Sonar Members Club No.1

日: 2013年9月17日

カープ7連勝!

2013 SEP 17 23:23:54 pm by 東 賢太郎

いや驚きました。石原のサヨナラホームラン。どうしたんだろう。ええかげんにせいというぐらい打たなかったのに。大竹というのはいい投手で理想的な体型でボールのすごみも一級品なのにキレやすかった。タマのキレではない、気持ちのキレ。それが完投。どうしたんだ。楽天が強いのはわかるがカープのこれはなにがなんだかよくわからない。ともあれDeNAと中日が巨人とやるときは巨人ファンになるという不思議なことになっている。

その巨人戦3連勝はめでたいが、どうも原はお客さんの広島に出てきてもらいたいんじゃないか。なめきっておる。3つ目は阿部、ヨシノブ、ボウカーらはお休みで先発投手は1軍初登板の高卒2年目今村、捕手は最後まで井野。山口を打ったらあとがマシソンでなく二軍上がりの高木京。シャドー・キャビネットならぬシャドー・ジャイアンツであった。(中日は嫌なんだろう。今日は内海、阿部でちゃんとホームランだ)。ひとつうれしいことは二松学舎のエースで打者転向した高卒新人鈴木のヒットだ。構えがいい。性格が図太い。ものおじしない。なんとなく伸びそうな感じがする。

あまりほめるとあした負けるのでこのぐらいにしよう。

ベートーベン第9初演の謎を解く

2013 SEP 17 0:00:18 am by 東 賢太郎

序 

マーラーの交響曲第8番、いわゆる千人の交響曲という曲は、実際には千人はいなくてもその半分程度はオケと独唱、合唱を必要とするので滅多にライブを聴く機会がない。僕は2度だけ聴いたが1度は合唱団員の招待であり、もう一度はN響のAプロにたまたま入っていただけだ。自分から選んで行ったことがないのはマーラーに興味がないからだが、しかしその僕でもこの8番の両ライブは感動したものだ。やはり大勢の生の人間の声は聴く者に強いインパクトを与えると思う。クラシックを一度も聴いたことのない人でもマーラーが誰か全く知らない人でも、コンサートホールでこれを「体験」すれば何か心に熱いものを覚えないということはないのではないだろうか。

ベートーベンの交響曲第9番、いわゆる第九という曲も20世紀初頭まではマーラーの8番のような存在だった。現在でも欧米ではキャストの大掛かりなこの曲はそう多くは聴くことはできない。ちなみに僕は16年海外にいてあまり好きではない7番をコンサート会場で計7回聴いているが、比較的好きである第九は5回しか聴けていない。フィラデルフィア管の定期公演では2年間で1度もやらなかったし、メジャーオケが5つあるロンドンでも年に2~3回やればやった方というところだった。マーラー8番よりはましだが、そうそう実演を聞ける曲ではなかったというイメージが強い。

ダイク大国ニッポン

ところが武川寛海氏の著書によると日本では昭和51年に12月だけで71回も演奏されたとある。収容人数2千人として1か月に約14万人もの人が第九を聞きに押しかけているというのは街を歩くドイツ人には想像もできないだろう。東京ドーム満員御礼の3回分だからその年優勝した読売巨人軍の日本シリーズなみの動員数を誇っているわけだが、ベートーベンが巨人より人気があると聞いたことは寡聞にしてまだない。たぶんこの現象は暑中見舞い、年賀状、お中元、お歳暮のような和式の季節行事である。そのうちアクティブ参加型としては夏物の盆踊りに対して冬物が欠けていた。その穴埋めがクリスマスと忘年会では厳粛さとお清め好きの国民性からしてもの足りない。そこにダイクが恰好の居場所を見つけたと僕は解釈している。

日本ではこの曲はよく「交響曲第9番・合唱付き」などと呼ばれる。すごい呼称だ。合唱ぬきの9番もあるんだろうか。これを見ると「グリコのおまけ」を思い出して困る。しかしおまけ目当てでキャラメルを買った記憶もある。とすると第4楽章だけ聞く人も多いと見越した深遠な命名かもしれない。確かにこの第4楽章が立派に演奏された時のインパクトは強烈だ。パウル・ベッカーによるとベートーベンが作ったのは音楽ではなく「聴衆」だ。フランス革命に発し、自由、平等、博愛を求める群衆だ。これを聴くと自分もその群衆の一員になった気がするではないか。これがベートーベンを聴くという体験なのだ。フランス革命には縁もゆかりもない極東でもそういう感じをいだいてしまう。だから彼の音楽は名曲であり200年たっても世界中で聴き継がれているのだ。

終わり良ければ・・・・

その第4楽章は一種のカンタータでありソナタの終楽章とは程遠い。ソリスト4人の出番はそう多くはないが器楽的に書かれた音符を正確に歌うのは大変難しいと思われ、満足な演奏は非常に少ないのが実情だ。しかしこの曲は非常によくできていて、最後のプレスティッシモの興奮がそれまでのすべての苦難も失敗もかき消してくれる。おお友よ、このような旋律でなく・・・と何度も何度も過去を否定されてきている。だから最後の歓喜の爆発こそ俺の求めたものだ!と感じるように出来ている。ソナタ形式をも凌ぐ独創的な発明だ。そして肝心のその最後を締めくくる数ページの音符は最高に素晴らしいものだ。そこには音痴の四重唱など忘れて心が浄化された自分がいる。終わり良ければすべて良しの曲なのである。

それを見抜いて「狂乱の場」としか表現できないエンディングを作った名人がフルトヴェングラーであった。彼の演奏が神格化されたのは彼が神だったからではない。音楽の方がそう出来ているからである。フルトヴェングラー盤は数種あるが、どれも終結で脱兎のごとく大疾走する。もうあまりに速くて楽器が何をやっているのかわからない。これをいきなりやると唐突、滑稽だが、彼の演奏はそこに至るまでの長い道のりにおいて強弱、凹凸、漸強漸弱、漸緩漸速、はっきりしない句読点など、ありとあらゆる指揮芸術の秘儀を尽くしてそれを納得させる準備がなされている。

この曲が人を感動させるメカニズムを完璧にとらえているのは私見では理屈などではなく、ご不快な方がおられるのを覚悟であえて書くが、男性側から見たセックスに近い。彼はそういう性質の曲のツボをおさえた表現においては余人をもって替え難い天才であった。しかし近年無視できなくなったベートーベン自身の改定を基にしたベーレンライター版では、彼が疾走を仕掛けるプレストの直前の「ゴッタフンケン」が随分と速くなってしまった。だからジャンプの前のかがみが浅くなってしまい疾走の効果が出ない。だからだろうか逆に遅めのエンディングが多くなった(ノリントン、ガ―ディナー、ラトルなど)。

初演伝説

この曲には有名な伝説がある。1824年5月7日にウィーンのケルントナートール劇場で行われた初演は成功であったとされる。第2楽章が喝采を博して2回もアンコールされ、3回目は兵隊に止められたという。その大拍手が聞こえず聴衆に背を向けたままスコアに見入っていたベートーベンの肩をアルト歌手のウンガーがおさえて聴衆の方に向きを変えさせたというのだ。それが第2楽章終わりだったという説もありそれをしたのはソプラノのゾンタークだったという別の証言もある。そのぐらい伝説はあやふやな記憶に基づいているが、とにかくそれらしいことはおそらくあったのであり、熱狂した聴衆はハンカチを振って作曲家を讃えたというのも本当なのだろう。

だとすると、ベートーベンは舞台でオーケストラに向かっていた。何をしていたんだろう?各楽章の正確な拍子を示すと本人が言い張ったからとされる。しかし指揮者にはウムラウフという人がちゃんといたのだ。まさか楽章の入りの拍子ぐらいは指揮者も覚えただろう。では途中の拍子変更ができなかったのか?それでは指揮者の意味がない。Wikiによると合奏の脱落、崩壊を防ぐためピアノも参加してリードしていたという。ピアノに向かっていたのだろうか?しかしかれは耳が聞こえないのだ!どうも釈然としない。もう一つ不可解なことがある。そんな大喝采と感動的な逸話にもかかわらず、16日後の再演では会場は半分も埋まらなかったことだ。ぜんぜん人気が出なかったのである。

私的仮説

私見だがこれをうまく説明する仮説はこれだ。初演の演奏がめちゃくちゃだったのではないかということである。どこかで楽器や合唱が落っこちたり合奏が錯綜して止まったりしたかもしれない。演奏が年中行事と化した現代ですらこの曲の演奏は難しいので有名なのだ。それでも「終わり良ければ効果」によって聴衆は一応は喝采した。しかし、・・・・どんな曲を聴いたのかは誰もわからなかった。家にかえってみれば、ベートーベンは元気でよかったね、合唱の何子ちゃん頑張ったね、でも曲はつまらなかったなあ、というところだったのではないか。そういう噂が回ってしまい、リピーターはおろか2回目初めての人もあまり来なかったのではないか。

そう考える根拠がある。初演したオーケストラはアマチュアを加えた寄せ集めで、全員がそろったのは前日だった。指揮者は4日ほどスコアに目を通しただけ、総練習は2回しかやっていない。男性ソロは直前に変更となり、バリトンが楽譜を受け取ったのは3日前だ。しかもプログラムには同じく新曲で同じぐらい難しいミサ・ソレムニスの3曲もあったのだ。実際に、1809年の「合唱幻想曲」の初演では合奏が崩壊し、最初から演奏し直すという事故もおきている。それにもかかわらずこの難曲の演奏が上出来であったなら、歴史上のすべての音楽家は失業しなくてはならないだろう。

駄作の烙印

そういう不安な状況であったこと、そして聴覚疾患をのりこえてこれだけの曲が書けて総監督もできることをウィーンの上流階級に示そうという意図でベートーベンは舞台上にいたのではないか。彼はロンドンのフィルハーモニック協会の依頼でこの曲を書き始めた可能性がある(注)。献呈者も候補が数名あった。精魂傾けた力作であり、稼げるはずの機会であり、相応の利益と名誉を得なければならないという意識はいつになく強かったのではないか。現に、この逸話の信憑性は100%ではないが、初演がはねたあとに計算した収益があまりに少ないことを知ったベートーベンは卒倒し、翌朝も同じ服を着たままだったそうだ。

(注)フィルハーモニック協会の創立者のひとりに、ヨゼフ・ハイドンをロンドンに招聘して12の交響曲を書かせたたヨハン・ペーター・ザロモン(1745-1815)がいた。ボン生まれのザロモンが生まれた家は奇しくもベートーベンの生家でもあり、両者は旧知の仲であった。ザロモンは協会を通じ生計が困窮していたベートーベンに100ポンドを贈った。第九はその見返りに書かれたわけではないが作曲の何らかの契機になったことは確実である。

 

当時の批評家たちは終楽章に声楽曲を持ってきたことを問題にした。今の我々はそれが問題だとは思っていない。しかし、弟子のチェルニーによるとベートーベン自身も終楽章で失敗したことを認めており、あれを棄てて新しく器楽のものを作ろうと考えていると語ったという。本当に「9番・合唱なし」になったかもしれなかったのだ。結局、それは実行されなかったが、この曲はウィーンで彼の存命中にはもう2度と演奏されなかったのである。その後、ヨーロッパ各地で何回か演奏が試みられたものの、結果はことごとく失敗に終わった。そして「駄作」「演奏不能」という評価が定着してしまうのである。我々はこれが駄作でも演奏不能でもないことを知っている。正解は一つしかない。

真相を推理する

難曲すぎて当時の指揮者の譜読み力もオーケストラの演奏技術も足りていなかったのだという有力な説がある。それはそうかもしれない。しかしそれでは3番はどうだったのだろう。7番、8番が好評だったのはつい数年前だ。声楽が入っただけで演奏不能になってしまうのだろうか?そうではないだろう。僕はこう思う。①まず聴衆が1時間もかかるオペラではない曲に慣れていなかった。今でも第3楽章で舟をこぐ人はあとをたたない②8番までの路線に添っている唯一の楽章は第2楽章だ。これは大喝采だった。聴衆はこういう曲を予想し期待していた。③第4楽章の練習不足はカオス状態を引き起こした。誰も曲を知らないからカオスとは思われなかったが、そのかわりに駄作と思われた。

③について補足すると、ソリストと合唱がいつ入って来たのかという問題がある。今でも指揮者によって、曲頭から、第2楽章後、第3楽章後の3パターンがある(第1楽章後は僕は見たことがない)。初演の証言はなさそうだが、指揮者ワインガルトナーの「ベートーベンの交響曲の演奏に対する助言」(1906年)に「曲頭が望ましい。やむなければ第2楽章後。しかし第3楽章後はだめだ」という趣旨のことが書いてある。執筆当時は第3楽章後が慣例だったのだ。理由はわからないが、電燈(電球)というものが普及し始めたのが1880年頃だったことを忘れるわけにはいかない。初演時は暗闇の中、ロウソクの明かりで演奏したのである。

60-80人もの合唱隊に高価なロウソクを40分間も無駄に燃やさせる決断をしたなら、ベートーベンは収益不足で卒倒はしなかったろう。それとも彼らは暗闇の中に不気味に並んでいて第4楽章で一斉にロウソクに点灯したのだろうか。あまり現実的な空想ではないように思う。おそらく第3楽章終了後に手に手に楽譜とロウソクを持って入場したのだと僕は思う。これは今のホールでも起こる光景なのだが、この入場行進はけっこう時間がかかり、美人やイケメンを探す好奇の目線が飛び交い、せっかくの第3楽章の高貴な雰囲気など消し飛んでしまう。まして初演時にそれは誰も予期していない。客席はざわめき、どよめき、おしゃべりが始まっただろう。作曲家お気に入りの若いソプラノとアルトは人目を惹いたろうし客席のご贔屓筋に目くばせもしただろう。そして、それまでの音楽ドラマは皆が忘れ、仕切り直しで始まった第4楽章はカオスだった。そしてそれは曲のせいになり、駄作だという評価ができてしまったのではないか。

至宝を見つけた功労者たち

駄作はいつ人類の至宝になったのか。そのきっかけ作りという偉業は1831年になされる。やったのはベートーベンに傾倒し9番のパリ初演を指揮したフランソワ・アントアヌ・アブネックである。彼はそれにいたるまで3年間にわたって徹底的にスコアを研究し、彼の進言で創立されたパリ音楽院管弦楽団との練習を入念に重ねた。「我々の耳に第九らしく響く9番」が史上初めて演奏されたということだったのではないだろうか。運命というのは不思議なもので、ロシアでの前職をクビになり、ロンドンへの海路で難破で死にかかり、それでもパリで一旗揚げようと流れ着いた26歳のワーグナーがアブネックの9番のコンサートを聴いていた。ワーグナーは17歳の時に9番のスコアを筆写し、それを二手のピアノ用に編曲したフリークだったのである。演奏に感激したワーグナーはこう書いている。

「ここで私は演奏についてまとわりついていた迷いが目からうろこが落ちたように晴れ、ただちにここで、宿題となっていたものをとうとう解く秘密を発見することができたことを知ったのである」

アブネックの演奏が素晴らしかったことは、やはりそれを聴いたベルリオーズが感銘を受けたことを記し、後日ロンドンで自分も指揮していることからもわかる。しかしベルリオーズはこうも書いている。

第四楽章は大半の人の理解力におえなかったようである

そして

この驚くべき楽章の分析をあえて試みるほど細目の秘密に通じえる自信はまだない

としめくくっている。4年前に斬新きわまりないあの幻想交響曲を作曲していた人の言葉である。実に重たい。

後にザクセンの宮廷指揮者になったワーグナーは1846年、33才の時にそこで9番を指揮した。シラーの歌詞を重視して自身の楽劇なみに文学性を盛り込んだワーグナーの解釈は、しかし大変にロマン的なものだったと思われる。なぜそう思うことが許されるかというと、そのザクセンの9番演奏会を聴いて指揮者になろうと決心した16歳の少年こそハンス・フォン・ビューローであり、彼はワーグナーの熱烈な崇拝者となるからだ。彼が書き込みをした9番のスコアはワーグナーの解釈をもとにしたものであったという。そしてそのビューローの解釈に真っ向から反旗を翻して敵視されてしまったワインガルトナーの演奏を我々は幸いにもCDで聴くことができるからである。

それは市販されているので興味ある方はご一聴をお薦めする。今の耳にも古臭いものではなく、恣意的なテンポルバートや強弱を排したいわば現代的なものだ。それが「反旗」だったのだから、ビューローの、そしてワーグナーの9番がどんな傾向のものだったか想像がつくのだ。ビューローの名声は指揮者としてだけではない。シューマン夫人クララの父ヴィークにピアノを習い、ベートーベンの愛弟子チェルニー(あの教則本の)の弟子フランツ・リストにも習った。こちらも演奏不能とされたチャイコフスキーのピアノ協奏曲1番を独奏者として初演もしている。音楽界の大御所である。そういう人の奥さん(リストの娘コジマ)を寝取っておいてなお崇拝させたワーグナーも凄いが、そういう大御所の9番解釈にアンチテーゼを思い切りぶつけたワインガルトナーの蛮勇も快哉である。

1863年に生まれたパウル・フェリックス・フォン・ミュンツベルク・ワインガルトナーには2人の指揮のライバルがいた。3歳年上のマーラーと1歳年下のリヒャルト・シュトラウスである。3人は作曲家としても競っていたが、結局ワインガルトナーだけがレースから脱落した。しかしただ負けたわけではない。貴重な録音と多くの著書を残した。今回の企画で彼の9番を聞き直し、実に多くの発見があった。それは武川寛海氏の名著「第九のすべて」(日本放送出版協会、昭和52年)にあるワインガルトナー盤の詳細な解説とスコアを見比べてのことであり、今回の拙文も多くを同書に依っていることを明記しておきたい。

そして最終的に、最新の9番楽譜資料文献の研究状況も調べてみた結果、こういう結論に至った。この曲の初演後約半世紀にわたるスコア研究と理解の不具合は、①定本になるべきスコアが完成するまでにベートーベン自身が各地で演奏するパート譜に多くの改定をバラバラに加えたこと(つまり初演時点では曲は未完成だった)、②それが統合されることのないまま作曲家も写譜屋のマイスターも世を去ってしまった、という2点に起因していた。そして結局そういう状況の中で生まれた出版スコア(現行のもの、これをブライトコプフ版という)が多くの不幸と不注意によって多くのミステークを含んでしまうに至ったということである。つまりこういうことが言えるのである。

ベートーベンの9番ほど作曲家の意図と違う楽譜が堂々と印刷され、しかもその印刷ともまた違う音楽が世界で演奏され、記憶されてきたものはない。

まるで9番のように文が長くなってしまった。次回にベーレンライター版という新しい楽譜のことを少しだけ書き、僕が好きなCDをご紹介したい。

 

(続きはこちらへ)

ベートーベン交響曲第9番の名演

 

 

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