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クラシック徒然草-僕がクラシックが好きなわけ-

2014 NOV 2 16:16:27 pm by 東 賢太郎

 

私は物理学者になっていなかったら、音楽家になっていたことでしょう。私はよく音楽のように物事を考え、音楽のように白昼夢を見、音楽用語で人生を理解します。私は人生のほとんどの喜びを音楽から得ています。

アルベルト・アインシュタイン

 

先日の皆既月食の時、アマチュア天文好きはほとんどが「観測派」なので友達がおらず子供のころ寂しい思いをしたことを思い出しました。

僕は恒星にしか興味がありません。日食や月食はかくれんぼみたいなもので物理現象でないし、何がおきるか完全にわかっているのだからただのショーです。皆既日食の時はカラスが何をするかの方が気になっていましたし、どうしても赤色超巨星の変光や130億光年先の未知の星雲での出来事のデータの方が気になります。

こういう趣味は幼児のころからはっきりしていて、僕は2歳から無類の電車好きでしたが車輪と線路以外は一切興味がありませんでした。非常に変な子だったと思われます。もしも鉄道会社に入るなら社長でも運転手でもなく線路の補修工をやりたい。今でも彼らを見るとうらやましい気持ちがわきおこります。

恒星の物理現象の何が楽しいの?と聞かれても猫好きとおんなじで、好きだという事実が先に厳存するのであって考えても意味のないことです。実際にそれを見た者はないわけですから頭の中だけの世界ですがそれでもそこに浮かぶイメージは時としてどんな名画より美しいと思います。

音楽も同じことです。どうしてクラシックが好きかというのは、どうして恒星がどうして線路が好きかということと同質です。なぜこの曲はこんなにいいんだろう?これを解明することとシリウスの伴星の質量への関心とは同じであり、シリウスを夜空に見上げるのはその曲を聴くことと同じことです。

音楽は人為的な物理現象です。それを耳にして頭の中に何が浮かぼうと、快感、感情、風景、ポエム・・・なんであろうと勝手です。ただその段階ではもうそれは音ではなく、脳内の現象になっています。それを心象と呼べば、それは聴く人の脳の数だけあります。ある曲を聴いて万人が同じ心象を抱くとは限らないのです。

ラヴェルのボレロを聴くと僕は極めてメカニックなゼンマイ仕掛けの時計を思い浮かべます。ところがさる女性の方があれはセクシーよねとおっしゃって頭が凍りつきました。セクシー? 同じものを見聞きしてかように天と地の差が出る、これは音楽が多面体であって、見事にカットされたダイヤモンドのように見る角度でいろんな魅力があるということなのです。

10年ぐらい前に僕はボレロをシンセでMIDI録音しました。なんとなく時計のゼンマイをばらばらに分解してみたくなったのです。すると、そこには和声や対位法の秘技はちっともなくて、ひたすら単調な2つの旋律とリズムの繰り返し、それに楽器法の多様なスパイスがふりかかっていくだけという造りなことが現実として見えてきました。

つまり、部品にバラしてみるとどのひとつも珍しくもなく、楽器の面白い組合せの効果だってシンセで忠実に再現できてしまう。まるで精巧なプラモデルみたい。作りかけで内部が中空の戦艦大和を上から下から眺めてぞくぞくする、ああいう感じを味わいながら全曲を完成してみて、ああやっぱりこれはゼンマイ時計だったんだよかったと得心したのです。

ちなみにご存知の方も多いでしょう、ロンドンにドーヴァー・ソウル(シタビラメ)で有名なWheelersというレストランがあります。素材は同じヒラメのムニエルですがソースの違いでたしか10何種類ものメニューがあり、どれもうまい(お薦めです)。ボレロはあの舌平目を片っ端から10種類食べるのとおんなじだったんだということです。1種類のソースで10枚はとてもとても。ボレロはピアノリダクションしてもちっとも面白くない曲です。

しかし、そういうことをぶっ飛ばしてセクシーだとかいう人が現れる。「おおジュリエット!そなたの瞳は・・・・」みたいな宝塚風世界が見えてきて、そういうのは僕とは縁遠い世界なもんでもうアウトです。こっちはボレロとくればホルンとチェレスタにピッコロがト長調とホ長調でのっかる複調の部分が気になっている。しかし何千人に1人ぐらいしかそんなことに関心もなければ気がついてもいない。ここで、日食や月食が好きな子と遊べなくて寂しい思いをした子供時代に戻るのです。

たしかにラヴェルはゼンマイ時計を造ったのですが、もし彼がセクシーという評価を知ったらひょっとして喜んだんじゃないか、それこそ彼の思うつぼだったかもしれない。伝記を読んでいてそう思ったのも事実です。素晴らしい時計ですね、そんな評価は欲しくなかったかもしれない。そう感じてなにかまた寂しい気持ちになったりします。こういう人間は孤独なのです。

そこで後日、ブラームスの4番の交響曲の第1楽章、これも僕にとってはバラバラに分解したくなる対象なのですが、それをMIDI録音してみました。するとこっちはソースではなく食材そのものに多種多様なアミノ酸、タンパク質が含まれたものであることがわかってきました。彼の3度、6度音程がそれの重要要素で、12音の全部を基音とする長短調主和音が含有されていることも。

でもそれはらっきょうをむいたようなもので、何も出てこない。どうして僕が惹きつけられるのか、その効果をもたらす核心、根源は悔しいことに分解した部品は教えてくれないのです。原子論が脳を解明できないのはこういうものでしょうか。音楽としては全然似てませんが、結局これもボレロのセクシーと同様によくわかりませんでした。

そういう、いわば「形而上の何ものか」を名曲といわれるものは含んでいるようです。すると僕はそれを形而下におろして分解したくなる。いろんな人の演奏をいわば「聴感実験」としてきいてみたくなる。そうやってその曲を覚えこんでしまう。その積み重ねで僕は50年もクラシックにのめりこんできたようなのです。分解癖がうずかない曲はぜんぜん関心がない、どうもそういう事のようです。

ブログで譜面をお示ししたくなる部分、そここそ分解したい箇所であって、それこそが僕のブログの主題だからそうしないといけません。今はそういうものの合成効果を僕は好きで、それが感動をくれていると考えています。それは自分だけの心象かもしれないので普遍性があるかどうかは知りません。たぶんないでしょう。日食・月食派の方にはどうでもいいことでしょうが、物理現象派の方にはわかっていただける 一縷の望みをかけております。

僕はリストやマーラーやヴェルディやほとんどのショパンに興味がないことを明かしているので、いくらボロカスに書いても無視してください。所詮好き好きです。なぜといって分解したいところがないのです、一ヵ所も。だから楽譜を見たいとも思わない。おおジュリエット!も僕の音楽観にはいっさい出てきません。

音楽の教科書に載っていた曲はみな名曲だ、聴いてわかなければいけない、わからければあなたがおかしいのだなんていう呪縛はクソくらえなのです。僕は中学まで音楽の成績2の劣等生ですが、ピアノが弾けて笛がうまくて5だった人たちが今の僕よりストラヴィンスキーの音楽について理解していることはたぶんないでしょう。そういうことは育ちや教育や技術ではなく、すぐれて遺伝子のなせるわざと思います。

レコードの批評はくだらないので読みません。つまらない曲の演奏などどうあろうとつまらないわけで、そんな曲を批評できるほど真面目に聴いていること自体趣味が悪い。そういう人のおすすめに従ってみたいとは思わないです。良い曲はプロがちゃんと演奏すればよほどひどい解釈でないかぎり良いはずです。だからCD屋へ行って棚に並んでいる有名演奏家のものを買っておけば間違いはありません。

その曲の本質をより突いた演奏というのはたしかにあります。それは語られるべきですが、それもこれも、曲が良いという大前提があってこそです。必要なことは「良い曲」を探して、それを良く知ることなのです。そしてそれぞれの人によって持つ心象が違うのですから何が良い曲かもかわってきます。他人の評価やおすすめはそれはそれとして、とにかく自分の耳で聴いてみること。それしかございません。

僕はいい曲かどうかを分解したいかどうかで選んでおり、ある人はおおジュリエット!で選んでいる。どっちでもよい。そういう事だということを知ったうえで自分の「良い曲」のレパートリーを増やしていくこと、それを探し求めることこそクラシック音楽の森に足をふみ入れることです。その道を歩いてさえいれば、どんなにレパートリーがまだ少なくとも、「自分の趣味はクラシック音楽です」と堂々と語ることができる、僕はそう思います。

 

クラシック徒然草-はい、ラヴェルはセクシーです-

クラシック徒然草-ラヴェルと雪女 (ボレロ)-

 

 

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クラシック徒然草-ブーが飛ばない国-

2014 NOV 1 2:02:18 am by 東 賢太郎

阪神ファンには悔しい結果でしたが、野球としては昨日の日本シリーズ最終戦は本当に素晴らしいゲームでした。幕切れがああはなりましたが、西岡も命がけでセーフになりたいという結果です。特別な試合ということを割り引いても、TVでも手に汗握るあんな鬼気迫る一戦はそうはありません。人間何事も懸命な姿は人の心を打ちます。

だいぶ前ですが日経新聞のコラムで元西鉄ライオンズの豊田氏が、バント成功で「いい仕事できてよかったです」と選手がいうのはおかしいだろ、と書いてました。オリンピックや甲子園でそんなこと言うか?懸命にやってんなら「お仕事」はねえだろというニュアンスで。まったく同感ですね。昨日はバントひとつ四球ひとつに魂がこもってました。スポーツの命がけとはああいうもんです。

相撲にはガチンコという言葉があり人情相撲というのもある。八百長ではないが命がけとそうじゃない取り組みがあるということを暗に意味しているのです。同様に野球も時々「野球ショー」みたいな試合があってがっくりきます。個人タイトルがかかると欠場させたり、そんな芸能みたいな試合をカネを払って誰が見るだろう?あれじゃあ人気が落ちても文句は言えんでしょう。

そういうことは音楽演奏にも感じます。

ピアノ・リサイタルや室内楽は個人技だからまだいいのですが、オーケストラというのが曲者で「お仕事」の無気力演奏が頻出します。誰もハナっからそうするつもりはないんでしょうが、指揮者がボケだったりどこかがうまくいかなかったり集団としてなんとなくノリが悪かったりして、俺だけじゃどうにもならんがなという空気がでてきて、まっ、お仕事だけはせんとなって感じで終わってしまう。大過なく曲なりに盛り上がってシャンシャン。

もう何回ブーを飛ばして野次り倒してやろうか思ったか知れません。日本だけじゃない、世界のトップオケでも時々あるんです、そういうのが。ところがプロですからね、別に技術に破綻はないです。だから曲の盛り上がりにだまされてそんなものにご丁寧にブラボーまで飛んでしまったりする。専門のブラボー屋でも雇われてるかと思ってしまいます。

コンクールはともかく音楽会で「勝てば優勝」みたいな命がけプレッシャーはありません。スポーツとはちがうので難しい。だからブーイングというペナルティぐらいはあるべきなんじゃないでしょうか。何でも間違えずにそこそこ弾けばブラボー?こっちもあほらしいが本物の演奏家もそれじゃ育ちませんね。

だいぶ前に某著名フランス料理店の東京店がオープンして、僕はスイス時代にパリ本店のファンだったのでさっそく行ってみました。それが値がものすごく張るくせに料理は実にフツーでして、バカヤローってなもんです。それが後日に評判をきいてみると皆さん行って感動してるんですね。名前負けというか、高いけど仕方ないねって・・・。こういうのにこそブーが必要なんですね。

西洋音楽なんだから西洋で勉強しないとというのは、した方がベターでしょうが本質ではないと思います。ここでの意味で西洋でない米国で勉強して西洋で活躍してる人はいくらもいるし、スズキメソッドみたいに西洋に取り入れられた日本の教育だってあります。問題は勉強じゃなく、西洋の厳しい聴衆の面前でやってブーの脅威とプレッシャーに晒されないとダメということではないでしょうか。勉強は所詮ネタの仕入れです。ネタが良くたって客が満足しなきゃ何の意味もなしでしょう。

ブーは周囲の感動に水をぶっかける可能性があります。だから飛ばす方も体を張ってます。それは聴衆と演奏家が丁々発止に火花を飛ばしているという証です。忘れもしませんが昔行ったローマ歌劇場で強烈なブーの嵐になって、歌が特に下手だったわけでもないので何がいけなかったかわからなかったのですが、野次られた歌手の方も堂々と受けて立っているのを見て、こいつらすげえなあ肉食獣だなあと思ったものです。ああやって鍛えられるんですね。

しかし、こういうことが起きない優しい草食文化の日本では、その指揮者やオケの演奏会はもう行かないというサイレントな意思表示しかありません。それが一番怖いんですが。特に外国演奏家は、ちょっとどうかなと思っても敬意とお義理をこめて割れんばかりの拍手を送るのが我が国聴衆のしきたりであります。まあ一種のおもてなし精神ですね。高いカネ払ってるほうなのに、これぞあのフランス飯屋と同じ現象なのであります。

だから某日本人ピアニストの名曲演奏会みたいなのを聴いているうちにソムリエを思い出したんです。今日はとっておきのボルドーを5本ご用意しました、なんて。ソムリエだからワインの味を変えることがない。フランスの先生に習ったとおり。それなら名人であらせられる先生のを聴きたいしCDも持っている。いったいあなたは何ができるの?という気持ちになってしまう。厳しい事を言うようですが、ブーが飛ばない国でぬるま湯につかっていてもせっかくの才能がもったいないと思うのです。

外人指揮者で日本の聴衆を悪く言った人はほとんどいません。当然です。最高にいい客ですよね。クラシック音楽なんか誰一人わかってないとボロカスに言って日本はもう行かないと明言したのはミヒャエル・ギーレンぐらいです。あっぱれです。こういう人好きですね。試合でケガした選手を「ライオンに追われたウサギが肉離れになるか?」と静かに罵倒したサッカーのイビチャ・オシム全日本監督を思い出します。

相撲や歌舞伎ほどクラシック音楽は客が育ってません。輸入もんだから仕方ないですが、相撲と一緒で横綱がだらしなければ座布団投げる、そういう感じで聴けばいいと僕は思ってます。聴き方にマストはないですから好きなものを好きに聴いて好きなことを語ればいい。それでだんだん「横綱相撲」がどういうものかわかってきますが、横綱じゃなくても十両だっていい相撲はあります。それこそが、命がけでやった手に汗握る鬼気迫る一戦です。

一流の演奏家でなくても有名な録音でなくても、そういう演奏はあります。単純に素直に心を開いて音楽を聴いていれば、それは誰にも子供にもわかるものです。人間のパフォーマンスだから正直で、ワインテースティングみたいな知識がなくてもわかります。なるべく録音でそういうものをご紹介するつもりですが、やはり眼で見た方がわかりやすいのでどんどんコンサート会場で実演に接することをお薦めいたします。

 

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クラシック徒然草-音楽に進化論はあるか-

2014 OCT 29 1:01:27 am by 東 賢太郎

武蔵野音楽大学教授、東京藝術大学講師であられる作曲家三ッ石潤司先生から拙ブログ(モーツァルト40番)に貴重なコメントを頂戴し、大変うれしく思っております。それを読ませていただきながらいろいろと思うことがありました。

そのひとつが音楽の「進化」についてです。生物の進化とは合目的性や進歩という価値判断を伴わない「変化」であるようです。モグラの目が見えなくなることも退化ではなく進化とされます。進化論は複雑多岐な学問で僕が理解できていると思いませんが、少なくともそれをそのまま音楽に当てはめるのは無理のように思います。

音楽に進化論的なもの、それは僕の目にはロジックというより神学に近いですが、そういう観念を持ち込んだのはドイツの音楽界、学界のようです。そのことは詳しくは石井宏著「反音楽史」-さらばベートーヴェン-(新潮文庫)にあります。産業革命の近代化に遅れ、植民地も満足に得られず、劣等感と焦燥感のあったプロイセンが南ドイツを巻き込んで数の論理で優位性を追求するにあたって、ドイツ文化の優越を誇示する精神的シンボルが必要でした。

ナポレオンの台頭から普仏戦争の勝利に至る歴史で、プロイセンもバイエルンも合わせた民族意識というとそんなものはなかったわけですが、ビスマルクは普仏戦争のためにはドイツ民族としてのナショナリズムを発揚することが必要でした。そこで一定の役目が音楽に求められた。それはヒットラーがワーグナーの音楽に求めたものほど明示的ではなかったようですが、本質的に同じでしょう。

バッハ以来のプロテスタント教会音楽を起点としてドイツ人(というよりドイツ語を母国語とする人)の書いた音楽を一つの体系としてくくり、一本の縦糸を通す試みであり、それは音楽を作る側と語る側の合作でしたが前者のリーダーとなったのがヨハネス・ブラームスです。普仏戦争(1870-1年)に至る21年の年月をかけて1876年に完成した彼の交響曲第1番ハ短調はその証人のようなものでしょう。それをベートーベンの10番だと評したのはハンス・フォン・ビューローですが、この評はそのクオリティの高さを称賛すると同時にドイツ音楽に「一本の縦糸」を通すことに成功したという意味でもありました。

その縦糸が具体的に何かといえばヨゼフ・ハイドンが完成させたといわれるソナタ形式を両端楽章にもった多楽章楽曲(交響曲、協奏曲、ソナタ)でしょう。19世紀後半にはフランス人もそれらを書くようになります。あくまでオペラという伝統を守ったのはイタリアでした。18世紀まではイタリア風オペラを書けない作曲家は主流ではなく、イタリアに3年留学したヘンデルはオペラを書き、モールァルトはオペラ作曲家として大成したいと願っていました。対して留学をせずドイツ語圏にとどまった「純ドメス派」だったのがJSバッハとハイドンです。

その純ドメスの頭領たちをあえて音楽の父、交響曲の父として音楽史の起点のようにする「ドイツ学派」のようなものが西洋音楽史観を席巻した、そして本来の起点であったイタリア・オペラは脇道に押しやられてしまったという印象を僕は持っています。それはちょうどいま本を読んでいる日本古代史で、古事記、日本書紀が天皇を正当化して出雲を消し去ろうとしている姿に重なります。

レコード芸術という月刊誌がありますが新譜評は交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽、器楽曲という順番で、オペラ、声楽曲は最後です。対して英国のクラシック音楽誌グラモフォンはオペラ、声楽が筆頭で交響曲はオーケストラ曲というくくりで後の方に管弦楽曲と一緒に出てきて初めて読んだ時にあれっと思いました。日本のクラシック音楽文化はドイツ学派の強い影響下にあるのです。これは注意を喚起してしかるべきことです。

オペラや声楽の実演を聞いてあとで器楽曲を聞くと何かが物足りない、そういう経験をお持ちの方は多いのではないでしょうか。人間の声の素晴らしさがあらゆる楽器を凌駕する、というより楽器はその模倣であるということを感じます。ピアノやヴァイオリンがどう舞台で健闘したってエスカミーリオの歌う輝かしくセクシーな「闘牛士の歌」や、ムゼッタの「私が街をあるけば」のような華のある色香など出しようもありません。シンセサイザーも全く無力であり、声楽と器楽の狭間はきわめて深いのです。声楽優先という英国式は一理あるように思います。

ともあれ日本の評論家の書き物を読んで育った僕は、ヘンデルよりバッハの方が上だ、ヴェルディよりワーグナーの方が上等だと永く思い込んでしまいました。音楽には上等なものとそうでないものが確かにありますが、上等でなければ歴史を経て残りませんからそれはとほとんど意味のない偏見です。イタリアオペラはどことなく色物という感覚が無意識に刷り込まれたようで、もちろん自分の責任ではあるのですが、偏見のおかげで人生損したような気も致します。だから、そう思ってからはそういう書物は読まないことに決めました。

音楽の「進化」という概念があるとすれば、それはドイツ学派の作った欺瞞、策謀だと思います。ソナタで書いてない音楽ばかりのイタリアが進化に遅れた後進国であるとはとうてい思えません。そして「進化」があるのだとすれば、その帰結として現れた現代音楽が最も優れた音楽かというと、これもとうていそうは思えません。

対位法、とりわけフーガという作曲技法はドイツ学派がそんなに強調していないようですが、最も素晴らしい物を書いた人は私見ではJSバッハと思います。死の2年前にモーツァルトがライプツィッヒでバッハのモテット《主に向かって新しい歌を歌え》(BWV225)をきいて驚嘆したのは有名です。これは神品ともいえる本当にすごい音楽で、後世の誰もこんなものは書けていないのではないでしょうか。

モーツァルトの時代のピアノ奏法はドソミソドソミソのアルベルティ・バスと呼ばれるもののように左手はギター並みのコード伴奏だけというものもあり、バッハ時代の厳格な対位法音楽は後退しておりそれがモーツァルトの驚嘆の声の背景になったと思います。しかしこれを旋律の独立分化という進化なのだと見ることも可能ですし、現にずっと先の末裔が現代のポップミュージックですから子孫は大いに繁栄したわけです。

結論として、僕は音楽に進化論を持ち込むのは抵抗があります。作る側が勝手に進化しても聴衆がついてこなければ仕方がない。このことは先日のブログに書きました(なぜクラシックの名曲がもう出てこないのか?)。マーラーは初演後に不評だった自分の交響曲が聴かれる時代が必ず来ると予言し、幸運にもそうなりましたが、マックス・レーガーが自分のヴァイオリン協奏曲に贈った同じ予言は今のところ達成されたとはみえません。

もっといえば、ドイツ学派に騙されていた反動でしょうか、ファリャ、コダーイ、ヤナーチェク、ディーリアスのようなローカルな味わいがあったり交響曲を書いていない人に魅力を感じたりもします。ラヴェルが好きという感性もその路線に近いでしょう。こういう音楽がドイツ人の言う「進化」のベネフィットで出てきたとは思いません。バルトークやストラヴィンスキーのような、一見ローカルですが実はグローバルな音楽も、ドイツとは無縁の一種の突然変異的なものであったように思います。

イタリア音楽(まあ要するにオペラですが)とどう向き合うかというのは先の理由から難しくなってしまっていて、ヴェルディは誰にどういわれようといまだに苦手です。別にドイツ学派の洗脳がなかったとしても、メロディーは単純なのに良く覚えられないというのは僕にとっては犬の顔が良く見分けられないのと同じなので、つまり興味がないのだから仕方ないことなのだと観念しております。

 

モーツァルト交響曲第40番ト短調 K.550

 

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クラシック徒然草-なぜクラシックの名曲がもう出てこないのか?-

2014 OCT 23 13:13:17 pm by 東 賢太郎

日本でクラシックコンサートというといつも運命や新世界ばかりやっているように見えます。どうしてそういう閉塞状態になってしまうのか不思議でなりません。感動させる力のある音楽はいくらもあるのにです。さらに理解できないのは運命や新世界のような音楽が新たに作曲されないことです。同じものばかりではいくら名曲とはいえ飽きますし、いくら演奏解釈の差があるといっても新作投入のインパクトに比べれば微々たるものでしょう。

米コロンビアが1928年にシューベルト没後100年記念作曲コンクールをやってアッテルベリの交響曲第6番が優勝しました。聴いてみると調性音楽であり三和音の復権もあるかと思わせるものでしたが残念なことにあまり出来が良いとも思えず、曲と一緒にこの興味深い試みも忘れられました。もしそのコンクールにラフマニノフが交響曲第3番を匿名で応募していたら何が起きたのだろうと想像すると面白いものがあります。

フランクフルトのアルテ・オーパーでエサ・ペッカ・サロネンでしたか、北欧の作曲家の管弦楽曲を世界初演しました。打楽器奏者が赤ん坊のガラガラのお化けみたいのを延々と振りまわし、それに気をとられてそれしか覚えてないのですが、やっと終わったと思ったらみんなそう思ってたんでしょうね、満場のブーイングになってしまいました。拍手はまばらでちょっと気の毒でした。

春の祭典の初演も同じようなものだったのですが、その後あの曲はどうなったんだろうと思います。あれが日本だったらブーはなく3分ぐらいのお義理の拍手はあるんです、きっと。借り物文化の違いですね。この時つくづく思ったのですが、現代音楽と呼ばれるジャンルが大衆とかい離してしまっているのは作曲家、演奏家そして何より我々聴衆にとって大損失なのではないでしょうか。

アマデウス君のような天才は100年は出ませんよとレオポルドにお世辞を言ったのはハイドンですが、100年どころか220年たっても出ていないとされます。しかし本当にそうなのでしょうか。人間のすることで、18-9世紀人のしたことを20世紀人が凌駕はおろか、足元に及んだとすら評価されていないという例はあまりないように思います。

あの作曲家だって才能が認められているはずなんです。もし調性音楽で書けばモーツァルトみたいな名曲を生むかもしれない。でもそれが時代として許されない。シェーンベルグがもし機能和声で書く世の中に生きていればモーツァルト級という評価を得たことはありえたと僕は思います。もしモーツァルトが今生まれていたら?ガラガラでブーイングうけて作曲なんかやめてしまったかもしれません。

クラシック音楽作曲業界の内輪において評価の高い楽曲を作ることは大変な名誉なのでしょうが、我々素人から見るとどこか100手詰みの詰将棋作りみたいで、高段者からすればおおこれは凄いというのがあるのでしょうが我々はわかりません。白熱したへぼ将棋のほうが面白かったりします。

10年後に聴衆に聴かれていないなら英語のクラシックという単語の定義に当てはまらなくなってくると思うのです。100年ぐらい未来になってみたら現象的にはロックやジャズのほうが語義に適合していて、そっちをクラシックと呼ぼうじゃないかという世の中になってるということだってまったく論外の話ではないと考えています。

音楽を産業、ビジネスととらえるかどうかはともかく、国家やパトロンが保護しない資本主義的環境においては聴衆という名の顧客がどうしても必要でしょう。一定水準の聴感覚を持つたくさんの聴衆、そして彼らの感覚で受容できる芸術性を具備した新しいインパクトある音楽の供給、そういう方向に双方が自然に向かうことが作曲家、演奏家、聴衆全員の、いや大げさにいえば人類の幸福になると思うのですがいかがでしょう。

クラシック音楽がクラシックでなくてはいけないという呪縛、これは聴く側ではもうとうの昔に解けているように思います。ネット社会、youtube、i-tunes等の進化がそれを急速に後押ししています。大衆という本来勝手気ままな消費者が、ますます気ままにあらゆるジャンルの音楽を廉価に(あるいはタダで)サーフィンできてしまう世の中です。クラシックだという権威など一顧だにしない世代が聴き手の大半になりつつあります。

それを大衆迎合だ商業主義だとしてしまえば武士は食わねど高楊枝です。業界としてどうあろうが構いませんが、それが才能ある作曲家、例えば19世紀末後期ロマン派の時代に生まれたストラヴィンスキーみたいな人を呪縛してしまうのはもったいない。春の祭典の初演当初にパリの大衆がロシアの新人作曲家に期待していたのはおそらくチャイコフスキーの延長のような曲です。それが当時の呪縛だったといえるでしょう。

しかし表面的にはそうでも実は大衆はそれに飽きてきてもいた。何か劇的に違うものが必要だし、それをぶちこめば当たるかもしれない。こういう事を感知するのをマーケティング・センスというのです。ビジネス感覚以外の何ものでもありません。それを作曲家に求めるのはナンセンスだし、それこそが大衆迎合です。だからそれは別な人間がやる。これは合理性のある分業でありパートナーシップです。ストラヴィンスキーに大衆迎合させなかったからよかったのです。

バレエ・リュスを作ったディアギレフという男の功績はその点で注目に値します。彼自身も音楽を知り尽くしておりR・コルサコフの作曲の弟子でした。一方でビジネスの才に長け、僕は彼のマーケティング・センスはものすごく鋭敏だったと思います。幾多のごたごたはありましたが歴史的評価としては彼のバレエ団はパリで大成功し、そこから春の祭典やダフニスが生まれて人類の財産となっている。バレエ・リュスが先にあったのではありません、彼が創り、彼が死んだらすぐ潰れたのです。彼の事業家能力こそが至宝のごとき数々の名曲を生んだといって過言でないでしょう。

佐村河内事件はもう忘れられましたが、あれはいろいろ考えされられるものがありました。僕はあのヒロシマという曲を一度だけ通して聴いて悪くないと思いました。最後の方で調性的になってハープとホルンが入ってくるところなんかマーラー好きは涙を流して喜んだんじゃないでしょうか。しかし作曲者新垣隆氏いわく、調性音楽など書いたら音楽界ではあいつは堕落した、商業主義に毒されたといわれて生きていけない、だから匿名で楽しんで書いたそうです。

僕がいいたいのは、すぐれた調性音楽を作って聴衆を感動させることのできる才能を持った人は今も世界にいるだろうということです。

しかし、堕落の烙印を覚悟してもし新垣氏が実名であれを発表していたら18万枚も売れただろうか?それはなかったでしょう。佐村河内の全聾が嘘だとマスコミが騒ぐとヒロシマは世の中から抹殺されてしまって誰も文句を言わない。内容で売れたわけではないのです。売り出したレコード会社もヨイショ本を出した出版社も、絶賛していた音楽評論家も、みんな踵を返してそんなことには関わってませんでしたといわんばかりです。

日本というのは本当に変な国です。生まれた動機がおかしいとなると中身は無視されてしまう。ベートーベンの楽曲の価値は彼が耳が聞こえなかったことと何の関係もありません。実は彼は嘘つきであって本当は聴こえていたことが発覚したとしても、それでエロイカ交響曲の価値がびた一文下がるわけではないのです。ゴシップ的に売れた部分は割り引いても、聴いていいと思った人も多いならあの曲は新垣隆作曲として価値なりの評価をすべきでしょう。

18世紀末にヴァルゼック伯爵というアマチュア音楽家が当時の有名作曲家に匿名で作品を作らせ、それを買い取って自分の作品だと偽って発表するというなりすまし行為を行っていました。伯爵の使者が家に来て作品を依頼され、とうとう死神が迎えに来たと思った作曲家がいました。この有名な逸話は作り話くさいのですが、依頼があったのは1964年に事実とされました。作曲家の名はモーツァルト、作品はレクイエムでした。

この事件でヴァルゼックはいかさま野郎だとなって作品が抹殺されることがなかったのは人類にとって幸いでした。それどころか、ヴァルゼック氏のおかげさまで我々はあの天下の名曲を手にしたのです。銅像ぐらい建ててあげたい。僕は佐村河内という人物についてどうこう言う気はありませんが、ヒロシマと呼ばれた交響曲は彼がいなければ世になかったということだけは厳然たる事実です。

ヴァルゼック、佐村河内、背景はぜんぜん違うものの作曲家でない人間が触媒となって曲が生まれたのは一緒です。思い切り善意に解釈すればディアギレフ現象だった。今のクラシック界に運命や新世界を書いていただこうとするならディアギレフみたいな男は歓迎すべきでしょう。隠れて堕落していた新垣氏は作曲界から追放になったのでしょうか?なってもいいじゃないですか、書いた曲が1000年たっても聴かれるなら。

 

クラシック音楽の虚構をぶち壊そう

 

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クラシック徒然草-トゥガン・ソヒエフの春の祭典-

2014 OCT 20 11:11:05 am by 東 賢太郎

ブログで既報のとおりN響とのプロコフィエフの5番が名演だったトゥガン・ソヒエフは気になっている指揮者である。来年2月に手兵トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団を率いて来日するというのでさっそくチケットを予約した。

一回実演をきいただけではまだ真価は良くはわからない。そういう場合、僕にはレファレンスになる曲がいくつか存在するが、春の祭典はその格好のもの。火の鳥(1919年版)と一緒に入ったCDを購入して聴いてみた。

特に奇をてらったものではない。春のロンドや生贄の踊りのテンポはやや速めに取るなど若々しさがあるがオーソドックスな範囲であり、若さよりは安定感を感じる。実演で見た指揮ぶり、音楽の先を常に読みオケをコントロールする勘の良さと運動神経がここでも感じられる。第1部序奏部の木管アンサンブルの精度と質感はなかなかであり、この部分にキレとみずみずしさがないと聴く気がしぼむが、うまくクリアしている。ただそれ以降は期待があっただけにやや残念である。

71UWJ6pwEuL__SL1500_こういう曲の録音の場合、どこまでが指揮者でどこまでがエンジニア等の趣味なのか不明だが、まずは肝心のティンパニが良く聞こえないのがまったくいただけない。ティンパニとバスドラムの音色の区別、アルト・フルート、バス・トランペット、バスクラリネットのパートと音色への配慮がぜんぜんない。もうそれだけで僕としては大きく減点である。ポリシーの問題に過ぎないが少なくとも結果がそうなっていない以上、ソヒエフという人もそういうことを注視する指揮者ではなさそうだ。火の鳥の方も、王女たちのロンドのオーボエを甘目に吹かせるなど、いただけない。数ある名演に比べるとフィナーレの霊感にも欠けている。

これはエンジニアの問題だが、2階席のやや奥目に座っている感じで音を録っていること自体、この曲のディテールを知的に解析しようとするよりはマスとして快演を演出しようという大衆お子様路線のように思われる。そういう演奏は掃いて捨てるほど存在するのであり、そこで比べるならトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団というオケは音色美も技術も見劣りする。難しいスコアをスマートに整理整頓して聴かせる能力は高いがなん百回も聴いている人間を納得させ屈服させる域には達しておらず二曲とも100点満点で40点ぐらいの出来というところだろう。ブーレーズのCBS盤とは比べる域にもなく、大人と子供の差だ。

僕としてはブーレーズのCBS盤をレファレンスにするしかないが、こうやって普通の演奏録音をきくたびにその凄さをかみしめるという結果になってしまう。それはブーレーズ自身ですら二度と太刀打ちすることあたわず、もはや演奏そのものが「作品」と化していることにおいてビートルズのSgt.PeppersやAbbey Roadと同質の存在という観がある。演奏というよりひとつの現象だ。ビートルズがそれらをステージで実演できないように、ブーレーズ盤もコンサートホールで再現することはできない。

音を分光器にかけたような驚くべき音彩、整然とうごめくあやしい生命体のようなリズム、知性と狂気が表裏となった儀式が執り行われているあぶない空気、そこではピエール・ブーレーズという天才の発する強烈なオーラが時間を厳格に支配しており、聴く者は金縛りになってすべての微細な音にまで耳を侵食されるしかないのである。

春の祭典がそういう演奏を得たことは我々聴く者にとっては幸運なことだったが他の指揮者にとっては不幸なことだった。だからどれを聴いても分が悪いのは仕方がない。このソヒエフ盤が特に悪いというわけでははない。彼に期待がある分だけ点が辛くなったかもしれず初めて聴く方はこれでも曲の魅力はわかるだろう。

最後に一般論として書いておきたいが、ブーレーズのCBS盤を聴く意味というのはスコアをなぞっただけの演奏というものが音楽的にどれだけ底が浅く稚拙なものかを示してくれることでもある。99%がそういう演奏であるのだから、世の中で春の祭典を知っているという方々もそういう稚拙な像を覚え込んでいるかもしれないということだ。

あのスコアにこれほどの情報量が詰まっていようとはストラヴィンスキーですら知らなかったかもしれない。譜面を読む天才が宝物をたくさん掘り当てていることにびっくりするという経験は面白いものだ。他人のスコアを再現する天才というものが在り得るのだ。ストラヴィンスキーが好きか嫌いかはともかく、演奏というものに関わり、あるいは関心のある方はお聴きになることをお薦めしたい。

 

(こちらへどうぞ)

ソヒエフ指揮トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団をきく

N響 トゥガン・ソヒエフを聴く(1月21日追記あり)

 

 

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ブラームス ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15(原題・ブラームスはマザコンか)

2014 OCT 8 21:21:47 pm by 東 賢太郎

本稿は原題が

クラシック徒然草-ブラームスはマザコンか-

であり、自分で好きなブログの一つです。原文には手は加えず、「ピアノ協奏曲第1番ニ短調」の部分を書き加えます(2016年1月31日~)。

・・・・

ブラームスの音楽がどういうものか、それを知るには伝記や評論を読むことも大事だが、なによりその音楽にどっぷりとつかってみることだ。もちろんそれはモーツァルトでもベートーベンでも言えることだが、彼らの音楽は伝記で知った生き様や性格からくる印象とそうずれることはない。モーツァルトは恐らくあの音楽どおりの男だったろうし、ベートーベンの生きるための信条、ステートメントは9曲のシンフォニーにだけでも雄弁に語られていると思う。

ブラームスの人となりはどうもつかみにくい。彼の生涯についてはガイリンガー著『ブラームス 生涯 と芸術』など多くの著作があるが、書かれているような人だったかどうかはわからなくなることがある。それが、音楽を聴くことを通してなのだからいよいよややこしい。どこか優柔不断であり、寡黙な節度と奔放な振幅、繊細でいて無頓着、情熱的でいてシャイ、頑迷なのに優しく、神のように高貴でいてジプシーの様に粗野という本質的矛盾をたくさん秘めている。どっぷりつかると五里霧中になるという迷彩のようなものがブラームス・ワールドの入り口だ。

僕は彼はアレグロやプレストを書くのがへただと思っている。音楽が軽やかに滑らかに一直線に走らない。主題がハイドンやモーツァルトのように細身でしなやかでなく、紆余曲折をたどって快速で走りだすと機関車の疾走みたいにモメンタムがつく。ソナタ形式の外形としてのアレグロは書いても本音は遅い部分に聞こえる。宗教曲以外で神や自然をストレートに暗示、賛美、模倣することもない。ドラマティック(劇的)であからさまな感情の吐露を忌避しているのも顕著だ。だから合唱曲はたくさんあって声楽の作曲に非常に長けているのに、劇的そのものであるオペラがない。

それはマーラーがオペラを書いていない(未完に終わった)のとはわけが違う。マーラーという人はプロのオペラ指揮者だ。オペラをメディアとして知り尽くしており、人生を劇的に理解する性向があり、恐らくそれが故にストーリーのあるオペラは自己を投影し感情を吐露することに向かないことを知っていた。白いキャンバスである交響曲こそ彼の「私の履歴書」に好適のメディアであったのだと思う。最晩年のベートーベンがそれを弦楽四重奏曲に見いだしたのと同じ意味で。交響曲を4つ書いたブラームスは、しかし、どうだったのだろうか。

彼はロマン派の時代に生まれながら古典の枠組みに本質的な音楽美を見出そうとしたように見えるし、多くの伝記や著作がそういう意味のことを書いている。たしかにソナタ、変奏、シャコンヌなど鋳型に執拗にこだわっており、その作りが堅牢巧緻きわまりないことは譜面から理解できる。一方、先輩のシューマンは反対に自由でファンスティックな発想に長け、ピアノ協奏曲が元々は幻想曲であり後から第1楽章の鋳型に入れられたことが象徴するように、彼の交響曲や室内楽にあるのはソナタ形式であるための必要条件としての鋳型であって、それ自体がブラームスの場合のごとく絶対無比の意味合いを持って我々を説得するとはいいがたい。

そうしたブラームスが頑強に形式論理が情緒に流されることを拒否する姿勢は新古典主義と呼ばれ、ストイックであることを是とする人々にポジティブに評される場合もあるが、それをもって彼の主義とするほど自己の吐露を全面的にそれに依存したものだとは僕は思わない。それは彼のいわば鎧(よろい)のようなもので、同時代の他人にも後世にも開示したくない何物かを覆い隠すすべだったのではないかと思っている。この点は本稿でもっとも強調しておきたいことだ。

彼の4つの交響曲、それが彼の押しも押されぬ代表作であり、彼自身もそう考えており、現に僕自身もっとも聴きこんだクラシック音楽がどれかといえばその4曲であるわけだが、マーラーの場合の様に彼の「私の履歴書」がその4つの交響曲かというと、どうも違うという気がしてならない。「名刺」ではあってもそうではないかもしれないと思ってしまう。ここのところこそが、ブラームスという作曲家を知れば知るほど五里霧中となってしまう要諦なのである。なにか僕は彼の二重三重にはりめぐらされた用意周到な煙幕にまかれているような感覚を禁じ得ないのだ。

鎧を纏っているブラームスの生身、その本質はロマンティックどころか非常にセンティメンタルである。27歳で書いた弦楽六重奏曲第1番変ロ長調の第2楽章がその例だ。

これはなんだったか映画にも使われていた。音楽の方から映画ができてしまいそうなほど耳にまとわりつく感傷的なメロディーだ。

彼がシューマンの奥さんであるクララに好意を寄せていたことはすべての伝記作家が慎ましくあるいは積極的に肯定しているが、この曲やピアノ協奏曲第1番の第2楽章は、彼の好意というものがそんな淡くて生やさしいものではなかったことを物語っているように思う。この曲の最後の方、チェロが沈黙して高弦だけでひっそりとハーモニックスのような音を奏でる部分は、恋人たちが死んで魂が浄化されるかのようなイメージを僕は持つ。晩年のクラリネット五重奏曲にもそれを見るが、ワーグナーの作り物だけの愛の死などよりずっと危険なにおいがする。

そのブラームスが20歳で書いてシューマンに意見を求めたピアノソナタ第3番ヘ短調は、はじけんばかりの情熱と挑戦意欲に満ちた5楽章の大作である。アレグロ・マエストーソで開始するこのパッションは、しかし若者の雄叫びのようなどこか外形的なものだ。僕にはそう聞こえる。そして第2楽章Andante espressivo には「若き恋」という詩が冒頭に置かれている彼の本質はここにひっそりと姿を見せている。彼が本音をソナタ形式の鎧で包むという、それこそ本音の人間性を構造的に見せてしまっているという意味で、この曲はまさに若書きである。

そういう本質を見抜かれたくなく、あえて隠すための古典主義の鎧だったのかもしれない。そうだとするとなぜだろう。何を隠したかったのだろう?シューマンが亡くなってからのクララとの関係にそれを解く鍵があるのかもしれないとの指摘は多いだろう。彼の両親が結婚したとき、父親は24歳、母親は41歳だった。17歳上の姉さん女房である。思うに、彼自身がその24歳前後になったころの理想の恋人像がクララ・シューマンという14歳年上の現実の女性に一気に収斂していったということはここで指摘するまでもなく多くの人の想像や下世話な憶測をも呼んでいる。

以下、法学者、ピアニスト、音楽評論家であられた藤田晴子氏の著作を参考にさせていただいたことをお断りする。

クララの長女マリーが記したところによると、ブラームスとクララは1886年にお互いに相手からもらった手紙を返しっこしたそうだ。クララはそれを廃棄し始め、マリーが子供たちのためにそれを残してほしいと懇願して全部の廃棄は免れた。そうして残っているのだけでも約800通もある。チャイコフスキーのフォン・メック夫人のように手紙だけのつき合いとは違い、一緒に過ごした時間に交わされた生の会話はもっと重要だったろう。なにせ1853年から96年までの44年分だ。それはクララにとっては35歳から77歳までの後半生だがブラームスにとってはシューマンの尽力で楽団に登場した20歳から死ぬ前年の63歳まで、つまり作曲家としての全ての期間をカヴァーしてしまう。

ここからは私見になるが、17歳年上の女性と結婚した彼の父親は女性依存の強い人、今でいわゆるマザーコンプレックスだったのではないだろうか。そしてその家で育った息子の方も。彼はクララからお金持ちのお嫁さんを早くもらいなさいと母親のように言われており、間にすきま風が吹いていた期間も何度かある。クララの娘に恋情をいだいたこともある。それでも彼は生涯にわたって新作をクララに送って意見、批判を仰ぐことをやめていない。「作曲家ブラームス」は精神的にクララに依存していたといって間違いではないだろう。彼が同時代の他人に、後世に、決して知らしめたくなかったことはそれに関わることではないかと思うのだ。

晩年のクララが音楽的に頑固な保守主義者となり、ワーグナーやリストに背を向けたという事実は注目に値する。それはブラームスという後継者が現れたことを心から喜び、それを広く紹介してから世を去っていった夫ロベルト・シューマンの音楽の敷いた路線でもある。その夫の音楽を各地で演奏して広めていくという献身的な活動は、クララの生涯にわたることになる。そのことをブラームスが内面においてどう受け止めていたかは大変に興味深い。その女性の精神的支配下にブラームスがあったから、彼の音楽性がロマン主義的であるにもかかわらず常に古典主義の衣装を纏い続けたという説明はもっともらしいが皮相的だろう。事はもっと深層心理的なものだ。

マザコンという言葉が奇矯に響くかもしれないが、誰しも子供時分は母親の強力な影響下にあるのが一般的だろう。それがどう残るかということであって、それは程度の問題ではないだろうか。僕の母は「男子厨房に入らず」を頑として貫徹して育ててくれた。家事能力はなしで今も家庭においては全面的に女性依存となったが、そのおかげで好きなことばかりを伸び伸びとできていっぱしに食えるようになったのだから感謝以外の言葉もない。しかし、もしそれが仕事でも女性依存となれば僕はもたない。男としての精神的基盤が崩壊してしまうだろう。

th6いくらクララが当代きっての名ピアニストではあってもシューマン未亡人ではあっても、彼女がブラームス以上の作曲家であの4つの交響曲以上のシンフォニーを書く能力があったわけではない。自己を存立させる基盤である仕事、人生をかけている作曲というものにおいてそれが女性依存に支えられたものだったかもしれないというのは僕にはとうてい信じられないが、ブラームスにおいてはそうだったのかもしれない。彼はチャイコフスキーやショパンがフォン・メック夫人やジョルジュ・サンドにもらっていたものとは違う何かかけがえのないものをクララから得ていたのだと思う。1896年、77歳で彼女が亡くなった翌年、ブラームスも後を追うように世を去った。63歳だった。

ピアノ協奏曲第1番 ニ短調作品15はシューマンが亡くなった翌年、ブラームス24歳の大作だ。父親が結婚した年齢である。ブラームスはクララへの手紙でその第2楽章アダージョについて、「あなたの穏やかな肖像画を描きたいと思って書いた」 と綴っている。これは音楽のラヴレターにほかならない。秋の夜長、じっくりとお聴きいただきたい。

・・・・

ピアノ協奏曲第1番ニ短調ニ短調作品15

ブラームスが24才で書いた最初のピアノ協奏曲である。ご参考までに、大作曲家たちが最初のピアノ協奏曲を書いた年齢はおおよそこのようになる。

モーツァルト11、メンデルスゾーン13、ラフマニノフ18、ショパン20、プロコフィエフ21、サンサーンス23、グリーグ24、リスト24、ウエーバー24、ベートーベン25、ショスタコーヴィチ27、ガーシュイン27、シューマン31(完成稿)、フンメル33、ハチャトリアン33、チャイコフスキー35、ドヴォルザーク35、バルトーク45、ラヴェル55

ブラームスは比較的若くに随分重い曲を書いたものだと思う。交響曲を書こうとしてベートーベンの壁に当たり、2台のピアノのソナタが発展してこの協奏曲になったとするのが通説だ。壁の存在は第1交響曲を書くまでの年数が明らかにしているわけで事実だが、それとともに影響したのはクララの存在の重みではないか。

そう思いあたったのはロンドンに赴任して間もないころ、ロイヤルフェスティバルホールでのことだった。スティーヴン・ビショップ・コヴァセヴィッチのピアノが何かを訴えかけ、アンタール・ドラティの伴奏に何かを見た。そういうことというのは音楽鑑賞においてそうあるわけではないが、そのとき僕は1番を初めて知った。

その前か後にやった交響曲第1番は残念ながらちっとも覚えがなくて、これだけが残っている。ドラティという大指揮者を聴いたのはその一度だけなのだけれど、あの演奏は不思議な律動があって、それが自分の奥底に響き、記憶に焼きついている。ひょっとして1番には若いブラームスの恋の熱でも封じ込められていて、やる方も聴く方もそれに共振できるかどうかなんじゃないかと思ったりもした。

これが第2楽章のピアノの入りだ。第1楽章の入りも憂いと慕情に満ちているが、これは自分で弾いたらわかる。恋してない男が書けるものではない(第1ピアノのほう)。

brahmsPC1

もうひとつ、非常に印象的なシーンがこれだ。終楽章のコーダの入り、ホルンが期待と憧れに満ちた上昇音型をppで吹く。それが木管に広がり、最後はフルートが受け取って感動的な至福の場面をつくる。

brahmsPC2

交響曲第1番の第4楽章に出てくるアルペンホルンを模したホルンの主題は、クララの誕生日を祝う手紙の中で「高い山から、深い谷から、君に何千回も挨拶しよう」という歌詞が付けられている。ラブレターなのだ。そして読者はその場面で、ホルン主題をフルートが受け取ることをご存じのはずだ。

 

名曲ゆえおすすめCDは数多あるが、①意外に女性が弾いてない②名手でもミスタッチのまま録音をOKしているケースが多い、ことで不思議な曲だ。要は技術的に難しいのだろうが、もっとそうである2番は女性がけっこう弾いている。テンペラメントの問題なのだろうか。

 

アルトゥール・ルービンシュタイン / ズビン・メータ / イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団

941ルービンシュタイン(1887-1982)の1976年の録音だ。24才の恋の曲と書きながらなぜ89才のピアニストの演奏なのか?聴いていただくしかない。僕の父も91で達者至極だが、記憶力はともかくこの指の回りはイメージできない。終楽章コーダはさすがに苦しいが、だからこそメータもオケも深い敬意をもって老ピアニストを支えているのがわかる。ルービンシュタインというと何とかの一つ覚えでショパンとなるが、彼自身は好きな作曲家はときかれ、ブラームスと答えている。

 

ジュリアス・カッチェン /  ピエール・モントゥー / ロンドン交響楽団

41DNVH0H64Lピアノの素晴らしさでは僕はこれがいちばんと思う。どこがどうではなく、こういうものだという感じを最も受ける。モントゥー(1875-1964)84才の録音だ。モントゥーによると、ブラームスはウィーンで彼がヴァイオリンを弾く自作の弦楽四重奏を聴き、「私の音楽をうまく弾くのはフランス人なんだね。ドイツ人はみんな重すぎてだめだ。」と言ったそうだ。モントゥーというとこれまたフランス物となっているが、彼自身は最も敬愛する作曲家はときかれ、ブラームスと答えている。

 

ウイルヘルム・ケンプ / フランツ・コンヴィチュニー / シュターツカペレ・ドレスデン

POCG-90123ゆっくりと始まる。ピアノを導くオケの律動は誠に見事。上記2盤にない古色蒼然たるドイツの味わいをコンヴィチュニーが存分に聴かせて魅力が尽きない。ホルンや木管を聴いてほしい。このオケはもはやこういう音はしないが、法隆寺を近代建築法で改装するような愚をなぜ犯したのか理解に苦しむ。ケンプのピアノは時にメカニックの弱さを感じることがあるがここでは立派で、第2楽章は誠に滋味あふれる名演だ。良い1番を聴いたという充足感がずっしりと残る。

 

ラドゥ・ルプー  /  エド・デ・ワールト / ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

uccd-4561_rPH_extralarge出だしのオケの序奏部から彫が深く引き込まれる。理想的なテンションとテンポ、こくのあるティンパニ、この著名な録音、ピアノニストばかり誉められるが指揮の方もこのまま交響曲をやって欲しいほどで全録音中でもトップクラス。僕はこれが一番好きだ。そこにそっと寄り添ってくるルプーのデリケートなピアノ、この剛毅と抒情の対照は実に捨てがたく、この曲の本質を見事についている。ルプーはモーツァルトの17番k.453をフィラデルフィアで聴いたが、第2楽章のppなどライブでもこういう音がしたのを思い出す。

 

ルドルフ・ゼルキン / ジョージ・セル / クリーブランド管弦楽団

71fhCaNeR7L__SL1077_入試合格直前の74年11月末に1、2番の入ったLP(右のジャケットだった)を買って熱中していたが、これで落ちたら馬鹿の余裕だったからいい度胸だった。久しぶりに聴きかえし、各所でああなるほどこれだったとひざを打つ。2番で書いた通り、オケが楷書的で2台ピアノ版を想起させるほど競奏の味わいに満つ。オン気味に録られたゼルキンの技は切れているが上記②のミスタッチはあってなぜかそのままだ(終楽章冒頭など)。セルの指揮はアンサンブルの精度に絶句。こんなに研ぎ澄まされたオケの音はもうどこからも聞けない。襟を正して聴くしかない、立派の極致。

 

伊藤恵 / 朝比奈隆 / 新日本フィルハーモニー交響楽団

asahinaなにやら指揮者の気迫のこもったものものしい開始。どっしりした重心の低いオケがたっぷりしたテンポでロマンティックに歌いこむ。大変にブラームスにふさわしく絶賛したい。そしてひそやかに入ってくる伊藤のピアノがやがて高揚し、オケに添ってバスを効かせつつもロマンの味をたっぷり湛える。朝比奈が「伊藤君は男ですから」と冗談めかして誉めたピアノは心のひだをとらえて本当に素晴らしい。男と並べても当曲ナンバーワンクラスの名演であり、ライブの熱さもあり、僕はこのCDが大好きである。

 

ヤコブ・ギンペル/ ルドルフ・ケンペ / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

ginpel昼休みだった。会社の裏通りをなにくれとなく歩いて鄙びた雑貨屋にふらっと入った。そこにこれが、捨てられたようにあった。17.95マルクの安売り。その時の喜びったらない、今でもはっきり覚えてるぐらいなんだから。94年あたり、フランクフルトでのことだ。欲しいと思っていたディスクだった。聴いてみるとなんとも硬派だ。これがドイツのブラームスでなくてなんだろう。ケンペとBPOのごつごつ角ばった音作り、ホルンの重い音。白眉の第2楽章は遅めのテンポでロマンを語りぬく。昔の恋の述懐のようだがギンペルのピアノは媚のかけらもなく硬質で辛口。それゆえに上記楽譜のホルンの上昇音型がなんと感動的に響くものか!男のブラームス。音楽は弾く者の人生を語るのだ。ごつごつした木目もあらわな千年杉の一刀彫のような風情。僕はこのCDに浸るのが無上の喜びだ。きれいに表面の整ったつるつるのプラスチックみたいな現代の演奏。テクニックがどうの、ミスなく弾くことがどうのなどくそくらえである。

 

 

 

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クラシック徒然草-秋に聴きたいクラシック-

2014 OCT 5 12:12:43 pm by 東 賢太郎

以前、春はラヴェル、秋にはブラームスと書きました。音楽のイメージというのは人により様々ですから一概には言えませんが、清少納言の「春はあけぼの」流独断で行くなら僕の場合やっぱり 「秋はブラームス」 となるのです。

ブラームスが本格的に好きになったのは6年住んだロンドン時代です。留学以前、日本にいた頃、本当にわかっていたのは交響曲の1番とピアノ協奏曲の2番ぐらいで、あとはそこまでつかめていませんでした。ところが英国に行って、一日一日どんどん暗くなってくるあの秋を知ると、とにかくぴたっと合うんですね、ブラームスが・・・。それからもう一気でした。

いちばん聴いていたのが交響曲の4番で毎日のようにかけており、2歳の長女が覚えてしまって第1楽章をピアノで弾くときゃっきゃいって喜んでくれました。当時は休日の午後は「4番+ボルドーの赤+ブルースティルトン」というのが定番でありました。加えてパイプ、葉巻もありました。男の至福の時が約束されます、この組み合わせ。今はちなみに新潟県立大学の青木先生に送っていただいた「呼友」大吟醸になっていますが、これも合いますね、最高です。ブラームスは室内楽が名曲ぞろいで、どれも秋の夜長にぴったりです。これからぼちぼちご紹介して参ります。

クラシック徒然草-ブラームスを聴こう-

英国の大作曲家エドワード・エルガーを忘れるわけにはいきません。「威風堂々」や「愛の挨拶」しかご存じない方はチェロ協奏曲ホ短調作品85をぜひ聴いてみて下さい。ブラームスが書いてくれなかった溜飲を下げる名曲中の名曲です。エニグマ変奏曲、2曲の交響曲、ヴァイオリン協奏曲、ちょっと渋いですがこれも大人の男の音楽ですね。秋の昼下がり、こっちはハイランドのスコッチが合うんです。英国音楽はマイナーですが、それはそれで実に奥の深い広がりがあります。気候の近い北欧、それもシベリウスの世界に接近した辛口のものもあり、スコッチならブローラを思わせます。ブラームスに近いエルガーが最も渋くない方です。

シューマンにもチェロ協奏曲イ短調作品129があります。最晩年で精神を病んだ1850年の作曲であり生前に演奏されなかったと思われるため不完全な作品の印象を持たれますが、第3番のライン交響曲だって同じ50年の作なのです。僕はこれが大好きで、やっぱり10-11月になるとどうしても取り出す曲ですね。これはラインヘッセンのトロッケン・ベーレンアウスレーゼがぴったりです。

リヒャルト・ワーグナーにはジークフリート牧歌があります。これは妻コジマへのクリスマスプレゼントとして作曲され、ルツェルンのトリープシェンの自宅の階段で演奏されました。滋味あふれる名曲であります。スイス駐在時代にルツェルンは仕事や休暇で何回も訪れ、ワーグナーの家も行きましたし教会で後輩の結婚式の仲人をしたりもしました。秋の頃は湖に映える紅葉が絶景でこの曲を聴くとそれが目に浮かびます。これはスイスの名ワインであるデザレーでいきたいですね。

フランスではガブリエル・フォーレピアノ五重奏曲第2番ハ短調作品115でしょう。晩秋の午後の陽だまりの空気を思わせる第1楽章、枯葉が舞い散るような第2楽章、夢のなかで人生の秋を想うようなアンダンテ、北風が夢をさまし覚醒がおとずれる終楽章、何とも素晴らしい音楽です。これは辛口のバーガンディの白しかないですね。ドビッシーフルートとビオラとハープのためのソナタ、この幻想的な音楽にも僕は晩秋の夕暮れやおぼろ月夜を想います。これはきりっと冷えたシェリーなんか実によろしいですねえ。

どうしてなかなかヴィヴァルディの四季が出てこないの?忘れているわけではありませんが、あの「秋」は穀物を収穫する喜びの秋なんですね、だから春夏秋冬のなかでも音楽が飛び切り明るくてリズミックで元気が良い。僕の秋のイメージとは違うんです。いやいや、日本でも目黒のサンマや松茸狩りのニュースは元気でますし寿司ネタも充実しますしね、おかしくはないんですが、音楽が食べ物中心になってしまうというのがバラエティ番組みたいで・・・。

そう、こういうのが秋には望ましいというのが僕の感覚なんですね。ロシア人チャイコフスキーの「四季」から「10月」です。

しかし同じロシア人でもこういう人もいます。アレクサンダー・グラズノフの「四季」から「秋」です。これはヴィヴァルディ派ですね。この部分は有名なので聴いたことのある方も多いのでは。

けっきょく、人間にはいろいろあって、「いよいよ秋」と思うか「もう秋」と思うかですね。グラズノフをのぞけばやっぱり北緯の高い方の作曲家は「もう秋」派が多いように思うのです。

シューマンのライン、地中海音楽めぐりなどの稿にて音楽は気候風土を反映していると書きましたがここでもそれを感じます。ですから演奏する方もそれを感じながらやらなくてはいけない、これは絶対ですね。夏のノリでばりばり弾いたブラームスの弦楽五重奏曲なんて、どんなにうまかろうが聴く気にもなりません。

ドビッシーがフランス人しか弾けないかというと、そんなことはありません。国籍や育ちが問題なのではなく、演奏家の人となりがその曲のもっている「気質」(テンペラメント)に合うかどうかということ、それに尽きます。人間同士の相性が4大元素の配合具合によっているというあの感覚がまさにそれです。

フランス音楽が持っている気質に合うドイツ人演奏家が多いことは独仏文化圏を別個にイメージしている日本人にはわかりにくいのですが、気候風土のそう変わらないお隣の国ですから不思議でないというのはそこに住めばわかります。しかし白夜圏まで北上して英国や北欧の音楽となるとちょっと勝手が違う。シベリウスの音楽はまず英国ですんなりと評価されましたがドイツやイタリアでは時間がかかりました。

日本では札幌のオケがシベリウスを好んでやっている、あれは自然なことです。北欧と北海道は気候が共通するものがあるでしょうから理にかなってます。言語を介しない音楽では西洋人、東洋人のちがいよりその方が大きいですから、僕はシベリウスならナポリのサンタ・チェチーリア国立管弦楽団よりは札幌交響楽団で聴きたいですね。

九州のオケに出来ないということではありません。南の人でも北のテンペラメントの人はいます。合うか合わないかという「理」はあっても、どこの誰がそうかという理屈はありません。たとえば中井正子さんのラヴェルを聴いてみましたが、そんじょそこらのフランス人よりいいですね。クラシック音楽を聴く楽しみというのは実に奥が深いものです。

 

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クラシック徒然草-悲愴ソナタとショパン-

2014 SEP 21 1:01:40 am by 東 賢太郎

 

悲愴ソナタのアダージョ・カンタービレが、一か月の空白状態で乾ききった心に昨日すっとしみいってきた。これは言うまでもなくベートーベンの書いた名旋律だ。ビリー・ジョエルがThis Nightでパクっているほど。

弾いてみるものだ。いろいろ気がついた。まずこれだ。

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ここに来て、あれっと思った。ショパンの前奏曲作品28 のホ短調( No.4)じゃないか。こういうのは目や耳じゃなく指が見つける。

ここにだって、 エチュード第3番 「別れの曲」が見え隠れする。

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そうだろう、ショパンがこのソナタを知らなかったはずはない。その2曲はこのアダージョの子供みたいなものではないか。

この冒頭の第3小節の4つ目の8分音符、このシ♭をショパンはどう弾いたのだろう?

何故そんなことを考えるかというと、目をつぶって弾いていて僕はどうしても、そのシ♭にルバートをかけたい誘惑にかられてしまうことに気がついたからだ。理由はない。単に感覚的に。しかし正統派のピアノの先生はおそらくそれを戒めるだろう。これはドイツ音楽だ、ショパンじゃないと。確かに、僕が最も敬愛するバックハウスはルバートがないのだ。

この楽章を甘く、ロマンティックに弾くことは僕も反対だ。この旋律は4小節+4小節をひとフレーズとして西洋音楽の規範通りに書かれている。素晴らしい古典の均整と格調がある。それを壊してはいけない。しかし、である。第4小節の4拍目でメロディーラインのミ♭が半音上がる。バスもミ♭なのに!これが不協和音に聴こえないのは対位法的な音楽でないからだ。弦楽四重奏の譜面の様に見えるが、これは歌謡性の高い、メロディー(歌)と伴奏というピアノ的なものである。

第3,4小節とも、4拍目にサプライズが仕掛けられている。この意外性!

そして第5小節だ。A♭⇒F7 というベートーベンが好きな3度転調がやってくる。そこからバスは4度の上昇を3回重ねてトニックの変イ長調に回帰する。この意外性!

こういう目に見えない巨匠の意匠に目が向かないようであれば、僕はその人の芸術家としての資質を疑うしかない。ベートーベンはそれに気づいてくれる人に向けて音楽を書いている。それに気づいたというサインがテンポ・ルバートになるのであれば、それに気づいた聴衆にしかとキャッチされることになり、そのことをベートーベンが戒めることはないと思う。ピアノの先生がどう言おうと。

このアダージョはバッハの最上の音楽にだけある、澄み切った抒情に満ちている。しかし、それでいて宗教音楽ではない。教会を出た人間の音楽である。繊細に神経に触れてくる和声の色合い!これに魂が敏感に感じ、深く呼吸し、反応しなくて何があろう。

僕のまったくの空想であるが、ショパンはもちろんルバートし、そこからああいう曲想を得ていったと思う。彼の曲の和声の精妙さ。あんな音楽を書く人がこれを見逃したはずはない。第3小節でa♭、g、f と下がったバスがオクターヴ上がり、次のe♭が今度はオクターヴ下がる。こういうところもショパンにエコーしている。もちろんこれは前述の e♭と e♮ の不協和音を隠すためだ。

ところがである。残念ながらほとんどのピアニストがこれをほぼインテンポで弾く。ポリーニなどメトロノームのようで、彼は一体この楽譜に何を読んでいるのか、まったくもって信じ難い。ケンプもさらさらと小川のように流れてしまう。ぜんぜん魅力がない。一方で、何人かの人が僕の思うようにやってくれている。シュナーベル、リヒテル、ギレリス、アラウ、ホロヴィッツ、リルなど。

僕が何が言いたいかはこのギレリスの大家の芸で味わっていただきたい。シ♭のルバートはほんのかすか。しかしそれがまったく自然で、魂を天空に放つようにひっそりと、ふわっと宙に広がる。こういうところにピアニストの真の技量が出る。

ギレリスは録音が数種類あるがどれも似ている。唯一、後半のトリプレット(三連符)を強めにスタッカート気味にするのがやや僕は趣味に合わないが、それをのぞけばこの1968年12月モスクワライブは全曲にわたって名演である。もうひとつ、イギリスのジョン・リル。彼はチャイコフスキーコンクール優勝者だが僕は独墺系を評価している。これはもっと沈静感があり深い安息にひたれる。旋律の深い呼吸と間(ま)をよく聴いていただきたい。

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

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クラシック徒然草-1か月ぶり弾いたベートーベン-

2014 SEP 19 22:22:19 pm by 東 賢太郎

 

僕の唯一の迷信

これが当たったのか来週に大きなプレゼンテーションの予定が入り、今週は準備でちょっと気が立っていました。ところがそういう時に限っていろんなことがバタバタとおこって、音楽など聞く気にもなりません。

グローフェを書いてからだから今月は音楽断ちの異例事態でした。

今日帰ってきて、何の気もなくネットを見ていたら、ゾウの前で男性がピアノを弾いている映像が出てきて、つい見てしまいました。

ゾウはあまり反応してなくてつまらないのですが、彼が弾いていたのがベートーベンの悲愴ソナタの第2楽章でした。

これがゾウよりも僕に響きました。

そういえばピアノは1か月ぐらい触ってもいません。まずいもうだめかもしれない。昨日の英語の件もあったものですから。

楽譜を引っぱりだしてそれを弾きました。1時間ぐらい。

これは初めてでしたが、もう最高。満足です。高貴という言葉しかうかびません。

 

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クラシック徒然草-破格のピアニスト、H. J. リム賛-

2014 AUG 31 1:01:41 am by 東 賢太郎

先日、ベートーベンの18番のソナタのブログを書いていて、最近の演奏家はどうかなとyoutubeをのぞいていて初めてこの人を知った。この18番、尋常ではないものがあり、勢いに乗ってスパークするかと思えばすっと力を抜いて息をついたりする。中でも第1楽章の終わりをpにする版で弾いているのが気になった。

誰も知らない24歳がいきなりベートーベンを全部録音するというのはまったく破天荒である。ところが、調べるともう一枚ではラヴェルを弾いているではないか。こうなると僕としては聴かないわけにはいかない。そこで金曜日にベートーベンの2枚(5,6,7,16,17,18,28番)、それからラヴェルとスクリャービンの入ったCDを買って帰った。

雑誌や評論のようなものは一切読まないので、ピアノ愛好家で知らなかったのは僕だけのようだ。調べるとこうあった。

12歳で韓国から単身フランスに留学、パリ国立高等音楽院ではアンリ・バルダ教授に師事し首席で卒業。韓国の家族に演奏を見せるためにyoutubeに動画をアップしたところ、たちまちネットユーザーからの熱い支持を受け注目を集める。2011EMIクラシックスと専属契約し、昨年ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集(8枚組)で異例のCDデビュー。同CDは、発売後、全米ビルボード・クラシック・チャートの1位を獲得し、ニューヨーク・タイムズや英テレグラフ紙でも高い評価を得た。

いよいよネット時代の申し子みたいな人が出てきた。コンクールで優勝なんかしなくても、ネット検索数が多ければ天下のEMIがCDにしてくれるのだ。そんなことはクラシック業界史上初である。リムは「ベートーヴェンのことは、考えると眠れなくなるほど好きでたまりません」と言っているが、好きかどうかより伝統流儀に長けた人がコンクールを通る。僕は流儀は立派でも心酔していない人より、眠れなくなるほど好きな人に弾いてほしい。彼女自身が自分の考えで数曲ずつグルーピングしていてその意味はよくわからないが、大事なのは「この曲が好き」という人が弾くことだ。御託はどうでもいい。「ラヴェルは子どもの悪夢とか妖精、ファンタジーの世界」とも言っている。そうもいえるが、それだけではない。でもそういうことは彼女はこれから見つけていくだろう。

僕はこのベートーベンは好きだ。御託に塗り固まったクラシックの殿堂をバズーカ砲でぶちこわしてくれて実に気持ちがいい。全部聴いてみたくなった。この「全部弾いてしまう」というのが特にいい。この奔放さは若い頃のアルゲリッチを思い出すが、彼女は選曲については決して奔放ではない。ところがこのリムは自分の信念と流儀で全曲をねじふせてしまっている。それが我流に聴こえないというところが最大のポイントである。テンポは総じて速いが、それに確信を持って弾いているのがわかるからタッチの浅い音があっても軽卒に聞こえない。

つまり、自説に絶対の自信があってオーラがある人がやるプレゼンなのだ。半年後の株式相場など誰もわからないが、話をきくやぐいぐい引き込まれて、なるほど確かに相場は上がるんだろうと全員が思わされてしまうスピーチのようなものだ。そういう人の話は、たとえちょっとぐらいのキズがあっても誰も気にしない。ところが用意した紙を読み上げるだけのスピーチだと、たちまち攻撃されて撃沈されてしまう。僕は仕事上そういうものをたくさん見てきているが、音楽の演奏でそんなことを連想するのは初めてである。

僕はピアニストでないが、聴衆として聴きたい音という観点からすると、彼女のピアノは非常にうまいと思う。これはラヴェルでわかる。こんな技術があるからベートーベンの難所を軽々となぎ倒していて痛快でもあるのだ。そういう部分が難しげに、あたかもピアノとの闘争みたいに弾かれると「ああベートーベンらしい」と思うように僕らは慣らされてきていて、それが御託の壁を高々と築いているとさえ思ってしまう。

彼女のテンペラメントは「ラヴァルスをこういう風に弾く人」ということで僕の中では一応規定されている。今の所。ベートーベンもそういう風に弾いているとみている。それが特に好きではないが、技術がないとそんなことはやりたくてもできないのだからどんどん思うことをやったらいい。彼女が「クープランの墓」を弾いても好きにならない可能性は感じつつも、25歳の彼女こそクラシック音楽の虚構をぶち壊そうに書いたことを「する」側からやってくれそうな人だ。だから好きである。

 

(追記)

この平均律第1集はたまげた。ハ長調前奏曲、なんだこれは?フーガは主題がやたらと浮き上がって対位法に聞こえない。しかし、だんだんと彼女のペースにハマり、耳が慣れ、これはグールド以来の名演じゃないかと思えてくる。とにかくうまいのだ。このテンポでこれだけ闊達に弾けるということ自体半端なことではなくラフマニノフ3番もブラームス2番も、要は何でもできる人だなあと思っていたが、バッハをこれだけ弾ければこそだ。何でも弾けることが価値ではなく、そのどれもがユニークであることが驚くべきことだ。大変な才能であり僕はこの破格の平均律を心から楽しんでいる。

 

 

 

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