「グレの歌」(読響定期)- カンブルランへの感謝
2019 MAR 15 22:22:32 pm by 東 賢太郎
指揮=シルヴァン・カンブルラン
読売日本交響楽団
ソプラノ=レイチェル・ニコルズ
メゾ・ソプラノ=クラウディア・マーンケ
テノール=ロバート・ディーン・スミス、ユルゲン・ザッヒャー
バリトン・語り=ディートリヒ・ヘンシェル
合唱=新国立劇場合唱団(合唱指揮=三澤 洋史)
これがカンブルランをきく最後になってしまいました。
メシアン「彼方の閃光」、「アッシジの聖フランチェスコ」(全曲日本初演)、 J.M.シュタウト ヴァイオリン協奏曲「オスカー」(日本初演)、デュティユー交響曲第2番「ル・ドゥーブル」、ヴィトマン クラリネット協奏曲「エコー=フラグメンテ」(日本初演)、アイヴズ、「ニューイングランドの3つの場所」
などはもう聴けないかもしれないし、
バルトーク「青ひげ公の城」、コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲、ブリテン歌劇「ピーター・グライムズ」から”4つの海の間奏曲”、ブルックナー交響曲 第6番 イ長調 作品106、マーラー交響曲 第9番 ニ長調
も大変印象に残りました。陳腐な演奏は皆無でしたし、やはり何より「アッシジの聖フランチェスコ」は僕の50余年のクラシック歴のなかでも最上位の体験でした。
http://読響定期・メシアン 歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」を聴く
そして昨日のグレの歌。ブーレーズの録音で聴いていますが実演が初めてであり、心から堪能しました。トリスタンの影響がありありとあるのは和声がきれいに解決せず延々と旋律が伸びていくところです。解決は機能和声の宿命ですが、宿命から自由なこれを書きながらシェーンベルクは機能和声までも抜け出したくなって十二音に行きついたのかと思ってしまいます。
ワーグナーもどきであったとしても初期にこれだけの作品を独学の人が書いたという驚異を皆さんはどう思われるのでしょう。第3部は1911年とシェーンベルクが無調の領域に踏み出してから完成されましたが、第2部までとは和声の扱い方に不気味さが増していながら無調にはせず、なんとか木に竹を接ぐとならないように腐心した跡が感じられます。最高の音楽、最高の演奏でした。
僕がドイツに住んだのは1992-95年ですが、カンブルランは1993- 97年にフランクフルト歌劇場の音楽監督でしたから重なってます。当時は無名で、マイスタージンガーなどを聴いていますがピットの中だから姿さえ覚えてません。ご縁があったということですが、こんなお世話になろうとは夢にも思いませんでした。
彼でなければ絶対に聴けなかった曲を体験することはぞくぞくする知の冒険でありました。カンブルランの図抜けた指揮能力、読譜力、解析力、記憶力、運動神経、音楽へのdevotion(献身)は何時も驚異であり、自分が逆立ちしても及ばないことができる人を目の当たりにするのは無上の喜びでした。僕は人生において万事独学主義なのですが、極めて少数の例外がございます。教育界ではお二人だけ、駿台予備校の根岸先生(数学)と伊藤先生(英語)にそれぞれの領域で最高の敬意と感謝をささげており、クラシック界ではピエール・ブーレーズが唯一の先生でした。ここでもう一人、シルヴァン・カンブルランが先生に加わりました。9年間お疲れさまでした、そして、本当にありがとうございます。
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ツァグロゼクのブルックナー7番(読響定期)を聴く
2019 FEB 23 1:01:30 am by 東 賢太郎
指揮=ローター・ツァグロゼク
リーム:Ins Offene…(第2稿/日本初演)
ブルックナー:交響曲 第7番 ホ長調 WAB.107
リーム作品は正直のところ僕にはよくわからなかった。リズム感覚が希薄であり音色勝負の曲なのだろうとは思ったのだが、アンティーク・シンバル(客席を含む各所の楽器群に配置され弓で弾かれていたらしい)の高いピーピーいう音自体が生理的に苦手なうえにピッチのずれもあってどうも心地よくない。ツァグロゼクは名前も知らなかったが、この手の音楽に熱心なんだと感心。
ブルックナーもあまり期待しなかったが、冒頭の弦の音に耳が吸い寄せられる。Vaの前あたり5列目で良い席ではなかったが、そこで良く聞こえるVa、Vcのユニゾンが素晴らしくいいではないか。1stVnの高音もいつにない音だ。ホルンとのブレンドも最高。サントリーホールで聴いた弦の音でこれがベストじゃないか?良い時のドレスデン・シュターツカペッレ、バンベルグSOを彷彿。去年のチェコ・フィルやクリーヴランド管の弦なんかよりぜんぜんいいぞ。指揮者とコンマス!Vaセクションは特に見事。
ツァグロゼクは暗譜で振っていたが全部の音の摂理を知り尽くしていること歴然の指揮。知らなかった、こんな指揮者がまだいてくれたのか!アンサンブルは整然だが第2楽章など音楽のパッションとともに内側から熱くなる。こんな演奏はここ10年以上ついぞ耳にしたことがない。Va、Vcの内声が常にモノを言っていて、型を崩さずに内燃するという欧州のドイツ音楽正統派オケの必須の姿である。こういう本格派オーケストラ演奏を聴けたのは幸運としか言いようもない、欧州時代を思い起こしてもカルロ・マリア・ジュリーニ以来のことである。ツァグロゼクは何才なんだろうか、僕がロンドンでジュリーニを聴いていたのは彼の70代後半だった。指揮者は何ら奇天烈なことをせずとも、やるべき大事なことがあるということだ。
かつてライヴで聴いた7番でベスト。本当に素晴らしい。読響も最高の演奏で指揮に応えたことを特筆したい。録音していたならぜひCDにしてほしい。ツァグロゼクに読響を年4、5回振ってもらうことはできないだろうか、ブルックナーを全曲やってもらうことはないものねだりだろうか。
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N響B定期・春の祭典を聴く
2019 FEB 21 0:00:31 am by 東 賢太郎
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ。最初のファゴットのハ音の異様な長さからいやな予感がしたが、徹頭徹尾そうであった。指揮者は何か他人と違ったことをやりたかったのだろうが大きく勘違いの方向でそれをした。ドンシャリの体育会色満載でデリカシーも神秘性のかけらもなし。ブーレーズを聴いて育った身として、こんなものが同じ作品とすら言い難く怒りすら覚える。
バスクラ、チューバはどうでもいい部分まで野放図なフォルテに聞こえ、ということはつまり、この演奏は全曲にわたって p (ピアノ)というものがなく、全管楽器が百家争鳴、コンクールで張り切ったブラバンみたいに鳴っているということである。ひとこと、うるさい。50年この曲を聴いてきたが第2部の序奏のバスドラがドロドロの部分でトランペットをあんなに強く吹くのを耳にしたのは寡聞にして初体験である(スコアの pp は何だ?)。練習番号87の神秘的なフラジオレットや第2ヴァイオリンなど驚くべきことにまるっきり聞こえない。こんなひどい演奏は知らない。スコアは「弱音器付」とある。要するに現実として、付けたら聞こえるはずのない音量で木管が鳴っていたということであって、従って、理屈からしておかしいのだ。生贄の踊りの2+3拍子はお口当たり良く丸まってスタイリッシュにポップ化している。はるかにましなカラヤンのですらダメ出ししたストラヴィンスキーは絶対に許さないだろう。指揮者は体操競技の「G難度」「H難度」をクリアしてどうだと拍手喝采を狙ったに違いない。そう思っていたら何でもない練習番号155でピッコロトランペットが落っこちてしまう。誰もが唖然だったろうが、ここまでくると馬鹿らしくて見てもいられない。暴風雨が轟音とともに通り過ぎ、終わった後には見事に何も残らない。同じN響でも2016年のヴェデルニコフのは良かった。読響を振ったロジェストヴェンスキーはもっと良かった。指揮者のモノが違う。日本の聴衆をなめるのもいい加減にしてほしいが爆演の割に拍手は少なめで、良識を感じた。
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N響定期B(トゥガン・ソフィエフをきく)
2019 JAN 17 23:23:18 pm by 東 賢太郎
フォーレ/組曲「ペレアスとメリザンド」作品80
ブリテン/シンプル・シンフォニー 作品4
リムスキー・コルサコフ/交響組曲「シェエラザード」作品35
(サントリーホール)
このところ音楽はさっぱりで悲愴など感情が共振する音楽しか食指が伸びていない。心の石灰化現象だ。仕事漬けになると左脳優位になるんだろう、オーケストラがバラバラに聞こえやたらと粗探しに耳が行ってしまう。音楽家は毎日楽譜を見ていてこういうことがないのだろうか、もしあったら大変だろうな。
ソフィエフはプロコ5番が良かったがその後は印象がない。前半はあまり集中せず、ブリテンのこの曲は性に合わずいいと思ったことは一度もない。シェラザードも特に聞きたい曲でもない。来てしまったものは仕方ないがこういう時は座席に拘束されるのが苦痛でもあり、出し物が何であれもう演奏会なるオケージョンにけっこう飽きてしまった。
シェラザードはアンセルメのレコードが、明らかなミスである第1楽章のアンサンブルのズレまで完璧に刷り込まれていて、まずいことにその通りでないと物足りない。あれ以外まったく受け付けなくなってしまったからライブを聞いてどうこう言う立場にない。
終楽章のテンポだけはチェリビダッケの秘技も例外的に刷り込まれていてソフィエフに注目したが、フルートがギリギリ危ないほどの速さで脱兎のごとく駆けだしたはいいが顚末は平凡だ。最後のソロのピッチはいつもライブでハラハラするが、まろ様はプロフェッショナルに乗り切って見事だった。最近ピアノもさっぱりなので第1楽章をやったら案の定けっこう指が忘れている。
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今年の演奏会ベスト5
2018 DEC 30 16:16:27 pm by 東 賢太郎
第1位
第2位
第3位
第4位
第5位
クリーヴランド管弦楽団演奏会を聴く(天皇、皇后両陛下ご臨席)
法学部卒ですから経済学を知らず、ウォートンで習って初めて知ったことがたくさんあります。会計学がそうで、簿記も知らなかったからそれも含めて英語でゼロからであって、いまだに会計用語は日本語の方をよく覚えてません。経済学でも「限界効用価値逓減(ていげん)の法則」なんてのでがそうで、英語で law of diminishing marginal utility というのですが、これも英語のほうがロジカルで数学的にわかりやすい。日本語は限界、効用価値、逓減の定義がよくわからんのです。一個でもわからんとロジカルにはわからない。それでアバウトにわかった気になる人は例外なくロジックに弱いです。
逓減と低減とどう違うのか?なにやらぼわっとした「文学的要素」が入る気がして、要はそんなものどっちでもいいのですが、この訳語を考案した御仁の趣味の問題であって、僕はそういうつまらない恣意の雑音が入るとロジカルな概念を理解できなくなる頭の構造なので英語のほうが断然よかったのです。逓減には低減にはない漸減という時間概念がはいるという工夫は評価するが、英語はそれをmarginal でロジカルに誤解なく示すわけで、その仕事をdiminishにはさせないのですね。それならなぜ漸減にしないの?と、まあ、この提案を含めて訳者のどうでもいい趣味としか言いようがない。僕は彼に何のリスペクトもないですから、そんなのを押し付けられることに頭が反発して学習意欲もなくなるのです。
要するに「ビールは一杯目が一番おいしい」なんですが、これは「とりあえずビール!」と居酒屋でやってる人は誰でもわかる。しかしビールが変化するのでなくの個々人の主観(満足度)が変化するので統計的に把握できませんから数学的概念として定量化(需要曲線)して微分してみようというインテリジェンスには当時感動すら覚えたものです。こういうインテリジェンスに満ちた「原書」を翻訳して手っ取り早くインフォメーションとして教えるのが日本の大学で、そのために明治政府が作ったのが我が東京大学なのでありますが、アメリカで教育を受けてみて、インフォメーションとして学習した学生が(そのこと自体は悪くはないが)どのぐらいそれをインテリジェンスに還元して日々の生活やビジネスに活用できているかというと大変に疑問に思ったものです。
それは「千人の第九」で音楽家でない多くの方々があのコーラスを大音量で力の限り唱和して、全員が一つになって感動して涙を流し、それは人間として大変に結構なことで何の違和感もないし、そういうイベントを企画した人たちや指揮者やオーケストラや裏方さんたちも讃えられてしかるべきなのですが、しかし、お客さんも含めて、そこにいたすべての方々が、終演後の拍手の何パーセントを Ludwig van Beethoven 氏のインテリジェンスに捧げていたか? 僕は疑問であり、この疑問は日本の大学教育への疑問と同根、同質であると確信するのです。
僕が law of diminishing marginal utility のインテリジェンスを実生活で還元するとなると、ビールよりも(弱いから何杯も飲めない)、音楽でリアルに体感するわけです。なるほどこれは law であるわい、と。ブラームスの交響曲のレコードやCDを500枚も持ってる僕がどうして501枚目を買うんだろう?501杯目のビールですからね、utility (満足度)はほぼゼロですね、もう吐きそうだ。演奏会でブラームスの交響曲のチケットを買うかどうか?おんなじです。ブラームスに限らず、1万枚もレコード、CDのストックがある人間として、1万1枚目に対するモチベーションはもうあんまりないのです。だから僕は定期演奏会を2つ買って、プログラムを見ずに、「シェフのおまかせ」状態で通うしかない。見てしまうと「この曲はよく知っている。もう満腹。やめとこう」となって、行く気が失せるからです。
そういう中で、今年の演奏会ベスト5は上記になりました。1,2,5位は「定期」でなく自ら買ったもの、3位はいただきものでした。ちなみに5位は、演奏はぜんぜんで、偶然すぐお近くの座席におられた天皇、皇后両陛下に謁見できたことへの感謝ですね。平成の終わりの年にありがたき幸せでした。終演後の拍手は2019年4月30日で退位される天皇陛下に向けて、敬意をこめ、懸命にさせていただきました。
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N響B定期・ノセダのラフマニノフが最高
2018 NOV 15 1:01:26 am by 東 賢太郎
指揮:ジャナンドレア・ノセダ
チェロ:ナレク・アフナジャリャン
【曲目】 レスピーギ/リュートのための古風な舞曲とアリア 第1組曲
ハイドン/チェロ協奏曲 第1番 ハ長調 Hob.VIIb/1
ラフマニノフ/交響的舞曲 作品45
レスピーギは軽めのアプローチで弦がきれいだ。ハイドンを弾いたアルメニア生まれのアフナジャリャンは楽しめた。聴きながらハイドンの1番をロンドンでロストロポーヴィチで聴いたのを思い出した(あまりに軽々と巧みすぎてヴァイオリンのように聞こえた)が、バイオを見るとロストロの弟子だった。アンコールは奏者の声(歌)と交差する曲で面白かった。
前半も良かったが休憩後のラフマニノフが圧巻だった。この曲はオーマンディ/フィラデルフィア管に献呈され初演しており、僕は83年に当地(アカデミー・オブ・ミュージック)でアシュケナージの指揮で聴いた。もともと2台のピアノ用に書かれ作曲者とホロヴィッツで試演しており、そのバージョンもアルゲリッチとラビノヴィッチで聴いた。しかしノセダとN響はそのどれより良かった。
これだけN響から厚みあるリッチでフルボディの音を聞いたことがなく、ラフマニノフのオーケストレーションが格段に優れているとも思えず、どういうマジックだったのか、ソリッドに鳴る各パートの艶もカラーも見事だった。これはワールドクラスの演奏だと特筆大書したい。同曲はあまり関心をそそることもなく、はっきりいうと駄作の判を押してきたが、魅力の一端を初めて知った。イタリア人のノセダは初めて聴いたが、この演奏は大変にmemorableである。
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鈴木雅明/読響のメンデルスゾーンに感動
2018 OCT 28 10:10:46 am by 東 賢太郎
指揮=鈴木 雅明
ソプラノ=リディア・トイシャー
テノール=櫻田 亮
合唱=RIAS室内合唱団
J.M.クラウス:教会のためのシンフォニア ニ長調 VB146
モーツァルト:交響曲 第39番 変ホ長調 K.543
メンデルスゾーン:オラトリオ「キリスト」 作品97
メンデルスゾーン:詩篇第42番「鹿が谷の水を慕うように」 作品42
仕事の準備等で忙しくあまり眠れていない。だから読響は行くかどうか迷った(居眠りでは申し訳ないし)。結局行くには行ったが前半はだめ。意識が飛んでしまう。39番はモダンオケでピッチの恐怖はなかったもののアンティーク解釈は好きでない。ブリュッヘンのライブを聴いたが、読響もほぼ同サイズの編成でティンパニの位置まで同じだった。僕が39番の真価を初めて知ったのはフリッチャイ盤だ。あれがおふくろの味なんだから、ほんとうはこうなのよと言われてもどうしようもない。
睡魔に参ってしまい、15分の休憩でセイジョーイシイに駆けこんで高濃度カテキンのお茶を買って一気飲みした。カフェインぬきだったらなんのこっちゃと思ったがどうやら入ってたんだろう、目はパッチリしてきてひと安心。ぎりぎりで席に戻る。すると今度はトイレが心配になってくるという塩梅で、コンサートひとつにこんなに苦労するようになった。もうバイロイトなんてありえねえやと思いつつ指揮者の登場を待つ。
メンデルスゾーンの宗教曲というとエリヤが忘れ難い。フランクフルトの部下にドイツ人 H 氏がいて、博士だったのでDr.(ドクトル )Hと呼んでいたが、年上だった彼はクラシックが博学、博識だった。僕はほぼ無知に等しかった宗教音楽を彼に習った。エリヤを聞けといわれアルテ・オーパーに一緒に行ったのがきっかけだ。神々しい音楽だった。ドクトルぬきにキリスト教徒でない僕がバッハ、ヘンデルを含めて宗教音楽をいっぱしにわかるなんてどう考えても無理だった。
後半は楽しみだった。そして報われた。鈴木 雅明さんはバッハを何枚か持っていてみんな良かったが実演は初めてだ。なんとドイツ人が敬服してついて行っているぞ。僕にはわかる。そんな簡単な人たちじゃないのだ。ソプラノのリディア・トイシャーは美声だ(美人だしフィガロのスザンナを歌うビデオがyoutubeにあるが全曲聴きたくなる)。櫻田 亮のテノールも見事だ。眠気などすでにおさらばだった。そしてなによりRIAS室内合唱団!うまい、最高!
鈴木さんの指揮は人柄まで見て取れる気がする。音楽に奉仕する魂が音楽家の共感を呼んでいると感じた。聴く方だってそうだった。マリア・ジョアオ・ピリスのリサイタルを聴いて「自分が何に感動して涙まで流しているのかわからない。音楽を聴いてそういうことは、長い記憶をたどってもあまりない」と書いたが、鈴木さんのメンデルスゾーンに同じことを記すことになろうとは、行くかやめるかなどと迷っていたぐらいなのだから想像だにしなかった。
心の底から突き上げてくる感動。わけもなく涙が止まらなくなった。歌われた言葉ではない(なにせ読んでもいない)、音楽の力、歌の力としか考えられない。ドクトルHはメンデルスゾーンがナチスのせいでいまだに正当な評価を得られていない理由を説いた。ドイツでユダヤ人問題を正面から論じるのは現代でも重たいことなのだが、彼も僕も金融証券界という、あえてアーリア人的視界に立つならばユダヤ的業界の住人であった。だからだろう、彼とはミュンヘンのオクトーバーフェストでビアホールで乾杯しながらそんなことを話しても平気だった。
金貸しは非道、金利を徴収するのは肉を切り取ることという世で富裕な銀行家の息子だったメンデルスゾーンはキリスト教に改宗した。しかし彼が生きるためにアイデンティティまで売ったとは思えない。彼は深いバッハ信仰がありルター派になったが心のルーツはユダヤ教徒であり、旧約・新約両方の聖書に出てくる聖人エリヤを描いたのは深いわけがある。ドクトルHは熱かった。ナチスは同盟軍と教わっていた僕は、アンネ・フランクがフランクフルトから逃げて隠遁したアムステルダムの家を見て深く同情はしたが、彼のメンデルスゾーン講話でいよいよ憎むようになった。
そのような知識も信仰もなくとも、メンデルスゾーンの音楽は訴求力があると思う。彼の音楽は、今流に中国語でいうなら全球的であって、大方の聖書も読んでいない日本人がバッハのマタイ受難曲をあるべき姿として理解するのは至難であったとしても、エリヤは自然に耳から共感できる。今回の曲目、未完に終わったが完成していればエリヤ、聖パウロと並んで三大オラトリオを形成したはずであるオラトリオ「キリスト」作品97もそうだった。そうだ、キリストはユダヤ人なのだ。信仰はないのに涙があふれ出てくる。ドイツの保守本流の音楽でしかこういうことは起きないことを僕は知っている。どうしてかは知らないけれど。
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ブロムシュテットの田園(N響定期B)
2018 OCT 24 23:23:10 pm by 東 賢太郎
ブロムシュテットはもはや数少ない20世紀の巨匠で、彼のシベリウス全集は辛口の部類としては聞ける。なぜ辛口かというとロマンティシズムに耽溺しないからだ。ドイツ人のアルブレヒトを思い出すが、もっと歌わず内に内に凝集する音楽性だ。例えば彼がDSKと録音したシューベルトの未完成はその凝集感が良い方に出て峻厳な曲作りができている成功作と思う。
今日の曲目、ベートーベン田園はどうも彼のその音楽性がプラスに出ないように思う。これは好きずきであって、そのように演奏された田園に僕はあまり感銘を受けないということに過ぎないが。ステンハンメルの交響曲第2番では彼の両親の母国スウェーデンの作曲家ということでの登場なんだろう。1911年になってこういう曲を書いていたという人であり、それが音楽史上何か意味があるのかさっぱりわからないが、たぶんもう2度と聞く機会はないだろうということで聞いた。ぜんぜん理解できない曲だった。
ファンの方には申し訳ないが、ブロムシュテットのライブで感動したことはなく、今回もその確認になってよりその確信を深めたというだけだった。大指揮者と呼ぶ方に反論を唱える根拠はなんら持ち合わせないが、要するに気が合わないということに尽きるんでしょう。
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N響定期、ヤルヴィのハイドン102番
2018 SEP 30 0:00:40 am by 東 賢太郎
ほぼ3か月ぶりのコンサートでした。
シューベルト/交響曲 第3番 ニ長調 D.200 R. シュトラウス/ホルン協奏曲 第2番 変ホ長調 ベートーヴェン/「プロメテウスの創造物」序曲 ハイドン/交響曲 第102番 変ロ長調 Hob.I‒102
サントリーホール
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ ホルン:ラデク・バボラーク
バボラークのホルン協奏曲がよかった。ホルンの音はオーケストラの「生地」に欠かせないレシピであり、とりわけドイツ音楽においてはそうであってR・シュトラウスは親父が奏者だったからコンチェルトまで書いてしまった。なんとも心地よい、最高の音でした。アンコールはブラームスのトランペットのための練習曲。
今日はなんといってもハイドン102番だ。冒頭の変ロ音のユニゾン。おっ、ベートーベンの4番が始まった、いつもそう騙される。どうやら僕の場合は、変ロ音はそれとブラームスP協2番の出だしのホルン音で記憶しているらしいのです。こういうの、絶対音感とはといわないのでしょうがありますね、ハ音は春の祭典の出だしのバスーンだし。耳タコ音感です。
102番の調性の構造は面白いです、ここでは詳しく書きませんがロンドンの聴衆の耳は相当に凝っていてハイドンはそれにチャレンジしながら遊びを仕掛けてる。ロンドンセットはザロモンが発起人ですがハイドンに腕を振るわせたのは客です。舌の肥えた客が料理人を刺激するように、手慰みのBGMを求めた王侯ではなく市民階級が客だったロンドンは非常にレベルが高かった。その伝統は現代でも続いており、6年間その一員として楽しませてもらった僕にとって、あの日々は演奏会場の周囲の雰囲気にインスパイアされ大変に充実していました。
ヤルヴィの快速のアレグロは良かった。あれでないとハイドンははじまらない。現代のフルオーケストラで演奏するとベートーベンにひけを取らないことがわかります。N響も好演でした。
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読響定期・小林研一郎のマンフレッド交響曲
2018 JUL 7 2:02:31 am by 東 賢太郎
指揮=小林 研一郎
ピアノ=エリソ・ヴィルサラーゼ
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第1番 ハ長調 作品15
チャイコフスキー:マンフレッド交響曲 作品58
(7月5日、サントリーホール)
今や日本を代表する指揮者である小林さんには思い出がある。1996年だったと思うが、共通の知人の紹介でアムステルダムでゴルフをご一緒して、夕刻にコンセルトヘボウでコンサートがありご招待いただいた。オーケストラはオランダ放送交響楽団で前半がリストのピアノ協奏曲第1番、後半がチャイコフスキーのマンフレッド交響曲だった。残念ながらゴルフの負けの悔しさで頭がいっぱいであり、リストは興味ないし交響曲もいまひとつ馴染めておらずあんまり覚えていない。しかし正面に観ていた小林さんのオケの掌握ぶりは目覚ましく、その姿はしっかりと記憶に焼きついている。
僕はゴルフでコテンパンに負けた記憶はあまりない。だから小林さんは大変に、特別な方なのだ。とても気さくでよく語られ話題も豊富であり昼食は大盛り上がりで楽しかったが、たしか54才で始めたとおっしゃられたゴルフはとても強かった。初心者とナメていたらスタートの前に「僕は肘から出る『気』で人を動かす商売なんで、エイっとやって、みなさんここぞのパットは外させますよ」、なんて指揮者らしい手振りで笑わせた。もちろん冗談と思っていたら本当にパットが入らなくて調子がおかしくなり、ニギリでコテンパンに負けてしまったのだ。エイっをやられたのだろうか。
驚いたのは記憶力で、初めてのコースでホールアウトしてからなのに各人のホールごとのスコアはもちろん、何番ホールで誰が2打目を何番アイアンで打ったなんてことを覚えておられる。自分のことを自分より覚えている人に初めて会った。そんなに見られていたのかと唖然だ。こういう人が指揮台にいたらオケの楽員は気を抜けないだろうということがわかった。百人を同時に見ていて、各人が何をしているか楽譜を記憶しているのだから。暗譜で振るとはピアニストの暗譜と違う、支配するためなのだ。指揮者とはこういう超人なのだと思い知った。思えば僕は人生で数多の超人にお会いしてきたが、ゴルフという人間が透かし彫りになるゲームでの小林さんの超越ぶりは疑う余地もない。
そういえば芸大に入る前は「陸上をやってました」とおっしゃってたっけ、きっと足も速かっただろうし全身がアスリートなのだ。この文武両道ぶりは鮮烈であり、指揮者という職業は僕にとって神のようなものだから、その人に運動まで負けてしまうと男として完敗感は救い難い。だからコンセルトヘボウで音楽などそっちのけだったのだろう。済んだことは忘れる性格だから他人のクラブどころか自分のだって覚えてなかったが、これ以来悔しさのあまり僕は知らず知らず影響を受けていたと思われ、相手の成すことを細かく観察するようになってマッチプレーが強くなったとさえ思う。
だから、小林さんというと僕にとっては音楽以前にまずゴルフのニギリが強い人という印象が強烈なのだ。やわな芸術家などという感じはぜんぜんない、これは否定的な意味ではなく僕にとっては最大の賛辞である。音楽はそりゃあ子供の時から女の子と一緒にピアノやってたんでしょでおしまいだが、始めて日が浅いのにあれほど勝負が強いというのは、まったく捨て置けない、ただ者ではないのである。あれがゴルフであり、野球でなかったのが唯一の救いだ。
この日の読響の掌握ぶりはまずあの時のエイっそのもので、懐かしくさえある。あれならオーケストラは動かせるだろうと納得至極だ。近くで拝見していたが、肘の『気』は健在で棒の動きのイメージ通りに弦が深みある音を発する。マンフレッドはN響でもアシュケナージとペトレンコで2回聞いて、それでもつまらない曲だと思っていたが、ついに初めて楽しめた。4番と5番の狭間の曲だがロ短調でもあり悲愴に通じる音もする(プロットもマンフレッドの死で終るから似る)と思えば、白鳥の湖であったりロメオとジュリエットであったりもする。
前半のベートーベンP協1番。はっきり言って、良かった。エリソ・ヴィルサラーゼは初めて聴いたが、1番の実演では僕のきいたベストの一つ。打鍵は強くフレーズは明瞭に弾き、歌うべきは歌う。終楽章の強靭な推進力、骨太な輪郭、愉悦感はなかなか出るものではなく、あのように弾かないと曲に埋没して負けてしまうから意外とこれは難しいのだろう。タイプこそ違うがギレリスがマズアとやった演奏を思い出した。これが存外に良かったものだから後半も集中力が切れなかったと思う。オケもティンパニを強打してメリハリと色彩感にあふれ、小林さんこの1番は素晴らしい、ヨーロッパのオケを思わせるあの彫りの深さは日本のオケからあまり聞いたことがない。
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