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クラシックは「する」ものである(7)-ピアノについてー

2014 AUG 14 11:11:37 am by 東 賢太郎

写真 (17)

クラシックは「する」ものシリーズを書いていて、やはりどうしても最後はピアノという楽器の助けを借りたいという思いが出てまいります。それが「する」ことと「語る」ことの橋渡しになるからです。そこで今回は、ちょっと楽譜を忘れてお話しだけです。

 

 

ピアノができないとわからないという意味でないのはご理解賜りたいところです。なにより僕自身のピアノが初心者レベルなのですからそういうことを言える立場にないわけです。むしろ、一度もピアノを習ったことのない僕のような者ですら、クラシック好きであればピアノに触れているとあっと思うことがたくさん出てくるという妙なる経験をお伝えしたいのです。それは歌でオケに加わる合奏に加えてピアノで加わるという無限の喜びを手にすることになるからです。そしてそれは、ピアノ独奏曲を弾くよりもずっとやさしいからです。

先日、僕にとってクラシックのCDはカラオケであると書きました。それには例外があって、それこそがピアノ独奏曲なのです。これは口(くち)三味線で歌うことができないし、歌ってもつまらないでしょう。だから押し黙って聴くしかない。歌って踊ってが通用しない唯一のジャンルなのです。

そこに弦楽合奏が入る音楽とピアノ音楽との根本的な違いがあるようです。声と弦は親和性があり、打楽器であるピアノは声とははるかに異質なように思います。歌にピアノ伴奏がつく歌曲というジャンルはありますが歌を弦が伴奏する編成が発展しなかったのは、弦と同質性がある歌が引き立たないからではないでしょうか。

僕は楽器として多少は弾けるギター、チェロよりピアノに触れている時間が長く、といってピアノは完全独学なのでうまいはずはなく、うまくなる見込みもありません。一応の努力はしましたが通して初見でというとベートーベンのソナタ20番ト長調作品49-2がなんとかというのが現在の所です。この曲はソナチネですから、ちゃんと習っていれば小学校低学年ぐらいでしょうか。

ただ、こういうことを皆様にお薦めするわけではありませんが、何度か書いたように僕にとってのピアノは管弦楽曲のピアノ・リダクション譜で好きな部分を弾くという特別の用途があるのです。つまり音楽を分解して作曲家の頭に在った設計図を知ることには威力があります。ショスタコーヴィチは他人のオケ曲はピアノ譜を想像しながら聴いたそうですが、もちろんそんなことはできなませんが、その気持ちはわかる気がします。

ちなみにピアノを弾き始めたのは高校時代で、最初に弾けるようになったのはストラヴィンスキーの火の鳥の終曲です。そこが弾きたいから始めたという変わり種でした。そして目的を達してしまったのに慢心して基礎的なトレーニングはほとんど無視、バイエル、ツェルニー、クーラウ等は曲に全然興味がなくスキップ、ピアノ曲として初めて覚えたのは、ちゃんとした音楽に聞こえたバッハのハ長調のインヴェンションでした。

しかし色々な曲を知ってみると、オケ曲をピアノにしてしまうとスケルトン( 骸骨)状態になって失うものが多いことがわかってきました。また、音色からしても、ピアノは歌えないということは弦とは完全な別物になったということで、そうなるとさっぱり面白くない曲というのがあることも。しかし一方で、悲愴交響曲の終楽章のように、弦主体なのにピアノで弾いても「すごくいい」と納得する曲もあります。

リムスキーコルサコフの交響組曲「シェラザード」の第1楽章もいい例です。あの大海に漂う船のようなオケの感じがよく出るし、コーダは心が深く落ち着く。左手の分散和音によるコード進行が、あ、これはピアノで作った曲だなと手に取るようにわかるのです。意外に簡単だから経験者にはぜひお薦めします。オケの音を心でシミュレートしながら弾いていただけば、なぜ僕がそんなことに執心しているのかご理解いただけると思います。

つまりピアノ譜というスケルトンになっても名曲というのは名曲の価値をいささかも減じないばかりか、肉づきを欠く分だけごまかしがきかなくなります。歌の悦楽を喪失する代償に音にはぎりぎりの必然と集中力が込められ、オーケストラとは別種の美感と解像度が現れるのです。それはカラー写真を白黒にした方がくっきりと明暗が浮き出たように見えるのと似ているように思います。

825646760046ピアノ・リダクションが立派な別個の作品と聞こえる典型的な例がベートーベンの交響曲でしょう。シプリアン・カツァリスというピアニストが全9曲をピアノで弾いたCD(右)があり大変面白いものですが、僕はこれは立派なピアノ・ソナタだと思いました。ラヴェルの編曲した展覧会の絵を知ってから原曲を聴いた、その感じに近いでしょう。ソナタとして発想した曲を管弦楽化したといわれても違和感がなく、ベートーベンほど交響曲とピアノ・ソナタを写真のカラー・白黒の関係で書いた人はいないのではないかと思います。

彼はピアノという楽器が最も大きく進化した時代に生まれ、それと共に歩み、常にその時その時のピアノが与えてくれる最先端の機能を求めるソナタを書きました。よくいわれるように、楽器を壊すほど強い音をピアノに求めた最初の人ですし、それと同じ原理を楽器編成やダイナミズムの意図的な発揮という側面でオーケストラに求めた最初の人でもありました。同じように面白いことに、彼のピアノソナタの譜面を年代順に眺めると、メカニックな側面で逆に楽器の進化プロセスがおおよそ俯瞰できるのです。

そんなことがあるかと疑問に思われるかもしれません。別な例で見てみましょう。ミュージカルや宝塚は歌手の声をマイクロフォンで増幅しています。本格的な声楽家でなくても歌えるでしょう。歌というものが教会というよく響く場からオペラハウスに出た時代に、仮にですが、マイクロフォンが存在していたら?我々がカラオケを歌うような地声、喉声でも会場の隅々まで響き渡る。きっとそういう発声法の達人は出たでしょうが、我々はドミンゴやカラスのような歌手を聴く機会はなく、ヴェルディはトロヴァトーレや運命の力のようなオペラを発想しなかったのではないかと思います。

けだし、歌って踊っての申し子のようなミュージカルという音楽ジャンルは、クラシックの声楽の発声法を必要としない代わりに別種のフィジカルをそなえた歌手たちを前提としたもので、マイクという音響増幅器が産んだものです。歌手の体躯が大きな音響を産む楽器になることを求めず、そこは増幅器に機能集約する。CPU、メモリー機能を集約化してパソコンを身軽にしたクラウドコンピューティングと同じことです。いわゆる「音響」という、音楽を聴衆の鼓膜に伝えるメディアが音楽そのものを変質させる現象としてマクロ的に眺めるならば、それはハンマークラヴィールと呼ばれた音が増強された新しいピアノの出現がベートーベンをしてあの巨大なソナタを書かせたのと同質の現象でしょう。

管弦楽曲のピアノ・リダクション譜というものは、あたかも因数分解して最後に残った因数のようにその音楽の本質を他から区別する多くの情報を含んでいます。それをいろいろ知るようになると、現代の音楽は、ベートーベンにおけるピアノ譜というスケルトン(骨格)そのものの第一次成長期、そしてワーグナーを経てその骨格にオーケストラによる肉付きが増していく第二次成長期を経て進化したものであるという様子がよくわかるのです。ピアノの譜面を通して音楽を見ると、聴くだけの人間にも多くのことを学ばせてくれます。本で読んだ知識と違い、自分で体感したことというのは血肉となります。

そして、今回申し上げたかったことですが、それが「語る」ということにつながります。ピアノ曲は歌うことができないし、ピアノで歌の譜面を弾くこともあまり喜びをもたらすとは思えないのですが、「歌って踊って」は右脳が音楽を愛でる行為だとすれば、僕にとってピアノは左脳が愛でるための道具という位置づけにあります。そして、その両方の交わる所において、クラシックを聴こうと自分を動かしている衝動が何かあります。この左脳の出番があるという部分において、クラシックを「語る」という行為が成り立つし、こうしてブログを書くことにもなるわけです。

だから、あくまで僕のケースですが、「語る」ためにピアノに助けてもらっているということです。ハンマークラヴィールを弾けるようにはなれませんが、演奏家の方が「する」ために厳しい練習をされている、それとは別種の目的でピアノが活用されるということがあるということです。これは科学にたとえれば、宇宙のことを知るのに物理の知識が助けてくれるのと似ているかもしれません。何光年も離れた星に行きつくことはないのですが、そこで何が起きているかは、自分の理性が及ぶ範囲においてですが一応はわかるという意味でです。

聴いた音楽の感想を語るのに、ただ「良かった」、「感動した」ではつまらないのではないでしょうか。だからでしょう、ワインにテーストやアロマを語るためのヴォキャブラリーがあるように 、音楽にもそれは存在します。しかしワインの語彙は特徴を記憶し識別するためのものです。音楽にその必要はありません。音楽の聴き方というものは個人差があってしかるべきであり他人の感想に左右される必要はありません。あくまで自分がどう聴き、どう感じたかがすべてであり、それが他人と同じであることも他人に共感されることも必要ではありません。

ですから雑誌や新聞でCDや演奏会の批評家のコメントのようなものを読んでみて、その人固有の感じ方に面白いと思うことはあっても、自分が語るために役に立つということはないのです。あくまで他人の個人的意見にすぎません。一方、何か客観性のあることを語り合うという世界はもちろんあっていいでしょう。しかし、指揮者AとBで演奏時間がAが10秒長いのどうのという類の語りに何か自分の音楽鑑賞に関わる有意の価値があるとは僕には思えません。ではその曲のウンチクは?そういうことは今どきの世の中、wikipediaにいくらでも書いてあります。

ですから、僕はピアノを使って自分の頭と耳でその曲をよく知り、作曲家の脳みそに在ったものを自分なりに想像し、そこから彼が聴衆に与えようとした喜びを歌って踊ってのスタイルで享受し、その「体験録」を語るということをするのみです。それ以外に方法があるとは思いません。その喜びの源泉は必ず作品に内在しているものです。演奏家が超絶テクニックで無から有を産むようなことはありません。ですから作品に対する知見こそが語ることのベースであると考えています。仮に「今日の演奏」について何か語るとして、それは、それを何%引き出していたという語りで充分と思います。

皆様に楽譜をお示しして歌って下さい弾いて下さいとめんどうなことを申し上げているのは、ひとえに、喜びが作品に内在している事をご体感いただくためなのです。それなら娘のピアノを触ってみよう、スコアを見てみようなどと志される方がおられれば嬉しいことですし、もちろん歌うだけでもいいのです。僕ごときでできることですから音楽の専門的トレーニングはいりません。作品に対する知見を養うことが目的で、それは「する」ことでしか得られませんし、一度でも得てしまえばそれは一生にわたるその曲との深いつきあいの始まりになります。そこに秘められた財宝を手にされることになり、やがて皆さんは「語りたい人」になられると思います。

 

クラシックは「する」ものである(8)-「ニュルンベルグの名歌手」前奏曲ー

 

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Categories:クラシックは「する」ものである, クラシック音楽

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