Sonar Members Club No.1

since September 2012

大学受験失敗記

2014 JAN 10 22:22:01 pm by 東 賢太郎

本稿は最終学歴をひけらかそうというものではない。自分史の半生記において、あまり思い出したくはないが受験失敗のことを触れないわけにはいかない。大学受験は結果的には願いどおりになったが2度も失敗しており、さらに中高受験もたくさん失敗しており、僕は受験にいい思い出がない。小さいときから物事を時間をかけて深く考えるタイプであり、制限時間内に70点ぐらいを効率よくゲットする競争はきわめて不得手だった。要は受験競争に適したほうでは決してなく、クイズ番組の物知り博士みたいなものになるには最も遠いタイプの人間である。

幼時の関心事は電車と星と人体であり、鉄道線路観察と全天恒星図と人体解剖図が半端でなく好きだった。蟻の観察も好きで同じ巣を一日中見ていて母が心配した。好きなことを始めると食事をよく忘れた。文学的関心は皆無であり推理小説が友だった。文章や人のことばは字義通りにしか解しないから詩歌は意味が分からず、吟じたり味わったりなど到底むりである。「国破れて山河在り~」などと、それがどうしたんだという詩を朗々と先生が読み上げると、僕にとっては馬鹿馬鹿しさとのギャップがおかしくて笑いをこらえるのに必死だった。現代国語や古文漢文のテストは当然見るのもいやであった。

そういうものを人並みに味わうフィルターがないとすれば、それは色弱であるという状態と照らすと似たものがある。僕の色弱は親は知っていて僕もある程度はわかっていた。それが思ったより進路に影響あるとわかったのは高3の始めだ。親父の家系はみな理系だったが、きれいなもの好きで芸術家肌の母の血を多く引いた僕はその時点ではどっちでもなかった。というより野球三昧であって、忘れもしないが高3で初めて受けた駿台公開模試での数学の偏差値は堂々の42であった。要はどっちでもよかったのだ。

自分的には天文、医学に興味があった。今になってみると医者なんかけっこう向いていたと思うが、「東君、その進路は色弱のことがありますからね。文系でどうですか」と担任の物理の故O先生は淡々と宣告された。僕が教師ならこう言っただろう、眼以前にアタマが無理でしょと。ストレートにそうおっしゃらない優しい先生だった。しかし、これがカチンと来てしまった。よ~しセンセイ、今に見ておれよと持ち前の反骨心にメラメラと火がついてしまった。人生とは何が左右するかわからないものだ。

銀行員の親父はお前は理屈っぽい、裁判官か弁護士になれときた。理屈っぽいことは納得だからそういうものかと信じこんでしまった。こうしてまず法学部志望が確定した。親父には申し訳ないがこれは大いに失敗だった。せめて経済学部か、意外と文学部で哲学なんかやったら学者になれたかと思う。次に志望校だ。僕は一番嫌いな政治家はレンホーだという人種だ。別に彼女個人にどうのこうのはない。どうして一番じゃなくっちゃいけないんですか?というあれが実に不快だ。一番がいいに決まってるだろ、何を言ってるんだ君は?ときっと泣くまでねじ伏せてしまったのが当時の僕だ。そこにセンセイへのメラメラがある。もう志望校は一校しか眼中になかった。

こういうことで僕はそこからやおら勉強を始め、最高峰私学2校の法学部に受かった。しかし初心は変わらずそれを辞退して、O先生の「おめでとう!」はハナから無視して(すみませんでした)、予定通り2次で落ちた東京大学文科Ⅰ類に再戦を挑むべく駿台予備校の門をくぐった。知らない方も多いが、東大というのは全員が最初の2年間は駒場の教養学部生になる。そこでは文Ⅰ、文Ⅱ、文Ⅲと所属が区別されており、3年目になるとそれぞれ本郷の法学部、経済学部、文学部に進む。文Ⅰ以外から法学部へ行けるのは毎年1名ぐらいであり、だから僕は最も偏差値が高い文Ⅰに入る必要があった。世間では東大受験といっているが、東大という大学を受けるのではない。「類」を受けるのだ。その類が不合格の場合、合格ラインの低い類に回して合格させてくれるということは一切ない。だから単に東大に入りたいだけの人は文Ⅱか文Ⅲを受けるべきである。文Ⅰを受けるのはリスクが高いのだ。

あまりに発射台が低かったわけだから成績は大変伸び、再戦だし落ちるわけないなという過信もあった。だから今度は文Ⅰひとつしか受けなかった。これは、メダルを辞退した以上は次は金しかない、銀狙いなし、1年たって銅で妥協はさらになしという理屈だった。そうしたらまた落ちた。これは参った。掲示板に番号がなかった時は大変なショックで、目の前が本当に暗くなった。すべり止めがないのだから即2浪が決まったわけで、眼前に横たわった1年が永遠に向こうにたどり着けないサハラ砂漠みたいに感じられた。私学を受けなかったのは作戦ミスだったかどうかというと難しい。そこでもしまた受かっていれば、それでももう1年東大にチャレンジしたかといわれれば、しなかった可能性がある。それでどういう人生になったかは知らないが、キャリアや人生行路という意味ではなく、今のような性格、人格の自分にはなっていなかったことだけは間違いない。

不合格だった日からの記憶は不快なので脳が勝手に消去したと思われ、まったくない。次の記憶は駿台を受けたら25番ぐらいだったことからフィルムが再開する。それはその年の日本国の浪人生で上から25番目だったことをほぼ意味する。座席はその入試順位の順番だ。まわりは全員が判で押したように東大文Ⅰ志望であり、630人の定員だから655番目だったんだろうという風な計算を全員がしていた。くそっ、ここから400人も東大に入るのにと思ったが僕よりもっと悔しい人が24人もいたことを知って気が和らいだ。両隣りだった人たちも当然に翌年は合格して奇遇にも駒場で同じクラスになった。初対面のときの挨拶は「キミはどうして落ちたの?」だ。僕は「数学が・・・」だ。「えっ2問?オーケーじゃんか?」「そうだね普通ならそれで」だったのを覚えている。英語はまあ良かったが僕の国語と社会の能力はきっと普通じゃないレベルだったのだ。

文系だから英国社は配点が120点ずつで数学は80点だった。国語と社会で55%を占める。東大の2次試験ぐらいになると受験生のレベルは一部の別格的な秀才を除いてほぼ均質である。特に僕のようなボーダーラインの人間の合否は僅差で決まる。社会科は2科目必要で、ひとつは日本史にした。これは割と好きでもあり私学合格の武器になった。しかし高3からの付け焼き刃だから2科目目は省エネしようと政経を選んでしまった。政経は教科書は薄いが全問が論述で実はタフであり、配点は60点もあるのだから作戦ミスだったと思う。しかし今さら政経を世界史に替えて時間を食うよりは、その時間を得意の数学に回した方が総合点は上がると判断した。4問完答だ、満点をとろう、それで落ちたらあきらめようとハラをくくった。こういう人は文系にはほとんどいないはずだ。

それは結果的に正しい判断だったことが判明する。2年やって僕は英国社で成績優秀者リストに名前が載ることはついに一度もなかったからだ。いっぽう、数学の満点ねらいは僕にピッタリのスリリングなゲーム感覚があった。野球でもまず完全試合からねらうのが争えない僕の性格だ。遊び感覚でやっていると結果もよくて、夏前の公開模試の数学でついに念願の満点をとった。駿台予備校に関わった経験のある方はご納得いただけると思うが、あそこの数学はやたら難しくて平均点は2~30点であった。東大受験者はほとんどが受けていて数学オリンピック級の子もいたろうが、文系で100点は年間通しても極めて少ない。僕が人生で唯一全国区で一番になった経験はこれであり、今でもほかの何よりもこれを誇りに思っている。

数学は僕のゼロ戦になった。低空飛行の英国社が足を引っ張っても総合得点で全国7位になるなど、蜜の味も知ってしまった。これで落ちるわけないと確信し、飽きっぽい僕は夏休みは一切すっぽかして推理小説の執筆に没頭してしまった。当時熱中していたエラリー・クイーンをどうしてもまねしたくなって1か月で書いたそれは「オランダ靴の謎」と「Yの悲劇」とヴァン・ダインの「グリーン家殺人事件」を足して3で割ったようなものだ。これを先日読み返したら1行だけ消しゴムで消してあった。おそらく一気に書いてから論理破綻に気がつき、埋める間がなくそのままになったのだろう。その破綻がなにか今の僕の頭ではいくら考えてもわからない。

そうやって夏に油を売っていたら秋になって急速に順位が落ちた。進学校の現役連中である。我がゼロ戦をしのぐ高性能のグラマン部隊であった。しかし、本番の東大2次試験では態勢をもちなおし、作戦通りに数学でほぼ満点をとった。たぶん3点ぐらい減点されたはずだ。上級者は自分でそこまでわかるのである。その年の数学は難しかったから運もあった。先日駒場のクラスで1、2の秀才であったO弁護士に「2問目にミスがあったの気がついたか?」ときいたらNOだった。彼に頭で勝てたのはそれだけだ。僕は 「これは出題ミスである」 と余計なことまでバーンと答案用紙に書いてしまい、でもまさか?とあとで不安になった。駿台へ行って壁に張り出された模範解答を見たら 「ミスだ」 とあった。これで合格を確信した。

発表日に掲示板の受験番号を見てほっとした。楽勝と思っていたからうれしさはあまりなかった。電話したら両親がやって来た。母が泣いているのを見て、わがままで浪人してしまったことを悔いた。母は自分の父親と同じく僕に慶応ボーイになってほしかったのだ。現役で合格させていただいた大学は普通なら赤飯を炊くところだ。どうして入らなかったのかとよくいわれるし、いわれると説明に窮してついそうだねと思ってしまう。それが自然体だったし、行った連中が楽しそうだったし、女の子もいっぱいいたし、1年のつもりが2年の回り道になったし、それで弁護士や教授になったのならともかく4年間すっかり遊んでしまったのだし、入社したらそっちの大学の方が主流派だったし。何とも間抜けな人生だ。だから何を書いても負け惜しみになるが、それでもあの決断は良かったと思えることもある。

なにより駿台予備校というのが素晴らしい学校だった。英語の伊藤先生の「ここでガチャンという音が聞こえる」は実にすごい。ガチャンが本当に聞こえるようになり一気に英文法が得意になった。極めつけは数学の根岸先生だ。板書が美しい。悪筆だった僕のノートも美しくなった。それと正比例して面白いように成績が上がって偏差値は軽く70台になった。42だった僕がだ。先生は東大理学部物理学科卒の数学者であり「数学の美」を教える天才だった。人に教わることの鈍才である僕が心から敬服して習いたいと思ったのは先生だけだ。数学の思考訓練をここまで徹底的にやったことで僕は完全に別な人になった。2年間やっても英国社は文Ⅰ受験者としては人並みのまま終わったわけだから、僕の資質は理系だったということが判明した。

O君は弁護士という仕事は充分やったので違うことをやりたいという。その仕事に誇りはあるが、人が決めてもめ事を解決するのは次善策であって科学ではないそうだ。そういう彼も理系的な人であり、彼曰く文Ⅰの人はみんな理系だがそれでも司法試験や上級公務員試験に受かる。ところが僕の場合、1年の法学概論の授業からして退屈でまいってしまい、訴訟法や行政法みたいな手続き論は完全にアウトだった。要は神様が決めたもの以外ぜんぜん興味が湧かない。訴訟のルールよりも、子供の時にじっとみていた蟻んこの道のでき方のルールの方がずっと上等に思えた。あそこまで法学部にこだわったのは間違いだったのだろうか、今もよくわからない。

有難いことに、いま自分はサイエンティストとしての生来の姿で自然に生きていける自由を得た。サラリーマンという虚飾の職業をやめられたからで、まったく心の底からくだらないと思うことに真面目にうなづいたり取り組むふりをしたりする必要が皆無になった。ショーペンハウエルの言う孤独を楽しめるというのは何という素晴らしいことだろう。ある原理や法則に則って歴史、古文、哲学、音楽、ラテン語、ミステリー小説、株式市場なんかを紐解く作業は実に楽しい。いま僕はそういう他愛ないことに喜びを見出している。神様が決めた原理、法則性が支配する限りにおいては何事であれ敬意と関心をもっていられる。その神様が誰であれ、造物主という意思の存在を僕は確信することができるし、彼がいない宇宙や科学や数学の存在を逆に信じることが難しい。

もう来年2月に還暦になる。ここに記したような自分の若気の至りをゆるし、いとおしく思える年齢になった。それがなければ今はこうなっていない。この妻も子もいない。世界であんな経験もできていない。証券という面白い仕事について体が震えるような成功体験を感じることもない。だから良かったのだと思う。ここから僕が世の中に生きている意味は、こうして選んでしまった道を人助けという道に連鎖させていくことだ。自分に意志と健康がなければできない。還暦はその節目にしたく、だからそこまでの1年ちょっと、その準備をしようと決めている。今年がそういう年になったら幸運である。

 

バルトーク 弦楽四重奏曲第4番 Sz.91

 

 

 

 

Categories:______ミステリー, ______体験録, 自分について, 若者に教えたいこと

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

ライフLife Documentary_banner
加地卓
金巻芳俊