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クラシック徒然草-秋のブラームスと春のラヴェル-

2013 APR 22 23:23:08 pm by 東 賢太郎

クラシック音楽が心の薬かどうかは知らない。ヒーリング(癒し)として聴く人も多いらしく、そう銘打ったCDも売られているから何かの効果があるのかもしれない。僕も疲れた時に海や川の「水の音」に癒されるということはある。しかし音楽(器楽)は人為的、即物的な楽器の音である。

季節によってある作曲家が聴きたくなることは、僕の場合は、ある。秋のブラームスと春のラヴェルである。これは歳時記といってもいいほど規則的、周期的にやってきていたが、今年は何故かラヴェルがやってこない。ぜんぜん聴く気がしない。心がまだ春になっていないのだろうか。

モーツァルトとブラームスが同時に聴きたいということは、ない。これは不思議で、両方聴きたくないという経験もない。2択である。今はブラームス期にあるようでモーツァルトは全然聴く気がしない。飽きたということではなく、いずれ戻ってくるということは経験的に知っている。

飽きた曲はたくさんある。そういう曲は、例外なく、細かいところまでよく知っている。知りすぎると飽きるかというと、そうでない曲もある。いわゆる「名曲」は飽きないかというと、そうでもない。むしろ名曲が多い。ひっそりと日陰に咲いている花のような曲がいつまでも大事だったりする。

元気が出る曲というのは、ある。まず群を抜いて、ベートーベンである。だから車で通っていた海外では、朝に聴きながら出社した。かなり仕事のパフォーマンスに影響したのではないか。ヒーリングには向かないかというと、悲愴ソナタの第2楽章などとても癒される。これの影響と思われるショパンの別れの曲よりずっと胸に迫る天上の調べと思う。

悲しい曲というのは、僕においては、ない。悲しげな曲があるだけである。モーツァルトのレクイエム、バッハのマタイ受難曲も、曲の偉大さに圧倒されることはあっても悲しいわけではない。ブルックナー7番の第2楽章も。悲しいというのは、僕の場合、喪失感である。何かを失った心象風景を喚起するから悲しい。その時流れていれば、どんなに明るい曲も悲しいと記憶されるだろうが、それは曲の性質に由来するものではない。

脳細胞が活性化する曲というのは、ある。「頭が良くなるモーツァルト」ではない。バルトークである。彼の音楽が美しいと思えることは宇宙の真理が美しいと思うことと同じ、と思う。宇宙を見て美しいと思う人は少数派かもしれない。それでも、彼の曲のレコードが増えるのと、高校時代には赤点で大嫌いだった数学が好きになったのとは、数値として緊密な相関関係があったことを証明できる。

癒される曲、これはやはり、よくわからない。僕が最も好きなヴァイオリニストはヨゼフ・シゲティとダヴィッド・オイストラフである。とても心地がいい。しかしそういう判断を、例えばメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を聴かずにしても、それは意味がない。音楽に癒されるということが仮にあるとすれば、それは演奏家と楽曲が完全に合体した時しかないと思う。知らない曲を「アダージョ・カラヤン」で聴いて癒しを感じたとすれば、それは音楽ではなく、リクライニング・シートのおかげだ。

秋のブラームスと春のラヴェル

これは僕が癒しを求めているからやって来てくれるのかもしれない。

 

 

 

 

 

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