Sonar Members Club No.1

カテゴリー: ______演奏会の感想

アンヌ・ケフェレックを聴く

2018 APR 26 23:23:27 pm by 東 賢太郎

指揮 上岡敏之
ピアノ アンヌ・ケフェレック

新日本フィルハーモニー交響楽団

モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番 ハ短調 K.491
ブルックナー:交響曲第6番 イ長調

先日のピリスに続き、こちらも実演は初めてのケフェレックを聴く。パリ生まれの70才。ヴァージンレコードのラヴェル・ピアノ曲集はリズムに個性がありフレーズごとに一音ごとに音価を変転させ粘る。クープランの墓はその結果ロマンティックに響きやや抵抗がある。テクニック的にも徹底したヴィルテュオーゾということもなく、対位法の立体感が甘くてやや平板。品の良さが売りのピアニストかという中途半端な印象があった。しかし「亡き王女のパヴァーヌ」の中間部や「悲しげな鳥たち」ではその粘りがピアニシモでふわりと一瞬宙に浮く、そのポエティックで微妙な溜めは存外に蠱惑的であって、この人のピアニズムの不思議を醸し出していたのも記憶にあった。

モーツァルトのピアノ協奏曲第24番は特別なエモーションを感じる、僕にとって格別な曲だ。甘ちゃんのピアニストに弾いてほしくない。結論としてケフェレックの固有の弱音美が活き、指揮もオケも好演という事もあり十分に楽しんだ。しかし彼女独自の「時間感覚」はコンチェルトでなく独奏で聴きたかったという欲求不満も残る。アンコールに弾いたヘンデルのメヌエット・ト短調(ケンプ版)はその留飲を下げる大変な名演で、まったりと流れに支配される数分間、ただただ聞き惚れるという至福のピアノ演奏。先に書いたパヴァーヌの間と溜めのポエジー、和音の天の配剤のように美しいバランス。この体験は深い。

ブルックナーは第2楽章に実に感じ入った。いままでで一番素晴らしい。フランクフルト時代に娘のピアノの先生に指揮を習ってみたいと言ったら、紹介しますよとなったのが上岡敏之さんだった。結局実現せずもっと暇な会社だったら良かったと思ったが、恥さらしをしなくてよかったとも思う。上岡さんはもっと聴いてみたいという意欲が出てきた。ケフェレックさんにサインをもらい、ちょっとお礼を述べてから横浜みなとみらいホールを退散。いつもながらミーハーだ。

 

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マリア・ジョアオ・ピリス最後の公演

2018 APR 18 2:02:47 am by 東 賢太郎

4月17日 19:00 サントリーホール

モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第12番 ヘ長調 K.332
モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第13番 変ロ長調 K.333
シューベルト:4つの即興曲 Op.142, D935

モーツァルトK332。10年ぐらい前に第1,2楽章を練習してよく弾いた大好きなソナタ。第1楽章アレグロがやや速めかなというテンポで入るが、オペラ・ブッファのいそがしい場面みたいに次々とあれやこれやエピソードが急転する楽章なのに不思議と饒舌よりエレガントにきこえる。アダージョはもっとロマンに深入りできる楽章だが古典的均整を見せ終楽章は流麗に美音がかけめぐる。K333は典雅に始まり、まったく清楚だ。第2楽章はK332にも増して暗い陰を投影する謎めいた部分が出てくるがここも深い。素晴らしいニュアンス、若鮎のように流れるフレージングの絶妙の伸縮と間。これぞピリスのモーツァルトであり一世を風靡したのがもっともである。

僕にとってモーツァルトのピアノ曲を聴くということは、旋律の隅々まで、律動のゆらぎや無音の間や和音の一音一音の細部までに研ぎ澄ませた意識の光を照射してコクを味わうことだ。鑑賞というより観察に近いかもしれないが、耳がそうなるのはモーツァルトだけであり、それで味わうに足る演奏などそんなに存在しない。神経がそうなるとこちらも疲労するのであって、その労に報われない演奏とわかるとすぐ集中が切れてしまう。

ピリスのものはどこの細部に神経の光を照射しても、そこにそれを上回る彼女の神経がまわっており、わずかなほつれも見つからず、こちらが苦労すれば喜びが倍にもなって帰ってくる。これはミスタッチがあるないという卑俗なレベルのことではない、本当にすごいことだ。頭によるコントロールと指の訓練による人工的な、よく遭遇する、モーツァルトは珠を転がすような美音で弾かれるべきだという空疎な勘違いの観がいささかもなく、正に天衣無縫である。前回に音楽は演奏者の人格と書いたが、この人はきっとそういう人で、そう生きてきてそう生活しているのだろう、だからああいう音楽になるのだろうとしか考えられない。

カサドシュ、ハスキル、ヘブラー、クラウス、アンダ、カーゾン、グルダ、ゼルキン、モラヴェッツなど心をとらえるモーツァルトを聴かせてくれた人がみんな鬼籍に入ってしまった。ピリスまで引退してしまうとモーツァルトをきかせる人は内田光子しかいなくなってしまうということなのだろうか。ショパンをうまく聞かせる人はいくらもいるが、僕はその良い聴き手になりようがない。

後半のシューベルトD935。これは最晩年の少し怖いところを含んだ音楽で第1曲の主題に半音がまとわりつくところは未完成交響曲第1楽章第1主題を思わせる。演奏はしかしそのような外縁に意識を押しやることなく、ひたすら高い集中力で内に向かう。この世のものと思われぬバランスのとれた美しいピアノの音(ね)。過度に煌めかず楚々と光る高音。フォルテはその音域でささやくピアニシモがそのままの質感で大きくなったもので、いささかも粗暴に響かない。アンコールの3つのピアノ曲より変ホ長調はピアノ演奏として未曽有の聴体験だった。

ベートーベンのときと同じく、心がえもいえぬ満足感に満ちていて食欲すら感じない、帰途についても体が芯からから温まっていて涙が自然に溢れる。頭には「ありがとう」という言葉しか浮かばない。きっと曲目のせいではないのだろう。生まれてこのかた彼女の2度の演奏会にしか経験すらなかったことだが、これはもう二度とやってこないのか。ピリスさん、ほんとうにありがとう。

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ブロムシュテット/N響の幻想交響曲を聴く

2018 APR 16 0:00:14 am by 東 賢太郎

幻想交響曲を久々に聴いた。ブロムシュテット(N響)ということで、これはどうしてもという気になった。この曲がドイツ語圏(ハプスブルグ王朝支配圏)で どう扱われてきたかはフルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、コンヴィチュニー、シューリヒト、E・クライバー(息子も)、ベームが振っていないことで推察できる(トスカニーニも然りである)。フランス人がベートーベンを敬意をもって受容した裏返しのことは100年たってもなかったという風に見える。

ラテン系、ユダヤ系が得意としている事実を知ると上記のワグナー、ブルックナー、シューマン、ブラームスをうまく振る人たちとの断層を感じないだろうか。理由は不明だが、独仏の文化的相違と言っては巨視的に過ぎる。フランス器楽音楽への軽視(蔑視)、和声や対位法やバスの扱いがドイツの作曲法の文法で書かれていないこと、楽器法が斬新極まりない(ドイツ的には妙である)こと、題材が不道徳であること、フランス革命を連想させること等々いくつも論じられようが、総じてこの音楽が作曲当時として、あらゆる意味でいかに特異な音楽かという点に行き着く。

その視点からスコアを観て、4年前にこう記した。こんなブログはもう書けない、愛着あるもののひとつだ。

ベルリオーズ 「幻想交響曲」 作品14

これをスウェーデン系のブロムシュテットが振る。彼はなにやらドイツ物の巨匠とされてしまったが、僕としてはN響とやって心から畏敬の念をいだいたのはシベリウスだけだ。

前半にベルワルド交響曲第3番という自国の作品を置いた。正直なところ僕にはあんまり面白い曲ではなかった。これを50手前で書いた人と27才で幻想交響曲を書いた人を並べてどうのという気には到底ならないが、この配置は指揮者がスウェーデン系という立ち位置で幻想を振るよという宣告なら意味深い。

幻想は1、4楽章の繰り返しありで筋肉質のアンサンブルだがあまり湿度を感じないのはブロムシュテットのドイツ物、チャイコフスキーと同じ印象だ。テンポやフレージングで特にユニークなことはなく正攻法。第4楽章冒頭のミュートのホルン、終楽章のフルートの妖怪風グリッサンドなどは普通に強調され、そういう奇天烈を抑え気味にする傾向のドイツ系指揮者の伝統回帰センスとは異なるものを見せる。

1830年、ベートーベン死後すぐの27才の若者の奇天烈が、188年後の63才の耳を驚かせる。耳にたこができるほど何度も聴いているのに!そのことこそが驚天動地でなくて何だろう。

曲想と調性感は女に狂った若者の心をなぞって時々刻々と変転し、第1楽章の終結部と第3楽章を除いて一時も平静に収まることがない。それが古典派の大枠をぎりぎり超えることがなく、完璧な均整と調和で書かれた三和音による調性音楽となんら遜色ない盤石の満足感を残すのは奇跡というしかない。文法は異なっても、それはベートーベンの音楽が残すそれと対比しても良いのではという思いをもって帰路についた。

これは聴きに来てよかった、ブロムシュテットとN響に感謝。そして何より、ヴィヴァ・ベルリオーズだ。

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マリア・ジョアオ・ピリス演奏会を聴く

2018 APR 14 1:01:13 am by 東 賢太郎

あの32番は名演として語り継がれるだろう。

目には見えない何か偉大なものに接している感覚というのは、人生そうあるものではない。息をひそめた聴衆の尋常でない気配と空気がサントリーホールに満ち、最後のピアニシモが天空に吸い込まれると、自分が何に感動して涙まで流しているのかわからない。音楽を聴いてそういうことは、長い記憶をたどってもあまりない。

第一曲の悲愴はあれっという感じだった。引退を決めたのはこういうことかと落胆し、今日はそういう思いに付き合うことを覚悟した。それが第3楽章あたりから波長が音楽と合いはじめる。次のテンペストはぐっと集中力が増し、無用な力感や興奮は回避してこういうレガートなタッチでもベートーベンになるのかと感嘆する。

休憩があって、さて32番だ。聴くこちらも集中力が高まり、どんどん俗界から音楽に没入していく。こんなことは久しぶりだ。いかにピリスのオーラが強かったかということであり、この人は日本のラストコンサートにこれを弾くためにやってきたのだ。最晩年のベートーベンが書いた神のごとき音符がこんなものだったとは・・・。これは天から降ってきた啓示のようなものであり、僕は初めてそれをはっきりと感じた。

音楽というものは演奏するその人の全人格を投影したものだ。舞台を歩く姿が、その表情の変化が、もっといえば存在が音楽そのものに感じられる彼女が弾くと32番はああいう姿になる。人格とは性格だけのことではない、育ちであり経験であり思想であり教養であり信仰であり主張でもある。32番のような音楽はそういうものをすべて包含した人格が熟しきらないと弾けない、弾いてもいいが熟した聴衆にメッセージが感受されない。

なんという恐ろしい音楽だろう。

彼女の名前表記はマリア・ジョアン・ピレシュとされる傾向があるようだが、こういうことはあんまり意味がないように思う。ベートーベンをベートーヴェンと書く人もいるが、そんなに表音の正確性を期したいならビートホーフェンと書くべきである。日本語のphonetic notation(音声表記法)は限界があり、マックダァーナルドゥと書いてハンバーガー屋をイメージできる人はあまりいないだろう。マクドナルドは単なる認識上の「符号」なのであり、そんなものを不正確に気どったところで所詮なんちゃっての域を出ない。

我々昭和人類にとっては彼女は断じてマリア・ジョアオ・ピリスである。そうでないとしっくりこないのでそう書く。ピリスのモーツァルトは大好きでLP時代から持っており、高純度の美音に惹かれてきたから僕はファンといえるだろう。レコードできくあの繊細なピアニシモやコケットなスタッカートは見事なレガートを生地に生み出され、ベートーベンを弾いているとは思えない脱力したポスチャーが音色に効いていることを舞台で見て初めて知った。

来週のモーツァルト、シューベルトが本当の最後、楽しみだ。

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読響定期(テミルカーノフ指揮)

2018 FEB 17 1:01:02 am by 東 賢太郎

指揮=ユーリ・テミルカーノフ
ピアノ=ニコライ・ルガンスキー

チャイコフスキー:幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」作品32
ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲 作品43
ラヴェル:組曲「クープランの墓」
レスピーギ:交響詩「ローマの松」

ルガンスキーの弾いたアンコール(ラフマニノフ前奏曲作品32-5)が絶美で強烈に印象に残った。僕は彼のラフマニノフ第3協奏曲(イワン・シュピレル / ロシア国立アカデミー交響楽団との旧盤)を最高の録音のひとつと思っている。作品43より3番をやってほしかった。

フランチェスカ・ダ・リミニはあんまりおもしろい曲と思わない。ローマの松はラテン風でなく終曲のエンディングに向けてひたすら音圧が上がる。まあとにかくでっかい音がしますなというシロモノ。クープランの墓。木管がいただけない、オーボエがまずくて集中できなくなってしまったし、フレーズの繰り返しが全部省略というのはなんだ、欲求不満がつのるだけであった。

昨日たまたまyoutubeでクープランの墓をいろいろ聴いており、久々にプレリュードが胸にしみた。これのもたらす心象風景がどこで刷り込まれたのか記憶がないが、僕を虜にする劇薬的な効能がある。量子力学の入門書を読んでいたら物質を作る原子核の周囲にある電子は光が当たると瞬時に位置を変えるとある。その前はどこにあったかわからないが、当るとぱっと動いて物質の性格を変えている(はず)らしい。

プレリュードが聞こえると自分の脳内で電子がぱっと動き、全細胞の電子がある位置に同期していつも同じ風景を錯視させ、同じ恍惚とした気分をもたらす。それがギリシャなのかエーゲ海なのか地中海のどこかかは知らないが、たぶんそのあたりだ。それを現実に見たというより(そんなに何回も行っていない)細胞のどこかにあるずっと遠い先祖の記憶みたいな気すらする。この曲がひょっとして自分の最も好きな音楽であっても文句は言えない。だから自分で弾かなくてはいけないがなかなか手に余る。とにかく難しいのだ。

プレリュードで好きなのはこれだ。イタリア人指揮者ジェルメッティがドイツのオケとは思えないラテン感覚でせまる。この曲はこのぐらいオーボエをはじめとする木管が上手くて色香がないと話にならないのである。セクシーでないラヴェルなんか犬も食わない。

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番 ニ短調作品30

 

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マーラー 交響曲第7番 (N響定期)

2018 FEB 11 10:10:17 am by 東 賢太郎

我が家のノイは、絵画は鑑賞するが抱っこが嫌いである。そこについては十猫十色ではあるが、僕の知る猫は概して好かなかった。人のにおいがつくのを嫌っているのだという説も有力だが、なんといっても百獣の王ライオン様のご親族だ。抱っこは捕まって拘束されて食われてしまうかも知れない姿勢ということで、そんなのは末代の恥だと思っているのではなかろうか。

ところが飼い主である僕自身だって、抱っこではないが長いこと椅子に拘束されて動けなくされるのがまずい。閉所恐怖症でもある。動けない自分というものを意識するとじっとしていられなくなるから周囲を驚かせてしまい、今度はそうなるかもしれないという意識が恐怖になるから手に負えない。だから飛行機、床屋は苦手で、脳ドックの穴倉は生き地獄であり、最近はコンサートまで危なくなってきた。

きのうN響定期で何も見ずにぶらっとNHKホールに行ってみてこれは参ったと観念した。マーラーの7番。しまった、誰かにあげればよかった・・・。

これは群を抜いてだめな曲で、ウィーン・フィルのヴィオラの人が食事の時にマーラーはバーンスタインだよというので彼のを買ってみたが面白くもなんともない。おまけにスポンジが変性してCDがだめになってしまったが買いなおす気力もない。尊敬するクレンペラー大明神でもアウト。90年にロンドンでA・デイヴィス/BBC SOで聴いたらしい(記録がある)、つまりチャレンジする気になったことはあるらしいが、何の記憶もない。ひょっとして最後まで通してまじめに聞いたことないんじゃないかとさえ思う。弟子なのにこれにいっさい手を付けなかったブルーノ・ワルターの慧眼はさすがと思う。

まあ興味のないのはいい。困ったのは休憩なしで1時間半も椅子にしばりつけられてしまうことだ。それに耐えるには関心の持てる曲でないと難しい。マーラー7番で床屋の3倍も長い時間じゃないか、ちょっと自信が持てない、捨てて帰ろうかどうしようか迷ったが、終楽章のアレグロに15小節ぐらい好みのところがあるのを思い出し、そうか、あれを楽しみに待っていよう、それなら気がまぎれるんじゃないかと思い至った。

マーラーはホルンが立って朝顔を上にしたりクラリネットが一斉にはしたなく尻を持ち上げたり、音響の要請なんだろうがなんとも大道芸的で下品だ。紅白歌合戦の小林幸子さながらで、あのまま15番ぐらいまで生きてれば直径5メートルの巨大ドラを鋳造して運命のハンマーで5人がかりでぐわ~んとやったかもしれない。マーラーの下品のお師匠はワーグナーだが、あのバイロイトの劇場という奇天烈なシロモノは、ドイツ王族界の小林幸子、ノイシュヴァンシュタイン城で有名なルートヴィヒ2世の狂った精神の投影である。

従ってきのうも舞台にドラが10個も並んでるかもしれんと心配したが、意外に叩き物、鳴り物は普通だ。ヤルヴィがさっそうと登場し棒をおろす。おおヴィオラがいい音だ。これならいけると期待したが、5分で意識は散漫となり、10分で飛び、数分後に消えた。まずい、イビキをかいてはいけないという自制心がカウベルの催す眠気と退屈を緩和してくれ、バルトークを知る身としてこんなのどこが夜の音楽だという怒りも参加してなんとか1時間もった。

どかどかとティンパニの乱れ打ちで目が覚める第5楽章。やっと来た、よかった。長い船旅で港の明かりが見えた心もちだ。あの部分、おおいいぞ、これだこれだ。

しかしそこから僕には何の感興ももたらさない音の嵐が襲いかかり、節分で雨あられと豆をまかれる鬼の気分になってくる。コーダはお決まりの大騒動で打楽器奏者二人を動員してでっかいカウベルまでこれを見てみんかいと鳴らしまくる。なんだ?大団円の歓喜(かどうか知らないが)に牛まで参加しているという隠喩であろうかと錯乱していると曲は終ってしまう。この楽章、モーツァルトのオスミンを思わせる弦のユニゾンが出てくる。後宮を聴いた皇帝が「音符が多すぎる」と言うとモーツァルトは「ちょうどよい数です」と答えた。マーラーはモーツァルトを崇拝していたのに音がとっても多すぎる。

マーラーファンには申し訳ないが、彼の曲を何度聴いて耳になじんでも、僕は普遍性を感じない。モーツァルトのオペラやベートーベンの交響曲は当時として斬新で、20世紀初頭に現れたマーラー以上にプライベートな着想にあふれ非常に独創的だが、しかし普遍的なのだ。これが宇宙の定理のようなものとするならマーラーは私小説で、作家本人の自伝的要素、告白性がある太宰治や川端康成のようなものと感じる。そういう文学が明治以来の近代小説の主流となったのだから我が国の精神風土は色濃くそういうものということであって、マーラー好きが多いのはわかる気もする。

それがどうのということもないが、純文学という意味不明の言葉とともに僕にはなよなよして苦手なにおいがあり、それがそのままマーラーにも当てはまる。宇宙でも普遍でもない彼の個人のお話だ、出自が貧しかろうと誰と恋に落ちようと死に別れようと僕にはとんと共感がなく、音符や和音や楽器がひとつやふたつ変わろうが抜け落ちようがどうでもいいことに聞こえ、ヨーゼフ2世にああいわれても「ちょうどよい数です、陛下」とは言い返せなかったのではないかと思う。自然界に無駄はない。あるのは人間の精神にだけで、メタボの腹みたいにぶよぶよで不健康な感じがする。

モーツァルトが誰と恋に落ち死に分かれたかに僕は多大の関心があるが、それは彼が自分の痴話話を持ち込まない宇宙の真理のように澄みわたった音楽しか書かない人だからだ。痴話話を題材とした音楽しか書かない人間に僕は関心のもちようがないのだから、その人の痴話話ともなると、きいたこともない芸人の浮気話未満である。学生のころ太宰治をダザイと呼んで「人間失格」がわからんと一人前じゃないみたいないやらしい空気があって、そういうことをぬかすやつはだいたいが似合わない長髪で薄汚く、フォークなんて気絶するほどくだらないのを音楽と思って自尊心に浸れる程度のかわいそうな男だった。

ああいうものの主人公はだいたいが虚弱な秀才で自虐的で気弱で自堕落で酒や薬や女におぼれ、馬鹿馬鹿しいほど判で押したように肺の病気で(肺をやるというイディオムすらある)喀血したり自殺を試みたりするが、そんなに肺をやる人が多かったとも思えないしもとから危なげな浮浪者がそんなことしても小説にならないのであって、書いてる本人が帝大なものだから許されて、これ実は俺なのよ、ちょっと知的なマゾだろみたいな気色悪さに満ちあふれる。したきゃ勝手にしろよ、このオカマっぽいステレオタイプと面倒くさい共感の強要は何なんだとおぞましいばかりで新興宗教に近く、はっきり言って吐き気がするほど大嫌いであり、マーラーがそうであるわけではないのだがどうしてもそのイメージが被ってしまう。

N響はとても良い演奏をした。ヤルヴィは脂がのっているしヴァイオリンもピッチが良かった。この曲、ひょっとしてマーラーはどれもかもしれないが、オケには顕著にやり甲斐がある風に見える。我が国の管はブラバン出身の人が多く、大勢が呼ばれてばりばり吹けるマーラーはそういう事情からもアマオケで人気があると聞いた。ブルックナーでもいいのだが、声楽が多く入るから合唱団の関係者にチケットがさばけて更にありがたいという動機もある。それが年末の第九祭りの真相の一端でもあるがそれはサプライサイドのマーケティングだ、そんなのでアートをしてはいけない。聴く側には詮無いこと、僕にはまったく困ったことである。

 

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読響定期・ブルックナー6番

2018 JAN 14 9:09:29 am by 東 賢太郎

指揮=シルヴァン・カンブルラン
クラリネット=イェルク・ヴィトマン

ブリテン:歌劇「ピーター・グライムズ」から”4つの海の間奏曲”
ヴィトマン:クラリネット協奏曲「エコー=フラグメンテ」*日本初演
ブルックナー:交響曲 第6番 イ長調 作品106

ヴィトマンが良かった。クラリネット奏法の極致を見る。443Hz、430Hzとピッチの異なる弦楽器群の対照がありすべての楽器のソノリティに微細なピッチへの神経が通う。ギター、バンジョー、アコーデオン、リコーダー、ナチュラルホルンが入り、シンバルを弦の弓で弾くなど特殊奏法の嵐でもあり、微視的な音彩をちりばめているが静けさを感じる部分が印象的だった。ヘンツェの影響も感じる。素晴らしいものを聴いた。

ブリテンもピッチが良く透明、この曲はそれが命だ。これはバーンスタインが得意としていた曲だったのを思い出す。第1曲の「夜明け」はラヴェルのダフニスとまた違った印象派風の雰囲気で完全な和声音楽だが調性は浮遊した感がある。嵐のティンパニは好演。管弦楽法はカラフルだがカンブルランの色の出し方は節度がありターナーの絵の如く淡い。気品あり。

ブルックナーの6番。これは散漫になりがちな曲であまり名演と思うものに接していない。録音ではヨッフム/バイエルン放送響とカイルベルト/ベルリン・フィルを聴いているがスコアの響きが地味なだけに味を出すのが難しいと思う。今日は弦がいつもより木質感があり管とのブレンドも良く、筋肉質でシンフォニックな造りにふくらみを与えた名演だった。カンブルランにブルックナーのイメージはなかったが、ドイツ保守本流とは違う硬派路線で聴かせるものがある。1-3番あたり面白そうだ。

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今年の演奏会ベスト5

2017 DEC 29 23:23:11 pm by 東 賢太郎

去年はシベリウス・イヤー、今年はメシアンだろうか。僕にとって2017年は苛酷な年だったがどんな時でも音楽は心の支えだった。作曲家が楽譜に閉じ込めた「気」、そして演奏家がそれを解き放つときに放つ「気」。それをライブでシャワーの如く浴びる。ある時は慰撫・陶酔であり、ある時は叱咤であり、ある時は冷たい滝に打たれるが如しだ。

メシアンで感じた。演奏会で音として聞こえてくるのは音波という即物的なものである。しかし同じほどの圧をもって五感でなく六感に迫ってくるのが、時に100名にもなるオーケストラ奏者たちのシンクロナイズされた「気」だ。物質ではなくスピリチュアルな波動である。2千人の聴衆が酔えば2千倍に増幅された「幸福の気」がホールに満ちることになる。非日常体験であり人工知能に置き換わることのない、人間だけの営みだ。

「幸福の気」に包まれることで人間はなにがしかが変わるだろう。第九なら悪人だって自分を忘れて善人になった気がするかもしれない。魔笛なら人の命を愛する優しい人になった自分にびっくりするかもしれない。そして、それを長く続けていれば、ひょっとして人格まで変わるのではないかと感じる。根っからの善人は滅多にいないが、音楽は一瞬なりとも、そういう自分が自分の中にいることを気づかせてくれる魔法の鏡である。

 

《今年の演奏会ベスト5》

 

第1位 ロジェストヴェンスキーのブルックナー5番 (読響定期)

スクロヴァチェフスキーの代打だったロジェストヴェンスキー(どっちも長い)。妖術的な指揮にいささかの衰えもなく、彼のオーラで燃え上がったオケの気が音楽に籠った気とシンクロして未聴の高みに。アムステルダムで聴いたヨッフムと並ぶ5番であった。

第2位 メシアン 歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」(読響定期)

一生に一度もの。本公演と「彼方の閃光」を体験してやっとメシアンの深淵に触れられた気がしないでもない。読響がカンブルランを連れてきたのは正解、我が国クラシック界の壮挙となるかもしれない。

第3位 ハイドン 交響曲第98番、モーツァルト ピアノ協奏曲第25番、交響曲第41番(田崎瑞博指揮ライヴ・イマジン祝祭管弦楽団、ピアノ吉田康子)

「幸福の気」が会場に満ちた素晴らしい音楽体験。ハイドン、モーツァルトに、そしてふたりの絆を見事に音にして下さった演奏家の皆さまに心より感謝。

第4位 ショスタコーヴィチ交響曲第4番(読響定期)

カスプシクの読みが深く、この曲の仕掛けがおおよそ解明された観。この延長線上に後の11曲が続いたなら音楽史は変わっていた。

第5位 マーラー交響曲第1番(N響定期)

ファビオ・ルイージに降参。耳タコの同曲に目からうろこの思い。指揮ってこんなことができるのか、面白いなあと記憶に刻まれる。

(番外)

べルク ヴァイオリン協奏曲、ルル組曲 (N響)

クララ・ジュミ・カン(Vn)、モイツァ・エルトマン(Sop)に感銘を受ける。下野達也が振るとベルクの音楽に起伏が現れ新鮮であった。

ドニゼッティ 歌劇「ルチア」(新国立劇場)

3月に次女と聴いたが、母が危ないころでブログにもならなかった。狂乱の場、グラスハーモニカの生音を初めて聴いたのは良かった。曲はまあ僕にはお呼びじゃないがイタリアの空気が清澄であった。

チェコ・フィルハーモニー演奏会

アルトリヒテル指揮で2日とも聴くが交響曲第8番はたいしたことなく、アリス・オットの皇帝、ブラームス交響曲第4番も期待したほどではなし。一つだけ、ケラスの弾いたドヴォルザークのチェロ協奏曲が心にしみた。なんていい曲だ。

 

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読響定期・メシアン 歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」を聴く

2017 NOV 20 10:10:17 am by 東 賢太郎

帰りは冷えこんだ。いよいよ冬の到来を感じる日、午後2時に始まって終了は7時半、メシアン唯一のオペラはワーグナー並みの重量級だった。5時間半に休憩が35分ずつ2度あってそれは結構なことだが、集中していると空腹を覚える。ところが日曜のせいかサントリーホール周辺は店が休みであって軽食に温かいコーヒーというわけにいかない。コンビニのパンと缶コーヒーとなって現実に戻るのが残念だった。

2017年11月19日〈日〉 サントリーホール
指揮=シルヴァン・カンブルラン
天使=エメーケ・バラート(ソプラノ)
聖フランチェスコ=ヴァンサン・ル・テクシエ(バリトン)
重い皮膚病を患う人=ペーター・ブロンダー(テノール)
兄弟レオーネ=フィリップ・アディス(バリトン)
兄弟マッセオ=エド・ライオン(テノール)
兄弟エリア=ジャン=ノエル・ブリアン(テノール)
兄弟ベルナルド=妻屋秀和(バス)
兄弟シルヴェストロ=ジョン・ハオ(バス)
兄弟ルフィーノ=畠山茂(バス)
合唱=新国立劇場合唱団
びわ湖ホール声楽アンサンブル
(合唱指揮=冨平恭平)

メシアン:歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」(演奏会形式/全曲日本初演)

今年の読響定期はこれに惹かれて買ったようなものだ。初演は1983年11月28日にパリのオペラ座で小澤征爾がしたと知って驚いた。このオペラの総譜となると大型の電話帳数冊という感じだろう。

というのは当時ちょうど僕は米国にいて小澤さんはまだボストン交響楽団で定期を振っていた。FM放送でブラームスの交響曲などをカセットに録音してあるので間違いない。それだけでも多忙だろうにメシアンにご指名を受けて歴史的大役までこなしていたとなると、責任の重さもさることながら物理的な作業量に気が遠くなる。日本村で「ハヤシライス」をやっているのとはけた違いの才能で、実際にこの難曲を初めて耳にしてみてあらためて彼は国宝級の人物と再確認した。

しかし彼は日本では第3,7,8曲のバージョンでしか演奏しておらず、ハヤシライスにはならない音楽と判断されたのだと思われる。それを全曲日本初演してくれたカンブルランには感謝しかないし、読響定期のサブスクライバーもそれを熱狂的に讃えた歴史的なイベントとなった。世界でもそうお目にはかかれず一生聴けないかもしれないものを逃すわけにはいかないし、4時間半どっぷりとメシアンの色彩に浸れるのは快楽、耳のご馳走以外の何物でもなかった。

合唱こみで240人の大オーケストラは珍しい楽器、特殊奏法、ハミングで耳慣れぬ音響の嵐だ。コントラバスが駒の下を弾いたり(何という奏法だろう?)、客席左右上方に設置されたオンド・マルトノの低音がコントラファゴットと交奏するなどは実に斬新な音であり、徹頭徹尾、終始にわたって極彩色の管弦楽法であり、春の祭典を初めて聴いた時の楽しさを味わったのは人生2度目といえる。

あたかもワーグナーのように人物ごとにライトモティーフがあり、数多現れる鳥は鳴き声の描写がそれである。人と自然が対等に調和しているのはフランチェスコの信心だから平仄が合っている。メシアンの最後の大作であって彼の語法の集大成の様相を呈し、他の曲もそうであるが非対位法的で明確な旋律と和声で成り立つ。初めて聴いても人のモティーフと主要な鳥の声は個性があって自然に覚えられてしまうという音楽だ。

唯一の女性である天使の歌だけは際立って三和音的であり、ゆっくりのテンポで長く歌うミの音にオケがA⇒F7の和音で伴奏するのが耳にまつわりついて離れない。天使の別な箇所で何度も聞こえるラ・シ・レ#・ソ#の和音は「キリストの昇天(L’Ascension )」の第1曲の出だしの音そのままで、あの曲のシチュエーションが逆にこれによって明確になる。重い皮膚病患者への接吻の終結部では、男の病が治癒した奇跡の歓喜がまさにトゥーランガリラ交響曲そのものだ。実に面白い。

歌はみな素晴らしかったが、フランチェスコ役のバリトン、ヴァンサン・ル・テクシエは圧巻であった。合唱団も不思議な音程のハミングはビロードのように滑らかな質感で見事。また、特筆すべきはカンブルランで、快速の部分の指揮棒を見ているだけで酔えた。変拍子のリズムの振り分けが驚くほど俊敏かつ明晰。まるでフェンシングを見るような動作は運動能力としても超一流である。指揮のプロフェッショナルが何たるかという極致を見た。

それに応えた読響も、これまたトップレベルのプロであると認識だ。ゴルフでもそうだが、片手シングルよりうまいとはわかっていてもどこがどうということまでは素人には気づきにくい。こうして「コース」が難しいとそれが大差になるということが現実にあって、それを思い起こしていた。団員の皆さんの意気込みも半端でなく、大変な技術の集団ということを見せてもらった。これは一生忘れない希少な体験であり、歴史的な場面に立ち会った感動でいっぱいである。

 

メシアン「彼方の閃光」を聴く(カンブルラン/ 読響)

 

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ヤノフスキ・N響 定期公演を聴く

2017 NOV 12 21:21:42 pm by 東 賢太郎

ヒンデミット/ウェーバーの主題による交響的変容

ヒンデミット/木管楽器とハープと管弦楽のための協奏曲

ベートーヴェン/交響曲 第3番 変ホ長調 作品55 「英雄」

指揮:マレク・ヤノフスキ  独奏:N響奏者(フルート:甲斐雅之 オーボエ:茂木大輔 クラリネット:松本健司  ファゴット:宇賀神広宣 ハープ:早川りさこ) (NHKホール)

ヤノフスキは懐かしい。ラインの黄金を1985年ごろロンドンで買った。当時リングを聴く暇はなかったがごらんの通りカット盤で安く、まあいいかの衝動買いだった。オケがシュターツカペレ・ドレスデンというのがたまらなく、スイトナーの魔笛の素晴らしいEurodiscのLPでそれほどこのオケに惚れこんでいた。

CDという新メディアが出てLPが安売りされた時期だった。しかし結果論としてそんなものは不要だった。これはルカ教会の音響を見事に再現する名録音であり、LP最後期の技術の粋を味わわせてくれる逸品だ。歌もDSKの音響も音場感も最高、盤質も最高。Eurodiscのマークが目に焼きついていて、これを見ただけでそそられるものがある。

第1曲しか買わなかったのは曲を知らなかったからで痛恨だ。後にしかたなくCDでそろえる。こういうものが出てきたわけだが、つくづく思うが、LPのほうがいい。正確に言うなら、CDに情報は欠けていないしこれは音源がデジタル録音だからアナログの方が良いからというわけでもない。複雑な問題をはらむので別稿にしたい。

今年はリングでも聴きたいなとライプツィヒでウルフ・シルマーがやるので計画したがやっぱり無理だった。ヤノフスキーの東京でのリング・ツィクルスも日にちが合わず断念してしまった。ヤノフスキーは1988年にロンドンのバービカン・センターでフランス放送響でサン・サーンスの第3交響曲を聴いて、曲はつまらないがインパクトがある指揮で印象に残っている。ゲルト・アルブレヒト亡き後ドイツ物の本格派が誰かと心もとなくなってしまったが、ヘンツェの交響曲集もあり、チェコ生まれだがドイツ保守本流でしかも硬派路線であるヤノフスキは期待したい指揮者である。

ヒンデミットの木管楽器とハープと管弦楽のための協奏曲は初めて聴いたが、N響の首席はさすがにうまい。フルートは特に。残響が少ないので木管とハープの音のタペストリーがこまやかに伝わり、弦とのアンサンブルも絶妙である。大変な聴きものだった。NHKホールでかえってよかったと思えた希少なものであった。こういうのをやってくれると嬉しい。

一方、エロイカは最初の一音でこのホールでは辛いなとお先が暗くなる。N響のせいではない。中央9列目にいるのに音が来ない。オケのフォルティッシモで隣の人と会話しても聞き取れるだろう。倍音がのってないから個々の単音がドライであり、バスも来ないからピラミッド型の豊饒な音響にならない。つまりドイツ物はそもそも論外なのである。

ちなみにサントリーホールも改修して少しはましかと思ったが何も変わってない。チェコ・フィルをS席で聴いたが、ドヴォルザーク8番の弦など、そっちだって欧州に比べたらたいしたことないJ.F.ケネディセンターで聴いた音に比べてもぜんぜん魅力がない。チェコ・フィルでそれだ、他は言うに及ばずである。香港赴任から帰国してがっくりきた日本の中華料理みたいだ。おれは昔こんなの食べてたのかという。

だからここはハンディ付きだ、紅白歌合戦専用劇場なのだと割り切って耳のほうを修正して演奏にのぞむしかない。第1楽章はまだ困難でたいして面白くきこえない提示部をくり返されるのは歓迎でなかった。オケは力演で弦のエッジは立つのだが、なにせ音の粘度もボリューム感もないからトータルとして華奢で軽く箱庭的だ。ヤノフスキの堅固な音造りのコンセプトは現地のホールでやれば大いに映えただろうが、これならそういう録音を家で聴いた方がいい。これも不幸だが僕はエロイカというとウルフ・シルマーのバンベルク響やショルティ最晩年のチューリヒ・トーンハレ管など一生に一度クラスの超弩級のを経験してしまった。どうしても比べてしまうから内容については書かないことにする。

だんだん耳が我慢してなじんできて、すると曲の偉大さが圧倒してくる。自殺願望を克服し乗り越えたベートーベンが、生きる意志をこめて並べ、組み立てた音には強靭な音魂がこもっているとしか思えない。それが心に乗り移ってきて、終わってみると元気をくれている。何という音楽だろう。

エロイカこそ僕の宝である

 

 

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