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僕のクラシックのブログについて(訪問者25万に思う)

2014 DEC 21 7:07:37 am by 東 賢太郎

Sさんによると僕の音楽のブログは「コメントが来ないでしょ、だってあれは素人には無理ですよ」ということらしい。要は楽譜が出てきて転調がどうだなどマニアックすぎる。でもこっちだって素人なんだからそんな難しいことを言っているつもりはないし、それでは寂しいし困る。ちなみにSさんはブラームス全作品をスマホに入れている人だ。言われると無言の説得力がある。

まえに書いたがクラシックマニア(あえてご指摘どおりマニアといおう)は鉄ちゃんや天文マニアの世界と似ている。彼らは電鉄会社の社員でないし、天文学者でも天文台職員でもないマニアックなアマチュアということだが、僕らも作曲や演奏で報酬を得るわけではないから同じだ。

ただ、ひとつ重要なちがいがある。鉄ちゃんや天文マニアがいなくても電鉄会社や天文学界は困らないが、クラシック音楽界は僕ら聴衆なしには成り立たないことだ。いや音楽史を見れば聴衆は作曲家、演奏家と同等にトライアングルを形成する構成要素であることがわかる。音楽産業からすれば我々は顧客でもある。

クラシックというのは値段が高いのとお高くとまっていて近寄りがたいから損しているフランス料理に似ている。イタリアンは適度にポップ化してイタめしとはいうが、フラめしはあまりきかない。イタめしはもはや日本食である「スパゲティ・ナポリタン」まであって単価は高くない。しかしフレンチはあまりポップに近寄りすぎないからこそ権威というバリューをまとって得している部分が大いにある。

日本のイタリア料理店は約4,000店に対してフランス料理店は約8,000店と2倍もある。人口10万当たりの件数で見ると1位の東京はともかく2位以下は静岡、栃木、石川、長野、山梨と意外な県が並ぶ(出典:都道府県別統計とランキングで見る県民性)。格好つけない大阪が40位というのも象徴的だ。特定の根強いファンがいれば少々お値段が張っても客はいて生きていかれる。

クラシック演奏家の自助努力というと、どうやって身近な「フラめし」化しようかということになりがちだ。ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂の日」音楽祭 みたいに。それは若者を将来の聴衆(顧客)にするには有力な戦略だが、しかしコストがかかるフレンチがあまりポップ化して単価を落しては食っていけないという経済的側面もある。

クラシックも高い授業料を払って時間もかけて音大を出て欧州留学もして高い楽器を買ってと、ギター一丁でできるポップスに値段で対抗するには限界があるから「フラめし」戦略は自分で首を絞めることになりかねない。だからバリューを維持するには権威の維持への努力もいるのである。

それはワインを見ればわかる。製造はフランス人、イタリア人、スペイン人でも、彼らの作ったワインに値段をつけて国際的に売買するワイン・マーチャントは自分ではワインなんか作っていない英国人なのだ。彼らは世界言語である英語を駆使してバリュエーション(箔付け)を行い、特定の銘柄のバリューを維持しながら自分たちが儲けている。

そして音楽界も今やそういうことをネットの集合知が担う時代になってきている。聴衆が彼はいい、彼女はひどいと書けばたちまちそれは世界に伝播してしまう。僕が書いた世界的若手ヴァイオリニスト、ユリア・フィッシャー(Julia Fischer)のブログは、英語でも日本語でも彼女の名前を検索するとグーグル掲載位置の最上位をずっとwikipediaと争っている。

高額ワインを飲む人の多くはストーリーに金を払っているという話がある。大事な席で知った顔してカノジョに飲ませるのに安ワインじゃまずい。彼女が味がわかるかどうかは問題でない。1万円ぐらいで「これは実はあのダイアナ妃のお気に入りでね」なんてウンチクでもあれば完璧なのだ。ダイアナがどのぐらいワイン通だったのかという検証を彼女に追求されることは99%ないだろう。ここであなたが払った1万円の原価は5千円とする。諸経費2千円として3千円をあなたは彼女を落とすストーリー代として払っている。

だからストーリーは付加価値を生む。これはクラシック音楽には参考になる要素である。なんで日本のオケが7千円で聴けるのに同じものをウィーン・フィルがやると3万円なの?「そりゃあアナタ、甲府ワインと違うんです、こちとらペトリュスでございますから」ということだ。それはクラシック世界では「音楽の都ウィーン物語」となり、モーツァルトがベートーベンがシューベルトがというストーリーがくっつく。それをウンチクとしてカノジョに話す。こうしてワインと同じ理屈で3万円のチケットがやすやすと売れるのだ。

カノジョだけでなくほとんどの聴衆にとってたった今自分が聞いた音が本当に3万円の価値があるものかどうかということはわからないだろう。価値というのは同じお金で買える他のものと比べるしかないからだ。3万円もするものを日々ほいほいと買えて日常的消費実感を持っている人はほとんどいないのではないか。仮に持っていても、昨日食べた同額のフレンチとどっちがお値打ち?といわれても性質も時間も違うものだし判断は難しいだろう。千円のラーメン30回とどっちとる?きくだけナンセンスだ。

ここで音楽評論家という稼業がでてくる。ワイン・マーチャントでありミシュランみたいなものだ。偉いセンセイが「あなたの行く今日のフレンチは3つ星ですよ」と権威づけしてくれる。それをカノジョに見せておけばあなたの3万円も報われるというものだ。彼らの書くストーリーは新聞、音楽雑誌、本、CD解説などになるが彼らは稼業として書いている。CDを買って解説を読んだら「これは史上最低の凡演である」なんてあってはいけない。ひどいものでも巧みにほめて買った人の自己正当化をお手伝いもする。

だから音楽評論家は音楽産業のセールスマンである。それでも好悪をはっきり書く人は書く。それならフェアだと思う。大木正興氏がそうだった。10年ほど年長で東大仏文卒の吉田秀和氏が比較的柔軟性を感じさせたのにたいし同美学科の彼はより趣味がドグマティックである印象が強い。プレヴィン、ムーティ、レヴァインといった新進のこき下ろしかたは凄まじかったが、だんだん彼の好みがわかると正負の座標軸として自分のテーストを確立するのに非常に役に立った。

彼のように「負の評価」をストレートにしてくれると、それが正しいと思うかどうかはともかく聴き手は耳が肥える。ワインも「これはベスト」とまず頂点を習ってから「これはこういう理由でまずい」とダメな味を教えてくれると判断力が確実につく。あれもこれもいい所がありますね、なんていう先生に習うのはなんのテーストも育てない時間とカネの無駄だ。その意味で僕は吉田秀和よりも大木正興にずっと多くを負い、教わっている。

ネット社会になって稼業としない者が何の発信媒体も持たずに好きなことを無指向的に無限に発信できる時代になった。わがブログは今現在でのべ25万人が読んで下さったが(その7割ほどが音楽ブログ)、僕らは音楽産業のセールスマンではない。「負の評価」が誰にも気兼ねせずできる。僕ぐらいマーラーやグレン・グールドをこきおろす勇気のある評論家は絶対にいないだろう。そんなことをしたら原稿依頼が来なくなるからだ。

それに加えて、大木氏、吉田氏と決定的に違うのは僕は演奏評価に本質的な意味を感じていないことだ。吉田氏のようにホロヴィッツのショパンがどうのとかポリーニがベートーベンを弾くとどうのなんていうことは田園交響曲のどこがどう凄いのかということに比べたらまったく俗世間的な些末なことであり、美空ひばりの歌を石川さゆりが歌ったらどうだったというのとおんなじだ。大御所には大変申し訳ないが、僕にはレコード会社の売り上げサポートか文学趣味としか思えない。

彼らの時代、クラシックは舶来品でいわば高島屋で売っていた高級品のようなものだ。いまやユニクロで買える。演奏記録(レコード、CD)の一回性の価値がネットによって劇的に薄まった。それを名演だどうだと騒いでるうちに次の名演が出てくる。演奏技術だって春の祭典やマーラーの9番を学生オケがやってしまう。フルトヴェングラーの録音は作品そのものと同様に「たくさんのストーリーをもった古典」だ。もう後世の僕らが書き加えて意味のあることなど何もない。

だからこれも何度も主張してきたが、大事なのは音楽作品そのものの価値認識である。聴衆を正しく育てる道はこれ以外にない。悲愴交響曲のすばらしさを知れば、いちいち皮相的な演奏の宣伝なんかしなくとも人は次々と色々な演奏を勝手に聴きたくなる。それがクラシック音楽のクラシックたるゆえんだ。演奏家にしてもCDはタダで配ってコンサートに呼び込むのがネット時代だ。デパートの舶来品販売業者としてのブランドは格安海外旅行の時代になって凋落した。同じことだ。音楽評論家の演奏権威づけブランド価値もyoutube時代になってタダになったのである。

だから僕の音楽ブログは原理原則として大好きな曲を全部書けばそれで自動的に終了だ。それ以上書くことがないしちっとも良いと思わないヴェルディやアイヴズを頑張って書いてみようなんてことはない。一方で、田園交響曲の凄さを十分に書けたかというと心もとない。直近のボロディンの2番など全然舌足らずだ。

これを伝えるには何がいるんだ?音だろう、その部分の。それを仕方がないので楽譜をお示しして代用している。冒頭のSさんのようにそれがマニアックに見えてしまうなら残念だ。音で聴いてもらえば、あるいはバーンスタインみたいにピアノで弾けば、実にあっけらかんと誰でもわかることを書いているのに。

だから最後はやっぱり自分で音にする、そこに帰るしかない。どうしても、クラシックは「する」ものなのだ。シンセサイザーでMIDI録音だ。それをyoutubeにするとか、方法は何になるのかわからない。「火の鳥」のフィナーレ、あの入りのホルンと、あの五感が凍りつくぐらい魅力的なハープとフルートと!!ちくしょう、こんなの言葉じゃむりだ。だから百歩譲って楽譜に語ってもらうことになる。でもシンセで僕が弾いたのを聴いてもらえばそれは伝わるんじゃないか。火の鳥に目覚める人が増えるんじゃないか。もう少し仕事がうまく回って時間ができたら・・・、今の夢ですね。

 

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Categories:______音楽と自分, クラシック音楽

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