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カテゴリー: 自分について

正しい人脈の作り方(その2)

2018 JUL 20 19:19:42 pm by 東 賢太郎

人脈というのは「開かれた人」を取り込むことで威力が倍加することは前回説明した。しかしまだ人を見る目がない若い人にはなかなか難しいことで、やみくもに知りあいを増やすことになりがちだ。僕だって大そうじをすると、もう名前さえ忘れてる人の名刺や年賀状がわんさかあって苦笑する。

秘策を教えよう。80人の「開かれた人」を友達に持っていそうなオトナを友達にすればいいのだ。その人に可愛がられればその人脈とあなたは濃厚な接点ができるのである。これを別名「ヒキ」とか「コネ」という。80人の年賀状だけの交友は楽しめばいいが、年に一度しか思い出さない人が人脈の有力な一部になることは隕石に当たるぐらい稀だ。オトナをどう落とすかに集中することだ。

皆さんにとって相手は我々前後のオヤジというところだ。この世代の生態は知った方がいい。長髪でエレキを弾いたりゲバ棒を振ったりジュリアナでナンパしたりで目いっぱいバブって遊んでおり、会社では24時間戦ったと思い込んでるがその実は社畜に徹して滅私奉公ぶりを競って交際費を正当化していた。公務員にそれはないが、だからこそノーパンしゃぶしゃぶが歴史に名を刻んだのだ。そんな世代なので、高度成長は俺たちが成し遂げたという、それほどいわれのないプライドがバカの壁となって立ちはだかっている。

その世代も当時のオトナに取り入った奴がうまくやっている。相手は戦中派であって、硬派でごりごりの右翼か共産原理主義の左翼かマッカーサー洗脳プログラムの申し子のえせ左翼か風見鶏の無責任野郎かパンパンの男版の軽薄なアメリカかぶれだった。僕は大阪で個人営業を2年半やって1日100 枚の名刺集めをしながら、オトナには色んな人種があると知った。

二度と来るなと塩をまかれた相手、名刺を破られた相手を何十回目かの訪問で落としたし、64回電話して断られた上場企業社長を65回目にお客にしたが、同期の半分以上は2~3年内に脱落して会社を辞めた。ゲーム感覚だったし野球のおかげで真夏の炎天下には強かったが、なにより野村流が大金持ちのオトナに気に入られるベストプラクティス集だったのが大きかった。

開かれたオトナは頼りにはなるが、酸いも甘いも知った手練れである。下手な小細工など弄さないことだ。礼儀正しく、誠意を持って、正々堂々と正直に当たるのが若者の王道である。ちなみに僕はそれができない子は一切相手にしない。何故なら、よほどの天才か傑物でもなければ、僕の世代の成功者には好かれないから大成しないか道を誤る。残り少ない時間である、あえてそういう人に目をかけてやろうというインセンティブは湧くはずもない。

正しい人脈の作り方(その3)

 

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正しい人脈の作り方(その1)

2018 JUL 19 22:22:44 pm by 東 賢太郎

人脈がある人というのは、単に知り合いが多いだけではない。人脈の「脈」とは脳のニューロンのように人と人が次々と有機的に繋がって、ネットワークが網目のように広がっていくことをイメージしたものと理解するのがいい。

繋がるのはまさに、「まずは自分の脳の中」である。「あの人とあの人を会わせて見ようかな」「そこから何か面白いことが起きるかも」という閃き(ひらめき)がまずあって、それを実行すると現実の人脈に魂が入っていくわけだ。

魂が入ってないなら、何百人の友達リストがあろうとただの電話帳にすぎない。そこからあなたが得られる面白いことの数は、あなたが相い方になるから友達の数を超えることはない。10人なら10個までだ。魂を入れるというのは、あなたが関与しなくても面白いことが出てくるようにすることをいう。

そのためには「ひらめき」「実行」というレシピを電話帳にふりかけないといけないが、別に難しいことはない。電話帳が長いのが人脈だという根本的な誤解をまず解けばいいのである。

友達は2人いれば充分だ。その2人はお互いに初対面だが、あなたと繋がっているのだから何かひとつぐらい共通の関心事があるだろう。そこで食事に誘って、これもご縁だし、それ、いっしょにやってみない?と説得するシーンを思い浮かべてほしい。

うまくいった?それでお見合い成功だ。あなたが仲人になって、2人のペアリングが成立したのだ。3人目の友達ができた?はい、そうしたら前の2人とそれぞれ「いっしょにやってみない?」をやってください。これで面白いことは3個になった。3人いて3個じゃないかと思うだろうが4人だと6個になる。5人だと10個になる。10人だと45個だ。

こうして友達の数が増えると、その数は等比級数的に増える。これはみなさんご存知の「組合せ」の数だ。

20人だと190個、40人だと780個、80人だと3,160個である。ということは80人の人脈を持った人同士が仲良くなると12,720個の面白いことができる可能性があり、その160人の全員に80人ずつの友達がいればそれは81,913,600個になるのである。

もちろん全部がビジネスになるわけではないしその必要もない。何事も選択肢やトライできる回数が多い方が有利に決まってるからだ。「80人の友達」から出てくるオポチュニティーが80個の人と81,913,600個の人では、アイデアのネタの数で百万倍も差がある。戦う前から勝負にも何にもならないのである。どうして?「ひらめき」「実行」というレシピがあるかないか、それだけのことである。

あなたは仲人になるのだから、あの人とあの人なら絶対に合う、これに興味があって意気投合できるということを知っている必要がある。いや、知らなくても直感でそうかなとピンとくればいい。女性は概してこういう感覚に長けているが、そうではない男性諸氏にも手はある。2人の気など特に合わなくてもいい、共通の利益さえ見つけられれば実は充分である。ここまでが「ひらめき」であり、すべてはあなたの脳の中で起きることだ。

次に2人をどう説得するか?これは体で表すことだ。それには、あなた自身がそのサブジェクトに興味があって、やる気も成功する自信もあることを示すに限る。これが実行だ。簡単ではあるが、成功率を高めるには経験がいる。絶対の秘策などないから当たって砕けろしかない。「よしっ、やってみよう」と思えるかどうか、ポジティヴなメンタリティを意識して作り上げるのも実行のうちである。

非常に重要なことだが、そうしてお見合いした2人からもらえる新しいアイデアには、あなたが80人の友達とは作れなかったものである可能性があることだ。こうしてビジネスのディメンション、ポテンシャルは自分の発想や能力を超えて拡大する。いま僕が脱サラしてやっていることで、僕一人の脳みそから出たものはひとつもない。

ただし、同じ80人でもいろいろだ。知らない人と会って何か面白いことをやろうという人のほうがはるかに少数派だろう。人間には2種類あってそういう心が「開かれた人」と、そうではない「閉じた人」がいる。原則として、開かれた人は開かれた人に寄って来る。閉じた人は誰にも寄らないか、寄っても何もおきない。だから、さきほど算数が示したように、開かれた人ばかりの80人は閉じた80人の百万倍も破壊力があるのである。若い方、ビジネスで勝利したいなら覚えておいた方がいい。

そういう人を集めたいなら、当然の帰結として、あなた自身が開かれていることだ。それが一番の近道である。

正しい人脈の作り方(その2)

 

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忘れるという美徳

2018 JUL 18 0:00:20 am by 東 賢太郎

ブログにずいぶんとたくさん昔のことを書いてきたが、あかの他人の過去など知りたい人はいないのはわかっている。では何故と思われるかもしれないが、これは備忘録の意味が大いにある。10年程前から、そこから20年あたりをさかのぼった頃のことをけっこう忘れているのに気づいたからだ。

というのも、妻と話していて、フランスのドービルであなたは熱があっただの、サルジニアのホテルでガウンを買っただのときいて、さっぱり覚えてないのである。家にはヨーロッパの置きものや頂きものがそこいらじゅうにあるが、どこで買ったかもらったか、覚えている方が少ないのだから思い出も何もない。

サラリーマンを30余年やって、数えると各所で計1500人ぐらい部下がいたはずであって、それはそれは、実に実に、色んなことがあった。妻には大変申し訳ないことだったが、発熱やガウンに気が回るような余裕はきっとなかったろうし、本当に自分に厳しく生きてきたけれど、そんなに忘れてしまっているということか、そうだったのかと自分をねぎらってやりたい気持ちだ。人生で初めてのことだ。

ビジネスマン多しといって、わがままで、つまりある意味円満な了解事項としてではなく日本の上場企業を役員で3つも移籍させてもらった人は多くないはずだ。そんなことを誰かに教えて、伝えて、残して、という希望、義務感のようなものがひところ強くあって、それがブログを書くエネルギーになっていた時期もあったが、もう不思議とそれもなく、秋空のように晴朗な気持ちであって、全部が心の中では円満に済んだことになった。

忘れるというのはなんと素晴らしいことだろう。悪いことはもちろん、楽しかったことだってもう望んでも得られないのだから、昔を羨やむぐらいなら消えてしまった方がいい。それで困ることも失うものも実は何もないということに気づくのである。お世話になった方々に最善の礼を尽くし、いま周囲にいてくれる人たちと仲良くやって、迷惑にならないように、その皆さんの幸せを考えればいいのだろう。

資産は貯めることに意味があるのではなくて使うことにある。あっさり相続してしまったがそれが僕流の使い方だった。気が軽くなったがでは欲が残ったとすればなんだろう?特にないが、そのうちこれだというのが出てくるだろうか。わからない。過去を忘れてしまうと、いまですらもうその延長線にないのだから、未来など誰がわかろうか。

 

「未来」と呼ばれているものの正体

 

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ビートルズ「When I’m Sixty-Four」(僕が64才になっても)

2018 JUL 8 13:13:28 pm by 東 賢太郎

平成が終わる来年になると、僕ら昭和生まれはそれが人生で3つ目の元号となる。つまり、来年に生まれる人から見るならば、僕らがおじいちゃん、おばあちゃんと思っていた「明治生まれ」と同じ位置づけになるわけだが、昭和は明治より20年も長い。いま20代の人もそうなるのであって、昭和30年生まれは明治30年生まれよりずっとおじいちゃんなのである。

来年というともうひとつショックな事があって、ついに、ビートルズの「When I’m Sixty-Four」(僕が64才になっても)のトシになってしまう。これが入っている『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』は1967年のアルバムだから僕はまだ中学生の小僧であって歌詞がさっぱり不案内だった。Will you still need me? (まだ僕を必要としてくれるかい?)はまだしも、Will you still feed me?  がね、これはガキにはわからない。

この切ない feed me がわかるのがきっと64才ぐらいだってことで、これを書いた10代のポールもそう想像したんだ。だからDo youじゃなくってWill you、意思の確認なのだ。そんなジジイをキミはまだ必要としてくれるかい?いや必要でも料理を作ってくれるとは限らないね、そこはどうなの?とくる。僕はヒューズを直せるしセーターを編めるし草むしりもするよって。なんと図星な。

そもそも feed とはエサをやるという意味だ。ネコは芸も愛想もないがそこだけは妥協しており、エサが出る人を適確に見極めていて(もちろん、昔は母でいまは家内だ)腹が減ると台所でニャオ~ンと僕には絶対にないソプラノで鳴く。あれだけ遊んでやってるのに悔しいが、feed する人は絶対権力者なのである。ということはヒューズもセーターも草むしりもニャオ~ンも無い僕は飯も出なくなるんかということをこの歌は意味している。

ではジジイの価値はカネなんだろうか。とするならば紀州のドン・ファンの道しかないじゃないか。あのかたはいいか悪いかともかく、男として実に明快でわかりやすいという美点はあって、一度哲学を伺いにお会いしたいものだった。女は手当たり次第に口説いていたと思われるモーツァルトだが、ドン・ジョヴァンニ(ドン・ファンのイタリア語だ)はしかし地獄に落としている。この道は難が多そうだ。

アルバム「サージェント・ペパーズ」の冒頭、ト長調のところはバンドの紹介の前口上だ。さあさあ寄ってらっしゃい見てらっしゃいみたいなもんだが、これが僕的には格好いいのである。昨年、ライヴ・イマジン祝祭管弦楽団演奏会に先立って舞台でしゃべらせていただいたが、当日はあの前口上の気分でさせていただいていた。アルバムには「She’s Leaving Home」もある、娘は手紙を置いて出ていっちまう、車のセールスマンとね。ビートルズは僕にとって論語より人生を説いているのだ。

先週、ブログにしたマフィアの末裔マリオ・ルチアーノ氏のレストランにぶらっと行ってみた。そうしたらゴッドファザーに出てきそうなオーラの50がらみの男が立っている。「マリオさんでしょ」と声をかけ、本にあったエピソードを2,3かましたらサイン目当てのおっさんじゃないことはわかってくれたんだろう、「財務大臣の麻生さんもふらっと来られました」「そう、でも俺はやくざじゃないよ、株屋だ」と自己紹介した。僕の頭髪を眺めながら「肌が63に見えませんね」とイタリア人らしいほめ方をする。想像どおりの、修羅場をくぐった好漢であった。

63に見えるかどうかは知らないが自覚がない。体は老いたけれど、自分とはあくまで体ではなくハートのことなのだ。二十歳の頃のハートがどうだったか覚えてないが、あんまり進化も退化もしてなさそうだし、僕は元来そういうことに鈍感で甲子園の選手は今も年上に見えている。「僕が64才になっても」は、キミ、それってちょっと変でねえかい?なんてトシなりのおじいちゃんに諭されている感じの曲になってしまった。

 

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本当の友達とは何か?

2018 JUN 6 8:08:38 am by 東 賢太郎

こだわるということについて、ある人と話をした。

こだわっているものとそうでないものとの間の落差が自分より大きいという性質の人は今のところあまり知らない。僕の御三家は野球、クラシック音楽、猫であるが、例えば猫好きにおいて、猫はなんでもいい子猫はかわいいということはまったくない訳で、品評会に出る手のものは全部嫌いであり、なんでもジャレつく子猫はつまらない。こちらから相手をお願いしたいという猫であるのはけっこうナローパス(narrow path、道が狭い、難しい)であって、普通の猫好きとネコ愛を語り合うのは稀だ。

野球はバッテリー間で起こることだけに興味があるので、内外野の守備がどうしたとか走塁がうまいへたとかスライディングの技術がどうのとかはアメフトの話に近い。だから投手を見に行くわけだが、これまた好みはナローパスだ。体格やフォームではなくストレートの球質、スピード、変化球の質、コントロール、性格、攻め口、スタミナという部分に細かいクライテリアをもって観ているのであり、なかなか普通の野球ファンに説明するのは難しい。

クラシックはこだわりの音源で著作権クレームがなかったものをyoutubeにupしてみた。ブーレーズのダフニスに米国人の方からコメントが入って、この演奏への深い愛情が語られた。ディヴィスの戴冠ミサ、アンセルメの火の鳥もしかりだ。とてもうれしいが、アクセス数の少なさから本家本元の欧米でも予想以上にニッチな趣味ということも分かった。つまり人生の時間のかなりを占めた御三家において世の中との関心や交流の共有がナローパスということは、僕は変なことに傾注して生きてきた、地球上でかなり孤独な種族に属した人間であることに他ならない。

だから普通には「ご趣味は?」となれば「音楽鑑賞です」「野球観戦です」でお茶を濁すだろうし「猫と遊ぶことです」などはそれ自体が危なく聞こえるから言わないに越したことはない。それ以上語るということは99.9%の初対面の人にとっては宇宙人ですと懺悔されたに等しく、長いものに巻かれ少数派をいじめる日本では秘匿されるべき性癖みたいにさえ思えていた。長らく自分の趣味が他人とは一切交錯しないことを変だと思ってきたし、一介のサラリーマンとして宴会芸などを強いられる立場だったころにそういうことをカミングアウトする勇気など到底持ち得なかった。

たぶんほとんどの人は同じように心の中で自分はあそこがちょっと変だとか劣っているとか思っていて、絶対に他人に見せたくない部分を持っている。しかし本当に変だし劣るものであったとしてもそれはそれであって、世界に同じ人は二人といない。その不安やもやもやは他人と比べるから生じるのであって、誰であれ世界でオンリーワンという価値においては他人など関係ないのだから、それを自分が認めてあげて堂々と生きればよい。

そう考えるようになったのは、こだわり御三家において、これはかなり変だ、こんなので絶対に友達はできないと諦めてからだが、幸か不幸か僕は他人と色覚が違うという素地があった。これはもう科学的に決定的に見えている世界が世間様と違うのだから、どんな変なものにこだわって生きようが誤差みたいなものである。それで社会生活で困ったことも競争に負けたこともないから色覚異常と差別されている方は自信を持ってほしいし、趣味ぐらいがどうあろうと、もっとどうでもいいことなのである。

しかしでは友達が作れるのかという本題に入るとなると、もう少し語るべき重要なことがある。友達とは何か?である。結論を先に書こう、困ったときに助けてくれる人が友達に他ならないと僕は確信している。それ以外は趣味が合おうといい奴だろうと、実はなんでもないし、友達であるならば普通とか親友というグレードもない。助けてくれる人は、それ以外の部分がどうあろうと、性格がどんなに合わなくても、友達なのだ。日本だけのことではない、遠い英国でもそう考える人生の達人がいたからA friend in need is a friend indeedという諺ができた。

助けるというのは何がしかの愛情がないとできない。もちろんそれが人類愛かもしれないし、何らかの打算も含まれたものかもしれない。しかしでは愛情とは何かというと、100%ピュアなものは母親が子にそそぐものしかない。母はこの世に一人しかいないのだから、それ以外の場合、ピューリタンになること自体がナンセンスなのである。つまり、助けなくてもいいのに助けてもらったことは愛情表現なのであり、それは真摯に受け止めて、なんとかお返ししようと真剣に考えるに足る、いやむしろそうしていかないと人生は何のためにあったかわからないという結末に至ってしまうような性質のものなのだ。

ということは、こだわり御三家で分かり合う人を探す必要など毛頭ないのである。見も知らぬ他人との一瞬の心のふれあいで、自分は孤独でなかったのだと魂を慰めるのはけっして悪いことではないが、その安寧は誠に一過性のものである。そういう交わりはマイナスに落ち込んだ人生をゼロに戻す力はあっても、プラスにはしてくれない。ゼロが毎日続いたとしても、何年たってもあなたは人生の原点からテークオフすることはないのである。

むしろ、こっちが心底困ってみないとその人が友達かどうかは実はわからないという「深淵なる事実」に突き当たることこそが重要だ。まるで良くできたミステリーの結末であるかのごとく予想外の真犯人が浮かび上がったりもする、そういう経験をしていくと英語の諺の涙ぐましいほど人生の本質を突いた含意がじわっと体にしみてくる。そう言う僕だって、これを悟ったのは本当に困ることだらけだった、ほんのここ10年足らずの事なのだ。そして、それを悟った今、僕はそれの忠実なしもべとなって生きている。

短い人生、友達以外の人とつきあう時間はあまり残っていない。それは社交であって、定年後の夫婦が参加する紅葉狩りやら秘湯巡りやらで親睦を深めましょうとか、そういう困ってしまうことのまずない表面的おつきあいの場で友達が見つかる可能性は限りなくゼロに近いだろう。ただの何でもないサラリーマンだった僕がホテル・ニューオータニにオフィスを構えられたのも、ひとえに真の友達が何人かいたからだ。この人達が困ったときは今度は僕がどんなに骨を折っても助けるということになる。

こういう関係を築こうという人にとってfacebookで何万人のオトモダチができようとおそらく助けにはならないはことはご想像いただけるだろうか。拙ブログさえ毎日5千、総計184万の人の訪問があったことになってるがそんな実感はまるでないし、これが1億人になったところで困ったときの救い手が現れるアラジンの魔法のランプになる保証はない。友達というのはネット空間のフェイクではない、恋人と同じほどすぐれて生々しくリアルなものなのであって、フェイクに課金してあたかもリアルかのような錯覚を売るビジネスに洗脳されるとますます友達はできなくなる。

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名誉にこだわる人の給料の半分は名誉で払われる

2018 MAY 21 1:01:39 am by 東 賢太郎

経営とはやってみれば誰でもわかるが極めて重たい作業である。企業の存続という究極の目標が何より優先する。そのためには何であれ不要なものは捨てなくてはならないから冷たくも見えようし、あいつは人が変ったと言われることもあるだろう。

僕は一点集中型(ネコ型)なので二股はかけられない。受験では野球が、ゴルフでは主夫業が犠牲になった。今はゴルフが犠牲になり2年近く道具に触っていない。シングルになってやめる人は少ないだろうがキープするには仕事が犠牲になるからそうはいかない、とすると「なんちゃってゴルフ」になるがそれはできない性格なのだから仕方ない。

究極の目標を達成するために絶対必要なのはほかをぜんぶ捨てることである。その正しさは受験、ゴルフで証明したから変える理由はない。しかし経営はその両者のように点数の目標がない。だから何を目指しているのか不明になってぶれるリスクがある。これを日々見定めるのは大変に難しいのだ。収益をあげるのはあたりまえであるが、それだけのための企業は世に必要とされない。

若い会社というものは創業者の人格そのもので、その人の「作品」である。作品はやがて独り歩きするが、そこに至るまで自分がぶれないことが絶対必要なのである。ぶれない最良の方法は何か?自分に忠実にやることだ。日々の判断に追われるとベター(better)の選択肢がたくさん出てきてマスト(must)を忘れる。すると知らず知らずぶれてしまっているということになる。

それを避けるには常に本当の自分に徹することだ。「AかBか、Bが得です」という提案は「両方やらないよ」が正解かもしれない。本当の自分という座標軸を常に見据えて、そこからはずれたことは一見おいしそうでも手を出さないという判断をしていかなくてはならない。なぜなら、本当の自分こそ絶対不動の盤石な基準として信頼でき、それがあるから今があるのが事実だからだ。

だから、本当の自分とは何かを知っていることは大変に重要である。これだって、世につれ人につれで付和雷同に生きていると意外に知らないものだ。

幼稚園で描いた絵を見ると電車しか描いてない。自動車、船、飛行機は興味ないから一枚もない。SLもなく電車だけ。それも下半分、つまり線路、台車、床下の機械類だけ子供らしくなく異常に細かくて、上半分のボディや乗客の顔は幼児なみだ。この三つ子の魂そのままに大人になった。

ほかを犠牲にしてクラシック音楽に集中したことはないが電車の下半分に相当するものを見つけたから自分を投影する鏡にはなる。去年10月23日のブログを読み返すと、幼稚園の絵を再度見た気持ちだ。

ブーレーズ 「主のない槌」(ル・マルトー・サン・メートル)

この自分はどうしたって孤独になる。「主のない槌」をブーレーズはムーラン・ルージュの客のために書いたわけではない。僕はあのナイトクラブが嫌いではないが、あそこの客にブーレーズの曲をお薦めする事はないだろう。これはクローズド・サークルの趣味なのでありそんなニッチが先祖のどの辺から来たものかは知らないが、電車の絵を描いたころから自分の遺伝子にあったものなのだ。

しかし、ありがたいことに孤独が好きだ。群れるのは大嫌いであり、幼い頃から祖父に一匹狼だと言われていたからそれが本当の自分なのだ。音楽と知り合ったおかげで退屈とは縁がなくなった。空白の時間があればベートーベンの交響曲をどれでも頭でリプレイできるから何の心配もない。

五年前のこのブログは共感あるのみ。

ショーペンハウエルの人生論

以下、大哲学者の箴言を少し引用して、今の境地でコメントしたい。

名誉にこだわる人の給料の半分は名誉で払われることになる

なんという名言だろう。僕は「名誉(肩書)はいらないから給料を下さい」と上司に言った(名言は後で知ったのだが)。武士は食わねど高楊枝のわが国でそういう人間は誠に少ないが、いまどき武士でいるとどんないいことが起こるのか教えて欲しい。大前研一氏の著書によると日本人はひとり平均3千5百万円残して死ぬそうだ。ということは日本国は3500兆円も名誉資産がある名誉大国という事になる。それが一般国民の生活でどんな幸せになろうというのか。

人間の二大苦は困窮と退屈であり、内なる宝を持っている人にとって退屈はないから「困窮のない余暇」、孤独こそが幸福である

まさにそのとおりと思う。だから困窮はいけないのであって、給料の半分もさし出して名誉を買う余裕などない。そういう人は「最大の敵である同時代人の嫉妬に妨げられる」ときくとああヘーゲルのことかな、ショーペンハウエルはそういう思いをしたのだなあと思う。しかし名誉と一緒で、人に好かれるのに給料の半分を払ってみても孤独の幸福という見返りはないし、親父の名誉で食っていける時代でもないから子供もお金の遺産を残してくれといいそうだ。

現世的な名誉の効果は擬態的な尊敬にあり、徹頭徹尾、大衆に見せるための喜劇にすぎない

僕はお客様の男芸者になりたいとも思わないが、喜劇役者を目指してみようと考えることもない。ほとんどの男は肩書によって擬態的な尊敬を得ているが、名刺がなくなったとき、それが喜劇であったと気づくのだ。僕もそうだった。

いずれ必ず、嫉妬のない後世の知性によって良いものは良いものと評価される

そう願いたいが、僕の生き方を世間が評価してくれることはないだろう。して欲しいのは、ひとえに子孫だ。僕はブログを書いたことで子孫に何がしかを残したつもりだが、そう思ってくれる人が現れるなら生きた甲斐があるというものだ。

 

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自分とは

2018 MAY 10 1:01:14 am by 東 賢太郎

多摩川を久々にジョギングして、今年でここも引っ越してきて10年目だなと思った。山あり谷ありでなんとか生きてきたが、もう細かいことはけっこう忘れてきていて、思い出そうとも思わないし関心もない。僕にとって、良いことも悪いことも、終わったことはもうどうでもいいのだ。能力ぎりぎりの所を走ってきているので、今をきり抜けるのに必死だから。

自分が能力があると思ったことは一度もない。それがどういう風の吹き回しかいつのまにか険しい山道を縦走しているのであって、ちょっと気を抜けば滑落だから後ろを振り返る余裕がない。道の先がどうかと考えたり地図を見たりの余裕もない。それでどうやってここで10年生きてこれたか、わかるものならだれか教えてほしい。

ブログにあれこれ過去を書きつけてきたのは、忘れるからだ。いずれ自分もお袋と同じ認知症になって、なんにもわからなくだろう。それでなくなってしまうのは寂しいと、たんなる独りよがりの自己満足であって、こんなものは誰かのためになるなんてことはない。なればいいなと思って始めた部分もあったが、もう正直のところ、まったく自分のためのみのエゴである。

今の自分はというと、自分でいるのはcomfortableであって、ああなりたいという他人はいない。ドーキンスが正しいなら、いずれ東賢太郎という「乗り物」は下車するわけで、いろんな過去をぎっしり持っているからこれ以上がつがつ求める必要はない。乗り物はそろそろ劣化してきていて、今日は神山先生にしばらく米食はやめなさいと言われてしまった。末は知れていよう。

もともとゲバ棒を振ったり、世を変えたいとか安保を阻止したいとかはない。世間とはめんどうな関わり合いを持ちたくないし他人を支配したいとも思わない。名誉や勲章はいらない。出家、隠遁がいいわけでもない。となるとやりたいことはなくて、それで険しい山道を縦走しているはなぜなんだと自問するが、これがよくわからないのだ。

こういう莫迦な人間もいるということ、そう思っているのが今だと、そして明日になればそれは過去になっていてもうまったくどうでもいいものに変質しているという事も記録しておこう。

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「謙虚」と書いた貼り紙(O先輩への感謝)

2018 APR 21 1:01:31 am by 東 賢太郎

新入社員のころ、メンターだったO先輩に口ごたえして「お前は生意気だ、自信過剰だ、ばかか、学生じゃないんだ、社会はそれじゃ生きられないぞ」と叱られ、寮の部屋の壁にマジックで「謙虚」とでっかく書いた紙をバーンと貼られてしまった。社会に出て面と向かってばかといわれたのは2度しかない。

4年上だから人事制度上はインストラクターではない。当時の支店は大変なところで、入社してすぐの離職が多く、あいつはすぐ音を上げるかもしれんという含みで唯一の同窓同学部だったOさんがそんな役をされていたかとも思うが、仕事もできる人で尊敬してなついていたし、人生相談にも乗ってもらっていた。後にも先にもそんな人はOさんしかいない。

あることで悩み、「そうか、そういうのはな、瘡蓋(かさぶた)になってはがれるのを待つしかないな」と、暗にあきらめろというアドバイスだったが、彼はそうは言わない。瘡蓋、はがれる、待つ、あまりの言葉の見事さが心に焼きついて、それがかえってなぐさめになった。その時だ、この人は天才だと思ったのは。僕が海外赴任中に若くして他界され、貼り紙は今になればなんと有難いことだったかと万感の思いだが、それで謙虚になったかというとだめだった。

これはどうしても自分と野球の関係に逃げざるを得ない。プロに行くようなスポーツ万能の図抜けた人やO先輩のように抜群の知力のある人はそうではないだろうが、ほかに本当に何のとりえもなかった小心者にとっては、野球の微小な成功体験をプライドのよすがにすごすしかなかった。社会人になってもその余勢でつっぱっていたのだということがあの貼り紙事件でわかるが、自分の中では恥ずかしい記憶として消されかかっていることに気づいてはっとする。

おまけに物心ついたら家にネコがいたという事実が重なる。何の関係があるんだと思われるだろうが、就職するまでに多くのネコと兄弟のように育ったというのも人格形成に影響があったとまじめに考えている。ネコはハンターであり攻撃型動物だ。野球でいうと打撃や守備は来た球を迎え打ったり捕球したりの受け身だが、唯一投手だけは一方的に打者に球を投げつけ攻撃一点張りなのだ。ネコに野手は似合わない。その2つが少年期に根深く重なるとこういうことになる、という人間になったとしか考えようがない。

謙虚?なんだって?「いや~僕の投げる球なんてへろへろですよ、ハエがとまりますよ」みたいなこと言えってのか?そんなのは卑屈ってことじゃないか?先輩の張り紙はそう見えていたので、1週間ぐらいではがしてどこかに消えた。

31年の長いサラリーマン生活は、O先輩の警告があって、瘡蓋、はがれる、待つ、の言葉のずっしりとした重みとともに深層心理に焼きついていて、なんとか無事に切り抜けられたのだったと思う。僕は謙虚で優しいのに強い男を何人か知っている。それはある意味で男の完成形だ。攻撃し続けるなんてのは吠えるスピッツであって実は弱い。弱い者の謙虚は卑屈ととられかねないからそうする勇気もない。強い者の謙虚は木鶏のようであり、静かであっても強い。そうなのかもしれないと思いだしたのは、ドイツに不承不承の落胆の中で、心に矛盾を抱えて赴任をした37才のことだ。だからそこで生まれた息子の名には「賢」ではなく「謙」の字をつけた。

 

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あなた変な人ですね

2018 FEB 10 1:01:06 am by 東 賢太郎

クラシック音楽ファンが働く業界ランキングは知らないが、証券業は最下位に近い方であることは間違いないだろう。企業オーケストラはメーカーに多いが商社にもあり、金融だと銀行にもある。しかし証券会社のはきいたことがない。僕のいた会社を思い浮かべても、100年たって富士山が噴火して消えていようと人工知能の総理大臣が誕生していようと、あそこに交響楽団が設立されているとだけは思えない。楽器演奏はおろか、本格的にクラシック好きという証券マンに出会った経験もない。40年近く業界にいるのだから恐るべきことだ。

忙しくて無理というのもあるだろうが、もともと静かに交響曲を聴いたり幼少から楽器を習って学生オケに入ったりという家庭環境の人は証券界のような粗暴な世界には縁遠いのだ。日本だけかと思ったが、米国でもモルガン・スタンレーやゴールドマン・サックスにオーケストラがあるとは聞かないから国際的にそうかもしれない。たしかに、世界の証券マンを見わたしても、バックオフィスはともかくフロント部門には強欲、野獣系が多く、高学歴ではあってもインテリヤクザの観がある。

お前もそうだといわれそうだがそうではない。もともとピアノを弾いたり交響曲をじっと聴いたり系の人間であって、ただ尋常でなく株が好きだ。これは星が好きなのと同系統の趣味で、お買い得の株を探すのが飯より好きである(だからソナー探知機の社名にした)。そこにお金が落ちているのにどうして拾わないんですか?あなた変な人ですねと他人を説得することに情熱が入ってしまう。別にそんなことが生き甲斐でも得意技でもないが、本能、本性なのだからそれで飯が食えるんなら楽でいいというのが僕のようなクラシック好きが証券界に棲息している唯一の理由だ。

一方、証券界に野球好きは多い。きのうは弁護士先生がやはりそうとわかり、都大会ベスト8で京華に負けましてなどときくと神々しく見えてくる。こっちはたいした戦績もないが、わかってくれるかなと話すとわかってくれる。これはキャッチボールしてちゃんと胸元にバシッと速球が返ってくるあの清冽な折り目正しさを伴った感触であって、こう書いてもわかる人しか全然わからないだろうが、わからない人や女子供に話しても「でも負けたんでしょ」で終わるあの馬鹿らしい淋しさの対極なのだ。無理に「へ~すごいですね」と確実に何もわかってないのに言われるとすきま風は倍加するのであって、先生との会話はまさしく一服の清涼剤であった。

硬式野球経験者でクラシック好きとなるとどうかというとやっぱり珍種であることは確実と思われる。野球好きからもクラシック好きからも証券インテリヤクザからも、いったん仲間かなと期待されるだけにそれがかえってあだとなり、えっそんなのも好きなの?あなた変な人ですねと引かれてしまうのだ。だから友達はそのどれでもない人しかいないと言って過言でない。彼らは元から別世界の人としてつきあってくれるし、こちらも無用にそのとんがった所を見せずに平穏につきあえるからだ。

要は「3種混合」であって自分でもそのどれがホンモノかよくわからないというコンプレックスな人間ということになる。既製品の鋳型にはまりようがないから日本で生きにくかったのはそれもあるかもしれない。あえて、どの同種と話すと楽しいかというと、それはもう圧倒的に野球ということがこのところの一連の経験で自覚した。僕は音楽家でも証券マンでもなく、野球人間オズマだったのだ。しかし、ないものねだりだが、色覚さえ普通なら絶対に宇宙物理をしたかった。

ディールの追い込みで3連休など存在しないが、気持ち的には小休止してマサチューセッツ工科大学物理学教授、マックス・テグマーク氏の著書「数学的な宇宙」(究極の実在の姿を求めて)にとりかかることにした。氏は51歳と若いが数学的宇宙仮説の提唱者として知られ、200以上の論文・著作を持ち、その内の、9つは500回以上引用されている傑物である。宇宙のことは誰もわからない。物理学といって哲学に思えるものもある。であれば、おそらく人間の知るワールドで万物の説明言語として最も解明力のあると思われる数学に頼ってみるのが筋じゃないかと素人なりに思うのだ。

中村先生の紫色LEDとレーザーをわかるのに高校の物理の教科書を読んでいるレベルだ、この本が平明に書かれているとはいえわかるとは思えないが、本能的に引きつけられるものがあるから仕方ない。毎日こういうことをする人生も楽しかったろうと思うし、こうして空の彼方を考えているとヘンツェの交響曲が聞こえてきて、やがて星の彼方に父はいるというシラーの詩から第九交響曲が聞こえてきたりする。そうして音楽愛好家の自分がたちあらわれてきて、ますます人間とは何かがわからなくなるのだ。

 

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ベンチャーズ 「アウト・オブ・リミッツ」

2018 FEB 4 13:13:37 pm by 東 賢太郎

2012年9月にブログを始めたが、5年で訪問数が100万になった。ところがさっき見たらそこから3か月で30万も増えている。ペースが変わってる。なんだかよくわからないがネットの趨勢は予想だにつかないもので、このまま10年やったら凄いことになりそうだ。

年をとればとるほど速くなるものなんてあるだろうか?ジジイになれば体の動きも頭の回転も、やることなすこと万事が遅くなるのだ。世の中で速くなるのは時の流れだけで、それがまた損した気がする。訪問数が加速度的に速くなるのはそれをオフセットしてくれるようで、なんだか意味もなく貴いと思う。

サンフランシスコのリッツ・カールトンで、夜中に目が覚めてしまったのでTVをつけると昔懐かしい「トワイライト・ゾーン」をやっていた。なぜか日本ではミステリー・ゾーンだったが、未知の時空に入り込む扉(ドラえもんのどこでもドアの元祖か?)が怪しげであった。日本での放映は1961-67年でちょうど僕の小学校時代に重なる。

ホテルで観たタイトルはKick the canで、老人ホームの爺ちゃんが子供の「缶けり」をやってみよう、若返れるよと言いだすが周りの爺い婆あは信じない。ところがやってみると子供になっちまう話だ。これは60年初めの放送だが監督はまだ10代のスピルバーグだった。

ちなみにこのイントロを我がザ・ベンチャーズが得意の編曲でやっていてVentures in space(ベンチャーズ宇宙に行く)というLPアルバムの最後にあった。時は昭和39年、米ソの宇宙開発競争が話題だった。東京オリンピックはその年だったのか。東名高速ができ新幹線が開通し、科学が人類のフロンティアを広げつつある実感が我が国でも細々とあったが僕の関心は空の彼方にあった。それを掻き立ててくれたのがベンチャーズであり、フロンティア精神のアメリカだった。やがて大学時代に2度、留学で3度目のアメリカが待っていた。そして還暦を過ぎてまた。今日はVentures in space(ベンチャーズ宇宙に行く)を小学生にかえってつづってみたい。

このアルバムはマニアしか買わなかったろうが僕は発売同時に親父にせがんで擦り切れるほど聴いた。精一杯に薄気味悪いサウンドを作ってるのが甲斐甲斐しい。これのコピーとも思しき曲が次のアウト・オブ・リミッツ(境界の外)だ。これはそれなりに名曲と思う。境界はぶち破るものなのか?どこでもドアがどこかにあるのか?わからなかったが、家は貧しかった。それでも微塵も気位を枯らさなかったのは母のおかげだが、ぶち破る道を示してくれたのは父だった。

ドラムなしでクラシックな転調を交えて不気味さを描くfear(恐怖)はベンチャーズの新路線を思わせた。僕は魅入られたがダイヤモンドヘッドのテケテケにしびれてた若者には受けなかったんだろうなあ。

Exploration in terror(恐怖の探検)という題名がそそる。想像がたくましくなる。宇宙探査はきっと飛行士も怖いんだろう。おいおいなんじゃこのオドロオドロしいシンバルの音は!?き、奇っ怪な、ものどもであえ!と身構えると、お気楽にゴキゲンなベンチャーズサウンドが。あれ~、喜劇的拍子抜け感が楽しめる佳曲だがベースの入りの音程が(意図的か?)はずれて異常感があるのと終わってみるとシンバルがまだ鳴っていたのが悲しい。

The fourth dimension(四次元)。これまたそそる。そんなものを器楽でやろうと思うこと自体が理系的で、文系的なビートルズには考えられない。小学生なりに大いに期待したのだが、しかし4拍子はダサいわな。3,4種類のコードじゃ無理だわな。志はともかく、とても文系的であった。

He Never Came Back(彼は帰ってこなかった)。そうか宇宙探査中の事故死か・・・、かわいそうに・・・。ところがなんとクソつまらないドラムスが入り、断末魔の悲鳴が響いて一時の期待をかきたてるものの、何も起こらぬままにクソつまらないロックンロールで終わる。彼はどうなったんだ?謎の曲だ。

The Bat(こうもり)。夕方になると多摩川にこうもりはたくさんいた。確かに滅茶苦茶に飛んでこっちも落ち着かない。これを覚えた僕はJ・シュトラウスのそれに入れなくて困った。ベンチャーズは意図的に音程をずらしてバルトークの四分音みたいな効果を出している。船酔い感が衝撃だったが「四次元」のほうでこれやればいいのにね。

War of the Satellites(衛星の戦争)。衛星に宇宙人でもいたのだろうか。わけわからないが初めのピコピコはエコーが効いてなかなかカッコいい。しかしこれまたあとがいけない。漫画だ。漫画少年だったが僕は月光仮面とかウルトラマンとか、ああいうのはみっともないと思ってた。月光仮面のおじさんはって、お兄さんじゃないのかよ、なんでおじさんなわけ、なにもおでこに三日月はらなくてもいいのに、スクーターってのもだせえな。そんなのを思い出してしまう戯画ロックだ。

Penetration(貫通)。意味不明だがアルバムタイトルのLimits(境界)を突き抜けていくイメージなんだろう。正調のベンチャーズ・アレグロ・サウンドである。最後の方に重なるスチールギター?の音程が低い。これは当時から気になっていたが。

Love Goddess of Venus(金星の愛の女神)。ヴィーナスというのは女神ウェヌスの英語読みで、いちいち言わなくても愛の女神である。やさしい曲想は殺伐、荒涼としたアルバムの一服の清涼剤だが無学のお兄ちゃんにはこの唐突感わからねえだろうな、クレーム来てもいかんなと気を回したごときタイトルである。するとその of は皆さん中学で習った「同格のof」ということになるが僕は所有格と思っていて、金星にはいろんな神がいるんだ、男も女も、愛じゃないのもという理解ができてしまったから迷惑なこった。よく考えると一神教と矛盾するから誤りとわかるのだが、しかし、Love GoddessというからにはGodもLoveじゃないのもいるしそれは of のせいでないこともわかる。そこで調べるとウェヌスは多神であったローマの神だったという決着ですっきりするのである。ちなみにカエサルはウェヌスの子孫を語っているから神は生身の存在だったわけで我が国の天皇の神性の由来に似ている。聖徳太子も馬小屋で生まれたりする。古事記、日本書紀を書いた者が何でもありの多神教ローマを厳格な一神教ユダヤ教でなく慈しみのキリスト教で治めた事実を知る者であった可能性を僕は見る。

ベンチャーズの女神はウェヌスというより加山雄三であるが。

こういう音楽が東京オリンピックで目が世界に開けた日本で、そして和泉多摩川の団地にあった狭い我が家で毎日のように鳴っていた。アウト・オブ・リミッツ(境界の外)は僕のめざすところ、突き動かすエネルギーともなった。結果として大幅に外に出た気もするがまだまだ突破すべき境界がある。そんなのじゃだめよと母の声も聞こえる。サンフランシスコのひょんなことでこのアルバムを何十年ぶりに聞いてしまったが、これが魔法のKick the canだとうれしいなあ。

2018年2月4日

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