野村證券・外村副社長からの電話
2018 DEC 10 23:23:02 pm by 東 賢太郎
外村さんと初めて話したのは電話だった。1982年の夏のこと、僕はウォートンに留学する直前の27才。コロラド大学エコノミック・インスティトゥートで1か月の英語研修中だった。勉強に疲れて熟睡していたら、突然のベルの音に飛び起きた。金曜日の朝6時前のことだ。
「東くんか、ニューヨークの外村です」「はっ」「きみ、野球やってたよな」「はあ?」「実はなあ、今年から日本企業対抗の野球大会に出ることになったんだ」「はい」「そしたらくじ引きでな、初戦で前年度優勝チームと当たっちゃったんだ」「はっ」「ピッチャーがいなくてね、きみ、明日ニューヨークまで来てくれないか」「ええっ?でも月曜日に試験があって勉強中なんです」
一気に目がさめた。この時、外村さんは米国野村證券の部長であり、コロンビア大学修士で日本人MBAの先駆者のお一人だ。社長は後に東京スター銀行会長、国連MIGA長官、経済企画庁長官、参議院議員を歴任しニューヨーク市名誉市民にもなられた寺澤芳男さんだった。寺澤さんもウォートンMBAで、ニューヨークにご挨拶に行く予定は入っていたが、それは試験を無事終えてのことでまだまだ先だ。なにより、留学が決まったはいいものの英語のヒアリングがぜんぜんだめで気ばかり焦っているような日々だった。しかし、すべては外村さんの次のひとことで決したのだ。
「東くん、試験なんかいいよ、僕が人事部に言っとくから。フライトもホテルも全部こっちで手配しとくからいっさい心配しないで来てくれ」
コロラド大学はボールダーという高橋尚子がトレーニングをした標高1700メートルのロッキー山脈の高地にある。きいてみると空港のあるデンバーまでタクシーで1時間、デンバーからニューヨークは東京~グァムぐらい離れていて、飛行機で4~5時間かかるらしい。しかも野球なんてもう10年もやってないし、相手は最強の呼び声高い名門「レストラン日本」。大変なことになった。
その日の午後、不安になり友達にお願いして久々に肩慣らしのキャッチボールをした。ボールダーで自転車を買って走り回っていたせいか意外にいい球が行っていてちょっと安心はした。いよいよ土曜日、不安いっぱいで朝の飛行機に乗り、午後JFK空港に着くと外村さんが「おお、来たか」と満面の笑顔で出迎えてくださった。これが初対面だった。午後にすぐ全体練習があり、キャッチャーのダンだと紹介されてサインを決めた。外人とバッテリー組むのは初めてだ。「俺は2種類しかないよ、直球がグーでカーブがチョキね」。簡単だった。フリーバッティングで登板した。ほとんど打たれなかったがアメリカ人のレベルはまあまあだった。監督の外村さんが「東、明日は勝てる気がしてきたぞ」とおっしゃるので「いえ、来たからには絶対に勝ちます」と強がった記憶がある。そう言ったものの自信なんかぜんぜんなく、自分を奮い立たせたかっただけだ。ご自宅で奥様の手料理をいただいて初めて緊張がほぐれたというのが本当のところだった。
いよいよ日曜日だ。初めて知ったが、それは第七回日本クラブ主催軟式野球大会というものだった。試合はマンハッタンとクィーンズの間にあるランドールズ・アイランドで朝8時開始である。こっちがグラウンドに着いたらもうシートノックで汗をかいて余裕で待ち構えていたレストラン日本は、エースは温存してショートが先発だ。初出場でなめられていたのを知ってよ~しやったろうじゃないかとなった。板前さんたちだろうか全員が高校球児みたいな髪型の若い日本人、声出しや動きを見れば明らかに野球経験者で体格もよく、こっちは日米混成のおじさんチームで僕が一番若い。初回、先頭打者にストレートの四球。2番には置きにいった初球を左中間2塁打。たった5球で1点取られ、やばいと思った。鳴り物入りでやってきてぼろ負けで帰るわけにはいかない。3番は記憶がないが、4番を三振に取ればマウントできると思って渾身の高めストレートで狙い通り空振り三振にとった。それで平常心に戻り、なんとか2点で抑えた。
勝因は外村監督の「バントでかき回せ」「野次れ」の攪乱戦法に尽きる。これがなかったら強力打線に打ちくずされていただろう。全員が大声を出してかき回しているうちに徐々に僕のピッチングも好調になって空気が変わってきた。第1打席で三振したので外村監督に「次は必ず打ちます」と宣言し、次の打席でファールだったが左翼にあわやホームランを打ち込んだとき、相手投手がびびった感じがして四球になり、勝てるかなと初めて思った。そうしたら不思議と相手に守備の考えられないミスも出て、流れは完全にこっちに来た。ダン捕手のリードが良くてカーブがまったく打たれず、後半はのびのび投げて被安打3、奪三振5で完投し、大番狂わせの11対2で大勝。翌日の日本語新聞の一面トップを飾った。甲子園でいうなら21世紀枠の都立高校が大阪桐蔭でも倒したみたいな騒ぎになった。
午後の飛行機でコロラドに帰ったが外村さんのご指示で持ちきれないぐらいのインスタントラーメンやお米をご褒美にいただき、学校でみんなに配ったら大評判になった。試験のことはからっきし記憶にないが、無事にウォートンへ行けたのだからきっと受かったんだろう。ということはシコシコ勉強なんかしてないで野球でサボって大正解だったわけだ。やれやれこれで大仕事は果たしたと安心したが、それは甘かった。翌週末の2回戦も来いの電話がすぐに鳴り、三菱商事戦だったがまたまたバント作戦でかき回し、10対0の5回コールド、僕は7奪三振でノーヒットノーランを達成した。また勝ったということでこの先がまだ3試合あって、フィラデルフィアからも2度アムトラックに乗って「出征」し、日系企業45チームのビッグトーナメントだったがいちおう準決勝進出を果たした(プロの投手と対決した思い出)。
準決勝で敗れたがそこからが凄かった。決勝戦と3位決定戦はルー・ゲーリックがプレーしたコロンビア大学ベーカー・フィールドで行われたからだ。そんな球場のマウンドに登れるだけで夢見心地で、けっこう普通のグラウンドだなと思ったがアメリカ人の主審のメジャーみたいにド派手なジャッジがかっこよくてミーハー気分でもあった。ベースボールってこんなものなのかと感じたのも宝物のような思い出だ。この試合、まずまずの出来で完投したが、相手投手陣が強力で攪乱戦法がきかず4対2で負けた(被安打2、奪三振5)。思えばこれが人生での最後のマウンドになった。本望だ。甲子園や神宮では投げられなかったけれど、すべてが外村さんのおかげだ。
残念ながら初陣は優勝で飾れず申しわけなかったが、この翌年、ウォートンで地獄の特訓みたいな勉強に圧倒されていた僕は外村さんがアリゾナ州立大学の投手とハーバードの4番でヤンキースのテスト生になった人を社員に雇ってついに念願の優勝を果たされたときき、おめでとうございますの電話をした。我がことのようにうれしかった。アメリカで仕事する以上は野球で負けられんという心意気には感服するばかり。遊びの精神がなかったら良い仕事なんてできない、こういうことを「たかが遊び」にしない、やるならまじめに勝つぞという精神は、仕事は本業だからさらに勝たなくてはいけないよねという強いスピリットを自然に生むのだ。僕みたいな若僧を委細構わず抜擢して火事場の馬鹿力で仕事をさせてしまう野村のカルチャーも素晴らしいが、それをああいうチャーミングでスマートな方法でやってのけてしまうなんて外村さん以外には誰もできなかった。
この大会の結末はというと、決勝戦は日本教育審議会とJALの対決となり、1965年の夏の甲子園1回戦であの平松政次の岡山東を完封した神山投手(日大二)擁する日本教育審議会が1-0の接戦の末に優勝した。JALのエースはニューヨーク・ヤンキースのテスト生で剛球左腕のオザワだった。もう試合を終えていた僕は客席で観戦していたが、この試合は緊迫したプロ並みの投手戦となり球場がかたずをのんだ。
試合後の表彰式で4チームの選手がホームベース前に整列した。各監督への賞品授与式が終わって、いよいよ選手一同のお待ちかね、今大会の「Outstanding Player賞」(最優秀選手賞)の発表である。優勝投手の神山さんと誰もが思っていたらマイクで呼ばれたのは僕の名前だった。一瞬あたりがシーンとなる。各チームのエースの方々の経歴は神山さんが阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)、2位がヤンキース、3位が読売ジャイアンツで素人は僕だけ。しかも4位である。聞き間違いだろうとぐずぐずしていたら、その3人の大エースがお前さんだよ早く出てこいと最後尾にいた僕を手招きし、そろって頭上であらん限りの拍手をくださった。ついで周囲からも拍手が響き渡り、あまりの光栄に頭が真っ白、お立ち台(写真)では感涙で何も見えていない。
これを最後に僕が野球に呼ばれることはなかったから、これが引退の花道みたいになった。高2で肩・ひじを故障して泣く泣く野球を断念した人間だ、おかげでそのトラウマは薄れた。しかし、それもこれも、同じほど信じれられなかった外村さんの電話からはじまったことなのだ。これがその後の長い野村での人生で、海外での証券ビジネスの最前線で、独立して現在に至るまでの厳しい道のりで、どれだけ自信のベースになったか。後に社長として赴任されたロンドンでは直属の上司となり、今度は英国流にゴルフを何度もご一緒し、テニスやクリケットも連れて行っていただいた。国にも人にも文化にも、一切の先入観なく等しく関心を向け、楽しみながらご自分の目で是々非々の判断をしていくという外村さんの柔軟な姿勢は、ビジネスどころか人生においても、今や僕にとって憲法のようなものになっている。
そこからは仕事の上司部下のお付き合いになっていくわけだが、常に陰に日向に気にかけていただき、ときに厳しい目でお叱りもいただき、数えたらきりのないご恩と激励を頂戴してきたが、誤解ないことを願いつつあえて本音を書かせていただくならば、僕から拝見した外村さんの存在は副社長でも上司でもなく、すべてはあのコロラドの朝の電話に始まるニューヨーク野球大会での絆にあった気がする。だから、まず第1にグローバルビジネスの酸いも甘いも知得されなんでも相談できる大先輩であり、第2に、延々とその話だけで盛り上がれる、野村には二人といない野球の同志でもあられたのだ。
きのう、外村さんの旅立ちをお見送りした今も、まだ僕はそのことを受け入れられていない。9月10日にある会合でお会いし、ディナーを隣の席でご一緒したがお元気だった。その折に、どんなきっかけだったか、どういうわけか、不意に全員の前で上述のニューヨーク野球大会の顛末をとうとうと語られ、
「おい、あのときはまだ130キロぐらい出てたよな」
「いえ、そんなには・・・たぶん120ぐらいでしょう・・・」
が最後の会話だった。11月1日にソナーが日経新聞に載ったお知らせをしたら、
東くん
何か新しいことに成功したようですね。おめでとう。
外村
とすぐ返事を下さった。うれしくて、すぐに、
外村さん
ありがとうございます、少しだけ芽がでた気がしますがまだまだです。これからもよろしくお願いします。
東
とお返しした。これがほんとうに最後だった。この短いメールのやり取りには36年の年輪がかくれている。おい、もっと説明してくれよ、でもよかったなあ、という「おめでとう」だ。でもわかってくださったはずだ。そして、もし説明していたら、外村さんはこうおっしゃっただろうということも僕はわかってしまう。
12月5日の夜、外村さんが逝去される前日に、なんだか理由もきっかけもなく、ふっと思いついてこのブログを書いていた。
あとになって驚いた。1982年だって?このブログはコロラド大学に向けて成田空港を出発し、外村さんからあの電話をいただく直前の話だったのだ。どうして書く気になったんだろう?どこからともなくその気がやって来たなんてことじゃない、あれから36年たってかかってきた、もう一本のお電話だったのかもしれない。
外村さん、仕事も人生もあんなにたくさん教わったんですが、野球の話ばかりになってしまうのをお許しください。でも、きっとそれを一番喜んでくださると確信してます。ゆっくりおやすみください。必ずやり遂げてご恩返しをします。
寺尾聰「ルビーの指環」
2018 DEC 5 21:21:22 pm by 東 賢太郎
先生と「サインは V !」のジュン・サンダースは范文雀(はん ぶんじゃく)だ、台湾美人だという話になり、そういえば蔡英文の民進党が国民党に大敗したのは彼女は法学博士でインテリだが人の心がわからんからという話になり、帰宅して僕は范文雀は寺尾聰の奥さんだったことを思い出していた。
調べると「ルビーの指環」が世に出たのは1981年2月のようだから僕はまだ梅田支店にいたはずだが、ぜんぜん大阪とイメージが重ならないのは人事部から「留学だ」と辞令があってもう心が飛んでいた、というより、ウォートンに行けということになったはいいがあまりの英語力のなさに顔面蒼白だったからと思う。アメリカに一緒に来てほしいと家内にプロポーズして、6月に異動で本社に戻った。大阪に別れを告げるのは寂しかったが、2年半ぶりの東京は嬉しかった。
ちなみに当時の野村證券は妻帯者の留学は認めていなかった。なのにプロポーズしてしまった愚か者だったわけだが、妻をとるか留学をとるかという二択の頭はからっきしなかった。両方とる、なんとかなる、そういう超楽観主義だった。人事部長のGさんに馬鹿者と叱られ問題になったが、留学取り消しにはならず翌年2月に無事に式を挙げさせていただいた。もう転勤してるのに梅田支店の先輩同期後輩がたくさん東京まで来てくださったことは忘れない。
しかし留学のほうは大変に問題だった、当時ウォートンの入試はTOEFLの足切りが600点だった。大学入試の英語はちゃらんぽらんだったが社内の選抜試験は2番だったらしく、まあ平気だろうと世の中をなめて何の準備もなく受けたら480点だ。やばいなと思った。たしかもう2回受けてなんとかすべりこんだ。GMATは代々木の予備校に通って、こっちもぎりぎりのセーフだった。
なにせ全米最高峰だぞと先輩に脅されており、エッセイを必死に書いて祈るように願書を封書で送った。それを審査して合否発表は手紙で来るのだが何か月も待てど暮らせど音沙汰もなく、実家で悶々としていた半年はほんとうに辛かった。その間、所属は人事部付で仕事は英語のレッスンである。支店営業からすれば天国だったが、だからこそ不合格だったら支店だぞという思いがあった。
合格を知らせる封書が来たのは何月だったか忘れたが年明けだ。まずはやれやれの安堵、やがて、アメリカに行けるという歓喜、そしてしまいに、MBAなんか俺が取れるのかという恐怖が襲ってきた。「ルビーの指環」は、そのあたりで大流行していたはずだが、曲はよく覚えているのにそういう現実と結びつかないのは不思議だ。
38年ぶりに聴いて、感嘆する。なんてかっこいいんだろう。
寺尾聰は昭和22年生まれで8才上、まさに我々世代をノンポリと馬鹿にしてゲバ棒振ってた団塊のアニキ世代だ。彼に憧れてでっかめのレイバンをかけたっけ。でもこっちはアメリカへ行くんだぜなんて粋がってた。
歌がプロっぽくないのがいい。カラオケできまってる等身大レベル。ビートルズだってそうだし、ユーミンの男バージョンという感じだ。歌詞もいいね。女は別れた男なんか「上書き」しておしまいだが男はこんなもんだ。
枯葉ひとつもない命、あなたを失ってから・・・
それにしてもこの曲、なんでこんなに耳に残るんだろう?何度聞いても飽きない。音楽的な秘密があるわけだが、それは次回にする。
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ワインを飲みながら学生時代に帰る
2018 DEC 4 23:23:19 pm by 東 賢太郎
顧問のK先生とワインを飲みながら伊賀の影丸の話に熱中してあれこれやってるうちに「横山光輝は影丸を中性的に描いたのが偉い」という鋭いご指摘があった。「敵役は醜怪な面相ばかりで女性っぽいのが善玉らしい」と。なるほどと思ったが、さらに「由井正雪もね」とくるものだから感動もひとしおである。
先生は1学年上で非常に有能な官僚、政治家、大学教授、将棋4段であられるが、影丸で盛り上がれるうえに「サインは V !」の戦後世代的考察があり、団塊世代から見下されるわが世代を論じつつ「宇宙少年ソラン」と大阪万博の「こんにちは」はそらで歌い、古関裕而作曲の東京オリンピックマーチを唱和される(これは名曲だ)。
吸った空気は同じということだが社会に出るまでに乗り越えてきたものが同じということでもあり、そういう中においてなかなかこういう方は知らない。漫画を子供時代にそう見ているということは生身の人間もそう洞察してきておられる。わが身と似たものがあるのであってこういう部分で通じ合えるのは心強い。
通じ合えるというのは何でも話せるということでもあって、僕がここまで来たモチベーションは受験、出世のトラウマで今に見てろの馬鹿力だなど全部お話しし、狭い所がだめで飛行機も床屋もアウトでどう対処しているかなど「う~ん、けっこうめんどくさいね」となり、かなり酔って中村案件+ディズニーランド構想など経済産業省の規格外の大草案をぶってもなるほどとうなずかれる。
そこまで東北のルサンチマンなんてことから「東京もんだってある」となり、大阪赴任はカルチャーショック、『ええかっこしい』言われ、やってもないのに『にいちゃん、二度づけ禁止やで』だと反論、でもこれは言えない、言っても嫌われるだけ、でもいまや都鄙感覚は地理的ばかりじゃないとなり、ネット時代はどこにいようが知識で「都に勝てる」となり、地方創生は教育だとなる。
思い起こせば大学時代に下宿でこんなことを、はるかに低次元だが毎日のようにわいわいやっていた。いわば原点、心のふるさと。社会に出ると現実に締め付けられそういう馬鹿げた議論ができない。僕はそれを化石のようにまだ持っているが、誰もわからないから大変に寂しいし、ときに非常に疲れる。そこでアライアンスを組めた先生の存在は、精神の深い所で、実に大きいと思う。
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交響曲を書きたいと思ったこと(2)
2018 NOV 25 0:00:03 am by 東 賢太郎
ビジネスは弁証法的に進化する。それが利潤動機であり、資本の論理であると性悪説(かどうかは議論があろうが自分の立場からは)に立脚するのは人権に基づくプロレタリアート概念を創出したいマルクス経済学のイデオロギーに過ぎない。ロジックとしての弁証法に性善も性悪もないのである。マルクスは弁証法による唯物史観をとった。私見では宇宙はその原理で生成発展しており、宇宙の一部である人間社会がその原理で解明されてなんら違和感はない。
しかしそこには大きな論点の欠落がある。ビジネスは大阪弁の「オモロい」でも進化し、資本はそれでも成長することを大阪人でないマルクスは完全に見落としている。平等なユートピアはオモロい人を殺してしまうことは論じていない。そもそもオモロいことをしている人は「搾取されました」なんて争議はしないのである。オペラを受注したモーツァルトが残業代の計算をしただろうか。過労で倒れて労災申請をした大作曲家がいただろうか。
僕は365日休みはないし三六協定もないし土日も仕事している。事業主、資本家だからではない、オモロいからだ。だからオモロくなくなったらやめる。労働は悪だというのはキリスト教思想であって仏教徒の僕には毛頭関係ないが、もとよりこれは宗教、思想の話ではないという所が核心なのである。むしろ人間の生来の属性、ケミストリーであり、性格、生き様、信条、モチベーションの話であって、そういう類型化できないことを学者は採用しないが、その姿勢は実務家である僕にはまったくのナンセンスでしかない。
しかし、宗教であれ教育であれ人間の生来の属性を造り変えることは尊厳にかかわることだから無理だと思う。したがって、ここに必然的に、仕事が「オモロい」「オモロくない」で地球上の全人類は二分されるのだ。資本論は後者の人類の福音書であり、明示的には消えたが精神だけは世界の左派に残っている。特筆したいのはこの二分法こそマル経が予期せず生んだ『階級によらない人間分別法』であるということだ。マルクスは狩猟採集の原始社会が本来の平等社会(無階級社会)であって階級社会を克服した上で実現する無階級社会は極めて生産力が高く、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」としたが 「能力に応じて」「必要に応じて」の部分にこの二分法の用意がある。これを論理の穴と上げ足をとるか、さすがマルさん逃げ道あって頭いいねととるかは勝手だがどっちでもいい。
強固な持論として僕は「オモロくない」派は時給いくらで残業代をしっかりもらうべきだし、「オモロい」派は成果連動報酬で青天井スキームでやればいいと思う。日産のゴーン元CEOは明白に後者の契約だったわけで、それを前者と比べてけしからんというのは二分法からしておかしい。株主がOKといえばいいわけで、その株主を欺いたから拘留されているのだ(当面の理由としてだが)。野球でいえば球団職員がエースの給料が高すぎだと言ってるようなものでマスコミのマル経的たきつけに徹している観がどうも解せない。「高級マンション」がどうのというのも、高級かどうかが論点ではなく取締役会で決議したかどうかだ。しないと会社の金の振り込みなんかできるはずがない。なぜその時点でOKだったのが今は横領まがいなのか(本件は今後注視したい)。
ソナー・アドバイザーズは、基本的には、「オモロい」派だけの会社だ。「オモロくない」派は外注で足りる。なぜそうするかというと、ビジネスはマルクスの見落とした大阪弁の「オモロい」でこそ進化こそするという強い信念があるからだ。だから秘書にも費用は会社持ちで資格試験を受けてもらいバリューアップしていただいているし、会社の業績の進化に影響ない人は採用しない。これはラーニング・オーガニゼーション(学習する組織)という経営哲学で、僕はダボス会議でGE(ゼネラル・エレクトリック)のCEOだったジャック・ウェルチから習った(既述、「伊賀の影丸経営」の原型だ)。
僕が法律と何の関係もない対位法や和声法の勉強をしていたのは大学在学中だ。「人の税金を使って学校へ行った」(麻生財務大臣)からけしからんことだったのは謝るが、それをしながら作曲家にはなれないと思い知ったのは効用だった。できると思ったのは写譜屋ぐらいで、それなら1枚いくら、1小節いくらで請求するだろうし時間外の追加料金も計算するだろうと思った。さらに意外だったのはオーケストラに労働組合があることだった。これが意味することは、つまり団員は堂々たるプロレタリアートだという厳然たる事実なのである。基本はオモロくない派の人々なのだ。
いやそんなことはない、音楽は私の人生だ、だから音大を出て生涯の仕事にしているではないか、という声はあるはずだ。それを否定する権利は誰にもないが、それは日産の工場で現場を支える方々がクルマが好きだから汗を流しているという主張とおんなじだ。トヨタは食堂にまで意見箱を設置して工員の声でカイゼンしているが、だからといって労働組合が消えたわけではない。このことはプロスポーツと労働組合との親和性の議論と照合すれば理解が容易だ。サッカー選手がPK戦になったといって残業代を請求するかということだ。NPBに選手会が存在しストライキをしたことはあるが賃金交渉には無力である。オモロくない派ならやめればいいではないか、やって成功すれば収入は青天井だよという世界なのだ。
理系頭脳のオモロい派である作曲家は労働組合を形成する労働者とは別の惑星の人たちなのであって、両者の間には「音楽への愛」で結ばれることができるはずだなどという宗教がかった博愛ユートピア思想では越えようもない二分法による深いキャズムが存在することを僕は大学時代に学んだ(東大が教えてくれたわけでないが)。だから、そこまで異星人ではないものの「オモロい」派には属する指揮者が作曲家の宣教師としてインスパイアして引っ張らないと良い演奏など出ない確固たる道理があるのだ。音楽をマルクス経済学的側面から理解したし、それを通じて現在の経営観に至ってそこそこ税金を払っているのだから遊んだわけではなかったと思う。
この視点に立つと、指揮者と経営者の役目は同一であるというドラッカーの経営学も肌感覚の裏打ちが持てる。会社を進化させる経営を僕は「オモロい」に求めるわけだが、それは業界に40年生きてきて培った信用と人脈を素材として交響曲をcomposeする作業であることは前回述べた。これを僕はcompositionの本来の思考形態である数学的センスでずっとやって来たしこれからもそうする。数学が計算だと思ってる文系の人に説明するのは時間の無駄だから一部にしか言わないが、そういうことだ。
(こちらをどうぞ)
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交響曲を書きたいと思ったこと(1)
2018 NOV 24 16:16:28 pm by 東 賢太郎
時々とてつもない願望がわくことがあって、大学のころ不意に交響曲を書いてみたいと思ったことがある。さっそく対位法、和声法、管弦楽法の書物を買い込んで受験勉強みたいに読んだ。大変まじめにやったと自負する。クラシックがクラシックに聞こえる秘密は対位法にあることを知ったし、機能和声の原理もそうなのだがとても数学に近いということは発見だった。というより、交響曲であろうとなかろうと、数学に必要な能力なしにまともな音楽を書こうというのはあり得ないことであろう。
一般のイメージでクラシックの作曲家というと、ひらめいた美しいメロディを書き留めた文人、詩人みたいなものだろうが僕はジェームズ・ワットやトーマス・エジソンやフランク・ロイド・ライトに近いと思っている。少なくとも理系である。文学や絵画や、音楽でもポップスは文系でも書けるが、クラシックの作曲(composition)は非常に理系的作業であって、モーツァルトもショパンも、文学青年のイメージとは遠く数学、音響工学に長けたエンジニアの基盤があって、そこにあの音楽が「降って来た」からナイスキャッチできたのである。
シンプルに書けばクラシックの作曲は「数の秩序」の支配する王国を作り出すことだ。数の秩序と人間の美醜の感覚は関連があり(これは神の領域で人は作れない)それが感動(聞き手の心の動き)の源泉である。楽音が周波数(ヘルツ)であり和声がその比率値であり、音の強さはデシベルであり長さは時間であるから、音楽の要素はすべてが数である。それに秩序を与える追唱、模倣、反転、シンメトリー等々のミクロ構成原理がマクロとしての形式論を形成するのはフラクタル構造を思わせる。
音楽はそれだけで美しいのであって作曲はだから絵画より彫刻、建築に近似するはずだ。フィレンツェのアカデミア美術館で見上げたダビデ像にはJSバッハのフーガの技法の均整を感じて圧倒されたが、あの感動に彩色は無用でありむしろ肌色に塗れば卑猥なものに貶めかねない。管弦楽法はヘルツを変えずに色を持ち込む技法であって、従って音楽の本質ではない。それはJSバッハの多くの曲に楽器指定がないことでわかる。フーガの技法をどの楽器で演奏しようがよいのはダビデ像があえて白色のままにおかれているのと同じだ(僕は或る調性に色のイメージが出てしまうが、そのこととドビッシーをきいてモネの絵を思い浮かべるような人がいることは別な話である)。という結論に至ったので僕はそれ以来交響曲をピアノで弾いてみる習慣がついた。僕のピアノは乙女の祈りやショパンを弾くためでなくブルックナーの9番などを探索するために存在する。ピアノリダクションを弾かないでスコアの構造を理解するということはよほどの天才でない限り難しいように思う。ショスタコーヴィチは管弦楽曲を聴くそばから頭でピアノに置き換えていたというが、それは作曲家なら誰でも普通のことだろう。
さてそこまで来て、作曲とはそういうものではないのだという至極根本的なことにも気がついた。僕の願望は、仮免でF1レースで勝てるだろうというほどのかけ離れた妄想でしかなかった。しかし逆説的ながら「書ける」と思ったことも事実だ。というのは「交響曲を書くノウハウなんてない」ということだけは分かったからだ。何であれ「交響曲」と表紙をつければその日から交響曲である。誰でも書く権利はあるし著作権だって取得できる。問題はそれが演奏されて世間が良い交響曲だと思ってくれるかどうか、それだけなのだ。
作曲する(compose)という動詞はcom-(いっしょに)+pose(置く)というラテン語が起源だ。「一緒に置く」である。音楽の能力がないならそれをビジネスでやればいい。演奏されて世間が良い交響曲だと思ってくれるかどうか?それはオンリーワンであるかどうかにかかっている。そう切り替えたらどうだろう。というより、幸か不幸か、頭の構造が元からそうなっているようで「これとあれを組み合わせると面白い」ということを寝ても覚めても考えているしそれが飯より好きでもある。
ビジネスでこれを第1主題に、あれを第2にという作業は字義通りcomposeすることに他ならない。この人とあの人でもよい。両方にコネクションがあるのはこの世で僕しかいない、ということはそれをすれば勝手にオンリーワンになるのである。それを発表したら世間は驚くだろうと思うとぞくぞくする。それを構想段階で他人に話して報われた経験はない。この人大丈夫かという顔をされるだけだから説明する意味もない。しかしそういうものほど価値があるのだ。僕は他人のすることをもう少し小賢しくやろうなどということには微塵の関心もない。
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自分の血について
2018 NOV 16 23:23:44 pm by 東 賢太郎
従兄が亡くなった。68才は早すぎだ。母方のいとこは12人で男は4人しかいなかったのに・・・。彼は建築士で、高校はサッカー、大学はボートの好男子だった。子供の時遊んでもらったし、昨年母の四十九日で献杯の辞を頂いたばかりだ。ショックというかまだぴんと来ていない。安らかにお眠りください。
こうして親戚一同で故人をしのぶたびに、血縁ってなんなのだろうと感じ入る。
僕が自分のルーツに興味を持ったのは、従兄の父上が家族史を私家本に書き残してくれたからだ。それがなければわからなくなっていた。未完だったそれを伊那と長崎まで行って完成する旅は探偵になったようにエキサイティングで、叔父の遺志を継いでそれを今度は子孫に残そうと考えたのがSMCを始める動機にもなった。
まあ先祖がどうあれ人生には何ら関係ない。幸せは自分で切り開くしかないし。
告別式の会食ではそう思いながら、従姉が幼少に住んでいた、とんでもなく大きかったらしい大森の洋館の回想をきいていた。やはりそこに居たお袋が婚礼の日に花嫁衣裳を着て式場へ向かった様子も生き生きと語られて嬉しかった。
姉さんは幼稚園で箸の使い方も弁当の食べ方もわからず親が呼ばれた人だ。母にいたっては嫁に出るまでそうだった。そういえば自分も弁当がだめで苦手だったなあと思い当たる節がある。今でもはっきり覚えてる。炒り玉子と鶏肉のそぼろとインゲンのきれいな3色弁当で、それなのに食べるのがあまりに遅くてタイムオーバーになり、半分も残して持ち帰って母に渡すのが苦痛だった。
みな夜型で朝がダメで猫好きでやさしくて病気の傾向も似ている。やっぱり遺伝子はあると納得するしかない。そしてこの母方の話を聞くと、どこが父方から来たかまでわかる。商人系の母方に大学教授や学者はいない。しかも地域でいうと東京、京都、能登半島、信州伊那谷そして長崎の混合だ。だから僕はどれがルーツというより、ヨーロッパ人みたいに混血したブレンド種であることに個性とプライドを感じている。
そう開き直ると、自分の趣味がどう変わっていようと変な人に見られようと、そりゃあそのどっかから来たんだ、こんなに色んなところなんだよ、ひとつにまとまるわけないじゃん、だから仕方ないでしょという口実になる。あんまりいないから相手はわけわからないし、言ってる本人だってそうだからどんな馬鹿なことをしでかしても仕方ないですむというご利益があるのである。でも最近は京都、能登、長崎の血が濃いのかなという気がしてきてもいる。美意識は京都、オタクは能登、情熱は長崎とすると僕という人間の8割は説明できるからだ。
実際に行ってみて、びびっと何やら電気が走ったのはやはりその3つだ。東京は日常だし、先祖の石碑なんかがある伊那は意外にそうでもなかった。そういう直感に僕は忠実に生きてきて今があるのだからそう思うしかない。先祖を大切にする、親族は仲良くする。これは血に忠実に生きるということだ。従兄の年ぐらいは生きたいが何が起こるかは誰もわからない。だから血の命じるものに無理して逆らっていまさら良いことがあるとも思えない。無理は若いころ10人分もしたし、もう毎日を楽しんで自然と体、心が赴くままに生きていこうと従兄の前で誓った。
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安藤百福さんと特許
2018 OCT 13 12:12:31 pm by 東 賢太郎
インスタントラーメンを発明した安藤百福さんがドラマになったらしい。テレビは見ないからそっちは知らないが、こういうのが縁なのだろう、たまたまやっていた番組が彼の特集をしていて、食い入るように見いってしまった。
野村で大阪に赴任してすぐ、大営業マンとして著名な先輩の武勇伝を聞かされた。日清食品の社長室に押し入って?初対面の安藤さんに株を買ってもらった話だ。愉快、痛快。先輩もさることながら安藤さんは大物だと思った。
それが頭にあったのだろう、同じことをやってみたら名門企業のU社長がやっぱり株を買ってくれた。今になってみるとこんなことを二十歳そこそこの小僧にさせてしまう野村證券も凄いが社長も後に関西経団連のトップになった大物であられた。野村も社長も、これが大阪でなくて何だろう。やっぱり僕を育てて筋金を入れてくれたのはオモロい大阪なのだ。
日本統治時代の台湾出身で大阪人であった安藤百福さんは日清食品(株)創業者だが、傑出した発明家でもあった。失敗と困窮と苦難の末に製法を考案したインスタントラーメンが大当たりしたは良かったが、劣悪な模倣品がどっと市場に出てしまう。どこでもある話だ。そこで発明家は創業者利益を侵害されぬよう、特許という盾によって侵略者と戦うのである。
画期的な発明ほど魅力的であって、模倣品との戦いが熾烈になるのは道理だ。ナンチャッテだけで生きる人たちの総攻撃にあう。せっかく美味しいと認められつつあったチキンラーメンが劣悪品の風評被害で大ピンチになってしまった。番組がそこまで来たとき、僕は青色LEDの中村修二先生の発明特許が900もあるのを思い出していた。そういうものなのである。
ではそこで安藤社長は何をしたか?
「特許を開放してしまえ」と命令したのだ。これには驚いた。日本ラーメン工業協会を設立して製法特許権を譲ってしまう。経営の常識として全役員が反対したのは当然だがそれを押し切った。叩くのでなくやらせてしまえ、我が事になれば皆が品質や安全にも気を配るようになる、「野中の一本杉になってそびえるより、豊かな森にした方が実りが多い」。
これは凄い。涙が出てきて声にならず、いっしょにいた家内は驚いたろうがこの衝撃は文字にならない。このトシでよもや経営話ごときでガツンと後ろから殴られたようなショックを受けるなんて、自分に何が起きたんだろう?むしろそっちに驚いた。まだよくわかっていないが、想像で書いてみるしかない。
まず彼が規格外の人物ということだ。創業者、発明家は相応の苦労をしている。だからタダ乗りを締め出して利益を独占したくなってもそれは当然のご褒美であって、寛大でない、セコいとは言われない。これは世界の常識である。苦労なく幸福をばらまくことのできるのは神だけであり、人間は神でないことを知っているからだ。それを放棄することは、理由は何であれ、幾分かの他利の精神がなくてはできないことで、そうそう常人の及ぶものではない。
特許で囲えるという法律があるなら、囲わなければ模倣は合法だから許されるという妙な理屈が出てくる。だからこそ囲わざるを得ない。日清食品がいくら特許侵害訴訟を起こした事例があろうが必然以外の何物でもない。創業、発明はゼロから有を生む。止まっている物を動かすには静止摩擦を上回る巨大な力が必要なのが物理法則であって、それが創意とリスクテークの度量という一種の才能、才覚である。凡人にもできる物まねの「ゾロ品」を生む権利などで潰しては国益にまでかかわる大事なのである。
しかし、それだけだったら偉い人だねとは思っても涙までは出ない。そこで次に思うのはスイスにいたころの麻薬常習者の話だ。安藤さんのジャッジはそれに似ているのではないかと直感的に思ったのだ。事はこういうことだ。1995年ごろ、チューリヒ駅近くの公園で若者による注射の射ち回しが議会を巻き込んだ大問題となったが、そこで市は希望者に注射針を無料で配るというやはり想定外の手に出たのである。
背景には麻薬常習者の増加に加えてさらに喫緊の問題があった。注射針を介して当時流行っていたエイズが拡散することを恐れたのだ。取り締まれば奴らは地下に潜るだろう。するとエイズも地下に潜る。見えぬ病原体相手にはそのほうが市民生活には危険が及ぶと思ったのである。これは寛大でも他利でもない、国家は市民である君らに介入はしない、楽しみを奪ったりもしない、だから、俺たちを巻き込まずに好きに死んでくれという冷徹な政策だ。
商人でもあった安藤さんがどちらだったかはわからない。しかしどっちにしても涙は出そうにない。どうやらもっとずっと僕の個人的なことで、きっといま頭を占めているいろんなことで、チキンラーメン特許開放!は響いたに違いない。
証券屋というのは30年もやればいろんな経営者を見てくる。皆さんいろんな経営手法でいろんな英断をされている。しかし証券屋はそこで「社長、流石ですね」と持ち上げて商売をもらうのだ。何がどう流石かなどはぜんぜん二の次で。特許開放!いよっ、流石は大社長、ご英断ですなあ。
こういう馬鹿丸出しの太鼓持ちが反吐が出るほど嫌いで、長年の仕事柄そんなことをやる風に染まってしまっていた自分まで軽蔑していた。安藤氏の英断はまず僕を素朴に驚かせ、僕はそれに驚いた自分にはっと驚き、そうか、ついにあの馬鹿らしい世界から脱却できていたんだと気がついた。それだったんじゃないか?
返す返すも社長室に押しかけて安藤百福さんにお会いしなかったことが残念だ。
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オモロい人たち
2018 OCT 11 6:06:10 am by 東 賢太郎
大阪で仕事したころ、「あんたオモロいやっちゃ」といわれてそうかなあとけっこう戸惑った。これが「面白い人」ではないと知るにはしばらくかかる。それは関西弁でしか表せないニュアンスだからで、東京にはそういう表現がない。
面白いはfunnyである東京人はそういわれるのは面白くないが関西でオモロいはinterestingであって悪い意味とは限らない。東京ではしかしそれを訳すと「あなたは興味深い人ですね」みたいになって、これはこれで上から目線の感じで余計なお世話だとなるからややこしい。英国でWhat you said is interesting.なら言えるがYou are interesting.は失礼感があるように思え、言ったことも言われたこともない(アメリカは知らない、トランプは言いそうだ)。
つまり、You are interesting.を好意、親愛の表現で言ってしまう関西は特別な場所かもしれない。土足で踏み込む感はあるが人のぬくもりもある。いや、それをぬくもりと思うのが関西だと東京人の僕は思った。
しかし最近、東京にだって昔からオモロい人はたくさんいるのだけれども、その人たちをオモロい人と思う人があんまりいないだけなのではないかと思うようになった。つまり「オモロい」という概念は受容する側の問題だと。
僕はこの「オモロい」こそが人間の人間たるゆえんであって、ちょっと大げさに言えば人類を進化させる原動力ぐらいに思っている。オモロい人がいくら周囲にいても、彼らを受容するカルチャーがなければ宝の持ち腐れになってしまう。
中学に丸山鉄男というオモロい奴がいた。こいつのオモロさを凌駕する人間はいまだに現れていない。図抜けて天才の域にあり授業中に隣りで悪ふざけして笑いをこらえるのに死ぬほど苦労した。早稲田高等学院に入ったが馬鹿なことに大学でサーフィンであの世に行った。でもあれは僕の中で生きているからいい。
「オモロい」は東京にいると、どうも錆びついて見えなくなってくる気がする。大阪やアメリカや香港にいたときは僕の「オモロいセンサー」はもっと感度が良かった。そう思いだしたので最近はつとめて知らない世界の人と会って話している、というか、話し込んでいる。思ったらすぐに何か手を打たないと鈍る一方で僕にはあらゆる意味でよくないからだ。
ネクサスの動画に出演してくれた90人の若者たちは宝庫だ。彼らはみんな熱中型人間で飯食うのも忘れて何かに没頭するタイプだ。それでその世界で凄いと言われハングリー精神に満ち満ちている。こういう人は強い「気」を発してる。動画でそのシャワーを日々浴びていると僕は元気をもらえる。
だがもらうだけじゃあいけない、発見がしたい。例えばそのひとりのサムライの島口氏は海外でひっぱりだこである。欧州ツアーで飛び回って帰国したから報告したいとほんの少しの時間なのにわざわざ来てくれる。そこまでウケるには、まだ僕の気づいてない才能がこの人にはある。あるはずだ。そう思ってそれを知りたくて興味津々だ。
会社を2つ作って50億円もってる38才にもきのうお会いした。初対面でありオモロそうだと聞きつけて来てくださったようだが、こっちは商売より彼のオモロさがどこにあるのかが大事だ。それがなければそんなカネが作れるはずがないからだ。
「深く井戸を掘りました。頭悪いんであれこれできなかったんで」
「いや50億作った人が頭いいのが資本主義だよ」
そんなことを2時間話し込んで、ビジネスについてはよくわからなかったがオモロい人だった。株の話はほとんどせず、ゴルフのベスグロ75で同じだね、でもジョン・レノンの最高傑作はアイアム・ザ・ウォルラスじゃねえかなというところで意見が合致して終わった。
元ロッテのサブローこと大村三郎氏にはときどき最近のプロ野球界のもろもろを教えてもらう。彼は巨人もいたしオモロい。なーるほど、人間だからどこも一緒だよな。そういうの勉強したいって、じゃあ司馬遷の史記だねオモロいよ。彼は即決のスナイパーだ、すぐ読了するだろう。
たしかPWCのレポートに、2030年にAI革命が進んでいて、世界で最も危ない国は日本であり、62%の人が職を失うとあった。ブルーワーカーだけではない、銀行員や公認会計士もだ。でも人を感動させる職業は残るとある。要は「オモロいやっちゃ」になればいい、そういうことなんじゃないか?
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僕の運命を変えた広島カープ
2018 SEP 27 23:23:51 pm by 東 賢太郎
カープファンになったのは1962年(昭和37年)のことです。56年間もカープ戦に一喜一憂してきたことになりますからもう人生の重要な一部です。海外にいた16年間は、まだまだ日本の出来事は翌朝の新聞で知るというまだるっこしい時代でありました。朝一番に経済欄ではなくスポーツ欄から読むのでこっぴどく叱られましたが、気になったままでは仕事になりませんと臆せず正論を吐き日課にしました。緒方、前田、金本あたりはそのころ活躍してましたが、だから姿はあまり見てないのです。新聞を見てよく打っとるなあ、いいのが出てきたなあと球場のシーンを想像してわくわくしてました。
大学2年の夏に九州旅行をした帰路のことです。博多からひとり新幹線に乗ると、網棚に読みさしのスポーツ新聞がありました。それがなければまさか広島であてもなく途中下車するなど考えつきもしなかったでしょう。ところが紙面に小さく「広島・ヤクルト(市民球場、18時)」とあった。これが運命を変えました。矢も盾もたまらず降りてしまい、試合後はユースホステルに頼みこんで泊めてもらったのですが、翌朝、たまたまそこの食堂で目の前に座った女性がのちに妻になったというのは偶然にしても話ができすぎでしょうか。
家内も僕も広島になんの地縁もないのだからこれはカープ大明神のお力だったに違いなく、そもそも昭和37年のご時世に東京生まれの小学生がクラスでいじめられるの覚悟でカープファン宣言の狼煙をあげたこと自体が今日を予見した大明神様のお計らいだったと考えられるのです。だから子孫たちは我が身あるのもお陰様と僕の仏壇にカープの球団旗ぐらい祭ってくれてもバチは当たらない。もちろんひとりぐらいは入団してもらわないと困るしウチは爺ちゃんも野球だし血筋はある、ぜひお願いしたいところです。
その日の試合はどうだったか?勝ったんです、前年初優勝してその年は3位でしたが、山本浩二、衣笠、ホプキンス、シェーンがいて強かった。これを3塁側内野席、ベンチあたりのいちばん上の方で見せてもらい感激でした。得点は忘れましたが9回裏にキャッチャーの水沼が左中間2塁打を放ってサヨナラ勝ちでしたね。初めてのカープ戦、初めての市民球場、初めて踏んだ広島の地、それにしてもあの日はなんだったんだろう。
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トゥールダルジャンにて思う
2018 SEP 18 0:00:36 am by 東 賢太郎
仮にTさんとしておきますが、女性のかたから「男女の脳はぜったいに違う、だから気をつけなさい」と意見をいただき目からうろこでした。「(東さんは)ぜんぶ自分中心だから周りが大変ですね、特に女性は」と鋭い観察眼で、お説教ではなくロジカルに説いていただいたわけですが、こういう流儀の説明を女性からいただいたことはありません。
既述の通り僕は女性と話しがかみ合うことがなく、脳が違う説は支持者でありました。いわく女性は同時に別のことを考えられる、何事も没入しない、面白い本を山場でやめて眠れる、100mの穴は掘らず1mのを100個掘る。なるほどそれじゃ無理だ。たしかに母といえども僕が電車のブレーキが溶けた鉄片を線路で拾ってくるのが理解できず、毎回すぐ捨てられました。
鉄片の収集とCD収集は僕の中では全く同じことで、電車の車輪・ブレーキへの関心と音楽へのそれも全く同じです。ということはその調子で書いてる僕の音楽ブログは実は女性にはぜんぜん理解されてないかもしれない。youtubeに貼っている音源もその趣味のチョイスですがアナリティクスによると来ているのは男ばかりで、そういうことかもしれません。
同時に別のことを考えながら交響曲を書いたり相対性理論を発見したりはできないだろう。好きな事を寝食忘れて何時間でも没入できるのは男だけなんでしょう。Tさんいわく、「女にそういう人はまずいません。でも男も大半はそうではない人ですよ」で、僕はというと「いちばん遠いところにいる」そうなので合うはずがないのです。たしかに男の大半も、実は合わないのです。
そう、Tさんを東京ドームにお連れしたとき、8回あたりで「終ると混むでしょ、そろそろ出ますか」とおっしゃる。「ちょっと待って、こっからいいところでしょ?」という会話がひとしきりあってつきあってもらいましたが「あれのことですね?」「そうそう、でもほとんどの女性はそんなもんですよ」
たしかにこれは家内、娘も一緒であって、どうしてそういうことになっちゃうわけ?のオンパレードの歴史であったのです。モーツァルトの親父が息子との旅行先で似たことがあって手紙で妻と娘にお前たちはほんとうに馬鹿だねと切れてる。馬鹿はいかんです、differentですね。ナンネルちゃんだって弟と変わらぬ神童だったわけだから。
さすがに家では長年の経験から近年はストレスをかけないようにしてくれているので有難いことです。そうでないと僕は仕事にならない。普通の人は寂しくなって誰かにかまってもらいたいのでしょうが僕はなるべく放っておいて欲しい。「孤独はいいですよ。没入できますんで。そういう時に寄ってこられたり声かけられるのも嫌なんで、猫以外はね」。
ドイツにいたときのことですが、森を歩くと老カップルが散歩しています。ヴァンデルン(wandern)といって何をするわけでなく歩くだけ。それもそのままオペラハウスかフレンチレストランに行ける正装でね。あれこそ大人の時間なんです、最近あれを思い出してましてね、いいなあ贅沢だなあと思う。
フレンチといえば、僕が好きなんで、Tさんには仕事で格別のお世話になったお礼でこの日はトゥールダルジャンにお招きしたのです。ご婦人同伴でないと行けないところですが、僕はあのパリの宮殿のような空間でぽつんと一人で給仕されていたいなあとも思う。食事もワインもよろしいが、それゆえの贅沢というのはまだ若い、贅沢なのはあの空間と時間を占有することなんですね。
それにしても食事はいいですね、胃袋に男女はなさそうなんで。
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