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カテゴリー: 徒然に

世の中は何が起きるかわからない

2023 APR 7 9:09:44 am by 東 賢太郎

新年度最初の平日、日本中の企業で入社式が開かれた4月3日のことだった。

誰かは書くわけにいかないがその日にある方とお会いした。広尾でランチだった。だいぶ前のブログに少しだけ匿名で書いた、僕の大師範にあたる。いろんな意味で、ストレートな物言いになるが、動揺した。初めて語られたことがたくさんあったのもそのひとつだが、まさにいろんな意味においてだ。

この会食に至ったのは、もうひとりの師範(小師範と呼ぼう)と、まったくの偶然でお会いしたからだ。少々ややこしい。3月6日に初対面の人とランチがあって、その人が10分ほど遅れて来たのが発端だ。「すいません長引いて」と言う前の会議の相手が小師範だったことがわかって、心底びっくりしたのだ。

その場で「もう40年ぐらいお会いしてないですが・・」「いや、電話してみましょう」となって、手渡された彼のスマホから聞こえた声は当時のままだった。かくして2日後に小師範とお会いする算段になり、「おい今度は大師範を呼んでランチでもしようよ」と相成ったのが4月3日だったのだ。

ご両人とも後に大企業の社長になられた。それがあるから僕は誰と会っても何でもなくなった。学生まではぜんぜんそうじゃなかったのを家内は知ってる。4月3日はそのリプレイだったのだ。だから前日から柄にもなく緊張し、当日は逃げ出したい自分を知って驚いた。そうか、こんなだったんだ、20代の僕は。

それの前だったか後だったか、とにかくその日だったが、坂本龍一氏が亡くなったことを知った。彼の才能に憧れたのもあるが、なにせ年が近い、ともすれば俺も危ないかというのもあった。そうしたら夜になって、レコード芸術が休刊という記事が・・・。激動の4月3日が終わった。

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『レコード芸術』休刊のお知らせに思う

2023 APR 4 16:16:50 pm by 東 賢太郎

昨日、このニュースを知った。

『レコード芸術』休刊のお知らせ

当誌には高校時代から長年お世話になり、海外でも取り寄せて愛読していたので複雑な気分である。

ただ、証券マンの目にこの日が来るのは予見されていた。雑誌文化の衰退はもう誰にも止めようがない。ジャンルを問わず雑誌のほとんどは赤字と聞いて久しく、週刊朝日が5月末で休刊というニュースでこれから何が起きてもおかしくないという事態に至っていたからだ。ネットと動画に押されて文字を読む文化が顕著に後退し、新聞も部数が激減しているマクロ現象の一環だ。

次に、これは各所で私見を述べてきたが、クラシック受容文化の変質である。帰国したのにレコ芸を通しで買わなくなったのはいつからか調べると、2010年からだった。僕が愛好した評論家は硬派の大木正興氏だが、氏亡き後は文学者の格調を最後まで失わなかった吉田秀和氏(2012年没)、好悪直言型で演奏家目線の宇野功芳氏(2016年没)が逝去されたことをもって文化の変質は不可逆的と感じた。

2014年に書いたこの稿をさっき読み返してみたが、今日これを書いてもいい。

僕のクラシックのブログについて(訪問者25万に思う)

 

つまり、書いてあることは9年前からすでに起きていたわけであり、それがレコ芸という雑誌に局所的に現れたといってそれで止まるわけでもない。この流れは世界のクラシック音楽界を揺り動かし、日本の音楽産業から音大のあり方にいたるすべてを飲み込みつつある津波だからである。

3週間前に偶然だがレコ芸のことを書いていた。

ポジショントークやる奴は例外なくクズ

音楽評論誌の「立ち位置」については若い頃から考えがあったからだが、それほど僕の中では音楽を通じて社会を深く観察、考察するテキストになった重みのある雑誌である。これが消えるということは我が国のインテリゲンチャがこれから本格的に、雪崩をうって消滅してゆき、受験やクイズ番組には強いがぺらぺらに皮相的で利己的、我田引水的である疑似インテリが蔓延る社会をまぎれもなく予見していると言わざるを得ない。文化は世相を映す鏡なのである。

ではどうしたらよいのか。政治家でも教師でもない僕には何の力もない。老兵は消え去るのみだからもう関係もない。そんな酷い社会になっても家族、社員、友人たちはうまく生きていけるよう心掛け、見守るしかないだろう。

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新興蒸留所のウイスキー試飲会

2023 APR 1 9:09:30 am by 東 賢太郎

先日にたまたま知り合ったNさんの紹介でスコッチ・ウイスキーの試飲会に行った。彼との出会いは巨人の角投手のお店だ。「ボウモア入れてますが、飲み方はどうされますか?」ときかれたので「ボウモアはどうもこうもないでしょ」と言ったら、即、こんど面白い試飲会あるから行きましょう!という流れになったのだ。

場所は三宿のRUDDERというお店である。バーではなく試飲ができるセレクトショップであり、棚には魅力的なヴィンテージやレア物がずらりと並ぶ。この会は紹介者のみのメンバー制で、ただの酒飲みは入れないらしい。僕は酒飲みでないがそんなに知ってるわけでもない。息子を入れてカウンターに7人が座った。中年男ばかりと思いきや若い男性がおられ、3名は女性で想像よりずっと華やかである。

この日は市販してない酒が5種類グラスで並んでおり、一品ずつ店主の松永さんの解説を聞きながら口に含んではああだこうだと品評する。皆さんスコッチは詳しいだろうがこの5品は新興蒸留所の品で誰も知らないから好みが出る。ラフロイグ好きな当方も同じだが、皆さんくさい派なことがわかってじわじわ親近感がわいてくる。「味を何かに喩えてください」というので、女性から、5番は若いねとか、赤ちゃんくさいわねときた。もう出来上がっていた僕は、これはブラームス、こっちはモーツァルト、こいつはストラヴィンスキーだねと訳の分からない品評をしたが、火の鳥ですかと声が飛び浮いた感じはなかった。

気に入った2番と4番を買って店を出た。お互いが誰だかわからない場なのにけっこう盛り上がるものだねというとNさんが、皆さん常連で経営者のかた、国連のかた、女子アナのかた云々と教えてくれた。皆さんは知り合いだったわけだがこっちは名刺交換もしなかったし素性を明かすと出てくるめんどうな話なんかはまるでなく、話題は酒だけの一種のマスカレードであった。うまいまずいにトシも男女もない。仕事に関わるにおいが一切ない方々と、別に人生を左右するわけでもない酒の味を2時間もあれこれするなんてのは最高に贅沢な時間と思った。

これも後で知ったがお会いした主催者エピキュリアンの米澤多恵さんは雑誌「GOETHE(ゲーテ)」の副編集長をした方である。検索すると「自分が楽しめるものを、周りを気にせず自分の気持ちに素直に体験することが、人としての成熟であり、人生の多様性だと私は思います。そんな成熟した大人が増えることが、その国の文化を成熟させるのだと信じています」といいことが書いてある。僕は成熟した大人なんて立派なものではなく、毎日面白ければ万事オッケーという子供がそのまんま大人になっているだけだ。この日は面白かった。Nさんに感謝だ。

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役員を自分で2度やめた男

2023 MAR 25 11:11:35 am by 東 賢太郎

朝食の席で家内が「もしあなたが某大に行ってたらどんな人生だったかしらね」というので、なんだか意味がよくわからず、「少なくともここにはいないだろうね」と当たり前の答えをした。

何かというと合格校を辞退して浪人したことだ。先日に神山先生の講演が御茶ノ水であって、出席者の方と駿台の名物教師の話でひとしきり盛り上がった。あれが正解だったかどうか考えたことはあるが、選ばなかった道の先はわからない。「あした」なんてものは星の数ほどあったから気まぐれでしたことだった。

人生何度も苦杯をなめさせられた。でも、その一つでも欠けたらイマはない。良い負けがあるなんてクサい話ではない。どうでもよかった、悩まなくてもよかった、それだけだ。人生の最後に「よかった」と思えればいい。そうすればぜんぶの負の遺産がオセロみたいにひっくり返ってオッケーになるからだ。

思えば最近はブログが人生記になってきていてPVがもうじき900万になる。青汁に乳酸菌が100億個入ってます以上に僕にはつかみどころがないが、1分読んでくれたとして約17年も多くの人様の貴重な時間を頂戴した計算になる。どなたかは存じないが、それだけ一緒に生きて下さったことには感謝しかない。

何度も述べたが、僕は広告料や売名めあてのブロガーやユーチューバーとは違う。PVを増やそうという記事など一本もないし身勝手なトピック、身勝手な中身しか書かない。WBCのビデオを千年後の子孫が見てこう反応した先祖の子孫だと知ってもらいたいからで、PVは世間様も反応されたということだろうか。

だから本来であれば、僕は野球や音楽でなく、プロフェッショナルである投資について反応を書いて残すべきなのだがそれでは商売にならない。書かなければ僕とともに消える。だから家族はもちろん、リアルタイムで一緒に生きて下さっているお客様、社員、協力会社様との会話やあれこれの記録はとても重要だ。

ちなみに昨日はお客様と電話で1時間半話した。「東証1部上場企業の役員を自分から2度辞めました」「まるでドラマですね」から始まって、この業界酸いも甘いもという裏話からああだこうだの質疑応答に至ってそうなった。投資コンサルは哲学が必要である。助言をさせてただくのは理解して下さる方だけだ。

ブログの読者の方々も、きっと電話すれば1時間半になるような、おそらくそういうインテリジェンスがあって熱心な方々なのだろうと想像する。SMC西室にご連絡いただければお会いもするし、お取引はともかくすでに何度か来社された方もおられる。昨今は以下のようなケースもでてきた。

まず僕のブログを読んでアメリカから神山先生を訪ねてこられた方がおられたことを伺った。また、先日は東京芸大の楽理科の先生から「プリンストン大学音楽科のサイモン・モリソン教授が東さんのプロコフィエフ論のブログをレクチャーで引用したいそうなので許可いただけますか」というご連絡が西室にあった。

教授がそう思われたことに関心があり、レクチャーはあさって母校の成城学園でのようなので出席しようと思うが、「どのような経緯でモリソン先生が東さんのブログに行きついたのかわかりません。どうやらほかのピアニストの方が引用されているのをご覧になったようです」とあった。

こういうのを見て家内から質問がきたのかと思ったら、「そっちの大学なら文筆業になったかもしれないね」ということだった。「いや、才能ないよ。行った方の大学でも弁護士にならなかったしね。役員を2度やめた男のほうがずっと俺らしい」。こればかりは揺るぎない。

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受験秀才の価値は暴落する(チャットGPT)

2023 MAR 15 20:20:36 pm by 東 賢太郎

人は真っ白で生まれてきて記憶力のピークは18才である。凡そ20才までに何に時間を使ったかで「脳の初期化」が終わると考える。それ以後の進化もあるが、脳機能(CPU)、メモリーのキャパは決まる。学校にいる時間はみな共通として自由時間に何をしたかが個性になるだろう。すると僕は20才時点でレコードを1,000枚持っていて10回は聴いているから10,000時間、すなわち20年(=175,200時間)の5.7%はクラシック音楽を聴いていた。その次が野球で、やる・観るで7~17才の10年、ならして日に1時間として2%だ。勉強はというと小1から14年、毎日2時間自習したとして5.8%だから音楽+野球(7.7%)の方が初期化の貢献度が高い。

もし7.7%を塾通いさせられていたら別種の人間になっただろう。音楽・野球のない自分は想像できないが、好きに生きたら勝手にこうなっただけで、なろうという意志があったわけではない。この実感と見事に平仄が合うのは「身体は魂がもらった vehicle(乗り物)」という思想だ。身体のサイズや性能はDNA(設計図)で一義的に決まっているのだからそれ以上でも以下でもなく、行く末も決まってるのでケセラセラで生きればいい。そう思えば人生楽だし死も怖くない。刻苦勉励は為政者が国家を作るための教育でそれも大事かもしれないが、人間の本質には必ずしも根ざしていない。

これから世の中はどうなるか?コロナと戦争で混沌としているが、世界を変えるのは常にテクノロジーである。落合陽一氏によるとAIの進化は想定外に速く、人間を凌ぐシンギュラリティは2025年に来て、頭の中でする仕事は弁護士、会計士、役所仕事など専門職ほどAIができてしまい、人に残されるのはエッセンシャル・ワーカーの仕事、スポーツ、芸術、恋愛、戦争だそうだ。僕は2008年にリーマン・ブラザーズが潰れた時に真っ先に同社に電話をして六本木ヒルズに駆けつけ、東証の株式売買トップシェアだった米国人20人の電子取引チームを口説いて丸ごと引き抜いた。彼らから最先端のアルゴリズム取引を学び、一秒間に百万回の売買注文が執行できてしまう速度を見て人間に勝ち目などあり得ないことを確信した。それから数年で、腕さえ良ければ高年俸が約束される花形ポストだった証券会社のトレーダー職は、案の定、無残に消滅した。これが現実に起きたことで、もう15年も前の話なのだ。AIは資本効率を上げるが失業率も上げる、しかも高度な知的ワーカーのだ。

AIはかように演算速度が天文学的に速いばかりか自習して進化もする。ということは、学校で習う「答えが出る問題」を解くことにおいては人間は確実にAIに負けるということを意味している。だから僕が7.7%を塾通いではなくスポーツ、芸術に割いて育ったのは得だった。「時は金なり」だから1時間の交響曲を聴くと時給分の損だとするのが経済学だ。しかし脳内にAIができない不可侵領域を作り、感動というエネルギーチャージも得る音楽鑑賞の価値の合計は時給より高い。僕は小学校時代に(本当に)勉強した記憶がなく、野原を駆け回っていた。その経験からいうが、中学生になればすぐ理解できる小学校の勉強に6年の塾通いは時間の無駄で、遊びの情操教育をミスする損失の方が大きい。野球という遊びは強い体力と胆力という財産をくれたが、知力よりそっちの方が出世には何倍も物をいった。

ということは受験秀才の「勉強ができる」という価値はAI時代には暴落し、AIは日々人智の及ばぬ速度で学習して更に人を引き離し、学歴というものは出身県と同様の「群れるためだけのもの」になる。しかし仕事がない人の群れに何万人いても何も生まず、数の力にすがって互助のための政治や宗教をするようになる。しかし、そのリーダーのできることはAIにできないことだけだからAIを論破できず、やがて各党とも党首にはAIを起用し、国会はオンライン開催となる。chat gptチャットGPT)はそれが絵空事でないと実感させる。ウォートンMBAの試験に通る知能を持ち、論文はスワヒリ語でも10秒で書け、3分の好みの音楽を10秒で何通りでも作ってくれるなんてことになる。しかも演算速度はこうしている今も毎秒速くなって、やがてアルゴリズム取引と同じ百万分の一秒単位になる。ちなみに岸田総理の国会答弁は、AIにやらせれば自分で考えるので官僚のペーパーは不要だし、少なくとももっとうまく読むだろう。

AIの職業浸食は、起きない方が不思議だ。なぜなら資本家はROE(自己資本利益率)を求める。AIは人の何万倍も仕事が速く、口ごたえせず、正確で、24時間働き、飲み会はいらず、不要不急の出張もせず、賃上げ不要で、組合は作らず、歳もとらないから、人を減らして置きかえるほど人件費・管理費は激減してROEは上昇し、従って株価も上がる。それを望まない経営者はいない。社長もAIでいい。所有と経営は完全分離し、AI社長には預金通帳が与えられ報酬が入り、自らの機能を高めるためオンラインで買い物もする。これが究極の姿だが、ここまで行くと社会問題になるので政治家が介入し「そこそこの二極化」に収まる所で浸食は止まるだろう。そこでAI社長は何をするか。政治家の性格を瞬時に分析し、ぴったりの宴会部長(人間)を雇って接待、ゴルフ、ハニトラを仕掛け、賄賂を贈る。贈収賄罪が立件されると政治家と部長は牢屋に入りAI社長は没収されるが、贈賄はしないプログラムに書き換えたものをまた買えばいいのである。

そんな馬鹿なと思われるだろうが、AIの出現は決してブラック・スワン現象ではない。黒い白鳥がドカンと世界に衝撃を与えるわけでなく、普通の白い白鳥に見えるが気がついたらそこいらじゅうに居たという性質の侵略なのだ。1990年代前半にインターネットが出現し、こわごわメールを送って「届きました」と電話で返事が来た懐かしいあの頃に、SNSなしで生きられないほどネット社会に同化した自分の姿を誰が想像しただろう。同様に「士業」「経営者」「医師」「教師」「役人」etcがチャットGPT搭載のロボットになっていくが、その環境にいずれ我々は慣れっこになり、何とも思わなくなるだろう。人間は環境適応し進化するからだが、人の頭の進化速度よりAIの演算速度の上昇は速いので大衆の目にはAIは万能に見えてきて、拝む信者が増え、人でなくAIこそが安心安全という時代が来るだろう。

ビル・ゲイツやイーロン・マスクの見ている世界はそんな感じだろうか(もっと向こうだろうが)。世界は国籍人種宗教を問わず資本家とそれ以外に二分され事実上一国になるが、戦争需要を生むため上層部が通じ合った見せかけの三国体制でもいい(オーウェル「1984年」がそう)。これを陰謀論と言う人は百万分の一秒で株が買える現場をトレーディングルームでお見せしても陰謀だと言う人で、AIはおろか人類の平均進化速度にすら後れを取り、宗教、アミニズム、自然回帰に向かうか、あるいは暴力、戦争に向かうだろう。私見では日本人は前者に親和性のある民族であり、個々人としてそれはそれで幸せな人生かもしれないが、事は他国でも起きることであり後者に向かう国も出よう。陰謀論者が低学歴とは思わない、むしろ高学歴で頭の固い人が多い。つまりもと受験秀才であり、その価値はこういうプロセスを経て暴落するのである。先の稿に書いたが、これからはオン・デマンド型の人しか出世しない。学んだことがすべからくAIの得意分野と競合する受験秀才は、論理的に、最も demand のないタイプの人になるだろう。

国家の存立はいかがなものか。国会議員、官僚にこの現象の危うさを科学的に理解して対策を講じられる人が何人いるか。文系ばかりでほとんどいないだろう。すると、事が起きてから騒ぎだすのが日本の得意技だが、いまさらデジタル庁なんか作ってる異次元の辺境国だ(同庁は何をやるんだろうと思いきやマイナンバーカードだ。絶句するしかない)。こんな役所に手に負えるはずがなく、そこで放っておけば、東京五輪の現場のごとく役人は何もできないから電通さんに丸投げみたいな悲劇的なことになる。しかしどこに丸投げするんだろう?「AI省をつくれ」となるしかない。すると大臣はチャットGPTさまが適任ではないか。しかし待てよ、彼は何党員なんだ?そこで自公と野党の間で、国会の貴重な時間を使って壮絶な田舎のプロレス対決が繰り広げられ、「チャット君と呼ぶわ?」の歌とダンスが気に入られたAKB48党に決まる(AIは感情もある)。彼は一秒間に百万回の計算をして日本国のAI政策の最適解を導き出し、見事に国を救う。そして、20××年、世界初のAI総理大臣に任命されるのである。

自民党に漂う「オワコン感」の真因を解く

 

 

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ポジショントークやる奴は例外なくクズ

2023 MAR 14 2:02:35 am by 東 賢太郎

ポジショントークなんて英語はない。こういう和製英語を誰が発明するかは知らない。馬鹿がシミュレーションをシュミレーションと英語できます顔で言ってるのと変わらないレベルだが、要はそれが横行しているから名前が付くのだ。ポジショントークは自分が利益を得る我田引水の主張を気づかれないようにそれとなくすることで、誰が見てもその売り子ですよという者が堂々とやるセールストーク(これも和製っぽい。米語はpitchだ)とは異なる。

要するに、象徴的にいうなら、自分が持ってる株を「上がりますよ」と言って皆に買わせて株価を吊り上げようとする行為のことであり、そういう魂胆があるなら「それとなく」だろうが「堂々と」だろうが品性を問われることに変わりない。資産(持ち高)を “position” と呼ぶのは金融業界の用語であることから、和製英語「ポジショントーク」の発生源には我が業界が関与していた可能性は否定できないように思う(ちなみにこの業界はグローバルを気取る者の巣窟だが、英語がまともにできる者はほとんどいない)。しかし品性の是非はともかく、金融業界はおカネを商品とするそういう業界なのであり、嫌なら入るなというものだ。日本だけでない、この業界は世界的にそうであり、そこの住人である僕はその是非を論じる気はない(それこそポジショントークである)。

そうではなく、問題と思うことは、金融業界の住人ではない人たち、つまり社会的地位はあってもこの一点において僕の目には一般人、シロウトにすぎない人達が国会やテレビなどの公の場でポジショントークをしゃあしゃあと展開する風潮の世の中になってしまったことなのだ。立ち位置(例えば「私はこの会社の社員です」「その株を持ってます」)を明確にお断りしておいてからその会社をほめるならそれはセールストークであって許容される。さらにいうなら、自分で自分をほめる行為だって宣伝、広告、PR、マーケティングであって何の問題もない。しかし自分のポジションを隠しながら巧妙にそれをやろうとする魂胆(悪だくみ)があるのがポジショントークであって、一歩間違えば詐欺と変わらない。そういう輩が増えたことと、電話で老人を騙す詐欺師が増えたことは同根の社会現象と僕は考えている。理由は簡単だ。どちらも表向きはどうあれカネ目あてなのである。とすれば、金融界というカネを商品として扱って稼ぐそのプロの世界で100年かけて磨きぬかれた手法が世にはびこるのは道理があることだ。

しかし、カネが商品でない業界がそれを真似ることに僕は一抹の危惧を覚えざるを得ない。学生だった頃、「レコード芸術」誌の音楽評論を熟読しながら「推薦盤」の裏にコネの癒着はないか疑った。ひねた学生だったのは、受験勉強をしながら問題を作る側の心理を見抜く癖がついていて、評論家にそれを当てはめて文章を読んだからだ。個々の推薦に癒着はなくても、商品としてのレコードを論じる雑誌はレコード業界全体の羽振りが良いことこそ自誌の寄って立つ好適な「ポジション」であり、どれであれレコードは売れて欲しい、つまり “推薦盤” としたいバイアスが雑誌社にはあるはずだ。するとその会社にカネをもらって雇われる評論家にも「 “無印” はあっても “買うな” はない」(どのレコードも基本的に良いものだ)というバイアスがかかり得る。その意味で、癒着とまではいわないが共生しているわけだ。

演奏家のえこひいきぐらいは人間のサガで許せるが、カネ目あてになってよい業界といけない業界は厳然と線引きがある。いや、まともな国家であるならばなくてはならないのである。雑誌は所詮そういう性質のものだから前者で結構だが、芸術は後者である。アートの評価がカネで買えるなら文化は崩壊するからである。ましておや、国の会議、公共の電波を使うテレビ等でポジショントークをたれ流すとなると、その者は公共財を流用して世論を私利のため操作して我田引水を目論んでいるわけだから、それに成功しようがしまいが、その行為だけで国家が厳罰に処すべきなのは当然のことだ。その者をメンバーに指名した者、雇って出演させているテレビ局は、その者の魂胆(悪だくみ、疑似的詐欺)をシェアしていることにおいて同罪の共犯者であり、公共財を使用させる資格要件を本質的に欠く者であるという世論の審判を下さなくてはならない。

法人業務が大きな収入源である証券会社が書くアナリスト・レポートの「売り」推奨比率が圧倒的に少ないのも同じことだ。株式を推奨される法人が顧客でもあるからだ。僕は証券会社に入ってみて、左様なことがあまりに日常的に当然のように堂々と業務としてまかり通っているのにけっこう驚いた。これが社会というものか、世の中とはそういうものなのかと。しかし当時はまだ健全な世の中であったと感慨すら禁じ得ないが、それは社会でも世の中でもなく、株を売買してもらわないと収益があがらない「証券会社というポジション」の中だけのことだった。つまり売買手数料で儲けるというビジネス・ポジションを張っていれば、売りだ買いだと情報が飛び交う環境を作ることで注文が増えて得になり、それが法人業務の基盤にもなる。レコード業界の売上が多くないと売れない音楽評論誌と同じ理屈なのだ。だからそれはポジショントークになり得るが、証券会社は自己の立ち位置を公然と明かして堂々とやっており、社内では適切な用語で「セールストーク」と呼んでいたのである。

初めは抵抗があったがその理屈と業界のなりわいには一理あった。当時の東証一部の日々の出来高は3億株ほどで、それだけの売買量があるから企業は銀行借入れより低コストの資金調達を株式市場からすることができ、日本経済は1980年代に世界を驚かす未曾有の急成長を遂げることができたことは誰も否定できない事実である。もし最大手の野村證券が売買情報提供のサービスを止めれば出来高は5千万株もなかろう、それでは大企業の資金調達は無理だろうなと社内でリアルに体感していたのをはっきりと思い出す。だから大河の中の一滴に過ぎなくとも参加はしなくてはと、自分が良いと思う株を買ってもらうためにセールストークを磨こう、どうしたら投資を知らないお客様に心から理解、納得して買っていただけるだろうと日々研鑽を積んだ。

だから僕はポジショントークをやろうと思えば苦も無くできる。プレゼンというのは何か商品やコンセプトを買ってもらう目的でやるポジショントーク全開の場であって、それは息をするぐらい自然にできるプロとして長年この業界を渡ってきたし、何より海外で食うか食われるかの交渉をする場で野村の利益を守る最強の武器としてもワークした。しかしその技術は自社の利益や自分のボーナスに直結するものの、基本的には資本市場が健全に働く公益のために使用していると少なくとも自負してきたし、しなくても常にそうすべきものなのであって、私利私欲だけの目的で使えば下賤になりかねないという倫理観を伴うべきもの、空手やボクシングの選手が喧嘩に技を使ってはいけないような性質のものだと思っている。

僕が証券会社を辞めるに至ったのは、自分も、どんなに偉そうなことを言おうと所詮はさもしい金融業界の人間のひとりと悟ったからだ。「公益のため」のはずが「会社のため」「自分のため」にだんだんグレードダウンしてしまうのはどうしようもなく、放っておけば自分の中で正当化できてしまい、生きるためなのだとそのノリを超えている自分に気がつかなくなっていると危惧したことが大きい。つまり、「自分が良いと思う株をお客様に買ってもらう」といいながら、理由はともあれ、アドバイスするだけで自分は買わない証券マンという職業は倫理に欠けると思うようになってしまったからだ。だからソナーはアドバイザーと名乗りながらもまず自分が投資家であり、自分が買うものだけをお客様にすすめて同じリスクを取る。それを明かすのが自分が取るべき「ポジション」だと考えて起業した。ちなみにブログを実名、履歴を明かして書くことにしたのも同じ考えからである。

ところが僕の行動とほぼ軌を一にして、真逆の現象が世の中の目につくところにはびこりだした。私利私欲だけのポジショントークを弄する者がそこかしこに跋扈(ばっこ)しだしたのである。1億総証券マン時代かと目を見張るばかりだ。それも、どこで覚えてきたのか、笑ってしまう稚拙なレベルで堂々と国会やテレビのコメントや討論番組でその下衆な魂胆が開陳され、本人は自分が張っているポジションへ巧妙に利益誘導したつもりが恥ずかしい馬脚だけが現れ、醜態をさらして自ら株を下げているというたぐいのものが多いのである。それでいて本人はどうだ賢いだろう、議員や知識人として賢く見えてるだろうと得意がっている風情があって、まさに英語のつもりでシュミレーションを連発してる馬鹿に等しいことを知らない。

断言するが、私利私欲のためだけにポジショントークをやる奴はウソつきであり、例外なく人間のクズである。これは古今東西、まともな人が他人を評価する恒久的鉄則なのである。自分のポジションを相手に悟られると計略がバレるからそれを隠しながらトークをやるわけだが、それがみっともないことだと気づく品性どころか見抜かれてるかもしれないと警戒、自省する知性すらない。こういう者が選挙で圧勝したりテレビでお茶の間の人気者だったりし、わーわーうるさいだけで何言ってるかわからない不思議ちゃんが不思議ちゃんにウケてるこの国の民主主義は大丈夫だろうかと有権者が考えないのも実に不思議である。連中をはびこらせているのは国民なのだ。国民の20%も投票してない政党が万年与党であり、それはおかしい、打破するぞと勇ましく言うのが仕事であり万年ポジショントークである野党はビジネス左翼の利権を守るだけ。異次元の不思議な国だ。

自民党に漂う「オワコン感」の真因を解く

小池都知事の英語力を判定する

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音楽と量子力学

2023 MAR 3 23:23:56 pm by 東 賢太郎

ホーキング博士は宇宙が仮想現実である可能性は50%あると言い、イーロン・マスクは我々の見ている現実がリアル世界で生み出されたとするとその確率は10億分の1と言っている。

父親のSPレコードを針が擦ると音楽が鳴るのは「溝に小さな人が入っていて演奏しているにちがいない」と思っていた。あながち赤子の思いこみと笑えないのは、量子力学の「ゼロポイントフィールド仮説」は全宇宙の生成から終末までのすべての情報がcodeで書かれているとするからだ。レコードには音楽が入っている(封じ込められている)が、そうと知らない人が音溝を目で見ても、顕微鏡で覗いても、それは俄かにはわからないだろう。針がひっかいている部分が「現在」である。SPは裏表で30分ぐらいの音楽が鳴るが、これが我々の見ている宇宙であり、ここまでの演奏時間は137億年だ。情報はゼロポイントフィールドにホログラムで書きこまれ立体画像(三次元)で現れる。全宇宙だからこれを読むあなたの全情報、つまり姓名からどんな一生を送るかもいつ死ぬかまで全部書いてある。

古代インドの超人がこれを「アガスティアの葉」に喩えたと考えてそう不穏当でないかもしれない。あらゆる宗教は超人が見たものを凡人にわかる言語と喩え話で書いていると僕は思うからだ。アガスティア・・は大きな葉っぱに宇宙のすべての過去、未来がコードで書かれていると説いており、それをアカシックレコードともいう。先日、ある方からそれを実際に試した話を聞いた。ネットでインドのサイトにアクセスして被験者になったのだ。半日かけてYes/Noの英語の質問に答えるがそこに彼の個人情報を特定できるものはないという。数日待って回答を得た。度肝を抜かれたのは、彼のデータが正しいばかりか両親の名前まで(日本語話者でないので似た発音で)明かされていたことだったそうだ。

厖大なデータがcodeに凝縮されてどこかにあり、時々刻々と針がひっかいてその三次元画像が全宇宙に投影され、それを我々は観測している。レコード盤に演奏者が入ってないように、宇宙も虚像なのかもしれない。これを超人であるプラトンは「洞窟の影」といったのではないか。そういえば、僕は幼児のころから「星は本当にあるのか」と真面目に疑っていて、現在でもないかもしれないと思っている。「オリオン座のベテルギウスは550光年離れているから今はもう消えてなくなっているかもしれない」なんてのがどうも嘘くさい。量子力学では分子も電子も波+粒の性質をもち、観測された瞬間に粒になる。「観測」とは人間が知覚することだが、「僕が見た」という情報があっちに届くのは550年さきではないか、なのになぜ今リアルタイムで見えてるんだ?

いやそうではない、「量子は複数の場所に同時に存在して何光年離れても同時にふるまう」とされている。よくわからない。

このことについては「二重スリット実験」に答えがあるように思う。https://www.yamanashibank.co.jp/fuji_note/culture/double_slit.html

量子は見た瞬間に粒に変わるので僕は観測できている。ベテルギウスが見えるということはこのことが550年×2=1100年かけずに起ていることを示すので「量子は複数の場所に同時に存在する」という結論が導き出されるのだろう。しかしそれは、そう見えているだけではないか。実はアガスティアの葉っぱに「僕がベテルギウスを何年何月何日何時何分何秒に見る」と書いてあり、あっちの量子が550光年の距離を勘案して “シンクロ” するようあらかじめ書いてあってもその現象は成り立つ。「宇宙のすべての過去、未来がコードで書かれている」とはそういうことを意味している。大学の研究室で二重スリット実験が行なわれ、観測と検証のいたちごっこが行われることも書いてある。そんな馬鹿げたことを誰がするんだと思うのだがゼロポイントフィールドのゼロ点エネルギー(zero point energy, ZPE)は人間が決めたものではない。人智で馬鹿げたと判断することが馬鹿げているのである。

観測されないと万物は波の性質があり、二重スリット実験はその状態を観測できないことを示している。ということは、見てない時は「ベテルギウスはない」ということだ。とすると太陽もない。「そんな馬鹿な、恒星は一番近いのでも光速で4.3年かかるが太陽ならスペースシャトルで200日で行けるから、なんだったら行って確かめることもできる」、「現に我々は地球から丸い太陽を目視しているではないか」と思われようが、それは見ている時だけで、見ていなくても6000度の熱を放つ光源であることは間違いなさそうだが、行っても触れるわけではなく、あるように見えているが存在の確かめようがない。太陽は我々が思っている球体の恒星ではなく、ディスプレイの画像かもしれない。

そう。「光速で行っても・・・」というのが常に我々の実感を麻痺させるのだ。光速移動は膨大な加速を生むエネルギーが必要で、それが発する熱に人間は耐えられない。つまりアインシュタインが光速を超える移動はできないと指摘する以前にそもそも不可能なのだ。月か火星なら低速でも行けるだろうが、ロケットに乗って「行った」と思っても、それは我々が「地球」と思ってる張りぼてとは別の張りぼてに立ったにすぎない。すなわち、我々は、人体が安全に移動できる低速で、寿命が尽きる以前に到達できる範囲内しか行けない。つまり、その範囲を示す目には見えない球体である「臨界面」に包囲されていることになる。これは水槽に入っている金魚とおんなじだ。金魚にはきっと水槽のガラスは見えてないだろう、なぜなら、まさか自分がそんな物の中で飼われているなどと考えてもいないからだ。

では臨界面を生んでいる光速(c)というのは何なんだろう?物理の授業で先生に質問してみたらいい。僕はその存在自体がとても変なものだと思っている。

E = mc²

は「エネルギーは質量に光速×光速をかけたものだ」と言ってる。質量がエネルギーに変わるのは核融合反応でイメージできるが、そこに「速度」が出てきて掛け算する理由がまったくわからない。この定数は何だろう?ゼロポイントフィールド仮説によると、1立方メートルの真空に地球の海ぜんぶを瞬間に沸騰させるエネルギーが詰まっている。ならばこう考えられる。金魚の飼い主が適当にぎゅっと詰め込んでみて、計算して出てきた定数項の平方根を開いてみた。その数値を宇宙を作動させるOS(基本ソフトウェア)の作動限界値に設定して組立てたパソコンが我々に見える虚像を映し出している。このことをあばき出したのがこの式ではないかと思うのだ。「宇宙投影パソコンの処理速度に限界がある」ことを、金魚鉢の中では「光速を超えて移動できない」と言ってるのだ。

では金魚を飼っているのは誰だろう?そこで、「宇宙人に違いない。人類はまだ遭遇はしてないが、彼らは太古の昔から地球に来ている。現在だってUFOに乗って来ているしNASAはその死体を隠しているのではないか」という話になる。たしかに米国政府はUFO研究をしているようだし、映画「コンタクト」に描かれた電波発信によるSETI(地球外知的生命体の探索)を行っていることは事実だ。僕は地球外知的生命体(宇宙人)肯定派だ。肯定する確率的根拠として著名なのがドレイクの方程式だが、しかし、これを導いた根拠は間違っている。なぜか。彼は同じ金魚鉢の中に別の魚がいる確率を計算している。それはそれで正しいとするなら部分的正解にすぎない。別の鉢は想定しておらず、金魚を飼っている熱帯魚ショップの店主は計算に入ってないからである。

僕が「肯定派だ」と書いたのはこの “店主” の存在についてであり、このことを宗教と分離するのは困難だ。アインシュタイン、ボーア、湯川秀樹ら科学者が物理学と仏教の親和性、補完性を説いたとされるが、自分がここでそれと同質のことを言っているとは思わない。「超人としての宗教家たち」がどこかで見てしまったもの、それが『造物主』(the Creator)の存在であり、その超人(人かどうかは置く)がモーゼに十戒を授けたヤハウェであっても、預言者ムハンマドであっても、神の子イエスであっても、「目覚めた人」ブッダ(釈迦)であっても、何ら差異なく金魚の飼い主または熱帯魚ショップの店主(またはそれを見た者)という比喩で括ってしまう数学的置換を信仰心の希薄さという罪に問われないという範囲において、本稿に述べていることを「宗教と分離するのは困難」なのである。「お前は宗教的人間か」と問われれば、正月に初詣に行って新年の良きことを祈ってお神籤を引き、冠婚葬祭を仏式で執り行うほどにはそうであるが、『造物主』の存在を信じることにおいては、何の儀式も執り行わないものの「非常に宗教的である」という回答になるだろう。

イーロン・マスクの言うように我々の宇宙は10億回トライして1個しかできないぐらいレア物であるなら「そう綿密に設計されて1回のトライでできた」か「最大(10億-1)個の失敗作(似た宇宙)」があって、我々の宇宙は我々専用の金魚鉢で他の魚はいない意図で作られている可能性もある。水はあるわ酸素はあるはエサは出るは侵略者はいないわ、こんな良い世界がひとつ存在するというなら他にも一定の確率をもって存在するはずであり、そこには別種の魚がいるだろう。ドレイク博士はそう考えたが、これが熱帯魚店の片隅に置かれた一個の水槽にすぎないならば、その辺はショップの店主が決めることになる。2種を同じ水槽に入れるとどっちかが食われるなら商売にならないから鉢を分けるだろう。その場合、「我々の宇宙には宇宙人はいない」という、ドレイクの方程式からは出てこない結論が導かれるのである。

観測されないと万物は波の性質があり、二重スリット実験はその状態を観測できないことを示している。この事実は誠に含蓄が深い。我々は「色」と「音」という波を知覚しているからだ。ここでいう波は万物を組成する量子の振動としての波と同一ではないが一定の振幅をもって反復する光子、大気の分子の運動であって、電磁波、音波と表される。光子は光を粒子としてみたとき量子であるが、音波は原子や分子の動きによってエネルギーを伝達する波だ。分子は電子・中性子・陽子という量子より大きいから音波は別物と考える。

音波は音楽という芸術を構成する基本素材となる。伝達物質は大気だけではなく液体や固体もあり、耳の可聴域は20Hz~20kHzだが耳以外で域外も感知している。音楽は五感のうち視覚、触覚、味覚、嗅覚を使わず聴覚だけに訴える芸術だが、けっして聴覚のみではなく、いわば「振動覚」とでもいうべき反復運動(波)への感覚が色濃く関係している。ベートーベンの第7交響曲を聴いた多くの人は感動と共に興奮を覚えるのではなかろうか。この曲の持つ律動の特徴を捉えてワーグナーは “舞踏の聖化” と表現したが、その律動(反復運動)こそ波(振動)であり、それを感じ取る「振動覚」を通じて覚醒、興奮(多分に性的なもの)を呼び起こす。つまり、波である音楽という芸術は人間の生命の源と深く関わっている。

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「陰謀論だ!」という陰謀論について

2023 FEB 26 22:22:35 pm by 東 賢太郎

陰謀論というのは陰謀のことではない。何らかの事件が発生し、「その裏には陰謀があったに違いない」と疑義を唱える企み、行為のことをいう。

そこで、陰謀を練った方を「陰謀側」、「陰謀があったに違いない」と疑義を唱える方を「懐疑側」、どちらでもない者を「中立者」と呼ぶことにする。

「陰謀側」は世論操作によって多数派を占め、少数派の「懐疑側」を貶め、侮蔑する含みを持って否定するのが一般的だ。

ところが、「懐疑側」が挙げる証拠に信憑性のある場合は、だんだん多数派の数が減っていき、やがて、「陰謀論だ」と批判する「陰謀側」の行為の方がむしろ陰謀論に見えてきてしまうという逆転現象がおこることがある。

特に、「懐疑側」の証拠の信憑性が科学的である場合、反論を試みれば試みるほど「中立者」に非科学的な印象を与えて不利である。よって「陰謀側」はあらゆる手段で懐疑を無視し、封じ込め、脅し、抹殺することに全力を傾注する。

ところが、それが全力であればあるほど陰謀の露呈を恐れていると「中立者」には見え、陰謀の存在がより強く推察されてしまう。このジレンマを避けるため「陰謀側」は行為後にすみやかに科学的証拠を隠滅することに全力を尽くす

万一、証拠が残ってしまった場合は、論争の途中で意表をついて、自らの陣営が「懐疑側」に組して見せることで、「中立者」の目に、あたかも別の「陰謀側」がいたかのようにふるまう “分身の術” を弄することがある

分身を演じる者がうまく立ち回って「中立者」の支持を得た場合、そちらに合一してしまうことで「フェイクの懐疑側」となり、「陰謀側」に疑義を呈して裁くふりをすることで虚偽の真犯人をでっちあげることができるからである。

分身を演じる者は必ず「陰謀側」の一味であるから陰謀の全貌を絶対に明かすことはない。単なる「おとり」であり、「中立者」をミスリードする「レッドへリング」にすぎない。従って、支持はせずに無視しておけばやがて自ら消える

分身の演技に疑義が持たれる危険性がある場合、「陰謀側」は「第三者委員会」という名称の分身を組成して演技を続行する。第三者性の不在証明は致命傷になるため徹底管理される。この場合は「中立者」の眼力が問われる。

科学に疎い「中立者」が大多数である場合、宗教、憎悪、憐憫など情緒的根拠を針小棒大に報道することで科学的論理性を糊塗する戦略は有効である。論理は経年劣化しないが情緒はするので、「なかったことに」で封印できるからだ。

 

自民党に漂う「オワコン感」の真因を解く

 

 

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東京芸大の練習室ピアノ撤去

2023 FEB 20 12:12:22 pm by 東 賢太郎

これを知ってどう反応するか。国の財政緊縮の一環と思うか、文科省の都合と思うか、保有台数に無駄があったと思うか、学生に同情するか、芸術の未来を心配するか。僕はどれでもない。報道によると芸大は「大学全体としての経費削減」「台数は十分確保されている」としている。2部屋のピアノを撤去して減る経費など微々たるもので、大学の予算削減策への抗議かもしれないと推察するが、それ自体は大した問題でもなかろう。問題はもっと大きなものだ、それを述べる。

国立大の授業料は年額53万5800円(標準額)だ。僕の代は3万6000円で、S51年入学者から9万6000円になり、10年後は7倍になり、いまは15倍だ。それでも私立よりは4割安い。学生には結構だが教職員は困る。東京芸大教授の最高年収(たぶん学長)はネットで見る限り1,359万円、東大総長は2,396万円だ。公務員とはいえ実業界なら課長、部長ぐらいの年収であり、役職の重さからしてこれはないだろう、名誉はあっても本当にそれで満足なのという気がどうしてもしてしまう。

ちなみに、大学院ではあるが、ペンシルベニア大学ウォートン・スクールの年間授業料は1,100万円ぐらいで日本の15~20倍だから教授も当然それなりの人がそれなりにもらっている。芸大や東大の先生も人間だ。カネだけではないというきれいごとで自分も世間も納得という時代は昭和でとっくに終わっている。高給も名誉も得られるそのポストを熾烈に争うウォートンの先生達の講義の質・量・熱は異次元の凄さであり、あれを体験してしまうと、年収20万ドルでやってくれといって応じる先生は世界にひとりもいないと確信できる。だから生徒も全米トップクラスが集まる。あまりにわかりやすい世界なのである。先生がそうなれば日本の大学にも優秀な留学生は集まるし、世界ランキングも勝手に上がるだろう。

国立大学法人も広義の独立行政法人だから自力で稼げ、運営費交付金は減らす。というなら芸大が国立であることはハンディである。なぜなら日本の公務員の給料で集まる先生しか雇えないし、当然優秀な方ばかりであるはずだがその限りのモチベーションでいいというカルチャーになってしまうだろう。その条件でウォートンと競うビジネススクールを日本に作るなどといえばジョークのネタだ。校名のブランドがあるだろうといって、芸大も東大も海外ではブランドでも何でもない。井の中の蛙である役人と大多数の国民がそう思っているだけであり、それが世界大学ランキングの順位なのだが、あれは英米だけの評価だと主張する人に評価されるなら無理難題だ。だから学長は経営者でなくまとめ役になり、とすれば1,359万円だろうという役所的な整合性が取れてくるという寸法なのである。

たとえば日本同様にクラシックの本場でないアメリカのカーチス音楽院はバーンスタイン、チェリビダッケがふらっと来て学生オケを指揮してくれる。そういう環境があるからユジャ・ワン、ランランみたいな留学生が来て世界で活躍し、母校のブランド価値を高めてくれる。アメリカができるのだからその環境が日本にあっても全く不思議でないが、給料安いけどゲーダイですよでは世界トップの人達は動かないし生徒も世につれてだんだんそうなる。現に先のショパンコンクールで2位、4位の歴史的快挙を成し遂げた反田恭平、小林愛実は二人とも桐朋出身だ。現実を直視せずにお役所仕事につじつまを合わせざるを得ないなら、授業料に上限がありファイナンス面の足かせもある芸大の経営は誰がやっても難しいだろう。

僕は昔に入りたいと思った芸大には思いがある。だから期待している。日本トップクラスの才能である学生たちに世界に雄飛して欲しいという気持も強く持っている。練習室のピアノ2、3台ぐらいは「ショパンコンクール優勝します」プロジェクトでも立ちあげてクラウドで投資してもらえばどうにでもなる話だ。そのぐらいのコミットメントとモチベーションをもってやれば、音楽に限らず何をやっても世の中は若者を応援してくれると信じている。

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無力で堕ちていくだけの日本は見たくない

2023 FEB 19 11:11:40 am by 東 賢太郎

地球の人口は80億に接近中だ。我々までの4世代で50億増えたが、過去5千年間に1万4500回の戦争で35億人が死んでいる。世界には核弾頭が19000個以上あり、核戦争をすれば人類が20回滅亡してまだ余る。確実なのは、9億年後に地球の温度は摂氏100度になり人口はゼロになることだ。そこで人類は消える。何もしなければだが。

火星表面(水の痕跡か)

何かできるのだろうか。オランダの会社が火星移住の希望者を募集した。火星から地球に戻ることは現在の技術および資金的に不可能だが20万人いた。NASAは火星に1トンある無人探査車を着陸させるプロジェクトに3000億円かけた。人類が消えないためだが、探査車の名称はいみじくも「キュリオシティ」(好奇心)だ。新大陸の次は火星かと思うと、西洋人の生きることへの執念を感じる。

1960年代は米ソの宇宙開発競争の時代だった。有人月面調査の「アポロ計画」は1961年から1972年にかけて実施され、1968年に『2001年宇宙の旅』を米国のスタンリー・キューブリック監督が、1972年には『惑星ソラリス』をソ連のアンドレイ・タルコフスキー監督が発表した。日本で流行っていたのは『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』である。リスクをかえりみず冒険する者が世界にはいる。9億年後はともかく冷戦の対立で核を撃ち込まれることだけは米ソともに恐れ、それが動機となった宇宙開発競争で科学技術は大きく進化した。ロケットに核弾頭を積めば敵を殲滅できるという示威活動であり、いまそれを北の国が盛んにやっている。気球も武器だ。18キロ上空になると沸点は36.5度と、撃ち落とすにもパイロットは命の危険にさらされる国防問題だ。

2月17日、JAXAのH3ロケットが上がらなかった。「失敗」かどうかで騒いでいるがそんなことはどうでもいい、これが知能が劣る日本のマスコミだ。翌日、ザマを見せつけるように北の国はICBM級のミサイル1発を日本の排他的経済水域(EEZ)内の日本海に撃ち込んだ。平壌国際空港から発射され最大高度5768・5キロまで上昇し、989キロを1時間6分55秒間飛行し、北海道の西わずか200キロの日本海の公海上の目標水域を正確に打撃した。なんでこの技術格差を騒がないんだこいつら、馬鹿としか言いようもない。何度も書いてきたが、日本は理系大学、学部に国家予算をつぎ込むべきだ。ただでさえ高等教育補助金は先進国でドベから2番目なのだ、どうでもいい文系は削って理系学生を増やさないと国が滅ぶ。観光立国?ジョークやめてくれ。数学もやってないド文系のアホな議員や記者ばかりになるからそんなことがまかり通るのである。

政府の仕事は国防と外交だ。地方自治体にないのはそれだけだ。外交はいまだサンフランシスコ講和条約前と変わらん位置づけなのだという事実を再認識させるばかりのていたらくでおぞましいにもほどがある。国防は自国に最先端科学技術の分厚いベースあってのことだから末恐ろしい事態であって、とても零戦を作った国の話とは信じ難い。戦争ができない国になるとここまで墜ちてしまうのか。明治の元勲たちは若かったがリスクに鋭敏で、阿片戦争を知り日本もああなると踏んだ。英国、ドイツに出向いていって法律と科学技術と軍事を学び、10年で100年の遅れを取り戻して近代国家になった。頭脳も行動力もあったが、危機感こそが動力だった。

今はそのぐらいの危機である。日本の国会議員は713人もいるが、この人たちはいったい何をやってるんだろう。2年前に僕は東京五輪に大反対のブログを書いたが、案の定、ふたを開けてみれば贈収賄、税金の中抜き、無責任のオンパレードだったことが白日の下にさらされた。国が大事なら科学技術、理系学生につぎ込むべき税金をこんなくだらないものに使い、開催地なのに何ら見られもしなかった東京都民は税金をふんだくられただけだ。何の情報もない僕にすら臭いにおいがプンプンしていたのに国会議員は何もしなかった。いま、国の未来を左右する危機のニオイがプンプンだが、また何もしないのか。ならガーシー議員と何が違うんだ、出てくりゃいいってもんじゃないし参議院はいらないだろう、議員は歳費をドブに捨てるだけだから定員を半分にしてくれ。

自民党の補選3敗に思う

自民党に漂う「オワコン感」の真因を解く

 

 

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