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負けの記憶ばかりの高校野球

2014 AUG 7 19:19:50 pm by 東 賢太郎

暑い。一昨日の東京の最高気温は36.1度、昨日は35.7度と猛暑日が続く。今日も35度は行っているだろう。紀尾井町の赤プリ旧館から会社へ向かい千代田放送会館をすぎたところに緑地があって木々がこんもり繁っている。そこを歩いていたらどういう風の吹きまわしか、毎日皇居の周りを走りまわっていた高校時代のくそ暑い野球のユニフォームを着た感覚がよみがえってきた。この緑地は都心に似合わないぐらいミンミンと蝉の声がしていて、なるほど、九段高校の隣は靖国神社の森でいつも蝉しぐれの中で練習していたことを思い出した。

野球のユニフォームというのは思えば軍服みたいに重装備だ。上半身は綿のアンダーシャツと二枚重ね、下半身は厚手のスライディング・パンツ、ひざ下はアンダーソックス、ソックスと三枚重ねと、夏にはきわだって不向きである。そこに革靴みたいな黒くて重いスパイクを履いて、濃紺色ですぐ熱くなる帽子を頭にのせ、分厚い皮の手袋みたいなグローブをはめて炎天下にくりだす。こういう毎日だったから今も熱中症なんかなるはずがないという妙な自信だけある。

そういう服が汗を吸うから硬式野球部の部室の汗臭さというのは半端じゃない。犬なら気絶ものだ。何が置いてあろうがなかろうがもう部屋ごと廊下までくさい。お隣りの新聞部が気の毒だった。練習を終えると全員が汗まみれ泥まみれで、そのまま柔道場で相撲を取ったりなどしたがお互いの汗が汚いなどという感覚はみじんもなくなっている。そういうのが戦友というものなのか、戦場の兵士というのはきっとこんなものだったのだろうかと思う。

やはりうだるように暑かった中、そんな部室でユニフォームに着替えをして、最後に厚ぼったいソックスをはくあのわくわくする感じが、それが前後ろがわかりにくくていつももどかしくて、早くスパイクをはいて紐を結んで、早く早く、というあのはやる気持ちの感じが、40年前とは思えぬくらいにリアルに足に残っている。野球、野球、とにかく一秒でも早くグラウンドに出て、要は、野球がやりたかった。

夏の合宿は矢野口にある九段の尽性園で1週間。硬式野球部の専用球場はここにある。朝6時に起床して多摩川を3,4km走ったら朝食、砂漠の灼熱地獄みたいな日中は水飲み禁止。バケツの泥水に帽子を浸して頭を冷やすふりをして飲んだ。一年生はポジション決めのセレクションでもあって必死だ。外野をひたすらダッシュの連続で唾液というのは枯れるんだということを初めて知った。一人倒れて救急車が来たがそれもサイレンの音しか記憶がない。

そして日没で暗くなってボールが見えなくなる。やっと終わりかと思ったら、石灰をベースに塗って白くしてベーラン(ベースランニング)が始まる。この時点でもうあまり意識がない。大声でバットを振って駆け抜けが何本か、ツーベースとスライディングが何本か、最後が一周してホームにヘッドスライディングだ。土煙を吸いこむがもうそのままそこにずっと倒れていたいと思った。それでやっと一日が終わる。入部時の3年生のチームは夏の甲子園予選、1リーグ時代で東京都大会の第6シード校だからそこそこ強かった。

九段高校の校庭は狭くレフトに80mも打つと柵ごえで靖国神社の境内に入る。ライト側は校舎で2階あたりまでネットがあるが3階の生物室あたりはない。放課後はサッカー部と交代で使うため、毎週水曜日はアサレン(朝練)であった。始発電車で来てたしか7時から始業時間まで全体練習をする。全教室から間近に見えるので女の子の目線が気になっており、打撃は意外によくて6番バッターであった僕はフリーバッティングで生物室の窓ガラスを2度割った。

捕手は2年生のHさんで、気のない球を投げると心臓めがけて剛速球を投げ返してくる熱血漢だった。相手は忘れたが9回裏2-2の同点で走者2塁の場面で左打者の4番に6球(!)つづけてカーブのサインが出た。全部ファールとなり7球目。 サインはまたチョキ(カーブ)。もうやばいだろと思ったが先輩にはさからえずそれがレフトオーバーでサヨナラ負け。Hさん試合後に4番さんに「読んでた?」ときいてたのが聞こえた。別に、と答えててチクショーと思った。こういうつまらないことをなぜかよく覚えている。

初練習試合の海城高校戦、試合前の投球練習で人差し指のマメがつぶれた。皮がべろっとむけて球に血がつく。Hさんに見せたら、にべもなく投げろだ。痛いのでそこが触らないように投げたら先頭打者は直球がオジギして空振り三振だったことだけ覚えている。いま思えばあれはチェンジアップとかいう球だったかもしれない。学べばよかった。へなちょこと散々野次られてホームランを打たれて大敗した。野手の方々はマメのことは知らず株が一気に下がった。

都立大泉戦は監督が三振と四球しかないじゃないかと文句を言って喜ぶ快投を演じた。どこにどう投げても打たれないぐらい振り遅れていた8、9番をなめて手を抜いたらファーボールで一塁のTさんに怒鳴られ、結局最終回にレフトのバンザイで1-0で負けた。帰りの電車で自分だけは本来のボールが投げられて秘かに満足だった。10月の秋季大会の国学院久我山戦も悪くなく3回までゼロだったが2回り目から打たれ、結局7回9-0コールドで負けた。

勝った試合も同じぐらいはあるがこっちはあまり鮮明な記憶がなく、どういうわけか負けたゲームは細かい場面までがよみがえってくる。この翌年夏の前にまずヒジを故障して球が投げられなくなった。それが治って投げていたら今度は肩に来た。尽性園で試合中にマウンド上でおかしくなってとんでもないところに球が行き降板という忘れてしまいたい記憶がある。ベンチで茫然としながらああやっちゃったなと思った。この肩は致命傷だった。大会で投げることはできずに終わってしまった。秋季大会はブロック代表決定戦まで行ったが日大一に12-2で負けた。この試合は故障上がりで代打で出てファーストゴロ併殺打だった。

こうしてふりかえるとこんなにたくさん負けてたかと感心するしエースから補欠に陥落もしているし、まぎれもなく辛酸をなめた思い出ばかりだ。だからこの翌年、スピードは別人のように落ちたが投げられるようにはなって、1回ノーアウト満塁で急遽リリーフで登板してそこから完封した墨田工業との練習試合が最高のメモリーになった。こういうことで高校生活を終わってしまって悔しいし負け惜しみにしかならないが、それでも野球をやってよかったと思う。

卒業まじかのころ、東洋大でも野球をやった4番で主将のNと休み時間に軟球でトスバッティングしてよく遊んだ。始めは受験勉強の気晴らしにじゃれてただけなのにお互い闘争本能に火がついてきてだんだん本気になり、最後はいつも全力投球対マン振りの勝負になってしまった。まともに当たってたらまた生物室の窓を割ったろうが打たれるはずがないと思ってやってしまう。これが野球バカである。

大学では野球部のお誘いがあって1、2か月ぐらい練習に参加はした。当時は法政に江川がいて、東大は慶応、立教に勝って4位だった。結局淡い期待をもった肩がもう使い物にならないとわかってがっくりしたのと違う人生がばら色に見えたのとで、女の子のいるクラブなんかの方に釣られてしまった。だから次の野球はもうだいぶ先の野村證券の野球大会とニューヨークでの企業対抗野球大会までおあずけになった。両方で元球児の名を汚さない程度には投げてトロフィーを1個づつもらい、野球人生が終わった。

野球に教わったのは、強い者は強いということに尽きる。強ければ勝つしそれには努力しかない。裏技や裏口入学は絶対にない。そういうフェアな世界が自分の性に合っていることを知った。ピッチャーをしなければ選手生命は高2で断たれなかったが、それ以外が能力的にも性格的にもできたとは思わない。やっぱり自分に合っていたのは投手であり、やったからこうなったのかこうだからやったのかは知らないが、もう一回生まれたらピッチャーをしたい。

そこからは今度はゴルフになるが、これは僕にとっては野球と比べるべくもないただの遊びだ。それでもベットという野球にない要素があって面白く自分なりに一生懸命やった。15年ぐらい前がピークだったようだ。ゴルフは考えようによっては一生できるフレンドリーなゲームだが、考えようによっては老いや衰えがはっきり見えてしまう酷なゲームでもある。絶対にもうできない野球はそれがないからいい。夏が来れば思い出す、僕は最後までこれでOK。今年の甲子園はどうなるんだろう。

 

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Categories:______わが球歴, 野球

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