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カテゴリー: ______ワーグナー

ワーグナー 舞台祝典劇 「ニーベルングの指輪」

2016 APR 18 23:23:09 pm by 東 賢太郎

この作品をいちブログにするのは日本書紀や三国志をいちページに書く愚挙で、思ったこともない。ところがきのう、あることからその気になった。

Staatstheater_Wiesbaden_foyer0284作をまとめて約15時間かかる人類最長の曲の一つだ。これを4晩かけて踏破するわけだが、聞くというよりやるという感じだ。クラシック好きにとって四国八十八ヶ所巡礼みたいなものだろう。まだ1度しかできていないがそれが94年7月、ヘッセン州立ヴィースバーデン歌劇場(右がそのフォイヤー)でオレグ・カエタニ指揮だった。これは「体験experience」だ、英国でそうのたまう人がいてガガーリンの地球は青かったみたいに響いた。悔しいが演奏日が週末だけというセッティングはなく職業柄むりだ。そうしたら92年にドイツ勤務になった。つくづくこれは僕の人生にとって天の恵みだった。

cf01ecab-efb0-4128-bb85-4293cf8501a2ドイツを去る時、もうしばらくはできないな、隠居したらまたやろうと誓った。それがまだ二度目の機会すらない。CDじゃだめなのだ、これは舞台の空気まで含めた一大ページェントであって、三人の乙女といっしょにラインの川底に潜らないと始まらない。あの時の4つのプログラム(左)、まだ手に質感が残っていてなんともうらめしい。神々のたそがれ、あの最後の和音が消えた時のどっしりと重たい感動というのはやはり4日の聴体験による。そう思ってあきらめ、家ではもっぱらダイジェストCDでサワリだけつまみ食いする習慣になった。これがまたおいしいが満腹に至らない。かえって欲求不満で体に悪いんじゃないかと思いだす始末だった。

きのうTVで児玉 宏指揮大阪交響楽団をきいて驚いた。それが冒頭の「あること」だ。4作を80分にまとめて交響詩のようにしてしまう。そういう試みは珍しくないが、児玉版はかつて聴いたなかでまぎれもなく最高、神々の最後で4日がんばったヴィースバーデンのあの日を思いだしたなんてことはかつてない。この編曲は脈絡に添っていてストーリーを追えるし選んだ箇所のセンスもいい。歌はないが管弦楽だけで原曲なみの満腹感をいただくというのは想像もしなかった。

オケも非常に真摯に音を紡ぎだしており、こんな感動的な演奏はそうそう聴けるもんじゃない。児玉氏はこれが大阪交響楽団最後の定期だったそうで惜しい。本物の音楽家だ。ミュンヘンにお住まいだそうでこれからどうされるのか、このリングを録音して残してほしいものだ、時間のない僕にはかけがえないイコンとなるのに。

こちらもどうぞ:

 

読者でリングにおなじみでない方もおられると思われます。「ラインの黄金」、「ワルキューレ」、「ジークフリート」、「神々のたそがれ」の楽劇4つ、計15時間をじっとがまんできる方以外は順番に聴くのはおすすめいたしません。さりとてワーグナー芸術の最高峰ですからクラシック通としては素通りすることもできません。

誰でも簡単にできるアンチョコ・マスター法をお教えします。ダイジェスト版(オイシイところを抜粋したセレクションCD)を何度も聴いて、覚えてしまうことです。歌はあってもなくても良し。「名所」は決まっていて、実にわかりやすく覚えやすいのです。そしてそれらは動機となって全曲の各所に出てきますから、実演を聞いてもなんとか4-5時間もちます。

ワーグナーは余程のワグネリアンでない限り8割は退屈な部分で、それでも2割があまりに魅力あるのできいてしまう。そう割り切っておられればいい。2割で3時間ですね、つまりその半分ぐらいがいろんな選曲法で(上掲の児玉宏版みたいに)ダイジェストになってCD1枚に入っているというわけですから、その3時間分を記憶してしまえばほぼマスターしたも同然なのです。それが聴くたびに5割、8割になっていきますから。

僕がまず2割を覚えるのに使ったCDをご紹介しましょう。

ジョージ・セル / クリーヴランド管弦楽団

514最もスタンダードな選曲であり、これを知らなきゃ話にならんというのが全部はいってます。オケは最高にうまく録音も明快。ということで「教科書」には最適であります。ジョージ・セルに楽劇の全曲正規録音がないのは彼が米国亡命したユダヤ系であるのと無縁でないと想像しますが惜しいことです(「魔の炎の音楽」など歌が恋しくなります)。セルが冷たいと思われる方は「ジークフリートのラインの旅」をお聴きになれば印象は変わるのでは。このストレートな音楽性は彼の方法論であって決してドライではなく、ブーレーズに比べればその背景に19世紀的な感性を豊かに感じます。

 

ズビン・メータ /  ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

230025134セル盤とほぼ同じ選曲であり、「魔の炎の音楽」のバリトンが入っています。メータは音楽をわかりやすく聴かせるのがうまい人で、セルの筋肉質とはちがいますがもってまわったところがなくオーケストラを魅力たっぷりに鳴らしてくれます。ワーグナーを聞いたという満足感が高いのです。全部が名曲なのですが、ここはこうやってほしいよねという最大公約数的なものをちゃんと抑えているという意味で、これも教科書に好適です。セルと聞き比べると曲のイメージがより鮮明に焼きつくでしょう。

 

ダニエル・バレンボイム / バイロイト祝祭管弦楽団・合唱団

MI000103517191年のバイロイト音楽祭からの2枚組の抜粋で、ここに至っていよいよリングの全貌に近づくのですが、「教科書」で学ばれたみなさんはもう怖いものはありません。アンチョコ・マスター法の威力を実感していただけるはずです。これが3時間分と思われればいいのであって、これは管弦楽版でない「生リング」のダイジェスト版ですからオペラハウスへ行かれればこれを耳にするのです。ちょっと抜粋に無理はあるが妥協案としてはほぼ満足。バレンボイムは当代としては随一のワーグナー指揮者であり、僕は彼のトリスタンは感動して東京とミラノ・スカラ座で2度聴きました。これを覚えてしまえばリング征服は目前。がんばってください!

どなたも聞き覚えがあるでしょう(ワルキューレの騎行)

 
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クラシック徒然草-津軽海峡冬景色の秘密-

2015 NOV 5 1:01:48 am by 東 賢太郎

石川さゆりさんのファンではありますが、天城越えも名曲ではありますが、それはそれとして、津軽海峡冬景色という曲にはどうにも僕を惹きつけるものがあります。それは何なんだろう?

やっとわかりました。やっぱりあああ、あ~~~なんですね。

たぶんあああは地声、あ~~~は裏声でしょう。この段差。すごく男心をくすぐるのです。音名で言えばミファミ、ド~~~です。ミからドへの6度のジャンプ。しかも声の色まで変わる。ここにこの曲の勝負どころ、頂点があると思うのです。

この6度ジャンプ。どっかできいたことがあるぞ。え~~と・・・

ありました。これです。

tristan

おわかりでしょうか?ワーグナーのトリスタンとイゾルデの冒頭です。ラファ~~ミはチェロが弾きますがラファは6度ジャンプです。この音程、ちょっと悲痛な感じがするのは僕だけでしょうか。チェロのラは解放弦でファでクレッシェンドして緊張感ある音に色が変わります。ppで聴こえるか聴こえないかでそっと入って、音程と音色で聴衆の耳をそばだたせる。非常に印象的な幕開けです。

この6度跳躍って、すごいインパクトがあって耳に残るというか、こびりつくのです。きのうショスタコーヴィチの15番を聴いたと書きましたが、あの第4楽章にワーグナーの引用が出てきて、ジークフリートの葬送行進曲のあとですが、まさにこのトリスタンの最初の4音が鳴ります。どきっとします。

津軽海峡が三木たかしさんの作曲なのはまったく知りませんでしたが、彼は「つぐない」の作曲家でもあったのでびっくりです。

クラシック徒然草-テレサ・テン「つぐない」はブラームス交響曲4番である-

クラシック徒然草-「つぐない」はモーツァルトでもあった-

津軽海峡のフシはこれまた似たものがクラシックにあります。

tugaru

シューベルトの「白鳥の歌」からの4曲目二短調「セレナーデ」です。たいていの人が知っている音楽の授業でおなじみのメロディーでしょう。

楽譜はチェロ用にト短調になってるので津軽海峡と同じイ短調で書きますと、出だしの「上野発の夜行列車」ミミミミファミララララシラが「秘めやかに( 闇をぬう) 」ミファミラ~ミ、「静けさは~果てもなし」ミファミド~~ミに「あああ、あ~~」のミファミド~~と全く同じ音素材とリズムで6度跳躍が現れます。

もうひとつ、和声です。

「わ~たし~も~ひとり~~、れんらく~せんにのり~」 にはDm6、Am、F、B7、E7susu4、E7というコードがついてますが、バスがfからhに増4度上がって「せんに」のB7、これはドッペル・ドミナントといいます。ドミナントのドミナントです。

実に劇的、激情的でロマンティックな効果がありますが、これの元祖はベートーベンだと思っています。上記ブログに書いたモーツァルトの20番のカデンツァがそう。そして、あまり指摘されませんがエロイカにも出てきます。

eroica1

第2楽章の冒頭、5小節目のf#です。この音符、なくてもいいんです。というより、凡庸な人は入れないでしょう、バスのgと長7度の不協和音になるんで。実際の音は鳴りませんが、ベートーベンの耳にはD7のドッペルドミナントが聞こえていたわけで、そのソプラノだけをひっそりと鳴らした。凡夫と天才の差はこういうところにあります。

「つぐない」もそうですが三木さんの和声はこういう隠し味に満ちていて、何度聴いても飽きないのだと思います。クラシックがクラシックたるゆえんをおさえている。津軽海峡冬景色をピアノで弾くのは快感です、なんたってよくできたクラシックですから。

 

 
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見事なトリスタンとイゾルデ!(読響定期)

2015 SEP 7 3:03:29 am by 東 賢太郎

1か月もクラシックを聴いていないと禁断症状が出るかと思いきやそうでもありません。5月に5日間断食した時に意外に平気でしたが、クラシックも物心ついてからそんなに「抜いた」ことがないので精神状態に何が起こるかわからないのです。

今日は6時からU-18の野球があって、3時開演のサントリーホールは微妙だなと思ってでかけました。出し物は例によって知らず。それがワーグナーのトリスタン全曲であったのです。まずい、こりゃ5時間かかるぞ、これが初動。野球の方が気にかかっていたのでした。それに、絶食中の胃袋にいきなりステーキみたいで重いなあ・・・。

僕はワグネリアンというほどではないですがドイツ時代の3年間はどっぷり浸かっていて、トリスタンはC・クライバーのCDを聴きこみ(マーガレット・プライスが好きなんで)、舞台はマインツ、ヴィースバーデン、それからバレンボイム(ベルリン国立歌劇場)も東京とミラノ・スカラ座で2回きいたりしています。

「トリスタンとイゾルデ」は男女が死のうと毒薬を飲んだつもりが媚薬にすり替わっていたという、そこだけクローズアップすると非常にばかばかしい話です。喜劇みたいですが大真面目な悲劇になっているばかりか、愛とは何か、死とは何かと哲学問答みたいにもなってくる。

二人は不倫で昼は会えない。だから夜がいい闇が好きだ夜が明けないでくれとなり、昼の光は欺瞞だ幻影だ消してしまいたいとなる。でも光はちゃんとやってくるんで、それならいっそあの世の闇の中で、誰にも邪魔されずに永遠に愛しあっていようよとなってホントに死んでしまうのです(ただ、イゾルデの死因が何か、未だもって僕にはわからない)。

我が国のほこる曽根崎心中も、悪い奴にカネを貸して騙されちゃった、汚名を死でそそぎたいんで一緒に死のうなんて(訴訟せんかい)究極の情けない男が出てきて今や現実離れしてますが、トリスタンのこの現実感のなさはさらに上手といえ、これで傑作を書いてしまうなどワーグナーの独壇場であります。

しかも、そうなった原因が二人が元から愛し合っていたわけでも格別に淫乱だというわけでもなく、薬の効き目なのであって、彼らは運命の被害者だ、だから大真面目に悲劇なのだというスケルトンなんですが、媚薬という存在がおとぎ話っぽいのでどうも心中の動機に迫真性がない。「イゾルデの媚薬」をダシにしたドニゼッティの「愛の妙薬」の喜劇のほうがまだ多少はホントらしい。

希薄な迫真性の上にきわめてマジで迫真性に富んだ音楽がのっかるもんですから、そのミスマッチを一歩引いて見ているとどこか喜劇に思えてくる。この複雑骨折の相貌はモーツァルトの魔笛と双璧でしょう。オペラ狂のイタリア人のお客さんにそう言ったら、彼の見解は媚薬はバイアグラだった(笑)というもので、やはりこれは悲劇である。しかしこんな曲を書くワーグナーの淫乱ぶりはもっと悲劇だったけどね、でした。

たしかに、この曲の「愛のパワー」は全開です。前奏曲のffは男性の、愛の死のは女性の「頂点」を生々しく描写したもの(後者は筆者想像)。第2幕で有名な「愛の二重唱」の後者の「絶頂の和音」がクルヴェナールの闖入でかき消されてしまう所など、聴いている方までおいおいちょっと待ってよとなるのがニクいばかり。お客さん説に賛成!

曲頭に意味深に鳴る「トリスタン和音」。あれに二人の愛の謎が、悲劇の予兆が、隠避にひっそりと横たわっている。全曲が前奏曲と愛の死にエッセンスとなって凝集してストーリーと絡み合っている。まったくもってもの凄い音楽であって、これに憑りつかれると生活に支障が出るほど頭の中で鳴り続ける。媚薬みたいに危険な音楽です。

余談ですが、トリスタン和音は解決しない。専門家によるとそういうことになってる。素人ですからナポリ6度が半音下がる解決を連想します(それを解決と言っちゃだめよなんですが)。愛の死も短3度ずつ上がってお尻はその連続だ。ナポリがキーですね。でもクラシックの勝利の方程式みたいなD⇒Tが出てこないですね。期待は次々にはぐらかされて、絶頂に至れない愛ですね。

その5時間にもわたる満ち足りない悶々もやもやが、愛の死の最後の最後に至ってC⇒Fm6⇒Cとカンペキに、荘厳な夕陽が地平線に落ちるみたいな絶対的な静寂と安定感をもって、ついについに「解決」する。全曲に仕掛けられた和声のトリック!ラストの空前絶後のどんでん返し!!(安物のミステリーのキャッチコピーになっちゃいました)。

ワーグナーは長い、退屈だ。たしかにそうかもしれませんが、この曲は5時間も我慢(休憩1時間ありますけど)した甲斐が絶大な感動で報われるという10倍返しの稀有な作品であります。そのことはクラシック音楽を楽しむ共通原理みたいなものでもあり、他の作曲家でも、そうか、つまんないところも寝ないで我慢してみようってきっとなります。

さらに凄いと思うのは、この1回しかない和声解決という大どんでん返しの終結で「とうとう愛まで成就したんだ」というメッセージがそっと客席に天から届くのです、二人の死をもって。そう、散々ケチをつけた「現実感のないお話」なんですが、そうか、そうだったのかとカンペキに納得に至って茫然としている自分がいる(しかしあそこで間髪いれないブラボーはやめて欲しいなあ)。

こうやって僕は毎回ワーグナーめにしてやられるのです。悔しいけど。

今日の歌手はお見事でした。水で喉を潤しながらの「完投勝利」。最初はセーブして、第2幕で全開になって。なんとなくわかります、先発投手が9回投げるぞっていう感じ。イゾルデは緊急登板だったレイチェル・ニコルズですが健闘しました。みんな良しですがアッティラ・ユン、容貌で日本人と思ったが韓国人でした。すばらしい。久々に本物のワーグナーのバスを聴きました。マルケ王は弱い人だと女房取られてそれかよって、二人のダシ扱いですからワーグナーは、まったく様にならなくて話の迫真性がますます失せるんですね。このキャスティングは大正解です。

そして最後に、しかし特筆大書で、カンブルラン、読響。ブラボー、最高でした。演奏会形式は初めてでしたが、オーケストラパートがこんなに絶妙な響きに書いてあったのかと目からうろこの気づきがたくさんありました。ありがとうございます。この曲をききながらずっとドビッシーの「ペレアスとメリザンド」が耳にこだまするなんて初めて起きたことです。ドビッシーはまずワーグナーにはまり、トリスタンを否定して独自の和声の道に進みましたが、降参したんでしょうね。だからメリザンドは不思議娘のまま子供を残して死にますしもうオペラ書かなかったし。なにせこの和声トリックは空前絶後、やればパクリになるんで。これぞ弁証法的発展。

帰ってきて、U-18の負けをさっと見届け、そこからずっとトリスタン前奏曲でピアノと格闘するはめになってしまいました。カンブルランの指揮は明晰、知的ですね、ブーレーズ並みの理性を感じますがそれでいてツボの盛り上げもうまい。彼の曲への敬意、愛情、情熱が全員を高みに引っぱり上げましたね、これぞ指揮者であります。そういうときのワーグナーはインパクトがあります。読響はここまで磨くのに集中したセッション組んだんでしょうね、実に良い音でありました。おかげ様で、これでまたクラシックにつつがなく戻れそうです。

 

 

 
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ワーグナー 「ローエングリン第3幕への前奏曲」で新年をスタート

2015 JAN 1 16:16:26 pm by 東 賢太郎

みなさま、明けましておめでとうございます。今年もSMCをよろしくお願いします。

先ほど小雪の舞う中、家族全員(ノイふくむ)で初詣をすませました。

東家は宇佐八幡と浄真寺に参ります。神仏習合ですが。宇佐八幡の由来は源頼義がこの地で戦勝を祈願し(1051年の前九年の役)願が叶ったので建てたとのこと、僕にとっては特別の武運長久の神。浄真寺は極楽往生の九層を表す九品仏がある日本に二つしかない寺の一つ。「お面かぶり」という仏教儀式が三年ごとにあり、一度見ましたが壮麗なものです。足をふみ入れれば京都かと見まごうほど。一見の価値ありです。

おみくじは中吉。「人をいつくしんで社会の為に尽せば必ず幸せな慶びが訪れて来ます」、事業は「御加護を受け成功する」でした。頑張ります。

本年はいよいよ生まれてから5回目の我がひつじ年。天空を一周して出発点に戻ってきました。去年は屋久島ではやぶさ2号の発射シーンも見ましたし、もう一度初心に帰って再点火です。

そこで今年のクラシック第1号は、僕のクラシック遍歴の原点に立ち戻ってみます。

ボロディンの「中央アジアの草原にて」に衝撃を受けて親父に買ってもらったアーサー・フィードラ-/  ボストン・ポップスのLPにはたまたまハチャトリアンの「剣の舞」、チャイコフスキーの「スラブ行進曲」などが一緒にはいっていて、その中でも最もインパクトが強かったのがこの「ローエングリン第3幕への前奏曲」

「ワーグナーすげえ、かっこいい」、これはベンチャーズ少年には脳天一撃でした。

すぐに買ったクyjimageナッパーツブッシュ盤で他の有名序曲、前奏曲も一気に覚えたのが病みつきの始まり。以来僕の中でぬきさしならない存在になっていて、ドイツ駐在時代の3年間はワーグナー漬けといってもよく、バイロイトはもちろん聖地を各地に詣でました。帰国してからもバレンボイム/ベルリン国立歌劇場の「トリスタンとイゾルデ」に感激、同曲を彼がスカラ座でやるので息子を連れてミラノまで行きました。そのすべての発端は中学時代のこの曲との出会いにありました。

たった3分ほどの音楽にどうしてこんなパワーがあるんだろう。トリスタンがまさにそうであるようにワーグナーの音楽は細部に発明がひしめいていますが、そういうミクロの感嘆を超越した大河の流れのようなマクロ構造がそれとは別個の感動を巻き起こすという多層レイヤーを持っている。他の誰にも似ていないのです。

ミクロとマクロとで羽交い絞めになりますからはまるとぬけられません。ワーグナーの毒です。彼はベートーベンやリストほどピアノが操れたわけでもなく、アマチュア上級者程度だったと思われますが、書いた文字(台本)と音符の量は物理的に人間離れしており、借金も女性も芸の肥やしという壮絶な人生を生きた人です。毒ぐらいあって当然ですね。

この前奏曲はその中では非常に平明な音楽です。しかし簡単なようで実は満足な演奏にほとんど出会ったことがないまれなものでもあります。脱兎か競馬馬のように飛び出す冒頭、第1ヴァイオリンは特にそうで、第6小節でオクターヴ上がる高いシの音などベルリンフィルでもあってないのです。

さっき誉めたバレンボイムが天下のシカゴ交響楽団を振ったこれも、冒頭で金管が先走ってヴァイオリンがついていけないという信じ難い混乱がそのままになっています。

いっぽうこの子たちは米国ミシガンの高校生、弦はよく練習してますね。危ないところもありますが金管がパパパパーンとユニゾンで吹くとなんとなくワーグナーになっちゃう。そういうところがマクロ構造なんです。Bravo!

最後にこれをお聴き下さい。

トスカニーニとNBC交響楽団。どうして彼らの演奏が半世紀以上たっても世界中で崇められているかお分かりいただけるでしょうか。こういうものを残してくれたから僕はミラノでトスカニーニの墓参りをしたのです。

音が鳴った瞬間に背筋がピンと伸びます。弦はソリスト並みのピッチとアーティキュレーション(発音)で完璧にシンクロ、裏で鳴っている金管の和音の音程とリズムの良さ、ユニゾンのホルンの音の厚さ、微塵も音のずれがないトロンボーン(なぜかチューバはいない)。

学生オケが春の祭典やダフニスとクロエを見事に演奏し、演奏技術は向上したと言われますし僕もそう思います。しかしこのNBCみたいにこれを弾けるわけではない。それっていったいどういうことなんだ?アートの世界で人類は進化するとは限らないという結論に至るのかもしれません。

ともあれ、皆さん、今年もこの曲みたいに元気溌剌でいきましょう!

 

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クラシック徒然草-冬に聴きたいクラシック-

2014 NOV 16 23:23:26 pm by 東 賢太郎

冬の音楽を考えながら、子供のころの真冬の景色を思い出していた。あの頃はずいぶん寒かった。泥道の水たまりはかちかちに凍ってつるつる滑った。それを石で割って遊ぶと手がしもやけでかゆくなった。団地の敷地に多摩川の土手から下りてきて、もうすっかり忘れていたが、そこがあたり一面の銀世界になっていて足がずぶずぶと雪に埋もれて歩けない。目をつぶっていたら、なんの前ぶれもなく突然に、そんな情景がありありとよみがえった。

ヨーロッパの冬は暗くて寒い。それをじっと耐えて春の喜びを待つ、その歓喜が名曲を生む。夏は日本みたいにむし暑くはなく、台風も来ない。楽しいヴァケイションの季節だ。そして収穫の秋がすぎてどんどん日が短くなる頃の寂しさは、それも芸術を生む。 ドイツでオクトーバー・フェストがありフランスでボジョレ・ヌーボーが出てくる。10-11月をこえるともう一気にクリスマス・モードだ。アメリカのクリスマスはそこらじゅうからL・アンダーソンの「そりすべり」がきこえてくるが、欧州は少しムードが違う。

思い出すのは家族を連れて出かけたにニュルンベルグだ。大変なにぎわいの巨大なクリスマス市場が有名で、ツリーの飾りをたくさん買ってソーセージ片手に熱々のグリューワインを一杯やり、地球儀なんかを子供たちに隠れて買った。当時はまだサンタさんが来ていたのだ。そこで観たわけではないのだがその思い出が強くてワーグナーの「ニュルンベルグの名歌手」は冬、バイロイト音楽祭で聴いたタンホイザーは夏、ヴィースバーデンのチクルスで聴いたリングは初夏という感覚になってしまった。

クリスマスの音楽で有名なのはヘンデルのオラトリオ「メサイア」だ。この曲はしかし、受難週に演奏しようと作曲され実際にダブリンで初演されたのは4月だ。クリスマスの曲ではなかった。内容がキリストの生誕、受難、復活だから時代を経てクリスマスものになったわけだが、そういうえばキリストの誕生日はわかっておらず、後から12月25日となったらしい。どうせなら一年で一番寒くて暗い頃にしておいてパーッと明るく祝おうという意図だったともきく。メサイアの明るさはそれにもってこいだ。となると、ドカンと騒いで一年をリセットする忘年会のノリで第九をきく我が国の風習も捨てたものではない。メサイアの成功を意識して書かれた、ハイドンのオラトリオ「天地創造」も冬の定番だ。

チャイコフスキーのバレエ「くるみ割り人形」、フンパーディンクの歌劇「ヘンゼルとグレーテル」はどちらも年末のオペラハウスで子供連れの定番で、フランクフルトでは毎年2人の娘を連れてヴィースバーデンまで聴きに行った懐かしの曲でもある。2005年末のウィーンでも両方きいたが、家族連れに混じっておじさん一人というのはもの悲しさがあった。ウイーンというと大晦日の国立歌劇場のJ・シュトラウスのオペレッタ「こうもり」から翌日元旦のューイヤー・コンサートになだれこむのが最高の贅沢だ。1996-7年、零下20度の厳寒の冬に経験させていただいたが、音楽と美食が一脈通ずるものがあると気づいたのはその時だ。

さて、音楽そのものが冬であるものというとそんなにはない。まず何よりシベリウスの交響詩「タピオラ」作品112だ。氷原に粉吹雪が舞う凍てつくような音楽である。同じくシベリウスの交響曲第3、4、5、6、7番はどれもいい。これぞ冬の音楽だ。僕はあんまり詩心がないので共感は薄いがシューベルトの歌曲「冬の旅」は男の心の冬である。チャイコフスキーの交響曲第1番ト短調作品13「冬の日の幻想」、26歳の若書きだが僕は好きで時々きいている。

次に、特に理由はないがなぜかこの時期になるとよくきく曲ということでご紹介したい。バルトーク「ヴァイオリン協奏曲第2番」プロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」がある。どちらも音の肌触りが冬だ。ラヴェルの「マ・メール・ロワ」も初めてブーレーズ盤LPを買ったのが12月で寒い中よくきいたせいかもしれないが音の冷んやり感がこの時期だ。そしてモーツァルトのレクイエムを筆頭とする宗教曲の数々はこの時期の僕の定番だ。いまはある理由があってそれをやめているが。

そうして最後に、昔に両親が好きで家の中でよくかかっていたダークダックスの歌う山田耕筰「ペチカ」と中田喜直「雪の降る町を」が僕の冬の音楽の掉尾を飾るにふさわしい。寒い寒い日でも家の中はいつもあったかかった。実はさっき、これをきいていて子供のころの雪の日の情景がよみがえっだのだ。

 

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クラシック徒然草-秋に聴きたいクラシック-

2014 OCT 5 12:12:43 pm by 東 賢太郎

以前、春はラヴェル、秋にはブラームスと書きました。音楽のイメージというのは人により様々ですから一概には言えませんが、清少納言の「春はあけぼの」流独断で行くなら僕の場合やっぱり 「秋はブラームス」 となるのです。

ブラームスが本格的に好きになったのは6年住んだロンドン時代です。留学以前、日本にいた頃、本当にわかっていたのは交響曲の1番とピアノ協奏曲の2番ぐらいで、あとはそこまでつかめていませんでした。ところが英国に行って、一日一日どんどん暗くなってくるあの秋を知ると、とにかくぴたっと合うんですね、ブラームスが・・・。それからもう一気でした。

いちばん聴いていたのが交響曲の4番で毎日のようにかけており、2歳の長女が覚えてしまって第1楽章をピアノで弾くときゃっきゃいって喜んでくれました。当時は休日の午後は「4番+ボルドーの赤+ブルースティルトン」というのが定番でありました。加えてパイプ、葉巻もありました。男の至福の時が約束されます、この組み合わせ。今はちなみに新潟県立大学の青木先生に送っていただいた「呼友」大吟醸になっていますが、これも合いますね、最高です。ブラームスは室内楽が名曲ぞろいで、どれも秋の夜長にぴったりです。これからぼちぼちご紹介して参ります。

クラシック徒然草-ブラームスを聴こう-

英国の大作曲家エドワード・エルガーを忘れるわけにはいきません。「威風堂々」や「愛の挨拶」しかご存じない方はチェロ協奏曲ホ短調作品85をぜひ聴いてみて下さい。ブラームスが書いてくれなかった溜飲を下げる名曲中の名曲です。エニグマ変奏曲、2曲の交響曲、ヴァイオリン協奏曲、ちょっと渋いですがこれも大人の男の音楽ですね。秋の昼下がり、こっちはハイランドのスコッチが合うんです。英国音楽はマイナーですが、それはそれで実に奥の深い広がりがあります。気候の近い北欧、それもシベリウスの世界に接近した辛口のものもあり、スコッチならブローラを思わせます。ブラームスに近いエルガーが最も渋くない方です。

シューマンにもチェロ協奏曲イ短調作品129があります。最晩年で精神を病んだ1850年の作曲であり生前に演奏されなかったと思われるため不完全な作品の印象を持たれますが、第3番のライン交響曲だって同じ50年の作なのです。僕はこれが大好きで、やっぱり10-11月になるとどうしても取り出す曲ですね。これはラインヘッセンのトロッケン・ベーレンアウスレーゼがぴったりです。

リヒャルト・ワーグナーにはジークフリート牧歌があります。これは妻コジマへのクリスマスプレゼントとして作曲され、ルツェルンのトリープシェンの自宅の階段で演奏されました。滋味あふれる名曲であります。スイス駐在時代にルツェルンは仕事や休暇で何回も訪れ、ワーグナーの家も行きましたし教会で後輩の結婚式の仲人をしたりもしました。秋の頃は湖に映える紅葉が絶景でこの曲を聴くとそれが目に浮かびます。これはスイスの名ワインであるデザレーでいきたいですね。

フランスではガブリエル・フォーレピアノ五重奏曲第2番ハ短調作品115でしょう。晩秋の午後の陽だまりの空気を思わせる第1楽章、枯葉が舞い散るような第2楽章、夢のなかで人生の秋を想うようなアンダンテ、北風が夢をさまし覚醒がおとずれる終楽章、何とも素晴らしい音楽です。これは辛口のバーガンディの白しかないですね。ドビッシーフルートとビオラとハープのためのソナタ、この幻想的な音楽にも僕は晩秋の夕暮れやおぼろ月夜を想います。これはきりっと冷えたシェリーなんか実によろしいですねえ。

どうしてなかなかヴィヴァルディの四季が出てこないの?忘れているわけではありませんが、あの「秋」は穀物を収穫する喜びの秋なんですね、だから春夏秋冬のなかでも音楽が飛び切り明るくてリズミックで元気が良い。僕の秋のイメージとは違うんです。いやいや、日本でも目黒のサンマや松茸狩りのニュースは元気でますし寿司ネタも充実しますしね、おかしくはないんですが、音楽が食べ物中心になってしまうというのがバラエティ番組みたいで・・・。

そう、こういうのが秋には望ましいというのが僕の感覚なんですね。ロシア人チャイコフスキーの「四季」から「10月」です。

しかし同じロシア人でもこういう人もいます。アレクサンダー・グラズノフの「四季」から「秋」です。これはヴィヴァルディ派ですね。この部分は有名なので聴いたことのある方も多いのでは。

けっきょく、人間にはいろいろあって、「いよいよ秋」と思うか「もう秋」と思うかですね。グラズノフをのぞけばやっぱり北緯の高い方の作曲家は「もう秋」派が多いように思うのです。

シューマンのライン、地中海音楽めぐりなどの稿にて音楽は気候風土を反映していると書きましたがここでもそれを感じます。ですから演奏する方もそれを感じながらやらなくてはいけない、これは絶対ですね。夏のノリでばりばり弾いたブラームスの弦楽五重奏曲なんて、どんなにうまかろうが聴く気にもなりません。

ドビッシーがフランス人しか弾けないかというと、そんなことはありません。国籍や育ちが問題なのではなく、演奏家の人となりがその曲のもっている「気質」(テンペラメント)に合うかどうかということ、それに尽きます。人間同士の相性が4大元素の配合具合によっているというあの感覚がまさにそれです。

フランス音楽が持っている気質に合うドイツ人演奏家が多いことは独仏文化圏を別個にイメージしている日本人にはわかりにくいのですが、気候風土のそう変わらないお隣の国ですから不思議でないというのはそこに住めばわかります。しかし白夜圏まで北上して英国や北欧の音楽となるとちょっと勝手が違う。シベリウスの音楽はまず英国ですんなりと評価されましたがドイツやイタリアでは時間がかかりました。

日本では札幌のオケがシベリウスを好んでやっている、あれは自然なことです。北欧と北海道は気候が共通するものがあるでしょうから理にかなってます。言語を介しない音楽では西洋人、東洋人のちがいよりその方が大きいですから、僕はシベリウスならナポリのサンタ・チェチーリア国立管弦楽団よりは札幌交響楽団で聴きたいですね。

九州のオケに出来ないということではありません。南の人でも北のテンペラメントの人はいます。合うか合わないかという「理」はあっても、どこの誰がそうかという理屈はありません。たとえば中井正子さんのラヴェルを聴いてみましたが、そんじょそこらのフランス人よりいいですね。クラシック音楽を聴く楽しみというのは実に奥が深いものです。

 

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クラシックは「する」ものである(8)-「ニュルンベルグの名歌手」前奏曲ー

2014 AUG 18 20:20:44 pm by 東 賢太郎

私事で恐縮ですが、下の写真は1995年6月にライン川のほとり、ヴィースバーデン・ビープリッヒ(Wiesbaden-Biebrich)のヴィラ・ワーグナー(上)で撮ったものです。フランクフルトからチューリッヒに異動辞令が出た直後で、思い出深いドイツとお別れした折に家族5人で立ち寄りました。当時弱冠40歳、まだ髪も黒く細身でした。

3年間のドイツ滞在で、最もよく劇場で聴き、身近に思うようになった作曲家はリヒャルト・ワーグナーです。それまでも序曲集は好きでしたが、長大な楽劇(オペラ)全曲のほとんどは実演に接した経験がありませんでした。バイロイト音楽祭、フランクフルト歌劇場、ドレスデン・ゼンパーオーパー、ベルリン国立歌劇場、ベルリン・ドイツオペラ等でワーグナーの毒にどっぷりとつかり、ヴィースバーデン歌劇場ではリング・チクルスを堪能し、ドイツでワーグナーの神髄に触れさせてもらいました。だからドイツでの最後に、彼が滞在したヴィラにどうしてもワーグナー詣でをしたくなったのです。

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ヴィラのこの銘板に「1862年にこの家でワーグナーがニュルンベルグのマイスタージンガー(名歌手)を作曲した」と書かれています。真ん中の、写真がここから見るライン川の風景です。滔々(とうとう)と水をたたえてゆっくりと流れるこの川、この景色なんです、ワーグナーがあの有名な「第1幕への前奏曲」を発想したのは!ここに立ってみて、あのハ長調の壮大な出だしを思いうかべてみて、ああ、確かにこれだなあと感動したことを覚えています。

 

 

この楽劇はフランクフルト、ベルリン、ロンドン、ニューヨークなどで聴き、LP、CD、DVDも何種類も持っていて、好きなことではトリスタンと双璧です。そのトリスタンがこれの前作に当たり半音階的で解決しない「トリスタン和声」で書かれたのに対し、この曲は全音階的で古典的であり好一対を成すというたたずまいがあります。全曲については機会を改めて書きたいと思います。

今回はこの「第1幕への前奏曲」のバス・パートに声またはピアノでご参加いただくことを目的としております。これを開いてください。

2.1.2Vorspiel (Act I)

Vorspiel (Act I)のComplete Scoreをクリックすると前奏曲の全曲スコアが出てきます。今回はスコアを読む練習ということで、それを使ってください。最初のページに楽器名が書いてありますね。それの「CONTRABASSE.」もしくは「BASS-TUBA」のパートをやっていただきたいのです。特におすすめは26ページの第2小節からです。ここは非常にわかりやすく、歌ってもピアノで弾いても最高に気持ちいいですよ。

ちなみのこのペトルッチ楽譜ライブラリーはまだコピーライトのある現代曲を除いてほとんど全部のクラシック音楽の楽譜が無料で入手できる便利なライブラリーです。

さて、声でもいいのですが、前回のブログに書きましたように僕のお薦めは「ピアノ」です。楽器をお持ちの方はぜひ、このバス・パートを左手で弾いて合奏してみて下さい(簡単ですから誰でもできます)。ひとつだけ注意点があるのですが、合わせる演奏は「イギリスのオーケストラ」にして下さい他の国のオケはピッチが高いのでピアノと合わず不快です。ロンドン交響楽団、ロンドン・フィルハーモニー、フィルハーモニア管弦楽団、BBC交響楽団など英国オケならどれでも大丈夫です。

 

ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」

 

 

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ベルリオーズ 「幻想交響曲」 作品14

2014 JUL 28 14:14:41 pm by 東 賢太郎

220px-Henrietta_Smithsonほれた女にふられるならまだいいが、無視されるのは堪え難いというのは男性諸氏は共感できるのではないか。まだ無名だった24歳のベルリオーズは、パリのオデオン座でイギリスから来たシェイクスピア劇団の舞台に接し、ハムレットのオフィーリアを演じたアイルランド人の女優、ハリエット・スミッソン(左)に夢中になってしまった。熱烈なラブレターを出すがしかし彼女は意に介さず、面会すらもできない。激しい嫉妬にさいなまれた彼はやがて彼女に憎しみを抱いてゆくことになる。

間もなく劇団はパリを去ってしまい、ハリエットをあきらめた彼はマリー・モークというピアニストと婚約した。ところが、踏んだりけったりとはこのことで、ローマ賞の栄冠に輝いてイタリア留学に行くとすぐに、モークの母から娘を別な男に嫁がせることにしたという手紙が届く。怒ったベルリオーズはパリに引き返し女中に変装してモーク母子を殺害して自殺しようと企んだ。婦人服一式、ピストル、自殺用の毒薬を買い馬車にまで乗ったのだから本気だった。幸いにして途中(ニース)で思いとどまったが彼は危ないところだった。

しかし、この事件の前に、彼はすでに殺人を犯し、自殺していた。

それは1830年にできたこの曲の中でのことである(幻想交響曲)。恋に深く絶望し阿片を吸った芸術家の物語だが、その芸術家は彼自身である。彼はおそらくハリエットを殺しており死刑になる。ギロチンで切られた彼の首がころがる。化け物になったハリエットが彼の葬儀に現れ奇っ怪な踊りをくりひろげる。これと同じことがモークの件で現実になる所だったわけだ。ベルリオーズが本当に阿片を吸ったかどうかはわからない。阿片は17世紀は医薬品とされ、19世紀にはイギリス、フランスなどで医薬用外で大流行し、詩人キーツのように常用した文化人がいた。ピストルと毒薬を買って殺人を企図したベルリオーズが服用したとしてもおかしくない。

そう思ってしまうほど幻想交響曲はぶっ飛んだ曲であり、「幻想」(fantastique、空想、夢幻)とはよく名づけたものだ。これが交響曲という古典的な入れ物に収まっていることが、かろうじてベートーベンの死後2年目にできた曲なのだと信じさせてくれる唯一の手掛かりだ。逆にその2年間にベルリオーズは入れ物以外をすべて粉々にぶち壊し、それでいてただ新奇なだけでなくスタンダードとして長く聴かれる曲に仕立て上げた。そういう音楽を探せと言われて、僕は幻想と春の祭典以外に思い浮かぶものはない。高校時代、この2つの音楽は寝ても覚めても頭の中で鳴りまくっていて受験会場で困った。

この曲のスコアを眺めることは喜びの宝庫である。これと春の祭典の相似は多い。第5楽章の冒頭の怪しげなムードは第2部の冒頭であり、お化けになったハリエットのEsクラリネットは第1部序奏で叫び声をあげる。練習番号68の後打ちの大太鼓のドスンドスンなどそのものだ。第4楽章のティンパニ・アンサンブル(最高音のファは祭典ではシに上がる)なくして祭典が書かれようか。第4楽章のファゴットソロ(同50)の最高音はラであり、これが祭典の冒頭ソロではレに上がる。第3楽章のコールアングレがそれに続くソロを思わせる。「賢者の行進」は「怒りの日と魔女のロンド」(同81)だ。第5楽章のスコアは一見して春の祭典と見まがうほどで僕にはわくわくの連続だ。

この交響曲の第1楽章と第3楽章は、まことにサイケデリックな音楽である。第1楽章「夢、情熱」の序奏部ハ短調の第1ヴァイオリンのパートをご覧いただきたい。弱音器をつけpからffへの大きな振幅のある、しかし4回もフェルマータで分断される主題は悩める若者の不安な声である。交響曲の開始としては異例であり、さらにベートーベンの第九のような自問自答が行われる。gensou1

感情が赤の部分へ向けてふくらんでfに登りつめると、チェロが5度で心臓の高鳴りのような音を入れる。そこで若者は同じ問いかけを2回する。青の部分、コントラバスがピッチカートでそれに答える。1度目はppでやさしく、2度目はfで決然と。まるでオペラであり、ワーグナーにこだまするものの萌芽を見る思いだ。

若者は納得し(弱音器を外す)、音楽は変イの音ただひとつになる。それがト音に自信こめたようにfで半音下がると、ハ長調でPiu mosso.となり若者は束の間の元気を取り戻す。この、まるで夢から覚めていきなり雑踏ではしゃいでいるような唐突で非現実的な場面転換、そこに至る2小節の混沌とした感じは、まったく筆者の主観であるが、レノン・マッカートニーがドラッグをやって書いた後期アルバムみたいだ。両者にそういう共通の遠因があったかどうかはともかく、常人の思いつく範疇をはるかに超え去ったぶっ飛んだ楽想である。

この後、弦による冒頭の不安な楽想と木管によるPiu mossoの楽想が混ざり、心臓高鳴りの動機で中断すると、再び第1ヴァイオリンと低弦の問答になる。ここでの木管の後打ちリズムはこの曲全体にわたって出現し、ざわざわした不安定な感情をあおる。やがて弦5部がそのリズムに引っぱられてシンコペートする。これが第2のサイケデリックな混沌だ。ここから長い長い低弦の変イ音にのっかって変ニ長調(4度上、明るい未来)になり、しばし夢の中に遊ぶ。フルート、クラリネットの和音にpppの第1ヴァイオリンとpのホルン・ソロがからむデリケートなこの部分の管弦楽法の斬新さはものすごい!これはリムスキー・コルサコフを経てストラヴィンスキーに遺伝し、火の鳥の、そして春の祭典のいくつかのページを強く連想させるものである。

この変イ音のバスが半音上がり、a、f、g、cというモーツァルトが偏愛した古典的進行を経てハ長調が用意される。ここからハリエットのイデー・フィックス(固定楽想)である第1主題がやっと出てきて提示部となる。つまりそこまでの色々は序奏部なのだ。この第1主題、フルートと第1ヴァイオリンが奏でるソードソーミミファーミミレードドーシである。山型をしている。ファが頂上だが、ミミファーと半音ずり上がる情熱と狂気の盛り上げは随所に出てくる。第2主題はフルートとクラリネットで出るがどこか影が薄い。しかしこの気分が第3楽章で支配的になる大事な主題だ。これはすぐに激した弦の上昇で断ち切られffのトゥッティを経て今度は深い谷型のパッセージが現れる。すべてが目まぐるしく、落ち着くという瞬間もない。ここからの数ページは、やはり感情が激して落ち着く間もないチャイコフスキーの悲愴の第1楽章展開部を想起させる。

展開部ではさらに凄いことが起こる。練習番号16からオーボエが主導する数ページの面妖な和声はまったく驚嘆すべきものだ。第381小節から記してみると、A、B♭m、B♭、Bm、B、Cm、C、C#m、C#、Csus4、C、Bsus4、B、B♭sus4、B♭、Bm、B、Cm、C、C#m、C#、Dm、D、D#m・・・・なんだこれは?何かが狂っている。和声の三半規管がふらふらになり、熱病みたいにうなされる。古典派ではまったくもってありえないコードプログレッションである。ベルリオーズは正式にピアノを習っておらず、彼の楽器はギターとフルートだった。この和声連結はピアノよりギター的だ。それが不自然でなく熱病になってしまう。チャイコフスキーは同じようなものを4番の第1楽章で「ピアノ的」に書いた。それをバーンスタインがyoung peoples’でピアノを弾いてやっている。

ところで、ハリエットは第4楽章でギロチンに首を乗せると幻影が脳裏に現れてあの世である終楽章でお化けになることになっているが、僕は異説を唱えたい。最初から殺されていて、全部がお化けだ。第1楽章の熱病部分に続くffのハリエット主題はG7が呼び覚ますが、そこでイヒヒヒヒと魔女の笑いが聞こえ終楽章の空飛ぶ妖怪の姿になっている。そこからもう一度ややしおらしくなって出てくるが、それに興奮して騒いだ彼の首がギロチンで落ちるピッチカートの予告だってもうここに聞こえているではないか。しかしそれはコーダの、この曲で初めてかつ唯一の讃美歌のような宗教的安らぎでいったん浄化される。だからとても印象に残るのだ。本当に天才的な曲だ!このC→Fm(Fではなく)→Cはワーグナーが長大な楽劇を閉じて聴衆の心に平安をもたらす常套手段となるが、ここにお手本があった。この第1楽章に勝るとも劣らないぶっ飛んだ第3楽章について書き出すとさすがに長くなる。別稿にしよう。

第2楽章「舞踏会」。ここの和声Am、F、D7、F#7、F#、Bm、G・・・も聞き手に胸騒ぎを引き起こす。スコアはハープ4台を要求しているが、この楽器が交響曲に登場してくるのがベートーベンをぶっ壊している。第3楽章のコールアングレ、終楽章の鐘、コルネット、オフィクレイドもそうだ。ティンパニ奏者は2人で4つを叩きコーダで2人のソロで合奏!になる。ラ♭、シ♭、ド、ファという不思議な和音を叩くがこのピッチがちゃんと聴こえた経験はない。同様に第4楽章の冒頭でコントラバスのピッチカートが4パートの分奏(!)でト短調の主和音を弾くが、これもピッチはわからない。これは春の祭典の最後のコントラバス(選ばれた乙女の死を示す暗号?)のレ・ミ・ラ・レ(dead!)の和音を思い出す。

この交響曲の初演指揮を委ねられたのはベルリオーズの友人であったフランソワ・アブネックであった。彼についてはこのブログに書いた。

ベートーベン第9初演の謎を解く

幻想交響曲はハリエットという女性への狂おしい思いが誘因となり、シュークスピアに触発されたものだが、音楽的には彼がパリで聴いたアブネック指揮のベートーベンの交響曲演奏に触発されたものである。ベートーベンの音楽が絶対音楽としてドイツロマン派の始祖となったことは言うまでもないが、もう一方で、ベルリオーズ、リスト、ワーグナーを経て標題音楽にも子孫を脈々と残し、20世紀に至って春の祭典やトゥーランガリラ交響曲を産んだことは特筆したい。そのビッグバンの起点が交響曲第3番エロイカであり、そこから生まれたアダムとイヴ、5番と6番である。このことは僕の西洋音楽史観の基本であり、ご関心があれば3,5,6番それぞれのブログをお読み下さい(カテゴリー⇒クラシック音楽⇒ベートーベンと入れば出てきます)。

最後に一言。男にこういう奇跡をおこさせてしまう女性の力というものはすごい。我がことを考えても男は女に支配されているとつくづく思う。そういえばモーツァルトもアロイジア・ウェーバーにふられた。彼が本当にブレークするのはそれを乗り越えてからだ。彼はアロイジアの妹コンスタンツェを選んだ。姉の名はマニアしか知らないだろうが天才の妻になった妹は歴史の表舞台に名を残した。しかしベルリオーズの方は後日談がある。幻想の作曲から2年して再度パリを訪れたハリエットはローマ留学から帰ったベルリオーズ主催の演奏会に行く。そこで幻想交響曲を聞き、そのヒロインが自分であることに気づく。感動した彼女は結局ベルリオーズと結ばれた。彼女の方は大作曲家の妻という名声ばかりか、天下の名曲の主題として永遠に残った。

 

シャルル・ミュンシュ / パリ管弦楽団

406僕はEMIのスタジオ録音でこの曲を知ったしそれは嫌いではない。ただし彼の演奏はかなりデフォルメがあり細部はアバウト、良くいえば一筆書きの勢いを魅力とする。それが好きない人にはたまらないだろうということで、どうせならその最たるものでこれを挙げる。鐘の音がスタジオ盤と同じでどこか安心する。幻想のスコアを眺めていると、書かれた記号にどこまで真実があるのかどうもわからない。そのまま音化して非常につまらなくなったブーレーズ盤がそれを物語る。これがベストとは思わないが、面白く鳴らすしかないならこれもありということ。フルトヴェングラーの運命の幻想版という感じだ。EMI盤と両方そろえて悔いはないだろう。

 

ジェームズ・コンロン/  フランス国立管弦楽団

gensouこの曲はフランスのオケで聴きたいという気持ちがいつもある。マルティノンもいいが、これがなかなか美しい。LP(右、フランスErato盤)の音のみずみずしさは絶品で愛聴している。演奏もややソフトフォーカスでどぎつさがないのは好みである(音楽が充分にどぎついのだから)。パリのコンサートで普通にやっている演奏という日常感がたまらなくいい。料亭メシに飽きたらこのお茶漬けさらさらが恋しい。終楽章のハリエットですら妖怪ではなく人間の女性という感じだからこんなの幻想ではないという声もありそうだが。

 

オットー・クレンペラー / フィルハーモニア管弦楽団

4118SYQZ5PL__SL500_AA300_ロンドン時代にLPで聴き、まず第一に音が良いと思った。音質ではない。音の鳴らし具合である。この曲のハーモニーが尖ることなく「ちゃんと」鳴っている。だからモーツァルトやベートーベンみたいに音楽的に聞こえる。簡単なようだがこんな演奏はざらにはない。第2楽章にコルネットが入る改訂版をなぜ選んだかは不明だが、彼なりに彼の眼力でスコアを見据えていておざなりにスコアをなぞった演奏ではない。ご自身かなりぶっ飛んだ方であられたクレンペラーの波長が音楽と共振している。第4楽章の細部から入念に組み立ててリズムが浮わつかない凄味。終楽章もスコアのからくりを全部見通したうえで音自体に最大の効果をあげさせるアプローチである。こういうプロフェッショナルな指揮は心から敬意を覚える。

 

(補遺、2月29日)

ダニエル・バレンボイム / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

51iMEuehZVLベルリン・イエス・キリスト教会の広大な空間を感じる音場で、オーケストラが残響と音のブレンドを自ら楽しむように気持ちよく弾き、良く鳴っていることに関して屈指の録音である。音を聞くだけでも最高の快感が得られる。第1楽章は提示部をくり返し、コーダは加速する。第2楽章はワルツらしくない。第3楽章の雷鳴は超弩級で、どうせ聴こえない音程より音量を採ったのか。第4楽章のティンパニの高いf がきれいに聞こえるのが心地よい。終楽章コーダは最も凄まじい演奏のひとつである。たしかBPOのCBSデビュー録音で、僕は89年にロンドンで中古で安いので買っただけだが、バレンボイムの振幅の大きい表現にBPOが自発性をもって乗っていて感銘を受けたのを昨日のように覚えている。ライブだったら打ちのめされたろう。彼はつまらない演奏も多いが、時にこういうことをやるから面白い。

 

(補遺、2018年8月25日)

ポール・パレー / デトロイト交響楽団

第2楽章の快速で乾燥したアンサンブルはパレーの面目躍如。これだけ内声部が浮き彫りに聞こえるのも珍しい。第3楽章も室内楽で、田園交響曲の末裔の音を感知させる面白さだ。ティンパニの音程が最もよくわかる録音かもしれない。指揮台にマイクを置いたかのようなMercuryのアメリカンなHiFi概念は鑑賞の一形態を作った。終楽章の細密な音響は刺激的でさえある。パレーは木管による妖怪のグリッサンドをせず常時楷書的だが、それをせずともスコアは十分に妖怪的なのであり、僕は彼のザッハリッヒ(sachlich)な解釈の支持者だ。

 

 

クラシック徒然草―ミュンシュのシューマン1番―

 

 

 

(こちらへどうぞ)

音楽にご関心のある方

ストラヴィンスキー バレエ音楽 「春の祭典」

クラシック徒然草-田園交響曲とサブドミナント-

フランク 交響曲ニ短調 作品48

女性にご関心のある方

「女性はソクラテスより強いかもしれない」という一考察

日本が圧勝する21世紀<女性原理の時代>

 

 

 

 

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モーツァルト交響曲第41番ハ長調「ジュピター」K.551

2014 MAY 26 1:01:51 am by 東 賢太郎

 

ザロモンがハ長調交響曲にジュピターと名付けたくなったのはわかります。この曲の偉容はまさに男性的であり、音楽の王者の風格ありです。曲の概要についてはwikiでも見ていただくとして、僕はこの曲でモーツァルトが何気なく書いている和声の驚くべきスペクタクルでも書いておきましょう。まずは第2楽章です。

jupiter2

特に色枠の三拍目のb♭、d♭、a 、c が凄い。ここのコード進行の規則性で機械的に出てしまう不協和音ですがそれがGmに解決するのも本当に凄い。次は第3楽章のトリオに出てくるオーボエ2本とファゴットです。

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この譜面が古典派の人のものとはとても信じ難い。しかし彼はフィガロあたりからすでに別世界の和声領域に踏みこんでいます。次に終楽章の恐るべきこれです。このピアノスコアを見るまで僕にはここの和声進行が謎でした。

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9小節目から。F、E6、E7、B♭7、A6、A7、E♭7、D6、D7、A♭7、G6、G7、D♭7、C6、C7となります。増4度飛ぶバスが凄すぎます。モーツァルトがただ綺麗でかわいい曲を書いただのと思ったら大間違い。機能和声の範疇ではロマン派もぶっとばして前衛的ですらあり、感覚的には転調の竜巻か嵐かという感じです。

こういうところはベートーベンよりもむしろワーグナーに引き継がれているように思います。ピアノで弾いてみて、こういう指の動きがトリスタン和音に向かっていく感覚があります。そして、ハ長調のあらゆる可能性を汲みつくした音の運動はマイスタージンガー第1幕前奏曲の対位法に向かい、終楽章のフーガ風(厳密にはフーガではない)のコーダにあの前奏曲の全主題の絡み合うクライマックスの原型を見るのです。

 

ここから、僕の大好きなCDをご紹介します。 まず、何といってもボールト盤が筆頭です。これぞジュピターの最高の演奏であります。最近この曲は遠ざかっていましたがこの稿を書こうと久しぶりにボールトを聴きかえし、忘れていた41番ジュピターへの愛と歓喜が再び沸き起こって体の芯から熱くなるという数奇な体験をいたしました。

 

エードリアン・ボールト / ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

659それがこれです。僕の持っているCDは右のジャケットではなく、昔ロンドンで買ったRoyal Classics盤と去年タワレコで買ったBoult from Bach to Wagnerです。第1楽章のまったく素晴らしいテンポ!全曲にわたって繰り返しは全部行う徹底ぶりは、ボールトがこの曲を愛し一切をないがしろにしないという決意でしょう。その意志の徹底は決してオケを神経質にさせず、むしろ天真爛漫にモーツァルトを演奏する喜びに浸らせています。ドイツ風の重心の低い芳醇な響き、対抗配置で理想的に鳴る弦、祝典的に響くティンパニ、弦に溶け込んで乗っかるフルートの喜び、飛び出さないトランペット、僕の欲しいものがすべてあり、それがボールトの思いへの奉仕になっていてぐいぐい心に入りこんできます。彼の漲るパッションは表には見えませんが、堂々たる地に根を張った男らしい音作り、ゆるぎない構築感、リズムの躍動感を通じてテレパシーのように聴き手に伝わり、全てが自然体ながら曲のあるままに高揚感へ登りつめるという天下の名人芸に酔いしれることになります。EMIアビイ・ロードのスタジオ1なのに第2楽章は教会のように響きます。第3楽章の存在感あるティンパニに微妙な強弱をつけるなど、そう聞こえませんが細部にもこだわりがあり、やや遅めのテンポで入念に声部を描き分ける終楽章は圧巻です。圧倒的なフーガが現れ、堂々たるリタルダンドで音楽が終わるや僕は感動のあまり手を合わせて拝むしかありません。この演奏がぜひ広く聴かれ、この交響曲の真価、神髄を知る方が増えることを祈ってやみません。

 

カール・ベーム / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

41DCHZ229HL__SL500_AA300_なかなかない重さと華やかさが両立したオーケストラ。出だしからああこれもいいなあと思わせます。これぞウィーンフィルの魅力です。ピッチが微妙に高いため音の持つ温度とテンションが微妙に高く聴こえていますが、ベームのリズムが素晴らしい。そのオケの音に合っているからです。この演奏の白眉は第2楽章です。まず音がオケの美をひけらかすだけのきれいごとではない。このオケに位負けする指揮者だと白痴美になりがちですがここではあえて霞がかかった感じであり、ハ短調になるとテンポがbohmやや速めになって緊張感を増します。これはさすがです。第3楽章が遅すぎるのが唯一の欠点ですが、楽譜を示したオーボエ、ファゴットのフレーズはゆっくりと和声が味わえます。終楽章、弦の内声部まで強いテンションで鳴り切っているのに感服です。音楽が内部から加熱し巨人の歩みのように進み、聴く側もエネルギーを要する大交響曲演奏であります。余談ですがこのCD(上が直近に売られているもの)を僕はEVNというオーストリアの大手電力会社の社長さんから来日のおみやげとしていただきました(右)。91年のことです。ベームのモーツァルトはお国の誇りであったのですね。

 

オトマール・スイトナー / ドレスデン国立歌劇場管弦楽団

51Ct1hoL72L__SL500_AA300_大学時代にLPで愛聴した演奏です。第1楽章はこのコンビの特色であるきびきびした速めのテンポでです。ルカ教会のやや遠めにまとまった音響でティンパニがやや不明瞭で低音の定位がいま一つなのが欠点ですが、弦と木管の美しさは何とも抗しがたく、特に第2楽章はこの曲のための特別な練り薬で溶いたかのような蠱惑的な音色に耳がくぎづけになります。第3楽章はとても速い。このテンポだとトリオがド・レ・ファ・ミの終楽章テーマであることがよくわかります。終楽章は提示部を繰り返します。内声部のハモリや木管(特にフルート)のさえずりに独特の美意識を感じ、終結もほとんどリタルダンドなし。強い表現意欲ですが、上記2つの大人の芸と比べると説得力はいま一つかもしれません。

第1楽章

 

(補遺、21 June17)

フェレンツ・フリッチャイ / ウィーン交響楽団

これは大学に入ってすぐ、五月病のころ大学の生協で買った人生初めてのジュピターです。このやや遅めの演奏の醍醐味を味わう知識も耳も当時はなくて、翌年に買った上記のスイトナー盤のテンポの方が音楽的快感が得られ関心が移ってしまいました。各セクションのフレージングが克明で活気と表現意欲にあふれ、全体をフリッチャイが揺るぎない造詣と立体感でどっしりと括りあげた、誠に玄人向けの名演であります。

 

ヨゼフ・カイルベルト / バンベルク交響楽団

この演奏を知ったのはCD時代になって右の写真のものですが、何とも言えぬ抗いがたい魅力があるのです。プラハ・ドイツ・フィルハーモニーを前身とするこのオケの鄙びた東欧の音色は一切華美に傾かず、弦は地味で木質だが黒光りするような独特の美を誇り、カイルベルトの指揮もその木曾檜のごとき素材を知り尽くして正攻法のジュピターをやっている。何の変哲もない姿ですが、簡素で古雅な味わいは我が国で例えるなら大和古仏の味わいでしょうか。こういう音はもはや地球上から消えており、こよなく愛する僕としてはかような古い録音を文化遺産の如く珍重するしかございません。

 

(こちらもどうぞ)

モーツァルト「ジュピター第1楽章」の解題

モーツァルト 交響曲第1番変ホ長調 k.16

モーツァルト交響曲第39番変ホ長調 K.543

モーツァルト 交響曲第40番ト短調 K.550

モーツァルト 交響曲第38番ニ長調 「プラハ」K.504

 

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ブルックナー交響曲第7番ホ長調

2014 FEB 25 19:19:10 pm by 東 賢太郎

このところかなり精神的、体力的に疲れていて気持ちがロウになりがちで、体調の方も先週は咳が止まらなくなって参っていた。漢方をいただいて何とか収まったが・・・。

こういう時に僕には何が効くかというと、ブルックナーである。それも7番がいい。5番、8番はちょっと押し込まれて重い。9番は平静にはなるが気持ちが前に出ない。7番の泣きからの復活こそ波長が合うのだ。この曲とつき合って39年になるがそれはずっと変わらない。

ということで日曜日は7番の第2楽章とピアノで格闘することになった。これは素人にとって非常に難しい。格闘という言葉しかなく、後半は一人で弾くのはどう見ても無理。だからせいぜい提示部ぐらいだ。しかし出てくる音はあまりにすばらしい。下はワーグナーの死を予感したブルックナーにやってきた嬰ハ短調の弦の慟哭の主題のあと、ぱっと陽がさすように長調に転じて第2主題を用意するつなぎの部分だが、ここが僕は大好きだ。この部分の目が眩むような「和声の迷宮」の見事さはどうだろう!それがぎらぎらした感情ではなくどこか信仰心(そんなものは僕にはないが・・・)からくる安寧、諦観とでもいうような心の落ち着きをもたらす。疲れた頭を芯から癒してくれる気がするのである。

イメージ (37)

下のModeratoからが第2主題だ。何といういい節だろう。これは彼が遺骸の頬にキスしたほどシューベルトを敬愛したという脈絡に位置するものと感じる。この美しさは筆舌に尽くし難い。天国への道はこんな感じなのかもしれないとさえ思う。

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このあたりを弾いていると、僕は本当に骨の髄までブルックナーが好きなんだと思う。2-3時間この楽譜と向き合って、もうほかの楽しみはいらないどうでもいいという境地に至ってしまった。音楽パワーさまさまの一日であった。

7番の第1楽章はブルックナーの書いた最も素晴らしい音楽の一つだろう。僕はブルックナーの音楽は宗教音楽と思っている。ヴァイオリンのトレモロに導かれるあのホルンとチェロのユニゾンの上昇。神的、霊的なものへの扉が開く。7番は精神が天へ向かっている。181小節のフルートソロのパッセージ、この部分の前後は見事にショスタコーヴィチの第5番第1楽章にエコーしている。ほぼパクリといってもいい。あの不可思議な空騒ぎで終わる交響曲の非常に感動的な第1楽章の静寂部分と第3楽章はブルックナーに負うものがあると考えている。終楽章を彼が負ったのはマーラーだ。

3つの主題があるが2番目の主題は驚くことにロ長調で入って2小節目からもうロ短調、ト長調、変ロ長調、ヘ長調、変イ長調・・・と小節ごとに調が万華鏡のように変わる。ドビッシーはフランクを転調機械と皮肉ったが、この平明な主題の気分の変化は機械的でも気まぐれな女心でもなく、微妙な天候の移ろいのようだ。最初の主題のホ長調からハ長調もそうだが、主題そのものに転調がビルト・インされているのは自然の生生流転、諸行無常というパーツでこのシンフォニーが構築されているということだ。そしてすばらしい終結部、高弦のトレモロとティンパニに伴われて第1主題が回帰する部分は宗教画の金色に輝く天空を思わせる。こういう音楽にヒューマンな要素、感情、快楽のようなものを表現したり聴こうとしたりということは僕の場合は一切ありえない。

第2楽章でハースが削除した打楽器は僕はあっていいのではないかと思っている。原典版(クレンペラーが使っている)がどこまで原典だったかということだ。ブルックナーはそれをするには禁欲的であったとする人もいるがワーグナー崇拝者でもあった。だからワーグナーチューバを借りてきているわけであり、トライアングルとシンバルの組み合わせはワーグナーがマイスタージンガー前奏曲で使っているが、あそこで2回鳴るシンバルの箇所からしてこの第2楽章の頂点(それはこの交響曲全体の頂点でもあるが)でそれを使うことに違和感は感じなかったのではないだろうか。それを弟子に指摘してほしかったという程度の禁欲はあったかもしれないが。

彼は1882年にバイロイトでワーグナーに会い、パルシファル初演を聴いた。ワーグナーは彼をベートーベンと比肩させるほど高く評価した。俗に「ブルックナー開始」と呼ばれる弦の密やかなトレモロは第九の冒頭に由来していると思われ、3人は一本の線でつながる。その翌年2月に彼はヴェニスで客死した。その報はブルックナーを打ちのめし、その結果が第2楽章の終わりのワーグナーチューバによる悲痛な4重奏として刻印された。このシンフォニーにヒューマンなものが混じっているのがこの楽章で、難しい。それがもろに表に出てしまう演奏、クナッパーツブッシュやフルトヴェングラーのようなものは僕は好かない。レーグナーの粗暴な金管の音など酷いものだ。そういう無用な演奏家の「劇」は音楽の美しさを損なうだけだと思う。

第3楽章スケルツォは「悪魔的」がいいのかどうか。この楽章は最も早く書かれており6番の作曲が完了してから間もないころだ。1,2楽章の深みとはどうも乖離を感じてしまうのは僕だけだろうか。趣味の問題だが僕は主部にあまりトリオとの芝居がかったコントラストを着ける流儀は好かない。そんなことをしないでもトリオは十分に美しい。チェリビダッケのゆったりしたテンポによるどぎつさのない表現、トリオはさらに遅くというあのテンポを堪えきれないと感じる人は多いだろうが僕はあれぐらいでいいと思う。

第4楽章はこれも上昇音型である弦の喜びの主題で始まる。シューマンのラインの終楽章を思わせ好きだ。しかし、第4交響曲変ホ長調ほどではないにしても第1、2楽章にくらべて重みと内容のバランスをやや欠く印象は否めない。ジュピター音型に似た並びの第2主題には不思議な和音が付き、巡礼の隊列を見るような深い宗教的な気分が支配する。最後の審判を告げるような峻厳なトゥッティに続きワグナーチューバがジークフリートを思わせる和声を奏でるのが印象的だ。「喜び」「巡礼」「審判」が対位法で骨格を形成するのは5番の終楽章を思わせるが、特に出来の良い楽章とは思われない。

こうして書いていてわかったことだが、ブルックナーの音楽というのはいくら文字にしても満足な着地点がない気がする。全曲が複数の主題の対位法的な変遷と和声の迷宮の巣窟のようなものでまことに捉えどころがない。それは演奏についても同様で、各曲とも一個の小宇宙でありその総体を俯瞰した演奏でなくては説得力がない。しかし細部に磨きをかけた美音と演奏技術なくしては表しえない物も包含している困った存在だ。

7番のライブは海外ではいろいろ聴いたがフランクフルトのアルテ・オーパーでやったクルト・マズア指揮ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管は良かった。しかし何といっても最高だったのがチョン・ミュンフンがN響を振った2008年2月9日のAプロだ。あのオケの弦が最も美しく鳴った演奏の一つであり、この曲に一番感動させてくれた演奏の一つでもあった。

7番の録音は昔はカール・シューリヒトがハーグ・フィルを振ったものを好んで聴いていた。同じくシュトゥットガルト放送響を振ったもの、前回書いたハンス・ロスバウトのも好きだった。ただ最近それらは指揮の癖が気になってきて聴かない。とくに引っ越しをしてオーディオ装置を替えてからは音響というものがブルックナー鑑賞に不可欠と感じるようになったことも大きい。どうしても深々とした「良い音」で鳴ってくれないと物足りない。

 

ベルナルト・ハイティンク / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

038これぞあのコンセルトヘボウの特等席の音である。僕はそれを思い出してどっぷりと浸りたい時にこの全集をよく取り出して聴く。ノヴァーク版としてまったく普通の良い演奏であり、強固な主張は聞こえずスコアの音化にまっすぐに奉仕するという姿勢で、それに充分の成果を上げている。この録音の頃にロンドンのプロムスで聴いた9番がまさにそういう名演であった。第2楽章の第2主題の彫琢が甘いなどアラを探せばある。しかしこのあらゆる点で高水準のコンセルトヘボウ管の演奏をこの美音で聴けていったい何の不足があるだろう。冒頭のホルン、チェロを聴いただけでもう納得である。この曲にストーリーを求めず、スコア、音符の美しさを愛でることのできる人にはお薦めである。

 

オットー・クレンペラー / フィルハーモニア管弦楽団

クレンペラー ブルックナークレンペラーの他のブルックナーはあまり聴かないがこの7番はいい。原典版によるこの録音は彼のこれも音楽の神髄だけを突いたモーツァルトのオペラ録音と同質の精神に基づいたものである。そうでもなければカソリックでない彼がこれを演奏する立脚点がないだろう。第1楽章の天へ向かう精神、第2楽章の祈りの表情、深々とした音の弦、第2主題のいぶし銀の歌など最高に素晴らしい。第3楽章は一転ワーグナーを思わせる起伏をつけるが端正である。終楽章も力ずくの場面がなく、静かな部分はマーラーの4番での彼に通じるものがある。スコアにないコーダの減速は賛同できないが彼の主張として許容しよう。総じて人間くささを排除して神的領域に踏み込もうかという演奏で、それには不可欠である音程の良さに彼が心血を注いだ観があるのは同じく作曲家であるブーレーズがストラヴィンスキーに臨んだ楽譜の読み方と通ずるものがあるように感じる。凄い耳の良さである。

 

セルジュ・チェリビダッケ / ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

unnamed (50)7番の初演はライプツィッヒで行われたが、2か月後にミュンヘンで演奏され好評でありその指揮者ヘルマン・レヴィの勧めでワーグナーの庇護者であったバヴァリア王ルートヴィッヒ2世に献呈された。これはカソリックの音楽である。マーラーを振らなかったチェリがこのスコアをこう読んだというのはどこか納得がいく。「人間というファクターの排除」だ。全く賛成であり、音楽の自然と神秘の流れにいつまでも浸っていたい聴き手にとっては福音のような演奏である。カーチス音楽院で見たあの練習の流儀で磨き抜かれたオーケストラからしか発しようのない高純度の結晶のような音である。

 

ヘルベルト・ブロムシュテット /  ドレスデン国立歌劇場管弦楽団

045(1)ACO以外にブルックナーを見事に表現できるオーケストラとして僕はウィーン・フィル(VPO)よりもDSKを買う。カラヤン、ベーム、ジュリーニといい演奏はあるがピッチの高いVPOの美質はブルックナーの禁欲性と合わない気がするのだ。このオーケストラでいえばヨッフムの全集があるがこの7番はやや構えた第1楽章のテンポなど特に好きになれない。それよりもハース版を使い飾り気のないこのブロムシュテットの方がいい。音はやや古いがしっかり再生すれば非常に美しいことがわかる。i-tuneで900円で買える。

 

エリアフ・インバル / フランクフルト放送交響楽団

zaP2_J1118920W都響との素晴らしい演奏もあるインバルのこのオケとのシリーズは彼の原点だ。97年にパリのサル・プレイエルで聴いたバルトーク弦チェレに彼の音造りの粋を見た。神は細部に宿るのだ。それを悟らせない悠久の流れがあるから気づきにくいが実に緻密で集中力に富んだ指揮であり、矛盾のようだがブルックナーを振ったブーレーズより余程ブーレーズ的である。この録音はスコアの重要な部分をたくさん教えてくれた、僕には記念碑的なものだ。

 

オイゲン・ヨッフム /  ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

zaP2_G0019240W世評の高いEMIのDSK盤も見事な演奏だが、僕はまだ彼が老成していないこれが好きだ。BPOシェフのカラヤンが脂ののった64年の録音だが、12月というと彼はスカラ座でフレーニとの椿姫の上演が完全に失敗(カラスの呪い)した、そのころの間隙をぬった浮気返しの録音ということになる。そのせいか?オケは良く反応して集中力が高い。第2楽章の祈りの深さは出色であり、頂点の築き方も(シンバルはあるものの)劇的ポーズを感じさせない。

 

ブルックナーとオランダとの不思議な縁

 

 

 

 

 

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ブルックナー交響曲第9番ニ短調

 

 

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