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カテゴリー: 旅行

チューク島にて(その1) 

2014 SEP 11 21:21:56 pm by 東 賢太郎

4泊でミクロネシアへ行って来ました。去年はポンペイ島でしたが今回はチューク島です。下の地図でCHUUKとあるのがそれで、二重丸のWENOとあるのが今回上陸した島です。ご覧のようにミクロネシアにチューク島という島はありません。大雪山という山がないのと同じで、珊瑚礁に囲まれた大小百の島々をまとめてそう呼ぶのです。左上にグアム(GUAM)、サイパン(SAIPAN)がありますからだいたいの位置はお分かりいただけるでしょう。日本からはグアム経由となり、成田-グアムが約3時間、グアム-チュークが約2時間です。

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チューク島はトラック島ともいい、戦時中、呉の日本海軍の基地をそのまま前線に移転したのがここです。ですからあの連合艦隊が停泊し、山本五十六連合艦隊司令長官の邸宅があり、帝国海軍総司令本部が置かれた南洋の最重要拠点でした。環礁内ですから湖のように波がなく、大型艦が侵入できる充分な水深があり、面積は神奈川県ほどと広大です。海軍スタンダードの1200m滑走路ができる平地と兵隊の駐屯スペースが確保でき、山には猛獣、害虫がおらず疫病のリスクが低く、ヤシ、マンゴー、パンの実が自生し、雨水で毎日潤い、マグロ、カツオが捕れるので最低限の食糧は調達できそうです。司令本部を置く地勢として格好の場所であることは、行けば体感できます。

最大五万人の日本兵、承認等が居留し、中心である夏島(TOUNAS島)は小都市のように賑わったそうです。なぜ夏島というかというと、環礁内に長期居住可能な四つの大島があり、軍はそれらを貼る島、夏島、昭島、冬島と名づけたからです。その他、日月火水木・・・、子丑寅卯辰巳・・・などと命名されます。本部は中央の夏島に置かれ、山本五十六長官の邸宅は同島の丘の中腹にありました。

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チューク州政府や飛行場は春島にあるので夏島へはボートで渡るしかありません。今は現地の人が数千人のんびりと暮らす何でもない緑の離島で、大日本帝国の国運を握る大連合艦隊と総司令長官、幕僚と幾万の軍人がそこにいたなど想像もつかぬ景色です。ボートが確保できなかったので仕方なく僕らは春島のでこぼこ道を登ったザビエル高等学校の高台から夏島を眺めることになりました。これがその写真です。

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この海に戦艦大和と武蔵が停泊していたのです。大和と武蔵が並んだ写真は一枚しか現存しないそうで、それが撮られたのがここです。日本軍が撤退する時、軍艦を錨に係留する浮きを爆破しましたが、その浮きだけは今も夏島との中間にある小島の脇に漂っていました。山本五十六の邸宅は朽ち果てているようで、次回来たら行ってみたいがと聞いてみたところ、「ジャングルの山道を登らないと行けません、お年寄だとちょっと厳しいですね」とのことでした。

戦争に勝っていれば邸宅は戦勝記念館となり司令長官の銅像は遠くアメリカの方向を悠揚と見やっていただろう。きっと高校生の修学旅行コースにでもなっていて、日本人の地球儀の眺め方を根底から別なものにしていたに違いない。僕のお客様で、東映の映画山本五十六の制作に関わった方が、今の高校生はひどいもんですよ、やまもとごじゅうろくって誰?なんて聞くんだよと嘆いておられました。そんな子でもマッカーサーぐらいは聞いたことがある。何なんだこの国はと。

 

(続きはこちら)

チューク島にて(その2)  

織田信長の謎(5)-京都とミクロネシアをつなぐ線-

 

 

 

 

 

 

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箱根吟遊と旧吉田茂邸にて

2014 JUL 16 14:14:31 pm by 東 賢太郎

先日は会議がこちらで行われ、箱根吟遊さんに泊まらせていただきました。ネットの評判を見ると「日本で一番予約が取りにくい名旅館」といわれたことがあるそうで、予約は1年先までとリピーター率は高そうです。清算の時に「次のご予約はいつにされますか?」と尋ねられますが、それだけの値打ちありでしょう。

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1階の「風雅」という部屋は内風呂と露天風呂があり、総面積はざっと100㎡はあるでしょうか。庭先は樹木で見えませんが眼下に早川を望む峡谷で、その奥は深々とした国有林です。大浴場もありますがここだけで充分でした。

 

 

 

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朝日と鳥の声で5時半に目が覚め、湯船につかるとこうです。澄んだ空気と木漏れ日と熱い湯、日ごろの憂さを忘れさせていただきました。

 

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1時間ほど仕事のメールに目を通したりなどしてすごすと、光の具合がすっかり変わります。ちなみに松本清張の推理小説「蒼い描点」に登場するケーブルカーの線路はこの写真の垣根のすぐ下です。

 

 

台風が良い塩梅にそれてくれたので、関所を経てからバスで大磯の旧吉田茂邸、旧安田善次郎邸を訪問することに。

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これが吉田邸の庭です。吉田茂はいうまでもなくサンフランシスコ講和条約、日米安保条約の締結、日本国憲法の可決をした首相で、また大平首相はここにカーター米大統領を招いて日米首脳会談を行いました。

 

邸宅は放火で焼失したのですが、『町民のみならず多くの人々に見学して頂く「博物館的機能をもった施設」が相応しいと考えます』という大磯町の再建プランを拝見しましたが、現代日本の起点を築いた要衝という歴史的意味合いを付加価値とされればさらによろしいかもしれません。このプランですと資金ファイナンスが寄付だけですから復興もその額に規定されてしまい、民間の視点ではありますが少々もったいない気も致します。例えば、海外の国賓宿泊用に復旧して、安保と現行憲法を持つに至った我が国の戦後史の理解者を増やす舞台として国に使ってもらったらどうでしょうか。敗戦の歴史は歴史として受容し、そういうポジティブな姿勢で情報発信してこそ、中韓のネガティブ・キャンペーンに世界が冷静な評価を下す素地ができると思います。そういう使い方が十分にできる史跡と思います。資金は寄付ではなくこれを法人化して民間企業に「限定的な社用迎賓館使用の特典」を条件に出資を募ればさらに充実した復興が可能でしょう。

旧安田善次郎邸は内部を見られませんでしたが、安田不動産(旧安田財閥)の所有です。調べてみると大正10年に安田はここで右翼に暗殺されています。日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校地は安田の寄贈であり、同じく匿名で寄贈した東京大学の講堂は死後に安田を偲び安田講堂と呼ばれるようになったそうですが、浅学にして知りませんでした。曾孫にジョン・レノンの妻ヨーコ・オノがいるのは有名ですね。「五十、六十は鼻たれ小僧 男盛りは八、九十」は彼の言葉とされているそうです。これを肝に銘じたいものです。

(こちらへどうぞ)

箱根のおすすめカフェ(Garden Railway Cafe in Hakone!)

 

 

 

 

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はんなり、まったり京都2014(その2)

2014 APR 12 12:12:40 pm by 東 賢太郎

皆さん京都へ行ってなにを京都らしいと感じるかはさまざまだろう。僕の場合、霊気である。オカルト的な意味ではない。ここには千年にまたがる人間の「気」が蓄積している感じがある。「つわものどもが夢のあと」と歌うなら、つわものの数は何百万人だろうか。霊気というのは京都以外の寺でも感じるが、ここは寺社だけではない。木屋町通りのどこか1㎡でも掘り下げれれば源義経と坂本龍馬の足跡の化石ぐらい出てくるだろうと、そんな感覚をそこかしこで持つことができるという意味での霊気というものだ。

K10例えば、この写真は鴨川にかかる松原橋から我々の宿(左から3番目の町屋)をのぞむものだが、この橋は秀吉がそう命名するまでの名は五条橋であり、弁慶と牛若丸が戦ったあの橋である。

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それを渡るとすぐ宮川町であり、お茶屋さん街となる。去年もお世話になった「しげ森」さんはそこにある。この風情からしてもう別世界だ。

 

 

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玄関には舞妓、芸妓さんたちの名が。彼女たちは15歳からここに住み込んで1年たったらまず舞妓になる。無給だが着物も稽古もすべてお茶屋のお母さん持ちだ。20歳をこえると芸妓になり自分で客を取れるようになる、つまり独立自営業者になれる。

 

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ここで懐石をいただいて遊ぶ。最近は女性客が増えているそうで、席にあがる前にビデオルームで基礎知識を教えるVTRを見せてくれるから初めてでも大丈夫だ。写真は伝統お座敷遊び「トラトラ」のお手本を見る皆さん。

 

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ここで独占していたお二人、小ふくさん(右)とふく苗さん(左)が翌日の京おどりの舞台に立つ。これが正調の楽しみ方である。もちろん踊りだけ見てもいいし充分見応えはあるのだが、舞台にいる2、30人の別嬪さんのうちに知っている人が混じっているというのは味なものだ。

 

 

桜の京都に行ってきました

2014 桜花爛漫の京都で・・・

京都の南座で中村獅童・尾上松也を観る(改訂済)

 

はんなり、まったり京都-泉涌寺編-

2014 APR 10 18:18:23 pm by 東 賢太郎

泉涌寺(せんにゅうじ)をご存知の方はあまり多くないのではないでしょうか。僕は天皇家の氏寺が京都にあるときいたことはありましたが、名前は覚えていませんでした。

この寺を知ったのは「逆説の日本史2」(井沢元彦、小学館文庫)です。「扶桑略記」に記載された「天智天皇暗殺」説は興味深く、天皇家の菩提寺に、天武~称徳の位牌がないことをこの本で知りました。井沢氏によると唐が白村江戦勝後に朝鮮半島支配を図り(つまり新羅討伐の戦略を展開し)、それに呼応して新羅に半島を追い出された百済王族である中大兄皇子(天智天皇)が唐と連合軍を作ることを画策。それを阻止するべく親新羅の大海人皇子(天武天皇)が山科で天智を暗殺したとしています。教科書の日本史とはかけ離れた説ですが、僕は通説よりも説明力を覚えます。

17p-2-s4月5日(土)の朝、始発で京都へ向かった江崎が8:11に到着。いっぽう平等院まで同行した三田が結婚式仲人のためソウルへ戻り、我々は東山の泉涌寺に向かいました。そこで今度は中村が合流。笑顔でお迎えいただいた和尚様にご挨拶して境内へ入るとまず楊貴妃観音堂へ案内されました。なぜ楊貴妃が?鎌倉時代にこの寺の僧が中国の宋にわたり仏舎利(仏の骨)を所望したそうです。何度も断られましたがやっともらえることになり、その際に航海の安全守護のために楊貴妃観音像もついてきたそうです。仏舎利は公開されていません。和尚は見たそうですが歯の部分のようでかなり大きかったそうです。

泉涌寺
そこから参道の坂を下ると、盆地の底のような位置に仏殿があります。登るのは多いですが下るのは珍しいですね。ここには運慶作とつたわる阿弥陀、釈迦、弥勒の尊像がありそれぞれ過去、現在、未来にわたって人類の平安を祈るという構図になっています。

 

仏舎利は舎利殿の舎利塔にあります。入れていただきましたがここの名物は「鳴龍(なきりゅう)」でしょう。 天井に狩野山雪筆の龍の絵が描かれているのですが、その下で手御座所unnamedを打つとびりびりという音が聞こえるのです。ここから御座所へ移ります。ここは両陛下はじめ皇族方の御陵御参拝の際のご休憩所であり、現在も使われています。ここも中を全部見ました。右の写真はその庭園で、桜も紅葉も早いそうです。たしかに京中ではほぼ満開なのにここでは桜はもう見えませんでした。塀の向こう側の山に歴代天皇の御陵があります。

さて奥の奥に移ります。写真はありませんが霊明殿です。戦前ここは立入禁止であり現在も関係者しか入れませんが入れてもらいました(梶浦のおかげです)。ここに歴代天皇の御位牌が並んでいますが、確かに天武系の天皇はぽっかりと抜け落ちています。下の系図をご覧ください。霊明殿にお名前があるのは聖徳太子尊像-天智-光仁-桓武であり、太子以前もなければ第40代天武-第48代称徳も欠落しています。天皇家の氏寺なのに何故と思われるでしょうが、ここは天皇の氏寺ではなく「天皇であるファミリー」の氏寺です。だからファミリーが血縁でないとする場合は入っていない。和尚に聞くと、「それは私共は何とも申し上げられません。ご指示に従っているだけです」とのことでした。そうであるならばこれが天皇家の見解なわけです。非常に興味深い。

まず斉明(皇極)天皇は天智の母ではないということです。では天智(中大兄皇子)とは何者なのか?斉明の目の前で蘇我入鹿の首をはねた乙巳の変とはなんだったのか?なぜ天皇でもない聖徳太子が(だけが)天智の上にいるのか?

これを知っただけでも日本書紀は天武、持統によって歴史をねつ造した書であるという説は支持できます。以下自分の考えですが、蘇我氏は本来の天皇(日本国王)であり聖徳太子は蘇我氏の業績を象徴する架空の人物であった。蘇我氏の名前、蝦夷、馬子、入鹿は動物名の蔑称にされており、皆殺しにした人物の書いた書記のねつ造と思います。その皆殺しは扶余から亡命して来た百済人の天智による入鹿殺害(大化の改新=クーデター1)によって実現しました。そしてその天智を天武が殺しました(クーデター2)。

220px-Emperor_family_tree38-50泉涌寺の位牌の有無によれば、現在の天皇家はおそらく百済人であった天智の末裔であると認めています。彼はクーデターで王位を奪った者です。だから彼が始祖になっており神武も応仁も位牌はありません。先祖と思っていないのです。天智のひ孫である桓武の母、高野新笠も百済の武寧王の子孫であることは今上天皇が「続日本紀にその記述がある」と述べられています。そして、平家は「桓武平氏」と呼ばれますから百済系です。一方、源氏の武将に「新羅三郎義光」という人がいます。平氏が百済、源氏が新羅であり、日本で代理戦争となったのが源平の合戦であると僕は思っています。

それから明治天皇の墓所はここにありません。伏見桃山陵にずっと大きな墓があります。強硬な攘夷論者だった孝明天皇を伊藤博文らが暗殺し(クーデター3)替え玉に立てた大室寅之助という南朝系の長州人が明治天皇という説があります。そう思います。言うことをきく傀儡天皇をたてて薩長が好き放題やるのが新政府の青写真であり、その結果日清日露戦争で好き放題が嵩じて第2次大戦に至ったとみることもできましょう。「坂の上の雲」は好きな小説ですが、クーデター3が日本国の末路を大きく変転させたかもしれず司馬遼太郎の史観だけで近代史は語れないと思います。

国家の首長を殺して政権を奪うクーデターは世界ではいくつもありますが、万世一系とされるわが国でも最低3度は起きている可能性があります。天智以前はもっとあったかもしれません。泉涌寺ではそうした様々なことが頭をよぎり、特に御位牌が所狭しと安置された霊明殿には圧倒され、その感じはその後も一日中残ったほどです。日本最大のパワースポットといって過言ではなく、一度は訪問する価値ありと思います。一般には奥まで入れないようですが、ご興味がある方はSMCを通してお願いすることができるでしょう。

 

(こちらへどうぞ)

はんなり、まったり京都2014(その2)

百済旅行記(1)-奈良はナラである-

伊藤博文と太平洋戦争

『気』の不思議(位牌とジャズの関係)

京都の不思議

2014 APR 8 1:01:36 am by 東 賢太郎

京都というのは不思議な場所です。去年と同じ木屋町の宿に足をふみ入れてみて記憶が不意に蘇ったのですが、そういうえばまさにここに着いたその日は昨年一年間で最も重要な仕事となった案件のクロージング(締め)の真っ最中だったのです。やきもきしているとスマホのメールで良い知らせが来て狂喜したことをまじまじと思い出しました。そして今年も、ある新しい仕事の構想を、それもひょっとすると自分の人生で最も大仕事になるかもしれないものの決断を目前に控えて、やはり木屋町の宿で深く思いをめぐらせておったのです。

不思議というのは奇しくもそんなことが二度目だということばかりではありません。京都という土地柄が、そういうことになんともふさわしいものだということです。そこに身を置くと、そういうことを考えていること自体がいとも自然であり、梶浦がセットしてくれた会食もお茶屋さんもそういう心境に置かれた男に自分自身がなってみて、昔からこういうものだったのだろうということを味わえたかもしれないと思っています。去年と同じく京おどりも観せてもらいましたが、そうしてやっぱり、あまりに美しい芸妓さん舞妓さんたちの舞いに感動し見とれたのですが、満開の桜とおんなじで、こういう心持ちだから求めるいとおしい美というものがそこにはひっそりと忍んでいるような気がします。

浅学の身があれこれ歴史を書きたてるまでもないことですが、京都には千年にわたってそういう男たちがひしめいていたわけです。権力の頂点が在る故に権謀術数が渦巻き、成功して有頂天になった者もおれば戦死者、刑死者も数知れず出ました。勝った者が建てた寺社は国家や家の鎮護と同時に死者の怨霊封じの場でもありました。ですからあの都はそういう「気」に満ちているに違いなく、そのようなものが溶け合ってあの文化ができていると思われます。去年はまだ若くてそれには気づかず表面の美だけに感じ入って帰ってきたのですが、今年にいたるまでに色々のことをさらに経験したせいでしょうか、ただ綺麗なだけの美ではない、いわば負の側面も背負った凄味のある美だという風に感じられてきました。

平等院の藤原氏、六波羅蜜寺の平氏、金戒光明寺の会津藩などがそういう男たちだったでしょうし、武家に治政を執られていた時代の天皇家もまたそうだったのでしょうか皇室の菩提寺である泉涌寺では歴代天皇の位牌のあるお堂で自分としてはかつて経験がないほどの強い気を感じました。これは悪い感じのものではありませんが後の寺社が軽く思えるほど腹に重たいものであり、その日はお茶屋に遊んでもどこかそれが残っていて何かを頂いて帰ってきたのかなという気分も致します。

中村がここはお前の専門分野だろうと言うので、泉涌寺については稿を改めて書くことにします。

 

はんなり、まったり、京都 (その2)

 

 

はんなり、まったり京都2014

2014 APR 6 22:22:38 pm by 東 賢太郎

今日京都より帰って参りました。前回と同じく、大学のクラスメートである畏友梶浦の会社「庵(いおり)」が経営する町屋のうち最大で一番人気の「美濃屋町」に2泊させてもらいました。お客の6割がフランス、アメリカ、イギリス人で、京都好きのリピーター家族などで1週間単位の一棟お借上げが多いそうです。SMCはそうはいかず週末だけなので旬のいいとこ取りの土、日だけ頂いてしまって申し訳なく、感謝あるのみです。

今回つくづく思いましたがこういう宿は通常の旅館、ホテルではありえない「我が家感」が大変気楽です。窓を開けると目の前にどかんと鴨川が広がり、花見客でごった返す京都にぽっかりと静かな自分の空間が、それもかなり贅沢に広い空間があるということ。川を眺めながら風呂に入れ、食事も頼めば立派なものを持ってきてもらえるので完全に内輪だけのリラックスした雰囲気でくつろげるという大きなバリューを感じます。地の利も京都の真ん中付近ですから抜群であり今回も清水寺からは歩いて帰りました。お世辞抜きで読者の皆さんに強力にお薦めいたします。

それから何がいいかというと、今回は宇治の平等院鳳凰堂(写真下、10円玉でおなじみですね)、泉涌寺、清水寺、黄檗禅宗閑臥庵で京都でビジネスをし平等院unnamedて10余年になる梶浦社長の顔ききで信じがたい特別待遇の見学をさせていただきました。「今日は裏口入学のオンパレードだね」と皆が冗談を言うほどスイスイ見られて長蛇の列の一般のかたに申しわけなかったのですが、しかも普通は入れない奥の奥まunnamed宮城氏で入れていただき非常にわかりやすい、しかも興味深い解説をきかせていただきました。例えば平等院では梶浦のご友人である代表役員兼住職、要は当院の総責任者、CEOであられる宮城俊作氏(写真右、氏と紫式部像の前で)が代々住職というお家柄から興味深い裏話をまじえて鳳凰堂と博物館に同行して解説をして下さりランチもご一緒いただきました。心より感謝いたします。氏はちょうど僕と同じ頃に米国に留学してハーバード大学で建築を学び、住職をされながら奈良女子大学の教授をつとめ、設計会社「PLACEMEDIA」を経営もされるというスーパーマンです。梶浦を通じて素晴らしい人とお知り合いになれました。

ここからの詳しいレポートは土曜から我々に合流したメンバー、江崎、中村、阿曾各氏のブログにおまかせ致します。

 

はんなり、まったり京都-泉涌寺編-

 

京都にて

2014 APR 5 7:07:10 am by 東 賢太郎

昨年に引き続いてSMC京都トリップに来ておりましす。メンバーのよしみで梶浦社長に無理をお願いし、今年も通常ではないアレンジになったようです。桜はややピークを越しましたが十分間に合いました。六波羅蜜寺から平清盛にまつわる寺社などをまわり名所で花見をしてから梶浦おすすめのフレンチへ。京都は居るだけで気分が変わり、気宇壮大な気持ちになります。詳報は追っていたします。

 

 

世界のうまい物 -出雲編-

2014 MAR 9 17:17:32 pm by 東 賢太郎

奥出雲でいただいた食べ物シリーズです。

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まずは仁多米でしょう。米食味分析鑑定コンクールで4年連続5回目の金賞受賞というブランド米で西日本の横綱とされているそうです。寡聞にして知らなかったのですが、どこでいただいてもその食感はなかなかのものでした。砂鉄を取ると土を流してしまうので土地が削れていきます。その跡地を昔から棚田(段々畑)にして米作にも充てているので、ここはコメの名産地なのです。とにかく水がいいのとミネラル分が豊富なようでおいしいです。

 

c0afad8ef2d244a931ddf4b8f93d4b68その仁多米で炊いた香茸(こうだけ)炊き込みご飯は絶品。黒っぽいのが香茸ですが食感も香りもよろしく、ポルチーニという感じです。パスタにしてもかなりいけるでしょう。栽培ではなく自然のものを採集するので貴重品だそうで、地元で食べてしまって他県には出回らないそうです。奥出雲町長が「ゴルフをしていて林に入ってしまった時、ボールを探したら香茸を見つけました。そっちのほうがうれしかったですね。」と冗談を言われるほど。よくわかります。

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そこでいただいたお酒もとてもよろしいものでした。やはりお米と水の良さがきいていて「深山の香」なる奥出雲は簸上(ひかみ)の清酒はすっきりした口あたりで飲みやすい。このボトルもなかなかセンスがいいですね。

 

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これはボトルからはなかなか中身が想像しにくいですね。D-269が何かと思ったら「どぶろく」でした。デザインセンスはこちらも垢抜けて格好いいと思いませんか。お味はお米の自然な風味が濃厚にあって野趣にあふれ、それでいて適度な甘みと舌触りは上品でもあります。我々が口々においしいおいしいと騒いだものですから、町長がお気遣い下さっておみやげにいただきました。恐縮です。

 

 

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次に稲田姫神社にある姫のそば ゆかり庵の蕎麦御前です。出雲そばはやや太めでコシが強く、かなりアルデンテであります。それが3段重ねのわんこになっていて食べ応え十分。蕎麦の風味が大変よろしく、それと薬味との相性が絶妙でした。もう一つ堪能したのは野菜です。どれも「土の香りがする」ようで東京で食べているのは何なのだろうと考えるほどおいしかったです。おにぎりがちょっと冷えてしまったのですが、かえって仁多米のもちもち感が出て美味でした。

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「皆美」ではランチをいただきました。小泉八雲をはじめ、里見弴、田山花袋、芥川龍之介、大町桂月、島崎藤村、与謝野寛・晶子夫妻、高濱虚子、志賀直哉、武者小路実篤、佐藤春夫、内田百間、尾崎士郎、川端康成などが来館とあります。部屋からの宍道湖のすばらしい景観はドイツ時代によく行ったライン川沿いのレストランを思い出してしまいました。庭園のある老舗でいただいた「鯛めし」は鯛と卵の白身黄身が団子のようになっていて独特のもので、東京で食べる鯛めしとはまったくちがいます。

ヨーロッパもそうですが、主食でないデザートにその国の食文化の奥深さが見て取れます。文化はお金持ちがいないと育ちませんが、食も舌の肥えたお客が長年かけて磨き上げるものでしょう。だから京都の和菓子、パリ、ミラノ、ウィーンのデザートはどれも洗練されておいしいのです。そういう基準に照らしても、出雲のスイーツは「そばぜんざい」「おはぎ」などどれも甘みを抑えた上品なもので、ここの文化度の高さが一流であることを確信させます。

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おみやげはよくわからないのでA先生の言われるままにこれを買いました。來間屋生姜糖本舗の生姜糖です。砂糖と生姜の煮汁だけのシンプルな味ですが、どこかなつかしい。これが創業300年のワザでしょうか。この見てくれも江戸時代っぽくて好きですね。今回、出雲の産品の味だけではなくデザインセンスの良さもとても印象に残りました。東京どころか世界で通用するレベルと思います。

 

 

(こちらへどうぞ)

「リーダーズ」に見た日本人の誇り

「もののけ姫」を予習する

 

 

 

 

 

 

 

奥出雲訪問記-その2-

2014 MAR 9 0:00:41 am by 東 賢太郎

 

羽田から1時間半、奥出雲(おくいずも)は島根県。といっても出雲大社とやまたのおろちぐらいしか知らなかったわけです。

まず溝口島根県知事との45分余のご面談にはじまりました。通常の面会は15分ということで、異例のお時間を頂戴したことに感謝です。その晩は奥出雲町長および島根県議会議員様とのディナーとなりました。そして足立美術館、奥出雲多根自然博物館長者の湯、絲原記念館、奥出雲たたらと刀剣館、稲田姫神社、古い駅舎やダムの訪問、見学、出雲大社参拝と2日にしては相当なメニューでした。全部が館長さんや専門家の方のガイド付きでありました。

まずは足立美術館の額縁のような日本庭園から。名園と日本画の調和がこの美術館の基本方針で、アメリカの「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」誌で11年連続日本一に認定され、フランスのミシュラン・ガイドで三ツ星を獲得しています。日本画では質量ともに日本一の横山大観コレクションが出雲にあるのが驚きです。

創立者の足立全康氏(写真)は明治32年当地に生まれ、14歳で裸一貫で国を出て苦労を重さんあだちunnamedねた末に大阪で繊維、不動産業で成功した人物です。立身出世物語は各地にありますが、大観に惚れこんでここまで集めてしまう執念はすごい。それに感動しました。庭園の景観の細部へのこだわりも半端ではなく全館が彼の作品という風情です。こういう気質というか、いい意味でのねちっこさは出雲の方の持ち味かもしれません。

私事で恐縮ですが自分の先祖も能登、伊那の片田舎から東京、横浜に出てきた事業家であり、足立氏の執念を見るとどこか体の奥底で共感を覚えます。「名作との出会いは人と同じで、縁だね。絵を蒐(あつ)めるのは金じゃない、値段じゃない。いいものが出たら目をつむって掴(つか)んでしまえということだ。まったくあの絵は惜しいことをした。いまだに夜中にぱっと目が覚めては想い出し、眠れん時があるよ。」と口角泡を飛ばして語る姿を思い出すと・・・・と説明書にあります。お金より縁を大事にして成功されたんでしょう。あだちunnamed

松江藩の5鉄師のひとりであった「たたら吹き製鉄」の名家である絲原家については前回書きました。建坪約350坪、床面積約500坪、部屋数約40室を誇る大邸宅です。竹島が日本領と明記された最古の地図は伊能忠敬が測量する70年前の制作であるため北海道は欠いていますが、本州以南の精密さは驚くばかりでした。

絲原家のご当主は夜の会食をご一緒して下さった県会議員である徳康氏で、ここはご次男が近衞 文麿公が入ったという奥の間にご案内下さいました。なお、この絲原記念館は今月22,23日に放映されるTBSのドラマ「リーダーズ」のロケに使われたそうです。奥の間は洋間の執務室という設定で出てくるそうで、和室ではここに宮沢りえが座ったんですよなどと細かく教えていただきました。

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「絲原記念館」の鐡(てつ)の字の解説もその意味で実に興味深いものです。こういう数字を見るとすぐ反応してしまうのは商人の血筋ということでしょうか。

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松前藩の系図です。徳川の重臣であり、最期まで幕府方で戦ったことがわかります。ご存知かもしれませんが、県名と県庁所在地名が一致しないのは幕府方です。島根県であり松江市であるというのは、そういうことなのです。

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世界のうまい物 -出雲編-

 

 

 

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奥出雲訪問記

2014 MAR 7 1:01:40 am by 東 賢太郎

 

「ここは かめだけ うさぎはいない。ゆっくり走ってみませんか!」

えっ? 頭のほうがまず一時停止しました。今回は島根県の出雲へ1泊2日で出張しましたが、初日に車で奥出雲へ向かう途中に見た、仁多郡奥出雲町亀嵩(かめだけ)の道路わきの看板の文句です。このユーモア精神にまず心が和みます。

このあとでだんだんとわかってきたのですが、このやわらかくて優しいおもてなしの心と真理探究への妥協なきこだわり精神。一見あい反するものが同居してほどよくバランスしたものこそが出雲でお会いした多くの方々から肌で感じさせていただいた魅力ではないかという感じがしております。

松本清張の「砂の器」はこの亀嵩(かめだけ)が舞台だったことをご記憶の方も多いでしょう。すでにそこそこ有名ですし、もうすこし車が進むと清張自筆の立派な記念碑もあるのです。普通の市町村なら「清張の里!」「砂の器の舞台へようこそ!」という看板がまっさきに立って、清張まんじゅうでも売ることを考えるでしょう。そこに 「うさぎはいない」 とくるこのセンス。とてもやわらかいのですが、土地の歴史への誇りとこだわり、そして「かめだけ」という地名を瞬時に覚えさせる合理性を秘めているように思います。

今回はここを発祥の地とされる著名企業の社長様に同行させていただく栄誉にあずかりました。たったの2日間だったとは思えないほどのたくさんの体験と勉強をさせていただき、会社様のすばらしいスケジューリングには感謝あるのみです。外国ばかり知っていても日本についてはいかに無知であるか、それも出雲のような要所をというのがいかに無恥であるかを思い知りました。今回はまずその「思い」のほうを綴ることから始めたいと思います。

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この写真は2日目の朝食の前です。「今日はだいぶもやがかかっていますね」というと、社長から「いや、いつもこんなものです」というお言葉。そうか、ここは雲出ずる国だったかと納得です。

まずは、2日間がそろそろ終わりに近づいたころ、同行された会計士のA先生がつぶやかれた言葉から始めましょう。

「出雲ってこれだけたくさんの魅力があるのに、なんかもったいないですね・・・」

たしかに。出雲の魅力オンパレードの2日間だったのに僕も最後の最後になって「そういえば出雲の阿国も出雲でしたね」なんて間抜けなことをやっと質問させていただいた始末です。阿国さんですらパレードの順番では前の方には出てこない。これでは清張さんがうさぎの後になってしまうのも仕方ないですね。観光資源という言葉は即物的であまり好感が持てませんが、もしそう呼ばせていただけるなら「有り余るほど豊富」というのが出雲、奥出雲だと思います。もっと多くの人が世界中からやってくる、出雲発のモノや文化やサービスが世界に発信される。そうなって不思議でないのに・・・そういう意味がA先生のことばにはこもっているのです。

どうしてそうなっているのだろうと考えました。観光資源ということでは筆頭になるのが出雲大社でしょう。昨年は遷宮行事のハイライトイヤーで多くの観光客が訪れ、今でも羽田からのフライトは満席でした。我々は社務所の奥にて第84代出雲國造で出雲大社宮司である千家尊祐氏と出雲大社権力宮司である千家隆比古氏にお目にかかって歓談の栄を賜わり、拝殿参拝までさせていただきました。良くは存じませんが、皇室公家並みの待遇かもしれません。それは社長様も初めてということで、そのような場にご一緒させていただいたのは、誠にありがたいことです。

そこで伺った話によると、遷宮は20年に一度の伊勢、60年に一度の出雲がそれぞれの事情で年がずれ、偶然にシンクロするようになったそうです。伊勢が総建てかえ、出雲は部分建てかえなど様々な違いはあるのですが、経費予算は伊勢神宮が550億円に対しこちらは95億円というのはそれにしてもずいぶんな差です。「国を譲ったほうですから」と社長はいわれましたが、そのようなことが積もり積もってここの土地の根強いプライドといいますか、普通の土地の郷土愛とは次元の違った深くて強い思いにつながっているような気がいたします。歴史や旧跡の安易安直な宣伝はしないという精神は先生のご指摘のようにもったいないことにもなっているわけですが、それはそれでここの独特の文化、気質、個性を育んできたのかもしれません。

お金や時間というものには価値があるというアメリカ的教育を受けてくると忘れてしまう価値というものがここにはあるということが今回どこか心に残像として残りました。お金で買えないものを大切にする、文化とはそういうものであるという大事なことを教わったと言ってもいいでしょう。それは奥出雲の絲原(いとはら)記念館という、「たたら吹き製鉄」を松江藩から公認された5鉄師のひとりであった絲原家を訪問したときにも感じたものです。江戸時代からの旧家の所有する有形無形の文化遺産の重みにはただただ圧倒されるばかりで、お金というものにいったい何の価値があるのか、金融というお金相手の職業に長らく従事してきた僕の価値観に転換をさし迫るほどの強いインパクトがありました。

それは家屋の立派さ、古文書や骨董の類が豊富という物質的なものだけから受けたのではありません。もっと質的なものも含めてです。たとえば、世界最高峰の刃物である日本刀は「玉鋼」というプレミア級のはがねからしか生まれません。その玉鋼を鉄鉱石ではなく砂鉄という世界でもユニークな原料から鋳出す技術、それはまぎれもなくメード・イン・ジャパンの技術でありそれを生んだのが「たたら」なのです。

製鉄の原理や技術そのものは輸入されたものだろうと思われるでしょう。たしかに製鉄技術は紀元前1400年ごろヒッタイト(現在のトルコ)に発してタタールを経由して入り「たたら」になったそうです。しかし、ここが大事なところですが、輸入して磨きをかけて世界最高のモノを作ってしまうという日本のお家芸はコピーや真似ではありません。なぜならそれを逆にご本家は真似できないからです。それは「新たな付加価値の創造」に他ならず、我が国は「技術を進化させる才能」があるということであります。

その付加価値を生んでいるのは二流のもので満足しない目線と、そこへ至る徹底した合理主義です。それが出雲にはあると感じます。しかも、たたらの5鉄師はもともと公家でも武家でもなく農家であるという事実も意味深長であり、日本の技術力の底辺の広さを覚えます。それは学校や職人教育制度から生まれたものではなく、日本人のそれぞれが生活に根ざした原点で当たり前のようにもっている強みですから、それこそコピーと真似で食っている他国に一朝一夕に凌駕される心配はないと思いました。

また、奥出雲では鉄鉱石ではなく崩れやすい花崗岩から砂鉄を得るそうですが、その鉄分がどこから来たかということをずっと考えておりました。どうして「たたら」がここに出来たんだろうという素朴な疑問です。鉄(Fe)は地球では生成せず超新星爆発に由来する物質です。まず第一に、この疑問は「奥出雲たたらと刀剣館」で「ヒッタイトが隕石から鉄を鋳出した」というご説明を受けてすっきりしました。

第二に、「奥出雲多根自然博物館」の館長さんから「山の上に神が降りた神話があります」というお話がありました。「それは隕石だったのではないですか」と尋ねると即座に「そうかもしれません」とお答えいただき、さらにすっきりしました。僕の質問はある意味で神話を冒涜するものかもしれず、科学的にも荒唐無稽と取られて仕方ないものです。館長のお答えは東京の博物館ではあまり期待できないものでしょう。Feの由来の科学的な話の脈絡ではなかったものであるだけに、大変に実証的な精神を感じて大いに共感したのです。

その「奥出雲多根自然博物館」は恐竜や生物の化石と標本、鉱物など驚くべき点数のコレクションを観ることができる有数の場所です。日本の最古のストーリーである出雲神話からさらに時間をさかのぼって、地球の生成期、さらには137億年前の宇宙誕生までを俯瞰することができます。こんな雄大な発想も東京人からは出そうにありません。子供に大人気だそうですが、科学少年であった僕のようなオジサンでも一日いて飽きることはなさそうです。

こういう時空でものを考えれば大層スケールの大きなことができる気がいたします。出雲という地は現実にスケールも大きかったという物的証拠があります。例えば出雲大社の初期の遺構から、神殿の高さは地上48mもあったことがわかっています。古代の世界七不思議にあげられるアレクサンドリアのファロス灯台を思わせるほどの世界でも異例の木造巨大建造物であり、国作り神話がどこまで事実を反映していようがいまいが、それを出雲の人がそこに築いたということは事実のようであります。

今回の2日間の印象ですが、僕はたたら鉄の精製技術と同じように出雲には「メード・イン・ジャパンの原型」があるのではないかと考えるに至っています。どういうルーツと経緯から日本国というものが出来たかはともかく、それが国譲りで日本中に伝播して今があるのではないかというということです。もしそうなら、ジャパン・クールで日本が世界の注目を集める今、その魅力はまず出雲になんらかのルーツがあったと考えていいかもしれません。メード・イン・イズモの精神を持った企業がグローバル・スタンダードを作っても何ら不思議ではないということです。

出雲は亀だけでも大社だけもありません。時間をかけて隅々まで見なくてはもったいない。また行ってみたいと思っております。

 

奥出雲訪問記-その2-

 

 

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