「クラシック徒然草」カテゴリーの創設について
2015 MAR 9 23:23:15 pm by 東 賢太郎
SMCをスタートしてちょうど2年半になりました。僕のブログ投稿数は926で総訪問件数が約28万8千なので、いちブログ当たり310件のアクセスをいただいています。929のうち320(35%)がクラシック音楽 のカテゴリーです。残りの65%は徒然に (28%)、野球 (14%)、若者に教えたいこと (12%)、 自分について (10%)、経済 (7%)などとなっており、徐々に本業の「経済」をご認知いただきバランスは良くなってきました。
クラシック音楽 の約半分は「作品タイトルのブログ」で、Google、Yahooで「作品名だけ」から検索できます。「プロコフィエフ交響曲第3番」のようなレアな作品で1位にあるのはわかりますが、「ベートーベン ピアノソナタ第18番」や「モーツァルトピアノ協奏曲第20番」や「同25番」という天下のど真ん中の名曲で検索して1頁目にあるというのは大変に光栄なことです。タイトルで書くのは勇気がいりますし、疲れますが・・・。
その点、「ベートーベン交響曲第X番の名演」シリーズはタイトルブログではないので気楽です。ですが、第2、4番以外は1-2頁にあり、特に第8番がトップ、第9番がトップ頁にあるのはうれしいことで、ネタ元のベートーベン様とお読みいただいた皆様に心より感謝申し上げます。しかしこのシリーズはたまたまの企画であって、ベートーベンの9曲のタイトルブログはまだ1曲も書いていないということです。書くにはまだ力不足、曲の理解不足なのです。
僕はCDのおすすめを書くのはあまり気が進みません。誰かのおすすめ盤を買ってみて良かった記憶があまりないからです。だから手当たり次第に自分で聴くしかなく、LP、CDの倉庫部屋が必要になってしまいました。あいかわらず大量に買って聴いてますからもう1万枚は超えているでしょう。そうして一枚一枚、聴いた印象をこまめに日記に書いて記憶に焼きつけてきた結果として今があるということは確かです。
とはいえ相手の趣味を知ることなく不特定多数に向けてお気に召すCDをお薦めするのはそもそも無理です。高いワインなんだからおいしくて当たり前でしょと押し売りしたり権威主義を振りかざすのはいやなので、自分の趣味と個性をカミングアウトして、それを参考にご自分の趣味を作っていいただきたいと願っています。それこそ耳の肥えた聴き手になる王道ではないかと信じているからです。
僕はブラームスの4番を気になる指揮者の演奏は全部聴いてます。94年にカルロス・クライバーを聴きにベルリンに飛んだのは彼ではなく彼の4番を聴きに行ったのです。第1楽章は自分の手でピアノで弾いてもみたしシンセで自分バージョンまでMIDI録音しましたがそれでもどういう音楽かまだよくわからない。だから4番の録音は111枚持っていますが僕はコレクターでも何でもなく、期待外れが続いた残骸が貯まっているだけです。全部捨ててもいいのです。
まず、この状態で4番のタイトルブログを書こうという蛮勇はなく、書かないで人生が終わるかもしれないのはベートーベンの9曲も同じです。ブラームスの1番はタイトルで書いてしまいましたが今読むと軽卒で、これは書きなおさなくてはなりません。シューマンの3番を楽章ごとに書きましたが、あのぐらいのdensityで書かなければ「作品タイトル」でブログを書くのは不遜だし、作曲家への不敬罪になるでしょう。
畢竟、作品を深く理解していない人のおすすめは読書感想文だと僕自身が思いますからあんまり書きたくないのです。そういうものをお読みになる時間があるならyoutubeで片っ端からいろんな人の演奏を自分の耳で制覇していった方がコストもかからないし、今後の人生の愉しみが増すでしょう。好きな寿司屋があればそれがミシュランで星があろうがどうだろうが気にはならないでしょう。
そして、そういう聴き方を志される方は音楽そのものの方をよく知っていたほうがいいのです。これはロマン性の高い解釈だのカラヤン風のスマートな演奏だなどのという類の文学的な修辞は、そう思えるようになったところで客観性のないふわふわした評価にすぎません。カラヤン風ではない演奏を聴いたときにどうなのかという判断はつきません。それより4番のどこが聴きどころかを知っていた方がいい。ご自分のお好きなところでいいです。そういう定点観測ができるようになって初めて自分で吟味ができます。
タイトルブログは自分史なので「聴きどころ」をお示ししようという配慮はしていません。ただ僕も単なる趣味人であって専門家しかわからない作曲の奥義に感動するわけではありません。あくまで耳で聴いて面白いものを書いていますからたぶん子供でも聴けばわかります。文学的修辞、衒学的まやかし、文科省ご推薦的色彩を一切排した「実証主義的」なものになっているのは、僕自身が仕事や受験勉強でそれ以外は世の中であんまり役に立たないことを経験しているからです。
ということで、タイトルブログは僕のライフワークです。これが全部Google、Yahooの上位に来たら満足だし、作品は1000年でも確実に残るのだから僕のも永く読んでいただけるだろうとコバンザメを狙っています。ただ良い物を書くには充分な楽譜への理解と、曲への深い愛情の再確認と、そうしたいという心の熟する時間が必要です。みっともないコバンザメはしたくないというささやかなこだわりです。
ベートーベン交響曲シリーズの予想外の人気を見て、世の中には利害関係ぬきの客観的コメントやセカンドオピニオンへのニーズがあるように感じました。1万枚聴いての聴後感を日記からいくらでも転写可能ですが、あまり社会的意義があるとも思わないので書くなら特に良い物と悪い物ぐらいでしょうか。やがて認知症になってみんな忘れてしまったら生きた甲斐もないので面白いと思ったものを書くことにします。
それも含めて、「タイトルブログ以外」は「クラシック徒然草」というカテゴリーで書くことに決めました。その方が皆さんにバックナンバーを検索していただきやすくなるからです。「演奏会の感想」「僕が聴いた名演奏家たち」のように別なカテゴリーとして括っていないものは全部そこに入れます。現在のバックナンバーで、自分ではとても愛着のあるブログがあんまり読まれていないという残念なケースがあり、これで多くの皆さんの目に触れれば幸いです。
残すために書いているのですべてのバックナンバーを適時書き換えたり、書き加えたり、アップデートしたりしています。「改訂済み」とはいちいち書きませんが、ご参考のCDも後で聴いていいと思ったものは追加していくつもりです。
______クラシック徒然草 (79)
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クラシック徒然草-カティア・ブニアティシヴィリ恐るべし-
2015 JAN 31 18:18:44 pm by 東 賢太郎
先日、ラヴェルのマ・メール・ロワを書きながらyoutubeを見ていたら、こんな演奏にあたった。ラヴェル 「マ・メール・ロワ」 の最初の楽譜(第3曲 「パゴダの女王レドロネット」)を見ていただきたい。
とても速いテンポで始まる。それが中間部に入るや第二ピアノの女性がすごいブレーキを踏んで、完全に集中して自分のペースに持ち込んでしまう。相手はいまやピアノ界の大御所、天下のマルタ・アルゲリッチ様である。この女性は何者だ?
関東の女性の方からボレロについてメールをいただいたと書いたが、そこに「グルジア人でKhatia Buniatishviliという現在27才の大変美しいピアニストがいます」とあった。まったくの偶然だが、タイトルを見てみるとこの第二ピアノの女性こそがまさにそのカティア・ブニアティシヴィリだった。
さっそく他の演奏を聴いてみる。このブラームスの第2協奏曲には仰天した。見事に曲想をつかんで弾けている。しかし第2楽章で同じミスタッチを何度もする。圧巻は終楽章のコーダに移る部分。完全な記憶違いで音楽が止まってしまい会場が凍りつく。本人も驚いてすぐ弾きはじめるが、大事な経過句をぶっとばしたかなり先だ。オケがついていけずしばし独奏状態となるが、やがて事なきを得て終わる。
なんともおてんば娘だが、それでも満場の喝采をうけ、オケも祝福している。これは彼女21歳のルビンシュタイン国際コンクールの映像で、第3位に入賞している。いや、その年でこの曲を弾けているだけでも普通じゃない。そして大チョンボをしでかしても周囲を応援団にしてしまう。この子はものすごいオーラを持って生まれている。
このシューマン、かなり恣意的だが説き伏せられる。終楽章のテンポなど僕は容認できないが、頭はそう思っても最後は拍手している。そしてアンコールのリストを聴いてほしい。指揮者もオーケストラ団員も一人残らず彼女の世界に引きずりこまれ、息をひそめて彼女の「聴衆」になってしまっている。こんな光景はなかなかない。
このグリーグは参った、降参。これは男には描けない究極のフェミニンな世界だ。それにこんな風に視線を送られたら指揮者も彼女に指揮されてしまうしかない。ちなみにこの指揮者はここで絶賛したトゥガン・ソヒエフだ( N響 トゥガン・ソヒエフを聴く)。彼も彼女もグルジア人。スターリンを出した地ではあるが、才能の宝庫でもあり、一度行ってみたくなるばかりだ。
終楽章のコーダは傑作である。ピアノが猛スピードで突っ走って指揮者がえっという表情を浮かべ、オケのトゥッティでいったんテンポを引き戻す。しかし火がついてしまっている彼女は駆け登るアルペジオでオケより先に頂上に行きついてしまい、最後を2度くりかえして帳尻を合わせる。最後の和音連打はもう早くしてよと催促し、最後のイ音を思いっきり連打して溜飲を下げて終わる。こんなのは普通ありえないが、彼女のヴィジュアルを含めた総体が発する強烈なオーラがそれを正当化してしまい、ご愛嬌になってしまう。これはこれでひとつの芸だ。
スタジオで録音されるためのミスのない、きれいに整えることを目的としたような演奏はほんとうにつまらない。スーパーに並ぶF1のパック野菜のようだ。カティアの産地直送とりたて丸かじりはそれに対する新鮮で野性味あふれるアンチテーゼだ。少々トマトの形が不ぞろいでもいいじゃないかということで、彼女のたくさんあるミスタッチは勢いに飲みこまれている。このままだと、彼女が有名になればなるほど賛否両論が出てくるだろう。
ベートーベンにピアノを教わったチェルニーは「たとえミスタッチが無くても、義務的な気のない弾き方をすると怒られた」と書いている。逆に自発的で気の入った生徒のミスには寛容だったそうだ。そういうことだろう。上記ブラームスも、彼女は曲を良くつかみ、共感し、曲に「入ってしまっている」ことは争えない。2番を女性が苦労して弾いている危うさが全然ないのであって、じゃああのミスは何かといえば、第2楽章も第4楽章も技術不足ではなく記憶違いだ。つまりスコア・リーディングの問題である。
この破竹の勢いでモーツァルトやベートーベンを弾いて今すぐ世界を納得させられるかというと疑問だが、スコア・リーディングは学習と共に人間の内面の成熟にも関わることで、時間が解決するのではないか。それよりも、彼女の持っている天真爛漫さ、集中力、聴くものを金縛りにする吸引力といった、訓練によっても時間をかけても獲得できるとは限らない天性のほうを買いたい。1987年生まれの27歳、恐るべし。
(こちらもどうぞ)
クラシック徒然草-モーツァルトのピアノソナタ K330はオペラである-
ブニアティシヴィリを初めて聴く(2月18日、N響B定期、サントリーホール)
東京一と思ってる世田谷の鮨屋でのこと。ユーモアのセンス抜群の脳外科医の先生が、ちょっとほろ酔い加減で、「知ってます?大きな声じゃいえませんがね、ここのスシはね、親父がこっそり麻薬いれてるんですよ。だからときどき食いたくなって困るんです。」とわりあい大きな声でおっしゃって、親父も客も爆笑。たしかに、また来たくなる味なのだ。
今日初めて実物を見た彼女、それを思いだした。曲はシューマンのコンチェルト。ビデオで見た通りの美貌だ。たまたま同曲の画像を本稿に貼ったがひょっとしてドレスは同じものか?(すいません、女性の服はあまり見分けがつかないので)。しかし「麻薬」はそれじゃない。
満場を金縛りにするピアニッシモの威力のほうだ。
オケの一撃に続き、脱兎のごとく下るピアノの和音。クララ主題は触れればこわれるほどひっそりとデリケートに奏でる。このピアニッシモが電気みたいに痺れる。くせになる。この人、静かになるとおそくなり、大きくなるとはやくなる。その静かなところの吸引力たるや、ブラックホールみたいだ。
と思うと、最後に急にアッチェレランド(加速)してそのまんまポーンとオケにぶん投げる。オケはあらぬ速さで受け取ってしまい、早送りの画面みたいにあくせく弾く。それを楽しんでる風情だ。カデンツァもゆっくり弾きこむと思いきや、中途でいきなりトップギアが入る。テンポは常に生き物みたいに流動。こういうのは男性ピアニストがやろうものなら、お前、今日ちょっと大丈夫?っていう性質のものだ。これは僕がかつて聴いた、ボラティリティ(振幅)最大のシューマンである。
男はこういうイロジカルな情動はあんまりないし、ついてもいけない。指揮者(同じパーヴォ・ヤルヴィだ)はじっくり彼女とアイコンタクトして合わせてしまうからフレキシブルなこと称賛に値する。圧巻は第3楽章だ。ビデオも快速だがこんなのかわいいもんだ、今日のは驚天動地としか言いようもない。僕の人生で、いやもしかして人類最速のシューマンだ。仮にだが僕が指揮者だったら?ごめんなさいと棒を置いて家に帰るだろう。ピアニストが男だったら?なんじゃ、おい、それはラヴェルか、ええ加減にせいと棒を投げつけるだろう。
腕前はフォルテのタッチが荒っぽく、緩徐楽章に一音だけ変なのがあったが、まあうまい。しかしこの人をクラウディオ・アラウやユージン・イストーミンと比較はできない、女性の子宮感覚みたいなものかもしれないし、女性であってもマイラ・ヘスやアニー・フィッシャーと比べてもナンセンスだろう。伝統とか様式とか思考という言葉や概念を超越した、感性のピアノだ。
その演奏スタイルが彼女なりにビデオより格段に自由自在に操れるようになっており、手の内に入っている。なりふりかまわぬ我が路線で、現在進行形で進化しているようだからやはり恐るべしだ。しかし、魅力的なところもたくさんあったのだが、暴れ馬に結局ふり落されたまんま終わってしまった感じが残る。残念ながら不完全燃焼だった。 会場もブラボーは飛んだが僕と同じ思いの方も多かったのではないか。
そしてそおっとひそやかに始まったアンコールのドビッシー「月の光」。
したたかな女性はちゃんと自分のチャームポイントを心得ているのだ。緩急自在、伸縮自在のピアニッシモの嵐!もうシューマンは忘れ、忘我の境地に入っている自分を発見する。やっぱり麻薬にやられてしまった。
(その前後の演目、R・シュトラウスの変容とツァラトゥストラについて。後者は並みのオケだと音がだんごになって濁りがちな部分があるが、まったくなし。23パートのソロ・アンサンブルである前者は言うに及ばず、この日は良いピッチで透明感のある弦がまことに効いており、その純度が管にも伝播しているようだった。何度もしつこく書いてきたことだが、この日はコンセルトヘボウ管弦楽団のコンマスであるヴェスコ・エシュケナージがそこに座ったのだ。ヴァイオリンのみならず、弦の質感が違う。ネロ・サンティもそうだったがヤルヴィも、おそらく、そう感じているのであり、ワールドクラスの音を作ろうという強固な気構え、コミットメントが見える。本当に良い指揮者を迎えたと思う。このツァラトゥストラはかつて聴いた最高の名演であり、世界に問うてN響の名誉になるクオリティの演奏だった)
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クラシック徒然草-はい、ラヴェルはセクシーです-
2015 JAN 20 18:18:13 pm by 東 賢太郎
先日、関東にお住いの方からSMC(西室)当てに長文のメールをいただいて、拝見すると去年11月に書いたこのブログのことでした。
ずいぶん前ですが、「ボレロはセクシーですね」という女性がおられて絶句し、
『こっちはボレロとくればホルンとチェレスタにピッコロがト長調とホ長調でのっかる複調の部分が気になっている。しかし何千人に1人ぐらいしかそんなことに関心もなければ気がついてもいない』
と書いたのですが、頂戴したのはそれに対しての大変に興味深い論点を含むメールでした。それを読んで考える所がありましたので一部、要旨だけを引用させていただいて、ラヴェルについて少々書いてみたいと思います。メールには、
私もあの・・・中略・・・部分を耳を澄まして聴いてしまいます。東さんの説によると、ボレロに関して私は”何千人の一人”に入ってしまうようです。
とありました。僕の記事を見てデュランのスコアをご覧になったとも書かれていて、とてもうれしく存じます。
先般も「ブーレーズの春の祭典のトランペットに1箇所ミスがある」と、ブーレーズとトランぺッター以外誰も気がつかなかったかもしれないウルトラニッチなことを書いたら、それを探しだしてコメントを下さった方もおられ感動しました。お好きな方はそこまでこだわって聴いているということで、普通の方には別に飯のタネでもないのにずいぶんモノ好きなことと見えるでしょうが、飯より好きとは掛け値なしにそういうものだと思うのです。
ボレロの9番目の部分は倍音成分の多いフレンチホルンにパイプオルガンを模した音色を人為的に合成しようという意図だったと僕は考えております。各音に一定比を乗じたピッチでチェレスタとピッコロを配しているのでそれぞれがホルンの基音の平行移動ということになり、結果的にCとGとEとの複調になっていると思われます。ミヨーと違って複調に根拠、法則性を求めるところがとてもラヴェルだと思います。
こういう「面白い音」はマニアックに探しまくったのでたくさん知ってます。高校時代には米国の作曲家ウォルター・ピストンの書いた教科書である「管弦楽法」が座右の書であり、数学や英語の教科書などよりずっとぼろぼろになってました。これは天文で異色の恒星、バーナード星や白鳥座X-1やぎょしゃ座エプシロンの伴星について物凄く知りたいのと同質のことで、どうしてといわれても原初的に関心があるということで、僕のクラシックレパートリーは実はそういう興味から高校時代に一気にできてきたためにそういうこととは無縁のベートーベンやモーツァルトはずっと後付けなのです。
僕がSMCの発起人としてクラブを作った目的はトップページに書いてある通りですが、そのなかのいちブロガーとして音楽記事を書くきっかけはそれとは別に単純明快で、自分の読みたいものが世の中になかったからです。でもそういうのに関心がある方は何千人に一人ぐらいはいるにちがいないと信じていたので、じゃあ自分で自分の読みたかったものを書いてインターネットの力を借りてお友達を探してみようという動機でした。
こういうのはfacebookや普通のSNSには向いてません。単に昔の知り合いを集めてもこと音楽に関してはしようがないし、こんなニッチな関心事はそれが何かをきちっと説明するだけでも一苦労だからです。でも少なくともその何千人からお二人の方が素晴らしいリアクションを取ってくださった。それだけでも自信になりますし書いてきてよかったと思いました。
ただ日々の統計を見ると多くのビギナーの方も読んでくださっているようで、クラシック音楽は曲も音源も数が膨大ですからワインのビギナーといっしょで入り方をうまくしないとお金と時間の無駄も膨大になるという事実もあります。僕のテーストがいいかどうかは知りませんが、たくさんの英国人、ドイツ人の真のクラシック好きと長年話してきた常識にそってビギナーの方がすんなりと入れる方法論はあるという確信があります。学校で教えない、本にも書いてない、そういうことをお伝えするのはいちブロガーでなくSMCメンバーとしての意識です。
さて、ラヴェルがセクシーかどうか?こんなことはどこにも書いてませんからもう少しお付き合いください。メールに戻りますが、こういうご指摘がありました。
ボレロには、「大人のあか抜けた粋な色香」を強く感じます。ラヴェルは官能性を効果として最初から曲を組み立てる時に計算しているように私には思えてならないです。
これは卓見と思い、大いに考え直すところがございました。本稿はそれを書かせていただいております。
たしかにボレロはバレエとして作曲され、セビリアの酒場で踊り子がだんだん客を夢中にさせるという舞台設定だからむしろ当然にセクシーで徐々にアドレナリンが増してくる音楽でないといけません。それが目的を突き抜けて、踊り子ぬきで音だけでも興奮させるという仕掛けにまで至っているのがいかにも完全主義者ラヴェルなのですが、おっしゃるとおり、それはリズムや曲調に秘められた官能性の効果あってこそと思います。
ドビッシーの牧神や夜想曲もエロスを秘めていますがあれは醸し出された官能美であってセクシーという言葉が当てはまるほど直接的なものではないようです。ところがラヴェルは、ダフニスとクロエの「クロエの嘆願の踊り」(練習番号133)などエロティックですらあって、こんなのを海賊の前で踊ったらかえって危険だろうと心配になるほどです。「醸し出された」なんてものでなく、非常に直截的なものを音が描いている点は印象派という風情とは遠く、リストの交響詩、R・シュトラウスの描写性に近いように思います。
僕はメリザンドの歌が好きですがこれは絵にかいたような不思議ちゃんであって、わけのわからない色気がオブラートに包まれてドガやルノアールの絵のように輪郭がほんわりしてます。かたやクロエはものすごく気品があるいっぽうでものすごくあからさまにセクシーでもあってぼかしがない。音によって描く色香が100万画素ぐらいにピンポイントにクリアであって、その描き方のセンスは神経の先まで怖いぐらいに研ぎ澄まされていると感じます。
ドビッシーとラヴェルはいつも比較され並べて論じられるようですが、作曲家としての資質はまったく違うと思います。彼らが生きて共有した時代、場所、空気、文化というパレットは一緒だからそこに起因する似た部分はありますが、根本的に別々な、いってみれば会話や食事ぐらいはできても友達にはなれないふたりだったように思います。ライバルとして仲が良くなかった、ラヴェルが曲を盗まれたと被害意識を持ったなどエピソードはあるものの、それ以前にケミストリーが合ってなかったでしょう。
これは大きなテーマなのですが核心の部分をズバリといいますと、ドビッシーは徹頭徹尾、発想も感性も男性的であるのに対し、ラヴェルには女性的なものが強くあるということです(あまり下品な単語を使いたくないのでご賢察いただきたい、ラヴェルが結婚しなかった理由はベートーベンとは違うということであり、そういう説は当時から根強くあります)。
東さんはラヴェルのボレロに精緻さを強く感じていらっしゃるのかなと拝察します。
私自身、ラヴェルにドビュッシーとは異なる知的な理性を感じますし、ここがホントに大好きです。ただセクシーであるとも強く感ずるところです。
これがお二人目であり、もう絶句は卒業しました。というより、前述のようにバレエ台本からして、このセクシーであるというご意見のほうが道理なのであります。僕の方が大きく間違っていたのでした。
だから今の関心事はむしろ、どうして僕はそう感じていなかったかです。ピストン先生の教科書の影響もあるでしょうが、僕はラヴェルが自分を隠している「仮面」(知的な理性)の方に見事に引っかかってしまったのではないか。しかし、感受性の強い女性のかたはラヴェルの本性を鋭く見抜いておられたということなのかと拝察する次第です。彼の中の女性の部分は、女性のほうが騙されずに直感するのかもしれないと。
ボレロという曲は仮面が精巧で、僕だけでなく多くの人がきっと騙されてクールな仮面劇だと思って聞いていて、最後に至って興奮に満たされている自分を発見します。心の中に不可思議な矛盾が残る曲ではないでしょうか?これはアガサ・クリスティのミステリーみたいなもので、見事にトリックにひっかかってそりゃないだろと理性の方は文句を言いますが、そこまで騙されれば痛快だということになっている感じがします。
ボレロは「犯人」がわかっているので自ら聴く気はおきないのに、始まってしまうといつも同じ手管で満足させられているという憎たらしい曲です。しかしこの仮面と本性というものはラヴェルのすべての作品に、バランスこそ違え存在している個性かもしれないと思います。ドビッシーにそういう側面は感じません。真っ正直に自分の感性をぶつけて晒しています。ミステリーではなく純文学です。
「海」や「前奏曲集」を聴きたいと思う時、僕は「ドビッシー界」に分け入って彷徨ってみたいと思っていますが、それはブルックナーの森を歩いてみたいという気分と性質的にはそう変わりません。しかしラヴェルを聴く衝動というものは別物であって、万華鏡をのぞくようなもの、原理もわかっているし、実は生命という実体のない嘘の造形の美しさなんですが、それでも騙されてでも楽しんでみたい、そういう時なのです。
ラヴェルが隠しているもの。それは僕の推察ですがエロスだと思います。それを万華鏡の色彩の精巧な仮面が覆っている。万華鏡であるというのは、同じ曲がピアノでも管弦楽でもいいという所に現れます。エロスの多くを語るのは対位法ではなく非常に感覚的に発想され、極限まで磨き抜かれた和声です。ダフニスの冒頭数分、あの古代ギリシャのニンフの祭壇の神秘的ですでに官能を漂わせるアトモスフィアは精緻な管弦楽とアカペラの混成四部合唱によるものですが、ピアノで弾いてみると和声の化学作用の強さというものがよくわかります。
そして始まるダフニス、クロエの踊り。醜魁なドルコンに対比させるまでもなくエロティックであり、ちっともロマンティックでもセンチメンタルでもないのです。これはもはや到底ロマン派とは呼べない、でも印象派とも呼べない、ラヴェル的としか表現の術すらない独自の世界であって、誰もまねができない故に音楽史的に後継者が出なかったという点ではモーツァルトと同様です。
おそらくラヴェルが両親、先祖から受け継いだもののうち対極的である二面が彼の中にあって、それは彼を悩ませたかもしれないし人生を決定づけたものかもしれませんが、いずれにせよ両者の強い対立が衝動を生んで弁証法的解決としてあの音楽になった。あれは女性が書いたポルノであり、だから男には異界のエロティシズムであり、しかもそれを彼の男のほうである科学者のように怜悧な理性が脳神経外科医のような精密な手さばきで小説に仕立てた、そういう存在のように思うのです。
「両手の方のピアノ協奏曲」の第二楽章と「マ・メール・ロアの妖精の園」が大好きで、この世に かくも美しい音楽があるのかしらとも思ってしまいます。
まったく同感でございます。木管が入ってくる部分が特にお好きと書かれていますが、音を初めて出すオーボエにいきなりこんな高い音を出させるなんてアブナイですね。この部分は凍りつくほど美しい、ラヴェル好きは落涙の瞬間と思います。「マ・メール・ロアの妖精の園」は愛奏曲で、終わりの方のレードーシラーソードー ソーファーミドーシーソーは涙なくして弾けません。ここの頭にppと書いたラヴェルの言いたいことが痛いほどわかります。しかしこれはみんな女性の方のラヴェルのように思うんですが・・・。
ということで同じ感性の方がおられるんだ、人生孤独ではないと元気づけられました。こんなにニッチなことで人と人とを結び付けられるインターネットの力を感じました。最高にうれしいメールをありがとうございます。
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クラシック徒然草-ベートーベンかベートホーフンか?-
2015 JAN 20 1:01:07 am by 東 賢太郎
ギョーテとは 俺のことかと ゲーテ言い
という川柳があった。Goetheのoeの部分は唇を「ウ」の形にして「エ」と言うと似た音になるドイツ語特有の音だ。日本語にない音が入った人名、地名は困る。ギョーテは本人もびっくりだろうが、ゲーテと書いてあの人の名前ってことにしとこうよというのは妥当な解決だろう。ちなみにドイツ人にゲーテでも通じることはあった。
ゲーテほど難儀ではないのに、原語そのままのカタカナ表記でない物が一般化してしまったものがある。以下、各人の母国語発音をなるべく忠実にカタカナ化してみる(下線部にアクセントをおいて発音する)。
デビュッスィー (ドビッシー、ドビュッシー)
ハヴェール (ラヴェル、ラベル)
ヴァーグナー (ワーグナー、ワグナー)
べートホーフン (ベートーベン、ベートーヴェン)
メッスィヨン (メシアン)
ドゥヴォジャーク (ドヴォルザーク、ドボルザーク)
イクトール・ベルリューズ (エクトル・ベルリオーズ)
という具合だ。日本語風ののっぺりした発音では通じない。ベートホーフンは「フ」の後にかすかに「ェ」が聞こえるがベーが強いので書いたように発音した方が通じる。ドゥヴォジャークは「ォ」の後に短く「ㇽ」が聞こえるが日本人はruと母音が入ってしまうので表記のように発音した方がいい。まあ、米国でウォーターがワラだということだ。
ドビッシーをドビュッシーに、ベートーベンをベートーヴェンなんて書くとなんとなく気取ってもっともらしいが、ギョエテかギョーテかというどうでもいい次元の話だ。通じないことに変わりはないからあまり意味はない。
「いやあ今日のベートホーフンは良かったですね」とか「ハヴェールは何がお好きですか」なんていうとキザを通り越して気持ちが悪い。
ゲーテと同じくどれも日本人世界の「符号」にすぎないから僕は何となく使い慣れたもので行くことにしている。ストラビンスキーをストラヴィンスキーと書いてなんでベートーベンなのと思うが、昔からそうしている以外に理由はない。
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団は現在は「ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団」が正式名称で、それはわかっているのだが、僕の中ではそんなのは受け付けられない。松任谷由美って荒井由美のこと?っていう感じだ。だから頑固ですいませんがこれからもACOで行かせていただきます。
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クラシック徒然草-Harry Saitoさんのこと-
2015 JAN 16 22:22:34 pm by 東 賢太郎
驚きました。Harry Saitoさんがメンバーになられたのは知ってましたが、早や今日に投稿されるとは。それも読んでみると、大学時代に御茶ノ水のdisk union(レコード屋)に寄ってよくいっしょに輸入盤を見たと書いてあります。
実は、まったくの偶然ですが、さっき帰りにCDが欲しくなってまさにそのお茶の水のdisk union(今もある)で何枚か買ったんです。そんなによく行くわけじゃない、2か月に1回ぐらいだから奇遇です。Harryさんのブログを読んだのは帰る電車の中だったのです。なんとも深いご縁ですねえ。
そうですかフィンランディアでしたか。バルビローリのね。あれはすごくいいんですよ。昔のことはすぐ忘れちゃう性質で、だいたい都合が悪いことからなんですが、時々こういういい話も忘れちゃう。困ったもんです。
去年の忘年会で、僕の下宿へ来た時のこととか、どこで何して僕がどう言ったというようなことを見事に覚えておられるのに感服しました。タイムマシンに乗った気持ちでした。そういう方がいらしたことに本当に感謝しています。
でもバンビによく行ったのは覚えてますね。ランチもなんとなく。そこでずいぶん話しましたね。クラシックに興味ありそうだな熱心だなと思ったからだと思いますよ。そうじゃなければ僕はそんなに話ししませんから。
札幌のバーの方もそうかもしれませんがフィンランディアから入るというのはおすすめなんです。一回聴いたら覚えるし、二度と忘れないメロディでわかりやすいし、クラシックの基本である教会音楽っぽさ、そして暗さから明るさに転じて歓喜の爆発っていう定食メニューが満載だからです。そこからバッハへ行ってもベートーベンへ行ってもいいしシベリウス2番へ行ってもいい。だからこのブログにもそう書いてますクラシック入門にいいCD。
そこから今日あるのは貴君の関心と努力のたまものですね、さすがです。大学時代、いろいろな方にお会いしましたが、そういうご縁がSMCのおかげでこうして復活するのは素晴らしく、嬉しいことです。大切にしましょう。これからのブログ、楽しみに読ませていただきます。
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クラシック徒然草-ベートーベンと男性ホルモン-
2015 JAN 14 1:01:35 am by 東 賢太郎
またベートーベンですいません。年末から仕事が攻めモードにあるのです。こういうときは、どういうわけかベートーベン漬けになるのが僕の常です。理屈じゃありません、今日はカレーが食いたい、そういうノリです。
もともと彼の音楽に波長が合うというのはあります。ただ聴かないときはまったくご無沙汰にもなります。音楽のバイオリズムといいますか「**期」(ばっかりの時)というのがあって、モーツァルト期、バッハ期、ブラームス期、ラヴェル期など、今ははっきりとベートーベン期がきています。
ロンドン時代は車通勤だったので早朝から「運命」などのカセットを大音量で鳴らしながらの出社でした。証券営業というのは毎日が戦闘モードでしたから軍艦マーチのかわりですね。相乗りされていた先輩がびっくりし、その洗礼のせいでしょうかいまや大変なクラシック通になっておられる。ベートーベン・パワーです。
2010年に会社を作るとき、ロンドンまで資金集めにすっとんで行ったりの大変な日々でしたが、毎日ピアノでエロイカの始めのところをガンガン弾いてました。あれでどれだけ勇気が出たか。スコアを眺めてるだけで元気になるから漢方薬より不思議です。ベートーベン・パワーさまさまです。
モーツァルトは精神をにぎやかに、軽やかに、しなやかにはしてくれますが背中を押してくれる音楽ではありません。ブラームスはいいんですがちょっと女々しいところがまだるっこしい。バッハはああいうときは逆効果ですね、ブルックナーもそうですが敬虔な気持ちになって精神が落ち着いてしまう。チャイコフスキーは禁止です。悲愴なんかきいた日にゃロンドン?飛行機落ちたらどうすんのみたいになっちゃう。
気分を明るくしてほしいならヘンデルでもきいた方がずっといい。ワーグナーも効果あります。でも「背中押し効果」はないんです。これは古今東西、ベートーベンしかない。あくまでこれは僕の感じ方ですが、なんといっても作曲家で一番「男」を感じるのはベートーベンだからです。
それも一度どん底に落ちた男です。そこから意志の力で這い上がる。彼の人生そのものがハイリゲンシュタットの遺書からの復活だし、音楽も暗い楽章からの歓喜の爆発へ、これは株なら「底打ち」ですね。今に見てろの忠臣蔵、健さんのヤクザ物、今なら半沢直樹。倍返し、10倍返しのカタルシス解消エネルギーこそ背中押しの原動力です。
音楽語法がまたごつごつして推進力に満ちて男っぽい。悲愴ソナタ第1楽章のテーマの左手、あのオクターヴでタカタカタカの律動の興奮、ダダダダダダと歩兵の進軍みたいなワルトシュタインの出だし、凱旋将軍の帰還みたいなハンマークラヴィールの出だし。男性ホルモン、テストステロンの勢いで書いたみたいなフレーズ満載です。
冬空のような澄んだ静けさはあってもなよなよ、うじうじはかけらもなし。竹を割ったように直線的で論理的で明快でストレート。中期だけじゃない、枯れたと思われている後期だって大フーガ変ロ長調作品133、あれは女性的とはかけ離れた極北の世界で、女性作曲家が書くかもしれない作品リストの堂々最下位に位置するものでしょう。
だからベートーベンは硬派でダサくて女にモテず薄幸というイメージが強いですがあれは後世の学者の嘘でしょう。「不滅の恋人」って誰?といってすぐ10人も候補名があがってくるわけです。同時期に10人ですよ!われわれのような並の男は羨望こそあれ想像すら及ぶところでございませんこれは。実は女にもてたし完全にプレイボーイの部類です。
ピアノがうまかったのだから当然だろうとよくいわれますが、うまいというのも並みじゃない、書いたハンマークラヴィール・ソナタはその当初は彼以外の誰も弾けなかったというレベルのうまさです。ついにそれを弾けるフランツ・リストというハンガリーの男が現れ、彼はコンサートでたくさんの女性を失神させました。
テレビも映画もない時代のヴィルチュオーゾ・ピアニストは今ならロックスターです。それも彼らはビートルズ、ストーンズ級でしょう。ダサかったというのは、学者や文人が彼を神格化したいがゆえの虚構が多分にあると思います。モーツァルトに続いてこっちの神様までプレイボーじゃまずかったのです。僕はリアリストなんで、そういう嘘は徹底的にぶち壊したくなります。
だけど実際のところ、彼はどの女性とも最後はうまくいかなかった。これもダサかった派の証拠とされます。秀吉と一緒で成り上がり者の貴族女性好きでした。だからいつも身分違いの恋だった。耳のせいで会話もうまくいかなかった。でもそういうことは初めからわかっていますから、それが理由ならカノジョが10人もできるはずないんです。
あんな規格外の音楽を書く人間です。むしろ相当な「変人」でないはずはありません。それも癇癪持ちだ引っ越し魔だ程度の変人ぶりじゃぜんぜん普通すぎます。音楽から見た超人ぶりとはとてもバランスがとれない。ジョン・レノンはヨーコと素っ裸ベッドイン記者会見までするぶっ飛び男でしたがそのぐらい、それでも足りない感じすらします。
そんな、キミ、天才に向かって不敬罪だそれはなんていわれそうですね。僕は逆にそういう人こそ彼の音楽に対する不敬罪に問いたいのです。あれは普通の人間が書く曲じゃありません。だったらその人間性の方も、とてつもなく世の中の平均値からの標準偏差が大きかったと考えることこそ平均的な結論だと思うのです。
モーツァルトはその作品偏差値の高さを「スケベだった」という俗人的エピソードでうまいこと中和して平均値の人々の間で市民権を得るという複雑な回路を経て後世の人気を得ました。ところがベートーベンは中和剤の迫力がない。難聴はむしろ偏差値を高める方向に働いたのは佐村河内事件の示した通りです。
作品偏差値が90もあって中和剤なし。だったらいっそ神様にしてしまおう。そうやって「楽聖」になっちゃった。本人も唖然でしょう。あのモーツァルトが神でも聖人でも父でも母でもありません。でもそれがある意味良かった。モーツァルトは作品の方にもちゃんとしたスポットライトが当たっているように思われるからです。
ところが楽聖のほうはちょっと変なんです。三大ピアノソナタで悲愴、月光、熱情なんてくくりがあります。32のソナタでこの3つが代表だなんて思ってる音楽通はたぶん誰もいないでしょう。ハンマークラヴィールという名称も「作品101以降をそう呼べ」と出版社に指示したから最後の5曲は全部そう呼ぶべきなのになぜか作品106の名前になってる。
第14番、「月光の波に揺らぐ小舟のよう」と、この曲の千分の一も有名でない誰かが言ったというくだらない命名はもちろん作曲者の知る所でありません。マクベスの魔女の宴会の音楽だったとか幽霊が出そうだとかで「幽霊」にされちゃった不幸なピアノ三重奏曲第5番。こんな低次元の「名曲認定JISマーク」に基づいてセンセイはおろか聖人に祭り上げっている。「楽聖」はいらんから曲をちゃんと聞いてくれという彼の声が聞こえてきそうです。
つまり、神になっちゃったベートーベンにいっとき俗人界に降りていただくのはいいとして、それを作品の次元でやるのはやめてくれということがいいたい。そんなことをせずとも、「超人」であった生身の彼は間違いなく「大変人」でもあったはずなので、学者の思い入れや美学は排して素直にそれを認めてあげればいいだけです。
かれは女にモテた、だけど結婚はできなかった。どうしてでしょう。ホモだったかとんでもない性癖があったか。わかりませんが、文科省公認皇室御用達の教条主義でなく、超人にして何でもアリと包容力のあるスタンスで見るべきでしょう。そういう可能性はチャイコフスキー、ブラームス、ブルックナーなどにもあります。
僕はベートーベンの場合はそうではないと思う。なにせジョン・レノンですからね、そんなことで女が逃げるでしょうか。むしろ、だからこそ剛腕の姉さん女房あたりが押さえつけて一気に解決でしょう。ジョンはベッド記者会見につきあってくれて剛腕で賢いヨーコ・オノという女性がいたからのびのびと「超人」でいられたと思います。
女の親が反対したとか女の方がふったとかびっくりして逃げたとか、大変人ですからそういうこともあったでしょうが、あのソナタを書くパワーと情熱で押し切ればどうにでもなったと思うのです。モーツァルトみたいに庶民の娘を選べば何の問題もなかったでしょう。でも結果としてそういうことは起きなかった。
僕の空想は、彼の超絶的な「超人」ぶりにつきあえる女性がいなかったということです。意中の人はたくさんいたんですが、あとで胸に手を当てて考えるとこりゃ成田離婚だな、やっぱりやめとこうと。彼は幸せな結婚より超人であることを選んだ、というよりも、そうでなくては自殺せずに生きてきた意味がないということだったんじゃないでしょうか。
ここで思い浮かぶのはクララ・シューマンです。彼女はすごいですね。シューマンとブラームス、超人二人が参っていたんですから美貌とかそんな程度のもんじゃない。当時ハンマークラヴィール・ソナタが弾けたのはリストと彼女しかいなかったそうです。シューマンは相手の親父と裁判までして娘を勝ち取っています。
ベートーベンにはクララやヨーコが現れなかった。そういうことではないでしょうか。特にどうということもない二番手三番手だったイメージのコンスタンツェも、滅茶苦茶なモーツァルトから離れなかったというのは天才を守ったという意味で天賦の才能ですし、それに彼も満足してた。でもベートーベンはそういう男にもなれなかった。
たしかに一市民としては気の毒ですが、そのおかげで彼はいつも男性ホルモンがドライブする戦闘モードにあってああいう男気質の音楽ができたと僕は思っています。しかも聴覚の喪失でどん底の精神状態を味わってこそ、十倍返しのインパクトの曲が書けた。まさしく「人間万事塞翁が馬」だったのではないでしょうか。
「エリーゼのために」のエリーゼさんと仲睦まじい家庭でも持っていたら?
我々の知る渋面のベートーベンはいなかったのでしょう。甥っ子の面倒は熱心に見ましたからね、子育てにめざめて保育士資格とったかも。よき夫、父親という言葉は彼のバイオグラフィーに加わったでしょうがハンマークラヴィール・ソナタは書かれなかったかもしれません。リストもクララも違う運命になっていたかもしれませんね。
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クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-
2015 JAN 5 21:21:36 pm by 東 賢太郎
自分史としてクラシック演奏家について書こうと思い調べていたら、実演をきいた演奏家がもうこんなに鬼籍に入っているではないですか。
カラヤン、バーンスタイン、チェリビダッケ、オーマンディー、テンシュテット、ヨッフム、ジュリーニ、ショルティ、ドラティ、フルネ、C・クライバー、シノーポリ、H・シュタイン、ヴァント、ベルグルンド、ラインスドルフ、スタインバーグ、デュファーロ、ザンデルリンク、ベルティーニ、アロノヴィッチ、ジョルダン、グローヴズ、ヒコックス、ハンドリー、ワルベルク、ライトナー、コシュラー、R・ショウ、クライツベルグ、バルシャイ、ギレリス、リヒテル、ルドルフ・ゼルキン、ペルルミュテール、フォルデス、ラローチャ、フィルクシュニー、ミケランジェリ、ホカンソン、シュムスキー、ワイセンベルク、ラドゥ・ルプー、ヘルマン・プライ、スターン、グッリ、ブレイニン、イダ・ヘンデル、ロストロポーヴィチ、ポール・トゥルトリエ、パバロッティ、ディミトローヴァ、フィッシャー・ディスカウ、アーリン・オジェ、クルト・モル、ウィルマ・リップ、ジェシー・ノーマン、マッケラス、サヴァリッシュ、デ・ブルゴス、コリン・デイヴィス、アバド、ゲルト・アルブレヒト、マゼール、ブリュッヘン、ホグウッド、チッコリーニ、マズア、ブーレーズ、アーノンクール、マリナー、アントン・ナヌート、スクロヴァチェフスキー、ロバート・マン、ビエロフラーヴェク、ジェフリー・テイト、ヘスス・ロペス・コボス、ロジェストヴェンスキー、プレヴィン、マリス・ヤンソンス、ミヒャエル・ギーレン、ペンデレツキ、ネルロ・サンティ、レイモンド・レッパード、ジェームズ・レヴァイン、ハイティンク、クリスタ・ルートヴィヒ、テオ・アダム、ラルス・フォークト、アンドレ・ワッツ、テミルカーノフ、ポリーニ、リン・ハレル、レイフ・セーゲルスタム、ブレンデル、ノリントン、日本人で朝比奈、山田、渡辺、若杉、芥川、羽田、中村紘子、遠山慶子、外山雄三、飯守泰次郎、小澤征爾、秋山和慶。
まあそれだけこっちも年輪を重ねたということで、どの時代に生まれてもこういうリストができて名前が増えていくんでしょう。ちがうのは顔ぶれだけです。
僕はマルケヴィッチ、アンチェル、アンセルメ、ミュンシュ、クリュイタンス、マルティノン、フランソワ、オイストラフ、コンドラシン、カザルス、セル、バックハウス、ケンプ、ルービンシュタインの来日公演を聴くにはちょっと若すぎた世代で、聴けたのにと後悔しているのがベーム、シェリング、ムラヴィンスキー、フルニエ、アラウ、クーベリック、スイトナー、マタチッチ、スヴェトラーノフ、グルダ、ヘブラーあたりです。晩年に来日したカラスは聴かず、ホロヴィッツは海外にいて聴けませんでした。
ご覧いただいて僕と同世代のクラシックファンはみなさん懐かしいのではないでしょうか。実演を聞かれた方も多いでしょう。これに現在活躍中の長老、ベテランを加えればほぼ20世紀後半のクラシック界を代表する演奏家リストができてしまいますし、この人たちの録音が後世もスタンダードとして永く聴きつがれていくのだと思います。
演奏家の旬の時期が30年ぐらい自分が演奏会に出向けるのも30年ぐらいとして、両者がクロスオーバーしたのは縁だったんだと思います。日本に来なかった人もいるし、地理的な事情を考えるとタイムリーに出会える運というものもあります。聞かせていただいた人がこれだけいたというのは16年を海外で過ごしたからですから、どこか自分の人生の縮図を眺める気もいたします。
すでに何人かのコンサートについてはブログにしましたし、残念ながら印象が薄くて細かいことは忘れてしまったのもあります。
今年のテーマとして、まだ書いてない印象に残った名演奏家のコンサートやエピソードをピックアップして、その演奏家の録音への意見もふくめて何回かにわたって書いていこうと思います。「僕が聴いた名演奏家たち」というタイトルで「カテゴリー」に入れていきますのでお読みいただければ幸いです。
(追記、16年2月3日)
とうとう本稿のリストにピエール・ブーレーズと記す日が来てしまった。
彼との出会いがCBSの春の祭典であったことは何度も書いた。この空前絶後のレコードは、高校生だった僕の大脳にalignmentという作用を及ぼした。どういうことかというと、頭の中で細胞が一直線に整列するイメージだった。すべての音符にブーレーズの強靭な知性の引力を感じ、それに得も言われぬ魅力を感じたことで、その支配が僕の耳を通して脳細胞にまで及んでしまったことを意味していたように思う。
そこから、僕はそういう人間になった。
数学が好きになり、とくに整数題に凝った。整数というのはフィクションというか、あらゆる数の中に在るには在るが、在ると言うのは点に面積があると主張するぐらいに作り物めいた呪文のような存在だ。しかし「在る」ことにすると色々面白いことがあって、ひょんなことで実用性があったりする。いや、我々の現実社会はその面白いことだらけで成り立っている。猫が1.7匹いたりすることはないように。
ブーレーズは名前の発音を「前のーは後ろのーの半分の長さ」(ブ-レ--ズ)と説明した。1:2の整数比であり、ブが八分音符ならレは四分音符ということだ。この説明方法に彼の音符を支配する知性の秘密が垣間見える。彼は言語の要素に「音価」を見出している。「リズム」ではない。音楽を組成する諸要素、これ以上は分解できないエレメントのひとつとしてだ。それを僕は上記の春の祭典に見た。音価が整数である必然性はないが、「祭典」では、厳格な整数比のコントロールを導入することで、それまでの誰の演奏にもないもの、作曲家が恐らく本能的に選び取った神性に支配された秩序ある美を紡ぎ出したのである。
それを僕は数学の、非常に難しい整数問題がとうとう解けた瞬間に、いわばなんとなく「発見」した気分を味わった。それらは等しく美しいからだった。
ブーレーズがドデカフォニー(12音技法)から作曲をはじめ、音高ばかりでなく音価にも限定的選択による秩序を与え、その秩序に言及、開示することを好まなかったことは、音楽美(aesthetic)を感知させる根源的なエレメントの配列が宇宙に存在し、それを感知したままに書き下そうとしたかのように思える。それは神性によるものであり、人間である自分が今できるとは限らない。彼のwork-in-progressという発想はそういう思考形態の表れなのではないだろうか。
「非常に難しい整数問題」は、整数がフィクションだというメタファを使ってはみたものの、人間が恣意的に作ったものでないことだけは確実だ。神性に基づいた問題であり解なのであり、しかもそれを僕は音楽のように美しいと感じた厳然たる事実があるのである。ブーレーズが生涯通して求めた美はそういう存在であり、彼が作曲を通じて、まだ未完と考えておられたであろうことを割り引いても、宇宙の原理が作用することに依って我々の脳が感知するJ.S.バッハやモーツァルトの美と同質のものを残したことは疑いがないように思う。
僕の脳にalignmentという作用を及ぼしたものの実体は、彼の脳にあったaestheticの根源的なエレメントの配列の同期だったと信じる。それは人格という高次なレベルの影響であり、彼に会ったことはないが、そういうことがありえるのだと今は確信に至っている。彼の肉体は滅んでしまったが精神はこうして生きている。それは論語を通じて孔子の精神が人類に根づいているのと同じことだ。
永遠に感謝の意をこめて
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クラシック徒然草-名指揮者カルロ・マリア・ジュリーニについて-
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クラシック徒然草-ハイドン交響曲クイズ-
2014 NOV 19 1:01:53 am by 東 賢太郎
ハイドンの交響曲の名前の由来クイズです。どうしてそういうあだ名がついたか当てて下さい。各曲とも正解がひとつあります。
第94番 「驚愕」(別名は「びっくり」)
- 王様の作曲のギャラがあまりに安いのでびっくりした
- 客の入りを良くしようと福袋(サプライズ)を用意した
- 居眠りしている客をドカンとやってびっくりさせた
第100番 「軍隊」
- ラッパの部分が衛兵交代のBGMによく使われた
- 隊長の吹いていた口笛のメロディーが主題として使われた
- 軍楽隊の楽器が使われた
第101番 「時計」
- リズムが時計みたいにきこえた
- 時計屋で一気に譜面を書いてそれで時計を買った
- 初演のとき早く帰りたいので時計を見ながら指揮した
第92番 「オックスフォード」
- オックスフォード大学で名誉博士号をもらい指揮した
- ケンブリッジ大学を落ちた腹いせに作った
- オックスフォード大学の校歌が主題として使われている
第103番 「太鼓連打」
- アフリカの民族打楽器を使用している
- ティンパニの連打がある
- たくさんの太鼓を打つだけの珍しい部分がある
第104番 「ロンドン」
- ロンドンで演奏するために書いた
- 奥さんにせがまれたロンドン旅行の資金を得るために書いた
- テームズ川が凍った記念に書いた
第45番 「告別」
- 愛犬が亡くなり告別式を盛大にしようと書いた
- 給料が安いので私これで失礼しますと辞表がわりに書いた
- 楽員を休ませなさいと暗に王様に抗議のため書いた
第96番 「奇跡」
- キリストの奇跡をたたえ復活を賛美する曲
- 適当に書いたわりにはチケットが完売したと狂喜した曲
- シャンデリアが落ちたがケガ人がなくてよかったねという曲
第82番 「熊」
- なんとなく熊みたいなところがある曲
- 飼っていた熊が芸をしたのを記念した明るい曲
- 村に熊が出るので危険をうったえるこわい曲
第83番 「めんどり」
- なんとなくニワトリみたいなところがある曲
- 不評に終わった前作「おんどり」を改作したら当たった曲
- たまにはチキンを食わせろと暗に王様に抗議した曲
第55番 「校長先生」
- なんとなく校長先生を思わせるところがある曲
- 息子を入れてもらおうと志望校の校長にゴマをすった曲
- ヒットした前作「教頭先生」の姉妹曲
第105番 「悲痛」
- 世をはかなんで書いた壮大な遺作で悲愴交響曲のモデルとなった曲
- 悪妻に楽譜を包装紙に使われたことでかえって有名になった曲
- そんな曲はない
正解: 上から順に 「3,3,1,1,2,1,3,3,1,1,1,3」 でした
全12問正解の方: さすがです 6-11問正解の方: かなりお詳しいですね 2-5問正解の方: 普通です 0-1問正解の方: ユーモアを解する方です
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クラシック徒然草-冬に聴きたいクラシック-
2014 NOV 16 23:23:26 pm by 東 賢太郎
冬の音楽を考えながら、子供のころの真冬の景色を思い出していた。あの頃はずいぶん寒かった。泥道の水たまりはかちかちに凍ってつるつる滑った。それを石で割って遊ぶと手がしもやけでかゆくなった。団地の敷地に多摩川の土手から下りてきて、もうすっかり忘れていたが、そこがあたり一面の銀世界になっていて足がずぶずぶと雪に埋もれて歩けない。目をつぶっていたら、なんの前ぶれもなく突然に、そんな情景がありありとよみがえった。
ヨーロッパの冬は暗くて寒い。それをじっと耐えて春の喜びを待つ、その歓喜が名曲を生む。夏は日本みたいにむし暑くはなく、台風も来ない。楽しいヴァケイションの季節だ。そして収穫の秋がすぎてどんどん日が短くなる頃の寂しさは、それも芸術を生む。 ドイツでオクトーバー・フェストがありフランスでボジョレ・ヌーボーが出てくる。10-11月をこえるともう一気にクリスマス・モードだ。アメリカのクリスマスはそこらじゅうからL・アンダーソンの「そりすべり」がきこえてくるが、欧州は少しムードが違う。
思い出すのは家族を連れて出かけたにニュルンベルグだ。大変なにぎわいの巨大なクリスマス市場が有名で、ツリーの飾りをたくさん買ってソーセージ片手に熱々のグリューワインを一杯やり、地球儀なんかを子供たちに隠れて買った。当時はまだサンタさんが来ていたのだ。そこで観たわけではないのだがその思い出が強くてワーグナーの「ニュルンベルグの名歌手」は冬、バイロイト音楽祭で聴いたタンホイザーは夏、ヴィースバーデンのチクルスで聴いたリングは初夏という感覚になってしまった。
クリスマスの音楽で有名なのはヘンデルのオラトリオ「メサイア」だ。この曲はしかし、受難週に演奏しようと作曲され実際にダブリンで初演されたのは4月だ。クリスマスの曲ではなかった。内容がキリストの生誕、受難、復活だから時代を経てクリスマスものになったわけだが、そういうえばキリストの誕生日はわかっておらず、後から12月25日となったらしい。どうせなら一年で一番寒くて暗い頃にしておいてパーッと明るく祝おうという意図だったともきく。メサイアの明るさはそれにもってこいだ。となると、ドカンと騒いで一年をリセットする忘年会のノリで第九をきく我が国の風習も捨てたものではない。メサイアの成功を意識して書かれた、ハイドンのオラトリオ「天地創造」も冬の定番だ。
チャイコフスキーのバレエ「くるみ割り人形」、フンパーディンクの歌劇「ヘンゼルとグレーテル」はどちらも年末のオペラハウスで子供連れの定番で、フランクフルトでは毎年2人の娘を連れてヴィースバーデンまで聴きに行った懐かしの曲でもある。2005年末のウィーンでも両方きいたが、家族連れに混じっておじさん一人というのはもの悲しさがあった。ウイーンというと大晦日の国立歌劇場のJ・シュトラウスのオペレッタ「こうもり」から翌日元旦のニューイヤー・コンサートになだれこむのが最高の贅沢だ。1996-7年、零下20度の厳寒の冬に経験させていただいたが、音楽と美食が一脈通ずるものがあると気づいたのはその時だ。
さて、音楽そのものが冬であるものというとそんなにはない。まず何よりシベリウスの交響詩「タピオラ」作品112だ。氷原に粉吹雪が舞う凍てつくような音楽である。同じくシベリウスの交響曲第3、4、5、6、7番はどれもいい。これぞ冬の音楽だ。僕はあんまり詩心がないので共感は薄いがシューベルトの歌曲「冬の旅」は男の心の冬である。チャイコフスキーの交響曲第1番ト短調作品13「冬の日の幻想」、26歳の若書きだが僕は好きで時々きいている。
次に、特に理由はないがなぜかこの時期になるとよくきく曲ということでご紹介したい。バルトーク「ヴァイオリン協奏曲第2番」、プロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」がある。どちらも音の肌触りが冬だ。ラヴェルの「マ・メール・ロワ」も初めてブーレーズ盤LPを買ったのが12月で寒い中よくきいたせいかもしれないが音の冷んやり感がこの時期だ。そしてモーツァルトのレクイエムを筆頭とする宗教曲の数々はこの時期の僕の定番だ。いまはある理由があってそれをやめているが。
そうして最後に、昔に両親が好きで家の中でよくかかっていたダークダックスの歌う山田耕筰「ペチカ」と中田喜直「雪の降る町を」が僕の冬の音楽の掉尾を飾るにふさわしい。寒い寒い日でも家の中はいつもあったかかった。実はさっき、これをきいていて子供のころの雪の日の情景がよみがえっだのだ。
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クラシック徒然草-ハイドンの交響曲の魅力-
2014 NOV 16 2:02:49 am by 東 賢太郎
いままでハイドンについて書きたいが書けないままにきていた。
ハイドンは僕にとってかけがえのない作曲家だ。ところが、ハイドンの交響曲でどれが好きか?と自問するとこれが難しい。104曲もある。全部きくだけでも大変だ。最後のほうは甲乙つけがたい。宝石を並べられて、さあどれを選びますかと問われた気になる。ダイヤ、サファイア、ルビー、オパール、エメラルド・・・困ったものだ。
どうして宝石?それはただ美しいということではない。僕がいま思い浮かべているのは宝飾品に巧みに加工されたジュエリーではない。原石だ。高度に結晶化した高純度の石である。クラシック音楽を広く見渡しても、ハイドンほどそれを連想するものはない。
むかし受験勉強で数学にハマっていたころ、「問題文の短い問題」に凝っていたことがある。1、2行で短いけど簡単に解けない。いや、勉強不足だと手も足も出ない。何かそこには神様の創った真理の秘密がぎゅっと固めに詰まっていて、問題自身が美しい。高純度の原石なのだ。
10行もあってごちゃごちゃとした問題。神様はそんな汚いのは創らない。下僕の人間界で事務処理能力を競うだけの問題だ。誰だって腕ずくでかかれば解ける。20行もかけて解いた答案。しかしこれも汚らしい。
短い問題を、ぎりぎりまで一文字でも切り詰めて短く解く。Simple is beautiful. それが真理に最も近い、だから美しくて当然なのだという、これは美の基本原理である。音楽だって絵画だって料理だって、美と名のつくものはみんなおんなじだ。
ハイドンはその「短い解答」を思い出させる。J.S.バッハの音楽が神の手を思わせるものなら、もうすこし人間の息吹を感じるものだ。人が手で書いた見事な答案。
バッハが音で数学をすることはあっても戯れ事をすることはない。ハイドンは数学はしないがユーモア(humour)のかたまりだ。人間(human)の仕業にして無駄がない。だから満点の数学答案である。
といって、なんら小難しい音楽ではない。彼はエステルハージ家の楽長というサラリーマンであり、ご主人様をエンターテインするのが仕事だ。その目的にかなうべく100%合理的な答案を104個も書いたということである。
音楽は音によるプレゼンテーションである。それを音声と文字ですればビジネスや学問のプレゼンである。メディアが違うだけで形式論理は応用が効く。プレゼンがうまくなりたければ、ハイドンの交響曲に最高の知性によるヒントがつまっている。
簡単だ。速い2つのソナタ楽章に緩徐楽章とメヌエットをはさむマクロ構造、ソナタ楽章のソナタ形式がミクロ構造という2層の骨格を形成するDNAをもっており、この骨格が交響曲というフォーマットを定義するようになった。交響曲の父とされるゆえんである。
そのDNAを保ちつつ進化するためにソナタ形式より中間楽章が変形する傾向がある。ベートーベンがメヌエットをスケルツォに入れ替え、さらにワルツや行進曲も現れる。アンコがかわっても皮が残ればまんじゅうはまんじゅうという主張だ。
しかし同時に皮とアンコの素材がリッチになってくる。オーケストラが肥大化するのだ。オペラハウスでそれをしたワーグナーの流儀が交響曲に入る。ブルックナーとマーラーがそれの代表だ。そしてそれに反抗したのがブラームスである。
一般にそれはワーグナー派とアンチの2極対立とされるが皮相的な見方だろう。ブルックナーとマーラーは全然ちがう。ブルックナーは神の啓示を描くのに教会が必要だった。だから彼のオーケストラはオルガンを模したものだ。それに違和感はない。
マーラーは人を、というよりほぼ彼自身に模したドラマをデフォルメしたような音楽を書いた。少なくとも僕にとっては。その劇には大きな、千人もいるような管弦楽と声を要した。「まんじゅうはまんじゅうだ」はいい。しかし僕はこの肥大化にはたえがたい。
skillfulがbeautifulとは限らない。バッハの無伴奏ソナタが千人の交響曲にヴァイオリン1丁だからという理由で劣るわけではない。ファンには大変申し訳ないが、10行の美しくない問題を30行もかけて長々と解いたあんまり賢くない数学の答案用紙を連想してしまうのだ。不純物の混ざった宝石は大きくても安い。
ハイドンは交響曲はどれを聞いたらいいのか?
特に有名なのはあだ名がついている94番(驚愕)、96番(奇跡)、100番(軍隊)、101番(時計)、104番(ロンドン)あたりだ。どれも名曲であるし、クラシック好きでマーラーは知っているがこれらを知らないというのではお話にならない。
これらはみな1791年、つまりモーツァルトが死んだ年より後に書かれた「ザロモン・セット」と呼ばれる93-104番の12曲に含まれる。その12曲がハイドンを代表する看板作品であることを認めたうえで、しかし僕は1785‐6年に完成した82-87番の「パリ・セット」が人気でやや劣後していることをいつも不可思議に思っている。
そして76-78番、90-92番という2つの「トリオ」がモーツァルトの「3大」作曲の動機に関与したかもしれないという関心事についてはさらに飽きることを知らない。つまりモーツァルトの死後の作品群よりも、両巨人の共振があったかもしれない60-92番に僕なりのストライクゾーンがある。
共振を疑う方もいらっしゃるかもしれない。
僕はそれを確信している。たとえば60番「うかつ者」は1774年の作曲で18歳だったモーツァルトに無縁に思えるが、その第3楽章メヌエットのトリオ(ハ短調)に同じ調のピアノ協奏曲第24番K.491の冒頭がきこえて本当にドキッとする。それはWikiにのってもいない78番にもある。
やはりWikiにない75番にもモーツァルトのイディオムをたくさん聴きとることができる。パリとザロモンの狭間にあって、82番以降で最も評価の低いのが89番である。しかしこの曲にはモーツァルトのピアノ協奏曲第25番K.503と血縁関係を感じさせるパッセージが現れる。
それはここに書かなかったが(モーツァルト ピアノ協奏曲第25番ハ長調 K.503)、非常に興味深いことにK.503の作曲は86年、89番は87年であり、これはモーツァルトに由来するという逆の事例かもしれないのだ。同曲の第2楽章にはモーツァルトが偏愛して魔笛を特徴づけるバス進行も現れる。
ご関心あればまだまだ共振を裏付けると思われる例をお示しすることができる。かように60番以降、ザロモン以前というゾーンは興味の尽きない宝の山であり、モーツァルトをそこそこ聞いている方にはぜひ探訪をお薦めしたい。
そこまで関心はないという方も、ザロモン・セットを気に入ったならそれ以前のものも。104曲全部というわけにもいかないから名前がついているものだけでも。特にパリ・セットの82、83、87番は掛け値なしの名曲であり知らずんば人生もったいない。
最後にひとこと。総じてハイドンの交響曲は愚にもつかないニックネームがつけられており、「熊」だ「校長先生」だとシリアスな聴き手の意欲をそぎかねない名前が並ぶ。ベートーベンの曲に「めんどり」なんてのが現れることは想像もつかないだろう。パリ・セットなどずいぶんそれで損をしていると思う。
しかしそれらはすべて作曲者によるものではない。どうか素晴らしい音楽に虚心に向き合っていただきたい。
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