二十歳までとは別な速さの時間
2017 DEC 14 2:02:39 am by 東 賢太郎
もう師走かとは毎年思うことだが今年はさらに早くやってきた気がする。光陰矢の如しとはいうが、矢は確実に加速している。ゾウの時間、ネズミの時間とヒトの時間は速さが違うという本があったが、浦島太郎じゃないが、同じヒトでも年齢とともに速度は変わると考えたほうが実感にあう。あと何年あるか、10年か20年か知らないが、二十歳までの10年、20年とは別な速さの時間だし、これからの一年一年は今年よりもっとあっという間に過ぎてゆくのだろう。
先週に社員と食事したおり、「あした死んでも悔いないよ」とまじめに言ったらびっくりされた。その日はまさしく本当にそうだったのだが、今日は「明日じゃまずいな」という形勢になっている。ずいぶん日和見と思われるだろうが、取り巻く仕事の事情がそうなので、ここでいなくなったら大変だということになってきてしまった。これは仕方ない、お天気と一緒だ。
悔いないよという日にあっさり逝くのがベストなのは言うまでもない。ということは、いつその日が来るかわからない以上は毎日その状態になるように生きていくのが理想ということだ。楽しいことはもう十分にやった。そのうえで、僕はいつも「人生のバランスシート」が頭にあって、世の中、周囲の人々との様々なものの貸し借りが均衡しているのが安寧で心地いい。その状態こそがそれである。簡単なことに思われるかもしれないが、これは実に大変なことである。
今週月曜にあったT社長の社葬で、写真の元気なお顔と耳慣れた語録を拝見、拝読しているうちに涙が止まらなくなった。4年前にミクロネシア・トリップで知り合って、それ以来、まだ社業に不安だった僕に夢と生きる力を下さった大恩人だ。強烈なインパクトの方だった。僕は自他ともに認める頑固者である。いまさら少々の経営者のいうことなんかきくはずもない。そんな種類の人間が、しかも還暦にもなってだ、こんな邂逅があろうとは想像だにできないことだった。涙は、なんにも恩返しできなかった悔し涙だ。
喪中葉書が例年にない枚数やってくるので年回りというものなのだろうが、死というものがこんなに身近な年はなかった。何度も心がぽっきり折れたが、そのたびに「もっと何かしてあげればよかった」という悔いが湧き起ってきて、いただいたものに報いずに自分が折れてしまうとその悔いは倍加することに気づくのだ。それが反動になって立ち直ることの繰り返しである。人生のアンバランスがいけない。であれば今つきあいのある人、以前でもなんらかのご縁のあった人たちに「何かしてあげる」ことに今からでも精進すべきなのだとなる。
お世話になったという気持ちは一方的なものだから相手がそう思ってない場合がある。いやむしろ、見返りを期待しないお世話ほど僕に重たいものは世の中にない。そういうものを見過ごしたり忘れたり、ただ取りしてしまう人もいるが、ビジネスはそれでも許される。だから相応の対価(お金)を払うのであって、あげた以上の見返りを期待する前提のものなのだ。証券界で生きぬいてきた人間だから僕はその世界では氷のように冷徹だし、過分に見返りを取ろうというたくらみを見抜いてつぶすのに情け容赦はない。しかし、だからだろう、見返りを期待しないお世話というのは別世界のことで、プロットする座標軸がない。T社長が「僕はおせっかいなんです」とくだっさたのはそれだったのだ。だからいい歳した男があり得ないことだが、ぼろぼろ泣けてきたのだ。
たとえば母が何を期待しただろう。自分も親になって知ったが親の愛にそんなものはない。だからこそ僕は千倍万倍にして返したかったが、結局は自分が満足だとまで思い至るのは叶わないことだった。だからだろうと思っている。最後の最後、認知症で意識はなかったが看病で少しでも良くなるぞと信じ、夜を徹して声をかけたり音楽を聞かせたり肩をもんだり手足をさすったりして、寝不足と体力の限界で僕がへとへと、ぎりぎりになったのを見届けたあの日に母は決意して逝ったのだ。僕にここまでやったと思わせようと最後の力をふり絞ってがんばって、病室で9日間も一緒に過ごす時間をくれたのだ。なんということだ親というのは。
何かのご縁のあった人は少なくない。百人ぐらいはこっちが勝手にお世話になったと思っているし、おせっかいなことなのかもしれないが、なにか返したい。その機会と時間がいただければの話だが何もしなければそれは永遠にない。こうして自分の過去と思いを記すのもその衝動があるためかもしれない。あと何年あるか、10年か20年か知らないが、二十歳までの10年、20年とは別な速さの時間。これとの戦いなのだろうか。
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1万円も1億円も同じ金融屋という景色
2017 NOV 25 15:15:52 pm by 東 賢太郎
われわれ金融屋というのはお金は「商品」であって、自分の財布にある1万円札も1億円もおんなじという常識ばなれした感覚を持っている。金融機関に長年勤めればそうなるということではまったくない。良いか悪いかは別として、単なる適性の話として、そうなれる人となれない人の比率は金融機関勤務者とそれ以外でとくに差はないと思う。今回はそういう眼を持ってしまった者から見た景色がどんなものかをお話ししたい。
我々普通の人はハンバーガーは食べるものと思っているから「それを5個」と聞けば「そんなに食べられない」という意識がつい出てきてしまうが、マックの経営者からすれば100個も1000個もただの数字であって食べ物という生理的感覚とは仕分けされているはずだ。お金が商品の人の感覚はそんなものであって、銀行の頭取や証券会社の社長が融資額や売買代金が少々減って自分が懐を痛めた感覚になっては経営にならないのである。個人によって程度の差はあるが、僕の場合、1000億円あたりまでは財布の1万円とおなじ感覚である。他人のカネと自分の財布を峻別するのがこの商売の絶対要件の倫理観なのだが、それとは別個の感覚として1000億円を客体視できるようになるのだ。
最近は紀尾井町まで行って帰ってきて1円も使ってないことも珍しくない。他人のカネと自分の財布は峻別なのだから矛盾のようであるが、貯めてるのでもけちっているのでもなく、カネは商品だから不要なことに使わないという倫理観は財布にまで染みついているのだ。それを欠いた人が100億円もおんなじとなれば大事件が起きる。昔、大阪のキャバレーのおっさんが「わしら店の女の子に手だしたらあきまへん、商売になりまへんわ」と教えてくれたが、実に商売に不可欠な倫理観の真理をついた言葉だ。僕らもそんなものがあり、他人のカネの増減が財布のひもをしめたりゆるめたりはしない。そこまでいかないと他人の100億円は扱えないのである。
つまり金融屋が守銭奴やビッグスペンダーであるゆえんはぜんぜんないのであってむしろ逆である。今日は儲かったからパッといくぞ~と札びら切るイメージがあるだろうが、そういう性格の人はいい金融屋にはなれない。カネに甘く倫理観がない。一方で、一代で資産を築いた人は金融屋でなくても大なり小なり似ている。あんなにお金持ってるんだからこのぐらい出してくれるだろうとチンケな儲け話なんかもちかけても絶対に出ないと断言できる。そんなのに乗るような性格の人は金持ちになれない、なぜかというと、それに1円でも出す規律の甘さは店の女の子に手を出すようなものだからだ他人のカネや商品を扱う資格はなく、信用されない。信用がない人は事業ができずカネがないからだ。カネに対する倫理観は他人勘定か自己勘定かには関わらないところが共通しているのである。
困ったことには、そうなると「お金は使うもの」という意識が希薄になっていくことだ。単なる数字だから、この1万円札であれを買おうなんてことは二の次であって、どうやったら2万円になるかしか浮かんでこない。相場は24時間動くので寝ても覚めてもだ。これはゲームで点数を増やすのとおんなじだがゲームは終わりが来てもこれは死ぬまでやめられない。こんな人生を「楽しい」と感じるか「苦役」と感じるかがいい金融屋になれるかどうかの分岐点だ。
昔はよく「わたしの10万円ふやして」なんて飲み屋でいわれた。NOだ。「なけなしのお金」はだめなのだ。株に絶対はなくてこっちの「指し手」がおかしくなる。そんな甘い世界ではなくイチローだって絶対ヒットという方法はない。ちなみに現時点でソナーの今年の運用助言成績は+29.1%だ。お正月の100万円が129万1千円になってる。でも、彼女の10万円をうけて「絶対打ってね」となると、手元が狂ってファンド全体でそういう成績が出なくなるかもしれない。理屈はないがそんなものであって、そういう危ないことはしない。
銘柄を発見するアナリストの雇用体系は時間の縛りはない。ほとんど投資する候補の会社を回って経営者に会うという情報収集だが、そのまま帰宅しようとどこへ行こうとかまわず、そのかわり結果は出してねということ。それで毎年ちゃんと20%は出してるんだから超低金利の世の中で何の問題もない。こういう人がスナイパーであって、僕がスナイパーしか使わないのはこういう仕事だから道理なのである。たかが20%と思う人もいるだろうが、4年続けば元手は2倍だ。
初心者が50%も100%も儲かることはあるがそれは異常値にすぎない。ビギナーズラックである。良すぎはリスクの取りすぎの結果であって、次の年にマイナス50%になることも大いにある。毎年プラスゾーンにいることに価値があるのでプロには「良すぎ」はバツのシグナルだ。減らさないだけで難しいのは5年もやったらわかる。イチローはホームランも打てるがそれは狙わないで打率3割(失敗率70%以下)を何年も連続したから何十億円をもらえたことがその証拠だ。勝負は長丁場でも負けないことに価値があるのである。
彼の才能と言えどもそんなスナイパー人生を送るには命を削る努力が日々あるはずだ。そこまで削る必要のないサラリーマンの人生と比べることはできない。年間の運用アドバイス料で一般的な2%をいただくとして、10万円だと2千円、100億円だと2億円だ。しかし、どちらもやることは同じで削る命の分量も一緒なのである。2千円と2億円は払う人の懐具合しだいで重みは一緒だ。命の代金が2億円とするなら、2千円の人を集めると10万人も必要である。10万人の観衆に「毎打席ヒット」を期待されたらこっちの人生が破滅するだろう。
だから投資信託というものは、少額でも運用の規模の利益が得られるというプラスはあっても、その運用者の人生を破滅させない仕組みでないならばその仕事の引き受け手はなくなるという宿命にある商品なのである。それは、運用者はすべからくサラリーマンであるということを意味している。彼がどんなに深遠な運用哲学を語ろうと、損を出しても運用会社をクビにならない雇用契約で働いている以上はその宿命から逃れることはないし、サラリーマンに僕と同じことができるとは考えていない。逆にそうではない自営業者の僕は、心労だけが10万倍になる投資信託ビジネスをやろうという意欲は100%ない。
僕がこの仕事をしてよかった、性格に向いていたなと思う反面、何のために生きてるのだろうと愚痴りたくなるのはカネの使い方をまだ知らないからだ。儲けるのも難しいが使うのも本当に難しいと思う。うまく使うというのは何かを安く買うということではない。食事するのに安いからこの店に入ろうということはなく、おいしくないものがいくら安くても意味ないのであって、満足感を買うのに千円か一万円かは本来は関係がないはずだ。現実に屈してしまって仕方なく千円の食事で満足できる自分に「自分を教化」していってしまうと、実は知らず知らず千円の価値の自分を作ってしまう。
自分に投資しろとよく言うが、あれは本当だ。無理してでも一万円のものを食っていれば自分もその価値になる「可能性」だけはあって、だんだんそれが食えない自分がつましい、食える自分でいたいと感じる自分ができてきてくるだろう。少なくとも、願わない自分にはなれないとだけは言える。一万円の料理はそれなりの手間、サービスが費やされている。他人にサービスしてもらうには自分自身が価値がある、価値を生み出せる人間でなくてはないらないということであり、それには努力を要し、時には命を削らなくてはならないことを悟ることになる。
そこまでは62年生きて分かったつもりだが、では僕が社会に何の価値を生み出しているのか、何のために働いてきたのか、まだまったくの未知数だ。もう自分に投資する年ではないし、それはきっと使い方のきれいさにかかっているのだろうが、人生で一番難しいことかもしれないと考えている。
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あいつはどうだ?と聞ける人
2017 NOV 10 0:00:40 am by 東 賢太郎
「・・・そうかお前も元気だな」「そりゃそうじゃなきゃこんなポストつとまるかい」「あっちはもう心配するな、なしだ、いいな」。無言。「あいつはどうだ?」「使えない、へたするとおじゃんになるぞ」。無言。「じゃあな、わかった」。
これはスパイ映画のシーンではない。最近ある会社の経営者と電話でかわした会話だ。こういうことで会議が招集されたり人事が出たりする。二人以外は誰も知らない。自分が彼の立場だった時も、こんなものだった。
密室政治はけしからんとか世間の実相を知らない人はいうが、知らない人は知らないだけだ。良かろうが悪かろうがやるのは人間だ。どの国の元首だってマフィアのボスだって、自分の権限で孤独に決めなくてはいけない重たいことは、最後の最後はこんなもんだと思う。
相手が腹心かというと、そうとは限らない。僕は彼の部下でもコンサルでもない、長く信頼関係にあるだけだ。腹心を作るとむしろ危険である。イエスマンは100%害だ。会議も、自分は議長でない方が良い。頼れるのは正しい情報と研ぎ澄ましたセンサーだけだ。仕切るより耳を澄ませだ。
センサーは自分で磨くしかない。人と会うこと、取引すること、それ以外にない。顔色を読むのでなく(不要だ)、反応を類型化することである。同じ人種もその中に細かく人種がある。それを分類するのである。これなしに営業やらマーケティングやら、まして経営などがわかる道はない。
最後の最後は自分でほんとうにわからなくなることがある。第三者の目がほしい。能力はわかってる、でも「どういう人?」ということについてだ。だいぶ前に僕はある男を飲みにつれて行って、それが目的だったのだが、女将に理由を言わずそうきいてみたことがある。
ばかなと思われようが、社内でそんなことは口が裂けてもきけない。それに女性のセンサーはちがう。利害、感情でモノを言わない人なので聞きたかった。想像だが寺田屋で龍馬を逃がしたおりょうはそうだったんだろうし、横浜富貴楼の女将お倉はあの伊藤、大久保、板垣らが話をききたがった。
こういうことは料亭文化とでもいうか、日本特有かもしれない。女将が組織のグルならどこでもあるだろうが、彼女らはスパイでも愛人でもハニートラップでもない。今なら大統領、首相、閣僚級の男たちが与太話でなく密談したい。女にも大物、小物というものがあるのである。
個人的に酒席で与太話は好きでない。接待はするもされるも好まない。酒は飲まれないように嗜みたい。
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洋モノ美しいもの好き
2017 OCT 26 23:23:04 pm by 東 賢太郎
いつだったか、この本を買ってきていたく感動して一気に読んだ記憶がある。そうしたら昨夜たまたま寝れなくて見ていたTV番組に本の主人公のモデル、サンモトヤマ創業者・茂登山長市郎氏が登場していた。氏は終戦後の銀座に闇屋を構える。初めは進駐軍のつてで米国品を輸入したが、出会った写真家・名取洋之助から「美しいものが好きならヨーロッパに行け」「まず美術館と教会を観ろ。一流ホテルに泊まれ」と言われる。単身パリ、フィレンツェに出かけ、グッチ、エルメスなどの日本独占販売権を獲得する。ひたすら美しいものを追い求め日本に欧米ブランド文化を根付かせた男の熱い一代記だ。
感動したのは魅せられたグッチに毎朝毎朝10時の開店と同時に通いつめ、とうとう会えたオーナーに「日本を俺にまかせてくれ」と裸一貫でぶつかったことだ。その情熱が通じて、ちょとした運も助けてくれて、その場で「やってみろ」と認められていく手に汗握るくだりは野村證券に入社してすぐ、かけだしだった2年半の忘れられない大阪梅田支店でのあれこれと重なってしまい感情移入なしにはいられない。こんな人がいたのかと心にずしんと響く音を聞いてしまったのだ。
本で強く印象にあった茂登山氏は、想像通りの魅力的な人だった。着ているシャツの色。「だってウチはサン、太陽でしょ、だから赤と黄色が好きなんです」なんて、何の理屈もないが、うんなるほどと腑に落とされてしまう。こういう人は学友にはいない、そういえば証券会社のお客様にいたなあと思った。僕はこの商売を始めるまでは営業マンなど程遠いかなりの人見知りで、初めての人と気軽に友達になったり長く会話することさえない性格であり、証券の仕事で出会った人間力あふれる先輩やお客様にそれを直してもらったようなところがある。
ただ例外があって、何であれ、どんなジャンルであれ、語ることに情熱と自信があってリスペクトできる人は昔からその限りでなかった。氏素性でも勲章でもなく人としてのヴァリュー、生き筋の良さとでもいうべきもので、氏はまさしくそれをお持ちの人であって、好きなことをぜったいの自信をもってやってるから言葉が重たくて歯切れがいいのだ。ああいう人はどこにもいるようなもんじゃない。頭脳明晰、理路整然の言葉を吐ける人はいくらもいるが、大体において男としてつまんないヤツばかりだ。
やっぱり洋モノが好きな僕は、氏と同じ時代に生まれてたら闇屋をやったかもしれないと見ていて思った。外人相手の仕入れの交渉なんてさぞエキサイティングだろうとわくわくするのは商人の血が流れてるからか。そして何より、美しいものが好き。氏の人生を動かしたそれが、譲れないほど僕にもある。そうするとどうしたってヨーロッパ、洋モノになってしまうのだ、パリやロンドンやウィーンやローマの記憶に今だってどんなに魅せられていることか。
先日娘の誕生日に「お父さんの人生はね、お前たちが生まれたヨーロッパ時代までが上昇、そこからずっと下降だよな」と話した。そのまま終わるのは嫌だとまだやってるが、でもあした死んじまってもけっこう満足だぞ。そのぐらいね、サラリーマンではないぐらいいろいろすごい経験させてもらって、ここ(心)にはいい思い出がごまんと詰まってるんでね、とも言った。まさしく本音だ。これは野村という代え難いほどいい会社に入れてもらって、自分から希望したわけでないがきっと阿吽の呼吸で好きが伝わって12年も欧州赴任した。こんなラッキーな人生はまたとあろうか申し訳ないとまで思うが、それがまた上掲書の氏のことに重なってしまうのだ。
思えば僕にとってクラシック音楽も洋モノ好きの一部分だった。いまだってそうだ。レコードなどまだまだ戦後の闇屋、バッタ屋っぽかった秋葉原で電器屋が売ってたのであって、髙島屋なんてお品のある所じゃない。1枚2千円で欧州をのぞけるウィンドウだったのだが、のぞいた景色は大変上等だ。そんなものを闇屋風情で自分の眼で選んで買うミスマッチも味があった。本当は絵の方が好きかもしれないが色覚のせいでひけめもあって、でも子供の時、楽器や歌でほめられたことは一度もないが絵はおおいにそれがあって、こっちのほうがもっと適性があったかもしれない。だからこそ、ビジュアルな美を求める茂登山氏の世界には他人事でない感じがあるのか。
番組でもうひとつ、六本木のイタリアンレストラン、キャンティのオーナー夫人・川添梶子も面白かった。旦那の川添氏は後藤象二郎のお孫さんだ。客は著名人、といってもアート、芸能系で、まあパリでいうサロンみたいなもんだろう。梶子は昭和3年生まれでお袋と同じ。やっぱり洋モノ美しいもの好きで、やりたいことやって早くに亡くなったが見事な人生とお見受けした。お袋が僕を成城学園初等科に入れたのは自分がこういう世界が大好きだったからだが、見ていてよくわかった。そういうのは縁遠かったが、出てくるキャンティの客人はみんな人間的魅力があって、なんかほわっとしたこういうのもいいなと思った。
先日、T社長ご逝去の知らせで某弁護士から「我々にも、残された人生の時間はそんなに長くないことを肝に銘じて、仕事や遊びに励みたいと思います」と彼らしいメールがあった。そうだ、そういうトシなんだねと思わざるを得ない。そういうこともあって番組見ながら「ところで今まで俺って何やってたんだろう」という自問の気持ちも出てきたりして、「ここまでおかたい金融屋の父親路線できているけどゆるいお袋の方もいいんじゃないかな」と横恋慕しそうになってくる。お袋は喜ぶんだろうなそれを。なにせ美しいもの好きばかりはそっちの遺伝だ、どうしようもない。
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教養のすすめ
2017 OCT 12 11:11:39 am by 東 賢太郎
僕は自分の子供に「教養」だけは身につけてほしい。父親としてそれ以外のことを教えることもできないし、人生は自分のものだ、幸せに生きてくれれば専攻も職業も趣味もなんでもいいと思ってきた。教養とは何の専門でもないし、それ自体が生活の足しになるわけでもない。しかし、人間としてより良く生きて、学問にしろビジネスにしろ社会福祉にしろ何か事を成して社会に貢献しようと思えば必須となるものだと固く信じているからだ。
僕は高校まで文学や人文系の科目に皆目関心がなく、受験はご都合戦略で数学だけで切り抜けたことは書いた。教養がかけらもないと気づいたのは大学で哲学、科学史、英語を習ってからだ。東大が全学生を1,2年次に駒場で教養学部に学ばせるCollege of Arts and Sciencesという思想は全くもって正鵠を得た教育である。いまこの年になって経験を経てそう思う。Artは人間が、Scienceは神が作ったものを学ぶ学問というのが西洋の概念だ。理系、文系という区分はない。
文系だから数学はいらない医学部だから世界史はいらないというのは教養と雑学を取り違えた誤解と同根のナンセンスな考えだ。日本一頭の良い高校をクイズ王で決めようという番組はエンターテインメントとしては面白いかもしれないが国民を誤解させるもとであり、子供にはTVを見れば馬鹿になるから消しなさいと言うしかない。
僕がここに書いたのは文系学部廃止論ではない。
暗記は大事だが思考回路を持たなければクイズ番組と同じであり、数学を入試に課さない大学廃止論であり、文系などと呼ぶ明治時代の遺跡みたいな教育は改めないといずれ国難を招きますよという警鐘だ。
僕は駒場で井上忠の哲学概論の「パルメニデスの有」がさっぱり理解できなかった。わからないものがあるのは不快で図書館で随分調べたが日本語なのにわからない。実のところ今もわからないし、生きていく上で理解してどうということもないが、それはわからないことに意味があった。自分の知力より上の智、数学みたいにすっきりと解けない智がある、それこそ「有」であるという画期的かつ原初的体験であったからだ。村上陽一郎の科学史でのケプラー第三法則発見物語はあまりにわかりやすいゆえに天地がひっくり返るほどの衝撃で、思考の仕方に決定的な影響を受けた。それがなければこういうブログも書けなかったしSMCという試みもなかっただろう。
思うに、そういうものが積み重なって「教養」のベースというものができあがる。僕に教養があるというのではない、前稿のT社長のことでそのことに思いあたって書いている。彼は経営で苦労もされ成功もされた。「僕は子供みたいで好奇心の塊りなんです」とよく言われたが、「正規の教育を受けて好奇心を失わない子供がいたら、それは奇跡だ」というアインシュタインの言葉に重なってきこえた。彼は旺盛な好奇心と多難だった経営、万巻の書から実体験を経て優れた教養人となられ、経営で成功されたのだ。
教養とは知識ではない、知識のないことでも包括的に咀嚼して理解、判断できる思考の素地であり、食べ物で言うならピザの生地だし、数学で言うなら大域的最適解の発見能力のようなものである。クイズ王能力などAIどころかスマホで十分で一文の価値もなくなる。そんなもので東大だ京大だと甘やかしていれば世界大学ランキングで中国、シンガポールに抜かれるのも当然だし、そういう学び方をした学生は21世紀の世の中では教養人に淘汰されるだろう。学歴など何の足しにもならない時代が来ているのだ。
余談だが村上先生がここで数学の簡単な証明が美しいという感覚とアートが美しいというエステティックな感覚は共通するという趣旨のことを語っている。
http://hive.ntticc.or.jp/contents/interview/murakami
両者は僕にとって共通どころか同じものだ。こういう結論は単一のいかなる学問からも物知り博士の知識からも導き得ないもので、クロスボーダーのトッピングを許容する「ピザの生地」、強いて言うなら脳の中のイギリス経験論的領域で二つの既知の認知の共振したものが感じられないと認識できないだろう。ただし先生は独り歩きする科学に批判的だが僕は違う。原爆開発に科学者がエステティックな美を見ることを自制するなら科学はどこかで人類を豊かにする発明の原動力であるフロンティア精神を喪失するだろう。私見では歯止めは社会に制度的、構造的に求めるべきで、それは軍におけるシビリアンコントロールと同等に市民の最低限の常識、教養なくして成り立たないものだと考えている。
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諸法無我
2017 JUL 16 20:20:29 pm by 東 賢太郎
四十九日の法要が昨日無事に終わりました。それまでは飲酒、歌舞音曲は無用と決め、ナパ・バレーのテースティングだけ許してもらいましたが仏前で決めたことを守りました。折悪しくその前日になった大学のクラス会も出席はしましたがここで飲んだら意味ないので二次会は失礼しました。
法要後に会食をさせてもらった国立駅前のいとこの店、バー&グリル 「マギーメイ」は40年以上になるから老舗でしょう。ここでやっと禁酒を解き、妹の孫のちびちゃんたち入れて親族21名とがやがや気持ちよく酔わせてもらいました。
皆さんにブログ「うまくやってね」のプリントと家系図を配布。伊那、長崎、諫早へ足を運んで調べたファミリーヒストリーをいとこ世代で共有しました。この結束こそ母が強く望んでいたことで、それを果たして喪主の役目を終えました。
お坊様が言われた「諸法無我」、一切のものは刻々変化していて「私」という存在も常に変化する。感心したのは仏教は相対性理論でもあり、観察するものが世の中だという量子力学でもあるようだということです。玉のように転がっている人生が曲線を描いて変化しても、私の視点ではいつも直線だ。深いですね。
この49日で私という絶対のものは消えました。人生は因果というどうしようもない力が働いて右に左に動いている視点から見た日々の景色にすぎず、いささかも観察者である私の意志で直線的に進んでいるものではない。親がいなくなるなんてことはそう解釈しないと納得できません。仏教の出発点は「一切皆苦(人生は思い通りにならない)」だそうで、そう考えてもはずれてはいないでしょう。
僕は人生で「強く願えばなんとかなる」という実体験を比較的多く積んできた気がします。願わないとやらないのだからそこに一応の因果はあるのですが、うまくいったのはたまたま別の因果でそうなっただけかもしれない。ということは次もそうなるかどうかはわからないしただの慢心かもしれない。私を消すとは、そう思うことです。
そういう心持になると、あらゆる現象に一喜一憂することなく心が安定するそうです。いわゆる泰然自若の大人(たいじん)に近づけるということかな。しかし僕は大人になりたいわけではなく、スポーツの経験から、結果を願ったり力を入れたりしないほうが結果が良いことを学んだので人生もそうかもしれないというコンテクストでお坊様の説法をうかがったのです。
しかしです、メリットを考えるようじゃあ無我とはいえない。まだ欲があります。修業がいりますね。スポーツはフォームが良ければ勝手にうまくいく、これは真実です。では人生で良いフォームとは何だろう?
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うまくやってね
2017 JUL 10 8:08:04 am by 東 賢太郎
ファミリーヒストリーの細々を公に記すのは本意でないが、母のことをどうしても子孫に残したくご容赦をお願いしたい。
母が受けた教育は女学校程度だろう。昭和3年生まれだから開戦時に13、終戦で17という年齢であり、学徒動員で工場で働いたが東京空襲のころには親戚と飛騨高山に疎開していて勉強するという環境ではなかった。花嫁修業みたいなものだろうか英語と英文タイプは終戦後に習っていて、後にひとりで5回も欧米の僕の家に訪ねてきたが、学校で習うような知識には頓着がなく僕に教えたりそもそも勉強しろと叱ったことさえ一度もなかった。
母の父親は明治16年生まれで飯田中学からまだ福澤諭吉が存命中の慶應義塾に進んだ。ケンブリッジに留学して慶應義塾體育會蹴球部を創設し日本のラグビーの父といわれる田中銀之助のまたいとこだが、祖父はラグビーではなく慶應で野球をやって渡米した。「ベースボール」を自らやり熱愛した正岡子規がまだ存命中のことだ。38年に三井物産に入社して後に上海支店長、王子製紙の役員となったが、取引先の三井銀行に「行員でいいのはおらんか」と持ち掛けて末娘を嫁がせたのが僕の父ということになる。
田中銀之助の祖父が田中平八、僕の祖父の祖母「かね」が平八の長姉である。渋沢栄一が回顧録で「明治維新当時の財界における三傑は三井の野村利左衛門(三井銀行の創設者)と鉱山王の古河市兵衛(古河財閥の創設者)と天下の糸平こと田中平八を挙げなければならない」としているが、渋沢はこの三傑の共通点を「揃って無学」とし、日本の近代的大企業を育成した福沢諭吉の慶應義塾の学問閥の対極においている。だからだろうか一族はそろって慶應だ。
渋沢栄一は平八の7才下の深谷の豪農のせがれで親しかった。学があって徳川慶喜の家臣となった栄一は幕臣から維新後は大蔵官僚となり後に現在の社名でいえばみずほ銀行、東急、王子製紙、東京ガス、東京海上、帝国ホテル、清水建設、東洋紡、キリン、サッポロなどを設立したが、そのひとつに東京証券取引所があり、東京米商会所(現・東京穀物商品取引所)の初代頭取だった平八はその初代大株主になった。
祖父は後に国務大臣となる藤原銀次郎が慶應義塾の先輩の縁で三井物産に入り、藤原の辿った上海支店長のコースを経て、藤原が王子製紙の社長となるとついていったようだ。ちなみに当時の上海は長崎から船で23時間かかったが、彼が定宿にしたグラバー邸横の旅館の娘が祖母だ。家格が違いすぎる。それなら橋から身を投げるわと家を捨てての駆け落ちだったようで長崎にもう籍も親類もない。九州の女は熱かったのだ。恋愛結婚のはしりで7人の子供ができたその末っ子が母だ。腹の座った祖母の情熱のおかげで僕がいる。
祖父は僕が2才の時に亡くなったが、彼が生まれた年に大叔父の田中平八が亡くなっている。家系図で平八の祖母・お紋の隣には「お公卿」とだけあって、その謎の人物が平八の祖父である。系図を書いた者は当然知っていたが明らかにするのを厳に憚っている。正室でも側室でもなかったお紋には大層な資産が分与されており、4代下っても母の生家は大森の千坪のお屋敷で乳母が二人ついていた。平八が創業した勝沼の田中銀行社屋(旧田中銀行博物館)は後に北白川宮家など複数の宮家が邸宅などに使用しておりこの辺は興味深い。
面白いのは系図には平八の父方は「武田 五代 武村改姓」とあって武田信玄の子孫である。武田家は勝頼を最後に信州高遠城で滅んでおり、五代末裔と公卿の娘の子である平八は高遠のすぐ西の伊那(赤穂)の人だ。通史では勝頼の子孫は信長軍がしらみつぶしに探して皆殺しにしたことになっていて、調べたがそれが誰かはわからない。わからぬよう隠しおおせたから生き延びたわけだが。
お公卿と武田某は僕のルーツの二大空白であり、「公卿」とは関白、摂政、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、中納言、参議のどれかだ。閑になったら調べたいが、公家の敵であり武田を滅ぼした不倶戴天の敵でもある信長が好きなのだから困ったものだ。そして母は僕を慶應ボーイにしようと成城から中等部を受けさせたが野原で育ったまったくのばかでどこの入試も歯が立たなかった。さらに野球に明け暮れてしまい中高でも成績は人並み未満。そのまま大学入試に至り、ここで絶句する低偏差値にやばいと尻に火がついて東大文1に行くと決めた。親類はいけたのに自分は戦争で断念した父の仇討ちだった。早慶は入学せず自主浪人を決めてしまってがっかりさせたが、やっと受かった本郷の合格発表掲示板の前で母が泣いていたのを思い出す。慶應は代わりに娘がいってくれたので家の帳尻は合った。
こういう家の娘だから母の子育てへのプライドは半端ではなく、男は運動もできないガリ勉などみっともないことで、喧嘩はやるなら勝たなくてはいけなかった。母の兄はフランス車シムカに悠然と乗りヴァイオリンを弾いて甥の目にも格好よかったがそういう男が望ましい。学者、技術者など気まじめな勉強家ばかりの父方は不当にも下に見られており、長崎女の娘だから僕を厨房に入れず、サバイバル術だけはカブスカウトに入れて習わせたが自分で教えた炊事はお米のとぎ方だけだった。
僕はそうして明治の男みたいに好きなことだけやって育ち、家事や育児や身の回りは壊滅的にだめな夫、父になった。おかげで仕事に全神経を集中できる負けず嫌いの性格になり証券会社で幸福な人生を歩ませてもらったが、その世話を引き継いでくれた家内、家族には感謝するばかりである。僕の辞書に定年退職という文字はない。それはおそらく母の眼中にもなかったし、教育ママの対極だった彼女が息子に望む終着点とは程遠いものだったと思う。
定年がない人生への第一歩として、僕が2004年に一大決心で野村の本社部長からみずほに移籍する時、まず両親にそれを知らせた。これは日経ビジネスやダイヤモンド誌が書いて少々の騒ぎになった。しかし母はもう自分の名前が言えないほど認知症がきていたからこういう話は理解できない、事実、まったくわかっていなかったと思う。ところがだ。僕の目を見ながら、ひとこと諭すようにぽつりとこう言ったのだ。
「うまくやってね」
驚いた。これが事実上、母が意思を僕に伝えた最後の言葉である。事を理解してないのにどうして心配したんだろう、どこからこんな言葉が出てきたんだろう・・・。勘の恐ろしく鋭い人だった。いま思い起こしても、この言葉ほど重たいものはない。
そこには息子への絶対の信頼があった。自分の作品だから。なにやら重大なことをしようとしている息子に、一抹の心配はしているけれど、いいわね?いろいろ教えたでしょ?あなたはできるからね、それをうまくやってね・・・だったのだと思う。だからそれをやるのが僕のこれからの務めなのだ。
でも、僕は母に何を教わったんだろう?
それは知識や技術でなければもちろん処世術のようなものでもない。社会に出たこともない姫にそんなことは教えようもないのだ。
それは多分「やさしさ」だったように思う。完全に認知がなくなって介護施設に入っても、何もしゃべれないのに、なぜか母は誰からも人気があった。みんながすすんで助けてくださった。看護師さんにもヘルパーさんにも入所者のお年寄りたちにも、とにかく笑顔がすてき、明るくしてくれるのよねえ、いつもこっちが癒されちゃってます・・・とお世辞と思えないお言葉をいただいていた。
あのやさしさは独特のもので、なにか気高くてふんわりやわらかい。包みこんで安心感をくれるのはべつに息子だからというのではないようだった。母方の血が濃い僕はきっとそういうものも受け継いでるのだろうが、でもそれでは生きられない世界に生きてきたからちっともやさしくない。むしろ自分にも他人にもきびしい。介護施設でしゃべりもしないのに人気が出るなんてまず無理だろう。
そういうのが出てしまって、会社時代に僕は人とたくさんぶつかってきた。勤め人として、うまくやってなかった。プライドが高くて人の話は聞かず、どうしてこんなことができないんだとなってはやさしくなれない。気が強いし短いし、喧嘩すると徹底的にやっつけてしまうし、正直に書くが、僕はこのハゲ~!の例の女性議員を心からは笑えないのである。相手が外人だろうとロンドンの御前会議で英国人ヘッドと激論してぼこぼこにしてしまい、気の毒に彼は首になってしまった。こういうのは恨みを買うし返り血も浴びるのだ。
しかし、母はプライドは僕よりも高いけど、いつでもどこでも、誰にも分け隔てなく慈母みたいにやさしかったのだ。そんなこと、どうしたらできるのだろう? それができてたら僕はサラリーマン界でもう少しなんとかなったかもしれない。
でも、これにはちょっとした免罪符がある。母の父だ。野球をやった(僕も)。東京人なのに遠隔地恋愛(長崎)で嫁をもらった(僕は神戸)。物産上海社長(こっちは野村香港社長)。物産から王子に役員で移籍した(僕はみずほ)。なんと、まるでそっくりさんだが、これが血は争えないということなんだろうか、そうしようと思ってそうなったわけでは決してないのだ。
この前のブログで
「やがて父もいなくなったら日本にいる必要もないかなと思うが、そうなった時のことは結局自らが決めたということではなく、なるべくしてなってしまったということになるだろう」
と書いたのは、そういうことだ。なるべくしてなる。だから頑張ったりしなくてもいい。母はきらきら、ぴかぴかの宝飾品に目がなかったがそれは男の僕においては星と電車のレール好きになった。きれいな場所、人、もの、ヨーロッパ、美食、アート、音楽、ネコ、みんな好みは僕に来た。この趣味が変わることは一生ないだろうし、そういうのに毎日囲まれていればやがて僕もやさしい上品なお爺ちゃんになれるのだろうか?
「うまくやってね」
これは母が教えてくれたすべてのこと、それを適時バランスよく常識をもってやりなさいということだ。そうすれば万事うまくいくのよと。うん、なんて簡単で、しかしできそうもないことなんだろう。
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いい子にしてるのよ
2017 JUL 3 0:00:53 am by 東 賢太郎
小さいころ、妹とふたり私学の成城学園だったものだから生計が厳しかったのだろう、母は皮手芸を教えて僕らの食費の足しにしていたようだ。休みの日も「じゃあ行ってくるからね、いい子にしてるのよ」と僕らを家に残して、教室のある二子玉川に車で出かけていった。
お金がないんだとは子供なりに気づいていたが、待っているのはやっぱり寂しかった。待ちぼうけのお仲間だった黒猫のチコは、壁越しに響いてる母の愛車のエンジン音を覚えてしまった。夕方になってそろそろ帰ってくるかなというころ、その音を真っ先に聞きつけたチコが「アオ〜」と鳴くと、あっ、ママだと喜び勇んで妹と玄関に飛んでいったものだ。
母が亡くなった朝、僕は病室の長椅子に丸まって仮眠していた。その日が9泊目だった。看護師さんたちの慌ただしい声と血圧計のジーという音で目が覚めるや、すぐにご家族を呼んでくださいと指示が飛んだ。母はそこから3時間がんばってくれ、みなに看取られて静かに逝った。目の前がぐるぐる回って、気がつくと母の胸に突っ伏してぼろぼろ涙がこぼれていた。
あれからちょうど一カ月となる6月29日午前10時25分をアメリカで迎えることになるとは夢にも思わなかった。そして、今も僕はサンフランシスコのホテルにいてこれを書いている。あのまま看病が続いていたら、この仕事はどんなに有望で大事だろうと断わっていたからここにはいなかった。
意識するなといっても無理だ。それは当地では6月28日の午後6時25分ということになる。あわただしいスケジュールの中で、シリコンバレーにあるフレミングというステーキハウスでの会食中にそれはやってくる運びになった。仕方ない、ひとり黙祷をしたいので同僚に事情をことわろうと口を開いたその矢先だ。
何ということか、声が出ないではないか。ちょっと風邪ぎみではあったがこれには動転してしまった。座っている席が大きなテーブルの真ん中で一番奥だったものだから閉所恐怖症によるパニックのおそれも感じてしまう。とっさに席を替わってもらい、Y君に「おいこりゃ明日だめだ、プレゼン、代わり頼んだぞ」とかすれ声を絞り出した。しかしデレゲーションのヘッドがしゃべれないなんて洒落にもならない。すっかり弱気になってしまった。
いつ寝たのか、恐れていた翌朝がやってきた。目覚めるとやけに体が軽い。時差ボケはあるが快調だ。こわごわ声を出してみると、普段の声だ。よかった。9時からの会議は予定通り僕が真ん中でやってうまく運び、3人の仲間に感謝だ。Y君は野村で苦楽を共にした後輩。営業で僕が出来ないことをできる唯一の男だ。S君は株式運用・分析の達人で頼みの綱。M君は3年で司法試験合格という東大法学部で年1人出るかどうかという俊英の若手弁護士でスタンフォードのMBAでもある。全員が米国留学、業務の経験あり。手前味噌ながら最強のカルテットと自負してどこからも異論は出ないであろう。
今回はノーベル物理学賞のN教授の事業資金調達をソナー・アドバイザーズがお手伝いするための準備だ。シリコンバレーはFacebook、テスラー、Google、Appleなどがひしめく米国のベンチャーの聖地だが、そこにラボを構える教授の会社も社員70人中20人がPh.D.(博士)だ。朝9時から6時間ぶっ通しで、教授を筆頭とする幹部の皆さんと喧喧諤諤やったらすっかりウォートンスクールMBAの20代の自分に戻った。声のことなんか忘れていたからきっと出ていたのだろう。
思えばあれは母が亡くなったその日の午後のことだった。斎場の霊安室から家に戻ってきて、なお茫然自失だった。急に朝からそういうことになった自分がよくのみこめていない。すると「いいお天気よ、外で陽にあたって少し休みなさい。お母さんと交信できるわよ」と家内が椅子と毛布をテラスに用意してくれた。交信という言葉が心に響き、やおら陽だまりに出て空を見上げてみると、一面見渡す限りのブルーにいちどもみたことのない不思議な形の雲がかかっていた。
それは富士山の方から空の半分も覆わんほどのスケールで左右に悠然と広がっていた。見えるか見えないかぐらいの早さでこっちに向かってきているみたいで、巨大なエイかマンタが後方に美しい幾筋もの尾ひれをひいてゆったりと北に泳いでいくような様であった。しばし唖然と見とれていると、それは徐々に形が朧となってきて、僕の頭上を通り越したあたりからやがていつもの変哲のないちぢれ雲に戻っていった。
写真を撮ろうと思ったが、やめた方がいいという気がしてきて、そのまま椅子に横たわって一部始終をじっと眺めていたわけだ。するとエイの右下あたりに月がうっすらとあったのに気がついた。下弦の月かな、随分と細い三日月のようで、これは昔から僕の主観の中では攻撃のシンボルであるのだった。
母は教室に出かけていくみたいに、じゃあ行くからね、いい子にしてるのよと言い残してあちらに行ったように思う。何が母のいい子なのかはつかめなかったが、どんな悪戯をしでかしても叱らなかったのだからあれでよかったのだろうし、今だってきっとこれでいいのだ。いつも困るとそう信じて乗り越えて、僕は知らないうちにここまで来た。そんなに信じられる安堵というものを、ほかのどこでいただけるだろう。
どこまで行くのか知らないが、それはその時だ。これで自分の中で何かが大きく変わってしまった気がする。やがて父もいなくなったら日本にいる必要もないかなと思うが、そうなった時のことは結局自らが決めたということではなく、なるべくしてなってしまったということになるだろう。ただ、ひとつだけすでに心のなかで確認したことがあって、それはあちらの世に行くのがちっとも恐くなくなってしまったということだ。
(ご参考)
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芥川也寸志さんと岩崎宏美さん
2017 FEB 21 1:01:09 am by 東 賢太郎
成城学園初等科にいたのですが、金持ちの坊ちゃんではありません。お嬢で育ったお袋の趣味だったんでしょうがお品が良すぎてなんとなく肌には合わなかったですね。制服が帽子に半ズボンで軟弱っぽくて、公立の子とちがってて嫌だなあと思ってました。あの反動だったんでしょうか、なんちゃって硬派、バンカラ、アンチ・ブルジョアのほうにいってしまい、振ったのがゲバ棒ではなくバットだったのは救いでした。
勉強はした記憶がないというか、僕の勝手解釈によればしなくていい雰囲気であって、クラスも塾に行く者など皆無で考えたこともなし。あまりの出来の悪さを知った親父がエスカレーターは勉強せんし遊び人になりそうだこいつはだめだとなって中学で外を受けさせられてぜんぶ落ちましたが、親父はそのころから東大へ行けと存外なことを言いだして五月祭に連れていかれたりしました。だからなんとなく当然入れるもんと信じこんでました。
そのかわり映画とか劇とか舞踊とか彫塑なんて授業があって、そういうのはとんと興味ありませんでしたがアートは生活のそこらへんにごろごろところがっていて当たり前という感覚にしてくれました。こういうのは文部省指導要領じゃどうしようもない。このあいだ銀座で卒業生の女の子がいて、40才ぐらい後輩とわかり彫塑室の粘土の穴ぐらの描写をしたら「いやだ、それそのまんまですよ~」と、その子も成城っぽい「アートはあって当たり前」感をただよわせながらびっくりして、年の差などものともせず共感しあったりできてしまう。不思議なもんです。
いま思うとまわりはすごかったですよ。ラグビーの松尾兄弟や、3つ下の妹のクラスには歌手の岩崎宏美さんもいました。彼女がスター誕生という番組でデビューしたてのころ食事したりしましたが、あれ、この頃でしたかね、この歌はずいぶんヒットしましたが。
同じ学年の桜組、橘組の父兄には黒澤明さん、三船敏郎さん、東大総長の加藤一郎さんなどがおられ、僕の桂組には芥川也寸志さんがおられました。龍之介の次男で日本を代表する作曲家で家もお邪魔しましたが、当時はY子ちゃんのお父さんというだけで誰だかよくわかってませんでしたね。
成城は学校劇なるものがあり、まあ子供ミュージカルみたいなもんで面白かった。その音楽を芥川さんが作られ指揮もされた。生のオーケストラも指揮者というものも、その時初めて見たのですね、そしてその子供の祭りという劇で主演をして主題歌を歌ったのが岩崎宏美さんで、めちゃくちゃうまいなあと感動した記憶が残ってます。
NHKの大河ドラマ「赤穂浪士」の音楽は芥川さんでこのメロディーはいまでも鮮烈に覚えてます。えらいかっこいいなあと思ってましたが、調べてみるとこれも昭和39年、東京オリンピックの年の放映だったようで僕は小4です、あのころだったんですね。
Y子ちゃんちは成城の高台で見晴らしの素晴らしい場所にあり、もちろんピアノがあって、子供心に素敵だなあと俺もああいう家に住むぞと憧れました。高台というとバーデンバーデンのブラームスの家も崖の上で、どうも僕の「崖好き」はお二人の作曲家の趣味から来ているようで、いざ自分で建てるとなったときに成城~田園調布を走る国分寺崖線の崖の上ありきになりました。なかなか出てこないので出たら即決で買った。家族は高いと大反対でしたが、三つ子の魂みたいなもんでかなり執念に近かったです。
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なんでもいいから井戸は深く掘れ(僕の教育法・その2)
2017 FEB 19 2:02:24 am by 東 賢太郎
大学へ入るとすぐ家庭教師や塾で中高生に数学を教えましたが相場は時給3千円ぐらいでした。東大にはいって得したなと思ったのはこれぐらいで、当時国立大の授業料が年3万6千円でしたからけっこうなもので、それでレコードが買えたのは有難かったですね。
僕は「問題をぱっと見て解き方をどう思いつくか」を、実際に僕がどういう思考回路でその結論にたどり着くかを言葉で実演することに情熱をそそぎました。「解法」ではなく、「思いつき方」をです。時間制限のある受験数学はこれで確実に勝敗が決します。だから解法や計算法は機械的な部分だから自分で練習してね(それ以外に手はない)としました。
思いつく練習(①)+解法の練習(②)=満点なのです。
ところが①は教えられないことがだんだんわかってきました。結局、②で苦労してないと①だけの練習は再現性がなく、②は教えられるが自分で苦労して練習しないと身にはつかない。ということは「練習問題をたくさん解きなさい」という当たり前の指導になってしまうのです。そんなことは誰でもいえますからね、それで高給もらうのは申しわけないのでバイトはやめました。
①は野球のバッティングでいうと、振るか見逃すかです。打撃というのは投げられたボールの軌道を予測してそこにバットの芯を合わせる行為です。予測の精度が低いと打てません。予測したらあとは振るだけです。この予測が①、振るのが②なのです
②は条件反射化するしかなく毎日昼休みに部室前で全員で200本欠かさず素振りをしました。プロはキャンプで毎日千~二千本だそうです。しかしいくら②を鍛えてもボール球は打てません。それを「見逃す」、これが難しいのです。投手はボール球や難しいコースの球を振らせれば凡打になる確率が高いので変化球を投げ、いわば騙し合いになります。
投手の手を離れて零点何秒で手元に来るボールを「ぱっと見て振るか振らないか決める」というのは①そのものです。問題文を読んで、あっこれは解くのに時間かかるなと見抜いて見逃す。4問あれば、一番速く解けるのから片づけたほうが点がいいに決まってますから実に簡単な話で、それが出来れば数学の偏差値は確実に上がります。
しかし、打撃でいえばその判断は自分のバットを振る速度や精度によって変わります。だから素振りでそれを体得しないと振る振らないの判断技術も向上しないのです。つまり、数学の場合、結局、②で苦労してないと①だけの練習は再現性がなく、②は教えられるが自分で苦労して練習しないと身にはつかないという結論に僕は至りました。
野球中継を見ていると解説者が「見逃し方がいいですね」と打者をほめることがあります。「見逃し方」で上級者かどうかわかるのです。投手をしていると、知らない打者の実力はけっこうそれで判断してました。きわどいたまをすっと自然に見られると「おぬしやるな」って感じになるんですね。選球眼とはちょっと違って、それもその内ですが、もっと総合的な反応です。
プロで3割を打つような人は例外なく見逃し方がいいですし、思うに2割打者との差はスイング速度ではなくそっちです。投手の方もプロは速いだけでは打たれるのは、スイング速度の勝負ならプロになるような人は2割打者でも対応してしまうからで、ノーコンの150キロより針の穴を通す130キロが上です。
こういう経験から、僕の教育法のその2として、
「なんでもいいから井戸は深く掘れ」
が出て参りました。野球と数学の練習は、井戸の深いところまで掘ればけっこう共通しているところがあるのがご理解いただけたでしょうか。なんでも結構なのでクラブ活動でも趣味でも一つのことを深く知れば、違うジャンルのことに応用がきいたりします。
ただ、ここから先は何とも言えないのですが、素振りを何千本しても見逃し方が2流の人はいるんですね、プロにも多くいます。見ているとたいがい2割打者で終わりです。数学も②はカンペキなのに①ができないとそれなりです。1番から馬鹿正直に解いていって時間切れになって終わる。もったいないことです。
(これはここから来ている)僕の人生哲学(イギリス経験論)の起源
(こちらへどうぞ)
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