Sonar Members Club No.1

カテゴリー: 読書録

オモロい人たち

2018 OCT 11 6:06:10 am by 東 賢太郎

大阪で仕事したころ、「あんたオモロいやっちゃ」といわれてそうかなあとけっこう戸惑った。これが「面白い人」ではないと知るにはしばらくかかる。それは関西弁でしか表せないニュアンスだからで、東京にはそういう表現がない。

面白いはfunnyである東京人はそういわれるのは面白くないが関西でオモロいはinterestingであって悪い意味とは限らない。東京ではしかしそれを訳すと「あなたは興味深い人ですね」みたいになって、これはこれで上から目線の感じで余計なお世話だとなるからややこしい。英国でWhat you said is interesting.なら言えるがYou are interesting.は失礼感があるように思え、言ったことも言われたこともない(アメリカは知らない、トランプは言いそうだ)。

つまり、You are interesting.を好意、親愛の表現で言ってしまう関西は特別な場所かもしれない。土足で踏み込む感はあるが人のぬくもりもある。いや、それをぬくもりと思うのが関西だと東京人の僕は思った。

しかし最近、東京にだって昔からオモロい人はたくさんいるのだけれども、その人たちをオモロい人と思う人があんまりいないだけなのではないかと思うようになった。つまり「オモロい」という概念は受容する側の問題だと。

僕はこの「オモロい」こそが人間の人間たるゆえんであって、ちょっと大げさに言えば人類を進化させる原動力ぐらいに思っている。オモロい人がいくら周囲にいても、彼らを受容するカルチャーがなければ宝の持ち腐れになってしまう。

中学に丸山鉄男というオモロい奴がいた。こいつのオモロさを凌駕する人間はいまだに現れていない。図抜けて天才の域にあり授業中に隣りで悪ふざけして笑いをこらえるのに死ぬほど苦労した。早稲田高等学院に入ったが馬鹿なことに大学でサーフィンであの世に行った。でもあれ僕の中で生きているからいい。

オモロい」は東京にいると、どうも錆びついて見えなくなってくる気がする。大阪やアメリカや香港にいたときは僕の「オモロいセンサー」はもっと感度が良かった。そう思いだしたので最近はつとめて知らない世界の人と会って話している、というか、話し込んでいる。思ったらすぐに何か手を打たないと鈍る一方で僕にはあらゆる意味でよくないからだ。

ネクサスの動画に出演してくれた90人の若者たちは宝庫だ。彼らはみんな熱中型人間で飯食うのも忘れて何かに没頭するタイプだ。それでその世界で凄いと言われハングリー精神に満ち満ちている。こういう人は強い「気」を発してる。動画でそのシャワーを日々浴びていると僕は元気をもらえる。

だがもらうだけじゃあいけない、発見がしたい。例えばそのひとりのサムライの島口氏は海外でひっぱりだこである。欧州ツアーで飛び回って帰国したから報告したいとほんの少しの時間なのにわざわざ来てくれる。そこまでウケるには、まだ僕の気づいてない才能がこの人にはある。あるはずだ。そう思ってそれを知りたくて興味津々だ。

会社を2つ作って50億円もってる38才にもきのうお会いした。初対面でありオモロそうだと聞きつけて来てくださったようだが、こっちは商売より彼のオモロさがどこにあるのかが大事だ。それがなければそんなカネが作れるはずがないからだ。

深く井戸を掘りました。頭悪いんであれこれできなかったんで」

「いや50億作った人が頭いいのが資本主義だよ」

そんなことを2時間話し込んで、ビジネスについてはよくわからなかったがオモロい人だった。株の話はほとんどせず、ゴルフのベスグロ75で同じだね、でもジョン・レノンの最高傑作はアイアム・ザ・ウォルラスじゃねえかなというところで意見が合致して終わった。

元ロッテのサブローこと大村三郎氏にはときどき最近のプロ野球界のもろもろを教えてもらう。彼は巨人もいたしオモロい。なーるほど、人間だからどこも一緒だよな。そういうの勉強したいって、じゃあ司馬遷の史記だねオモロいよ。彼は即決のスナイパーだ、すぐ読了するだろう。

たしかPWCのレポートに、2030年にAI革命が進んでいて、世界で最も危ない国は日本であり、62%の人が職を失うとあった。ブルーワーカーだけではない、銀行員や公認会計士もだ。でも人を感動させる職業は残るとある。要は「オモロいやっちゃ」になればいい、そういうことなんじゃないか?

 

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

「バカの壁」の壁

2018 JUL 16 17:17:33 pm by 東 賢太郎

だいぶ前に「バカの壁」という養老孟司さんの本が評判になって、その題が流行語大賞か何かになった。そういえばあのあたりから「バカ」か「東大」をタイトルにつけた本が頻出し始めたように思うが、昨今大流行の「ネコ」本のはしりみたいなものだったのだろう。

人には無意識に考えるのをやめている境界線があって、会話してもそこで思考停止してしまう、それがバカの壁だという趣旨だった。「人は脳が受け入れることしか理解できない」というくだりで「当たり前だろ」と思ってしまい集中力が切れたが、「そうだろ?だからお前はバカなんだ」と諭されている気分になった。

それを言われるならごもっともで、僕などバカの壁の四面楚歌状態、大バカ者の標本である。興味のないことは考えないどころか、知ろうとも思わないからだ。反対に、自分の関心事がうまく伝わらない相手にはこっちの壁のせいで理解が及ばないので、そういう「合わない人」と話すと完全にすれちがってお互いに不幸な5分が終る。

しかしそれがいけないかというと、そうも思わない。養老さんの言う通り「人は脳が受け入れることしか理解できない」のであって、脳は可変的なのかもしれないが「宇宙の果ては137億光年先です」ときいても学者以外の人は「でっ?」と思考停止するだけだろう。すると世界人口70億人のほとんどをバカと呼ぶことになるが、呼ぶ方がバカだよねという話にもなる。医学部(理Ⅲ)の養老さんをバカ呼ばわりする蛮勇を僕は持ち合わせないが、あの本は医学書ではなく人生訓のようなもので、そうであるならば壁を撤回する労力と時間があったらそういう人とは付き合わない方が効率的ではないだろうか?

しかしあの本は大衆に読まれた。中味なんか理解しなくても題名に使い道があったのだ。議論の場で相手をいじめるキーワードとして「これぞバカの壁ですね」とやると、そこに居る者が全員バカである限りにおいては、東大の解剖学者のお墨付きを得てトドメを刺せるからだ(先に言った方が勝ちだというあまりにおバカな戦いであるが)。そういうものが流行語大賞になるのである。ちなみに何年か前にピケティというフランスの左系の学者をそれに仕立てようという稚拙な試みがあって、こっちはブログで思い切りバカにしたがアッという間に消えてしまった。ネコ本だったのだ。

東大生が優秀という思い込みも「壁」であって、試験で点を取るための諸々以外に全員が優秀という事柄は現役東大生もおそらく思い浮かばないだろう。読んでいる東大生諸君に告げるが、そこを卒業しただけで人生の勝ち組になれる保証はない。「東大生が選んだすごい本」の1位というので何かと思ったら漱石の「こころ」だ。どこの大学生が選んでもおかしくないし、もし10位だったら漱石の価値が下がるんだろうか?昔よく聞いた「全米で大ヒット」と同類のセールストークであり、そんなものはなかったし、おおむね言ってる人が米国人でも米国に住んだことがあるわけでもないのである。

仕事上いろんな人とお付き合いしているが、「バカの壁」だらけの脳の持ち主である僕が着想した仕事の構想というものは東大卒みたいなタイプには分かりにくいらしいことは前々から気がついていることだ。ちょっとややこしく表現すれば僕は常に帰納法的であり、彼らは常に演繹法的なのだ。ビジネスはデータが出そろって確信が得られてから始めても遅いから、その確信はほぼ確実に裏目に出て失敗する。帰納法だって失敗はするが、こっちは成功することもあって、そのリスクを補完するために資本というものがあるのだ。何かを創造して会社を前進させるのに僕は常に内側の壁に直面している。

誰もチャンスの本質とリスク・リターンを分かってくれないとなると構想を自作自演する羽目になるが、それには健康な体と精神と強い心のエネルギーがいる。まあ要するに、とても疲れるのだ。困ったことに僕は実務家にはあまり向いておらず、実行部隊としての有能なプラクティショナー(practitioner)がどうしても必要である。今回は年齢的に最後のトライアルであり、失敗はしたくない。だからプラクティショナーをいつも探しているが、それで有能な人に僕の構想が腑に落ちるかどうかという点が最大の関門なのだ。

最近、デジタル脳一点張りでない人のほうが適役かもしれず、となると東大にはあまりいない女性の方がいいかもしれないと思うようになった。今までは女性というと回路以前にケミストリー(chemistory、相性)の問題があって、そういう物事について僕と合う女性となるととってもナローパス(narrow path)であって、話して楽しいと思った記憶もほぼないのだからかなり革命的なことだ。この仕事は男、というバカの壁を突破したのかもしれない。

 

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

「幻の女」のWikipediaは絶対に読むな

2018 JUL 13 13:13:50 pm by 東 賢太郎

ミステリーの話をした。かつて何が面白かったかとなって、僕は迷うことなくウィリアム・アイリッシュの「幻の女」を挙げた。いつ読んだかは覚えてないが大学2年では知っていたからそれよりは前だ。なぜわかるかというと、2年で米国に行った折、ある都市の通りの名前がこの作品の登場人物の名と同じだと思ったことを鮮明に覚えているからだ。いかに「幻の女」のインパクトが強烈だったかを物語ろう。

長女と息子に「読んだ?」と聞いた。二人ともNoだ。「そりゃあなんてうらやましい、まだ楽しみが残っててよかったね」「そんなに面白い?」「読めばわかるよ」となった。その翌日のことだった、僕はWikipediaを検索して唖然とすることになる。二人にはそれを絶対に読むなと即座に厳命した。

これはひどい、この「あらすじ」は即刻削除すべきである。こんなネタバレを堂々と公表されて早川書房はクレームしないのか、Wikipediaはこんな行為を野放しにするのか。1942年の作品だからおそらくpublic domainだが、事はそんな問題ではない。この作品はウィリアム・アイリッシュなる天才が書いた一期一会の傑作であり、初読の一度だけしか許されない驚天動地の快感を他人から奪うような行為は許すべきでない。Wikipediaも英語版や韓国語版にそんな破廉恥はない、日本の恥である。

「ネタ」などと軽々しく世紀のインテリジェンスを石ころ並みのインフォメーションにしてくれる。それを便利だねと表層のうすっぺらな社会が享受する。そういう人たちがやがてインテリジェンスを持つようになるなどということはSF小説のネタにすらならない超現実的なことである。ネットはそうやってどんどん人から感動を奪い、頭脳を退化させ、馬鹿に貶めていくのだ。

同書を買って帰り、ミステリー好きの息子に朝に渡したら夜には「これは凄い」と溜め息まじりに感動して返してくれた。よかった。これからの皆さんも被害にあわないことを心より願う。

 

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

「ゴッドファーザーの血」を読んで

2018 JUL 2 22:22:17 pm by 東 賢太郎

僕のやくざ映画好きは周知だ。観ているとけっこう入りきっている自分があって、それのルーツは横山光輝の伊賀の影丸にあるのだが、役者でいうと高倉健にあこがれていたし、ゴッドファーザーのドン・ヴィトー・コルレオーネ(マーロン・ブランド)など、まさにああいう男になりたいと思って生きてきた感すらある。老いるのは嫌だが、だんだんそういう歳になってきたじゃないかと慰めることにしている。

若いころ仕事のチョンボでやくざから大金をとりたてる羽目になった顛末を書いた。

どうして証券会社に入ったの?(その8)

命が危なかったがあの親分は会社の上司よりはずっと大物だったわけで、おかげで僕は人間の欲得の業(ごう)の深さ、臆せず筋を通すことの大事さを目の前で本物のやくざに学ばせてもらった。以来、綺麗ごとのオモテの世界でうまく世渡りしようなんて連中の恥ずかしい小物ぶりは無視しながら生きている。

イタリア・マフィアにはファミリーというものがあるが神山先生によると中国人はやくざでなくても一般の人がみなそうらしく、国や会社よりファミリーの安全や利益が優先するという。つまり国益なんて概念はなく、共産党幹部にしたってそうであり、彼らが何千億円蓄財しても騒がれないのは独裁権力の圧力もあるがファミリー優先の原理ではそれは必然の結末であって、できれば自分の一族からも金のなる木が出て欲しいぐらいのところが誰にもあるのだそうだ。韓国も似るが、元大統領、財閥に富を吐き出させるショーでガス抜きしながら、しかしそれを連綿と続けているのだから本性は日本よりずっと中国寄りということだろう。

先生曰く僕はファミリーの一員である。龍門気功第九代伝人の一家であるのは光栄だが、そのことはファミリーが必ずしも血族ではないということを意味してもいる。血族に発してはいるが、そうではないその配偶者が入り、中で育った同志が入って広がる。それが運命、損益共同体であることはゴッドファーザーを見ればわかる。末端の民まで自分の利益より国を思うというのは国民国家の鏡のようだがそれは明治政府の作ったフィクションであり、形だけとはいえ世界的には稀だから金王朝は範としたいだろう。トランプの血族の扱い方を見れば、星条旗にあれほど忠誠を誓う米国人だって我々よりはそれにずっと寛容なことがわかる。

ボスの仕事はファミリーの生命と生活を守り、カネになる仕事を見つけることなのだ、それも5倍にも10倍にもなる。その仕事が合法か違法かの差と、表向きの綺麗事の看板さえ度外視すれば、証券業でボスになるというのはそれと変わらない。ちなみに僕のファミリーは家族、社員および昔からの切っても切れない仲間たちである。それを和風に服部半蔵の伊賀忍群に例えたが、アウトローか公儀隠密かという点はポイントではなく、ボスとの結びつき方にその個性はある。そういう前提を理解していただけるならば僕はコルレオーネに近いし、普通の日本人よりは神山先生の描いた中国人像に近いと言って差し支えない。

親父はまじめな銀行員だし母も普通の女性で、あんなやさしい両親のもとでどうして自分だけそんな風になったかは長年の謎だった。証券会社に入ったせいだろうとぐらいに思っていたし、それなくしてこうはならなかったのは事実だが、この本を読んでいてあることを思い出した。たまたま本屋で目にはいった「ゴッドファーザーの血」だ。著者マリオ・ルチアーノ氏はドン・ヴィトー・コルレオーネのモデルになったラッキー・ルチアーノの末裔だ。茅場町のイタリア料理店主になるまでのあれこれはどんな小説より奇なりであって、人に歴史ありだがやはり血というものもあるのかと感じた。彼は17才でお母さんからそれを聞いたようだが、僕も野村に就職するよと母に伝えたら「やっぱり血なのかしらねえ」と23才で初めてルーツの話をしてくれた。見ようによっては自身が相当の悪党でもあった伊藤博文が石碑を建ててくれたぐらいだ、子孫がヤクザ映画好きになるなりのことはあったかもしれない。

マフィアに裏切りはつきものだがマリオ氏はそれで血族までばらばらになった。裏切りは極道だけの話でなく人間は本来そういうものなのであり、シンプルでストレートなマフィアの世界に浮き彫りになって見えているに過ぎない。僕も何度か裏切りにあったが、一度はコルレオーネ流に言うならそいつをぶち殺しに行った(もちろん「社会的」にだが)。なぜそうなったか彼は絶対に知らない。半沢直樹シリーズが流行ったように銀行も壮絶というのは4年半お世話になって知ったが、人事抗争という強弱が表に見えるものという印象であった。

こういうことは孫氏や三国志や君主論を読んで学ぶというより、自分で危ない目にあって骨身に染みるという性質のものである。喧嘩をしたことのない男に技だけ仕込んで修羅場で使い物になるわけではない。証券営業マンでしたというと恥ずかしいとでも思っているのかその経歴を言いたがらない元証券マンもいるが、あの職業で僕は人間の業を知ったしそれで今がある。だから僕が見るのはひとえに、人ということになってくる。技能は努力で多少はカバーできるが、人物ばかりはどうしようもないからだ。

ちなみに男と書いたが性別は関係ない。マリオ氏によれば「女は蛇」で、それを彼ほどに語る資格もないが、イタリア人ほど気軽に女を口説き口説かれる人種とそこは違うように思う。へなちょこの男などより頼りになる女性を何人か知っているし、証券の仕事は男しかできないというものでもない。だから、そこで人物の基準として「スナイパー」というユニセックスな言葉が僕の場合は出てくる。狙撃手というとマフィアっぽいがそういう含意はなく、裏切らない、口が固いという組織人としての信用の有無がすべてという含みで、要は忠誠心と実行力ということである

もちろん僕はアウトローを礼賛する者ではない。人間は陋規(ろうき)で動くと信じているだけで、大半の人は清規(せいき、法律や道徳)に従って社会生活を営むけれど、心は陋規によって別の喜怒哀楽を生むことがあるからだ。アウトローのロー(law)が清規なのだから、文字通りそれなしに陋規の世界で生きてきたマリオ氏の経験談には生身の人間を垣間見ることができ、無機質な白黒画像のごとき清規だけの現代社会に本来の彩色がされたように感じるのだ。少なくとも、トランプや金正恩のやることはその眼の方がわかる気がする。

 

僕はスナイパーしか使わない

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

あなた変な人ですね

2018 FEB 10 1:01:06 am by 東 賢太郎

クラシック音楽ファンが働く業界ランキングは知らないが、証券業は最下位に近い方であることは間違いないだろう。企業オーケストラはメーカーに多いが商社にもあり、金融だと銀行にもある。しかし証券会社のはきいたことがない。僕のいた会社を思い浮かべても、100年たって富士山が噴火して消えていようと人工知能の総理大臣が誕生していようと、あそこに交響楽団が設立されているとだけは思えない。楽器演奏はおろか、本格的にクラシック好きという証券マンに出会った経験もない。40年近く業界にいるのだから恐るべきことだ。

忙しくて無理というのもあるだろうが、もともと静かに交響曲を聴いたり幼少から楽器を習って学生オケに入ったりという家庭環境の人は証券界のような粗暴な世界には縁遠いのだ。日本だけかと思ったが、米国でもモルガン・スタンレーやゴールドマン・サックスにオーケストラがあるとは聞かないから国際的にそうかもしれない。たしかに、世界の証券マンを見わたしても、バックオフィスはともかくフロント部門には強欲、野獣系が多く、高学歴ではあってもインテリヤクザの観がある。

お前もそうだといわれそうだがそうではない。もともとピアノを弾いたり交響曲をじっと聴いたり系の人間であって、ただ尋常でなく株が好きだ。これは星が好きなのと同系統の趣味で、お買い得の株を探すのが飯より好きである(だからソナー探知機の社名にした)。そこにお金が落ちているのにどうして拾わないんですか?あなた変な人ですねと他人を説得することに情熱が入ってしまう。別にそんなことが生き甲斐でも得意技でもないが、本能、本性なのだからそれで飯が食えるんなら楽でいいというのが僕のようなクラシック好きが証券界に棲息している唯一の理由だ。

一方、証券界に野球好きは多い。きのうは弁護士先生がやはりそうとわかり、都大会ベスト8で京華に負けましてなどときくと神々しく見えてくる。こっちはたいした戦績もないが、わかってくれるかなと話すとわかってくれる。これはキャッチボールしてちゃんと胸元にバシッと速球が返ってくるあの清冽な折り目正しさを伴った感触であって、こう書いてもわかる人しか全然わからないだろうが、わからない人や女子供に話しても「でも負けたんでしょ」で終わるあの馬鹿らしい淋しさの対極なのだ。無理に「へ~すごいですね」と確実に何もわかってないのに言われるとすきま風は倍加するのであって、先生との会話はまさしく一服の清涼剤であった。

硬式野球経験者でクラシック好きとなるとどうかというとやっぱり珍種であることは確実と思われる。野球好きからもクラシック好きからも証券インテリヤクザからも、いったん仲間かなと期待されるだけにそれがかえってあだとなり、えっそんなのも好きなの?あなた変な人ですねと引かれてしまうのだ。だから友達はそのどれでもない人しかいないと言って過言でない。彼らは元から別世界の人としてつきあってくれるし、こちらも無用にそのとんがった所を見せずに平穏につきあえるからだ。

要は「3種混合」であって自分でもそのどれがホンモノかよくわからないというコンプレックスな人間ということになる。既製品の鋳型にはまりようがないから日本で生きにくかったのはそれもあるかもしれない。あえて、どの同種と話すと楽しいかというと、それはもう圧倒的に野球ということがこのところの一連の経験で自覚した。僕は音楽家でも証券マンでもなく、野球人間オズマだったのだ。しかし、ないものねだりだが、色覚さえ普通なら絶対に宇宙物理をしたかった。

ディールの追い込みで3連休など存在しないが、気持ち的には小休止してマサチューセッツ工科大学物理学教授、マックス・テグマーク氏の著書「数学的な宇宙」(究極の実在の姿を求めて)にとりかかることにした。氏は51歳と若いが数学的宇宙仮説の提唱者として知られ、200以上の論文・著作を持ち、その内の、9つは500回以上引用されている傑物である。宇宙のことは誰もわからない。物理学といって哲学に思えるものもある。であれば、おそらく人間の知るワールドで万物の説明言語として最も解明力のあると思われる数学に頼ってみるのが筋じゃないかと素人なりに思うのだ。

中村先生の紫色LEDとレーザーをわかるのに高校の物理の教科書を読んでいるレベルだ、この本が平明に書かれているとはいえわかるとは思えないが、本能的に引きつけられるものがあるから仕方ない。毎日こういうことをする人生も楽しかったろうと思うし、こうして空の彼方を考えているとヘンツェの交響曲が聞こえてきて、やがて星の彼方に父はいるというシラーの詩から第九交響曲が聞こえてきたりする。そうして音楽愛好家の自分がたちあらわれてきて、ますます人間とは何かがわからなくなるのだ。

 

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

フォーレ「マスクとベルガマスク」作品112

2018 FEB 3 13:13:01 pm by 東 賢太郎

僕は料理と音楽は本来がローカルなものと思っている。ブイヤベースはマルセイユで、チョリソはマドリッドで、ボッタルガはサルジニア島で、麻婆豆腐は重慶で、天九翅・腸粉は廣州で、ビャンビャン麵は陝西省で、カルボナーラはローマで、グラーシュはブダペストで、鮒鮨は湖東で、真正に美味なものをいただいてしまうともういけない。腸粉とはワンタンの春巻きみたいな飲茶の一品で下世話な食だから東京の広東料理店で出てこないが非常にうまい。

チャイニーズは地球上最上級の美味の一部と確信するが、中華料理などというものはない。地球儀の目線で大まかに括ればユーラシア大陸の北東部の料理という程度のもので、同じ目線でヨーロッパ料理と括っても何の意味も持たない。少し狭めて北京料理はどうかというと、内陸だから良好な食材はない。ダックは南京からサソリは砂漠からくる。貴族がいるから美味が集まった宮廷料理であって、我が国の京料理と称されるものの類似品だ。

中華といわれるのは八大菜系(八大中華料理)の総称で、八大をたぐっていけば各地のローカル料理に行きつく。それを一次加工品とするなら京料理や北京料理は二次加工品であって、大雑把に言うならヨーロッパ料理のなかでルイ王朝の宮廷料理として確立したフランス料理はイタリア料理を一次加工品とする二次加工品だ。少なくとも僕の知るイタリア人はそう思っているし歴史的にはそれが真相だが、パリジャンは麺をフォークに巻いて食うなど未開人と思っている。畢竟、始祖と文明とどっちが偉いかという不毛の戦いになるが、イタリア料理と僕らが呼ぶものが実は中華料理と同様のものだとなった時点でその議論も枝葉末節だねの一声をあげた人に軍配が上がってしまうのだ。

インドカレー伝(リジー・コリンガム著、河出文庫)を読むと、インドにカレーなどという料理はなく、それは英国(正確にはロンドン)のインド風(起源)料理(二次加工品)の総称であり「400年にわたる異文化の衝突が生んだ(同書)」ものとわかる。食文化というものはローカルな味の集大成であって、その進化は富と権力の集まる都市でおこるとは言えるのだろう。しかし、世界有数の都市である東京に洗練された食文化はきっとあるのだろうがそこで育った僕が山形の酒田で漁師料理を食ってみて、長年にわたって刺身だと思ってきたあれはなんだったんだと軽い衝撃を覚えるわけだ。

海外で16年暮らしていろんなものを食べ歩き、食を通じて経験的に思うことは、文化というものはなんであれローカルな根っこがあってそこまで因数分解して微視的に見たほうが面白いということだ。美しいとまでいうべきかどうかは自信がないが、素数が美しい、つまり同じ数字だけど「100,000」より「3」が好きだと感じる人はそれもわかってくださるかもしれない。素数が 1 と自分自身でしか割れないように、刺身は割れない。一次加工されていても大きな素数、23、109、587の感じがする鰹昆布ダシ、魚醤のようなものがある。割れないものは犯しがたい美と威厳を感じる。

咸臨丸で来たちょんまげに刀の侍一行の隊列を初めて目にした当時のサンフランシスコの新聞がparade with dignityと賞賛しているのはそれ、割れない美と威厳だったろう。いつの間にかそれがカメラと眼鏡がトレードマークのあの姿に貶められてしまうのは相手のせいばかりではない、敗戦を経て我々日本人が信託統治の屈辱の中、割れてしまった。アメリカに尻尾を振ってちゃらちゃらした米語を振り回して仲間に入れてもらって格上の日本人になったと思っている、そういうのは米国人でなくても猿の一種としか見ないのであって、dignityなる語感とは最遠に位置するものでしかない。

音文化である音楽というものにもそれがある。ガムランにドビッシーが見たものは「割れない美と威厳」だと僕は思っている。ワーグナーがトリスタンでしたことは「富と権力の集まる都市でのローカルな味の集大成と進化」であって、ドビッシーはそこで起きた和声の化学変化に強く反応し、やがて否定した。彼は素数でない領域で肥大した巨大数を汚いと感じたに違いない。だからガムランに影響されたのだ。音彩を真似たのではない、本質的影響を受けた。ワーグナーやブラームスやシェーンベルクにあり得ないことで、この議論は食文化の話と深く通じている。

先週行ったサンフランシスコのサウサリート ( Sausalito、写真 )がどこかコート・ダ・ジュールを思わせた。モナコ、カンヌ、ニースの都会の華やぎはなくずっと素朴で質素なものだけれど、なにせ暫くああいう洒落た海辺の街にご無沙汰している。

どこからかこの音楽がおりてきた。ガブリエル・フォーレの『マスクとベルガマスク』(Masques et Bergamasques)作品11274才と晩年のフォーレは旧作を大部分に用いたが、後に作品番号を持つ旧作を除いた「序曲」「メヌエット」「ガヴォット」および「パストラール」の4曲を抜き出して管弦楽組曲に編曲している。

第3曲「ガヴォット」および第4曲「パストラール」はその昔、学生時分に、何だったかは忘れたがFM放送番組のオープニングかエンディングに使われていて、僕の世代ならああ聞いたことあると懐かしい方も多いのでは。当時、憧れていたのはどういうわけかローマであり地中海だった。クラシック音楽を西欧の窓口として聴いていたのだから、そういう回路で番組テーマ曲が思慕するコート・ダ・ジュールに結びついて、記憶の番地がそこになってしまったのだと思うが、しかし、ずっとあとで知ったことだが、この作品はモナコ大公アルベール1世の依頼で1919年に作曲され、モンテカルロで初演された生粋のコート・ダ・ジュール産なのだ。

地中海、コート・ダ・ジュールにはマルセイユ、ニース、モンテカルロにオーケストラがあるが、カンヌのクロード・ドビッシー劇場を本拠地とするL’Orchestre régional de Cannes-Provence-Alpes-Côte d’Azur(レジョン・ド・カンヌ・プロヴァンス・アルプ・コートダジュール管弦楽団 )のCD(右)をロンドンで見つけた時、僕の脳内では音文化は食文化と合体してガチャンという音を発してごしゃごしゃになり、微視的かつマニアックな喜びに満ちあふれた。

ここに聴くフィリップ・ベンダーという指揮者は2013年に引退したそうだがカンヌのコート・ダ・ジュール管弦楽団(なんてローカルだ!)を率いていい味を出している腕の良い職人ではないか。田舎のオケだと馬鹿にするなかれ、僕はこのCDに勝るこの曲の演奏を聴いたことがない。第4曲「パストラール」は74才のフォーレが書いた最高級の傑作でこの曲集で唯一のオリジナル曲だ。パステル画のように淡い色彩、うつろう和声はどきりとするほど遠くに行くが、ふらふらする心のひだに寄り添いながら古雅の域をはみださない。クラシックが精神の漢方薬とするならこれは鎮静剤の最右翼だ。この節度がフォーレの素数美なのであって、ここに踏みとどまることを許されない時代に生まれたドビッシーとラヴェルは違う方向に旅立っていったのである。

こう言っては身もふたもないが、こういう曲をシカゴ響やN響がやって何の意味があろう。ロックは英語じゃなきゃサマにならないがクラシック音楽まで英語世界のリベラリズムで席巻するのは勘弁してほしい。食文化でそれが起きないのは英米の食い物がまずいからだと思っていたが、音楽だって英米産はマイナーなのだから不思議なことだ。これは差別ではないし帝国主義でも卑屈な西洋礼賛とも程遠い、逆に民族主義愛好論であって、文在寅政権が危ないと思っているからといってソウルの土俗村のサムゲタンが嫌いになるわけでもない。なんでもできると過信した薩摩藩主・島津斉彬が昆布の養殖だけはできなかったぐらい自然に根差したことだと僕は思っている。

じゃあN響はどうすればいいんだといわれようが、それは聴衆の嗜好が決めること。僕のそれが変わるとは思えないが多数の人がそれでいいと思うならフランスから名人指揮者を呼んできて振ってもらえばいい。相撲はガチンコでなくていい、場所数が多いのだからそれでは力士の体がもたないだろう。だから少々八百長があっても喜んで観ようじゃないかというファンが多ければ日本相撲協会は現状のままで生きていけるが、オーケストラも相撲と同じ興業なんだとなれば僕は退散するしかない。音楽は民衆のものだが、お高く留まる気はないがクラシックと呼ばれるに至っているもののお味を民衆が楽しめるかどうかとなると否定的だ。相撲が大衆芸能であるなら一線が画されてしまう。「割れない美と威厳」を感じるのは無理だからだ。

余談だがシャルル・デュトワがMee tooでやられてしまったときいて少なからずショックを受けている。訴えが事実なら現代の社会正義上同情の余地はないが、日本で聴いた空前絶後のペレアスを振った人という事実がそれで消えることもない。日本のオケでああいうことのできる現存人類の中で数人もいない人だ、日馬富士が消えるのとマグニチュードが違うといいたいがそう思う人は少数なんだろう。エンガチョ切ったの呼び屋のMee tooが始まればクラシック界を撃沈するムーヴメントになるだろう。いいシェフといい楽士は貴族が囲っていた、やっぱり歴史には一理あるのかもしれない。

上掲のフィリップ・ベンダー指揮レジョン・ド・カンヌ・プロヴァンス・アルプ・コートダジュール管弦楽団のCDからフォーレ「マスクとベルガマスク」作品112を、ご当地カンヌの写真といっしょにお楽しみください。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

座右の書と宇宙の関係

2017 DEC 10 21:21:06 pm by 東 賢太郎

学習塾の広告で「今まで算数を学んできた中で、実生活の中で算数の考え方が 活かされて感動したり、面白いと感じた出来事について簡潔に説明しなさい」(駒場東邦中 2017年 算数)とあって、人生その連続だった僕としてすばらしい問題だと思った。ところが「簡潔に説明しなさい」となると例が出てこない。

似た例が「心に残った本」「座右の書」だ。きかれてもない。同じ本を2度読むのはブログにする時ぐらいだし小説は読まないし、3時間~3日で読んで3,4割もわかったら終わりで、わからん本=いらない本が僕の読書だ。本屋で手に取っても目次だけでほぼ趣旨が見えて終わるのが半分。無理と思ったら買う。

強いていえば先日のフランス学序説などが近いのだろうが、心というより記憶に残った本で座右ということはない。頭の回路形成に影響はあったが算数がそうだったのと似ているのであって、僕は算数の教科書を座右に置いて生きているわけではない。何か肝に銘じたりすると変化に対応できないからむしろしない。

最近、知りたいし、ちゃんとわかりたいというのは宇宙物理で、時間ができたら勉強したい。これは読書と別ものだ。ダークマターという謎の物質が宇宙には満ちていて、信じ難いことだが計算量より多く存在し、銀河の周囲にはダークマターハローとよばれる、銀河の10倍ほども広がる巨大な構造がある。

ハローは小さいものから形成され、合体を繰り返して大きく成長し、その内部で銀河や銀河団が作られていく。スーパーコンピュータ「京」や国立天文台の「アテルイ」の強力な計算パワーを活かして、宇宙初期から現在にいたる約5500億個ものダークマター粒子の重力進化を計算したものがこれだ。

下が131億年かけてできた銀河が密集して分布する壁のような構造(グレートウォール)だ(小さな光の点が銀河系のサイズ)。

皆さん、こんなものを連想しないだろうか?

これはラットの脳内のニューロンネットワークだ。脳が電気信号を伝える神経の超微細な構造と、銀河が密集して分布する超巨大な構造。偶然似たかもしれないが、世界が仮想現実だとする「シミュレーション仮説」を想起しないでもない(シミュレーション仮説 – Wikipedia)。

この仮説はオックスフォード大学の理論物理学者が論破したとされるが数学で解かれなくてはいけないので正確に理解できそうにない。しかし物理法則を何者かがプログラムしていようがいまいが、脳内ミクロ構造が分子レベルの何らかの法則で何億年もかけて組成されたた結果とすると、宇宙の大規模構造はそれを部分とした全体であって自己相似関係にあるというフラクタル幾何現象(フラクタル – Wikipedia)か。証明できないだろうが、もしそうなら超大規模構造である。

数学や座右の書はおそらく固有のニューロンネットワークを形成するだろうと考えていて、とするとそれは脳の大規模構造の一部だ。構造を例に例えなさいと言われても困るのであって、僕は駒場東邦中学に不合格になるだろう。「座右の書」がないのも「簡潔に説明しなさい」となると出てこないのもそのことの婉曲な証明ではないかと考えている。

(ご参考)

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

「フランス学序説」に教わったこと

2017 NOV 15 0:00:47 am by 東 賢太郎

僕はフランスに住んだことがないし仏語はだめだからいつも不案内だったが、そのくせ自宅のあったやドイツ、スイスから車で国境を超えるたびにそこに住みたいと思った。ロンドンからだともっとそうだ。ドーバー海峡を越えて仏領カレーに入ると畑の色がゴッホの絵みたいにぱっと黄色く、明るくなる。いかにも肥沃な土地に思え、そこでいつも心に浮かんだのは早く仏料理が食いたいという願望だった。英国のどんより曇った気候のせいもまずい食事のせいもあったが、あのわくわくする景色にそういう記憶しか残ってないのはけっこう恥ずかしい。

中央集権制の強い国家であるフランスで、パリというのは他国の首都であるワシントンDC、ロンドン、ボン、ベルリン、ローマ、マドリッドなどに比べると圧倒的な存在感と影響力がある。権力に限らず文化、伝統、生活様式などにおいてフランス的なものとはパリ的なものであり、東京とて京都をさしおいてそこまでの位置にない。対してドイツは地方分権的で官庁は各都市に分散していてベルリンとミュンヘンは政治も文化も気質や言葉までもがほぼ別の国といってもよく、ベルリンやフランクフルトの高地ドイツ語(標準語)を話さないと方言と見下されるようなこともない。僕の実感として、ドイツとフランスを同じ国民国家とくくることさえ違和感を覚えるほどだ。

パリをなんど訪問したか数知れないが、そのたびに住みたいと思ったのは絵画や音楽のせいだけではない。地方都市に行ってみても、そういうものと縁のない人々の生活圏にまで深々と浸透した「フランス的な精神」があるのを見て好ましいと思ったからだ。それがなにであるかは冒頭にギブアップしたように不案内であるが、もしパリ的であるのなら、パリという都市に「それ」が在るはずであり、それをあまねく敷衍させる普遍的なパワーが潜んでいるはずだ。古代ローマはそれを辺境にまで敷衍したが、パリにはローマの軍事力も先進的産業を生む米国流資本主義の推進力もない。そんな都市は僕の訪問した限りほかにはなく、だからそれが何かを探究したいという欲求が常に湧いてくるのだ。

大学時代に桑原武夫著「フランス学序説」(講談社学術文庫)を読んで、大いに仏国がわかった気になった(実はまったくそうではなかったが)。仏文学者、桑原武夫(1904-88)は京大名誉教授で戦後の京都学派の中心的存在として、戦後のさまざまな文化的活動に主導的な役割を担ったとされる。本書は1976年11月10日に第1刷出版とあって、日記によると77年1月10に読了しており、どこでどう出会ったかは記憶にないが渇望の書だったようだ。この書は僕に2つのことを教えた。学問を専門領域を超えて多角的に見る学際的(interdisciplinary)な考え方、もう1つは日本語の作文である。

真理に境界線はないが、学問は専門家という人間集団が行う以上、動物の習性が混在して派閥(学閥)ができることから完全にフリーであることは困難だろう。学問は実証的でなくてはならず、フランス文学、フランス史の研究を実証的に行うことはできても「フランスとは何か」でそれを行うことは難しそうだ。フランス学という学問分野がない理由につき著者は、「(学際的な方法は)実証性に欠け非学問的とみなされる恐れがあるので、学者は必要性を知りながらこれを避ける風潮がある」と書いている。

同書が冒頭いきなり「フランスは日本で十分に知られていない」と切り込むのはいくら昭和51年のこととて挑発的で、必要ならば避けずにやってみればいいではないかという学会に対する著者の経験的実証主義の宣戦布告にもきこえる。経験は実証ではないが、僕はわかるし同感でもある。余談だが、こういうのは関西的、京大的だなとは思う。関西に2年半住み関西人が家内の身にしてこその気づきかもしれないが、「桃太郎を知っていますか?」みたいな上から目線でふざけんなとなりかねないし、我々東京人は憚る。

この本の題名は悪く言えばギミックがあって、「体感されたわが身の経験を重視する」氏の研究は書物での深い学識あってのもの、学会の閉じた研究姿勢への対抗軸として初めて存在意義のあるものであって、ベーシックな学識を欠く者が学際的にフランスを知ることなど実はもとからあり得ないのである。氏が「序説」としたのは学者の良心からなのか単なるヘッジ感覚だったのかはともかく、正しいことだったろう。本書は研究書ではなくエッセイの類であって、教養書のジャンルにおいて一級品である。

しかし、ということは、21才の僕が知ったのは、当時そう思いこんでいたフランスの実像ではなく、実は方法論の方だったわけだ。それのおかげで、やがて渡英して6年ロンドンに住み、数多の観察と経験を経て英国経験論信者になる僕の精神の基盤ができたからそれはそれで幸運だった。二十歳前後までにできる精神の骨格というのは一生にわたる堅固なものと思うが、僕の場合は、受験勉強が「筋トレ」であり、根岸先生の数学、村上先生の科学史と並んで、桑原先生のフランス学がフォームを固める「トスバッティング」だった。

もう一つ学んだことは、明快で中学生でもわかる文章だ。僕は日本語の作文に於いて、『文章作法』の著書もある氏の影響を受けていることを、上掲書を読み直していて気がついた。物事を実証精神で活写しようと志せば誰もに「わかりやすい」ことが当然の前提であり、文章はわからせるために書くものでそれ以外になんの意味があるかは知らないが、わからない日本語文というのは学術書であってさえ多々遭遇する。

仏文学の碩学である著者は「フランス的ということ」の章で、その証(あかし)をクラルテ(明晰性)と合理性と看破しているが、氏の文章はそのものがそれを具現しているのだ。「『語られる言語』から、理性に支配されるべき『書かれる言語』を抽出、純化せしめ、現実の人生からいちおう離れつつ、しかも人生を知的に掌握する文章を創出した」のがフランス古典主義文学だと書かれているが、スタンダールやボードレールを訳すことのない僕には、先生のクラルテな文章からエッセンスを盗んでしまうことには価値があったと今になって感謝している。

「フランス人と日本人はともに芸術を愛するが、芸術という言葉の受け取り方は同じでなく、パスカルは『幾何学的精神』と並んで『繊細の精神』を尊重した。日本人もまた繊細を高く評価する。しかし、日本芸術では、繊細は、むしろ幾何学的精神を排除するものとして受け取られている。フランスでは、繊細を尊重すると同時に、これを生み出す芸術家には幾何学的、論理的な精神、合理主義を踏まえたクラルテがなければならない。論理と美の共存こそ、フランス芸術の誇るべき特性である

この驚くほどクラルテな説明文で、僕はフランスの音楽、絵画、彫刻に対する自分の理解、そして印象派というものの解釈が根本的に間違っていたことを知った。幾何学的精神を排除する繊細、すなわち「曖昧模糊を愛でる精神」でモネの睡蓮やドビッシーの海を味わっても別にかまわないが、クラルテの存在に気づけばぐっと知覚の奥行きが増す。プーシキンは「フランス人は最も反・詩的な国民である」といったが、詩的だから美しいとはフランス伝統的文化人は考えないのだ。経験論的にいえば知覚しないものはその人にとっては無いものだから、知らずに死んでしまう。それではもったいない。

霞の向こうの「見えないもの」や「余白」に繊細である日本人の伝統的な美感と、光の変化を微細克明に写実するゆえに見えないものは描いていないモネの絵は結果として類似の印象を与えるが、まずはいったん違うと認識することだ。それなしに浮世絵の印象派への影響を論じてみてもただのイメージ論にすぎない。こういう部類の、それこそ繊細な知的領域の正確無比な理解は、幾何学的精神をもってする論理と美の共存した桑原先生のような文章でないとリアルに伝わらない。「フランスは日本で十分に知られていない」。いまだって、まさにその通りと思う。

ところで、本稿を起草した契機は、4月にこの記事を見て唖然としたことだ。

「遺族が京都市に寄贈した桑原武夫氏の蔵書1万421冊を2015年、当時、市右京中央図書館副館長だった女性職員が無断で廃棄していた」

「蔵書は1989年に市国際交流会館(左京区)が開館した際に寄贈され、一般公開されていた。市教委によると、2008年に京都に関する資料を収集する機能を備えた右京中央図書館がオープンしたのに合わせ、蔵書を同館に移動させたが、保存場所がないとして、向島図書館の倉庫に移した。15年に向島図書館の職員から、「置き場所がなく処分したい」と女性職員に相談があり、了承したという。」(以上、京都新聞より)

こういう公的判断が下されることはフランスや英国では考え難い。管理費用の問題があったならば一定の理解はできるが、その場合は遺族の許可を取ってオークションにかければよかった(僕が買いたかった)。故人もさぞご無念だろう。安倍政権と文科省が大学授業料を無償化すれば、知的財産と粗大ごみの仕分けを適確にできる図書館職員が育成されるのだろうか。いまのところそうも思えないので、僕は音楽資料のたぐいの寄付はやめとこうと思う。

 

 

 

ドビッシー 交響詩 「海」

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

 

ダシール・ハメット「マルタの鷹」

2017 NOV 9 2:02:38 am by 東 賢太郎

ハメットの「マルタの鷹」はだいぶ前に読んで、謎解き小説好きとしては面白いと思わなかった記憶がある。ただ主人公の私立探偵サム・スペードの非情なところ、好きな女を警察に突き出すなんて俺にはできないなあというところはこたえた。それが本性なのか功利なのか、読めないところがいい。

スペードは女に弱いが、女に見下されるのを嫌う。これが本性なのは「君(女)にコケにされるのはごめんだ」というセリフでわかる。事実の静的描写に終始するハードボイルド小説に珍しく情緒が浮かび上がるから響く。女が相棒を殺した。「相棒は屑野郎だったが、男ってのは相棒が殺されたら放っておけないものなんだ」。これも響くが、「君は俺にウソを言った」ことがそうさせたかなと思う。

スペードみたいな男が格好いいと思った時期があって、今も多少は残ったかもしれない。小学校で女の子にばかにされ、あれ以来女に見下されるのを嫌うようになったからどことなく共感があったのだ。それに、やっぱりウソをつく人は蛇蝎の如く嫌いだ。ウソには弱さなどからくる生きるための許容範囲のウソと、そうでない強い者が悪意によってつくウソがある。前者は場面場面では仕方ないだろうし善意のウソだってある。しかし後者は人間性、本性、品性の問題であり、ひとつあれば万事にわたってそういう人だと判断せざるを得ない性質のものだ。その人が何かの価値基準によって悪い人かどうかということよりも、そういう人はおつき合いを金輪際忌避したいということだ。

金融のホールセール部門という欧米のインテリヤクザのグローバルな騙しあいみたいな業界で40年近くやっていると、物事も他人様もサム・スペードのように無感情、叙実的に見るようになっている。冷たいとは思わない、あくまで騙されないための自己防御としての業務用の視点だ。決闘するのに相手の身重の女房や病気の子供の顔など浮かんだらこっちが殺られる。冷徹なビジネスに情状のアピールを持ち出すのは弱くて力のないことの表明であって、そういうのは単なる「たかり屋」であることが極めて多く、相手として勝ってもたいした戦果はないし相棒(パートナー)として組む意味はもっとない。

無感情、叙実的に見ても人間は顔だけではわからない。何年もつきあって、いろんな局面で是非を見て、力量と信用度を量る以外にはない。相手だって力量のある人ほどそうしてこちらを量っている。そうやって初めて信頼関係というものがそこはかとなくできてくるものだ。相思相愛ではなく、相思相信頼だ。そういうふるいにかかって残るのは、僕の場合は少数であった。友達、知人という程度のものではないもっと特別な存在であるから、こっちが死ぬまで大事にする、いや、すべき人たちである。

ウソがないか、逃げないか、裏切らないか、言行一致か、口が堅いか。これが絶対基準だ。大丈夫と踏んだのに、あとになってひとつでもそうじゃないということが発覚することがある。これはつらい。信頼をゼロにすることになる。ということは、もうつきあわないことになるからだ。男女は関係ない。ただ、矛盾するようだが、そうなって屑野郎と思っても僕はいったんパートナーになった人は必ず守る。来るもの拒まずの親譲りの性格ゆえ、来て受け入れた人を守らなければ親の否定、自分の人格否定になるからだ。

若いころ、素っ裸の状態で知り合って酸いも甘いも良いも悪いもお互い知り尽くしている人たち。掛けがえなく貴重だ。そういう人たちがいるという唯一の理由で、いま僕は自立して仕事ができている。これからめぐり逢いもするかもしれないが、もう素っ裸になれないしあんまり許された時間はない。いま20代、30代のひとたちに告ぐ。そういう友達をいまのうちに何人つくれるかが、人生黄昏に至っても信頼関係の絆で助け合える人を何人持てるかになる。言っておくが、ただの仲良しからはパートナーはでてこない。必死に何かを共にやった人、仮にその時は敵であっても、そこにいるのだ。それを求めてもいけない。ただ日々粛々と必死に何かに打ち込むことだ、そういう人には神様が人生のパートナーを授けてくれる。

夏目漱石の日本語

 

 

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

洋モノ美しいもの好き

2017 OCT 26 23:23:04 pm by 東 賢太郎

いつだったか、この本を買ってきていたく感動して一気に読んだ記憶がある。そうしたら昨夜たまたま寝れなくて見ていたTV番組に本の主人公のモデル、サンモトヤマ創業者・茂登山長市郎氏が登場していた。氏は終戦後の銀座に闇屋を構える。初めは進駐軍のつてで米国品を輸入したが、出会った写真家・名取洋之助から「美しいものが好きならヨーロッパに行け」「まず美術館と教会を観ろ。一流ホテルに泊まれ」と言われる。単身パリ、フィレンツェに出かけ、グッチ、エルメスなどの日本独占販売権を獲得する。ひたすら美しいものを追い求め日本に欧米ブランド文化を根付かせた男の熱い一代記だ。

感動したのは魅せられたグッチに毎朝毎朝10時の開店と同時に通いつめ、とうとう会えたオーナーに「日本を俺にまかせてくれ」と裸一貫でぶつかったことだ。その情熱が通じて、ちょとした運も助けてくれて、その場で「やってみろ」と認められていく手に汗握るくだりは野村證券に入社してすぐ、かけだしだった2年半の忘れられない大阪梅田支店でのあれこれと重なってしまい感情移入なしにはいられない。こんな人がいたのかと心にずしんと響く音を聞いてしまったのだ。

本で強く印象にあった茂登山氏は、想像通りの魅力的な人だった。着ているシャツの色。「だってウチはサン、太陽でしょ、だから赤と黄色が好きなんです」なんて、何の理屈もないが、うんなるほどと腑に落とされてしまう。こういう人は学友にはいない、そういえば証券会社のお客様にいたなあと思った。僕はこの商売を始めるまでは営業マンなど程遠いかなりの人見知りで、初めての人と気軽に友達になったり長く会話することさえない性格であり、証券の仕事で出会った人間力あふれる先輩やお客様にそれを直してもらったようなところがある。

ただ例外があって、何であれ、どんなジャンルであれ、語ることに情熱と自信があってリスペクトできる人は昔からその限りでなかった。氏素性でも勲章でもなく人としてのヴァリュー、生き筋の良さとでもいうべきもので、氏はまさしくそれをお持ちの人であって、好きなことをぜったいの自信をもってやってるから言葉が重たくて歯切れがいいのだ。ああいう人はどこにもいるようなもんじゃない。頭脳明晰、理路整然の言葉を吐ける人はいくらもいるが、大体において男としてつまんないヤツばかりだ。

やっぱり洋モノが好きな僕は、氏と同じ時代に生まてたら闇屋をやったかもしれないと見ていて思った。外人相手の仕入れの交渉なんてさぞエキサイティングだろうとわくわくするのは商人の血が流れてるからか。そして何より、美しいものが好き。氏の人生を動かしたそれが、譲れないほど僕にもある。そうするとどうしたってヨーロッパ、洋モノになってしまうのだ、パリやロンドンやウィーンやローマの記憶に今だってどんなに魅せられていることか。

先日娘の誕生日に「お父さんの人生はね、お前たちが生まれたヨーロッパ時代までが上昇、そこからずっと下降だよな」と話した。そのまま終わるのは嫌だとまだやってるが、でもあした死んじまってもけっこう満足だぞ。そのぐらいね、サラリーマンではないぐらいいろいろすごい経験させてもらって、ここ(心)にはいい思い出がごまんと詰まってるんでね、とも言った。まさしく本音だ。これは野村という代え難いほどいい会社に入れてもらって、自分から希望したわけでないがきっと阿吽の呼吸で好きが伝わって12年も欧州赴任した。こんなラッキーな人生はまたとあろうか申し訳ないとまで思うが、それがまた上掲書の氏のことに重なってしまうのだ。

思えば僕にとってクラシック音楽も洋モノ好きの一部分だった。いまだってそうだ。レコードなどまだまだ戦後の闇屋、バッタ屋っぽかった秋葉原で電器屋が売ってたのであって、髙島屋なんてお品のある所じゃない。1枚2千円で欧州をのぞけるウィンドウだったのだが、のぞいた景色は大変上等だ。そんなものを闇屋風情で自分の眼で選んで買うミスマッチも味があった。本当は絵の方が好きかもしれないが色覚のせいでひけめもあって、でも子供の時、楽器や歌でほめられたことは一度もないが絵はおおいにそれがあって、こっちのほうがもっと適性があったかもしれない。だからこそ、ビジュアルな美を求める茂登山氏の世界には他人事でない感じがあるのか。

番組でもうひとつ、六本木のイタリアンレストラン、キャンティのオーナー夫人・川添梶子も面白かった。旦那の川添氏は後藤象二郎のお孫さんだ。客は著名人、といってもアート、芸能系で、まあパリでいうサロンみたいなもんだろう。梶子は昭和3年生まれでお袋と同じ。やっぱり洋モノ美しいもの好きで、やりたいことやって早くに亡くなったが見事な人生とお見受けした。お袋が僕を成城学園初等科に入れたのは自分がこういう世界が大好きだったからだが、見ていてよくわかった。そういうのは縁遠かったが、出てくるキャンティの客人はみんな人間的魅力があって、なんかほわっとしたこういうのもいいなと思った。

先日、T社長ご逝去の知らせで某弁護士から「我々にも、残された人生の時間はそんなに長くないことを肝に銘じて、仕事や遊びに励みたいと思います」と彼らしいメールがあった。そうだ、そういうトシなんだねと思わざるを得ない。そういうこともあって番組見ながら「ところで今まで俺って何やってたんだろう」という自問の気持ちも出てきたりして、「ここまでおかたい金融屋の父親路線できているけどゆるいお袋の方もいいんじゃないかな」と横恋慕しそうになってくる。お袋は喜ぶんだろうなそれを。なにせ美しいもの好きばかりはそっちの遺伝だ、どうしようもない。

 

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

Luise Ono
三遊亭歌太郎
島口哲朗