過ぎないわけである。ビジネス界にもへたな調略だけで飯を食ってるしょうもない奴がいて僕は蛇蝎かゴキブリと思い成敗してきた。しかし達人の域のは手ごわい。逆に痛い目にあわされるし、誰が仕掛けているかわからない危うさがあって毛沢東が三国志を愛読したのはわかる気がする。そういう生々しい体験から本稿を書いており、もちろん僕も調略を試みたことがあるが、うまくいかなかったことを告白しておく。はっきりいって、へたくそである。そんなつまらん労力を使うなら集中力を高めて中央突破したほうがよっぽど早いし、痛快でもある。

調略は人知れず行うから調略なのであって、書面、書簡に残すような馬鹿はおらず、爾後に口を滑らすような相手は殺すか最初から輪に加えないのは常識である。秀吉がこんなこと言ってたぞと口が軽い奴、命令通りに動かない奴は一切信用せず、こういうお家の一大事には関わらせないのである。つまり「秀吉真犯人説は一級文献資料がない」という批判は、秀吉のクレバーさと完全犯罪を証明する言葉ではあっても、批判としてはまったくナンセンスである。むしろ資料がないからどれもが真相であり得るのであって、しかも誰でも推理ゲームに参加できる。若い頃は関心がわかなかったが、この年になってみて、この場面ではこう考えるだろう、こう動くだろうという読み方ができるようになって俄然面白くなった。そこへ岐阜に行って、関ヶ原古戦場のあちこちに立ってみて、戦国時代好きにまたまた火がついてしまった。歴史は本当に面白い。以下私見を書き連ねるが、まったく何の根拠もないからご笑納をお願いする域を出ない。ただ、ビジネス界の奥座敷では「あるある」だということだけは自信をもって申し上げられる。

明国に後陽成天皇を移す意図を持つ信長の専断は朝廷の度肝を抜いた。最後の抑止力であった武田氏が滅亡し止める者はなくなった1582年3月、天下の空気は一変し、朝廷による旧体制である室町幕府再興を旗印に反信長諸将がまとまる余地が垣間見えてきた。征夷大将軍・足利義昭にかわって信長を誅する大義をまっとうする武将は家格が問われ、それは毛利ではあり得たが力不足であった。しからば明智であろうという流れは光秀をくすぐるには自然である。その時点で義昭は毛利配下の鞆城に身を寄せており、室町幕府再興案が信長の排除になるなら高松攻めで追い込まれている毛利も、信長と敵対していた土佐の長宗我部(光秀の親類)も加勢することは目に見えている。その情勢を手に取るように読める位置にあったのが、中国攻めを拝命し高松城攻略を決行していた秀吉なのである。

この計画の最大のボトルネックは家督相続人である織田信忠だった。信州高遠で勝頼を深く追い詰め武田を皆殺しにした信長の長男だ。この戦いは織田家、武田家の跡取り息子同士による雌雄をかけた決戦という意味合いもあった。父の天下布武を固めるメルクマールとなった戦勝に武運を見て、信長後継の地位を固めたと諸将は理解した。信長を誅しても、信忠がとってかわる。従って、信長政権奪取という「調略」は信長・信忠を同時に葬ることが必須であったのである。その機を狙って練られたものであり、側近のみの知る父子の身辺情報とスケジューリングに関与できる者しかなし得ない。最重要の身辺情報とは、武田滅亡による信長の心の隙だ。護衛もなく富士を眺めに出かけて悦に入る。その隙が軍勢なく至近の二寺に二人が泊まるというあるまじき油断を呼ぶ。そうしたものは語られたり書かれたりはしない。空気で読むのであり、常に側近にあって最も信頼される部下しか機会はない。

秀吉が中国攻めのキーポイントである高松城攻略に信長の主力軍勢など3万を率いていた事実は、彼が信長の全幅の信頼を得ていたことを示す。高松城側の勢力は高々3000人でしかないが、そこで秀吉はなぜか信長に援軍要請をする。家康の接待役を務めていた明智光秀に急遽助太刀の命がくだり、さらには信長自身も加勢せんとして本能寺に逗留することになる。命にかかわらないビジネスでもここまで部下を信用したことがない。私心への疑念など微塵もない、驚くべき、最大級の信頼である。秀吉は情報操作でいくらでも信長を欺ける立場に昇りつめていたということがわからない人にはわからないだろうが、経験から申し上げる。こういう部下が一番危ないのである。3万の兵力でも苦戦して水攻めに切りかえた城に光秀と信長がさらに大軍で押し寄せて何ができよう?それを失態と責められず済ます自信があるから仕掛けられるのである。援軍要請は光秀に軍勢を与え、信長、信忠を安土城から丸腰でおびきだすための調略であり、帳尻合わせに高松城の難攻不落ぶりを誇張して流言させ、後世になって、奇想天外な戦法、彼一流の軍略であると尾ひれがついたのは流言がいかに多かったかを物語る。

事件は6月2日未明に起きたが、秀吉が「信長斃れる」の変報を聞いたのは3日夜から4日未明にかけてのことであった。太閤記は光秀が毛利氏に向けて送った密使を捕縛したとするが、この書は44年後に書かれた秀吉親派のよいしょ本である。密使は毛利でなく、秀吉に送ったものである。秀吉は5日に「上様(信長)も殿様(信忠)も無事に難を切り抜け、近江膳所(滋賀県大津市)まで逃れている」と大嘘の返書を「ただ今京都より下った者の確かな話」と更なる大嘘で塗り固めて摂津茨木城主・中川清秀に送っている。信長生存の煙幕は光秀をも疑心暗鬼にした。遺骸を見ていないのに光秀は「信長斃れる」と書けただろうか?仮に共謀がなかったとして、秀吉はそれを鵜呑みにしただろうか?では秀吉はどこで父子の死の確報を得たのだろうか?真実を知らぬ者に嘘はつけないのである。

明智光秀にいつどこで囁いたか知る由はない。胡散臭いが口八丁手八丁の手練れ坊主である安国寺恵瓊なら間者をできただろう。こういう手合いもビジネスではよく遭遇するが注意しなくてはいけない。「信長主力軍は我がもとにあり上様は本能寺、殿様は至近の妙覚寺にてどちらも茶会で丸腰である。かくなる好機がまたとあろうか。我が軍も高松より急行して貴殿に合流し御沙汰に従う」と焚き付け、呼応して意を決した光秀は万感の思いで「ときは今・・」を詠む。「ときは今」であったのは秀吉であり、配下の少数精鋭の兵で光秀に先立って深夜に本能寺に忍び込んでやすやすと無防備の信長、信忠を討ち、首級を京都の外に持ち去った。目的は達したがそこで終われば下手人はやがて発覚する。だから光秀に罪をきせる。騒然とする本能寺に討ち入った光秀は遺骸を探したが見つからず、火を放って事態を収める。討ち入った以上は勝どきを上げるしかない。光秀がダミーであることを知るのは秀吉だけであり、本人が勝どきを上げるわけであるから、秀吉は堂々と虚報、大嘘を流布して光秀を主犯に祭り上げることができた。

この手は1963年11月にケネディ大統領暗殺でオズワルドの単独犯行としておいて2日後にダラス警察署で彼を撃ち殺した主犯の手口と同じだ。どちらもダミーを殺した人間が主犯なのであり、どちらも首尾よくつかまっていない。そして秀吉が口実とした足利義昭による室町幕府再興は闇に葬られることになるが、「家格が大事」は光秀用のセールストークであって、天皇、公家からすれば信長の脅威を除いてさえくれればそんなことはどうでもよい。家柄が賤しい。だからこそ、それを逆手にとって光秀に「拙者でなく貴殿だ」をすんなり信じこませることができたのであり、秀吉は政権を確立すると徹底した親朝廷政策をとり、朝廷の官職にある足利義昭を奉じて自らは関白就任に成功する。それで朝廷の面目も立って恩が売れるという見事な計算であり、だから、実体は狂気である「唐入り」の国家による箔付けとして名護屋城に義昭の陣が張られたのである。

清須会議、賤ケ岳合戦、小牧・長久手の戦いは朝廷の関与がない武家の覇権争いであり、信長政権乗っ取りを計った光秀を討っただけでは正当性に欠ける。光秀が第1次なら秀吉は第2次の乗っ取り者であるにすぎず、武家の棟梁になっただけで朝廷を震え上がらせた信長の威信は自分にはないことを彼は知っていた。彼は頂点には向いてないNo2の男なのであり、調略能力は仕掛ける相手がないと持ち腐れなのだ。だから朝廷の威を借りつつ総大将として諸将を従え命令する「唐入り」という大イベントに賭けた。この戦さで大将に立てる者(立ちたい者)は自分しかいない。それは信長様もできなかった地位だ。明、朝鮮の知行地と戦利品を恩賞として与えれば部下はついてくると踏んだのである。これがポジティブ・シンキングの悲しい実相だ。それは数々の「あり得ない」で出来ている。そんなものを生煮えのまま常人に語って聞かせたところで馬の耳に念仏にもならない。まず自分を奮い立たせ、できると自らに信じ込ませ、酒で恐怖を追い払い、鬼気迫るオーラが漂ってきたら部下はついてくる。ビジネスはそういうものだ。調略の天才・秀吉を僕はあらゆる意味で尊敬するし、その彼ですら苦労した経営のもろもろはほろ苦いと思う。

さて最後になる。秀吉の「唐入り」が気になっているのは、もしそれがなかったならば僕はこの世にいないからだ。

おふくろの方のばあちゃんの旧姓は「眞崎(まさき)」である。二・二六事件の眞崎甚三郎陸軍大将の眞崎だ。常陸(茨城)の清和源氏、佐竹氏の分流だが、ばあちゃんは長崎(諫早)の人だ。なぜかというと眞崎氏は上掲陣形図にある佐竹義宣と共に「唐入り」で名護屋へ出陣し、秀吉の没後は鍋島藩によって諫早藩の監査のために当地にある城(眞崎城)に残った。つまりそれ、それを契機に420年前に九州人になったからだ。だから、もし唐入りがなければ、ばあちゃんは長崎港から上海に向かう三井物産社員のじいちゃんに出会うことはなく、つまり僕はこの世にいなかった。いっぽう、じいちゃんは武田が信州高遠で生き残った末裔。にっくき敵方総大将が話題の織田信忠であったのだから、秀吉と光秀が京都・二条城で敵(かたき)をとってくれたことに感謝しなくてはいけない。それで信長ファンというのも実に変だが、東京人なのにカープファンだというのとちょっと似ている。

 

秀次事件(金剛峯寺、八幡山城、名護屋城にて)

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Categories:______歴史に思う, 若者に教えたいこと

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