スッポンとフォークボール
2014 MAY 4 21:21:52 pm by 東 賢太郎
自分はホールインワンとノーヒッターにいつも憧れてました。
ホールインワンはまだありません。海外にいたころはゴルフに熱中し、香港ではほぼ毎土日やってましたから年間100ラウンド近くでした。そのころハンディも8までいったので、決して下手ではなかったと思います。しかしながら、一緒に回ったずっと下手な人がやったのに僕は一度もできてません。ピンに当たったとか10cm手前で止まったとか、惜しいのは何度もあるのに。
千葉でやった時のことです。170ヤードぐらいのショートホールで、グリーンわきにある池から黒い物が出てきてグリーンに登ってのそのそ動きだしました。
「キャディーさん、あれなに?」
「ああ、スッポンのポンちゃんね。よく出るんです。だいじょうぶですよ。」
それはピンの1mぐらい左で止まると、じっと動かなくなってしまいました。
「そうですね、グリーンは右傾斜だから、あのスッポンめがけて打ってください。」
とキャディーさんの明快なご指示。
「 OK! 」
と打った僕の球はいつになく快心のショット。グリーンに乗ってコロコロところがり、ポンちゃんに命中してピタッと止まったのです。全員爆笑。
「キャディーさん、次は穴めがけて打てと言って下さいね」
動揺があった僕はその1mをはずし、八つ当たりでまだグリーンわきにいたポンちゃんを追っかけました。池に飛び込んだポチャーンがやけにいい音でした。
ノーヒッターは一度あります、というか、誰も気がついてくれなかったのであったつもりになってます。82年ニューヨーク日本人会の野球大会2回戦で三菱商事に5回までノーヒット7奪三振でした。絶好調でこれはいけるかもと思ったところが、こういう時に限って?味方打線が爆発して5回で10対0となり、いやな予感。するとアメリカ人の主審がでっかい声で「コールドゲーム!」のご宣託。ちょっと待ってよ、もう少しやろうよ・・・ガックリでした。
惜しかったのは野村證券の野球大会です。僕は梅田支店の新人、相手は優勝候補の和歌山支店でした。名門広島商業で阪神の山本 和行の1年上のエースだったYさんが押しも押されぬエースでしたが、試合前にキャッチボールをして「東、今日はお前先発」と僕に球をくれてご自身は捕手に回りました。ところが軟球に慣れてなくてカーブがぜんぜん曲がりません。
「先輩だめです」
というと、
「これでいけ」
と握りを教えてくれたのはフォークボールでした。人生、フォークは初投げでしたが、やはり甲子園レベルの人は凄くてリードどおり投げたら1対0の1安打完封勝ちでした。これが人生で一番惜しいゲームでしたが試合中はYさんがおっかなくてそんなこと知る由もなし。
「あのポテンヒット、惜しかったわな」
「えっあれだけだったですか?」
「そうなんよ」
「直球、何キロぐらいでしたか」
「まっ、115kmぐらいやな」
という有難いプロのお言葉からして現役時代は120kmちょっとぐらいだったと推察されます(測ったことなし)。肩とヒジを両方壊して115は満足しないと。この試合、落ちがあって、この翌週末の2回戦、新人は研修で東京でしたが支店長から研修部に「試合があるから東を大阪に帰せ」と電話が入って騒ぎになりました。さすがに帰してもらえませんでしたが以後、新人でいじめられていた支店の風向きが変わり、少しだけでかい顔ができるようになったという効果がありました。やっぱり芸は身を助けます。瞬間芸だったフォークはその後投げることはなく、人生でこの試合だけでした。
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