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オトコになった日

2012 OCT 18 0:00:39 am by 東 賢太郎

もちろん変な意味ではありません。

男性のみなさんは10代のころにおそらく、これで俺も男としてやっていける、と思った何事かがあったのではないでしょうか?

昔から男の子の脱皮のために親父をぬいたという何かが大事だと言われます。親父でなくてもいいし、それがどんな些細なことであってもいいそうです。僕が野球をこころから愛しているのは、それが野球でのことだったからです。

多摩川の近くに住んでいたので毎日のように川へ行って石を投げました。親父と思い切り遠くまで投げよう、あの大きな石を狙え、水切りで5回ジャンプだ、などと遊びました。だからボールを投げるなど朝飯前で、小学校のころから野球をやめるまでずっとピッチャーでした。

団地の草野球では敵なしで、中学は野球部がないので仲間チームを作って西川口の大人の草野球リーグでやりました。ここでもほとんど三振で打たれた記憶はあまりありません。だから中学ではちょっと有名で巨人の星が流行っていたころなのでオズマと呼ばれ、九段高校に入ると迷うことなく硬式野球部に入部しました。

初めての体育会、部活で上級生、下級生というカースト制度を知りました。3年生は神、2年生は人間、新人はモノなのです。モノのほうから話しかけるということは一切ありません。命令されるだけです。「はい!」と答えると「はいじゃねえんだよ、イッ!!と言え」と言われ、先輩の汚れ物を洗い、練習ボールの縫い目を縫い、試合では用具の運搬係りです。最初の1-2か月はボールを投げることもバットを振ることもない生活でした。

先輩たちの練習中はとにかく大声出し。「いこうぜいこうぜー」「おーらおーらーおーら」など各人各様の大声を数時間、間断なく出し続けるのです。それだけ。声はいつもガラガラです。昼休みは早飯して部室前に全員集合し、バットの素振り200本です。これが毎日です。遅刻するとケツバット。ヒップをバットでビシッとたたかれます。その日は痛くて教室では中腰で座り、3日はアザが消えませんでした。

3年生でキャプテンで不動の4番サード。桧前(ひのくま)さんという先輩はうっすら青髭のお顔からお言葉からすべてが怖く、特にケツバットの手加減がないことで新人に恐れられていました。しかし対外試合になれば強打のスーパーヒーロー。打たなかった試合はあまり記憶にありません。こちらも不動のエース篠さんとおふたりで敵をなぎ倒し、当時の九段は1リーグ時代の東京都、たしか170-180校あった中で第6シード校とけっこう強かったのです。

3年生最後の試合が、僕のブログ「ピッチャーの謎」にある神宮第2球場での日大一高戦でした。さすがの桧前さんも、そのまま甲子園に出て1試合17奪三振を演じることになる保坂英二(注)の剛速球に浅いセンターフライでした。

(注)3年の夏の東京都大会では、日大鶴ヶ丘に6回コールド勝ちした際、18アウト中17アウトを三振で取った。1回の先頭打者から9者連続三振、ショートゴロを挟み、8者連続三振。この年、ドラフト2位で東映フライヤーズ入団。

 

これが覚えている数少ない桧前さんがヒットを打たなかった試合です。その壮絶な対決をベンチから見て観客のようにシビれていた1年生の僕にとって、その大先輩と2週間後に対決することになろうとは夢にも思っていませんでした。

その翌週、恒例の夏の合宿なる地獄の1週間が尽性園野球場で始まりました。朝6時起床、2、3キロのランニング、朝食。1年生がグラウンド整備をしてそこから炎天下、昼飯以外は日が暮れるまで練習練習また練習。日が暮れてもベースに石灰を塗って走塁練習。水を飲ませないので猛暑でたおれて救急車かという者も出ます。僕は仕方ないので「頭冷やします!」と一声叫んでバケツの泥水を帽子ですくってかぶり、したたる水滴を先輩の目を盗んでなめました。

最終日にOB戦という試合が組まれています。2週間前までレギュラーだった3年生と大学で野球部にいる卒業生からなるOBチームに、1,2年生の新チームが挑戦する試合です。その先発メンバーがほぼ新チームのレギュラー候補ということです。前の日、僕はこの試合で畏れ多くも先発ピッチャーに指名されました。

その日の朝、完全にビビっていた僕は試合前から足がぶるぶる震えていました。落ち着け落ち着けと声に出していい聞かせるなさけない自分。ついにその時間が来てしまい、一塁側のブルペンでさあ投球練習だというときです。あの桧前さんがバットを持ってつかつかと近寄ってきて、人生初めて声をかけてくれたのです。

 

「東、ホームラン打ってやるからな」

 

なんという痛烈な一撃。それだけ言って彼は3塁側ベンチへ消えました。しかし、この一言で僕は変わりました。なぜかふっきれました。よーし、それなら見てろよー。

この試合、完投して7対2で勝ったこと、いきなり先頭にセーフティバントされて出塁されたこと、首にデッドボールを当ててしまった麻生先輩(本当にすみませんでした)が倒れて動かれなくなって騒然としたことぐらいしか戦況は覚えてません。

覚えているのは桧前先輩、あなたとの対決だけです。1打席目、真ん中高めストレート、高ーいピッチャーフライ。2打席目、真ん中高めストレート、高ーいピッチャーフライ。そして3打席目。真ん中高めストレート、高ーいピッチャーフライ。全部三振ねらいの渾身の一球でした。全部ホームランと紙一重の当たりでした。ホンモノのすごさにゾッとしました。一生忘れない真剣勝負、本当にありがとうございます。こころから感謝してます。

試合後、あこがれの篠先輩から呼ばれました。「東、いいものやるよ。」  篠さんのつけていた背番号1のゼッケンでした。人生で最もうれしかったことの一つです。でもその翌年、夏の大会前にまずヒジ、次に肩をこわして登板さえできず、桧前さん、篠さんから頂戴したご期待にお応えすることもなく僕の野球人生は実質1年で終わりました。背番号1から14への降格、転落、屈辱。勝負の世界は厳しいことも野球に教わりました。

3年生になった春、僕に代わってエースになった先発の長嶋君の調子が悪く、初回に3点取られ、ノーアウト満塁の走者を残して急きょ僕に交代。試合はそのまま3-0で負けましたが、そこから9回を完封したのが僕の最終登板になりました。最後のバッターを打ち取ったとき、とても満足で幸せな気分になり、これできっぱり野球をやめようと思いました。これもあの尽性園野球場でした。

試合後、水道でじゃぶじゃぶ頭を洗っているとき、隣で 「2番目のピッチャーよかったね」 と、それが僕と気がつかずにぼそっと声をかけてくれた都立墨田工業高校の選手の方。ありがとうございます。

ピッチャーの謎

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