クラシック徒然草-名指揮者カルロ・マリア・ジュリーニについて-
2013 JAN 22 1:01:52 am by 東 賢太郎
マリア続きですいません。このエピソードは僕でなく友人の話なのですが。
彼がアムステルダム・コンセルトヘボウでジュリーニを聴き、終演後に近くのホテルの薄暗いバーで一人飲んでいると、そのジュリーニがふらっと入ってきたそうです。客はその二人しかいなかったそうで、おそるおそる自己紹介し、サインをもらおうと自分の名刺を出しました。ジュリーニは彼の名刺の日本語と英語の両面を何度も裏返しながら、しばらく何かじっと考えていたそうです。いったいどうしたのかと思っていると、ポツリとひとこと、
Which side do you want ?
と英語で静かに尋ねられたそうです。僕はいかにもジュリーニらしいこのエピソードが大好きです。
僕自身、ロンドンで彼のバッハ(ロ短調ミサ)やベートーベン、ロッシーニを、アムステルダムでフランク、ラヴェルなどを聴きました。もっとも「貴族的」な雰囲気を持った指揮者は?と言われれば僕はジュリーニを挙げます。むかしノムラロンドンの特別顧問にサー・ダグラス・ワスという方がおられました。元大蔵次官で、英国の貴族を絵にかいたような気品と教養とアクセントのある方で、いろんなことを教えてもらいました。第2次大戦では暗号解読部隊にいらした話まで。
ジュリーニのイメージはサー・ダグラスにダブります。クラシック音楽はもともと貴族の楽しみでした。それをそういう風に演奏するということがいかに難しいかということは、昨今そういう演奏についぞ触れることがなくなってしまったことでわかります。もちろん聴衆が多様化するのはいいことなのですが、ビジネス原理が入り過ぎて真に高貴な要素まで永遠に失ってしまうとすれば大変に残念です。
昨日たまたまですが、久しぶりに彼のブラームス4番を聴いてつくづくそう思いました。テンポは遅めで、興奮したりロマンに耽溺したりすることはありません。第1楽章コーダで何かが乗り移ったかのように激するフルトヴェングラーとは対極的に、音楽の骨格を崩すことは一切ありません。その遅さでこそ見える、ブラームスが書き込んだ熟達の抑制の美こそ彼が描きたいものだからです。ウイーンフィルの弦が内声部まで鳴りきり、歌いきっていて、全曲が終わって残るのは、ただ 「いい音楽を聴いた」 というずっしりした手ごたえだけです。クラシック音楽でしか味わえない最高の喜びがここにあります。1点集中型で熱い興奮を誘うアプローチのフルトヴェングラーはこの曲と1番では大成功しており、それはそれで感動的なのですが、僕はそれはポピュリズムたり得る要素ではあっても真に高貴なものとは感じません。例えば彼は3番では終楽章の主部で全開したエネルギーが空転して行き場がないまま終わってしまいますが、ジュリーニは3番も、4番と全く同じアプローチで感動的な演奏になっています。ブラームスの交響曲には、あざとくは目だたないけれども真に高貴な精神の高揚がほのかなロマン性に包まれてひっそりと提示されるようなものが内在しており、ジュリーニのアプローチが自然にそれを拾い出して次々と味あわせてくれる醍醐味は汲めども尽きぬものです。
このシューマンの第3交響曲、通称「ライン交響曲」も大河のごとき悠然としたテンポで開始します。彼がこの3番しか振らなかったどうかわかりませんが、僕はこれ以外知りません。3番は大変な傑作なのですが、演奏効果の面からか実演であまりお目にかからず、大指揮者も振ってない人が多いのです。振ってもうまくまとめるのは至難と思われ、トスカニーニやバーンスタインでさえ駄演に終わっています。ジュリーニが、なぜ彼がやらないのかむしろ不思議な1,4番ではなく、そういう難曲の3番だけをあえて取り上げたのかとても興味深いところです。本来こういう曲かと問われればやや違うアプローチなのですが、その風格、品格と音楽性で誰もを深く納得させる演奏に仕上がっています。ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団というアメリカンなイメージの強いオケから何とヨーロッパ調の音を引き出していることか。ブラームス同様、やはりこのテンポでしか見えない細部や内声部の味わいがゆるぎない堂々たる骨格の中でつぶさに吟味されている様は、クラシックがどんなに大衆化しても忘れてはならない里程標を後世の我々に残してくれているとさえ思える名演奏です。
ジュリーニの残した名盤はまだまだありますが、彼はブラームスを例外として、「全集」を作る人ではありませんでした。自分の気に入った曲しか振らない贅沢が許された、その意味でも貴族的な指揮者でした。
ロス・フィル時代にアシスタントを務め、ジュリーニを師と仰いで敬愛する韓国の巨匠チョン・ミュンフンはこう言っています、
音楽家としてマエストロは、音楽に奉仕するため、そして音楽を通して人類に奉仕するための「聖職者」のイメージに限りなく近い人物であると私はいつも思っていた。
僕は音楽をエゴの道具とする演奏家は聴きません。こちらも時間を費やし、人生をかけて聴く意味を何ら感じないからです。そういう演奏家はおそらく亡くなると忘れられます。しかしこの「聖職者」たる演奏家は、その世代の演奏家しか知りえない、その作品の演奏のエッセンスにかかわる秘技を後世に残します。だから永遠に聴き続けられます。そういうスクールに属する、今や絶滅危惧種とも思われる貴重な演奏家の一人として、このチョン・ミュンフンを僕は非常に注目しています。彼が2008年に振ったN響Aプロのブルックナー7番は忘れがたい名演で、NHKホールでこのオケの弦があれ以上美しく聞こえたことはありません。いま、曲目を問わず聴いてみたい指揮者5人に入ります。こういう素晴らしい後継者を残すのも、やはり 「聖職者」 なのだと思います。
クラシック徒然草-カッコよかったレナード・バーンスタイン-
2013 JAN 18 18:18:50 pm by 東 賢太郎
バーンスタインのリハーサルに立ち会ったのも、やはり、カーチス音楽院でした。
チェリビダッケが1984年2月、バーンスタインは同じく4月。これも前回と全く同じで古沢巌さんのお手引きを得て、すべてをすっぽかして駆けつけました。もう歴史上の人物になってしまった2人の大指揮者のミュージック・メーキングの光景は、眼にも耳にもはっきりと焼きついているのですが、なにか夢か幻のようでもあります。
バーンスタインはカーチス音楽院の卒業生であり、母校の創立60周年記念コンサートを振るためにやってきました。その時のプログラムがこれです。
その日のリハーサルは最初の「チチェスター詩編」。知らない曲でした。当時ネットという便利なものがなく曲について予習も復習もできませんでした。今になってWikiで調べてみると、「英国南部の ”チチェスター大聖堂” のために書かれた曲」とありました。
ところで、さきほど上掲のプログラムを探すため物置にある昔の資料をひっくり返していると、このリハーサルの4年後のロンドン時代に行った教会のパンフレット(右)がポロっと出てきました。お客さん宅のX’masパーティーに招待されて、彼の所属する教会のクリスマスミサに参加した際の記念ですが、この厳粛なすばらしいミサは僕のロンドン駐在を通して最も忘れがたい体験の一つになっています。
ふとピンときて、よもや、まさか、と思いパンフの教会の名を見ると、やはり “チチェスター大聖堂” とあり鳥肌が立ちました。何かの因縁でしょうか。

Leonard Bernstein speaking with Curtis students in a rehearsal break in 1984, when he returned to his alma mater to conduct his Symphony No. 2 (“Age of Anxiety”)
バーンスタインは小走りに舞台に現れるとまずコンマスの女の子と長々とハグして頬にキス。 チェリビダッケとの落差にいきなりカウンターパンチを食らいます。練習が始まってもムードは明るく、ジョークも飛んで和気あいあい。チェリが「ダメだし派」とすると彼は「いいね派」で、10代の子たちをノセるのがうまかったです。写真がこの時のものです。
「コントラバスのピッチカート、もう一回。」 演奏 「いや、ちがう、もう一回」 演奏 「なんでもっとソフトにできないかなー?リーダーのキミ、そうキミだよ。キミ彼女いるでしょ?」 「はい、います」 「うん。彼女におやすみの投げキッスするだろ?」 「はい」 「やってみて」(バーンスタインに投げキッスする)(全員、おお笑い) 「それそれ、それだよ。できるじゃないか。そういう感じでもう一回」 演奏 OK
こんなことも起こりました。
速い箇所で急に両手を広げて演奏をストップ。「ティンパニ!キミ、それちがうだろ?」 「???」 「ロングノート(Wrong note)だ」 「先生、意味がよく理解できません・・・」「キミ、F#打ったでしょ?」 「はい」 「そりゃDだ」 気まずい沈黙 「先生、でも・・・」「よく楽譜を見なさい」 「F#ですが」 「キミ。この曲の作曲家の名前知ってるかい?」 「はい、あなたなんですが、でも・・・」 そこでバーンスタインは指揮台を降りてティンパニのところへつかつかと行き彼の譜面台をのぞきこむ 「いや、ゴメン!」 (I’m sorry, you are right.) (爆笑と拍手)
万事こういう感じでした。細かい指示は徹底しながらも、全く飾らないお人柄とオーラでぐいぐい人を引っ張ってしまう。心底、カッコいいなあと惚れ込んでしまいました。
先日のブログに書いたロンドンでの「キャンディード」はDVDになっていますが、1989年12月13日だったようです。この客席に僕もいました。
この終演後にホールのボウルルームでパーティーがあり、彼と話ができましたがあのリハーサルそのままの気さくな人でした。
「おー、カーチスのあれか、あそこにいたのね。覚えてるよ。若い子たちと音楽やるのはいいね。僕も若がえってね。」 こう言って僕が差し出したプログラムの写真をしげしげと見る。これです。
「あれ、こりゃだめだ。こんなジイさんをのせちゃいけないね。」 笑いながら、即、却下。そして、彼は自分でパラパラとページをめくってこっちを探しだしました。「そう、これこれ。これが僕だよ。そう思わない?やっぱり若いほうじゃなくっちゃ」 少し震える手でその写真にサインして、僕の眼を見ながら人なつっこく笑い、大きくて柔らかい手でしっかりと握手してくれました。それがこれです。
彼はこの会話の10か月後に亡くなりました。目の前のバーンスタインは彼が嫌いだった方の写真でも若いぐらいの姿でしたが、眼の輝きは若者のようでした。彼のハートはあの「マリア」の音符を書いた頃のままだったと思います。
この世で最後に私たちを救うのは,おおきな夢を唱え,育み,拒み,歌い,そして叫ぶことのできる,思索家,感覚家,つまり芸術家です。芸術家だけが”かたちのないもの”を”実在”に変えることができるのです。
Leonard Bernstein (1918 – 1990)
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バーンスタイン”ウエストサイドストーリー(West Side Story)” (1)
2013 JAN 17 14:14:09 pm by 東 賢太郎
レナード・バーンスタインは20世紀後半を代表する世界的な作曲家であり、指揮者である。
作曲という行為と演奏という行為はモーツァルトの時代あたりまでは同一人物が行なうのが通常だった。 当時すでにバッハやヘンデルの音楽は古典だったけれども、それらが今のように「クラシック音楽」として広く演奏会のプログラムにのっていたわけではない。印刷術が発達し、国境を越えて流布し始めた楽譜というものが偉大な音楽遺産として集積した結果、貴族に代わって聴衆として台頭した市民階級がそれを「クラシック音楽」と呼び始めた。そのクラス(階級)という呼称に潜む尊大さを、コカ・コーラ社はコーク・クラシックというあえて尊大ぶってみせた命名によってお茶目におちょくっている。コークにクラシックもへったくれもないのと同様、モーツァルトの時代の聴衆である貴族たちにとって、音楽とは教養や権威を誇示する道具というよりも単なる享楽的な消費の対象という側面の方が強かっただろう。深遠で気難しいゲージュツなどというものではなく、現代のロックやポップスのあり方に非常に近いものだったと言える。
バーンスタインという人は、そのモーツァルト時代の流儀で「自作を演奏もした作曲家」だった。世界的な指揮者が余技で「作曲もした」のではない。作曲家として認められたかった大指揮者フルトヴェングラーが交響曲を3つ残したのは有名である。それを余技というつもりはないが、残念ながらその音楽自体はまだ彼が書いたという事実以上に有名になってはいない。反対に、ミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」の名ナンバーである「トゥナイト」や「マリア」が有名になった以上に、それらがウィーンフィルを振って立派なベートーベンやブラームスの交響曲全集を作っている大指揮者の作品だという事実が有名になったとも思えない。
ウエストサイドが 売れてしまったことにバーンスタインがアンビバレントな(愛憎こもごもな)葛藤をもっていたことを僕は彼のコンサートで知った。1989年にロンドンのバービカンセンターで彼が自作「キャンディード」を振ったとき、演奏開始前に聴衆に向けて不意に始まった「キャンディードは僕の大事な子供です。不本意なことにもう一人の子ばかり有名になってしまいましたが」というスピーチによって。しかしこのバーンスタイン自演のCDを聴けば、有名になってしまっても仕方がないということがよくわかる。若者の情熱、はちきれんばかりのエネルギーと狂気、ほろ苦い愛と悲しみを秘めたロマンティックな名旋律。これを余技といえる人はいない。魅力に満ち溢れた傑作である。
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クラシック徒然草-ファイラデルフィアO.のチャイコフスキー4番-
2013 JAN 14 13:13:56 pm by 東 賢太郎
朝起きると、東京は昨日のゴルフ日和がなんだったのかという雪景色です。
これで思い出してさっき家内と話したのが、フィラデルフィアの春の大雪です。あれはもう半袖を着ている4月のことでした。朝起きるとなんとなく窓のカーテンが明るく、普通でありません。開けてみると外は一面の銀世界。一夜のうちに2メートルの雪がつもっていました。ペン大のキャンパス内はスキーで教室に向かう学生がいたぐらいで、もちろん交通機関は完全にマヒしていたのです。
金曜だったのでビジネススクールは休み。午後からは毎週コンサートでした。どうやってダウンタウンまで行ったのか記憶がないのですが、とにかく雪まみれになり、寒さに凍えながらなんとかアカデミー・オブ・ミュージックまでたどり着きました。定期会員はお年寄りが多かったせいか、定刻2時にリッカルド・ムーティーが指揮台に立ったとき客席はまばら。オーケストラと同じぐらいで、100人いたかどうか。
「皆さん、こんなお天気の中、来てくださってありがとうございます」
と指揮者の心のこもったあいさつがあり、何事もなかったかのようにコンサートは始まりました。前半がなんだったか忘れてしまいましたが、後半の鬼気迫る ”壮絶な” チャイコフスキー4番は一生忘れません。「消化試合」になるどころか、来てくれたほんのわずかの人のために天下のフィラデルフィア管弦楽団が2度とないぐらいの迫真の演奏をしてくれたのです。圧倒された客席がブラボーの嵐と足ぶみと全員のスタンディングオベーションで熱狂して応えたのは言うまでもありません。僕も声がかれました。人のぬくもり、誠意、そして本物のプロフェッショナリズム。
窓の雪景色に、人生で一番感動した演奏会のことをふと思い出してしまいました。
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クラシック徒然草-フィラデルフィア管弦楽団の思い出-
2012 DEC 24 0:00:42 am by 東 賢太郎
フィラデルフィア管弦楽団は82-84年の2年間にわたって定期公演(金曜日のマチネ)を聴いた。当時
は、ブロード・ストリートとローカスト・ストリートの交差点にある「アカデミー・オブ・ミュージック」(右の写真)が本拠地だった。このホールはアメリカの威信にかけて1857年に建設されたアメリカ最古のオペラハウスである。まだロッシーニは生きていたしプッチーニが生まれる前の年だ。ドヴォルザークの新世界やガーシュインのパリのアメリカ人が初演されたニューヨークのカーネギー・ホールが1891年建造だからその古さがわかる。チャイコフスキー、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、ラフマニノフ、ストラヴィンスキーなどがここで演奏したという歴史的建造物だ。
中はこうなっている。しかし、問題がある。スカラ座を手本としたにもかかわらず、おそろしく残響がない。1~1.2秒ぐらいだろう。「イタリアのオペラハウスみたいにドライな音だ」(フリッツ・ライナー)、「音がすぐ消えてしまう。もっと気持ちよく伸びないと」(ピエール・モントゥー)、「音が小さいからクライマックスでパワーが得られない」(ヘルベルト・フォン・カラヤン)、「ここで録音はしたくない」(ユージン・オーマンディー)という具合だ。
1912年に音楽監督となったレオポルド・ストコフスキー(写真)、1938年になったユージン・オ
ーマンディが連綿と作ってきた華麗なオーケストラの響きは「フィラデルフィア・サウンド」として有名だが、それはこのホールが本拠地だったことと妥協しながら作られたと言われている。
ちなみに、僕とワイフの座席はチェロのすぐ前だった。トータルなオケの音響としてのバランスは最悪だったが、そのかわりにオケの内部で鳴っている裸の音が手に取るようにわかるので僕には最高に面白かった。
まず弦楽器からコメントしよう。このオケの弦は並み居る欧米強豪オケの中でもチャン
ピオンクラスのパワーと瞬発力がある。管楽器のカラフルな響きが特色のように思われているが違う。弦こそあのサウンドの土台だ。例えばウイリアム・ストッキング率いるチェロセクションは12人がおのおのコンチェルトのソリストみたいに身体をゆすり、松脂を飛ばしてガンガン弾く。僕も当地で1年チェロを習ったからよくわかる。プレストやアレグロでも音圧が強く、発音(アーティキュレーション)はくっきりし、楽器が胴体まで鳴りきっていて、それでも出てくる音はまるで一人で弾いているように聴こえる。このような神業が平然と行われていて、そのシンクロぶりたるやもうスポーツ的快感だ。コンマスのノーマン・キャロル率いるバイオリンセクションも基本的にこのチェロと同系の弾き方と音色だと思う。
対して、金管セクションはフォルテの音量、エネルギー感、音圧が日本のオケとは比較にならないほど巨大で音は派手め、明るめ。金管全体がフォルテで鳴ったときにドイツやイギリスと違ってピラミッド型ではなく高音部のトランペットが目立つトップへビーなバランスになる。というより、そう鳴らさないと音の減衰率の高いアカデミー・オブ・ミュージックでは、カラヤンの言うようにクライマックスが盛り上がらないのだ。トゥッティで指揮者はものすごく強大な音を要求する傍ら、エコーがない分、入りのズレがはっきり聴衆に聴こえるので、弦と金管の客席との距離の差から生じる時間差を考慮したキューイングにも気を使うだろう。この強力な弦(特に低弦)とパワフルな高音部を持つ金管のバランスが明らかにフィラデルフィア・サウンドのベースである。
そこで木管だが、ここにちょっと問題があるように思う。弦と金管に混ざってあのホールでうまくバランスして聴こえるには音量と音のエッジがどうしても必要だ。だからだろうか、音色のあでやかさがやや足りないように思う。趣味の問題に過ぎないが、ドイツやフランスのオケにある色香を感じない。技術はすごいのだが、音響の制約からそういう
もので勝負はできなかったのではないか。オーマンディー時代のフィラデルフィアのオーボエといえばジョン・デ・ランシーだ。24歳のころ、もう大御所だったリヒャルト・シュトラウス(右)を口説いてあのオーボエ協奏曲を書かせたツワモノであり、カーチス音楽院長時代にアメリカ嫌いのチェリビダッケを口説いて呼んできたのも彼だ。逆に、あの日、飛び込みで「入れてくれ」と口説きに来た、どこの馬の骨ともわからない僕にリハーサルの入場許可をくれたのも彼だ(僕のブログ クラシック徒然草-チェリビダッケと古澤巌-ご参照ください)。
そんなランシー先生に恩をあだで返すようなコメントはしたくないが・・・。名人揃いだけにオーマンディーもソロ部分はある程度奏者におまかせだったように感じる。例えばシベリウスの2番、僕が曲を覚えた思い出の旧盤(CBS)の第2楽章だが、オーボエとクラリネットの低音ユニゾンのピッチがおかしい。こういうこともある。先生、不調だったのだろうか。しかし、録りなおせばいいのだからこれは指揮者の責任だ。作曲家がほめたといわれるオーマンディーの演奏だが、シベリウスは自作を熱心に演奏してくれる人は皆ほめる傾向があったらしい。僕が聴いたムーティ時代の2年間は先生の次の人だったが、一度もいいと思ったことがない。悲しいが、自分に嘘はつけない・・・。
アカデミー・オブ・ミュージックでのフィラデルフィア・サウンドとはどういうものか。好例と
して、最近買ってこれこれと思ったCDがある。この「レスピーギ・アルバム」の1枚目にある「ローマの祭り」だ。エコーは電気的に入れたのではと思うが(絶対にこんなにない)、この弦や木管の音がまさにそれだ。なつかしい。松と噴水は2種類入っている。すごい!うまい!このローマ3部作、最高の演奏は文句なくトスカニーニだが、このオーマンディーはステレオの対抗馬だ。さらにイタリア人のムーティーも後年に同オケでこれを録れていて、それまた素晴らしいので困ってしまう。いかにこのオケのオハコかわかる。組曲「鳥」の木管の音程は完璧で名誉挽回。このアルバム、最高級の音楽が入っている。ぜひお聴きいただきたい。
(追記)
オーマンディーのレコードの録音場所はアカデミー・オブ・ミュージックではありません。AOMがどんな音かはこれをお聴きいただけばわかります。この田園交響曲は留学時に聴いたもののFM放送をカセット録音したものです。こういう曲のほうが弦の驚異的うまさがよくわかります。
(こちらもどうぞ)
クラシック徒然草-ファイラデルフィアO.のチャイコフスキー4番-
カルロス・クライバー指揮ベルリンフィルの思い出
2012 NOV 24 12:12:13 pm by 東 賢太郎
1994年6月28日にカルロス・クライバーがベルリン・フィルハーモニーを振るらしいと聞いたのはその半年ほど前だった。そんなものが買えるはずがないと思い、チケットを4枚申し込んだらなんと4枚当たった。強運だった。

クライバーは当時から生きる伝説だった。何年に1度指揮台に立つかどうか。それを世界中が常に注視していた。あの帝王カラヤンが「あいつは冷蔵庫が空になった時だけ出てくる」とやっかんだ。ギャラと練習時間は御意のままという帝王の上を行くローマ皇帝状態だったのだ。親父はこれも大指揮者のエーリヒ・クライバー。ということになっているが、容貌があまり(あまりに)似てない。そう思っていたところ、ドイツの業界の人から「実は・・・・」という衝撃的な話を聞いてしまった。これは書かない。まあ親父が偉いからといって息子がそれだけで楽な人生を送れるというのは日本の政治家をのぞくとあまり聞かない。皇帝の地位は彼のたぐいまれな能力のたまものだったことは疑いがないということを僕はこの演奏会で確信した。
「クライバーがどこかのオーケストラを指揮するというだけで大ニュースになり、首尾良く演奏会のチケットを入手しても当日、本当に彼が指揮台に立つまでは確かに聴くことができるか保証の限りではなかったが、多くのファンが彼の演奏会を待ち望んでいた」(ウイキペディアより)。ことにベルリンフィルを振ったことは1回しかなく、これが2回目、そして結局は永遠に2回ということになってしまった。この演奏会は「ボスニア救済のため連邦大統領の主催による特別演奏会」兼「リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー連邦大統領告別演奏会」というものものしい政治的なオケージョンでもあった。
この日の午後、フランクフルト空港からベルリンへ飛んだのは僕とお二人。そのお一人が実はSMC運営管理委員長であられるドイツ明治生命社長(当時)甘田豊隆さんだった。そして残りの1枚のチケットだが、予定していた友人が急な用事で来られなくなったためそれを当日に会場で売ることになった。カラヤンサーカスとあだ名されたフィルハーモニーザールに到着すると、入り口は「Ich suche Karte!(チケット売ってくれ!)」のプラカードを掲げた群衆で、まるでディズニーランドの入り口みたいにごったがえしていた。聞くところチケットはダフ屋で凄い値段になっていて、こっちが誰に売ってあげようか迷って立ち往生してしまった。
そこに響いた「どうせなら日本人の女性に」という甘田大兄の愛国心あふれる鶴の一声。そりゃあこのチケットは隣の席だからむさ苦しいおっさんはかなわんなと僕も思っていた。そこで近くにいた日本人と思しきうら若き女性に声をかけた。「本当によろしいんですか!?」 お譲りした時(もちろん定価で)の彼女の驚きに、なにかすごく特別なことをしたようでかえってこっちが恐縮した。下の写真が当日のプログラム。ベートーベンのコリオラン序曲、モーツァルトの交響曲第33番K.319、そしてブラームスの交響曲第4番だ。
前半が終わって、隣の席の彼女に「ベルリンにお住まいですか?」ときくと、「ベルリン芸術大学にピアノ留学中です」とのこと。ああ、音大の学生さんかと納得。ところがいろいろ話してみると、来週はプロコフィエフの3番を弾くだのCDを何枚も録音しているだので、どうもただ者でない。ピアニストの田部京子さんということがわかった。
我々4人の席はクライバーを左側上方から見おろす席(写真の左上方)だったが、このホールは
舞台を360度ぐるりと聴衆が囲むため音の志向性が全方位型で、どこで聴いても特に良くもないが外れの角度もないようだ。見た目は似ているが死角が多いサントリーホールとは全く違うのである。ここではポリーニのベートーベンのソナタ(ハンマークラヴィール他)、ブーレーズ指揮でダフニスとクロエ他も聴いたが、巷で言われるほど音響にネガティブな印象はない。むしろ割と好きな部類である。
開演時間を待つ周囲のガヤガヤは当たり前だが全部ドイツ語だ。これから鳴るのもドイツ音楽の濃縮スープみたいなプログラム。それをザ・ドイツであるベルリンフィルが弾き皇帝クライバーが振る。ドイツに駐在していた幸運を音楽の神様に感謝した(会社にもか)。大統領の演説(これは早く終わらんかというもの)があり、オケがチューニング。ホールが指揮者登場を今か今かと待ちわびる静寂に包まれた。
お断りしなくてはいけないが、なにせ18年前のことだからクライバーの指揮のディテールまで全部覚えているわけではない。しかしもはや伝説であり歴史上の出来事と化してしまっているこの「ベルリンコンサート」の証人として、記憶しているだけのことはここに書き残しておきたいと思う。
まずコリオラン序曲の出だしから尋常でない熱気をはらんだ音圧。こんなことは普通の演奏会ではまずない。ベルリンフィルがいきなり本気になっているのがばしっと伝わってきた。腰は重いドイツ流だがゴツゴツせず、流れがいい印象だった。指揮姿はダンスを踊るよう。彼は手だけでなく目や表情で指揮をする人だ。このベートーベンは彼が何をやりたいか、なぜこの曲なのかがオケに良く伝わっていると感じた。
なぜこの曲なのか、オケはともかくこちらはよくわからなかったのがモーツァルトだ。この曲は僕も好きだ。でもなぜ33番なのか。ドレファミのジュピター音型かななどと考えながら聴いていた。だから集中できなかった。因果なことだ。弦のレガートが強弱緩急で流動的、自由自在でスマートかつエレガントだったぐらい。今でも不思議なのだがなぜ彼はモーツァルトは33番と36番しか振らなかったのだろう?
さて休憩後はいよいよブラームスの4番。僕の音源コレクション数で第1位、つまり結果的に一番好きだったという曲だ。まず肝心の出だし。無用に「泣き」がない。テンポももたれがなくサラサラと流れる。しかし展開部あたりからコクのあるドイツ保守本流の重心の低い音が奔流のようにうねりだし、こちらの心拍数も上昇してきた。ティンパニの打ち込みの効いていること!オケに信じ難いほどの生命力とパッションが吹き込まれ、コーダは(あの猛烈なアッチェレランドこそないが)同じオケを振ったフルトヴェングラー48年盤のすさまじい追い込みと甲乙つけがたい高揚感に達した。フルトヴェングラーのは練習したものではなくライブの一発勝負だったと思うが、ここで目撃したのもそれだろう。あれを会場で聴いた人がうらやましいとずっと嫉妬していたが、自分もこんなものをライブで聴いてしまうなんて!
第2楽章。耳のほうは艶やかなクラリネット、音を割るホルンぐらいしか覚えていないが、視覚のほうではクライバーが(おそらく)顔で細かい表情づけを指示していたのだろうということを記憶している。ただ座席の距離がやや遠く、オケ(特に弦)がそれにどう反応したのかはよく聴き取れなかった。そして第3楽章。CDを含めてどの演奏よりインパクトがある空前の、まさしく壮絶な演奏であった。ここの速いトゥッティの縦線の合い方、音響のブレンド具合でオケの合奏力が如実に出てしまうが、世界に冠たるベルリンフィルの底力を知ってしまったのはこの時だ。本気の天才指揮者に本気の名人オーケストラ!一期一会の火花散る真剣勝負とはこのことだった。
第4楽章。オケのメンバーから前楽章のテンションと熱が消えていないのがわかる。出だしから異様な緊張感がホールを支配。地獄の鉄槌でもこんなに激しくないだろうと思うほどの強烈、苛烈なff、怒涛のようなトゥッティの嵐!テンポは自在に伸縮し、金管、ティンパニの最強奏の凄まじさはオケからこんな音がするのも知らなかったしこの曲にこんな演奏があり得たのも知らなかった。雪崩が滑り落ちるような速いテンポに引きずり回され、打ちのめされ、あっという間にあの光明も救いもない峻厳なコーダの崖っぷちに立ってしまっていた。もう言葉などなし。あれ以上のブラームス4番を聴くことはもう僕の人生でないだろう。
クライバーは舞台のマイクを全部はずさせたのでこの演奏会の良い録音は存在しない。だからこの演奏の海賊版CD(誰かのかくし録り、下の写真)を秋葉原の石丸電気で見つけた時にはまさに狂喜した。今久しぶりに聴いてみたが、残念ながらあのオケの熱いうねりと高揚感は聴き取れない。しかしそれでもこのブラームスがいかに空前の名演であったかはわかってもらえるだろう。現在、世界が宝物にしているフルトヴェングラーの録音がどういうものなのか、僕はこの経験で肌でよく理解した。会心の出来だったのだろう、クライバー自身もこのCDを自宅でよく聴いていたらしい。
終演後、田部京子さんは「クライバーを聴けるなんて思ってもみませんでした。まるで夢みたいです。」とおっしゃり、後にお礼ですという手紙を添えてご自身のCDをフランクフルトの僕の自宅に送ってくださった。あれから18年、日本を代表するピアニストに成長された田部さんが最近ブラームス(右)を出されたので聴いてみた。後期のピアノ作品集だ。とてもいい。すこしうれしい気がした。
これが当日の録音。
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プッチーニ 「ラ・ボエーム」
2012 NOV 18 18:18:47 pm by 東 賢太郎
僕の世代の男性、このオペラが琴線にふれない人がいるのだろうか?
これが始まると1分のうちに僕は20代にもどっている! なんという素晴らしい音楽!!歌、歌、歌!!! 青春をうたいあげたオペラでこれをしのぐものはない。
プッチーニは自分のオペラのヒロインのなかでミミが好きだったらしい。だからだろう、愛情に満ちた渾身のアリアをミミに書いてあげている。蝶々さんにもトスカにもない。ミミの死の場面は感動のあまり泣きながら書き終えたと言われている。
クリスマスイヴ。ろうそくが風で消えてしまい、鍵を手さぐりで探したミミとロドルフォの手が触れる。我々の世代はまだロドルフォになれた。LED照明時代の今なら3 メートル先から「そこに落ちてますよ」で終わりだろう。今の若者がかわいそうな気がしてくる。
この曲、何回実演を聴いたか覚えてもいない。メット、フランクフルト、ヴィースバーデン、チューリヒ、香港、東京などで。そして聴くたびに、舞台を見ても音だけでも、どうしても第4幕で涙が止まらなくなる。はずかしいのでオペラハウスにはあまり行かないことにしている。プッチーニがこの音楽に封じ込めた力はすさまじい。
原作のアンリ・ミュルジュの小説は題名が『ボヘミアンの生活情景』。時は19世紀の半ば、パリのクリスマス・イヴである。第1幕。文無しの芸術家の卵たち、詩人ロドルフォ、画家マルチェッロ、音楽家ショナール、哲学者コッリーネがカルチェ・ラタンに近いアパートの屋根裏部屋で暮らしている。原稿を薪がわりに暖をとるほど貧しい。しかし彼らは人生を謳歌している。若さと未来がたっぷりとある。家賃を取りたてにきた大家を追い出してしまうと、カフェ・モミュスでイヴを祝おうぜと出ていく。
あとで行くよと一人残ったロドルフォ。そこに階下に住むというお針子のミミがノックして入ってくる。ここで二人が出会うことになるのだが、それが鍵の場面になる。そこで歌われるロドルフォのアリア「冷たい手」、ミミのアリア「私の名はミミ」など有名だが、このオペラはアリアだけでもっているわけではない。最初の1音から終わりの1音にいたるまで途切れることのない素晴らしい音楽の連続で、アリア集など作ってもナンセンスなオペラなのである。
暗い舞台設定の第1幕が閉じて第2幕のカーテンが上がったときに目にする華やいだカフェ・モミュスのクリスマスを祝う群衆のざわめき!(左は2011年メットのポスター、下の方の写真が第2幕の舞台である)。誰もがオペラの贅沢さに息をのむ瞬間であり、そこに目くるめくばかりの奔流のような音楽が息つく間もなく流れていく。子供の歌がアクセントになり、マルチェッロの彼女である(あった)ムゼッタの歌う「私が街をあるけば」の魅力的なこと!天才の仕事であるとしか言いようがない。
第3幕は翌年2月。舞台は夜明けのパリ郊外、ダンフェール門の徴税所に雪が降る寒々とした場面。悲劇の影がさしてくる。「ミミを愛しているが、彼女は結核を患っており、貧乏の自分といても助からない。別れなくては」とロドルフォが言う事態になってくる。「以前買ってもらったあの帽子だけは、良かったら私の思い出にとって置いて欲しい」と言い残してミミは去る。咳こむミミ。アリア「さようなら、恨みっこなしにね」 。このあたりの音楽はもうすでにとても悲しい。
しばらく時がたって第4幕の舞台は再びアパートの部屋に戻り、第1幕と同じ音楽で幕を開ける。ロドルフォとマルチェッロは昔の愛を語りあい、孤独を嘆く。そこへコッリーネとショナールがささやかな食事を運んで来る。4人は踊り始め、決闘のまねごとをしたりして戯れている。そこへムゼッタが瀕死のミミを連れて駆け込んでくる。ミミは愛するロドルフォの元で最期を迎えたいと望んでいる。仲間たちはアクセサリーを売ったり外套を質に入れたりして薬を手に入れようと奔走するが甲斐なく、ミミは息をひきとる。
こう書いてしまうと味気ないがプッチーニはワーグナーのライトモティーフという手法を用いて、死に瀕したミミがロドルフォに語りかける場面では出会いの幸せだった場面(第1幕)の旋律をひっそりと回想などする。これがかわいそうで、この辺からはもう泣かずに抵抗などできるものではない。演奏している人たちはそういうわけにもいかないからそれもかわいそうだといつも思う。ミミが亡くなったことはホルンの長い和音が知らせる。永遠の青春譜である。
トゥリオ・セラフィン/ 聖チェチーリア音楽院管弦楽団・合唱団
1959年8月、ローマでの録音。DECCA原盤。
ミミ(レナータ・テバルディ)、ロドルフォ(カルロ・ベルゴンツィ)、ムゼッタ(ジャンナ・ダンジェロ)、マルチェッロ(エットーレ・バスティアニーニ)、コルリーネ(チェザーレ・シエピ)、ショナール(レナート・チェザーリ)
僕はこれでボエームを覚えた。キャストも指揮もオケも最高であり、録音も素晴らしい。ベルゴンツィのロドルフォ、バスティアニーニのマルチェッロが実に立派であり、テバルディのミミも若々しくはないが音楽的に充実しきっている。ローマのオケもいい。そして何より名指揮者セラフィンが見事につわもの達をコントロールしている。これを凌駕するボエームが現れるとは当面考えられない。僕はチューリヒ歌劇場とNHKホールでネロ・サンティが振るのを計3回聴いたが、現役で対抗できるのは彼ぐらいだろう。このオケパートは簡単ではない。ベルリンフィルやウィーンフィルならいいという単純なものではない。第1幕である。
まず、プッチーニの和声法は三和音の伝統的和声法をぜんぜん外れていないので気がつきにくいが、実はドビッシーを感じさせる、いや凌駕さえしている非伝統的な感性に彩られている。ちょっとした場面転換や登場人物の気持ちのうつろいにつく素晴らしい転調や万華鏡のように自在な和声の揺らぎ!台本が若者たちの未熟さ、うぶな恋のかけひき、友情など、食べて恋して歌ってオンリーのイタオペらしからぬリアリズムと繊細さを秘めており、プッチーニの語法がぴったりと寄り添うことで空前絶後の効果をあげていることがボエームの成功の一因であることは間違いないだろう。
オケは3管編成でバス・クラリネット、バス・トロンボーンまであり、打楽器は木琴、カリヨン、鐘、チェレスタ、ハープまでありと、それだけ聞けば現代音楽かなと錯覚する。ズンチャッチャとお歌の伴奏をするオケとは程遠いシロモノである。作曲家の意図通りにこのオケを駆使しないとボエームは演奏できないのである。あたりまえのイタオペ指揮者ではだめだ。耳と力量が非常に問われる。余談だが、チューリヒでは指揮者のすぐ後ろの席だった。ロドルフォが不調で、第1幕が終わると同時につい「こりゃあひどいな」と(日本語で)思わず言ってしまったら振り向いたサンティに睨まれてしまった。そのためかどうか、第2幕開始前に「テノール(誰か忘れたが)は今日はのどの調子が悪い、あしからず」と(ドイツ語で)場内アナウンスがあった。だから仕方なくその日は目の前のオケばかり聴いていたのだが、忘れられない名演奏であった。
トーマス・シッパース / ローマ歌劇場管弦楽団・合唱団 ミミ(ミレッラ・フレー二)、ロドルフォ(ニコライ・ゲッダ)、ムゼッタ(マリエッラ・アダーニ)、マルチェッロ(マリオ・セレーニ)、コッリーネ(フェルッチョ・マッゾーリ)、ショナール(マリオ・バジオラJr.)
フレーニといえばミミ、ミミといえばフレーニである。後にカラヤン盤などに起用されるが64年録音の当盤ではまだ28歳!そして夭折したシッパースも、美声のロドルフォであるゲッダもまだ30代!この大スターたちの若さの記録であるこの録音は永遠の価値がある。ローマのこの歌劇場、92年に聴いたジョコンダは熱かったが、いいオケを使ったとも思う。ムゼッタが固いなどセラフィン盤の完成度は求めるべくもないが、ボエームらしいボエームはこちらなのかもしれない。
アントニノ・ヴォットー / ミラノ・スカラ座管弦楽団&合唱団
ミミ(マリア・カラス)、ロドルフォ(セッペ・ディ・ステファノ)、ムゼッタ(アンナ・モッフォ)、マルチェッロ(ローランド・パネライ)、コッリーネ(ニコラ・ザッカーリア)、ショナール(マヌエル・スパタフォーラ)
録音:1956年8月3,4日、9月12日ミラノ・スカラ座劇場
マリア・カラスの声質はミミに向いているとは思えない。しかし、うまい。ミミらしく繕うのではなく「私の名はミミ」などカラスの地声なのだが、演技力と独特の間でなるほどと思わされてしまう。ディ・ステファノのロドルフォは甘い声ではまり役であり、アンナ・モッフォのムゼッタもとてもいい。ヴォット―とスカラ座のオケは最高。こうでなくっちゃという歌心あふれる音を出している。ときどき聴きたくなる個性と魅力にあふれた演奏である。
アルトゥーロ・トスカニーニ / NBC交響楽団・合唱団、少年合唱団
ミミ(リチア・アルバネーゼ)、ロドルフォ(ジャン・ピアース)、ムゼッタ(アン・マックナイト)、マルチェッロ(フランチェスコ・ヴァレンティーノ)、コッリーネ(ニコラ・モスコーナ)、シュナール(ジョージ・チェハノフスキー) 録音:1946年2月(モノーラル)
1896年2月1日にトリノ王立劇場でボエームを初演したのが29歳だったこのトスカニーニ(1867-1957)である。当時38歳のプッチーニが全幅の信頼を寄せる指揮者だった。初演50年記念としてニューヨークで最初のオペラ録音にボエームを選んでくれたことを音楽の神様に感謝するのみである。歌手とオケの緊密なアンサンブルの中心に指揮者があり全部をコントロールしている。この曲はこうでなくてはいけない。アルバネーゼはかわいい系のミミでこれが作曲者の意図に近かったのだろう。カラスが嫉妬したといわれる美声である。ピアースのロドルフォも(ハイCは回避しているが)きっちりとした発声でカンタービレで燃えるところは熱く燃え上がる。とてもいい。
しかし、この演奏で何より僕が感動するのは、歌が盛り上がる部分やホルンのテーマなどでトスカニーニがオケを引っぱりながら感きわまって一緒にメロディーを歌ってしまっていることである。それがはっきりと録音されている。ボエームは彼の血であり肉であり、他人事で指揮棒を振るだけというわけになはいかなかったのだ! 彼の歌が聞こえる部分、実は僕も家でセラフィン盤を聴きながら同じメロディーを大声で歌っていた。この曲は僕にとっても他人事ではない。
この録音でロドルフォ役を歌ったジャン・ピアースが 「指揮するトスカニーニの頬を涙が伝っているのが見えました」 と証言している。このとき79歳だったトスカニーニも、きっと指揮台で20代の青年に戻っていたにちがいない。
ペーター・レーゼルのブラームスを聴く
2012 NOV 3 15:15:48 pm by 東 賢太郎
昨日、紀尾井ホールにて。前回、9月のピノックのモーツァルトが好きでなかったので、ぜんぜん期待せずに行った。あの弦でブラームス? 冗談だろう、という感じで。
(指揮) クリスティアン・エーヴァルト、(ピアノ) ペーター・レーゼル
ハイドン 交響曲第101番ニ長調 HobⅠ-101「時計」 ブラームス ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 Op.83
実にいいプログラム。まわりの聴衆もわかっている方々という雰囲気で安心する。
ハイドンの弦は8-6-6-4-2で前回と同じ。ところが今回は音が違う。弦に適当な潤いがある。第3楽章のオルガン的な厚みのあるTuttiなど前回のやせた音とは別物だった。木管の音程も弦のアーティキュレーションもすばらしい。ハイドンの交響曲は知的で創意工夫に富んでいるばかりかユーモアにあふれ、何よりゴシック建築のように形が美しい。こういういいハイドンを聴かせてもらうと一日の憂さが吹っ飛んで心が晴れる。エーヴァルトという人は知らないが、実力は高いということが分かった。
するとブラームスも期待が出てくる。結果は裏切られず。レーゼルが曲を完全に自分のものにしており盤石の安定感。素晴らしい調律がされていて暖かみのある音のピアノ。エーヴァルトとの息もあっている。弦は10-8-6-4-3とやや増強されただけだが低域の不足をほとんど感じなかった。今更ながらだが、なんていい曲だろう。明けても暮れてもブラームス漬けだったロンドン時代を思い出す。それ以後も毎年この季節になると決まってブラームスだったが、今年はなぜかまだそのモードに入っておらずこの名演も100% 没入できていない自分を逆に発見。もったいなかった。
アンコールはブラームスのインテルメッツォOp.117の第1番変ホ長調が美しく静かに弾かれ、こころより満足。
クラシック徒然草-ユージン・オーマンディーの右手-
2012 OCT 20 0:00:33 am by 東 賢太郎
「チャイコフスキーの交響曲第5番、バルトークの管弦楽のための協奏曲、ガーシュインのパリのアメリカ人とラプソディー・イン・ブルー、コダーイのハーリヤーノシュ、シベリウスの交響曲第2番、サンサーンスの交響曲第3番、メンデルスゾーン・チャイコフスキーのバイオリン協奏曲」
以上の名曲を僕はオーマンディー/フィラデルフィア管弦楽団のレコードによって初めて聴き、耳に刻み込みました。高校時代のことです。10年のちにそのフィラデルフィアに留学し、2年間この名門オケを定期会員として聴くということになり、不思議なご縁を感じざるをえません。そのオケに42年君臨したのが、ユージン・オーマンディーさんです。
はじめは名前も知らず、誰のユージンだ?ぐらいに思っていました。あとになって、友人だったかどうかはともかく、シベリウス、ラフマニノフ、ショスタコーヴィチ、バルトークなど大作曲家との交流があったことを知りました。また、「ファンタジア」や「オーケストラの少女」で有名な大指揮者ストコフスキーの後任であり、ホロヴィッツ、ルービンシュタイン、ゼルキン、アラウ、ロストロポーヴィチ、スターン、オイストラフなど音楽史を飾るソリストと競演した、20世紀を代表する大指揮者のひとりです (写真はSony Classical Originalsより、左・オーマンディー、右・ショスタコーヴィチ)。
僕がフィラデルフィア管弦楽団の定期会員だった1982-84年はリッカルド・ムーティーに常任指揮者のポストを譲ったあとで、すでにご高齢だったオーマンディーさんは定期に数度しか現れませんでした。もう一回指揮予定があったのですが、たしかベートーベンの田園とシベリウスの5番だったか、ドタキャンになりました。残念でなりませんでした。しかし、その理由は、その1回だけ実現した演奏会の終演後に知ることとなりました。
その演奏会、プログラムは前半がチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番、後半が交響曲第5番。あいだにインターミッション(休憩)が入ります。前半も後半もオケが鳴りきった立派な演奏で、このコンビがチャイコフスキーを長年オハコにしてきた様子がよくわかりました。ただ、休憩が終わっても後半がなかなか始まらず、30分以上遅れてしまったことがどこか気になっていました。
証券マンの図々しさで、僕はいろいろな演奏会で終演後の楽屋に侵入しています。この時ももちろんです。係員の女性に止められましたが、
「どうしてもマエストロに会いたいのです。日本で彼のレコードで5番を覚えたので。」
などと随分身勝手なことをいうと、そこはアメリカ人の懐の深さで 「そうですか、それはいい機会ですね。ではどうぞ (OK,come in ! ) 」 となりました。このとき、歩きながら彼女が開演が遅れた理由をこっそり教えてくれました。
「でも先生も困ったもんですわ。今日はコンチェルトが終わると、それで終わりと勘違いして家に帰っちゃうんですもの」
なるほどそうだったんですか。でも先生、後半の5番の指揮は完ぺきでしたね。すべてのフレージングやポルタメントが、そうこれこれ、とうなずくほど僕の耳にこびりついている、まさにあなたのものでした。チェロの前の最前列から見させていただいたかくしゃくとした指揮姿、忘れることはありません。
おそらくこれが最後からン回目ぐらいの指揮だったでしょう。先生が亡くなったのはその2年後の1985年でした。

楽屋で先生は奥さんとご一緒で、突然の闖入者も意に介さず上機嫌。オー、よく来たなという感じでした。「僕は日本が大好きなんだよ。みんな優しいし、ごはんもおいしいしね。」 とお茶目で元気いっぱい。僕と握手した時間の5倍は僕の家内の手をしっかり握っていました。そのかたわらから僕は「先生のレコードで・・・・」、 これはあまり聞こえておられなかったようです。サインをもらって満足してしまいました。ああ、もっと話を聞いておけばよかった・・・・。
先生の右手はコロッとしていて肉厚で、西洋人としては小さめでした。今でも感触をはっきりと覚えています。
この写真を見ると、すごい、俺はシベリウスやラフマニノフと握手したんだ!
いや、AKB握手会になってしまいました。
(こちらをどうぞ)
クラシック徒然草-チェリビダッケと古澤巌-
2012 OCT 4 15:15:09 pm by 東 賢太郎
アメリカの2大音楽学校にジュリアードとカーチスがあります。
僕がウォートンでフィラデルフィアにいたころ、今は大御所であられるバイオリニストの古澤巌さんがそのカーチス音楽院に文部省国費留学生として学ばれていました。僕は27歳、彼は20歳ぐらい。こっちは音楽がメシより好き、彼は日本メシが食べたい(たぶん?)で拙宅に名誉家族待遇でご自由に出入りされてました。よくバイオリンも弾いてもらいました。リクエストしてモーツァルトの3番とかイザイのソナタとか。
ある日の朝、彼から電話。「東さん、今日チェリビダッケが来ます。来れますか?」「何!」 行かないわけありません。講義は急きょ全部すっぽかし。彼の手引きで校長(元フィラデルフィア管弦楽団のオーボイスト)のデ・ランシ-先生にご挨拶。お許しを得てカーチス音楽院に出席となりました。チェリ先生の講義を一日聴講しました。これが本当に講義だけで楽器なし。音楽というより哲学。ピアノをポーンと1音鳴らしてWhat is the differnce between tone and music? なんて聞く。10代の学生たちはぽかーんとしています。やばい、俺があてられたらどうしようと身構えてしまうほど緊張感がただよいました。
翌日は楽器あり。オケは舞台にスタンバイ。僕は誰もいないホールの特等席で世界のチェリビダッケを独り占め。夢見心地とはこのことです。ところが、現れた先生とあろうことかばっちり目が合ってしまった。「なんやお前は、出ていかんかい!」一喝されそうな空気。心臓がばくばくになりました。しかしスコアを持っていたのが幸いしたのか関係者かなにかと勘違いされたのか、何事もなく先生は指揮台へ。よかった。
ドビッシーのイベリアでした。学生たちはピリピリ。こわもてオヤジ
の圧倒的な威圧感で笑顔もジョークも一切なし。ちょっと流してすぐ止まる。トロンボーン三重奏が気に食わなくて何度も何度も繰り返し。まだ駄目。3人立って吹け!まだ駄目。どうしてできないんだ(怒り)!3人楽器を置いて口で歌え!OK、できるじゃないか。それを楽器でやるんだ。こういう練習風景でした(その時の写真、ウイキペディア)。
実演はカーネギーホール。これは聴けませんでしたが、幻の大指揮者チェリ先生のこの公演は全米で有名になり、そのときの様子はウイキペディアにも載っています。古澤さん、ありがとう。
(以下、「チェリビダッケ」より引用)
「アメリカには、1984年に、フィラデルフィアのカーティス音楽学校の校長だったジョン・デ・ランシーの要請で、当校で指揮を教えた。そして、当校学生オーケストラを連れてカーネギーホールで開いたコンサートは、あまりにも素晴らしく、ニューヨークの音楽界に衝撃を与えた。ニューヨーク著名の音楽評論家ジョン・ロックウェルは「いままで25年間ニューヨークで聴いたコンサートで最高のものだった。しかも、それが学生オーケストラによる演奏会だったとは!」とのコラムを掲載した[2]。」
(こちらもどうぞ)




















