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カテゴリー: ______演奏会の感想

鈴木雅明/読響のメンデルスゾーンに感動

2018 OCT 28 10:10:46 am by 東 賢太郎

指揮=鈴木 雅明
ソプラノ=リディア・トイシャー
テノール=櫻田 亮
合唱=RIAS室内合唱団

J.M.クラウス:教会のためのシンフォニア ニ長調 VB146
モーツァルト:交響曲 第39番 変ホ長調 K.543
メンデルスゾーン:オラトリオ「キリスト」 作品97
メンデルスゾーン:詩篇第42番「鹿が谷の水を慕うように」 作品42

 

仕事の準備等で忙しくあまり眠れていない。だから読響は行くかどうか迷った(居眠りでは申し訳ないし)。結局行くには行ったが前半はだめ。意識が飛んでしまう。39番はモダンオケでピッチの恐怖はなかったもののアンティーク解釈は好きでない。ブリュッヘンのライブを聴いたが、読響もほぼ同サイズの編成でティンパニの位置まで同じだった。僕が39番の真価を初めて知ったのはフリッチャイ盤だ。あれがおふくろの味なんだから、ほんとうはこうなのよと言われてもどうしようもない。

睡魔に参ってしまい、15分の休憩でセイジョーイシイに駆けこんで高濃度カテキンのお茶を買って一気飲みした。カフェインぬきだったらなんのこっちゃと思ったがどうやら入ってたんだろう、目はパッチリしてきてひと安心。ぎりぎりで席に戻る。すると今度はトイレが心配になってくるという塩梅で、コンサートひとつにこんなに苦労するようになった。もうバイロイトなんてありえねえやと思いつつ指揮者の登場を待つ。

メンデルスゾーンの宗教曲というとエリヤが忘れ難い。フランクフルトの部下にドイツ人 H 氏がいて、博士だったのでDr.(ドクトル )Hと呼んでいたが、年上だった彼はクラシックが博学、博識だった。僕はほぼ無知に等しかった宗教音楽を彼に習った。エリヤを聞けといわれアルテ・オーパーに一緒に行ったのがきっかけだ。神々しい音楽だった。ドクトルぬきにキリスト教徒でない僕がバッハ、ヘンデルを含めて宗教音楽をいっぱしにわかるなんてどう考えても無理だった。

後半は楽しみだった。そして報われた。鈴木 雅明さんはバッハを何枚か持っていてみんな良かったが実演は初めてだ。なんとドイツ人が敬服してついて行っているぞ。僕にはわかる。そんな簡単な人たちじゃないのだ。ソプラノのリディア・トイシャーは美声だ(美人だしフィガロのスザンナを歌うビデオがyoutubeにあるが全曲聴きたくなる)。櫻田 亮のテノールも見事だ。眠気などすでにおさらばだった。そしてなによりRIAS室内合唱団!うまい、最高!

鈴木さんの指揮は人柄まで見て取れる気がする。音楽に奉仕する魂が音楽家の共感を呼んでいると感じた。聴く方だってそうだった。マリア・ジョアオ・ピリスのリサイタルを聴いて自分が何に感動して涙まで流しているのかわからない。音楽を聴いてそういうことは、長い記憶をたどってもあまりないと書いたが、鈴木さんのメンデルスゾーンに同じことを記すことになろうとは、行くかやめるかなどと迷っていたぐらいなのだから想像だにしなかった。

心の底から突き上げてくる感動。わけもなく涙が止まらなくなった。歌われた言葉ではない(なにせ読んでもいない)、音楽の力、歌の力としか考えられない。ドクトルHはメンデルスゾーンがナチスのせいでいまだに正当な評価を得られていない理由を説いた。ドイツでユダヤ人問題を正面から論じるのは現代でも重たいことなのだが、彼も僕も金融証券界という、あえてアーリア人的視界に立つならばユダヤ的業界の住人であった。だからだろう、彼とはミュンヘンのオクトーバーフェストでビアホールで乾杯しながらそんなことを話しても平気だった。

金貸しは非道、金利を徴収するのは肉を切り取ることという世で富裕な銀行家の息子だったメンデルスゾーンはキリスト教に改宗した。しかし彼が生きるためにアイデンティティまで売ったとは思えない。彼は深いバッハ信仰がありルター派になったが心のルーツはユダヤ教徒であり、旧約・新約両方の聖書に出てくる聖人エリヤを描いたのは深いわけがある。ドクトルHは熱かった。ナチスは同盟軍と教わっていた僕は、アンネ・フランクがフランクフルトから逃げて隠遁したアムステルダムの家を見て深く同情はしたが、彼のメンデルスゾーン講話でいよいよ憎むようになった。

そのような知識も信仰もなくとも、メンデルスゾーンの音楽は訴求力があると思う。彼の音楽は、今流に中国語でいうなら全球的であって、大方の聖書も読んでいない日本人がバッハのマタイ受難曲をあるべき姿として理解するのは至難であったとしても、エリヤは自然に耳から共感できる。今回の曲目、未完に終わったが完成していればエリヤ、聖パウロと並んで三大オラトリオを形成したはずであるオラトリオ「キリスト」作品97もそうだった。そうだ、キリストはユダヤ人なのだ。信仰はないのに涙があふれ出てくる。ドイツの保守本流の音楽でしかこういうことは起きないことを僕は知っている。どうしてかは知らないけれど。

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ブロムシュテットの田園(N響定期B)

2018 OCT 24 23:23:10 pm by 東 賢太郎

ブロムシュテットはもはや数少ない20世紀の巨匠で、彼のシベリウス全集は辛口の部類としては聞ける。なぜ辛口かというとロマンティシズムに耽溺しないからだ。ドイツ人のアルブレヒトを思い出すが、もっと歌わず内に内に凝集する音楽性だ。例えば彼がDSKと録音したシューベルトの未完成はその凝集感が良い方に出て峻厳な曲作りができている成功作と思う。

今日の曲目、ベートーベン田園はどうも彼のその音楽性がプラスに出ないように思う。これは好きずきであって、そのように演奏された田園に僕はあまり感銘を受けないということに過ぎないが。ステンハンメルの交響曲第2番では彼の両親の母国スウェーデンの作曲家ということでの登場なんだろう。1911年になってこういう曲を書いていたという人であり、それが音楽史上何か意味があるのかさっぱりわからないが、たぶんもう2度と聞く機会はないだろうということで聞いた。ぜんぜん理解できない曲だった。

ファンの方には申し訳ないが、ブロムシュテットのライブで感動したことはなく、今回もその確認になってよりその確信を深めたというだけだった。大指揮者と呼ぶ方に反論を唱える根拠はなんら持ち合わせないが、要するに気が合わないということに尽きるんでしょう。

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N響定期、ヤルヴィのハイドン102番

2018 SEP 30 0:00:40 am by 東 賢太郎

ほぼ3か月ぶりのコンサートでした。

シューベルト/交響曲 第3番 ニ長調 D.200 R. シュトラウス/ホルン協奏曲 第2番 変ホ長調 ベートーヴェン/「プロメテウスの創造物」序曲 ハイドン/交響曲 第102番 変ロ長調 Hob.I‒102
サントリーホール

指揮:パーヴォ・ヤルヴィ ホルン:ラデク・バボラーク

バボラークのホルン協奏曲がよかった。ホルンの音はオーケストラの「生地」に欠かせないレシピであり、とりわけドイツ音楽においてはそうであってR・シュトラウスは親父が奏者だったからコンチェルトまで書いてしまった。なんとも心地よい、最高の音でした。アンコールはブラームスのトランペットのための練習曲。

今日はなんといってもハイドン102番だ。冒頭の変ロ音のユニゾン。おっ、ベートーベンの4番が始まった、いつもそう騙される。どうやら僕の場合は、変ロ音はそれとブラームスP協2番の出だしのホルン音で記憶しているらしいのです。こういうの、絶対音感とはといわないのでしょうがありますね、ハ音は春の祭典の出だしのバスーンだし。耳タコ音感です。

102番の調性の構造は面白いです、ここでは詳しく書きませんがロンドンの聴衆の耳は相当に凝っていてハイドンはそれにチャレンジしながら遊びを仕掛けてる。ロンドンセットはザロモンが発起人ですがハイドンに腕を振るわせたのは客です。舌の肥えた客が料理人を刺激するように、手慰みのBGMを求めた王侯ではなく市民階級が客だったロンドンは非常にレベルが高かった。その伝統は現代でも続いており、6年間その一員として楽しませてもらった僕にとって、あの日々は演奏会場の周囲の雰囲気にインスパイアされ大変に充実していました。

ヤルヴィの快速のアレグロは良かった。あれでないとハイドンははじまらない。現代のフルオーケストラで演奏するとベートーベンにひけを取らないことがわかります。N響も好演でした。

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読響定期・小林研一郎のマンフレッド交響曲

2018 JUL 7 2:02:31 am by 東 賢太郎

指揮=小林 研一郎
ピアノ=エリソ・ヴィルサラーゼ

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第1番 ハ長調 作品15
チャイコフスキー:マンフレッド交響曲 作品58

(7月5日、サントリーホール)

今や日本を代表する指揮者である小林さんには思い出がある。1996年だったと思うが、共通の知人の紹介でアムステルダムでゴルフをご一緒して、夕刻にコンセルトヘボウでコンサートがありご招待いただいた。オーケストラはオランダ放送交響楽団で前半がリストのピアノ協奏曲第1番、後半がチャイコフスキーのマンフレッド交響曲だった。残念ながらゴルフの負けの悔しさで頭がいっぱいであり、リストは興味ないし交響曲もいまひとつ馴染めておらずあんまり覚えていない。しかし正面に観ていた小林さんのオケの掌握ぶりは目覚ましく、その姿はしっかりと記憶に焼きついている。

僕はゴルフでコテンパンに負けた記憶はあまりない。だから小林さんは大変に、特別な方なのだ。とても気さくでよく語られ話題も豊富であり昼食は大盛り上がりで楽しかったが、たしか54才で始めたとおっしゃられたゴルフはとても強かった。初心者とナメていたらスタートの前に「僕は肘から出る『気』で人を動かす商売なんで、エイっとやって、みなさんここぞのパットは外させますよ」、なんて指揮者らしい手振りで笑わせた。もちろん冗談と思っていたら本当にパットが入らなくて調子がおかしくなり、ニギリでコテンパンに負けてしまったのだ。エイっをやられたのだろうか。

驚いたのは記憶力で、初めてのコースでホールアウトしてからなのに各人のホールごとのスコアはもちろん、何番ホールで誰が2打目を何番アイアンで打ったなんてことを覚えておられる。自分のことを自分より覚えている人に初めて会った。そんなに見られていたのかと唖然だ。こういう人が指揮台にいたらオケの楽員は気を抜けないだろうということがわかった。百人を同時に見ていて、各人が何をしているか楽譜を記憶しているのだから。暗譜で振るとはピアニストの暗譜と違う、支配するためなのだ。指揮者とはこういう超人なのだと思い知った。思えば僕は人生で数多の超人にお会いしてきたが、ゴルフという人間が透かし彫りになるゲームでの小林さんの超越ぶりは疑う余地もない。

そういえば芸大に入る前は「陸上をやってました」とおっしゃってたっけ、きっと足も速かっただろうし全身がアスリートなのだ。この文武両道ぶりは鮮烈であり、指揮者という職業は僕にとって神のようなものだから、その人に運動まで負けてしまうと男として完敗感は救い難い。だからコンセルトヘボウで音楽などそっちのけだったのだろう。済んだことは忘れる性格だから他人のクラブどころか自分のだって覚えてなかったが、これ以来悔しさのあまり僕は知らず知らず影響を受けていたと思われ、相手の成すことを細かく観察するようになってマッチプレーが強くなったとさえ思う。

だから、小林さんというと僕にとっては音楽以前にまずゴルフのニギリが強い人という印象が強烈なのだ。やわな芸術家などという感じはぜんぜんない、これは否定的な意味ではなく僕にとっては最大の賛辞である。音楽はそりゃあ子供の時から女の子と一緒にピアノやってたんでしょでおしまいだが、始めて日が浅いのにあれほど勝負が強いというのは、まったく捨て置けない、ただ者ではないのである。あれがゴルフであり、野球でなかったのが唯一の救いだ。

この日の読響の掌握ぶりはまずあの時のエイっそのもので、懐かしくさえある。あれならオーケストラは動かせるだろうと納得至極だ。近くで拝見していたが、肘の『気』は健在で棒の動きのイメージ通りに弦が深みある音を発する。マンフレッドはN響でもアシュケナージとペトレンコで2回聞いて、それでもつまらない曲だと思っていたが、ついに初めて楽しめた。4番と5番の狭間の曲だがロ短調でもあり悲愴に通じる音もする(プロットもマンフレッドの死で終るから似る)と思えば、白鳥の湖であったりロメオとジュリエットであったりもする。

前半のベートーベンP協1番。はっきり言って、良かった。エリソ・ヴィルサラーゼは初めて聴いたが、1番の実演では僕のきいたベストの一つ。打鍵は強くフレーズは明瞭に弾き、歌うべきは歌う。終楽章の強靭な推進力、骨太な輪郭、愉悦感はなかなか出るものではなく、あのように弾かないと曲に埋没して負けてしまうから意外とこれは難しいのだろう。タイプこそ違うがギレリスがマズアとやった演奏を思い出した。これが存外に良かったものだから後半も集中力が切れなかったと思う。オケもティンパニを強打してメリハリと色彩感にあふれ、小林さんこの1番は素晴らしい、ヨーロッパのオケを思わせるあの彫りの深さは日本のオケからあまり聞いたことがない

 

 

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読響定期・コルネリウス・マイスター指揮 R.シュトラウスを聴く

2018 JUN 20 1:01:58 am by 東 賢太郎

サントリーホールに入るとこんなものが目に入り、よく見るとロジェストヴェンスキーの写真が。あれまた来るのか?いや聞いてないぞ・・・嫌な予感が。すぐスマホを開いて知った。知らなかった。脳天を殴られたような衝撃を覚えた。去年の5月、母が旅立つ10日前に芸劇でやったブルックナー5番シャルク版があまりに素晴らしく、「何でもいい、もう一度聞きたい」とブログに書き留めた。こんなに早くそれが叶わぬこととなってしまうとは・・・。数々の忘れ得ぬ思い出があるロジェストヴェンスキーさんについては別稿にしたい。ご冥福をお祈りします。

 

さてこの日のプログラムは以下の通り。

指揮=コルネリウス・マイスター
チェロ=石坂 団十郎
ヴィオラ=柳瀬 省太(読響ソロ・ヴィオラ)

R.シュトラウス:交響詩「ドン・キホーテ」 作品35
R.シュトラウス:歌劇「カプリッチョ」 から前奏曲と月光の音楽
R.シュトラウス:歌劇「影のない女」 による交響的幻想曲

コンサートはロジェストヴェンスキー追悼のチャイコフスキー「くるみ割り人形から」で始まりR.シュトラウスが続いた。結論として、今年最高の演奏会と呼ぶに足る満足と感動をいただいた。まずコンサートマスター小森谷巧氏だ。独りよがりのソリスティックなふるまいがなく音型の造形が端正に決まり、敏捷であるが音程は常に良い。「カプリッチョ」の六重奏など絶妙である。コンマスはソリストではない、この人だと僕は第1Vnに安心して音楽に入ることができる。石坂 団十郎のストラディも最高の美音であった。5列目で聴いていたが陶然とするしかない。

「影のない女」オケ版は初めてだが、R.シュトラウスのオーケストレーションを真近で味わうのは血の滴るステーキを500gを頬張るに匹敵するこの世の贅沢である。この場合はサントリーホールのばらばらな位相がプラスになって、楽器の錯綜した絡みが眼前で展開される様はゴージャスとしか書きようがない。音楽にぐいぐい引きこまれ、引きずり回されて、終わってみると心の底から熱い感動が沸き立ってきた。こんなことはそうない。指揮者コルネリウス・マイスターの力だろう。最高のプログラム、最高にプロフェッショナルな演奏。深謝。

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N響定期、アシュケナージのドビッシーを聴く

2018 JUN 10 0:00:50 am by 東 賢太郎

指揮:ウラディーミル・アシュケナージ
ピアノ:ジャン・エフラム・バヴゼ

イベール/祝典序曲
ドビッシー/ピアノと管弦楽のための幻想曲
ドビッシー/牧神の午後への前奏曲
ドビッシー/交響詩「海」

イベールは西村さんがブログに書かれた昭和15年に委嘱された曲。一聴して面白い曲でもないが聴けたのはありがたい。ジャン・エフラム・バヴゼのピアノは高音域のきらめきがとてもきれいで、めったに実演を聴けない幻想曲は楽しめた。アンコールの「花火」はすばらしい、見事なタッチと音彩の使い手でありこれなら前奏曲第2巻全曲を所望したい。後半はいつでも何処でも聴きたい曲目。特に「海」は最も好きなクラシックのひとつで、スコアにあるすべての音が絶対の価値を持って聞こえる。

最近疲れで居眠りすることが多いが、牧神と海だけはアドレナリンが出て開始前から興奮している。どちらもオーケストレーションが!!!何度観ても唖然とする独創。僕は僕なりの色を見ている。海の第1楽章の最後、チェロのソロとイングリッシュホルンのユニゾン!ここはW・ピストン著「管弦楽法」に取り上げられている箇所だがまるで一つの別な楽器のように完璧に調和するのは驚くばかり。シンセで第1楽章を録音したが、この部分からコーダの陽光に煌めく波しぶきまで、作りながら恍惚状態だった。第2楽章は色彩の嵐、第3楽章は再度その恍惚の和声で締めくくられる。一音符たりとも無駄がなく、今日はコルネットを復活した版だったがどちらであれ終結の充足感はゆるぎない。

海のオケを観ながら、これがなければペトルーシュカも春の祭典もなかったなと、弦楽器の書法、シンバル・銅鑼の用法、ティンパニとバスドラの使い分け(打楽器の音色美まで追求!)に感じ入る。とにかくオーケストレーションが図抜けていて凄すぎる。演奏?とてもよかった。アシュケナージは楽器をバランスよく鳴らし、ブレンドさせるのが大変に上手だ。眠くなるどころか、アドレナリンがさらに脳内をめぐっていつになく覚醒して終了。すばらしい「海」をありがとう!

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クリーヴランド管弦楽団を聴く

2018 JUN 8 19:19:19 pm by 東 賢太郎

プロメテウス・プロジェクトと銘打たれたクリーヴランド管弦楽団(以下CLO)ベートーベン(以下LvB)交響曲全曲演奏会(フランツ・ウェルザー=メスト指揮)のうち1,3,5,8,9番を聴いた。関心はジョージ・セルおよびクリストフ・フォン・ドホナーニによる全曲のクオリティの高さ、ブーレーズの春の祭典のオケであることによる。このオケは89年にロンドンでドホナーニによるマーラー5番を聴いただけだからほぼ初めてといえる。3番は天覧演奏会であったことは既述した。

まずは、何度も申し訳ないが、サントリーホール(以下SH)の悲しいアコースティックにつき書かざるを得ない。席は常にSのどこかであり、何十回もここで聞いただろうが、ピアノリサイタルは別としてオケに関して音がいいと思ったことは一度もない。ご異論はあろうが僕は欧、米、香港に16年住み世界の代表的ホールはほぼ全部聴いた。逆にウィーン・フィル(VPO)、チェコ・フィル(CPO)など本拠地での音を知っている世界の代表的オケをSHにおいて聴きもした。その結論をCLOが塗り替えなかったというのが今回の3回の演奏会の結論だからどうしようもない。

SHは音が上方に拡散し楽器の位置が明確にわかる(形状はどことなく似るベルリン・フィルハーモニーは一見そうなりそうだがならない)。残響はあるがブレンドが不十分で低音も拡散してよく鳴らない。僕はフィラデルフィアのアカデミー・オブ・ミュージックの弦の鳴りとブレンドが悪く低音が「来ない」アコースティックに辟易して2年間も我慢を強いられたが、多くの指揮者があそこで鳴らすのに苦心した文献がある。SHはそれをそのまま体育館に持ち込んで残響をつけたようなものである。今回ウェルザー=メストはコントラバス9本で臨んだがまだ足りない、というより、ブレンドという音響特性上複雑な問題だから12本にしたところで浮いてうるさいだけで解決はしなかったろう。

舞台で指揮者、奏者にどうきこえるのか不明だが、音が遠くまで行かない不安があるのではないか。だから旋律をゆだねられる第1Vnを高音域で歌わせようとなればホール特性、増強した低弦のふたつに対抗する必要から知らず知らず強く弾く傾向になるのではないか。ところがこれが問題だが、奏者の位置がわかるという特性はVn奏者個々の音が分離して聞こえることであって、ピッチのずれやヴィヴラートの揺れ(物理の言葉を借りるなら「位相」の変化)がクリアに聞こえてしまい、図らずもの強めのボウイングで増幅される。奏者個々人は気づかないだろうし指揮者の耳にどうなのか是非伺ってみたい。僕の想像だがそう考えないと説明がつかないほどここのVnの高音域のffはきたない。弦が売りであり、世界の耳の肥えた人が100年以上もそう証言してきたVPOやCPOの弦でもだめだったのだから僕にこの仮説を放棄する理由がない。CLOも同様だった。

それはもちろん演奏側の責任ではない。米国のメジャーはどこもそうだが個々人の音量が大きく敏捷性も高い。カーチス音楽院の学生の技術は大変に高度だったが、あそこの上澄みレベルの人がメジャーオケにいるのだから当たり前である。木管の木質の、特にクラリネットのベルベットのような美音が大きく響いたが隣りのファゴットは唖然とするほど聞こえないなど、これもホールの音響特性の何らかの欠陥と思われる不満もあったが、時にミスが目立ったホルン以外はメジャーの貫禄を見せた。テンポはアレグロは速く、5番はかつて聴いた最速級だ。LvBの交響曲の新機軸のひとつにコントラバスの書法があるが、9本で一糸乱れずのハイテクで広音域を飛び回る大活躍を見ればビジュアルでも圧倒される。しかしそれがあの快速だと「体育館」の残響でかぶってしまうのも困ったものだ。

また、指揮者がタメを一切作らず、むしろ伝統的には伸ばす音符を短めに切り詰めるものだからいつもフレージングが前に前につんのめる感じになる。これが快速と相まって興奮を生む図式なのだろうが、セルやドホナーニはそういうことがなく、ウェルザー=メストの個性とはいえあんまり大人の演奏様式と思わない。彼はLvBを人類に火を持ち込んだプロメテウスになぞらえた説をプログラムノートで開陳している。確かにLvBは音楽に火を持ち込んだが、仮にそうだとしてもそれは動機があっての結果であって、LvBがそうせざるを得なかった身体的理由(心理的動機)の方に重点を置いている僕にしては、あのテンポは皮相的に思える。それなら難しいこと抜きに音楽的快感に徹したカルロス・クライバーに軍配が上がるし彼は5,7番というそのアプローチがあっけらかんと活きる曲で真骨頂を発揮したが、4、6番では落ち、僕の心理的動機説で重要な2,3番はついに手を付けなかったことは逆に評価する。商業的動機と無縁だったクライバーは音楽に正直な男だったのだ。

CLOの8番はセル、クーベリックの名演が耳に焼き付いておりこれが聴きたくて来たようなものだが、まったく大したことなかった。ウェルザー=メストはプログラムで8番の重要性を力説しており、そこにおいては100%支持する。しかしオケは十分にうまかったが、指揮者の芸格が違うという印象しか残っていないから僕は彼とは主張が異なる、気が合わないということなのだろう。9番はソリストがこれまたボディが米国流超重量級で微笑ましい、あそこに日本人が並ぶとしたら力士しかない。米国人はつき合えばすぐわかるが、何であれ強い人が大好き、万事が強さ礼賛、strong, strong ! というわかりやすさである。第2楽章のティンパニ・ソロの5回目も強め、歓喜の歌のVc、Cbによる導入もあっけなく強めと誠に陰影を欠き、対旋律のFgは楽譜にない2番を重ねるのはセル盤の唯一の欠点で、それが理由であれは聴かないが、ちゃんと踏襲されていた。米国で第九は年の瀬のお清め感、お祭り感などとは皆目無縁なのだ。

いつも思うのだが第九でソリストばかりいい格好をするのはどうも違和感がある。そうなってしまう曲だからということにすぎないのだが、4人が歌っている時間は10分もないだろうに、あそこで当然のごとく一人で喝采を浴びてそりゃそうざんしょという態度をとれない人はきっとオペラ歌手に向いてないんだろう。そう思うと野球のピッチャーもその傾向は否定しがたいが、さすがにこの曲は10対8ぐらいの打撃戦でなんとか勝ってあんたお立ち台に立ちますかみたいなものであって、少なくとも僕はむずかしい。

すると、舞台上でふと目についたのだが、ヴィオラの後ろの方で弾いていた白髪のおじいちゃんであった。立ち上がって楽器をもってこちらを向いて軽く一礼する、そのけっして目立たない地味な笑顔と姿がすばらしく素敵で格好いいのだ。男前であるとかそういう部類のことでは一切なく、権威めいた威圧感などまったくなく、家庭では良きパパであったのだろう、ひょっとしてセルの時代から人生をヴィオラとともに誠実に生きてこられたんだろうなという味がじんわりとダンディであって、タキシードとボウタイが似合う。どんな性格俳優だって及ばない、人生がにじみ出た外見だけで心から敬意をいだいてしまう、ああこりゃあすごい、ああやって年を取りたいもんだ。

 

クーベリックのベートーベン3番、8番を聴く

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クリーヴランド管弦楽団演奏会を聴く(天皇、皇后両陛下ご臨席)

2018 JUN 3 0:00:35 am by 東 賢太郎

ベートーヴェン
「プロメテウスの創造物」作品43 序曲
交響曲第1番 ハ長調 作品21
交響曲第3番 変ホ長調 『英雄』 作品55 (サントリーホール)

フランツ・ウェルザー=メスト(指揮)/クリーヴランド管弦楽団

まったく関係ないが、金曜日は東京ドームで日ハム・巨人戦を観戦し、清宮幸太郎の弟・福太郎くんに会った。早実の中等部で投手だそうだが兄貴にそっくりで体格も立派だ。兄は今は二軍であるが前日に本塁打を2本、この日も1本打ったそうで、兄弟楽しみである。

さて今日はサントリーホールでベートーベン・チクルスが始まった。フランツ・ウェルザー=メストはチューリッヒ勤務時代のオペラハウスの音楽監督であり、ずいぶん聞いた。懐かしい。「ばらの騎士」「ホフマン物語」が特に印象に残っている。

1番が終わって休憩後に席に戻ると右手2階席にずらっとカメラが並ぶ。何かと思ったら天皇、皇后両陛下がご入場になり、我々からわずか7,8メートルの席に座られびっくりした。英雄だけ聴かれたわけだが、ウェルザー=メストとは親交を重ねられてきたらしい。

終演後に両陛下に礼をするフランツ・ウエルザー・メスト

天皇、皇后両陛下

オーケストラもご臨席をわかっており、終演後に舞台袖から両陛下を撮影する楽員もあった。こちらもはからずも人生初の天覧演奏会となったが、これだけお近くということ自体が初めてあり、熱演だったエロイカもさることながら両陛下にお疲れ様の気持ちも込めて懸命に拍手させていただいた。

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読響定期・ショスタコーヴィチ:交響曲 第5番を聴く

2018 MAY 31 0:00:34 am by 東 賢太郎

指揮=イラン・ヴォルコフ
ピアノ=河村 尚子

プロコフィエフ:アメリカ序曲 変ロ長調 作品42
バーンスタイン:交響曲 第2番「不安の時代」
ショスタコーヴィチ:交響曲 第5番 ニ短調 作品47

あんまり気乗りしなかったこのコンサート、プロコフィエフのまず機会のないOp.42が聴けたのはありがたい。前衛的ではないままに尖ろうとした曲だ。「不安の時代」はバーンスタインの自演、N響定期に次いで3度目のライブだったが河村 尚子のピアノが音色がカラフルで印象に残った。こっちは無用の尖りがない、現代も調性音楽のいいシンフォニーが書ける好例。バーンスタインは1,3番はユダヤ教徒としての信条を見せており、交響曲と言うものはアイデンティティを問う場なのだなと納得だがこの2番はジャズのイディオムが米国民としてのそれを感じる。

ショスタコーヴィチ。席が5列目と近く、第3楽章の弦のオーケストレーションの見事さに改めて目を見張る。あの高度の洗練、知性の極みにしか存在しえない美の世界からアタッカで入る終楽章の野蛮、粗暴、無知。ここに作曲の意図があると考えれば聴ける。あとは調性設計。うまいなあと感服。ドタバタの終楽章もそれについては満点。ショスタコーヴィチの驚異的な天才を今更ながら確認してそれに深い感動を覚えた。演奏はたいそう立派なフルスロットルの力演といえ、これだけオケが鳴れば有無を言わせぬ快感が得られるというもの。最高の非日常体験として久々に5番を楽しめたのがうれしい。ヴォルコフという初めて聞く指揮者の力量は高いと思った。

ショスタコーヴィチ 交響曲第5番ニ短調 作品47

 

 

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N響定期(シベリウス「4つの伝説」など)

2018 MAY 14 1:01:57 am by 東 賢太郎

ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61
シベリウス/交響詩「4つの伝説」作品22 ―「レンミンケイネンと乙女たち」「トゥオネラの白鳥」「トゥオネラのレンミンケイネン」「レンミンケイネンの帰郷」
指揮 : パーヴォ・ヤルヴィ
ヴァイオリン : クリスティアン・テツラフ

テツラフは4年前にカルテットを聴いて面白かった。この日のベートーベンも期待はあったが、結果としてやや考えさせられる。プログラムによるとヤルヴィは曲によって異なる「サウンド」を重要な要素と考えるそうだが、ここでは古楽器演奏に近いものだったように思う。管も弦もここというパッセージは強めに浮き出て主張する。ティンパニは皮である。

ところがテツラフのカデンツァは独自なのは結構だがティンパニが入るなど、アーノンクールとやったクレメールほどではないがやはり現代を感じさせる。これが擬古的なオーケストラと調和しない感覚が断ち切れなかった。古楽器オケで伴奏するドン・ジョバンニが革ジャンで出てくる感じとでもいおうか。テツラフは音量があり熱演であったがピッチは甘く、そういう曲でないとしか言いようがない。

シベリウスはなかなか実演がない「4つの伝説」。これは良かった。こっちに時間をかけたのだろう、オケのサウンドはまさにシベリウスではまっている。4曲で1時間近くかかるこの曲は交響曲に匹敵する充実感が得られ、久々にシベリウスを堪能した。親父は十八番であり、パーヴォの2番はあんまり気に入らなかった記憶があるが、これならいい線だ。N響で交響曲をぜひ全曲やってほしい。

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