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バーンスタイン”ウエストサイドストーリー(West Side Story)” (2)

2013 JAN 17 17:17:28 pm by 東 賢太郎

バーンスタインの音楽がいかに天才的な創意に満ちているか。この「マリア」を聴いてください。

 

これがそのピアノ譜です。

こんな素敵な音楽を解剖するのも無粋なのですが・・・・

 

トニーの心に天の声がこだまのように聞こえてきます(イ長調)

マリーアー、マリアマリアマリーアー

この真ん中のマリアマリアは3連符で少し速くなって、彼の恋心に火がついてくる感じが実によく出ています。

こらえきれなくなったトニーがいよいよ自分の声でマリーアー!と熱く歌いだす。突然に転調して、長3度上の変ニ長調で(楽譜はここからです)。このリーの音。ハ長調でいうとドミソのソが半音下がったファ#。この「アメリカのロメオとジュリエット」二人の悲劇性を暗示して全曲に流れる不吉な通奏低音のようなファ#が、このマリアの名前にすでに織り込まれている周到さには驚くばかりです。

トニーはまず、ときめいた心をやはり3連符で歌います(I’ve just met a girl named Maria)。ここでは彼の理性はまだ何もはたらいていないかのようです。天の声の3連符は山型でしたが、このトニーの3連符は上へ上へ向かう。もう恋心は一直線です。

ところが、彼女は目の前にいない。ふっと理性がはたらいて自問するように、せつない憧憬をのせた下降音型(ラーソファミレミ)を2回繰り返します。なんとニクくて絶妙な力の抜き方でしょう。

そしてこれが凄い。” And suddenly that name”  のラーソファミレミと  “Will never be the same To me”  のラーソファミレミが違うことがお分かりでしょうか。ソが半音下がっただけではありません。バスも和音も違うのです (弾ける方はぜひ自分で音を確かめて下さい)。

「マリアという名前が急に今までと違うものになってしまう・・・」

彼の理性がどこか「一直線」にブレーキをかけ、なにか自分を納得させるかのように彼女そのものではなくMa・ri・aという音の響きに思いが移ります。しかしそれでも心は理性に従わず、密やかに揺らいでいる。見事に現れていると思いませんか?

この下降音型は次のページ冒頭になって今度は B♭m→Fm  の和音がつきます。ここは和音を変えず、理性のブレーキなど振り切って再度「一直線」モードに進んでいきます。How  wonderful  a  sound  can  be!で感情は頂点に向かい、ミ♭の高みまで登って、ffでもう一度マリーアーと叫びます。

ヴェルディのリゴレットに「女心の歌」というのがあります。これは男が勝手に思う女心であって、モーツァルトがコシファントゥッテ(女はみんなこうするもの)と断じてしまったものと本質は違いません。しかしこれは男が描いた「男心の歌」です。だから男の本質をおそろしく鋭く突いていて、ラ・ボエーム以上に詩と情景に寄り添った心の襞(ひだ)が描かれているのです。

それがこのラーソファミレミの和声です。これは「同じ繰り返しじゃ単調だから2回目はおしゃれにちょっと変えてみました」なんていう今流の軽薄なものではありません。ひょっとすると大方の歌う人も聴く人も気にも留めないかもしれない「ひっそりとしたかくし味」なのですが、僕は初めてこれを聴いたときにまずここがズキっときたのを覚えています。

作曲家がこの特に素晴らしい2回目の和声をどう思いついたのか、どう「発見」したのか?大変興味がありますが、多分本人もわからないでしょう。天の声が聞こえたとしか。こういうものが降ってくる人を世の中では天才と呼ぶのだと、天才とはそうとしか定義できないものだと。こういうものを発見してしまうと、つくづくそう思います。

 

(こちらもどうぞ)

バーンスタイン「ウエストサイド・ストーリー」再論

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

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バーンスタイン”ウエストサイドストーリー(West Side Story)” (1)

2013 JAN 17 14:14:09 pm by 東 賢太郎

レナード・バーンスタインは20世紀後半を代表する世界的な作曲家であり、指揮者である。

作曲という行為と演奏という行為はモーツァルトの時代あたりまでは同一人物が行なうのが通常だった。 当時すでにバッハやヘンデルの音楽は古典だったけれども、それらが今のように「クラシック音楽」として広く演奏会のプログラムにのっていたわけではない。印刷術が発達し、国境を越えて流布し始めた楽譜というものが偉大な音楽遺産として集積した結果、貴族に代わって聴衆として台頭した市民階級がそれを「クラシック音楽」と呼び始めた。そのクラス(階級)という呼称に潜む尊大さを、コカ・コーラ社はコーク・クラシックというあえて尊大ぶってみせた命名によってお茶目におちょくっている。コークにクラシックもへったくれもないのと同様、モーツァルトの時代の聴衆である貴族たちにとって、音楽とは教養や権威を誇示する道具というよりも単なる享楽的な消費の対象という側面の方が強かっただろう。深遠で気難しいゲージュツなどというものではなく、現代のロックやポップスのあり方に非常に近いものだったと言える。

バーンスタインという人は、そのモーツァルト時代の流儀で「自作を演奏もした作曲家」だった。世界的な指揮者が余技で「作曲もした」のではない。作曲家として認められたかった大指揮者フルトヴェングラーが交響曲を3つ残したのは有名である。それを余技というつもりはないが、残念ながらその音楽自体はまだ彼が書いたという事実以上に有名になってはいない。反対に、ミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」の名ナンバーである「トゥナイト」や「マリア」が有名になった以上に、それらがウィーンフィルを振って立派なベートーベンやブラームスの交響曲全集を作っている大指揮者の作品だという事実が有名になったとも思えない。

ウエストサイドが 売れてしまったことにバーンスタインがアンビバレントな(愛憎こもごもな)葛藤をもっていたことを僕は彼のコンサートで知った。1989年にロンドンのバービカンセンターで彼が自作「キャンディード」を振ったとき、演奏開始前に聴衆に向けて不意に始まった「キャンディードは僕の大事な子供です。不本意なことにもう一人の子ばかり有名になってしまいましたが」というスピーチによって。しかしこのバーンスタイン自演のCDを聴けば、有名になってしまっても仕方がないということがよくわかる。若者の情熱、はちきれんばかりのエネルギーと狂気、ほろ苦い愛と悲しみを秘めたロマンティックな名旋律。これを余技といえる人はいない。魅力に満ち溢れた傑作である。

(こちらへどうぞ)

バーンスタイン”ウエストサイドストーリー(West Side Story)” (2)

 

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