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クラシックは「する」ものである(2)ー放浪記ー

2014 AUG 3 1:01:15 am by 東 賢太郎

アメリカ留学中の楽しい思い出ですが、試験がすむと必ず「打ち上げパーティ」になります。普通はバーでやるんですが、ある時、なんとなく僕のアパートでやろうということになって日本人はもちろん、ケニア人、インド人、スイス人、メキシコ人、韓国人なんかが入り乱れてやってきました。うるさいことうるさいこと。我ながら、英語が下手くそで授業で疎外感を味わってる連中同志の憂さ晴らし大会でもありましたね。

家内が日本メシを振るまうわけですが、みんな独身でそれ目当てみたいなもんで、普段は犬のエサみたいなのしか食ってない連中だからそりゃあうまい。一気に平らげ、安バーボンが何本もころがってへべれけになってしまう。ケニア人は家内にカレーの作り方なんか教えてる。誰かがなんか歌いだすと僕は日本語でよーしやるぞーとどなっていきなりギター弾いてビートルズを歌う。そうするとくだ巻いてた奴らや半分寝てた奴らが寄ってきてレット・イット・ビーの大合唱になる。いっぱしのラ・ボエームでした。

大学時代はというと、六本木にニューヨーク・ニューヨークというディスコがあってよく出没してました。あのころは学校などご無沙汰で真正ヤンキー状態。ディスコから雀荘いってそのまま翌日も徹マンなんてのもざらでした。それで夏休みになると1か月ふらっとアメリカ行ってレンタカーで1800kmぐらいカリフォルニアを突っ走ったりで。ディスコというのはあれっきりですが昭和50年代が予感してたバブルの予兆みたいなもんで、夜中までへばるまで踊んですが、何であんなに夢中だったんでしょうね?とにかくあの腹に響く強烈なビートと耳をつんざく騒音みたいな音楽が良かった。若かったです。

ああいう歌って踊っては、音楽で人間と、じゃなく、音楽で音楽そのものとボディ・ランゲージしている感じですね。頭を迂回して体だけで音楽に反応してる。アフリカの原住民の太鼓がそんな感じじゃないでしょうか。理屈をこねる左脳はオフになってて、すっからかんになって感覚だけの右脳でやってる感じです。

面白いかどうかだけが音楽を音楽たらしめるエッセンスと前回書きました。そいつを決めるのは右脳です。それで終わってみて、今度は左脳がでてきて「右脳の奴、どうしてあんなに面白がったんだろう?」なんて理屈をこねだす。そこに「語る人」たちのウンチク話があると、なるほどと左脳は納得するんです。

そうか、そんな大天才の立派な曲なのか!ちょっと舟漕いだけどそれが理解できたオレもまんざらじゃない。そこで今度は自分がウンチクを友達に語ってみたりもする。そうやってウンチクは自己増殖していく。でもディスコの曲みたいに小難しいウンチクがないと、納得しないまま酔っぱらってそのまま忘れるんです。

ワインがそうですよね。82年はどういう気候でどうのこうので、だからボルドーは当たり年でその中でもペトリュスはもう何本も残ってなくって・・・はい、お客さん、だから100万円なんでございます。ウンチクの嵐です。それに値段がついてる。こんなの大学の時に渋谷でポン引きに騙されてボリまくられた暴力バーと変わらんじゃないか。ところがウンチクが乏しいワインはうまかったねえでおしまい。本当においしくてもすぐ忘れられちゃう。

だからウンチクは日々そこいら中で貯まってふくらんでいくし、ないものは永遠にない。その貯まりまくったほうを僕らはクラシック音楽って呼んでるんですよ、きっと。ワインだってイタリア(トスカーナ)のキャンティなんてたいしたことないけど伝統的に黒い鶏の紋章がついたのはキャンティ・クラシコなんて呼んで差別してる。クラシックになるとセレブ御用達感が出るんザーマスよ。

僕はワインだって「うまければいい」というリアリストです。ウンチクはどうでもいい。酒の値段というのはごまかしがないという定説がありますが、僕はちょっと異論がある。高い酒でまずいのはない、そういう意味なら(暴力バーの5000円のビールを除いて)ほぼ正しい。しかし、安くてもそこそこうまいものはあるのでそこは違う。

同じクラスの酒の値段は世界的にほぼ同じというなら、より正しい。その昔、英国の友人は世界最古の職業(**)と最古の酒(ワイン)にはその法則が当てはまると力説した。前者はちなみに世界どこでも200ドルというのが彼の豊富な知見から導かれた学説なのであった。まあどうでもいいが。

ウンチクが貯まった音楽はいい音楽だ。これはまあ正しいでしょう。しかし酒と一緒でリアリストの僕は、ウンチクなんかなくてもいい音楽はたくさんあるよと思ってます。「語る人」は得てして教養人である。教養人は左脳型が多く、歌って踊っての右脳型は少ない。よってディスコミュージックにはウンチクが貯まらない。明快ですな。

左脳型人種がウンチクで塗り固めてしまったクラシックには、実は右脳型、ディスコミュージック型の「歌って踊っての要素」というものが大いにあるのであって、それをそうやって楽しまなきゃもったいないですよ、というのが『クラシックは「する」ものである』シリーズのいいたいこと。同じなら阿呆なら踊らにゃソンソン、これです。

次回から、それの実践編をやります。皆様に「お歌」を歌って遊んでいただき、ちょっと楽譜も見ていただき、堂々たる本格的クラシックリスナーになっていただけることをお約束いたしましょう。

 

クラシックは「する」ものである(3)ーボロディン弦楽四重奏曲第2番ー

 

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