Sonar Members Club No.1

カテゴリー: ______演奏会の感想

デュトワ・N響のカルメンを聴く

2016 DEC 15 0:00:05 am by 東 賢太郎

carmen

このカルメンのために金曜から休暇で西表島に行くのを1日延期した。NHKホール前は青のイルミネーションで美しい。

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カルメンの舞台は海外で何度観たかわからない。なかでは二度真近に見て圧倒されたギリシャ人のアグネス・バルツァが強烈で、ビデオでも彼女のをくり返し見ているのだから、なにか意識の中でカルメンは実在の女でそれはバルツァなのだという困ったことになっている。

マリア・カラスがどうしてこれを舞台でやらなかったのかそういう芸能界的な部分は知らないがきっと適役だったろう。これを演じるには歌だけでなく全人格的なもの、ああこの女だったらやりそうだなあと男の五感に訴える「カルメンシータらしきもの」を備えていないと物足りないものがあるのである。

それはこのオペラのリブレットがカルメンとホセの生々しい愛憎、つまりloveとhateのアンビバレントな二面性を軸としたものだからだと僕は解釈している。

パリのオペラ・コミックでの初演は一般に失敗とされる。プレスがカルメン役のセレスティーヌ・ガッリ=マリーを「不道徳なアバズレ」「悪の化身」と評し、技術的にもオケ、合唱団が演奏不能とした箇所があったことから、当時のモラルや楽曲の常識を超えたものだったと思われる。劇場が懸念していたように裏切りと殺人というリアルな題材が保守的な聴衆に受け入れ難かったせいもあろう。

しかし失敗と思いこんだのは初演後3か月で死んでしまいそこから先を知らなかったビゼーであって、臨席したマスネとサンサーンスは好意的であったし当初から彼の他の作品よりは上演回数は多かった。カルメン並みの女はいくらもそのへんを闊歩していてモラルなど雲散霧消した現代にこの作品が好まれているのは、男女の生々しい愛憎ドラマがいつの世も関心事であるからだと思うのだ。

loveがhateに転化する最後の闘牛場の場面がクライマックスだ。歓声と前奏曲が遠くから鳴り響き不吉な運命のテーマと交差する、そこで純情一途の男が一世一代の決断をしたのが殺人だった。公序良俗にも法律にも反している話なのだが、ホセを死刑にしろという気に一向にならないのはカルメンが「悪女仕立て」だからだろう。吉良上野介を憎々しげに演じてくれないと忠臣蔵にならないのとまことに似ている。

彼女はロマ(ジプシー)であり社会の底辺で既存のレジームに同化できないはねっかえりだが、しかしだからといってそれだけで悪女といわれる道理もないのであって、どうしてそうなるかというと、その妖しい魅力のボルテージが異様に高くてホセが入れあげても仕方ないと思わせ、「悪い女だねえ」と満座にため息をつかせてしまう秘術を次々繰り出すからなのだ。

一例をあげよう。工場から女工たちがどっと出てきてカルメンが傷害事件を起こしたぞ、このアバズレをひっとらえろ!とスネガが命じる場面であざ笑うように歌う「Tra-la-la…」、この単純なEーAmの和声進行にのっかる妖艶な歌!メロディーが非和声音のd#に落っこちるぞくぞくする色っぽさ!

これだけじゃない、ハバネラ、セギディーリャ、ジプシーの歌、これでもかとウルトラ肉食系の妖しい歌に攻め込まれるホセなのである。いったい何なんだよこの女?この歌なに?(このビデオがアグネス・バルツァだ)

仕方ないんじゃないの?と男なら同情するしかない。だから否応もなく「悪い女だねえ」となるのである。

断っておくがそれは歌手の容姿、色香だけではない、ビゼーの書いたあまりに天才的な音楽によってである。頭や理屈や技術やもの真似ではできない真のインヴェンション!初演をきいたシャルル・グノーは俺の真似だ剽窃だと否定的だったが、たしかにビゼーが交響曲ハ長調の作曲などでグノーをメンターと仰いだ形跡はある。グノーは優れたメロディストだが時代の常識の範囲内で美しい音楽を書く達人だった。女中に私生児までいたビゼーの女遍歴は日本語世界ではあまり知られていないが、カルメンの音楽はそういう男にしか書けない毒の味がある。

さような観点でこのオペラを見ると、エスカミーリオとミカエラはベルリオーズの幻想交響曲の恋人のごときイデー・フィクス(固定楽想)付の単なるキャラクター、着ぐるみのような存在なのであって、それぞれがホセの嫉妬心、改心の念をかきたてる添え物である。主役はその両者の狭間で揺れ動く優柔不断なホセに見える。いや、そうであってこそ男のフラフラ、優柔不断が生んだ悲劇としてこのオペラに一本すじが通るのである。

ところが、実はホセには固定楽想もなければインパクトのある固有のアリアもない。彼は嫉妬心に駆られ、燃え立ってしまった恋心に悩み、訴え、怒り、母の待つ故郷に思いをはせもするのでいい歌をそこかしこで歌うのだが、それらの情はすべて他者に駆り立てられたもので何が彼の本質なのか明らかでない。ホセとはカルメンの妖気に篭絡される男という、朗々たる男の帝国であるテノールのアリアにはなじまない性質の役なのだと書いた方がいいだろう。

固有の歌、アリアは、したがって手を変え品を変えて強烈にセクシーな磁力を送り続けるカルメンという女が繰りだす秘術にだけ与えられているのである。彼女の歌だけが人間の地を丸出しで偽善の着色がない。カルメンを演じるメゾ・ソプラノ歌手というのはそういう生身のオーラを放っていないと様にならないのだ。カルメンがいなければこのオペラは観る意味もないが、困ったことに歌も容姿もロマらしい雰囲気も満点であるバルツァのような人がそんじょそこらにいるわけではないのである。

下が初演したセレスティーヌ・ガッリ=マリー(中段左から二人目)を含む歴代のカルメンである。容姿だけでもなかなかの面々だ。ちなみにマリーはこんな地味な歌いやよと文句をつけてあのハバネラを書かせ、ビゼーと関係があったともうわさされている。

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前置きが長くなった。結論としてこの日に聴いたケイト・アルドリッチという素材はバルツァ後継の有力候補と言っていいと思われるが、まだまだ普通の女が演じるアバズレだ。真のアバズレをえぐり出している超ド級の音楽に置いて行かれている部分がある。演技がいけないわけではない、バルツァだって6才からピアノをやってそこそこの家のお嬢だろうが演技であれができている。

長身のイケメンで押し出しが良く声量もあるマルセロ・プエンテのホセは当たりだった。純情路線でバルツァに丸め込まれていたカレーラスの記憶が強いが、非常にコンペティティブな所にいると思料。

ダルカンジェロのエスカミーリオはこれまたメットで観たサミュエル・レイミーが姿も声も一級品で比べてしまう。闘牛士の歌は彼のキャラクターソングだが曲調は大衆歌謡に近い(とにかくこのオペラには小難しい旋律や和声やフーガは皆無なのだ)。それだけにバスの朗々とした艶やかな低音がないとしょぼいものになってしまう。ダルカンジェロの声は合格だがプエンテのホセが恋には勝ってしまうかなあ。

ミカエラのシルヴィア・シュヴァルツは大いに好感を持った。なによりミカエラらしい雰囲気と声が誠に好ましい。アバズレと対極の恋を夢見る貞淑な乙女キャラクターであって、主役がメゾだからソプラノが愛らしく映える。当時のパリの女性に対する道徳観ではこういう要素が毒消しとして必要だったかもしれない。道徳はともかく、ミカエラがはまる声質のソプラノは僕はだいたい好きである。

他の声楽陣も合唱も不足はなく、12月のデュトワを楽しめた。欲を言えばN響がこの曲には「いい子」の草食系だ(きちんとまとまってはいたのだが・・・)。闘牛で血が流れカルメンも血を流すのだ、もっとスペインのラテンのどぎつくてワイルドで粗暴な熱がほしい。デュトワにはない物ねだりになるがレヴァインが振ったメットのオケは熱かった。それが舞台と相乗効果で火炎が立ちのぼるような忘れられない効果をあげた。優れた音楽とはそういうものだ。

 

(ご参考) ビゼー オペラ「カルメン」 (Bizet: Carmen)

 

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ポゴレリッチのラフマニノフ2番を聴く

2016 DEC 13 23:23:12 pm by 東 賢太郎

デュトワのカルメンと前後してしまうが、今日の読響について。指揮台に立ったオレグ・カエタニはフランクフルト駐在時代によく聴いていて、ヴィースバーデンでのリング全曲は彼の指揮だった。なにせあのマルケヴィッチの息子だ、もっと硬派なプログラムだったらよかった。

いつも感じることだがボロディン2番はライブだとオーケストレーションに空隙を感じ粗野な原色ばかり目立ってしまう。かと思えば終楽章のあの素敵な第二主題の伴奏になにもトロンボーンを重ねなくてもいいのにというベタ塗りがあったりもする。シンセでたくさん演奏するとスコアを見てヤバいなあというものを感じるようになって、これはやってないがきっとトロンボーンは超弱音か無しにするだろう。

カエタニはまったくその辺を気にしてない風情であった。チューバまで入った金管群であるわけだしこれがロシアの感性と言われれば仕方ないが、そうであるなら男同士がキスする感性など日本人の僕にはわかりようもないというものだ。フランス系のアンセルメやマルティノンは薄口でうまくやっているし、人工的であってもミキシングでうまく化粧した録音で聴く方が僕はずっと楽しめる。カエタニは低音を鳴らすので特にそう思ってしまった。

交響曲が先でトリが協奏曲というのも珍しいが、ポゴレリッチあってのことだろう。

ラフマニノフの2番だったがこれはproblematiqueだ。強めに始まる鐘の音は途中で弱まり、再度強くなる。こんなのは初めてだ。テンポは不可解に遅いと思えば第2楽章の主題は無機的に速く、つづく右手の単音の旋律はなんとフォルテに近かったりする。遅い部分はルバートがかかりまくり、終楽章のピアノの入りのアルペジオは真ん中の数音符だけ突然フォルテで弾いたり、まったくわけがわからない。

それでいてフォルテは強いだけでちっとも美しくなく、細かいパッセージは弾けていないしミスタッチもある。アンコールの第二楽章がほぼ同じだったから即興でもなさそうであって、つまり考えぬかれた解釈のようなのだがではどうしてそうなるのか理解に苦しむばかりだ。演奏家の感性や哲学は尊重するしありきたりの美演より僕はそっちを採る主義なのだがこの曲にそんな深い哲学があるとも思えない。

グールドのモーツァルトはなにくれかのirritationを聴衆に与える意図が隠されていて、彼はそういう屈折した心理を持つ天才だったと思っているが、ポゴレリッチもそうなのか推察するほど僕は彼をよく知らない。記憶にあるのはあの流麗で瑞々しく神のgiftを強く感じさせるスカルラッティやガスパールなのだが、彼のその後の人生には何があったのだろう?拍手をする気分ではないままそういう疑問ばかりが心を占めてしまいサントリーホールをあとにした。

 
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読響定期・五島みどりに感動

2016 OCT 19 23:23:24 pm by 東 賢太郎

指揮=シルヴァン・カンブルラン
ヴァイオリン=五嶋 みどり

シューベルト(ウェーベルン編):6つのドイツ舞曲 D 820
コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35
J.M.シュタウト:ヴァイオリン協奏曲「オスカー」(日本初演)
デュティユー:交響曲第2番「ル・ドゥーブル」

 

コンサートホールには時計がない、というより、ない方が良い。時は音楽が刻んでいるからだ。五島みどりが独奏したコルンゴルドとシュタウトは濃密な時間が流れ、時計はあるときは速くあるときは遅く進み、ときに止まってしまう。聴衆は外界とは別の時間空間にいる。それを支配するのが独奏者という司祭である。

コルンゴルドは何度もライブで聴いて、その都度いい曲だと認めるが記憶にあんまりしっかりと定着してない。冒頭のファ#にびっくりしたりおおいいぞと思うが、たぶん第3楽章の娯楽音楽の風情が毎度気に入らないせいだ。今日もその覚悟でいたが、大変感動した。なんといっても五島がいい。たぐい稀なる司祭ぶりだった。

シュタウトでの圧倒的な集中力。絹糸みたいに繊細でつややかな高音。弦楽器できけるたぶん最高音だろうハーモニクスの完璧なピッチ。まったく素晴らしいの一言。本邦初演。ユリア・フィッシャーが西洋人の美音なら五島は日本の感性の美かもしれない。ぎりぎりまで磨き抜かれた音色を損なわない急速なボウイングは一糸乱れることなしだ。

デュティユーの2番はシャルル・ミュンシュがフランス国立管を振った名演(ライブ)があって、それが僕の愛聴盤だ。メロディーもリズムも和声(神秘的だ、すばらしい!)もある比較的親しみやすい曲で、最後は不意に鳴る灰色に凍てついた氷原のような弦の和音で静かに終わる。ライブは初めてだったがカンブルランはフランス物(ラテン物)を明晰に振り分ける。いい指揮者を指名したと絶賛したい。読響も見事な好演であった。

サントリーホールを出て腕時計を見ると、ずいぶん経ったように感じた時間はほぼ通常通りだった。

 

(参考・デュティユーの2番)

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ユリア・フィッシャー演奏会を聴く

2016 OCT 17 2:02:12 am by 東 賢太郎

inf_det_image_449ユリア・フィッシャーさんの演奏会に行きました。プログラムは以下の4曲でした。

ドヴォルザーク:ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ ト長調 Op.100
シューベルト:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ト短調 D408
シューベルト:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ニ長調 D384
ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第3番 ニ短調 Op.108

シューベルトはD408(3番)が当日に追加されましたがそれもソナチネ。こういう選曲は個性と自信と主張のたまものですね。ドヴォルザークもシューベルトもソナチネという感じではなく堂々たるソナタに聞こえるのだから別物でした。

彼女の音はCD等で聴きこんで惚れていたのですが、実際に耳にすると表情の使い分けがもっともっと多彩であったことに気づきます。これは録音じゃわかりませんね。たとえば、フレーズをppで入って同じ弓でmfぐらいになるのですが、その間のヴィブラートが増音につれて速くなる(回数が増える)ような微細な表現が自在に組み込まれていて、それが(聞こえはしませんが)彼女の生の呼吸と同期しているようで、まったく自然に感情の起伏が乗るのです。

シューベルトの譜面に指示がなくてもこの音はどういう音で弾かれるべきかが考え尽くされていて(しかもそうでない音が一音たりともない感じ)ピッチは最高音まで胸のすくほど完璧で、一言でいうなら、強い意志と見事なテクニックで意図が迷うことなく心に伝わってくるというヴァイオリンでありました。知性が根っこにあって一音一音に微細な「ギアチェンジ」があるのですが、それがまったく理屈っぽくならないところが魅力です。彼女が弾くなら何でも聞いてみたいと強く思わせる何かがあって、それを突きとめたいから来たのです。

僕はうまいけど何も考えてない演奏家はどんなにうまくても嫌いなのです。性に合わない。彼女の解釈はというと(細かく言えば同意しないところもあるのですが)、これだけ思考してトレースした末の音であれば正解などないわけですから言うことはありません。その自信に満ちた音ですが、細部まで吟味されつくした名プレゼンテーションのようです。すべての音に主張があって聴く者を考えさせるという意味で。彼女はカルテットもやってますが向いてますし、ピアノを弾くのも自分の主導する音楽をやりたいからでしょう。だからきっといずれ指揮もやるんでしょうが名指揮者になれる資質と思います。

圧巻はブラームスでした。3番のソナタは僕が愛する曲で、なにせ交響曲の4番を書いた後の作品ですからね、55才の作曲家の複雑な深層心理が底流にある難しい音楽なのです。ピアノが雄弁に語るわけですが、人肌を添えるという側面でマーティン・ヘルムへンの暖かいビロードのようなタッチと音色が効果的でした。亡くなっていく友人に人生の黄昏を見た曲であり、それを33才の小娘が(失礼)?という気持ちがなかったと言えばうそになりますが、彼女は楽々と乗り越えてました。文句なし。アンコールのスケルツォもブラームスを堪能させてくれました。

エージェントにアレンジしていただいていたので終演後に、お色直しして楽屋から出てきた彼女にお会いしました。強いオーラのある人ですね、眼が合ってすごい「気」を感じました。ブラームスの感想を伝えたら喜んでくれました。僕のブログは「日本語が読めないので」とのことでしたが「YahooでもGoogleでも、日本語でも英語でも、あなたの名前を検索するとずっとトップ画面キープしてるんですよ」というと「ワーオ!それすごいです、見ておきますね」でした。

写真はいいですかときくと「一応見せてくださいね」で、娘が撮って、これをはいっとお見せすると笑顔で「オーケー」でした。あの才能でこの美貌、天に二物をもらってますね。

julia

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブラームス ヴァイオリン・ソナタ第3番ニ短調 作品108

 

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N響 ブルックナー交響曲第2番をきく

2016 SEP 25 1:01:23 am by 東 賢太郎

指揮:パーヴォ・ヤルヴィ    ピアノ:ラルス・フォークト

モーツァルト/ピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調 K.595

ブルックナー/交響曲 第2番 ハ短調

 

今日つくづく思ったのは27番は難しいということ。ここに書いたように、私見ではこのコンチェルトは1788年、「コシ・ファン・トゥッテ」の姉妹作だ。

モーツァルト ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595

しかし、第2楽章の第2ヴァイオリンのあの胸につまされる音階パッセージは何だ?フォークトはドイツ時代に何度か聞いたピアニストだが、モーツァルト、しかも最も難しい27番であえて何を言いたかったのか。音階パッセージをピアノが模す場面はなにかが違う。

僕はウィーンへ行くと必ずモーツァルトが昇天した家に詣でる。そしてそのすぐ前にある宮廷料理人イグナーツ・ヤーン邸の地上階にあるカフェで1時間ほど過ごすのだ。ここに詳しく書いた。

ベートーベンピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品19

27番はこのヤーン邸で、モーツァルト自身のピアノで初演されたのだ。そして、それは彼が公の場で演奏した最後の機会となった。第2楽章、彼の魂が天に登るような変ホ長調。あのカフェで脳裏に聞こえたような演奏はまだない。モーツァルトは本当に難しいのだ。

今日の収穫はブルックナーの2番だ。ヤルヴィになってこういう曲をプログラムに組んでくれる、これはいよいよ日本のクラシック・シーンが欧米水準になるということだろうか。これを覚えたのはハイティンク盤、ショルティ盤、スクロヴァチェフスキー盤だが、細かくは知らないが、今日の版は改訂版とは違うかもしれない。

しかし演奏は期待以上で、レコードでは味わえなかった独特の楽器法の木管アンサンブル、対向配置のヴァイオリンの意味深い対位法、インパクト充分の金管とティンパニなどについてヤルヴィは確信をもって振っており、後期の交響曲とは一味違うむしろ古典的な性格の残る部分をメリハリをもって描いた。この解釈で5番をやったら素晴らしいだろう。

 
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元宝塚の真丘奈央さんのコンサート

2016 SEP 11 23:23:39 pm by 東 賢太郎

先週は駆け足で海外に行ったり気疲れが多く、安らがない日々が続いている。スケジュールもくるくる変わったりで、今年からSMCの新メンバーにお迎えしたミクロネシアはポンペイ島ご在住のトム市原さんが来日されるものの、お会いできるかも危うい状況になった。

それが金曜の夜ならなんとかというのに落ち着いて、それならこれをぜひ一緒にというので行ったのが、元宝塚の真丘奈央さんのコンサートだった。

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なにしろ「保護犬・猫のためのチャリティーコンサート」というのがいい。僕は殺処分ゼロを断固支持する者である。人間の勝手で犬猫を飼っておいていらなくなったら捨てる、店で売れないから処分する、かように玩具や商品在庫のように動物の命を扱うのは人として悲しい。

 

 

僕は犬を飼ったことがないが、覚えていることがある。和泉多摩川の団地住まいのころ、七五三だったのだろうから3才のことになる。両親に連れられて羽織袴で橋を渡って登戸の神社へ行った。するとそこにいた茶色の犬が僕になついてきて、何が気に入ったのか、帰り道、いたずらで橋桁の上を歩いたりしながら戻って来たのに家の前までずっとついてきてしまったのだ。「飼いたい」と泣いてせがんだが、親父が頑としてだめであった。翌日、ひょっとしてと周りをあちこち探した。どこにもいなくなっていて、ひどくせつなかった。

あの犬はどうしてしまったんだろう・・・。3才の記憶なんてそうあるものじゃないのにこれは信じられないぐらい、昨日のことのようにはっきりとプレイバックできてしまう。なぜかと言うと、僕はその犬と気が合っていた。あっ、こいつがいたら毎日が楽しいな、いい友達になれそうだとひらめいていた。人だって動物だって、そんなことってそうあるもんじゃない。あれを親父が飼ってくれたら今頃は犬派だったかもしれないなあ。主催のNPO法人の方のスピーチを聞きながらそんなことを思い出していた。

真丘さんが宝塚スターだったということも、そもそも宝塚が何なのかということも門外漢の僕は知らない。しかし、結論として事実として、僕は2時間わくわくして楽しんだのだ。前から2列目で表情が良く見えたのも幸いしてか、自分は女の人が歌を歌っているその笑顔を見るのが好きなのだということがわかった。

オペラやミュージカルというのはずいぶんたくさん見たが、登場人物がずっと笑顔なんてことはもちろんない。怒ったり泣いたりしているのは無条件にいやだし、癒されたいときは宝塚のほうがいいのかもしれないなどと思ってしまった。そういえばお袋がこんなの大好きだ。遺伝かな。

というわけで音楽も楽しかったがこちらも心からの笑顔になって帰していただいた。心の漢方薬だ。ロビーで大勢のファンに囲まれる真丘さんに御礼のひとことぐらいと思ったが、女性ばっかりの熱気に圧倒され失礼してしまった。

そこから市原さんらと三鷹の駅前で食事。ご友人は「算数オリンピック委員会」のかたで、日中両国で毎年3、4千人の小学生が競うそうだ。関心ありますということでお別れした。

 
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読響定期 ヴァイグレのR・シュトラウスを聴く

2016 AUG 25 23:23:14 pm by 東 賢太郎

指揮=セバスティアン・ヴァイグレ
ソプラノ=エルザ・ファン・デン・ヘーヴァー

R.シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」 作品28
R.シュトラウス:4つの最後の歌
R.シュトラウス:家庭交響曲 作品53

(8月23日、サントリー・ホール)

オーケストラを聴く醍醐味はいろいろありますが、リッチな音彩とボリューム感でR・シュトラウスは横綱クラスでしょう。オペラでも例えば「薔薇の騎士」を最前列で聴いたとき味わった、ピットから湧き起るとろけるようにメロウな弦の響きやめくるめく極彩色の管のタペストリーがこれまた美の極致の女声群とからむ陶酔感は他では得られないものと思います。

最晩年の作である「4つの最後の歌」はドイツ歌曲でも好きなものひとつ。期待が高かったですが、エルザ・ファン・デン・ヘーヴァーの歌は堪能しました。また聴きたいですね。深くて広々した声は、思わずドイツの劇場で毎週のように聴いていたオペラや歌曲を思い出してしまいます。「夕映えに包まれて」が木管のトリルで痺れるように闇に消えていく、この「痺れる」感覚がシュトラウスです。素晴らしい。

ティルはまだオケ(弦)がやや硬かったかなと思いますが、ヴァイグレはベルリン国立歌劇場管の首席ホルンだったそうで読響のホルンも大健闘でした。さて後半の「家庭交響曲」、小泉 和裕が都響だったと思いますが10年ぐらい前にここで暗譜で振って、これが大変な名演だった。家で聴くほど好きではないが、この曲のオーケストレーションの見事さは敬服していて、ライブでこそその真価がわかるのです。

結論として、ヴァイグレの演奏はベスト。オケは鳴りきり、有機的に複合し、ピッチも内声のハモリも完璧、音楽の起伏は振幅があってドラマティックであり、完全に打ちのめされました。驚くべきは、オケの音色の質感が非常に「東欧的」になったことで、日本の楽団からこれほどDSKやバンベルグSOを彷彿させる上質の音を聴いたのは初めてだ

そういえばベルリンの旧東独ウンター・デン・リンデンの国立歌劇場で何度もワーグナーを聴いたのですが、こういう音だった。バレンボイムの棒で、ヴァイグレもそのころホルンを吹いていたはずですが、どういう魔術で読響の音をああしたのか?この指揮者は大変な才能、ひょっとしてカール・ベーム並みになる人じゃないかと本気で思いました。

読響も複雑なスコアを見事に弾き終え、全奏でも音が濁らず、集中力、棒の微妙なタッチでの呼吸の良さ、間の良さ、文句なしの大名演であります。特に管楽器、このまま欧州でやってトップクラスのレヴェルでした。本当に聴けて良かった!こういうのが稀にあるから定期に通ってますが、早くも今年のマイ・ベスト最右翼であることは確実であります。
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演奏会は死んでいくか?

2016 JUL 10 16:16:12 pm by 東 賢太郎

 

(1)演奏会は死ぬと思った日

先日、証券会社の後輩が「支店に来るお客さんの平均年齢は優に70以上です。大手だと80です。東さん、60なんて若手ですよ」と妙な励ましをくれました。「国全体で見ると金融資産は60歳以上が約85%を保有しています。30歳代はマイナス資産ですよ」。

たしかに演奏会へ行くと老人ばっかりです。僕もそろそろその端くれです。若者はクラシック・コンサートに興味ないかと思いきや、彼はとんでもないといいます。

「好きでも生活に余裕なければ行きませんよ。チケットは高いし、連れて行くカノジョはいないし。それはちがいます」

30歳代はマイナス資産・・・。

これは悲しい。そうなると大枚はたいてホールに来るのは金融資産85%組ばっかりになるのも納得だ。

「それに若い人はスマホとyoutubeでいいんです。タダでいくらでも聴けますし。」

それはわかる。僕だって結構楽しめるし。そうなると若者はそれが習慣になっちゃうな。親の遺産もらっても習慣は変わらないな。85%組はあと20年ぐらいでこの世からいなくなるから、演奏会もいっしょに消えていくんじゃないか?

それからいろんなことが頭に浮かび、ああそうかと思いついたことがあります。忘れないうちにここに書き留めておこうと思います。

 

(2)音楽について書いていて気がついたこと

作曲家の頭に浮かんだ楽想や即興演奏は放っておけば消えます。それを記録しようと彼が思ったものだけが作品として残ります。我々が聞き知っているクラシック音楽はぜんぶそういうものです。

英語で楽譜のことをwritten music、 sheet musicといいますが、「(紙に)書かれた音楽」という意味です。ということは書かれていない、「音の状態にある音楽」というものもあるということで、我々が聞いて楽しむものはそっちのほうです。

つまり音楽(music)というものは二つあって、それは

書かれた音楽

聞こえる音楽

です。

書かれた音楽は聞こえる音楽にもなりますが、聞こえる音楽が書かれたかどうかはわかりません。ジャズの即興演奏がそれで、書かれていないけれど面白い。

 

(3)楽譜とは何か?

音楽を聞く人にとっては、書かれているかどうかはどうでもよいことです。それが楽しいかどうかだけです。音を出す人だって、本当は即興演奏だけでもいいかもしれない。ショパンのソナタのような音楽が次々と弾けるなら・・・。

現にモーツァルトはそれで飯を食っていましたし、ピアノは即興で、オーケストラにはちゃんと伴奏さすためにパート譜を書いた。それが残ったのが彼の27曲のピアノ協奏曲です。出版用にピアノ譜も書いたが本番でそのとおり弾いたかは不明で、26番のピアノパートは不完全のままになっています。

ところが時代が下って即興の要素はカデンツァを除いてどんどん減り、作曲家が書いた音符だけをを弾くのがクラシックだという定義づけができてしまいました。

音符そのものはもちろんマーラーみたいにホルンの朝顔を上に向けろだの立って吹けだの、ああだこうだ細かい指示まで譜面に書き込むようになります。覚え書き程度だった楽譜というものが、そのとおり演奏すればいつも同じ「聞こえる音楽」がこの世に立ち現れるという意味で「作品」というものになりました。擦ると魔人が出てくるアラジンの魔法のランプのようなものです。

すると「書かれた音楽」とレコードとは何が違うのだろう?

という疑問がでてきます。

 

(4)缶詰とインターネット

レコード(録音、CD、MDなど)も、再生すれば「聞こえる音楽」が立ち現れる魔法のランプだという意味では書かれた音楽(楽譜)と同じ役割のものです。料理に喩えれば楽譜はレシピであり、レストランのコックさんがその場で作るのが演奏会、料理をそのまま詰めこんだ缶詰がレコードにあたります。

問題はその缶詰が美味で大量生産されると、レストランはどうなるかということです。

レストランがコンサートホールにあたります。後輩が主張するように、youtubeをパソコンのスピーカーで聞いてもショパンは充分楽しめるという人は多いし、そういうネットのメディアが高音質化するとともにその人口は増えていくでしょう。

となると、缶詰とはいえホロヴィッツやミケランジェリという名コックの料理がタダで家で好きな時間に食べられるのです。知らないコックの料理を、決められた時間に間に合うように電車に乗ってレストランまで行って5000円払って食べたい人が永遠にいるのでしょうか。

 

(5)料理と音楽

ちょっと視点を変えてみましょう。料理というものも、地球上にある食材のバライエティは有限ですからその組み合わせであるレシピも限度があります。12個の音という限られた素材の組み合わせである音楽と似た事情があります。

現代の料理の原型はほぼ19世紀までにでき、20世紀に完成されたそうです。この100年はメニューがあまり増えてないのです。未知のおいしい魚や野菜が発見されたり、刺身にソースをかけておいしいと感じる新人類でも出ない限り、それは未来も変わりそうにありません。

音楽だって、いままでにない特定の12音の組み合わせ(メロディー、ふし)を好む民族が増えて、それを含む音楽を永遠に必要としてくれるということはあまり期待できないでしょう。シェーンベルグの12音音楽のメロディーをお母さんが子守唄に歌う時代は、一万年後は知りませんが僕らが生きてるうちはまず来ないでしょう。だから音楽のメニューも増えないのです。

 

(6)マーラー、ブルックナー人気

1970年代は音楽のメニューがLPレコードというメディアの普及によって増えた特別な時代でした。SPがモノラルになった時にも起きた変化が、LPによる収録時間、立体的な音のライブ感と細部のクラリティというメリットによってもっと劇的に拡大されたのです。それまでのメディアでは充分に理解されていなかった音楽が、LPという新しいパレットに描く画材として好まれるようになった。それが長大なマーラー、ブルックナーだったと言えるでしょう。

それまでも演奏され、知られてはいましたが、レコードというメディアが今のネットのごとくそれらの魅力を世界の聴衆に認知させた。それにより演奏会のメニューにのる回数がうなぎ登りに増えたというのは事件でした。食べ物でいえばカップめんにした創作ラーメンがコンビニで人気となったことでそのラーメン屋に行列ができたようなものです。

ストラヴィンスキーなど近代音楽でも、モノラルでは聞こえなかった細部の面白さが浮き彫りになって似た現象が起きました。僕はそれを聞いてクラシックにのめり込んだ人間です。それまで夢中だったビートルズがスタジオにこもってアビイ・ロードのようなライブでできない音作りに移行したのもLPレコード現象とするなら、僕のような嗜好の人間がクラシックに入るブリッジができた時代だったんでしょう。

しかし、CDという新メディアがLPを引き継ぐ形でそれをさらに拡大したにもかかわらず、そのメリット自体も飽和感が出ています。70年代に劇的に増えた新メニューもそれ以上は増えないところに来たのです。SP時代に霞のかなたで聞こえていた音楽がライブに近い質で家で楽しめる。もはや「メディアが作用してメニューを増やす」という現象はネットに道を譲り、そのこと自体がコンサートゴーアーの数を減らすかもしれないというジレンマに陥っているのが現状です。

 

(7)歴史のトラップ

それは、料理も音楽もどちらも素材の数が限られているわけですから、どう組合わせようとその数は「順列組合せの数」という数学的な上限に行き当たるわけです。だから新しい組合せ、すなわち「新製品」の投入がもはや望めないというところに来ている。1970年代の現象はミクロ的なものであって、マクロでみるなら20世紀とはそういう時代であったのではないかということです。

それは創造の天才が出現しなくなったのではなく、人類が食べたいと感じる素材の数、聴いて調和を感じる音階を構成する音の数から導き出せる「バラエティ」がいよいよ最終飽和点に近づいた。歴史が料理や芸術を囲って閉じ込めてしまうわな、「歴史のトラップ」があるということなのです。

同じことは工業製品にも見られます。例えば眼鏡(めがね)は1280年から1300年の間にイタリアで発明され、つるを耳にかける形になったのは18世紀から19世紀初期、球面レンズの採用が20世紀初頭です。100年大きな変化はありません。4輪の自動車や4翼の飛行機のかたちというのもおそらくそうでしょう。

 

(8)歴史がトラップできないもの

僕がベートーベンのエロイカをききたいとき、60枚ほどもっているCDの中から取りだすのは5枚ぐらいでしょう。その5枚だけで実は足りるのです。それにめぐり会うために60枚も買って、55枚は失敗だったわけです。演奏会でその5枚以上の名演が聴ける確率は非常に低く、そのために入場券に1万円を賭けるリスクをそう何回も取ろうとは思いません。

では僕はエロイカの演奏会に行かないか。矛盾のようですが行くのです。それは、5枚のCDより感動した演奏会をこれまで3回も経験したからです。そのひとつ、チューリッヒ・トーンハレで聴いたゲオルグ・ショルティの演奏。同じ楽譜、同じオーケストラから出てきたとは信じ難い光彩と生気と威厳に満ちあふれた音楽でした。

ああいうものは音楽に限らず、人生で何度も経験できないなにか特別なもので、舞台上の100人の人間が発する「気」が生んだ強烈な磁場のようなものです。それは、そこにいて時間を共有しないと体験できないもので、20世紀だろうと21世紀だろうと人間というものが変化しない限り変わらない、つまり、歴史がトラップできないものです。

そうなると音はその媒体にすぎなくなってしまいます。それを録音してもレコードには音しか入りません。それを再生しても、そこにいた人が何を感じたかはほとんどわからないでしょう。それはその場で演奏者と「気」を共有し、それに全聴衆ごと同期化し、音楽のうねりと一緒に会場ごと一体に動く精神の抑揚を感じないとわかりません。良い演奏会というのは音を聞く場ではなく、共体験の場なのです。

 

(9)空気とアトモスフィア

僕は英国時代にお客様といっしょにクリスマスの教会へ行きました。周囲でみなが賛美歌を歌い、祈り、牧師の言葉に耳を傾け、オルガンが演奏される。あの一連の音だけをあとで録音で聴いてみても、恐らく、そこにいた者でさえ何の感興も得られないでしょう。聖書も読んだことのない僕でさえ、しかし教会の広大な空間に満ちた雰囲気にどこか心洗われ、厳粛な気分に浸ってドームを出たことを覚えています。

atmosphere(アトモスフィア)は日本語で雰囲気と訳されます。この単語はギリシャ語源のatomos(蒸気)+sphere(球)の合成語、つまり地球の大気であり、気圧の英語はatmospheric pressure です。気圧の「気」がatmospheric という対応ですね。この「大気」が「気」であり「雰囲気」である、これは大気の振動が音楽であるというという対応を生んで、実にぴったりです。僕の教会体験はそれそのものです。

演奏会とはそれに似たものと思います。ホールの空間も聴衆も大事な要素であり、音楽の一部なのです。リサイタルで、ピーンと張りつめた空気を破るようにピアニストが登場します。一度座ってみて、椅子をちょっと動かす。カタッという微かな音がする。それがホールの空間にスーッと拡散する。最後の咳払いをコホンとする聴衆。集中の一瞬。そして、音が鳴る。

こういうものだって、音楽の要素なのです。ベートーベンの運命の、「音の鳴る前の休符」のことを以前に書きました。それは交響曲が鳴りだす前から音楽が始めっていることをベートーベンは認識していたということでしょう。オケのチューニング(調弦)がはじまり、会場がシーンと静まり、指揮者が登場して拍手が鳴り、また静寂が支配する。そこに音楽はもう聞こえているということです。

 

(10)ユーミンのしなやかな感性

オーボエの長いa音に始まるチューニングの音が僕は大好きです。あれがきこえると、いよいよ音楽が始まるぞというときめきを感じ、じっと耳を澄ますようになります。

前に書きましたが、大学時代によくきいていた荒井由美の「さざ波」という曲の歌詞に、こういうのが出てきます。

秋の光にきらめきながら                                        指のすきまを 逃げてくさざ波                                    二人で行った演奏会が                                        始まる前の弦の響きのよう

これを聴いて、彼女の鋭い感性に舌を巻いたのを覚えています。

演奏会が始まる前の弦の響き!

彼女がチューニングの音に感じたポエジー、それも音楽なんです。

 

(11)音のしない音楽

ジョン・ケージという作曲家をご存じでしょうか。彼の作品に「4分33秒」があります。ピアニストが舞台に出てきて、ピアノの前でなにも弾かずに4分33秒座っているという「音楽」です。その空白の時間に去来するすべての会場の雑音、その空間への拡散、空想の音響、ピアニストの姿や所作、いらだち、不安まで・・・そうしたすべてが聴衆の心に形成するものが音楽だということです。運命の休符の拡大版ともいえましょうか。

「4分33秒」のレコードがあったという話はほんとうでしょうか。ジョークかもしれません。ともあれ作曲家は4分33秒だけ切り取ったカンヴァスに白地の絵を描き、そこに何を見るかは居る者の感性にゆだねた。哲学的かもしれないが僕はそれは芸術家の強いメッセージだと受け取ります。ユーミンがチューニングに聴いた音楽というものに、それはとても近いものだと感じるのです。

 

(12)演奏家の磁力

演奏会場で、今日だけしか聴けない一期一会のものにめぐり会えるかもしれない。いつもそう思って足を運んでいます。行った回数に比べればずいぶん少ないですが、とにかく一生忘れることのない体験を味わえたからです。それは周囲の聴衆と一つの状態になってしか味わえないし、全部の聴衆を引きずり込んで「同期化」してしまう、強力な磁場をもった演奏家なくしてなりたたないものでしょう。

演奏家の力は絶対に必要なのです。すぐれた演奏家とはテクニックばかりの人のことではなく、聴衆をだまらせ、集中させ、引きずり込み、引きずり回し、うーんこれは凄いと我を忘れさせ、作曲家がランプにに封じ込めた魔人を解き放ち、その魔力と一体になって、参りましたという大拍手を送るしか感情のやり場のない状態に聴衆を追い込むことのできる人のことです。

実演の場で僕は何人かこういう人たちに接してきました。

セルジュ・チェリビダッケ、ゲオルグ・ショルティ、ダニエル・バレンボイム、アイザック・スターン、ヴラド・ペルルミュテール、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ、カルロ・マリア・ジュリーニ、カルロス・クライバー・・・・

定期演奏会の会場が、おそらく、クラシック音楽を「教養」として知り、覚え、楽しんでこられた世代ばかりという状況は、これから活躍の旬を迎える若い演奏家が変えてくれるものだと信じます。老人はそう遠くない将来に死んでいきますから、それとともに演奏会も死んでいくかもしれない。ネット社会がそれを急速に後押しするかもしれない。それを救うのが、演奏家の磁力とでも呼ぶべきものです。

 

(13)未来

若い方々が僕のショルティ体験のような味を覚え、もっと体験したくなり、もっと会場へ足を運ぶ。解決法はそれしかないと思うのです。それはネット社会が、ネットビジネスが、どう頑張ったところで浸食も淘汰も出来ない、人間の精神活動の最も高貴で深い部分だからです。今の若い方々は、むしろそういう体験を我々の世代よりも必要とし、強く求めておられるのではないかと思います。

拙文、愚考が50万も読まれたならそれもネット社会の変容の結果です。浸食されるばかりでなく逆にそれを使ってクラシック音楽体験の素晴らしさを少しでも伝えること、これは誰かがやるべきですし、僕は大作曲家への「決して支払えない印税」のつもりでそれをやっていこうと決心しております。

 

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

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二期会のドン・ジョバンニを聴く

2016 JUL 5 1:01:05 am by 東 賢太郎

昨日はサントリーホールにて、ドンジョバンニを。小ホールで聞くのもピアノ伴奏というのも(そこまでオペラに通じているわけではないので)初めてでした。

たまたまご縁あっての鑑賞でしたが、ホールの声の通りがよくオケの音量に消されることもなく、とてもよかったです。唯一、地獄落ちの場面だけはオケがほしいなと感じましたが。

歌手の皆さん、意気込みが感じられて楽しみました。個人的なモーツァルトの歌劇ランキングでは①魔笛②ドン・ジョバンニ③フィガロ④コシ・・・という具合。②は思い入れがありますが指揮と歌手のマッチングが難しいオペラで演奏にもより、②③④は僅差です。

ドン・ジョバンニは2065人の女性を手にかけた放蕩者ですが下衆のスケベ野郎ではない。貴族です。このオペラが発表されたのは1787年、まさしくフランス革命前夜なのです。つまり②も③と同じく貴族糾弾・反体制オペラというのが私見です。

お上の悪事を暴く。それも効果的に嫉妬をあおれるセックススキャンダルです。しかも「悪代官が村娘に手を出す」、これはわが時代劇でも定番なほど万国共通、実にわかりやすい勧善懲悪の構図じゃないですか。週刊文春にはなれないのでダ・ポンテとつるんで「ほのめかし」作戦で行ったものと解釈しております。

一発目の③はウィーンでは貴族に警戒されたが辺境都市のプラハでは大喝采となりました。二発目の②はその2匹目のドジョウとしてプラハの劇場に依頼された作品なのだから同じ路線と解釈するのは自然でしょう。③で懲悪するのは奥方でしたが、それでも危なかった。そこで②では石像です。神仏だから仕方ないでしょ?天罰ですよとほのめかして逃げたのでは。

モーツァルトは同作をドラマ・ジョコーソと呼んでおります。まじめなドラマ(悲劇)+喜劇(ジョコーソ)です。復讐に燃えるドンナ・アンナ、騎士長がメインラインで悲劇を構成するわけですが、まじめ一点張りでは「ほのめかし」作戦にはなりません。

だからこの曲のキャスティングは喜劇、遊びの側面、つまり人間くささという面で「思いっきりワルっぽい」が「女が靡くのは仕方ない納得の男ぶり」のジョバンニ、捨てられたのに一途に純真で改悛までせまるドンナ・エルヴィーラ、自分の結婚式の最中にドン・ジョヴァンニに口説かれてその気になるお色気村娘ツェルリーナが緩衝材となっていなす。ここははずせないと考えてます。

そのなかでも難しいのはジョヴァンニの従者レポレッロで、親方の放蕩に愛想がつきているのにカネと女のおこぼれをエサにずるずる使われてしまい、狂言回しかと思えば身代わり役にもなってはらはらさせて笑わせる。すごく人間くさいのです。だから性格俳優的な役かというと、大事なアリアが3つもあります。

まずジョバンニの宮本益光さん、お見事、良かったです。そしてレポレッロの池田直樹さん、声も演技も存在感抜群。要の役を堪能させていただきました。それからモーツァルトのオペラというのはアンサンブルが命で皆さん良かったです(ドンナ・アンナの針生美智子さんの高音は声質、ピッチが記憶に残りました)。

とくに第一幕の終結のアンサンブルは感動!完全にモーツァルト界に引きこまれ打ちのめされました。ピアノもよろしかったです(お疲れさま)。皆さん、ありがとうございました。

 
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アシュケナージ/N響のエルガーを聴く

2016 JUN 24 0:00:29 am by 東 賢太郎

 

指揮:ウラディーミル・アシュケナージ

シューマン/交響曲 第2番 ハ長調 作品61

エルガー/交響曲 第2番 変ホ長調 作品63

(サントリーホール)

このドイツで始まりイギリスが締めるプログラムは英国のEU離脱派にエールでも送るつもりかと思わせる。ジョークならタイムリーだ。

シューマンの曲には精神病の跡を感じるものがあって、2番はそのひとつ。第3楽章に多いが第1楽章にもある。バーンスタインやシノーポリがその軋みをえぐってつらい音をオケから引き出したが、アシュケナージにそれはない。平穏に通り過ぎて、音楽に語ってくれだ。といってドイツ的な堅牢さを追求するわけでもない。アレグロのテンポは中庸で沸き立つアンサンブルを聴かせるでもない。何がしたかったかよくわからないまま終わった。

これは前座なのさということか。

ドイツ語圏で生まれ育った「交響曲」なるフォーマット。フランス人、ベルギー人、チェコ人、ポーランド人、フィンランド人、エストニア人、スエーデン人、デンマーク人、イタリア人、ハンガリー人、英国人などが参加して作ったが、どれもマイナーでドイツ人のひとり天下。交響曲ワールドはまるでEUそのものである。

エルガーはそのワールドでの英国代表選手だろう。ヴォーン・ウイリアムズ、ウォルトンという好敵手もいるが、たった2曲だけで存在感を出している。その2番をN響はうまく演じたと思う。なんでも弾ける優秀な放送オケだ。

英国に6年間居住した者としてエルガーの音楽は機微に触れるものを感じるが、しかしEUチームのレギュラーポジションを取れるかという微妙かなとも思う。僕はお世話になった英国が好きだが、遠い先祖までたどってもDNAは共有してないなという感じがする。風土も食事も酒も国民性も女性も、そして音楽もだ。

エルガーは調性を捨てなかったがとても非論理的、非機能和声的、非ドイツ音楽的方向に進んだ。しかし、にもかかわらず、捨てなかったわけだ。どうも煮え切らず、曖昧模糊、メッセージがドカンと出ない。ドグマティックでない、理屈っぽくない良さを愛でるのは日本人に好かれる要素だが、僕のような理屈っぽい人間はそれならソナタ形式で書く必要ないんじゃないのと思ってしまう。

ロシア人でありユダヤ人であるアシュケナージはすべての挙動が謙虚でいい人だ。ピアノだって、ものすごい腕の良さだがメカニックにならず、何を弾いてもおっとり人間的で温和な気遣いが根っこに感じられる。技の鋭利なキレ味や豪放な盛り上げや神経質なピリピリとは無縁だ。指揮なんだからもっと大家然としていいと思うがしない。いまの時代のリーダーには向いているのかもしれないが。

 
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